重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。

今回は「オリーブの樹」151号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より 2020年5月2日~2020年8月1日>
5月2日 昨日4月土曜会の報告を受け取りました。4月の土曜会は「現在の高校生の闘いとは」と題して、小林哲夫さんが話されています。小林さんは1960年生まれで、2012年「高校紛争1569-1970「闘争」の歴史と証言」を著している教育ジャーナリストです。
2012年に高校生の本を出すために当時の人々と会ったり、出版後は3・11以降反原発運動に高校生が関わっていることもあって、2010年代の高校生や大学生、10代の社会運動状況をフォロー・分析しておられます。新聞記事のコピーを示しつつ、シールズの前身のサスプル、シールズ、高校生のティーンズソウルの関西・東京の傾向とその要因、政治活動の禁止から45~46年たって、18歳選挙権引下げとリンクした政治活動を認めることになる動き。学校当局は高校生が街頭に出て集会に出る分はいいが、校内で政治活動はダメということになったそうです。昔と決定的に違うのはSNSが普及していて、校内ではダメとか外ではいいなど現実的でない、と述べています。
2015年に安保法制に反対した高校生から、今の高校生はまた違った傾向で、まずは「気候」が問題とし、安倍打倒とか言わない。グレタさん世代で結び合っていて、とくに都立国内高校では帰国生や外国人授業の特性もあり、情報も入りインターナショナルスクールなど活発なようです。浜松で開誠館の気候デモには校長ら含めて400人位のデモの資料もあります。また、高校生が論理的に入学試験制度にノーを突き付けていること。以上のような2010年代の高校生の運動を紹介しています。
私が社会から隔離されている条件もあり、また新聞を読んでも高校生の活動を系統的にフォローしていないせいもあって、こうして小林さんが資料説明されると、いくつかは、あ!読んだことがあると気付きます。自分を振り返った時、高校時代ほど何か関わりたい、表現したい、でも何をしたらいいのか分からない、けれど好奇心と知識欲と社会に踏み出したいという思いに駆られていたことはありません。文芸部で武者小路訪ね討論したり、自殺を「自由」と主張する他校とシンポ・論争したり、「小さな親切運動」に参加したり、弁論や「青年の主張」etc。高校の社会科の鈴木亮先生はそんな私たちを「現代高校生気質」などと本を出していましたが、皆何かしたいとうずうずしていました。でも社会活動の方は近い感がありましたが、政治活動はきっかけがありませんでした。きっかけがあれば加わったでしょう。そんな自分だったから、資料や小林さんの報告を読むと心情・情熱は時代に関係なく高校生は共通している感じがします。
今の方が世界が身近にあり、自分の主張を表現する手段もSNS含め多様に可能です。私が大学で初めて得た社会政治活動の実感「自分が世界と社会政治的に結びついているという発見」は、今の高校生はやすやすと感じられるのだろうと思います。高校生こそ新しい力、とくにこのコロナ禍を経た新しい世界への問題提起主体たりうるのは、グレタさん含めて必然だと思いました。年寄り、大人のわけ知りの国の指導者たちが、こういう高校生から学んでくれるといいのですが……と思いつつ読みました。語り合ってみたい若者たちです。
(中略)

