重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。

今回は「オリーブの樹」150号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より 2020年2月3日~2020年4月30日>
2月3日 今日はN和尚が新春法要に来てくださいました。新年の法要と節分の法要を兼ねて読経。今日は法昌寺毘沙門講にとって、最大の行事である「寒行」の日で、夜、お題目を唱えながら団扇太鼓を打ち鳴らして、戦災、天災、人災で亡くなった方々の供養をして、約5Kmも練り歩くのだそうです。また、3月には遠山さんの四十九回忌も友人たちで準備されているとのこと。多忙の中、旧友たち(私や遠山さんや)のケアに忙しい和尚です。感謝。

2月4日 立春。今日は少し頭痛で、めずらしく運動のベランダを辞退し、ベッドで読書。昨日と今日届いた、監獄人権センターのニューズレターや「被収容者を支える人のためのヘルスケアサポートガイド」を読んでいます。「刑務所医療改革」受刑所の実情(各刑事施設視察委員会の意見に対して刑務所がどんな措置をとっているか?)今回、熱中症対策・寒冷対策の実情が載っています。多いのは、空調設備や対策の予算不足で「上級官庁に予算上申検討中」です。圧倒的に予算不足です。医療改革では、弁護人が獄内の医療情報にアクセスできないこと、医療内容について外部監査がないことを根本問題として改革を求めています。仏などの刑務施設医療の厚生省管轄を紹介しつつ、医療の独立制や医療保険の適用によって、受刑者も一般制度に加入する実情を示して、日本の刑務所医療の改革を語っています。本当に。特に歯科は保険が適用され、きちんと治療できれば、獄中者はもっと健康に過ごせるはずです。また、東日本成人矯正医療センターができてから、病気などで「執行停止」になることが減じて、センターに収容されているとか。刑務所医療には制約と限界があり、執行停止の拡大こそ望まれます。
うっすらと花の香りが……立春!
(中略)

2月26日 今日は人民新聞2/5号を交付されました。あ、これですね。1706号の8面、「獄中者への人権侵害」というタイトルの、Tさんの私への手紙一部、黒塗りに抗議する、という欄のところが「一部抹消の上交付」の理由でした!編集部の文はそのままで「──手紙本文」の一段から三段目が全部再び黒塗りでした。Tさんのコメントはそのまま載っていますので、元気なTさんの様子がちょっと見えます。心意気はよく理解しています。とってもありがたいサポートに感謝しています。

2月28日 今日は青空の起床時です。そっと西の方に黙祷。49年前に日本を発った日。奥平さんらを思い出したからです。25才だった当時の決断は、やっぱり今でも輝いて振り返ります。つまずきも過ちもあったけれども。

3月3日 友人からの便りに「反知性主義」を批判する側の内に潜む「知的エリート主義」を左派や言論が自覚変革なしに新しい状況を切り拓きえないと、米国・日本の現状への論評。その点で、反対や批判者とこそ対話し、変革・豊富化をめざす山本太郎を評価して論じています。獄では動画もないし、リアルポリティックスはコミットできませんが、その論拠を考える資料も今後送って下さるとのこと。学習してみたいです。
今日、昼膳にひなまつりのあられ(8g)が添えられていて何と小さな「楽しい気分」を味わいました。

3月 6日 朝目覚めると、花瓶に刺した枯枝のようだった固い、ところどころにあった殻が割れてうす緑だったものが、クリーム色と薄紅の蕾の姿を現しました。当初は風雪に晒されたようなコブのような殻が咲くのか…と思いましたが、その殻を今朝は殻を振り落として姿を現わしました!何だか希望の印のようで嬉しい朝です。
運動のベランダに出ると、「あなたのことわかっちゃった!」「下の名前ふさこさんでしょ?!」などと複数の人にニコニコ言われました。胸にみな姓の名札をつけていますが、下の名前の方は記されていません。「え?!何で?!」と言うと、「わかるわよ。きのう男が廊下でがんがん怒鳴って原稿がどうのとか丸聞こえよ!」「姓字でもしやと思ってたけど原稿なんか書くのはやっぱりね」etc。そうなのです。他の刑務官は病室に入って穏やかに注意指導しますが、昨日の処遇主席は、廊下から室内に入らず食器口に向けて長々大声。「業務妨害って怒ってたね!」と大笑い。業務に支障をきたしていると怒ってたのですが。話題を避けようと「走ってくるね!」と走りだしました。
病室に戻るとすでにうす紅の入ったクリーム色のシクラメンのような花が開きかけ! 花弁を数えると9枚。ああこれは白蓮! 辛夷なら6枚の花弁です。ビャクレンともハクレンともまた、玉蘭ともいわれる美しい花! 
(中略)

