「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチェラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代と私」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部も文字量が多いので、10回程度に分けて公開する予定である。今回は、第二部第二章(8)と(9)である。

【1960年代と私  第2部 高揚する学生運動の中で】
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連 (2019.9.13掲載)
2.三里塚闘争への参加 (2020.1.24掲載)
3.68年 高揚の中の現思研 (2020.1.24掲載)
4.初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ1968年6月(2020.4.17掲載)
5.三派全学連の分裂―反帝全学連へ(2020.4.17掲載)
6.ブントの国際反戦集会(2020.9.18掲載)
7.全国全共闘の波(2020.9.18掲載)
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと(今回掲載)
9.現思研・社学同とML派の対立(今回掲載)
10.69年 東大闘争
11.新しい経験と4・28闘争

第2章 国際連帯する学生運動
8.現思研の仲間、遠山さんのこと
67年の春から、私を含む数人の社学同メンバーが作った現代思想研究会(現思研)は、「社学同や、社学同シンパの会」と、他の党派の人々から認知されていたし、私たちもそれを肯定して出発してきました。活動の中心は、自治会、研究部活動に参加したり、イニシアティブを持つ者もいましたが、学外では社学同の集会やデモに参加して来ました。67年には初の新入生を勧誘し、その新入生たちが、68年には活動の柱になっていました。
ここで、連合赤軍事件で犠牲となった現思研の仲間、遠山美枝子さん(1946年8月21日生)については、特にふれておきたいと思います。
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遠山美枝子さんは、既に述べたように、66年12月に私が学苑会中執に入っていったので、研連執行部の欠員を補うべく「法学研究会」(法研)から研連執行部に推薦されて立候補して来た時から意気投合していました。当初は、法学部は民青系が学部自治会を掌握していたので、民青のシンパかも知れないと警戒する人もいました。私が研連執行部として遠山さんと面接して立候補の意図を探る事になりました。
66年の12月のある日のことです。法研の幹事長と一緒に学生会館3階の研連事務局室にグレーのオーバーを着た小柄で真面目そうな髪の短い女性が入って来ました。それが、私と遠山さんとの初対面です。何故研連執行部に立候補したのか、幹事長が説明しました。「いつも研連執行部から誰かやる奴はいないか、と言われていたので、法研のメンバーに尋ねたら、やっても良いと本人が言うから頼んだ」と言う主旨と真面目さは、折り紙つきだと推薦理由を説明しました。遠山さんからは、「就職しているので、あまり時間は取れないと思いますが、せっかく大学に入ったのですから、色んな事をやってみたいのです」という話をされました。礼儀正しい感じの良い人で、私の職場のOL仲間のような印象を受けました。幹事長は紹介だけして席を立ち、私と遠山さんとで話をする事になりました。私はすぐ彼女をとてもいい友達になれそうだと思いました。
私が「会社は何処ですか?」と聴くと「キリンビールです」と答えたので「あらキリンビールなら、私の高校時代の友人F君も入社したけど知ってる?」と言うと「え?!Fさんなら同じ課です!」と言うので、たちまち枠を取っ払ったように話が弾みました。F君のキリンビールのエピソードに笑い、私がキッコーマンに勤めていた事や、職場の話を語り合いました。
当時は製造会社は、三井系と三菱系に交流が分かれていたようで、年に一度か二度三井系会社員の会社を超えた交流があって、キッコーマンとキリンビールは、同じ三井系グループに属していました。
そんな話をしながら、会社からどのように夜間大学を目指したのか、私も職場で大学に入れる道があると知り、家の負担にならないように、自分の貯金で大学に入った事を告げました。