5月29日 今日はみごとな快晴です。思わずこんな歌が溢れます。あの日の朝を思いつつ
“快晴の君の命日あの日は雨棺を待ちて濡れた寒さよ”
“棺待ち刑務官らと対峙した寒き雨降る君の旅立ち”
今日はこんなに晴れて暑い位なのに、あの年3・11の年の5月29日は雨と風と寒さに、友人たちが丸岡さんの棺を待って震えたと聞きました。寒さばかりではなく悲しみからだったのでしょう。もう9年も経つのか……と。ふりかえる年月はとても近くにあり、いつも丸さんを日常の中にふと思い出します。
“戦友の命日に捧ぐひまわりとほたるぶくろとインターナショナル”
合掌。
 午後に監獄人権センターのニューズレター№102を受け取りました。センターによる「刑事施設等における新型コロナ感染症の感染拡大を防止し被収容者等及び職員の安全確保を求める声明」が最初に掲示されています。第一に拘留取り消しや仮釈放制度を柔軟に活用した被収容者等の釈放をもとめ、第二に面会禁止などの制限に対し、電話等の代替手段による外部交通の確保を求め、第三に感染者に対する適切な医療提供、公表などを求めています。まったく同感です。すでに感染している東拘、大阪拘、渋谷警察署などの事例や防止対策なども詳しく解説しています。他には「強制労働の廃止、賃金制の採用に向かう世界の刑務労働の流れ」(海渡雄一)を紹介し、国連データ(刑務労働支払いは刑務官の最低等級に支払われる平均賃金の何%か?が表示されています。韓国、ペルー、シリア、ウクライナなど91~100%。日本からは解答せず)。日本は強制労働であり、いかに搾取し、受刑者への支払いが「報奨金」の名で労働対価が支払われていないかは、世界水準から著しいことです。
 
5月30日 朝から青空の快晴です。今頃の乾季のベイルートの青空のよう。乾季は雲もなく高い空、星も見事です。夏のひまわり、ホタルブクロが病床にみごとに咲いて、戦友たちを思い出す静かな週末を過ごしています。
“地中海星降る岬の花畑五月の詩を友らに捧げん”

6月1日 今日突然に2人の方から佐藤秋雄さんの5月27日の逝去を知らされて呆然としています。先日Uさんからの手紙で、秋雄さんが5月7日から相模原の国立病院に入院し、化学療法を受けると聞いたばかりでした。秋雄さんと電話で話したUさんによると「はっきりした元気そうな声でしたが、10年前の大腸癌に始まり肝臓、左右の肺、前立腺と次々とガンの手術をして『もう切るところがない。どうやって生きているのか不思議だ』と医師にも言われたそうです。『おれは死なないよ』と笑っていましたが、じつは大腸癌が再発して、もう手術できないそうです」とのことでした。そして一緒に活動していた私のことも懐かしそうに話し、「あと2年。俺は死なないから迎えに行ける」と断言していたそうです。佐藤秋雄先輩生きて出会いたかった……。「ブントの労働戦線」といったら佐藤さんが東京の代表で、反戦青年委員会の世話人としてよく知られていました。明大の学生会館にいつも訪れては昼間部夜間部の仲間と明るく屈託ない大声で闘いの意義を語り、ブントを愛し、情熱一杯だった佐藤秋雄さん。「俺は福島の呑百姓だ!」「労働者の魂をブントはもっと知るべきだ!」「反戦青年委員会の世話人何てパクられ要員だよ」豪快に笑いながら、あの68年69年何度でも逮捕されながら意気軒昂だった先輩を忘れることができません。遺作となった「ブント─その経験の一断面」で知ったのですが、福島から19才で上京し、住み込みで旋盤工見習いとして働き、「一旗揚げる起業の夢」は1962年に専修大学二部の自治会活動でつぶれ、夜学生の切実な願い「二部差別反対」や『通勤通学への学生割引』など求め、明大の伊波尚義先輩たちと共に「夜学連再建」をめざし、日韓会談反対などを闘っていたと知り、新入生の私がその片隅で一緒にデモに参加していたのを知りました。そして佐藤先輩は労働者仲間が明大二部にいると引き合わせてくれて、このS君は、初期現思研メンバーの一人として一緒に私はブントの加盟書を書いたのは67年春のことです。その頃の専修大の佐藤さん、Nさん、Iさんら私たちは社学同仲間で中大のKさんやMさんらといつも一緒に行動していたのを思い返しています。佐藤さんの本では「1980年アイヌと出会って大きくその思想(行動様式)を変えた」と述べています。ブント流の理論ではなく、生きた人民、抑圧された人民、とくに琉球・沖縄や人民の歴史に依拠する闘い方にめざめ、現在まで闘い続けていることを遺作で伝えています。「足のウラ」で学び活動する一貫した姿勢で闘い続けた佐藤先輩。「7・6事件」で後に赤軍派となる塩見さんらからさらぎ議長共々リンチされながら、その怒りを闘いの力として赤軍派の誤りをしっかりと遺作にも記していて、マル戦での暴力含めて赤軍派の塩見さんらのことを、遅ればせに知りました。赤軍派の一員として謝罪しましたが、私をブント仲間としていつも暖かく励まして下さり、「オリーブの樹」にも寄稿して下さった佐藤先輩。再会の挨拶も果たせず永別を迎えたことが無念でなりません。明るい楽天的な革命精神、情熱の革命家佐藤秋雄先輩に最愛の敬礼を送り追悼とします。合掌。
(中略)

