回のブログは、元青山学院大学全共闘の黒瀬丈人氏からの寄稿である。
生い立ちから高校時代、大学時代、そして現在に至るまで、それぞれの時代の流れの中でどう社会と向き合って生きてきたのか、ということが書かれている。
全体で9万5千字に及ぶ労作なので、今回から何回かに分けて掲載していきたい。
第1回目は生い立ちから高校時代前半までである。


【青学全共闘への軌跡】

ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く痛いほどに閃光として刻まれている

黒瀬丈人
元青山学院大学全学共闘会議・法学部闘争委員長/全共闘行動隊

<目次>
1 前書き  「青春の墓標」そして-香港の若き魂たちよ!―自由・自発・自主の尊厳
2 序章   第一節~第三節(1949年―1967年)
「団塊の世代」時代の情景からベトナム反戦闘争に至る過程とは? 
1960年安保闘争の記憶/樺さんの死~反戦高協/10.8羽田闘争
3 本章   第一節~第三節(1968年―1970年)
烽火の記憶~青山学院全学闘から全共闘と70年安保・ベトナム反戦闘争
4 終章   1971年以降 青学全共闘/中核派からアナキズムへ 早稲田―1972年虐殺糾弾・アンダーグラウンド演劇
5 あとがき  鎮魂、そして闘いは終わっていない

      
1 前書き~ 香港の若き魂たちに連帯するー自由・自発・自主の尊厳

"駒鳥は巣立ちしてまもなく林の中を水平に一直線に飛翔するという。
そして、多くの若い駒鳥が樹木に衝突して地に落ちる″
(『青春の墓標』昭和40年10月30日初版発行・あとがきより。奥紳平氏:故奥浩平の兄)

「ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く刻まれている。」(筆者)

◆2020年6月、中国共産党・習近平による国安法(国家安全維持法)導入前後、雨傘運動の1年前からも、香港の若い魂・肉体が、独裁者とその無数の手下による暴虐非道の拘束・弾圧・拷問・レイプ・殺人を恐れず、いまこのときが自由へと飛翔する瞬間と信じ、闘っていた。中学生、高校生、大学生たちはその先頭で。その肉体は無惨に殺されても、その勇敢な魂は、自由を愛する世界のひとびとの魂に深く刻まれ、独裁帝国の哀れな終焉をこの21世紀に見ることになるだろう。敵は、結局、殺すことしかできない。殺せば殺すほど、自らの大きな墓穴を掘っていることに気づかない。それは、歴史が証明している。
◆人間の根源的自由、豊かに生きる権利、人として尊厳をもつ権利は、今まで無数の血の代償として勝ち取られ、今もなお、数えきれない犠牲の上に、燃え続けている。虐殺者と弾圧者は、今も世界を覆っている。それらとの闘いは、今も続いている。
そして、2020年《令和2年》から約50年前、あの時代、60年安保闘争以後、主に1965年から1970年《昭和40年~45年》に至るほんの6年、という時間・空間で飛翔しようとした自分と、思いを同じくする党派・無党派を問わない、無数無名の全共闘運動の魂たちがいた。おそらく私も死が遠くない今、その軌跡をささやかながらも記録として残すことが、同世代のみならず、若きひとびとに語り継ぐ、ささやかな意義をもつと思うが故に。偽りなく、誇張なく、体験し、実感したところを遺しておく。
◆精神と肉体がひとつの燃え盛る発光マグネシウムとなり、青黒いカブトとジュラルミン盾と催涙ガス・放水・警棒の嵐の深い闇のなかに、右翼のテロ、日本共産党の襲撃に遭遇しつつ、その全存在を投げうって突入していった・・そして、多くの仲間たちがもうこの世にいない。これは、1960年代中期から70年に至る鮮烈かつ極私的な記憶の断片集であり、50年の時空を一挙に飛び越える烽火の記憶、である。傷つき、亡くなった同志たち、今も闘いつづける多くの無名同志たちに捧げる。そして香港とウィグルの良心に連帯する。
《註:以下、人物名は現在存命中の方々もあり、匿名としますが、公人・有名人は除きます。ご理解・ご了承ください。また、基本的に敬称略としてあります》