3月10日 「続・全共闘白書」を送って頂き感想を求められていましたが、読めば読む程一人一人の人生の重さを感じ概括することがむずかしい。25年前にも同様の質問アンケートをとって一冊にしていたことは当時知りませんでしたが、今回は、469人の回答を得、446通を有効解析対象として巻末にアンケート集計を示しています。男性回答が400人、女性回答が46人で10.3%約一割強です。当時の学生運動の参加比較も、女性は、一割以下、5%位だったのでは?と思います。全体的に、全共闘運動が多くの人のその後の生き方を大きく規定し、また、その良識や価値観を貫いて生きてこられたことを感じます。当時の私が視野も狭く知らなかったこと、学習しつつ当時の激動の中に身を置くと、もっと良い闘い方ができなかったこと身につまされます。今に至る激しい時代を導いた流れの一端の責任を(不遜な感じ方かもしれないと思いつつ)実感しつつ読んでいます。また、京大の一人の人が、思い出に残る闘いとしてリッダ闘争をあげていて、最も好きな国パレスチナ、キューバ。とあって注目。うれしくなりました。その上、トランプ批判には「パレスチナ支援拠出金停止や、米大使館エルサレム移転入植地問題などでイスラエル右派にべったり」とあり、京大の奥平さん、安田さん、山田さんの世代の人だからきっと心に刻まれているのだろうと読みました。私の書いたアンケート分は、5月だったので、獄にはまだ山本太郎のことは聴こえていませんでした。
(中略)

3月13日 今日午前中は「コロナ」の影響かハンディーなサーモチェックの小さな器具を各患者の額に近づけて熱を(体温)チェックしました。Uさんの便りが夕方届き、訃報を知りました。蔵田計成さんが3月1日、逝去されたとのことです。お悔やみ申し上げます。蔵田さん程「ブント愛」で一貫して文章を書いておられた方をあまり知りません。1950年代の早稲田の学生運動、ブント、安保闘争を闘い、以降もブント再建も支援し、また、第二次ブントの分解・セクト各派が生まれる中でも「ブント愛」で、どの分派にも暖かい目で記述しておられました。それを知ったのは、公判準備や「日本赤軍私史」執筆で、不在中の70年代以降のいろいろな本、資料をあれこれ乱読した時です。また、2002年2月、獄中の私たちに連帯し東京で檜森さんと共に反弾圧集会を開いて下さったのも蔵田さんです。資料書籍なども送って励まして頂きました。出所が叶えば、ブントの歴史についてあれこれ伺いたいと思ったものです。体調を崩しておられる中、執筆された本も送って頂きました。ブントを総括し、記録を残そうと冷静な歴史観で記しておられ、それらは過去を知る大きな助けとなっています。支え励まして下さった感謝と共に、哀悼の気持ちを記します。大切な先輩を失いました。秋雄さんはきっとお別れに参じたことでしょう。

3月14日 少し寒い。外を見ると隙間から雪! みぞれのような雪が午後ずっと降っている昭島です。ラジオでやはり都心みぞれの中、桜、東京の開花宣言! 統計をとりだして一番早い開花宣言とのこと。“みぞれ降る不夜城の外眺めれば東京の桜開花とラジオが”
“友よりの手紙開けば訃報ありブントを愛した蔵田計成”
改正特措法成立の記事。
“コロナ危機想定外から特措法あっという間にコロナファシズム?”
(中略)