6月9日 (中略)
 今日、当施設では「マスクの着用の変更」放送がありました。居室内での点呼から就寝までのマスク着用が不要になり大喜びです。このまま室内着用義務続いたら息苦しさで熱中症になりそうでしたもの。

6月10日 今日は午前中に処遇課の調べがありました。健康状態、作業労働の意志、出所までの反省や過し方、出所後の生活の見通し、どう考えているか等、12月にも調べられた点です。でも今回は前回の人ではなく、処遇統括の人か、穏やかに話のできる人で、こちらも話ができました。
午後告知の担当がきて「法70条2号により支援連ニュースは交付不許可になりました」とのこと。残念。どんな内容が不可だったのでしょう……。

6月12日 面会禁止が解除され、初めての面会法要です。でも刑務官から始めに「読経・法話以外の話は認めません!」と宣されて驚きました。これまでだって法話、短歌の話や姉のこと、身体のことなど穏やかな話なのですが……。和尚は気付かって下さって、いつもの半分位の時間で面会を終えられました。久しぶりに会え、語れなくても読経の中で気持を整理できることはありがたいことでした。
 “法要の読経以外は許されず健康気遣う対話もならず”。
コロナを主軸に面会不可でしたから、久しぶりの面会は嬉しいものでした。

6月17日 6月の土曜会報告を受け取りました。前回と同様、3密対策をとりながらの開催で20人以上の参加です。今回のゲストスピーカーは、慶大4年の田中駿介さん。彼は「情況に『未完の1968年-公共への異議申し立て」から「回復」の時代へ』を寄稿されている若手論客とか。朝日「論座」寄稿の「新型コロナで露呈する学生の『格差』問題」の内容をベースに話をされ、若者参加、活気の土曜会報告です。学生の大多数は、親のすねかじりではなく、経済的弱者。平時には見過されていた「経済的格差」は、「教育格差」としても顕在化している。「自粛要請と学びの環境整備」はセットであり、大学には、学費減免措置や、生活費給付の拡充を訴えたいなど厳しい現実をレポート。「自粛要請するなら金よこせ渋谷デモ」のメンバーで、5月1日に都内学生実行委のよびかけで、ハチ公前から安倍宅・麻生宅を練り歩いたとのこと。5月24日も土曜会も加わって「補償しろ」デモへ行ってきたそうです。若い人たちは、たちあがらざるを得ない姿こそ、「新しい生活様式-闘いとる生活」です。「ノーニュークス」の24号も届きました。表紙・グラビアは、和尚たち祈祷団です。バッチリとグラビアに写っています。