2 序章 ―■1960年代~60年安保闘争の記憶・樺美智子さんの虐殺/三井三池の大正行動隊

第一節~生誕―小学校から中学校時代―反戦高協へー魂に刻まれたもの~

□生誕~幼少時代、戦争の生の体験談~父母親族などから聞いた戦争の記憶~
◆昭和20―30年代~時代の風景から
東京目黒(最寄り駅:東横線都立大学駅)に昭和24年4月、私は生誕した。戦後間もないころである。いわゆる「団塊の世代」(堺屋太一氏命名)の真只中の生まれだった。幼少のころ、まだ米穀通帳、塩たばこの専売、などがあり、生活物資は不足していた。東横線(現在の東急線)~渋谷駅から都立大学駅に行く途中、電車の窓からは、まだ戦災でやけ残ったビルの外壁が、ながらくあった。今は、ゴルフ練習場となっている。自宅の近くには、呑川が流れ、氷川神社と金蔵院寺(氷川神社と縁が深い)、徒歩10分には東京都立大学があった。ここにも池と林がまだあり、トンボ取り・虫取りなどでよく遊んだ。ちょっと歩くと、駒沢の原野と、東映フライヤーズ(プロ野球)の球場があった。
当時、まだ、豆腐屋、納豆売り、玄米パン売り、金魚屋、ラオ屋(煙管修理)、八百屋のリヤカー、夜泣きソバ、おでん屋、氷屋などが町で売り歩きをしていた。もちろん、コンビニなどない。スーパーもない。自動販売機もない。商店街があっただけで、夜は店も閉まり、静謐。遠く汽笛(機関車のボーッという音)さえ聞こえたほどである。
昭和30年代初期。夜は、満点星が見え、なんと庭には蛍もいた。こたつは炭の掘り炬燵、自宅台所の井戸から手押しポンプでくみ上げた水で母は台所で食事を作り、風呂はヒノキの木で作った丸い風呂桶、薪とコークス(石炭ガラ)で沸かした時代。
妹や従兄弟たち、級友たち、近所の友だちと、メンコや凧揚げ、かけっこ、缶けり、三角ベース野球、木登り、蝉取り、多摩川で泳ぎ、魚取り、駒沢で小川のザリガニ取り、粘土取り・・・自然のなかで、よく遊んだ。時々は、家族で銭湯に行き、日曜日には家族で映画を見に行った。父母と妹、叔父叔母と従兄弟たち10人の家族だった。(註:当時、都立大学には「富士館」、自由が丘には5つの映画館、祐天寺と学芸大学にも映画館があった。テレビがまだ普及していない時代である)そして、紙芝居屋が、子どもたちを引き連れて町を練り歩き、その紙芝居に駄菓子を買い食いしながら、みな夢中だった。買えない子は、遠くで顏を泣きそうにしながら、紙芝居を見ていた。駄菓子を買わないと、見られなかったからである。ときどき、チンドン屋が新装開店の練り歩きもしていた。そのあとをついて、友だちと歩いたものだ。面白かった。
戦後まだ、10年ほどの頃。のちに、55年体制(ヤルタポツダム体制)、といわれる国家支配体制が成立し、自由民主党と社会党の与野党体制となり、サンフランシスコ講和条約締結により、形だけは「GHQ占領体制」から脱出した時代だった。
◆耳に残るは、父と母のことば・・・
小学校から中学まで、父母を始め、親戚や様々なひとたちから、戦争と戦時下の実体験を多く聞いた。父は関東軍として満州に動員され、輜重(しちょう=輸送)隊に上等兵として従軍、昭和20年9月から、ソ連軍にシベリアで2年間抑留される体験を持っていた。ソ連軍が侵攻して来る際、部隊上官から手りゅう弾を携えて敵戦車に「特攻」する者は?と問われ、真っ先に志願した、と聞いた。南方戦線へ転戦する部隊もいたという。おそらくその部隊は、フィリピン、マリアナ諸島、ニューギニアやガダルカナル戦線で戦死しただろう、と。母は府立目黒高等女学校在学、卒業後、昭和20年東京へのB29 空襲を避難・富山へ疎開した体験があった。母から聞いたのは、艦載機(米海軍戦闘機)の機銃掃射の怖さで、殺されたひとも何人もいたそうだ。終戦時は、父25歳(昭和22年舞鶴港に復員・福島市に帰還)、母22歳のときである。
父から聞いた福島での話で、夫を戦争で亡くした、いわゆる「戦争未亡人」が再婚したところ、「戦死公報」を受けっとったその夫が復員して帰宅したという出来事があり、その後の始末は父から聞いていないが、そういう悲劇もたくさんあったと聞いた。公開のお見合いが野外で行われ、多くの独身男女(その中には、前述のような「未亡人」もいた)が大混雑のなかで、連れ合いを探し、結婚した、と聞いた。
