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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(川上泰徳著・岩波書店刊)】
「シャティーラの記憶」(川上泰徳著・岩波書店刊)を読みました。頭の芯から言葉にならない想い――こんなにもつらく繰り返される人々の苦難と闘い、そしてそれは私自身の自らの記憶と体験と交叉する分―-なつかしさと化学反応を起こしたように言葉にならない想いが溢れ出たのです。
 シャティーラ――そこは、ベイルート市内からも近い0.1?の狭いパレスチナ難民キャンプ。私が1971年、ベイルートに着いた3月、初めて訪れた難民キャンプがシャティーラです。イスラエルがベイルートを占領した1982年、パレスチナ難民たちをキリスト教徒右派民兵を使って、シャロン国防相が虐殺させたのも、このシャティーラです。
 この本の著者は、20年にわたって特派員などを体験してきた中東問題専門家であり、フリーランスとなった2015年から2018年の3年間、ナクバの70年目にこの本をまとめる考えで、のべ6?月ベイルートに滞在してシャティーラ難民キャンプに通いました。そして1948年前後からパレスチナを追われたナクバ(シオニストのパレスチナ人民族浄化によって1948年のイスラエル建国が成された、パレスチナ民族にとっての大厄災のことをナクバという)時代の難民の第一世代から現在の若者たち第三世代、第四世代の約150人のシャティーラの住民にインタビューを重ね、それぞれの時代の経験と記憶を探り、パレスチナ難民の70年の実情を記録しているのが、このルポルタージュです。
読みながら、人間としてこれ以上ない仕打ちを受け、闘い、生き、語る人々の姿に、何度も立ち止まらざるを得ませんでした。1948年当時、パレスチナを追放された70~80万人と言われた難民登録者数は今や650万人を越えていますが、ここで著者が浮かび上がらせた住民の実情は、同じように650万件の記憶と経験があるのだと思いつつ読みました。どこのキャンプでも、きっと同じことが溢れていると思います。かつては、あるいは今もファタハやPLO、PFLPに属して闘い、闘い、闘ってきた老齢の父や母、その息子、娘たち、住民のパレスチナ人一人一人の人の一端が立体的にこの本で描か言を聞き、記憶を集めるのは、パレスチナ問題の歴史の事実を検証するためではなく、「私はあくまでも難民たちの脳裏に焼き付けている体験の記憶という主観的な言説を集めることで、彼らの体験を70年という時の広がりとして知りたいと考えた。それは私がジャーナリストとして、パレスチナの実感に触れる方法であり、人間体験としてのパレスチナをシャティーラという舞台の上で再構築しようとする試みである」と記しているように、やり方も独特です。まず、シャティーラに行き、出会った人にインタビューを試み、人から人へと話をしてくれる人間を探してインタビューを続けたのです。「50人、60人の話を聞いても見えてこない。(中略)取材が3年目となり、100人を過ぎたころにシャティーラを舞台にしてそれぞれの事件や時代ごとにうごめく人間の集団が見えてくるような感覚があった」と「あとがき」で述べていますが、オープンマインドのアラブ人、パレスチナ人だから見ず知らずの著者と出会い、率直に語ってくれて、この本の記録が成立していることがわかります。
 目次の第1章は「ナクバの記憶」として1948年にどのようにシオニストによって殺され、家を追われたのか、当時のアラブ志願兵らの姿も浮かび上がります。もっとも重要なこのナクバの記憶が少ないページしか割かれていないのは、すでに著者がインタビューを始めた時には、多くの当事者が亡くなられているためでしょうか。当時10歳前後だった人々の証言を読みながら時代をしみじみ感じてしまいました。私が70年代初めのシャティーラで聴けば、ナクバの記憶が家族中から怒りと哀しみと共に途切れることなく溢れ語られ、パレスチナ史はそのこと一色でした。のちのシャティーラの歴史となる右派キリスト教徒民兵による虐殺や、シリア軍やレバノンシーア派のパレスチナ人弾圧もありえなかった時代です。
 このシャティーラキャンプはパレスチナ祖国奪回をめざす民族主義者のパレスチナ人によって、闘いと訓練の砦として、当初場所が確保されたそうです。この始まりから、70年代のパレスチナ革命の「黄金時代」(カラメの闘いからミュンヘン闘争を経てアラファトの国連演説など)からさらに82年のサブラ・シャティーラ虐殺事件。この虐殺の実態を住人は語っています。あの虐殺直前にイスラエル軍に包囲されたシャティーラ住民は、代表団を平和の使者として白旗を掲げてイスラエル側との交渉に向かったのですが、そのまま行方不明となったそうです。そして、9月16日から18日の3日間の殺戮の目を覆うような残忍さ。