6月18日 「オリーフの樹」150号が届きました!友人たちの寄稿、どれもありがたく嬉しいものです。本当にありがとう!と表紙をみてア然、編集ミス!「72年ダッカ闘争の頃の特集」とリッダ闘争をダッカとし、本文の15Pの大きな表題も「ダッカ闘争」どうしたのでしょう。寄稿して下さった方々、読者のみなさんに申し訳ありません。
でも150号への寄稿には感謝感激しています。パンタさんのファーストアルバムもセカンドアルバムも事件と重なって発売禁止とは……(絶句)申し訳ない時代の共有の友です。でも「ライラのバラード」をアカペラで歌ってくれたこと思い返しつつ、密室、密着、密会、密談、密叫の再会時を楽しみにして、その年には、リッダ闘争50周年でもあり、発売禁止50周年で、ファースト、セカンドアルバム含めて再発売を!と願うばかりです。よほどパンタさんとは縁があったのですね。車のパ―ツもベンガジの砂と化して……。あの時代の文化、歌、楽しく元気だった側面を思い楽しい気分です。早川さんの来歴は知りませんでしたが、私が発ったあとの京都の様子を少し知ることができます。大変な中、奮闘する友人たちの顔がうかびます。また、「Sクンの話」として記しておられること、私も似た経験が蘇り、時代を思い返しました。みんな早川さんのいうように「未熟というよりは、ただ若かっただけかもしれない」と胸に響きます。
足立さんの文「困難に喘いでいると紺碧の彼方から激励が」で、当時、リッダ闘争の弾圧を東京で一手に背負いながら、逆に前へと跳躍した足立さんらしい姿がよくわかります。どんな時でも困難や壁にぶちあたると左へ前へと跳ぶ足立さんを、それ以降も共にしつつ活動した日々が浮かびます。どんなに大変だったかと改めて感謝しつつ読んでいます。
山中さんは、あの時代と、庄司先生のこと記して下さって、ありがたいことです。庄司先生は、救援連絡センターで水を得た魚の如く闘う者を励まして、国際主義をわきまえておられる方だったので、何度も救われました。73年、山口淑子さんのインタビューを受けたあと、庄司先生と足立さんとベンガジの日航機爆破の対策を練って私と別れたあと、再び翌日会う予定の足立さんが日本政府の要請で拉致拘束送還されてしまいました。知らずに庄司先生が足立さんのホテルに寄ってから私たちと会うつもりが、ロビーに行くと、ホテルのマネージャーやスタッフが、足立さんの拘束を伝え、急いで隠した足立さんの荷物を庄司先生に渡してくれたとのこと。驚く庄司先生にホテルのマネージャーが、ここはリッダ作戦に殉教した日本人が泊ったホテルだと言って、それを誇りにして足立さんや庄司先生を助けるのは、あたりまえだと礼を言われたと感動して話してくれたこと「本当に国際主義の街だねえ、ベイルートは」と庄司先生の涙もろい顔がうかびます。また、ある日は、たそがれの東欧の石畳を歩きながら、パンタさんのように、「私は一度ラテン米に行ってみたいと思っているんだが、ねえ、どうだろう、次はあっちでやってみたら」などと冗談まじりに。楽しい先生を思い返しつつ合掌してます。私も、5月特集に当時をふり返りつつ記しました。
竜子さんの絵、御多忙のところ感謝しています。

6月24日 「三壽急逝」の訃報に心から惜別の挨拶をおくります。落語家柳家三壽として知られていたのでしょうが、私は落語を聴く機会もなく永別してしまいました。ハンサムでGパンの似合う素敵な若者「たけし」しか私の中では思い出せません。67年68年の明大学生運動は「二・二協定」の敗北から盛りかえし、社学同全盛の時代です。たけしの他に数えきれない明るい闘う仲間たちが居ました。たけしは学園祭では司会をして、最後の夜は学館と商学部の間の広場を埋めつくして、満員のディスコ大会。みんなを楽しませるスピーチはいつもたけし。最後にたけしが高らかに「ああインターナショナル我らがもの」と歌い、それに続いて皆で「起て飢えたるものよ」と歌い始めた光景が浮かびます。シャイで少し孤独でそして表裏のないまっすぐな人。アルバイトはサンドイッチマン。口上があとからあとから出てくるし「コメディアンやったら!」などとひやかしたものです。落語家になったのですね。でも、ごますりや人を蹴落とすことのできないたけしです。東拘に面会に来てくれた時は、昔のたけしではなく、着物の三壽師匠でした。その言葉使いの丁寧さにこれまでの彼の苦労を感じたのは私の思い違いでしょうか。
“インターを高らかに歌う落語家が居るとアラブに聴こえし消息”
“鬼百合の花びら一斉に散り始む三壽急逝の訃報を知る夜”
直に聴けなかった落語は彼岸で聴かせて下さい。それまでさようなら。
 