父母が結婚したのは、昭和23年6月。その縁は、父の叔父と母の叔母が夫婦でいたことから、親戚となり、母が福島へ行ったとき、復員して福島の寺(祖父母が暮す)にいた父と初めて知り合い、お互いに好意をもったことから、とのことである。その父母も、昭和35年離婚、私が11歳・小学校5年のときである。結局、話し合いもうまく行かず、父が家を出て行った。父の実家は、福島県の天台宗の寺であり、比叡山中学で勉学、比叡山で修行、大正大学で研鑚した僧侶である。復員後、父は、国鉄(日本国有鉄道―現・JR)に入り、のち運輸省本省入省、目黒の家は母の父(祖父)が母のために建てたものであった。それが故に、父は離婚後、その家を出て、永らくひとり暮らしをしていたが、私が20歳のときに義母と再婚した。義母も再婚で、夫と死別していた。その両親たちも、もうこの世にいない。
その後、中学1年のとき、父と離婚後、再婚を考えていた母の相手(結局、再婚はできなかった)は、元関東軍陸軍中尉で機関銃部隊・中隊長で、万年筆メーカーに勤務していた。その相手から、実際の戦闘談をよく聞いた。中国戦線で、機関銃はすぐ熱を帯び、冷やしながら撃たなければならない、国民党軍との実戦経験は豊富だった。軍馬に乗った将官である雄姿の写真も見せてくれた。母の妹(叔母)も高等女学校(現八雲女子高)時代、竹やり訓練、避難消防訓練が日常だったと話していた。
叔母の夫の実家が福島県飯坂にあり、夏休みに母と遊びに行くと、農家の大きな部屋の桟に7枚ほどの額(肖像写真)がかけられていて、そのほとんどが飛行兵姿をしていた。特攻攻撃で散った英霊だったのである。その姿ははっきりと脳裏に刻まれている。また、この頃は、親戚の葬儀に連れられて行くと、「土葬」が多かった。地方においては、それが普通の埋葬方法の時代。今ではまずあり得ない。付け加えれば、この令和の時代、まだ、外地には無数の英霊たちが、眠っている。そして今も、母国に帰還していない英霊のご遺骨があることを忘れてはいけない、折に触れ、そう思う。
◆雑誌「丸」―漫画「忍者武芸帳」そして・・
小学校時代、私の愛読雑誌は『丸(マル)』(主に大東亜戦争の様々な特集・記事を掲載していた雑誌)、坂井三郎(ゼロ戦撃墜王のひとり)の「大空のサムライ」も連載で読んだ。また日本軍の兵器や軍艦、戦闘機、特攻隊の雄姿などが大好きな少年であった。もちろん、ラジオの「少年探偵団」、映画「紅孔雀」「スーパージャイアント」などとともに、テレビの「月光仮面」(当時駒沢が原っぱだったころ、そこでロケ撮影もあった)、「風雲黒潮丸」「少年ジェット」「怪傑ハリマオ」のファンで、漫画でも「鉄腕アトム」「まぼろし探偵」「矢車剣の介」「赤胴鈴の介」「少年ケニヤ」「鉄人28号」などもむさぼるように読んだりした。その頃の「少年たち」、同世代たちも同じではなかったか。よく遊び、走り、ケガをし、笑い、泣いた。とにかく、小学校学年の生徒数が、約450人はいたのである。(中高大学、企業を通してこの「団塊」は高齢の今でも変わらない)全校で、約2000人の生徒がいたのだ。中学、高校でもそれは変わらなかった。
そのなかで、ラジオから流れる、津村謙の「上海帰りのリル」、美空ひばりの「悲しき口笛」などの歌もよく聞いた。昭和30年代、懐かしき少年時代、と言える。5年・6年生のとき、家族で北海道の帯広に1ヶ月夏休みで行ったことがあり、十勝川で泳ぎ、帯広の牧場で遊び、札幌の北大や時計台を見つつ、北海道各地へ旅行したこともあった。今でも北海道は大好きなところである。
雑誌「丸(マル)」とともに、漫画で影響を受けたのが、6年生のときに貸本屋(今でいうレンタル本屋) で全巻借り切って読んだ『忍者武芸帳』(白土三平/作)である。それは、主に戦国時代、織田信長の「天下布武」に反逆した一向衆、土一揆・国一揆、本願寺勢力・伊賀/甲賀/雑賀の忍者・鉄砲衆、暗躍する影丸を首領とする忍者集団を劇的に描いたもの。今でいえば、劇画タッチの斬新な作風であった。何よりも支配者から描かれたものでない、被支配集団側から描かれたことが、他の「正義の味方」風漫画とは根本的に違い、面白く、夢中で読んだ。このときに、「支配される者たち」の抵抗、闘い、という感覚にわくわくしながら、なんとも言えない興奮を、小学生なりに感じ取ったのかと思う。

