今回のブログは、去る4月25日に亡くなった、故山村貴輝氏の「私の高校時代の闘争」である。山村氏が通っていた高校は、東京・杉並区の國學院大學久我山高校である。
山村氏の訃報を知ったのは5月9日。山村氏のFB(フェイスブック)に以下のようなお知らせが載った。
「兄・山村貴輝が去る4月25日(土)に急逝いたしました。
死因は虚血性心疾患と診断され、前日までの本人の行動や様子などから、新型コロナウイルス感染症によるものではない、という医師の見立てでした。
あまりに突然のことでいまだに信じられません。
時節柄、親族だけで直葬にて送りました。
誠に勝手ながら諸々のお心遣いはご辞退させて頂きます。
長年に渡る皆さま方のご厚情に心よりお礼申し上げます。」
山村氏は当日の朝までFBに書き込みをしていたので、突然訪れた死だったのだろう。

山村氏との関わりについて少し書いてみる。
山村氏と初めて会ったのは、確か2008年の「日大930の会」だったと思う。前年に「明大全共闘」のホームページを開設した縁で、他大学ではあったが会に参加させていただいた。その日は挨拶はしなかったと思うが、その後、このブログを開設すると、山村氏は折にふれて記事へのコメントを寄せてくれた。
高校時代の卒業式闘争のこと、69年の11月決戦に参加した時のことなどである。

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写真の左から2人目、「反戦」のヘルメットを被っているのが山村氏。1969年11月佐藤訪米阻止闘争。本人も別人のようだと書いていたが、確かにそうである。(山村氏のFBより)

2011年の3・11以降は、明大と日大、芝浦工大、専修大の4大学の全共闘派で「四大学共闘」を結成し、反原発集会やデモに参加するようになるが、山村氏も一緒に参加していた。

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写真は2012年7月16日に東京・代々木公園で行われた「さようなら原発10万人集会」のものである。山村氏は右から3人目の半ズボンでサンダル履きの人。山村氏は日大文理学部出身で考古学関係の発掘調査などの仕事をしていたとのことであるが、その発掘現場でのスタイルみたいである。(筆者撮影)

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これは2013年6月2日に東京・芝公園で行われた「つながろうフクシマさようなら原発集会」後のデモの様子。右側の「再稼働反対」のノボリを持っているのが山村氏。山村氏に写真を撮ってくれと言われて撮ったもの。ノボリを太鼓腹の上に乗せてポーズを取っている。(筆者撮影)

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山村氏は経産省前の脱原発テントでも、一時期、座り込みを行っていた。その時の写真。(山村氏のFBより)

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その後、山村氏は私も事務局を務めていた「10・8山﨑博昭プロジェクト」の事務局に加わる。賛同人への資料の発送作業や、集会での受付など担当していただいた。写真は、2017年6月17日、大田区の福泉寺で行われた山﨑博昭君の記念碑の建碑式のもの。写真右で手を合わせているが山村氏。写真左は山﨑博昭君の兄建夫さん。(筆者撮影)

山村氏は体調不良(脊椎管狭窄症)で治療のため、今年に入ってから多摩地区の病院に入院していた。4月14日から自宅療養に移り、4月25日に自宅で急逝した。
今回の原稿は4月1日に山村氏からメールで届いたものである。「続・全共闘白書」のサイトでの「知られざる学園闘争」の原稿募集の案内を読んで送ってきたと思われる。
「前略
日大全共闘の山村と申します。小林哲夫さんに参考まで、と言うことで私の手記を送信します。取り扱いは一任します。
2020.4.1」
この日、山村氏からも同じ趣旨の内容で電話があった。山村氏には小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)に原稿を送るとともに、「続・全共闘白書」のサイトの「知られざる学園闘争」に掲載することを伝えた。山村氏が「原稿は一任する」と何度も私に言っていたのが気になったが、まさかこの数週間後に亡くなるとは思いもしなかった。
山村氏は「個性的なキャラクター」の方だったので、話が合う人は少なかったようだが、長年、私のブログを読んでいただき、コメントを数多く寄せていただいたこともあり、山村氏を追悼する意味で、この原稿を全文掲載することにした。
山村氏は私と同学年である。同学年の方が亡くなるというのは寂しいことではあるが、今はご冥福を祈るしかない。
合掌。