 しかし、イスラエル包囲下の虐殺の中でも、シャティーラの住民たちの中から約100人が虐殺者に抗して、ゲリラ戦で闘い続けたので、狭い露地の地形を知らない虐殺者たちは恐れ、キャンプの奥に入れず、18日撤退していったとのこと。撤退するまで、抵抗戦を闘ったという当事者の証言があります。私たちもサブラ・シャテーラ虐殺に対する国際民衆法廷をPLOと共に、83年日本で開催する準備をしたのですが、ゲリラ戦の抵抗は、当時十分知られていませんでした。
 また、93年の「オスロ合意」の過ちが難民キャンプを無気力にさせてしまったことも実感できます。シャティーラなどレバノンの難民キャンプの居住者は1948年のナクバの時の難民たちであり、オスロ合意によって、「帰還の権利」が棚上げされたばかりか最終地位交渉でもイスラエル政府は帰還権を拒否し続けてきたし、そうなることは当初から危惧されていたからです。
 第7章「内戦終結と平和の中の苦難」がそれですが、レバノン内戦終結と「オスロ合意」を経て、レバノンのパレスチナ難民が平和から除外されていく姿や、また、PLOやファタハからガザへの帰還メンバーに選ばれたり、役職を示されながら、愛する家族の居るシャティーラに残った人々の話に人間の尊厳の心の持ちようを教えられます。
 第8章、第9章は、私の知らない時代で、後半部分の記録には、衝撃を受けつつ読みました。
 第8章の「シリア内戦と海を渡る若者たち」では、シリア人と違って、パレスチナ人は欧州で難民として認められず、多額の旅費を掛けつつ、シャティーラに舞い戻った人や、逆に自ら欧州から戻ってきた若者たちの姿も描かれています。
 また、シリア難民の何家族もがレバノンで保障のない生活を強いられ、家賃の安いシャティーラに間借りしていることも知りました。200ドルの家賃と日々の食費を稼ぐために毎日大通りに出て、ティシュを売って、健気に母親を養うシリア難民の少女の話。そうか、シャティーラに身を寄せて暮らすシリア人まで居るのか……。
 さらに第9章「若者たちの絶望と模索」では、深刻な「パレスチナ人の今」が、人々のインタビューから浮かびます。「オスロ合意」で、「帰還権」は棚上げされ、80年代のシーア派民兵によるキャンプ攻撃が続き、当時学ぶ機会を奪われた子供たちの今。政治的NGOなどに参加し、親たちの希望を継承する若者が育つ一方で、薬物依存や売買がキャンプに広がっている実情に驚かされます。それが家族間抗争や世代間断絶にもつながっているとのことです。
 「ナクバから70年を経て、かつて『パレスチナ革命』を担ったシャティーラには殺伐とした光景が広がっている。今シャティーラが直面しているのは、従来のパレスチナ問題を超えて、難民第三世代、第四世代となる子どもや若者たちと家族として、人間として、どのように関わるかという、より根源的な課題である」と記す著者の9章の結びに衝撃を受けました。レバノンのパレスチナ難民の置かれた差別による貧しさ、正規の就職を禁じられた生活を強いられ、数々の弾圧の中希望のない未来を見た時、若い人々が闘いも努力も虚しくなることも判ります。この若者たちの現実を、闘ってきた大人たちは、どんな苦悩でそれを見つめているでしょう。故郷を追われ真っ当な生活を奪われた結果の現実の一面だからです。でも著者は第1章からずっと、特に「終わりに」の中で、このシャティーラの人間的絆の深さ暖かさ、互いに助け合い問題を解決する委員会や調停など人々の暮らしの自治・自決の姿を記しています。この自治・自決はまた、女性たちこそがその家族と社会を支える存在であること、そしてその根本には、あくまでもパレスチナへ帰るという代を継いだパレスチナへの帰還を、かつてより強く願い続けている老若男女の意志として記しています。今やパレスチナのディアスポラは世界中に存在し、パレスチナ人が被った政治的暴力、生活を破壊される貧困を生む経済的暴力含めて、この暴力やそれを告発し克服しようとする意志は、「パレスチナ人の70年の経験がパレスチナを超えて、世界へ、そして普遍へとつながっていることを示している」と。パレスチナのナクバから70年、0.1? に住む人々の記憶と記録が普遍的な告発、世界の人間の尊厳の闘いとして問い返されています。
 ナクバに始まるパレスチナ人の70余年は、あまりに悲惨です。どのように人間性を奪われてきたのか、数々を淡々と語りながら、直、人間性豊かな人々。この本が人々の個々の歴史の縦糸と時代時代のシャティーラでの事件とその解決の共同性――ある時は武装し、ある時には真摯に仲介し―― 一つ一つが具体的に描かれていて、目に見えるようです。
 この現実をもたらした歴史的犯罪は今も裁かれず、パレスチナ人を「邪魔者」のように扱う世界で、なお帰還を求めるシャティーラの住民たちの世界を変えようとする諦めない意志に共感し、世界を、日本を変えねば……と、改めて思います。
リッダ闘争の日に読み終えました。
(5月30日記)