□1960年安保反対闘争~魂に刻まれた樺さん虐殺と全学連の国会突入~
― 三井三池大正行動隊・蜂の巣城の抵抗精神 ―
― 一粒の麦 もし地に落ちて死なずば・・ただ一つにてあらん 死なば多くの実を結ぶべしー《聖書「ヨハネ伝」第12章24節~イエス・キリスト》


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《写真左上:1960年6月国会突入する全学連、右上:傷つき斃れた多くの学生。左下:1960年蜂の巣城の全景。右下:1960年5月警官隊に抗議する三井三池組合労働者―ネットより転載引用》
1959年、現上皇ご成婚式典が催され、"みっち-ブーム“(美智子皇太子妃殿下)が起き、各家庭にテレビが普及した。それまでは、街頭テレビや学校校庭での野外映画、紙芝居などが主流であった。力道山の試合中継、街頭テレビに群がった多数のひとたち。当時、運輸省本省に勤務していた父が買った白黒テレビがわが家にも来た。1960年6月15日、夕食のとき、全学連(当時は「全学連」という知識は、私にはなかった)の隊列が国会正門に雪崩を打って突入する映像が流れた。思わず、見入った。
その衝撃と記憶は今なお鮮明であり、消えていない。翌日、東大生樺美智子さんが亡くなった、とのニュースが流れた。さらに、衝撃に震えた。11歳のこころに、である。樺さんの壮烈な死、それは消え去ることなく、魂に刻まれた。学校でも、休み時間に、校庭で「アンポハンタイ」デモごっこを、何知らずクラス仲間と無邪気に、していたものである。
同時期、九州で三井三池炭鉱の激しい労働運動が、あることも新聞の見出しで見ていた。頑強な会社側、スト破り、暴力団の襲撃に家族総出で闘ったひとたちのことも、暴力団に刺殺された労働者久保さん、大正行動隊、この三井三池争議、といわれた闘いも記憶に残っている。大正行動隊は、つるはしの柄と仕事で使うヘルメットを必然として、自衛のため、所持していた。子どもながらに、全学連と大正行動隊は、脳裏に焼き付いていた。