3月20日 春分の日! 昨日から直線で300m位離れた昭和記念公園西端の森の一本の木の白い花がちらほらと咲き始めました。今日は、七分咲き位に花盛り。太陽にその桜木がきらきらと輝いています。ほんの少しの森と花見が心を浮き浮きさせます。今、新聞届いて読んでいたら訃報を知りました。松田政男さんの訃報です。87才だったのですね。私が松田さんにお会いしたのは69年です。赤軍派結成後のころです。文章作業で「世界革命運動情報」誌のバックナンバーを入手できないかと塩見さん、山田孝さんに相談された時のことです。大学の友人の教育研究会のKさんが、レボルト社事務所にも出入りして、その雑誌を読んでいたのでKさんにバックナンバーを貸してほしいと頼んだのです。彼は全部持っていないので持っている友人を紹介すると言って紹介してくれたのが松田さんです。初対面で「失業革命家の松田政男です。40歳までに、革命に命を滅する覚悟で生きてます」というキザな科白にびっくりしました。その際、赤軍派の話をすると、「ブントの擬制的な組織は分解純化すべきで大賛成だ」と「何でも協力したい」と支援を申し出られたのです。以来、多くの人脈、財政、アジトと、いろいろ協力して下さいました。
71年秋に「赤P」のフィルムを持ってベイルートに訪れたこともありました。今は亡き、大島渚さんが電話してきて、「松田さんがユニコーン(当時のみんなの溜り場)でもう帰ってこない。あっちで骨を埋めると騒いでるけど迷惑だろうからさっさと送り返すように!」などと言っていました。その電話もユニコーンからのようで陽気に友人らが次々とTEL口に出て励ましてくれたものです。ベイルートで有意義な日々のあと、信原さんや、丁度居合わせた浅井信雄さんらも松田さんに帰国を説得。私も浅井さんのフィールドのカイロまで行って見送りました。その後丁度第四次中東戦争の73年、若ちゃん、守さん、北沢さんらと松田さん合流して大討論。ベイルートからパリへ。パリを拠点に「赤P」上映から革命文化戦線構築の準備へ。ところが74年の「パリ事件」で関係ないにも拘らず仏DSTに逮捕され暴力をふるわれ国外追放で帰国を余儀なくされました。こんな風に様々に協力して下さったのに迷惑のかけっぱなしのまま、直接のお詫びできないまま永別を知りました。謝罪・感謝と共に次々と、いろいろなエピソードが浮かびます。合掌。
最後にお会いしたのは2001年、私の公判に証人として出廷して下さった時です。昔とちっとも変わらず意気軒昂に検事とわたりあっていました。その後、Oさんから松田さんが火災に遭ったり、体調を崩しておられることを時々伝えて頂きました。「パレスチナに献花を!」と檜森さんOさんらと活動をはじめ、檜森さんが自決した後も、あの「かもめの噴水」のところで、松田さんOさんらが、時々の集いを行っていたことを思い出します。Oさんの吹く楽器の曲が聞こえるような春分の日和、一本だけ煌めく桜にむかって惜別の哀悼を捧げます。“春彼岸新聞開けば黒い縁君の訃報に出会い息呑む”“初対面黒サングラスに黒づくめ「失業革命家」と君宣いき”そんな姿を思い出します。
(中略)

3月29日 昨夕から桜の花が満開に咲きました。花は80くらいあります。小さな花ですがきれいに咲き、フリージャ、チューリップも盛りです。起床前の早朝、うす明かりに雪!どんどん降っています。フリージアの香を受けつつ雪見です。雪は午後2時頃まで降り、少し隣のビルの機械や屋上にも積もっています。

3月30日“パレスチナ土地の日なれば闘いの死傷者逮捕者の数案じらるる”と、思わず零れます。コロナが感染し始めている中東で、パレスチナの人々はそれでも闘わざるを得ず、「土地の日」の今日恒例となっている抗議が被占領地、隣接国のパレスチナ難民キャンプで行われているでしょう。今日受け取った資料で、レバノンでも3月19日現在で感染者は158人と保健省の発表。欧州と密接なのでこれから広がるのでは……。また、今日は檜森さんが自決して19回忌です。毎年Oさんらと日比谷公園のかもめの噴水の桜の下で、この日を弔っておられた松田さんも逝去されています。今年の桜は様々に記憶に残るでしょう。安倍首相、コロナ、雪など。