遠山さんも話してくれました。キリンビールの労働組合委員長だった父親が事故で、子供3人と妻を残して死んでしまった事、父親の友人たちの勧めて母親はキリンビールに勤めている事、そんなコネもあって遠山さんもキリンビールに入社した事、姉は大学の昼間部に学んでいるので財政的にも家計が大変なので、自分は働きながら夜間部に通うことにした事、などを話してくれました。
自分の力で、大学生活を賄おうとする姿勢が私と同じでしたし、遠山さん自身は進歩的な人で、誠実でまた、気が合いそうだと思いました。
年は私より一つ下で、入学年は66年です。ずっと、法学を勉強し、弁護士は難しいかも知れないけど、そういう方面にチャレンジしたいと話していました。
この一回目の話し合いで、すぐ研連の仕事を引き受けてもらいました。
66年12月から67年には、ちょうど学費闘争もクライマックスを迎えて、連日の団交やストライキ中の泊まり込み、会議など多忙な中、仕事も会議もこなしながら、遠山さんは横浜の自宅から通うしっかり者でした。アルバイトや遠距離通学の大変さもお互い同じでした。
67年の現思研創設にも一緒に参加し、68年になると遠山さんも、さすがに正社員の義務は果たし切れないと、キリンビールを辞めてしまう事になりました。
奨学金を私も受けていましたので、奨学金や生活協同組合の理事になるよう勧めました。よく、理事手当6000円だったかを2人で受け取りに行きました。
当時は、手当や給料は、銀行振込み方式では無く、現金で支給されていました。
御茶ノ水駅の並びの山水園と言ったか、朝鮮料理店が夜12時近くまで開いていて、時々、皆でワイワイと話しながら夜食を食べていました。
当時現思研の仲間たちは、10人位で深夜大学に泊まって、立て看板やビラ作りをした後に、山水園に食事に行ったりしました。そこでは、いつものように大っぴらに、デモやカルチェラタンの闘いなども商店街の人と話す事もありました。
大学周辺のそういう店主たちは学生に寛大で、仕事を紹介してくれた事もあったし、警察の捜索が入りそうという時には、「重要書類」のカバンを預かってくれる事もありました。
「オレは町内会の防犯担当だよ」と笑いながら助けてくれたものです。
山水園に、夜遅く行くと二階でよく見かけるベレー帽を被り、一人で食事をしながら私たちのうるさい話をニコニコ笑って聴いている人がいました。その人が、オーナーだとある時知りました。このオーナーが私に「新宿で、スナックカウンターのバーを開くので会計係をやってくれないか」と声を掛けて来ました。新宿の末広亭の数メートル先のビルの地下に、新規開店した「ロス・アマンテス」という広いスナックバーで、楕円形のカウンターの中に女性15人から20人くらいが立ってサービスし、客はカウンター外側の椅子に座って飲むという、新しい大衆バーという作りです。
その会計レジを頼まれました。客はカウンター越しに話をするのです。好奇心で私はOKして働き始めました。様々なサラリーマンや学生、商売人が飲みに来ます。当時としては高額では無く、目新しい大衆的なバーでした。会計と言っても、私もカウンターの中に入って接客しましたが、アルバイトとして悪く無いので、遠山さんも誘いました。でもこういう職業は、遠山さんには疲れるようでした。酔客にも真面目に応えようと、対応するからです。「いなす」というのが出来ないので、「難しいわ」と言うので、二人共辞めることにしました。
このバーのアルバイトの女性たちも、ほとんど学生アルバイトでした。その後、私の友人の伯母が銀座でバーをやっているのでアルバイトに誘われ、私の方は卒業論文ゼミや活動の融通がきく時に通い始めました。アルバイト料が良かったので、遠山さんも誘った事があり、バーに遊びに来ました。でも、友人の伯母は、遠山さんには勧めませんでした。「この子には、そんなことムリよ」と、断られてしまったのです。友人からも、遠山さんと私は、正反対の性格では?と言われたこともあります。遠山さんは真面目で固そうだし、私は何でも楽しんじゃうし、柔らかいと言う事でした。
でも今振り返って見ると、66年12月頃の出会いから、ずっと肉親のように彼女とは過ごしました。姉妹のように互いに気を使う事も無く、お互いの前では素のままに振舞いました。
学生会館に泊まった時には、現思研の集団で近所の銭湯に入りに行き、私と遠山さんは女湯、男性たちは終わる頃、口笛でインターナショナルを吹いて知らせ、みんな一緒に戻ったものです。