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(写真左:三井三池闘争資料集―ネットより転載引用。写真右:「60年安保闘争の時代」-同」)
同時期、九州で室井知幸リーダーを中心に、労働者も支援して闘われた、いわゆる「蜂の巣城」の闘いも、こころに焼き付いた。九州電力の横暴なダム建設に対して、900人の住民、労働者600人、このころの権力の尊大さは、むき出しだったと思う。それに抵抗し、住民の幸福と、ダム建設後の観光立地まで構想していた、とのちに調べてわかり、こういう人間こそ国宝だ、と心底思った。カネに魂を売り渡すこと、そのカネが、父祖伝来のいのちの農地や地域社会の結束、幸福には決して変えられないこと。三里塚も、砂川も、いまもあらゆる開発計画というものが、国家や大企業のご都合によってなされる以上、それは反権力闘争にならざるを得ないのである。
さらに、その年、当時社会党委員長・浅沼稲次郎氏が、大日本愛国党・山口二矢(おとや)(17歳)により、演説会壇上にて公然と刺殺される衝撃的事件が起きた。翌朝、出勤前の父が母に「テロだ!」と吐き捨てるように放った言葉が忘れられない。この事件も更なる衝撃であった。当時、昭和維新行動隊街宣車がデモ隊に突っ込む事件もあり、「右翼」というものが頭に同時に強く刻まれた。
前述のように、当時の私がよく読んでいたのが雑誌『丸』であり、興味深く読んだものだ。無邪気な軍国大好き少年といえばそうかもしれない。「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下・・」(軍歌『戦友』)愛唱歌だったが、哀調を帯びたそのメロディーと歌詞故に、実際は歌うことが軍では禁じられていた、とのちに知った。
父母・親戚・知人、身近にいる大人たちの生の戦争体験、60年安保闘争、右翼のテロ、衝撃の事件を受けて、その軍国大好き少年が、感性を研ぎ澄ましていく過程。
また、目黒区における衆参選挙、源田実(大日本帝国海軍航空隊将官)や迫水久常(終戦時の皇宮侍従)が立候補していて、近所の街角に貼られたポスターは、子どもながら目に焼き付いていた。後年、そういう歴史上重要な地位にあり、歴史的役割を果たした人間が近くにいることを感慨とするものである。
小学校5年―11歳の私は、今にして思えば、戦後・激動の時代、その波に洗われていたのかもしれない。そもそも生年の1949年は中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国を「建国」した年であり、朝鮮動乱開戦前夜であり、米ソ冷戦時代、原爆による恐怖の均衡、戦争の不安が世界に蔓延しつつあったのである。