【私の高校時代の闘争】 山村貴輝                           
                                                
 私は父の仕事の関係で高校一年生は広島県呉市の高校でした(1966年)。それが、高校二年生の時これも父の仕事の関係で東京都杉並区に引っ越してきました。それに併せて高校を國學院大學付属久我山高校(以下「久我山高校」とする)に編入しました。元々私は東京都杉並区には中学生の頃ほぼ三年間通学し、クラスの10人ぐらいは隣にある都立西高に進学しいているというウルトラ進学校でした。当時の高校進学は学校群システムではなく、通常の進学希望校を選択しそこを受験する,と言うシステムでした。そう言うことで久我山高校は第二次志望校(滑り止め)と受験生に位置付けられており、実際に久我山高校に編入すると都立西校に落ちた中学時代の同級生も何人かおり、編入生によくある孤独感・疎外感はありませんでした。因みに67年度までは男子校でしたが68年度からは隣接する岩崎通信(株)の中卒女子労働者の夜間高校となり、現在は男女共学です。
1,編入後の私
 久我山高校に1967年に二年生で編入し、所属サークルは中学時代から興味があった考古学部である。当時の久我山高校考古学部は親大学の國學院大學考古学研究室との関係が密接であり、土日は必ず遺跡の発掘調査参加か博物館・有名遺跡巡りなどをしており、平日は大学の考古学専攻課程の教科書で考古学の学理を学ぶと言う「考古学漬け」である。
 さらに、68年5月に入ると戦前・戦後を通じて考古学の泰斗である山内清男先生(成城大学教授)から直接考古学を教わるという幸運に恵まれた。授業が終わりサークル活動も終わる16時頃成城大学の山内先生の研究室に出向きそこで考古学のレクチャーを受けて、さらにそこから先生のご自宅がある喜多見に先生とご一緒し,ご自宅でレクチャーを受けると言う日々を送るようになった。帰宅時間は22時頃である。もちろんこれは毎日ではなく、先生から課題を出されその課題を自習する日もあり成城大学に行くのは週2・3日である。先生から学んだものはオーソドックスな考古学研究方法論と、学問に必要な「批判的精神」であった。
2,67年10・8羽田闘争
 私は、中学時代からアサヒグラフでベトナム戦争の写真を見て本をクラスに持ち込んで議論をする一方(ベトナム戦争の問題を掘り下げることはなく)、「日の丸」を国旗として政府は法制化すべきだ,と言うどちらかと言うと体制派であった。そして、10・8羽田闘争をテレビで見ていて「どうしてあそこまで激しいことをするのか」と言う疑問を抱き、翌朝高校の級友と話をして「よほどの強い決意・考えがあるのだろう」と言うことで一致した。さらに後日山内先生にも聞くと「あのような闘争こそが正しいのです」と言われる。さて、11月12日には第二次羽田闘争が起きる。また級友と議論をする中でそれらの闘争が「ベトナム反戦闘争」だと認識できた。68年1月には佐世保エン・プラ闘争、2月には三里塚闘争、王子野戦闘争として連続して闘われる。マスコミは「暴徒・暴力学生」と喚き立てるがそう言うレッテルに迎合する気はなく、逆に王子闘争を「見学」することにした。実際に王子闘争を見ていると全学連の学生が機動隊の凄まじい弾圧にもめげず,断乎として実力闘争を貫徹するのを見て“感動”した。それと同時に私の弟の家庭教師が都立大Hさんという学生であり、10・8,11・12共に参加したらしく闘争の後日私の家に訪れる時頭や腕に包帯を巻いており、おとなしい感じの学者肌の学生も激しい闘争に参加しているのだと感心した。
 そして王子闘争の現場で中核派の機関紙「前進」を購入したが、読んでも内容は理解できなかった。そこで「前進」販売の担当者に「難しい」旨を伝えて、私が杉並区に住んでいることを告げると「杉並革新連盟」の事務所が西荻窪駅近くにあることを教えられた。そこから私の自転車で約15分の距離である。その後時々事務所に訪れるようになる。そして68年4月の初め頃久我山高校に反戦高協の支部があることを伝えられ、支部のメンバーと連絡が取れた。私の驚きは全学連と共に闘う高校生の組織があったことである。
3,その後
 私は4月からクラス委員になり生徒会活動にも参加した。その中で当局の「週番制度反対」運動を行った。そもそも週番は旧軍の軍隊管理であり、高校おいては「生徒が生徒を管理する」と言う反動的とも言える制度である。私は、週番責任者として生徒会会議で週番制度廃止の決議をとった。その旨を生徒会担当者教師に伝えると柔道場に呼び出され、柔道有段者である教師からいきなり寝技で首を「このアカ野郎」と罵られつつ首を締められた。そして教師の生徒会に対する恫喝で週番制度廃止の決議は覆られた。このような弾圧に怯むことなく民主化闘争は続く。具体的には当局の生徒管理のための御用組織である生徒会から、生徒の自立した生徒会への転換である。