横浜の彼女の家にも泊まりに行き、お母様も一緒に話し、枡酒の飲み方を教わったりしたものです。(お母さまは京塚昌子によく似た「肝っ玉かあさん」で、娘たちと一緒によく笑う楽しい人でした。遠山さんが亡くなった後、3月、「美枝子は死に、貴女は生きている」と、やりきれない辛さをベイルートにいた私に手紙を送ってきました。私は、遠山さんはお母さんを幸せにする夢を求めていたことを分かってあげて下さい、と返信をしました。「奇しくも納骨の日に貴女の手紙が届いたので、一緒に葬送します」とお母さまからお便りを頂きました。でもその後は、こちらもリッダ闘争で国内と通信不可となり、ご無沙汰したままになってしまいました。)
68年後半か69年になると電車に乗って帰らなくても良いように、大学から歩いて通える所に二人で部屋を借りて暮らしました。そういう仲でした。あまりに何時も一緒に居たので、逆に集会やデモで遠山さんがどうしていたか、思いだすのが難しい位です。私自身の行動と同一になってしまうためです。
67年から68年は、私たち現思研の最も楽しい活動の時代です。サルトル、ボーボワール、ルソーやブントの政治的話や学習会や集会、互いの人生相談まで多くの仲間たちと共に過ごした日々には、必ず遠山さんがいました。
でも、食事のことで、遠山さんとよく喧嘩したのを思い出します。
私は活動の忙しい時には、近所でラーメンを出前してもらって、かき込もうとするのですが、彼女は違います。
「食事に行こう、すぐそこ、美味しいから。フー(彼女は私をそう呼んでいました)は絶対私に感謝するはず」と延々と歩かされるのです。「付け出しに、美味しいい塩辛が出て、天ぷらが美味しいから、すぐそこよ」と、また延々と歩いて食事を選ぶのです。
食事をめぐるこんな喧嘩は、いつもの事です。妹のいない私にとって、掛け替えのない人だったのです。ああ、アラブに呼べば良かった・・・と、特に70年代に何度も思い出す度に、そう思ったものです。また、現思研の男性たち、一人ひとりも肉親のような仲間で、一人ひとりのキャラクターを書き出したら、きりがありませんので略します。

9.現思研・社学同とML派の対立のこと
67年、68年の4月には、新入生の新しいメンバーを加えて現思研の仲間たちは、社学同東京の一つの役立つ力として、重宝されるようになっていました。ことに関西から派遣されて来た人々にとっては、明治大学学生会館に出入りし、時には寝泊まりしてる事もあり、気軽に頼める仲間と見なされていたようです。
昼間部の人々は、デモに300人の時もあれば数人しか参加しない事もありましたが、現思研は20人から30人がいつも参加していました。ブントの人たちから声を掛けられたら、カンパも協力します。
ブントの人々は、時には「少年マガジン来た?」と現思研に顔を出します。「偉そう」なリーダーたちの素顔は、私たちとあまり変わらない仲間だなと思ったものです。ブントの幹部と言っても、社会経験に於いては、正社員や契約社員として苦労して時間をやりくりしている現思研の仲間たちの方が、大人だな~と言うのが率直な当時の評価です。
そんな私たち現思研・社学同に危機感を持ったのが、ML派の学外の指導部でした。

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ML派の明治大学の仲間は、私たちと反日共で政治活動を共同しているし、学苑会中執も共同して構成しており、一緒の場で立て看板作業をしたり、敵対意識は私たちばかりか、彼らも持っていなかったと思います。ML派の中には、人間的に友人として語り合う仲間もいました。でも、67年の「会計不正問題」で、ML派のやり方に反発した私は財政担当を辞める際に、ML派ではなく現思研の女性に引き継いだのは、私がML派は不満だったせいでもあります。友人から、「次の学生大会で、社学同がML派を追い出すとML派が警戒しているよ」と聴きました。
私たち現思研には、いい加減さもあった分、人が気軽に集まっていてML派としては気になっていたようです。でも、私たちはML派と競う考えはありませんでした。文学部自治会のML派の拠点には、すでに解放派の影響力のある者が増えていて、ML派としては学苑会委員長を始め中執の多くをML派で握っておきたいと考えていたようです。私はML派の人が、リーダーシップを取るのに反対ではありません。友人もいたし、外人部隊の寝泊まりや急に毛沢東主義化したのは気に入りませんでしたが、ブントも関西上京組は泊まっていたし、中執人事はML派とブント・現思研の仲間で仲良くやって行けばいいと考えていました。私たちの仲間が、彼ら程熱心にリーダーシップを取ってやって行けるとも思えません。彼らに続けて欲しかったのです。