【本の紹介】
「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」

岩波書店 2,860円(税込み)
(以下、紀伊国屋書店Webサイトより転載)
内容説明
故郷を追われてから70年。レバノンのキャンプに暮らすパレスチナ難民の証言を通して、苦難の歴史をつむぎ出す。0.1km2のキャンプの歴史から浮かび上がるパレスチナ問題の本質。
目次
第1章 ナクバ“大厄災”の記憶
第2章 難民キャンプの始まり
第3章 パレスチナ革命
第4章 消えた二つの難民キャンプ
第5章 サブラ・シャティーラの虐殺
第6章 キャンプ戦争と民衆
第7章 内戦終結と平和の中の苦難
第8章 シリア内戦と海を渡る若者たち
第9章 若者たちの絶望と模索
終わりに―パレスチナ人の記憶をつむぐ

著者等紹介
川上泰徳[カワカミヤスノリ]
ジャーナリスト。1956年長崎県生まれ。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)アラビア語科卒。1981年朝日新聞社入社。学芸部を経て、特派員として中東アフリカ総局員(カイロ)、エルサレム、バグダッド、中東アフリカ総局長を務める。編集委員兼論説委員などを経て2015年退社。エジプト・アレクサンドリアに取材拠点を置き1年の半分を中東で過ごす。中東報道で、2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

【書評アーカイブス】
このブログでは、主に「オリーブの樹」に掲載された重信房子さんの「書評」(本の感想)を掲載しているが、今回は、以前、このブログに掲載した書評の中から、アクセス数の多かった記事を紹介する。

重信房子さんの獄中書評「夜の谷を行く」(桐野夏生著)
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2017-09-15.html
浅川マキの書評 ビリーホリデイ自伝「奇妙な果実」
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-10-31.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

●糟谷孝幸君追悼50周年集会

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日時:2020年1月13日(祝) 午後1時半~
会場:PLP会館大会議室
   (大阪市北区天神橋3-9-27)
会費:入場無料
内容:「1969年とは何であったのか?」
    海老坂 武 氏(フランス文学者)
   「11.13裁判・付審判闘争の報告」他 
  
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月20日(金)に更新予定です。