6月25日 「『壁の中のジャンヌ・ダルク』Paix2プリズン・コンサート500回への軌跡」(鹿砦社刊)受け取りました。「こういう人たちがいる限り日本にもまだ未来はある!」と本の帯にあるように、ペペのお二人が20年かけて日本の北から南まで全矯正施設(刑務所や少年院)を訪れ、獄内で行ったコンサートの記録です。捲るとその大偉業が写真や巻末の一覧で、何時何処に行ったのか分かり、刑務所の内側を知る私は本当にすごいことだと、この500回の記念に出された本を読んでいます。私も2013年に八王子医療刑務所でペペコンサートを経験しています。刑務所言葉を使って(「願箋を出して」とか「報奨金で」)と笑わせつつ、歌はプロだし歌詞は泣かせるし、みな食い入るようにどの慰問演芸よりも盛り上がっていました。本当にPaix2(ペペ)はもっと報われていいし、もっと知られ、TVでも通常番組で語ってほしい。とっても良い本、出版されたばかりです。本送って下さってありがたいことです。
 今日は雨。伊波先輩の命日です。明大の60年代を思い返しつつ伊波さんやたけしや……思い返しています。

6月26日 新聞で高橋武智さんの訃報を知りました。わだつみ会の理事長6月22日死去、85歳とあります。20代の私と30代の武智さん。お互いに未熟で、支え合っているつもりが主観的願望・希望的観測の花を咲かせて失敗。強く反省し、考え方を改める日々でした。以来別々に進みましたが、教訓は胸に刺さったままです。ご冥福を祈り、再び反省を思い返しています。

7月6日 7・6の日。被害に遭い、批判し続けてくださった佐藤秋雄さんを偲びつつ、この反省の日を迎えています。熊本は大変な様相です。関西の農園や農場は被害ない? 心配しても力にならない私。
(中略) 

7月8日 東京新聞の7月3日「大波小波」で「重信房子の短歌」とコラムが載っているもの送って頂きました。月光62号の「暁の星」からの論評です。過ぎたコメントにありがたく、また気恥ずかしいですが、褒められると嬉しくなります。「日本の和歌は古代より政治的イデオロギーの如何を問わず、政治的挫折者の情念を語り続けてきた。重信の歌は大津皇子や後鳥羽上皇に始まる歌の系譜にある」と記されています。大仰な位置づけで論評されて、凡作の私は身を竦めてしまいますが、自分の歴史的位置から読みつづけようと励まされて読んでいます。