ある事件が起きたのは、68年学生大会の一、二か月前の、ある夜のことだったと思います。夜間の授業が終わった夜10時過ぎから現思研の仲間たちは、学生会館前広場の所で、大きな立て看板を作成していました。昼間部の社学同や文学部のML派の人たちも、解放派の人たちも学生会館前広場では、スペースを譲り合って、翌日のための立て看板を作成するのが通常の事だったので、その日も何組かが立て看板作業をしました。
夜12時か1時を過ぎ、一段落したので、私たち現思研は夜食を食べに神保町の中華料理店に皆で向かいました。零時を過ぎると御茶ノ水駅のレストランは、もう締まっていて、午前4時までやっている神保町の中華料理店に行く事になります。そこはタクシーやトラックの運転手や夜間道路工事で働く人たちの便利な食堂で、値段も手頃です。学生会館からそこに行くまでに、日本共産党神田地区事務所があり、その脇をグループで通りながら、いつも食べに行っていました。食べながら置いてある新聞を読んだり、打ち合わせしたり、食べ終わると急いで、学生会館に戻ります。戻ったら、4階にある現思研の部屋か和室で、みんな横になって寝ます。
この明け方、現思研の部屋に突然の怒号と共に、殴り込みを掛けられました。
「え?!民青か?!」と一瞬思ったのですが、現思研の部屋に5~6人の男たちが押し入って、入口近くで寝ていたA君に殴りかかっていました。いつも見かける横浜国立大学のML派のリーダーMが外人部隊を引き連れてゲバルトを掛けてきたようでした。
「何するんだ!」A君は、頭を守りつつ大声を挙げています。
私は、奥のソファーから跳ね起きて、「何する!M!」と怒鳴りました。「ここは、あなたたちの大学では無い。話すなら3階の会議室でしよう。卑怯な真似は止めなさい。明治大学のML派はなぜ居ないんですか?!」と私が声を上げると、A君に対して無言でリンチを続けながらMは、「何?!重信がいるのか!いい根性してるな、お前のために、お前のために、でかいツラしやがって!」と、私が居たのは計算違いだったのか、私めがけて襲い掛かって来ました。「卑怯者!どっちがデカイ面か!女に何をするんだ!」私も「女性」を武器に大声をあげ、蹴られつつ、一つしかないドアの方に逃れながら口撃。A君も「やめろ!何だ!理由を言え」「明治大学のML派らはどうしたんだ!」と大声で騒いでいます。「Mさん!」、攻撃の仲間が私に掛かり切りになって息まいているMをたしなめています。Mは、我に返ったように「いいか?!お前らがさっき我々が仕上げた立て看板をひっちゃ破いた。その報復だ!」と叫んだのには呆れました。
殴られつつA君が「何だと?!そんなの言いがかりだ!証拠をみせろ!我々はそんな卑怯な事はしない!」と叫んでいます。私はすり抜けて和室に走って、「みんな起きて!ML派が卑怯な襲撃してきた」と叫びました。Mの「よし引き上げろ!そいつを連れて行け!」と、A君を拉致して引っ張って行こうとします。
「何するんだ!」怒号と共に、引きずられて行くA君。追いかけようとする私や和室から飛び出して来た仲間より早く、襲撃隊は4階からA君をかついで、3階へ行こうとしています。和室にいた現思研の仲間たちは、「民青じゃなく、ML派だって?!」と驚きながら続きます。
その間ほんの4、5分くらいの事でしょう。強引に連れ去る一団に、現思研の2年生たちが、3階の学苑会室前で追いつき、A君を奪い返そうともみ合いました。ML派の人々は、二部中執の学苑会室に逃げ込みました。追いかけたB君がもみ合って引っ張り込まれてしまい二人共人質にされてしまいました。
B君は、67年入学式前のデモでも仲裁に入って逮捕されたように、身を賭して正義に燃えてしまう青年です。現思研の合宿を67年夏休み、彼の故郷の新潟のK町でやった事もあります。東京生まれの私には、周り一面畑や山並みや稲穂が続く風景は初めてで、思わず「わあ~、銭湯の絵みたい!」とはしゃいで笑われてしまいました。御家族総出で歓待してくれ、使っていない一軒家に案内され、そこで3食世話になりながら、合宿を楽しみました。傍に西瓜畑があり、誰かが「お、西瓜泥棒やってみたいな」と言いながら、家に戻ると冷えた西瓜を届けてくれて、私たちを恐縮させたものです。B君の友人の土地の青年団の仲間もその時出会い、後に上京して赤軍派で一緒に活動するようになります。