4月1日 雨で寒い日。エイプリルフール。ふと檜森さんのことを思い出していました。自死の知らせを受けたのは、エイプリルフールだった……と思いながら。点呼直前に、再びこの日驚きの悲報が届き呆然。泉水さんが亡くなられたとは……。
 ああ何もできないまま泉水さんを逝かせてしまった……と、無念と申し訳なさと司法当局への怒りが溢れます。これまで安田・山下弁護士らや、水田ふうさん、Fさんをはじめとする多くの方々が、何とか泉水さんの仮釈放の道を開こうと努力して下さっていました。泉水さん自身も刑務所や検察側のやり方に抗して毅然として国賠訴訟を闘い続けていました。社会に還り一日でも過ごしてほしかった……。私ばかりかみんなの願いでした。
泉水さんとの出合いの頃が浮かびます。泉水さんは、若い頃の悪事(強盗殺人共犯)で「兄貴分」に何も知らされず付いて行ったのですが、泉水さんが待っている間に惨事を兄貴分が起こし、つかまると、泉水さんも関わったように供述調書を作られて共犯として、「無期懲役刑」を科されます。(兄貴分は病死)
母に詫び真面目な服役態度で仮釈放も決まっていたのですが、千葉刑務所が囚人の病気を放置しており、いつも泉水さんがフォローしていたので、自分が居なくなったら、どうなるのか……と思い詰めていました。病気が重篤になったのは医療措置をきちんととらないためだと憤り、一人で決起しました。自分が問題を起こして外の社会に非人間的な現情を訴えることで病人を救おうとしたのです。同囚だった民族派の野村秋介さんが出所間近で、泉水さんと打ち合わせて、出所後このニュースを社会に知らしめました。泉水さんは旭川刑務所に移監されますが、病囚は、八王子医療刑に移され治療を受けることができました。
このニュースを私たちはアラブで知りました。国内の友人たちからも釈放を! との声がありました。その結果、77年ダッカ闘争で指名、泉水さんは「人質を助ける為なら自分はどうなってもかまわない」と奪還に応じたのです。左翼には何の共感もあった訳ではありません。泉水さんは率直な人で、「殺しや、タタキが革命の名で許されるなんて、革命なんて便利なもんだな」と、むしろ批判的でした。出合い、率直に語り合いました。弱く貧しい立場に置かれた人たちが誰も差別されずに公正に生きられる社会をどう実現していくのか、パレスチナ難民キャンプや戦場で語り合いながら、人間らしく、義理や人情のある差別のない社会、こんな革命なら一緒にやってみたいと一歩ずつ進みました。
泉水さんの演歌や民謡は、パレスチナの友人たちとの5・30パーティーや戦場での娯楽の集いなどで披露してはやんやの拍手。ある国の革命家は泉水さんと「義兄弟」の間柄でしたが、それは相手が泉水さんの義理堅い、行動から大いに気が合って申し出たためだそうです。言葉の壁を越えて友人になることのできる人です。
泉水さんはまた、刑務所で印刷技術を習得していたし達筆だったので、編集機関で活動し、当時80年代初期まで国内に向けた「人民通信」を発行し、表題も泉水さんが担当しました。
その後、丸岡さんとアジアでの活動中逮捕され送還されました。検察は「人質釈放」の77年には「超法規的措置」として泉水さんに協力を求めながら今度は「一般刑事犯のくせに」と、意地の悪いフレームアップをマスコミに流しては、不当な拘束弾圧をつくりあげました。
泉水さんは唯、旅券法違反の普通は執行猶予の付く刑ながら、検察は昔の無期懲役刑を復活させて「一生獄から出さない」という報復的重刑処遇を科しました。こうした国家的な旧日本赤軍に対する政治的報復は、丸岡さん他、日本赤軍メンバーでない友人にも及びました。何としてもこうした弾圧を正そうと、弁護士、友人たちが泉水さんと共に公判闘争を闘い続けて下さったこと、哀悼と共に感謝を捧げます。
また、泉水さんがアラブでくり返し慈しみを語った小さかった姪御さんと獄中ではあれ、交流が復活したこともとても嬉しいことでした。
共に考えたり、悩んだり語り合った泉水さんの70年代、80年代の姿が浮かびます。「人の役に立てることはほんとうに嬉しい」と優しい笑顔で話していた泉水さん。フィリッピンでも日本でも窮地を助けられないままに永別を迎え心苦しいです。
いつも困難に立ち向かってくれてありがとう。共に闘ってくれてありがとう。感謝と共に謝罪が浮かびます。「赤軍罪」の重刑攻撃を死ぬまで背負わせてしまいました。頭の上がらない大好きな「おふくろ」と、彼岸で最愛の夫人と共に波乱の境涯を語り合っているでしょうか。ふうさんにも会えたでしょうか。どうか重荷をおろして、安らかにおすごし下さい。御冥福を祈ります。3月10日が誕生日の泉水さんに彼岸での再会を期して、おわかれを告げます。
 “またしても友の訃報の届きこし 快晴の天裂く光よ”