第二節―■1962年―1964年 中学生時代~生徒の自立・批判精神~

□中学時代に見たもの、聞いたもの~日本共産党・右翼街宣車、消えゆく里山、汚れゆく自然~
小学校から、私は目黒の区立中学校へ進学した。中学2年のとき、JFケネディがダラスで暗殺される大事件が起きた。これはラジオニュースで聞いた。大統領が暗殺される国、という印象を強烈に受けた。キューバ危機を乗り切った大統領が白昼狙撃、暗殺されたのである。こんなことがあるのか?~それが率直に感じたことであった。
中学入学後、バレーボール部に勧誘されたが、自身選んだのが、新聞部であった。当時の母校は、日本共産党(以下、日共)日本教職員組合(以下、日教組)の影響が強い中学であり、生徒の自治・自立意識も高かったように思う。教室の正面上段に、「正しく昨日を受け継ぎ、強く今日を生き、明るい未来へすすもう」(※記憶がさだかでないが、そのような標語)が掲げられており、それは生徒が生徒会決議で、自分たちで決めて掲げたもの、と先生より聞いた。また、制服がなかったので、みな自由な私服で通学していた。女子では、タイトスカート、フレアスカートやフリルのブラウスも、色とりどりであった。但し、学生服は一応「標準服」とされていたので、男子では学生服が多かった。自分は、3年生のときは、ポロシャツに紺のズボン。とにかく、自由な校風であった。
中学1年のとき、ある週刊誌に「偏向教育の中学」という特集が組まれ、また「偏向教育」なる新聞記事が掲載され、抗議行動のため、右翼の街宣車が中学正門に襲来したことも多々あった。大騒ぎになった。実際、中学3年のとき、社会の先生が、授業で、「(政府の)サブロック=ミサイルの高額購入問題」、文部省の教育介入、安保条約の不条理、基地問題など政治問題を話し、旧日本軍の中国大陸での「三光作戦」の残虐性を話し、・・ということがふつうにあった。職員会議が日共系とその他に分裂して開かれ、校長系教員グループと日共系教組が対立関係にあったようだ。実際、分裂して会議をしている場面を見た。その点、他の目黒にある区立中学とは異なっていたのではないかと今にして思う。
ただ、それ以外では、1964年東京オリンピック開催(近くの駒沢公園が整備、オリンピック会場となった)、歓声が授業中も聞こえてきた。授業、修学旅行、文化祭、運動会などふつうの中学生として日々を送った。
このころ、通学途中の呑川(註:現在では覆土建設工事が行われ、桜並木が続く散歩道となっている)が、ゴミと汚染で汚れ、小学校のとき泳いだ多摩川は、汚染が悪化し、悪臭を放つようになっていた。宅地開発が進み、幼少のときの遊び場だった栗の雑木林、駒沢の原野や小川もなくなり、車が増え、排気ガスが黒煙を吐き出し、畑や里山が消えて行った。こころに何かは明確ではないが、大切なものが失われていく、違和感を抱き始めたのは、この時からである。

□新聞部の先輩・批判精神と自立
新聞部(「大原台」というタイトルのガリ版新聞発行)では、文部省、中教審路線・教育体制への批判、学校運営への疑問、などを主題とし、生徒の自立と権威への批判的精神が旺盛であった。顧問の先生による事前チェックもなかった。
2年生のとき、急に校庭の一部が切り取られ、柵が設置され、その土地が校庭ではなくなったことがあり、その問題を「謎の校庭」という記事にしたところ、担当の先生から以後チェックが入るようになった。その場所は、現在、交通公園となっている。
当時、1年生は仮プレハブ校舎で授業を受けていたが、新校舎に移ったのち、仮プレハブ校舎を悪戯で、破壊したことがあった。新聞部先輩たちと自分たち後輩である。これも問題になり、全校集会で以後このようなことをしないように、との校長の訓示があった。とにかく、元気だったのである。
先輩3人(Hさん、Tさん、Kさん)のなかに、後年、東大に進学したHさんがおり、中学Fクラスの親友D君から、高校時代に聞いたなかで、「東大中核派四天王のひとりだ」とのことだった。1967年のころである。このD君はその後、都立新宿高校へ、私は、都立桜町高校へ進学することとなった。《註:D君―後年、芸大教授(映画映像理論)、退職後も講演・講師など活動》

□本・音楽・映画・山~青春
中学クラスメイトと、よく御岳山(東京)などの山歩きをした。現在でも山歩きは好きだが、この15年ほどは遠のいてしまった。葉山や江の島、湘南の海にもよく行った。ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、西郷輝彦『君だけを』、J・モランディ『サンライトツイスト』、弾むようなリズム、多くの楽曲が生まれていた。