そんな中心メンバーである、B君もやられてしまいました。
学苑会室の中で、A君、B君を殴る怒号が聞こえます。「内ゲバには手を出さない、逃げるが勝ち」と現思研では話してきたし、そう思っていても、こうなったら仲間を力づくで、取り戻さなければ行けない!と思いました。現思研の仲間のB君のクラスメイトの仲間は「Bまで拉致された!」と殺気だっています。見渡すと、皆突入に役立ちそうな角材や壊れた椅子、木刀で、今にも攻撃しそうな戦闘体制にあります。「ちょっと待って、とにかく、外人部隊のML派を叩き出し、二人を奪還しよう。これは党派問題を仕掛けられたのだから、明治大学の問題じゃない。明治大学のML派は攻撃に一人もいなかったの。とにかくブントに救援を頼もう」。
私たちは、3階の学苑会の対面にある昼間部中執学生会を陣地にして対決する事にしました。
この学生会は、いつも社学同仲間がいるのですが、夜は不在でした。騒ぎで和室に寝ていた藤本敏夫さんも学生会室に来ましたが、彼には頼れません。私は、学生会中執の電話で、すぐ中央大学に電話をして援軍を頼みました。当時は、社学同同士、中央大学での紛争にも駆けつけたりしているので、お互い助け合っています。すぐに荒岱介さん(当時は、荒君と呼んでいました)先頭に、中央大学学生会館に泊まり込んでいた仲間たちが駆けつけて来ました。

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荒君は「まかしとけ!どうしたんだ?!」と言うので、Mら、明治大学ML派でない連中が、私たちがML派の立て看板を破いたと、いちゃもんをつけて、殴り込みを駆けてきた事、A君とB君が、対面の学苑会室に拉致されている事、学苑会室には多分明治大学のML派もいると思うが、彼らはこうしたやり方で大学内の平和共存が壊される事をきっと恐れている事、次の学生大会で、社学同に執行部委員長ポストを要求されるとか、過半数人事を要求されると危機感を持っている事などを説明しました。
荒君は、社学同の都の代表か社学同委員長になったかなる予定の頃です。いつも現思研に来て「いいなぁ、明治は。おれら亡命政権だよ」と言いながら、早稲田大学で活動基盤を作り得ていない事を自嘲的に語ったりしていました。「よ~し、ブント・社学同が怒ったら、どんなもんか。知らせてやろうじゃないか」と荒君が言うと、みんな「異議なし!」とあっと言う間に、荒君を先頭に意志一致。「お~ぃ魔女(荒君は私をこの仇名で呼ぶ)学苑会中執、ぶっ壊してもいいか?」と聞くので、「二人の仲間を取り戻すまでは、壊れるのは仕方が無い」と答えました。
荒君は、おもむろにデモで使うハンドマイクを持って演説を始めました。五、六歩しか学生会室と学苑会室は離れていず、肉声でももちろん届くのですが、「ML派の諸君!ムダな抵抗は止めなさい。社学同の学生を直ちに解放しなさい。卑怯な襲撃を自己批判しなさい、言うことを聞かないならば、我々は正義の教訓を行使する!」と荒君は怒鳴りました。
その口調は、いつも「こちら麹町署、学生諸君ムダな抵抗は止めなさい!」と警察が襲いかかる前の警告を真似したものだったので、みんなニヤリと笑いまいた。多分、現思研の仲間をリンチして怒鳴っていたであろう学苑会室内の怒号が止切れました。そして一瞬あってから「バカヤロー!」「ナンセンス!」などと返って来ました。それを聞くと、荒君とB君の親友たちが、まず飛び出してガンガンガンガンと、学苑会の両開きの扉を攻撃し始めました。観音開きの上の方は、天井まで20~30センチ程のガラス張りになっています。すぐにガラスは吹き飛んでしまいました。内部のML派は10人位で、人数が少ないので突破されないように学苑会室のロッカーや机で内部からバリケードを築いている音がします。自分の自治会室の扉を破壊するとは、何と情けないことになってしまったのだ・・と思いつつ、仲間を取り戻さなくては!とこちら側は焦っています。大変頑丈に作ってある分、壊れません。私たちの陣地にしている学生会中執の電話は度々鳴り、その度に私が取ると、中央大学、専修大学、医科歯科大学の社学同仲間が夜中に聞きつけたらしく、援軍に来るというのです。でも、何メートルも無い学生会と学苑会の間のフロアには、社学同の攻撃部隊がひしめいています。荒君に聞くと「攻撃部隊はもう十分だから」と言うので、私が事態の攻撃状態を電話で説明しました。「じゃあ、ドリルを持っていくか?」と言います。「う~ん、自分たちの自治会室だし、あまり壊したくないのでいいよ」と答えていると、その内誰かが金具類を探して来て、ドアに小さな穴を開けました。「もうすぐだぞ!」と、こちらは気勢を挙げてインターナショナルを歌い、代わる代わる演説し「A君とB君を返せ!」と攻め立てました。人質を放したら、自分たちが殴り返されると思ってか、ML派は人質を返そうとしません。もう空は明るくなって来ました。