 私の高校は「忠君愛国」を高校のモットーにする右翼高校である。そして、前に記した反動教師もいる。しかし、多くの教師はヒステリックな右翼ではなくおとなしい。生徒会は御用組織とはいえある程度自主的な雰囲気があり、先に述べた週番制度廃止闘争も生徒会にかけてから行えば生徒全体に波及したと反省した。生徒会活動は監理教師の解任を求める運動を提起したが、ここで立ちはだかったのが民青である。我々反戦高協は非合法組織とは言え複数のサークルをおさえ、クラス委員にもかなりの賛同者がいた。それに比べて民青は生徒会役員に複数いるが目立って存在性はなかった。しかし、民青は生徒会での監理教師解任運動は当局を刺激すると言う。民青の対案は「生徒会活動の実効支配」と言う具体性がなく、無方針とも言える対案である。
 そうこうしているうちに6・15ベトナム反戦・反安保集会があり反戦高協のヘルメットを初めて被り参加した。私の高校からは4名の参加で、反戦高協の隊列は100人以上いた。隣に北園高校の茶色のヘルメットが2・30名ぐらいいて「他の高校でも頑張っているな」という感じを得た。デモは日比谷公園から明治公園までであり機動隊とのトラブルもなく、高揚感と軽い疲労感を感じた。
 デモには初めて参加し高揚感を得たが、高校では民青との方針を巡り消耗な感じを得るが、考古学の学習には山内先生からの刺激のある指導を定期的に得ていた。それと、日大・東大闘争の情報も入り「時代的認識=革命の現実性」と言う中核派の方針が納得できる情況にいた。だが、今思えば当時全学連運動と全共闘運動の位相と内実の違いを理解できず、党派の機関紙のみを情報源としていた私の問題として反省したい。そして7月立川基地反戦闘争に参加し、8月前半には1泊2日で反戦高協の合宿が都内でなされそれに参加する。そこで中核派の理論的・組織的原点である63年三全総および66年三全大の綱領的文書を学習した。問題はマル学同中核派高対部担当者の理論的レベルが低く、例えば「沖縄奪還論は分かるが北方領土はどうするのか」という高校生の質問に対し「それは北方領土奪還だ」と安易に答える始末である。やがてその理論的レベルに低さに反発し、失望した反戦高協のメンバーの一部が反戦高連に行く遠因となる。
 そして9月3日にはソ連のチェコ侵略に反対するための緊急動員があり、全学連300名、反戦高協30名の部隊はソ連大使館に向かった。その部隊数が少ないことから機動隊のサンドイッチ規制を受け,その規制の中で機動隊によるテロ・リンチを徹底的に受け初めて国家権力の暴力を物理的に受けた。高校では民青との不毛な対立が続き民青から我々は「トロッキスト」というレッテルを貼られる。街頭闘争は10・8一周年にお茶の水駅から代々木駅に電車で移動し、そこから徒歩で新宿駅構内に入った記憶がある。だが、10・21新宿駅米タン阻止闘争の記憶が鮮明であり、10・8闘争の記憶は何故か薄い。10・21闘争は新宿駅東口に高校生は集まり、300名ぐらいの隊列ができたが全学連・反戦青年委員会の巨万の結集で、高校生はデモをする隙間もなく座り込むだけであった。その日の7時30分ごろ「騒乱罪適用が政府内で決まった。高校生はただちに帰宅せよ」との指示で私は帰宅した。
 その後11・7騒乱罪適用粉砕!首相官邸包囲・突入闘争に参加し不当逮捕される。私は3泊4日で釈放されるが、心中「学校には漏れているな、最悪退学だ」と思いつつ登校した。多くの学友が心配する中で担任から校長室に呼ばれる。多くの学友も授業を放り出して後に続く。校長室では校長以下当局の指導担当の面々が座っている。そこで、校長が警察からの私の不当逮捕時の写真を見せ「君も立派な全学連だ。こう言う運動には有名高校の生徒が参加するのだが、我が校も有名高校の仲間入りだ」と言って笑う。そして「君はこれだ」と言い、頭に軽く拳を当てる。処分は無だ。形として「厳重注意」だろうか。
 校長室から出ると心配そうな学友が集まっている。私が「処分はなかった」と告げるとやんやの喝采だった。後で聞いた話だと、「停学・退学」の処分だと校長室占拠の構えだった、それも当局に漏れていたとのことである。
 その後11月から69年1月まで東大闘争に参加する。学内では民青と怠い緊張感である。69年2・11には清水谷公園で「紀元節粉砕!」闘争に参加する。参加の前段集会でプロ軍、ML派などの20名の高校生が西高生徒会室を襲撃して反戦高連のへルメットを押収し、そのメットを旗棹にぶらさげて威風堂々と公園に来る。何故襲撃をしたのかと問うと「あいつらは気にくわない」という政治的には?の返事だった。
 3月卒業式闘争は「会場をバリケードで占拠せよ」と言うのが反戦高協指導部の方針だが、決意した5・6名が占拠をしても教師4・50名で寸時もなく解除される。それよりも拠点校支援闘争に行くべきだと異議を申し立て都立大附属高校の卒業式闘争に参加する。
 
以上宜しくお願いします。
(終)
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
zenkyoutou.com/yajiuma.html

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月12日(金)に更新予定です。