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この頃、H・ヘッセが好きで、『知と愛』『車輪の下』などほとんどの著作、吉川英治『宮本武蔵』全巻、読み通したことが記憶に強く残っている。20歳のころまで、ほぼ毎日1冊本を読んでいた。
映画では、忘れられないのが、中学2年の時に観た『シベールの日曜日』(セルジュ・ブールギニョン監督、パトリシア・ゴッジ主演、ハーディ・クリューガー共演)、映像の美しさ、パトリシアの可愛さ、しかし、フランスのベトナム進攻という時代背景、美しいが重たい映画であった。《写真:ネットより転載引用》

第三節―■1965年~1967年 烽火あがり 燃えさかるー高校時代~反戦高協・砂川・紀元節・ベトナム反戦・10・8羽田闘争に決起~

□民青から反戦高協へ~「民族民主革命」とは、本質的戦闘性とは~
高校進学の当初、ふつうの日常のなかにいた。小学校時代の4年~6年生担任のF先生から、早稲田に行くと良い、と言われていたが、高校1年の担任のK先生が、家庭訪問の際、「早稲田政経は(成績良なので)大丈夫」とも言われた。それで、早稲田政経に行くため、ふつうに通学、授業の日々があった。卒業したら、新聞社か出版社に行きたい、と思っていた。
現在、どういう関わりだったか、どうしても思い出せないのだが、民青のチューター(大学生)と関わりをもつようになった。「赤旗」を読むようになり、1年生のころ、激しさを加えてきたベトナム戦争への疑問、米軍・韓国軍の残虐なベトナム民衆への行為に自分なりに怒りを覚えるようになった。当然、「赤旗」にもベトナム戦争反対、の見出しがあった。
稚拙なことではあったが、自分で小さな紙に、「ベトナム戦争反対」の貼り紙を作り、電柱にひとに隠れて貼ったことがある。なにかしなければ、という思いがまとわりついていた。
民青のチューターとともに、1年生のとき、横田基地へのデモ行進に参加した。そのときのシュプレヒコールが、”ヤンキー・ゴー・ホーム!″、そして国際学連の歌“わが行く手を守れ~”を民青学生部隊は歌っていた。プラカードとデモ先頭に旗がちらほらしている、のんびりしたものであった。労働者部隊もいたと思うが、デモ行進は、3~4人が一列となり、のろのろ歩く、というもので、横田基地にいた米軍将兵にとってはおそらく痛くもかゆくもなかったのだろう、と今では推測する。もちろん警官隊の警備もなかった。先頭にパトカーかなにかが先導していた、と記憶する。自分の感じ方では、?これはなんだ?″と素直に思った。ピクニックのような「デモ行進」であった。小学生の時に見た、「全学連」の衝撃には遠いものだったからだ。
後日、民青の高校生・大学生のグループに引き合わされ、「小選挙区制粉砕」「ベトナム戦争反対」の活動など参加していった。目黒・世田谷地区のひとたちである。但し、同盟員としてではない。1965年秋、都立大付属高校(都立大学に隣接)の文化祭で、「血のメーデー」事件など、武装共産党(六全協までの活動)時代から、砂川闘争・60年安保闘争を中心とする展示会(パネル、写真、パンフ、機関紙誌)が催され、見に行った。そのとき、小学校時代のクラスメイトであるK君が民青(同盟員)として活動していて、その時は、懐かしく言葉を交わした。
そんな中、1966年、2年生の春、「目黒地区共産党委員会」の会議に、ひょんな成り行きから参加することとなった。驚いたことに、その会議の席に、目黒10中の数学のS先生もいた。会議は、自民党の当時の「素心会」など反動的グループのこと、小選挙区制反対、ベトナム戦争、赤旗のこと、主には地区組織の現状など、長時間に及んだ。高校生で参加していたのは、気づくと私だけであった。しかし、何も言われなかったのが今でも不思議である。