その内、ブントの戦旗社から電話が入りました。「どうしたのか?」と言うのです。「今、ML派から戦旗社に連絡があって、社学同が学苑会を包囲し、三里塚闘争に出発する仲間が阻止されて闘争妨害だと、抗議があった」とブントの人は言うではありませんか。
私と荒君は「とんでもない!ML派が、社学同に襲撃を掛けて、現思研の仲間が拉致されたまま、学苑会室に逃げ込んで立てこもっているんだ!」と戦旗社のリーダーたちに訴えました。
「え?!そうなの?ちょっと待って!」とガチャンと電話が切れました。荒君は「何寝とぼけてんだ!ブントは」と怒っています。
私は「Mがデモゴーグで正当化したに違いない。いつもの詭弁よ」と言い、現思研の仲間も益々怒り一杯です。「もうすぐ突破出来るぞ!」との声。
生活協同組合の友人達が、下からコーラやファンタを差し入れてくれました。順番に休憩を取りながら、更にガンガンやりました。現思研の仲間たちも「自分たちの自治会室を壊すのは、本当にいやだな。明治大学の左翼同士のゲバルトはしないと決めていたのに。明治のML派はどうしてるんだろう、中にいるんだろうなあ・・・」と怒りと戸惑いです。
その内また、戦旗社から電話「ML派に自己批判させて、Aら二人を解放させるから、それで手を打ってくれないか。奴らは、ブントの闘争妨害と騒いでいて、実際今日は小さな集会でブントは動員をかけていないが、三里塚闘争の日だ。口実かも知れないが、呑んでくれないか。とにかくAらを解放させ自己批判させるから」と言うのです。
荒君が「どうする?それでいい?」と私に言うので首を横に振りました。荒君はまた、戦旗社の人と話をし「しょうがない、判ったよ、ML派の奴らちゃんと自己批判してAたちを解放するんだな」と言って、電話を切った後、「何か、全学連の貸借のいろんな事が、ML派や解放派ともあるみたいだな。とにかくML派に貸しを一つ作る事になるらしいな。もう疲れちゃったし、完全勝利じゃないか。手をうつぞ」と言います。攻撃隊指揮は荒君だし、戦旗社には「判ったよ」と納得合意をしたので、私たちも自分の感情的な対応を収めることにしました。感情的になると判断力を失ってしまいます。
「内ゲバをしない」と現思研で言って来たのは、私たち自身なのです。
「わ~」と声がするので、荒君と学生会中執のドア口の方を覗くと解放されたA君とB君が、社学同仲間に抱えられるように学生会室に入って来ました。解放されたのです。
でもA君は、顔を殴られて眼は潰れ風船のように腫れあがって、血とアザのひどい顔です。B君は、唇と頬に血が流れていましたが、「僕はそれ程殴られなかったよ」と言いました。とにかく、解放されたのです。
荒君は、再びハンドマイクを手に「我々は勝利した。ML派の諸君、社学同に対する自己批判書はどうなったんだ。まだやる気なら我々も受けて立つ気はある」と演説し、みんなでインターナショナルを歌って景気づけました。静かだった学苑会室からもインターナショナルの歌が聴こえます。
それから学苑会室の扉の上のガラスが割れて無くなった空間からピュっと紙飛行機が飛んで来ました。「お!何だ、これは」ML派は「自己批判書」を紙飛行機に折って飛ばして来たのです。「何だ、これは、ちゃんと手渡して謝るべきじゃないか!ふざけやがって!」と現思研の仲間たちが怒りの声を挙げました。「どれどれ」と、荒君が紙を広げて「まあ『自己批判書』ではある。学生会館内で暴力をふるって社学同の人間に怪我をさせた事は自己批判すると、書いてある。ひどい自己批判書だけどな」と、私にその紙を渡しました。私も読んで「威張って、自己批判してやると言う内容じゃないか!」と文句を言いつつ、現思研の仲間が戻って来たのだから、ホっとした気分です。
だいたい自己批判書なんて本当に変えようという心掛けより、左翼同士のやりとりでは、その場の窮地脱出の方便が多いのを知っています。