7月14日 ずっと日本列島は大雨続き。昭島も梅雨らしい雨続きです。今日は親類の嬉しい面会も叶って、いろいろ話もできほっとしました。ここで購入できない補聴器の部品も差し入れてもらえました。午後には分類課の面接がありました。前の処遇課の方との話でも感じていたことですが、今後移監せず当施設で懲役労務(と言っても軽労務でしょうが)が開始されるようです。私のように日常生活に支障のない患者を対象にして行われるのだろうと思います。去年私の移監を主張していた処遇首席の「具申」を受けてそうなったのかもしれません。他に移監になると腸閉塞など不安があり、去年も「作業はしても移監は望まない」と私は希望していました。コロナもあり、ここに居られるなら病気に対応して下さる主治医もおられ、安心です。作業(労務)が入るとユニホームからして変わるのか(今は作務衣パジャマ)わかりませんが、とにかく移監見送りでホッとしています。私の「矯正指導」上、新しく作られた方式のようです。
分類課面接の後、久しぶりに4カ月ぶりのコーラスが再開されました。広い講堂に4人。初めてフェイスシールドを装着して、5mずつ大きく距離をとって、10m程離れた再会を喜ぶ先生の挨拶のあと、七夕の歌。ピアノ演奏の方が新しくなって紹介と共にシューマンのクララ婦人への曲を流れるように演奏して下さいました。新しい歌「いのち」生きてゆくことの意味問いかけるたびに♪~という初めて知る歌を習い、最後には「花は咲く」です。フェイスシールドをして、補聴器だと自分の声が大きくて、伴奏も聴こえないし、取るとずいぶん離れた先生の声が聴こえず……。まだコロナ新システムには戸惑うばかりでした。
今日はコーラスで初めて3密対策を経験し、巷を想い実感しました。おちつかない空気のような……。今日コーラスで講堂に入る時、日陰ですが6本の紫陽花が貧弱ながら花をそれぞれつけていて、何だかうれしい花見。青紫のアジサイとピンク系が2本です。
“紫陽花の雨に叩かれ砂利道に倒れし花見ゆ囚徒の行進”
“初めてのフェイスシールドコーラスの再開されて七夕歌う”
(中略)

7月22日 午後診察。「8月27日に胃カメラの検査をしましょう」とのことで、検査承諾書に署名指印。雨のための室内体操は2時半から3時です。終えると14日に面接された分類課の方が病室にみえました。そして「前にお話ししたように、新しい目標を持って作業を行う様告知にまいりました。」と目標の記された紙には以下のように記されています。「目標1、心身の健康増進のため積極的に治療に取り組む。目標2、自己の罪に対する反省の気持ちを忘れずに規律正しい所内生活を送らせるとともに、できる作業には意欲的に取り組む。目標3、事件に至った自己の問題性を考えさせ、被害者への感謝の気持ちを高める」以上3点です。2の所内生活を送らせ(送り)、3の問題性を考えさせ(考え、または自覚し)の文がちょっと私の目標ながら、指導の側の目標のままですが、確認し署名指印しました。連休明けから部屋引越し、懲役作業開始でしょう。出所に向かって新しい実践を社会訓練として参加していきます。「療養中」という身分は、これまでと変化はないとのことです。作業をする患者にはテレビの視聴も可能なようで、病気の治療もしつつ作業、どんな感じか興味がわきます。
(中略)

7月27日 朝起床点呼直後、処遇統括より「今日付で新しい工場で作業してもらいます」と通告されました。その後ピンク色の作業着に着替え。朝食後引越しがあり、北側、テレビのある房に。大慌てで引越しに、書類・衣類すべてベッドに乗せてベッドごと引越し。そのまま9~3時の作業のため規律正しく行うようにとのことで、出房して作業工場へ。と言っても、同階別の棟の独房二つより少し小さめな部屋に数名。まず作業にあたって、その心構えを安全第一にと訓示。作業は民間からの請負仕事で、失敗しないようにと。その後、安全十訓確認を唱和。そして作業説明。作業は民芸品製作です。とっても小さいだるま、ピンポン玉くらいの「起き上がり小法師」です。まず丁寧に紙型を整え、糊をぬりながら少しずつ丸くなるように。乾いたら磨き、ボンドでおもりをつけ、紙粘土で型を整える。その後4回白い色を塗っては乾かすを繰り返して半製品にするところまでが私たちの仕事です。午前中に20分休憩し、運動30分で昼食。昼食と休憩に30分で再び作業。午後も20分休憩があります。休憩ばかりの患者の懲役です。まだ指導刑務官のようには目利きも(これでOKか否かとか)できず、今日は丸く整えたり、ボンドを塗ったところ。少しずつ慣れるでしょう。昔は袋貼りなどですが、こちらの方が作る楽しみがあり、好奇心で今のところは順調です。腰痛耐え難く、コルセットを許可してもらいました。私たちは、「身体フォロー作業者」という身分で「身体フォロー工場」という部屋名札がついています。療養者ながら体調をフォローされつつ作業する者という意味の位置づけのようです。3時すぎに戻って、引っ越し荷物の前に入浴。汗かきつつ荷物整理。作業は3時までなので、いろいろ提出すべきものの作業など。5時以降は自分のこれまでの作業も可です。相撲中継は特別TV見れるとのこと。普段は7:00~8:55までとか。ニュースは見てみたいです。