4月6日 東京はコロナウイルス感染者日々更新が「最高」。今日の新聞では5日は143人だったとのこと。昭島は1人。そのせいか、今日告知放送で「今日からマスクを1枚配布します。1週間に1枚。食事、就寝、点呼以外は装着のこと。マスクの洗濯は洗濯時間(18時)に水洗いしたい人は許可する」とのこと。自費で、医師の許可でマスクをつけている私は、先週「もう在庫は購入不可。洗って使用するのは許可します」と言われました。自費購入のマスクを持っている人は、それが全部なくなってから週に1枚もらえると今日言われました。大阪拘置所でのコロナ感染も出て、全国的に対策強化しているのでしょう。

4月7日 今日は全員マスクでベランダ運動です。今日の新聞では昭島の感染者2です。午後聴力検査がありました。点呼後、告知放送で緊急事態宣言が発せられた場合、大型連休まで受刑処遇の変更を行うとのことです。宣言が解除されるまで変更は続くとのこと。懲役労働の働き方の変更などが告げられていました。また患者にも関わることとして、面会が原則不可になるとのことです。
和尚のそれを危惧した判断で、すでに4月3日早めに法要を済ませていて良かったです。運動、入浴はこれまで通りに行われること。購入物品は入手不可になったり、入手期間が遅くなったりすることがあるとのことです。

4月9日 新聞では次々と様々な職種が閉店や中止して、町は人通りが少ない様子です。みんなどうしているのでしょう。私のところでは朝から9時就寝まで、食事、点呼以外はマスクをずっと装着義務となって息苦しい。ベッドで安静の時くらい外してもよさそうなものですが、それもダメと注意されます。効果を考えれば、あまり安静中マスクをしなくてもいいと思うのですが……。面会も禁止ですが、運動と入浴は治療もこれまで通りです。
コロナニュースで新聞の国際面には他のことがほとんど載りません。レバノンのデフォルト、イスラエルの組閣など新聞からは知ることができません。丁度点呼後に資料が届き、パレスチナ占領下のコロナ感染に対して、いかにイスラエルが人種差別的な処遇を行なっているか、が記されています。4人のパレスチナ拘留者がコロナ陽性反応を示したが、5000人もいる拘留者への釈放などの措置はとられていません。ガザでは人口の80%が何らかの形で外国からの援助に依存せざるを得ないイスラエルの封鎖包囲下にあり、水の97%は飲料水となりえず、子どもたちの10%は栄養失調。NGOによれば1000人当たりの病院のベッド数は1.8~1.58、医師は1.65~1.42人、看護師は2.09~1.98人だそうです。その上イスラエルの輸入禁止措置で、X線スキャナーや医療用X線スコープなどの機器の購入が制限されていて、パンデミックとなれば停電や機器の不足で大変なことになりそうです。
また、フォックスニュースによると、米海軍横須賀基地停泊中の空母「ロナルド・レーガン」の乗務員2人がコロナに感染。他の空母ルーズベルトもすでに明らかに。米国は戦争準備より、中国と協力してコロナ対策で貢献すべき時でしょう。