荒君は、現思研の仲間にも殴られた仲間にも確認して、これで終わりにしていいなと、念を押し皆合意しました。そこで荒君は、再びハンドマイクを取り「我々ブント・社学同は完全に勝利したぞ!ML派が再びふざけた暴力を行使したら、次はブントが黙っていない。この学生会館から叩き出す。よく覚えておくべきだ。我々は、完全に勝利した」「異議なし!」「我々は戦うぞ!」と唱和して「以上戦闘は終了する」と宣言しました。
それから10分以上たちました。20分くらいだったかもしれません。ML派は、攻撃されないか、こちらの様子を伺っていたのか、それとも学苑会のバリケードを解除していたのか、すぐには扉を開けませんでした。私たちは全員、学生会室側に立って監視していました。
明治大学ML派のK君が、そっとドアを開けてあたりを見回したかと思うと、首を引っ込めMら立てこもっていた連中がヘルメットとタオルで顔を隠してぞろぞろと10人程出てきました。
そこでMは、「我々は妨害に屈せず三里塚闘争を戦いぬくぞ!」「我々ML派は、いかなる時にも戦い抜くぞ!」とシュプレヒコールを叫びました。全員がシュプレヒコールに唱和し、小さな隊列を組み「我々ML派は戦うぞ!」「戦うぞ」「戦うぞ」と気勢をあげて、隊列のまま、3階の階段を駆け降りて行きました。
現思研には、学苑会中執メンバーもいるので、すぐに学苑会室に入りました。あちこちに椅子や机が散乱したままです。「研連の連中が来たら大変だ。彼らは原則的で内ゲバなんて絶対許さないから」と言いながら、学苑会室と床のガラスなどを掃除を始めました。
研連執行部は、現思研の仲間もいますが、みんな真面目な教育研のSさんの委員長のもと、党派的なやり方は、排除してきました。私自身も、それを実践して来た上で、Sさんや遠山さんらに研連執行部を任せて来ました。
67年の学苑会による「投票箱不正開票事件」の時にも、研連は学苑会を厳しく批判していました。とにかく頑丈に出来ていたので、結局ガラスくらいしか壊れなかったのでホッとしました。上の方のガラス代は何千円でしたが、のちまでそのままでした。以降も毎日通る度に、あの事件を思い出し気がとがめたものです。
A君の殴られ腫れた姿は、人前には当分出られません。友人たちに何があったか説明するのもはばかれます。こちらは被害者と言っても通用するものではありません。それにML派と社学同は一緒に学苑会を運営しているのです。
「現思研は甘い。明治のML派をちゃんと批判して、外人部隊を追い出せ」と、他の解放派の友人たちも騒ぐでしょう。
どの党派も、学生会館を根城にしているので、民青と同じ論理で追い出すのも、どうかという考えもあります。「とにかく今後、こうした言いがかりで暴力を振うなら、我々は一切ML派と共同しない。そういうけじめはきちんと付けるべきだ」と現思研で話し、学苑会中執の社学同の仲間たちがML派と話を付ける事にしました。
その後、学生大会がありました。結局、これまでと同じ様に、社学同とML派系の組んだ中執人事となりました。財政は、私の後はずっと社学同の仲間が担当し、これまで同様の人事です。
二部の要は研連です。サークルとサークルの連合である研連執行部を握っていれば、どの学部自治会の大会や、学苑会の全学学生大会にも代議員として立候補し、共同して貰えるし、真面目な二部の学生の研究や向上に欠かせない場だからです。
研連無しには、学苑会執行部が勝手な事は出来ません。
ML派としては、きっと、この一件で内部で矛盾があったのではないかと思います。後の話になりますが、69年のブントの内部対立で、私を含め現思研の中心メンバーが赤軍派に参加し、大学内を離れた後、ML派が解放派を襲うなどで学苑会は党派矛盾で荒れたようです。70年に研連の下級生たちが、相談に来て、党派の非民主的な御都合主義を何とか解決したいとの事でした。私は、すでに赤軍派の活動で大学とは直接には関わっていませんでしたが、自分たちが民青執行部に対案を出した時の教訓を伝え、ノンセクトでも、やれば出きると思うと勧めました。
その作戦会議にも一度参加し、相談に乗り励まし対案を提出する大会には、私もオブザーバーとして出席すると約束しました。実際70年6月だったか、政治研のKさんらを中心にしてノンセクト中心の研連は、対案を提出し大会の過半数を制して、学苑会執行部を掌握する事になりました。執行部を握ると、それからが大変です。
頑張れ!と励ましに大会の当日、私が会場に入るとオブザーバー席には、ちょうど赤軍派と対立した側でリーダーシップを発揮していた荒さんも座っていて、大会のなりゆきを注視しているところでした。私が「久し振りね」と言うと「魔女、お前、何か企んだろう!」などと言っていました。