7月28日 今日は「身体フォロー工場」出役2日目。まだ慣れず、あわただしい。朝7時半起床、洗顔点呼後、出役準備の作業服に着替え、朝の「願い事」要請書類や、工場へ持っていく物品の準備、そして朝食。朝食後は、検温、薬服用、トイレ、食器洗い(箸やコップ)、ペンやノートなどは持ち出せないので、整頓しロッカーへ。9時前、出役準備の号令から身体捜検など工場まで何度も。工場について作業前に、安全十訓を唱和「いつも明るく朗らかに」から「わからないことは指示を待て」まであるもの。その後作業。立ったり座ったり話をすることなど、すべて挙手して許可を求めます。一般刑務所のやり方だそうです。作業中の起き上がり小法師の素材は、卵パック入れのような(プラスチックになる前の新聞、雑誌を溶かして型を固めた)紙製です。それに糊をつけて柔らかくして形をととのえて、だるまの形を調整し乾かします。少しずつ教わりながらやっていると、何だか小学校の図工の時間を思い出します。

7月29日 今日もまだ慣れない作業を楽しんでいます。球状に紙粘土を使って仕上げた起き上がり小法師を食器洗いのスポンジの乾いたものと濡れたものを使って、球状をできる限りなめらかにします。ここでデコボコが少しでもあると、ペンキを塗った製品が不合格になります。
 今日は作業の合間に「矯正指導非記録カード」のファイルを渡されました。分類化で示された目標3点に加えて、「自己改善を図り、成長するための目標」3点を書き込むよう指示。更に「生活上の目標3点」も書くこと。そして2週に一度位(月2回)の矯正指導日に、反省点、達成点を記し、提出する。更に矯正指導日に指示される教育VTRや放送「過ちは再び繰り返さない」などの番組に感想文を記入し、それらをカード(A4)に記して提出するように、とのことです。「目標」が多すぎて、まだファイルに何を記すのか考えきれません。ボチボチ考えようと思っています。ファイルは自己管理で、指導日提出とのことで、今日渡されました。その他月間目標などもあります。これが「受刑処遇者」刑務所一般と同じ矯正指導システムのようです。

7月30日 今日は主治医が「身体フォロー工場」をちょっと視察に来ました。といっても狭い部屋ですが。そして「作業の後、診察します」とおっしゃって、午後3時半に診察へ。「新しい労役は何日から始まり、体調など問題はないのか? 部屋も変わったのか?」など聴かれました。実は出役初日、北側への引越しもあったせいか、2日間不眠で薬を夜中にもらい、その報告を受けて、主治医が心配して下さって、診察となったようです。体調は昼間の作業にも影響はなかったことなど、伝えました。今日の作業もまあまあです。

8月1日 今日やっと東京も梅雨明けです。細い隙間の空は、白い雲と青い空。ホッとしています。でも灼熱が続くのでしょうか。矯正指導3目標の他の目標を定めました。「自己改善を図り、成長するための目標の①は、出所後活かせるように、中東問題分析・研究の知見を深める ②短歌の同人に迎えられるよう文法・語彙・表現・技術を学ぶ ③社会復帰に有益な学習を重ねる、です。生活上の目標は、①規律に慣れる ②作業を学び慣れる ③体調の自己管理 としました。懲役軽作業、これが私の新しい生活様式です! 


【お知らせ その1】

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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月19日(金)に更新予定です。