4月14日 今日は歌誌「月光63号」を読みました。まだ読み続けている途中です。(中略)歌人たちの歌のことばの使い方、語彙の豊富さに、いつも圧倒されつつ歌誌「月光」を読み学習している私です。そんな私ですが、私の歌も載せて頂き、初めて自分の歌を批評して頂きました。「月光歌涎」として前号作品評で、2人の歌人が評して下さっています。一人はWさんで、“秋匂う九月になったそれだけで雲の象が変わりはじめる”と“立ち漕ぎの自転車、風の肩車われら振り切り兄は逝きまし”をあげて、一首はイベント(クリスマスやハロウィン)で季節を感じさせ、消費を促そうとする世の中で、制限された生活故に敏感に感じている点、二首目は幼い時の兄と大人になって以降の兄を重ね、郷愁に心を強く打つ歌と評して頂きました。二首目は添削もあって「風孕み」が「風の肩車」となって私も好きな歌です。もう一人は、Kさんの深い批評です。“曼殊沙華逆縁の子に会いたくて会いたくていく燃える畦道”を「前号で一番好きな歌」と選んで批評しておられます。
評されるということは己の潜在的な悟性から理性の回路ではなく魂のひだを対自化させるような新しい自覚をつくりだすようです。自分のことばの表現の凡庸性では届かない意味付与を与えてくれて、その深さの中で、歌を再び対象化させてくれます。批評されることは初めてだったので驚きでもあります。批判、論評、添削によって歌は、よりその本質を光らせるものなのでしょう。私自身は、十代から詩を書いてきて、二十代のころは、日記のようにもてあます情念を詩に吐きだしていました。でも10・8羽田闘争後から詩を書くことを意志的にやめました。2000年の逮捕を経て、心に疼く想いを言葉にしたくて、でも詩を書くにはエネルギーがいるので、公判にエネルギーを注ぐので、それはできないと思いました。でも短歌なら想いを一息に吐き出すのでやってみようと思いたちました。でもことばの使い方も、文法も、土台のないまま雫れるままに詠み現在に至っています。「月光」でみて下さるのを知ってから雫れた歌をそのままにせず読み直したり自分で添削したり、少し気取って。そして「月光」の歌人からの添削・批評を受けてより歌を磨いてみたいと欲が出てきた74才の初心者の私。歌を批評される楽しさを知りました。でも今号の「十二月の歌」は、こうして歌人たちの歌誌の中に置いて対象化してみると、ことばの使い方の弛緩や無駄がめだちます。深みや技量は欠如していますが、それはそれとして日記のように心を自分の回路で晒しながらもっと他者に感応できる歌を素直に作っていきたいと思います。
(中略)

4月28日 4・28闘争は昔のことで、そんなことを思い出すのは、私みたいな暇な人か……。パレスチナの資料を読むと、イスラエル政府のパレスチナ人に対するコロナ対策はひどいです。約5000人いるパレスチナ政治犯に対し、看守や調査官の感染が確認されているにのに対策無く、囚人の家族面会禁止。7万人の西岸地区からの毎日の労働に移動するパレスチナ人に、境界封鎖、イスラエルに残るか、西岸で過ごすかと。パレスチナ人を分離隔離するのが、イスラエル政府のコロナ対策。NGOなどは、刑務所内のコロナ検査を、国際的に中立な医療団体に求めています。日本で友人たちは大丈夫なのでしょうか。まだ近い人々が、コロナに感染したという話は届いていません。でも、糖尿病や透析、癌既往症の友人など、感染しませんようにと祈ります。

4月30日 世界中でコロナが暴いた弱い人びとへの各政府の政策が、はっきりと見えています。日本の立ち遅れが明白です。文明国らしくない。医療現場、労働現場で働く人、職を奪われる人らや、学生、外国人労働者、切り捨てではなく、これまで以上に給料を良くし、消費税も水道、電気なども学費、奨学金やローンも大胆な「徳政」こそ必要では?早く!緊急事態宣言と共に発すべきだったでしょう。5月を明るい5月とするために。


【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊
予約受付中(チラシ参照)

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。



【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は1月22日(金)に更新予定です。