この頃、解放派も伸張し、後にノンセクトやML派を抑えて、解放派は明治大学二部も昼間部も独占するようになるのは、私がアラブで活動していた頃のようです。解放派が当初上手くやったのは、意図的に有能な活動家を配置したせいだと思います。
確か68年に、現思研に入りたいと脊の高い新入生が来た事があります。
どうぞ、どうぞと参加を歓迎しましたが、ちょっと「粋がった活動家」スタイルの青年は、荻野君と言い、他の新入生と違って活動慣れしていました。
政治の話や各党派の話をしている内に、本人も反帝高評の活動をして来たと話しました。
現思研が、ブント・社学同系と知って加入戦術で、まだ文学部にほんの数人しかいなかった解放派を強化するために来た事を、後に本人は告白して現思研を離れました。
彼曰く、現思研は間口は広すぎて、その割りに皆社学同のゴリだし、自分はやっぱり学部から強化すると率直に話してくれました。「気取り過ぎ」「格好つけ」と私は、彼をからかいましたが、「いい奴」でした。
それから何十年も経って、私が帰国し2000年に逮捕された後、警視庁の取り調べ室でのことです。刑事としては話の糸口にしようと、明大学生だった荻野君の話を持ち出したのでしょう。荻野君が、解放派のリーダーとなり、解放派の「内ゲバ」で命を奪われたと刑事が話すのを聴き、彼が死んでいたのを知りました。また、あの時暴力を仕掛けてきたML派の外人部隊のMは、のちに僧侶となり、連合赤軍の死者たちの弔いに尽力し、すでに亡くなられたと知りました。みな当時の過ちを自らの問題としてとらえ返したのだと思います。Mもそうだったことを、私自身の反省と共に思い返し感じるものがありました。
そんな風に現思研は、山あり谷ありの、どちらかと言えば「社学同同好会」と揶揄されるような、家族的、義理人情のコンミューン共同体だったと言えます。
ところが、私のような先輩が、様々な条件からルビコン川を渡るように赤軍派に突き進んだ事で、多くの仲間も、当然のように当初は、赤軍派に加わり、みんな消費されるように様々な岐路に放り出されつつ、各々が活動したり、止めたり自らの道を進みました。
私は現実の赤軍派に70年に見切りをつけ、71年初頭にはアラブへと出発し、田中さんは、それ以前に「よど号」に参加して平壌(ピョンヤン)に行き、遠山さんは連合赤軍で殺されました。その他何人もの仲間たちが、苦渋の選択を強いられ「自己責任」のように、自らの人生を切り開いて生きていきました。
社学同・現思研やその周辺にいたかっての友人たちに、私自身の在り方―最後は誰の面倒も見ず、海外に発ち、何の責任も取らなかった事、遠山さんに厳しい道を結果として選ばせた事を含めて、心から謝罪します。
と同時に、そうした条件を越えて、30年を経て「窮鳥」として私を暖かく支えてくれている旧友たちに感謝しています。
本当に、ありがとうございます。
その上、「自分の人生は、現思研の仲間同士の在り方が、お、今も拠って立つ自分の思想的出発点になった」と、かつての現思研仲間のTさんのように、今も当時の大切な人間の在り方の学びの場として、心に刻んでいる仲間を見ると、私も感謝と勇気一杯で、いい人生を過ごして来たと噛みしめるのです。
そして今も、この流れを汲む明治大学時代のML派も含む旧友たちは、私の裁判などの救援を「土曜会」として継続してくれました。公判後には、特に3.11以降「土曜会」としての社会政治活動を続けている事を嬉しく誇りにしています。
もちろん、昔の党派的な活動やあり方を否定し、かっての全共闘運動の原則的な自発性を継承して、平和的な社会の変化を求めているようです。

(つづく)

【お知らせ その1】

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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』12月刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
情況出版刊
予約受付中(チラシ参照)

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html


【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月11日(金)に更新予定です