□熱く激しい初めてのデモ~10.14反戦高協の隊列へ~
民青チューターが、2年生の10月に「労学総決起集会」が明治公園であるから、参加するように、との指示をくれたので、忘れもしない10月14日明治公園に向かった。(註:ベトナム反戦社共統一行動:民青3000名、三派系900名、革マル系400名、構改系250名結集)現地に着くと、旗が林立し、1万人ほどが結集していて、社共統一戦線の盛り上がりが感じられた。ふと、大集会の後部にひとつの高校生の固まりが、おそらく約100名が集結し、集会・アジ演説を行っていた。その旗に青地に白抜きで『反戦高協』とあったのである。総決起集会の平和的な雰囲気とは、異質な「固まり」であったが、一瞬身体に戦慄が走った。これこそ自分が行くべき、参加すべき熱気だ、と。迷わず集会に加わった。高校生たちだったが、タバコを吸っているものもいて、その雰囲気は、本体の大集会とは異なり、戦闘性、切迫した雰囲気にあふれていた。自分自身そう感じた。
夕刻になり、デモ行進が始まった。?10.14ベトナム反戦デモ″、この時、自分にとっては、人生17年で初めてのスクラム、戦闘的デモ行進であった。先頭にゆらめく青、赤の数本の旗のもと、5人一列の駆け足デモである。デモ慣れしていなかった自分、また参加した皆も、ぎごちなく、前の隊列にぶつかり、しかし、熱気そのものがほとばしっていた。初めて見る警官隊の警備に緊張の連続。?戦争反対!闘争勝利!″シュプレヒコール!~夕刻の闇が迫る中、熱気がすごい。規制は方面機動隊がついた。横田基地の民青のデモにはない、真剣な切迫した戦闘性にあふれたデモンストレーション。解散地では、アジ演説をするリーダーの顏を、旗で取り巻き、隠していた。投光器が投げかける光に照らされ、アジ演説の激越な声と、浮かび上がる旗の群れにこころが揺動した。旗でアジテーターを隠すのは、公安の写真撮影を阻止するためである。本体集会のデモは、ふつうに歩いてシュプレヒコールするというもので、ピクニック気分の「ヤンキー~」デモと同じとは言わないが、静かなる「葬列」とでも言おうか。
この1966年10月14日の戦闘的デモ参加を転換点として、自分は反戦高協運動へ迷うことなく飛び込み、活動を深めていった。根底には、ベトナム戦争への怒り、民衆を虐殺するものへの憎悪、それに協力する日本政府、ふつうの生活に何ら疑問をもつことなく、日々を送ることの罪悪感、日常に埋没することへの唾棄、があった。とにかく躊躇なく飛び込んだ、が正しい。
後日、部屋の壁に10.14で配られた「スクラム」というビラをピン止めしていたが、それを見た、部屋を訪れた民青のチューターと大激論になり、この日以来、民青とは決別した。チューターは、目を吊り上げて、「こいつらはハネ上がりの挑発分子だぞ」「トロだ」と激しく罵った。激しい反発心が芽生えた。
当時の「赤旗」の一面上部に踊っていた「民族民主革命」「民主連合政府樹立」方針に対する拭えない疑問があったからだ。反戦高協も安保全学連も、「挑発分子」「トロ」「ハネ上がり」と切り捨てる、日共に従わないものは悪罵の対象となる。民青チューターの表情・態度・ことば。彼が言えば言うほど、自分は、「民族民主革命」って、いったいなんだ、「挑発分子」とはなんだ、という疑問がどうしてもぬぐえず、わだかまりを拭うことができなかった。権力に挑み戦うことが、何故「挑発」なのか、と。ではいつ、どこで闘うのか?~のちに、「唯一の前衛党」、「無謬の党」、それに疑問や批判は許さず、批判するものは、全て「反党分子」と切り捨ててきた歴史、それが、日本共産党なのだ、と自身で学んだ。彼らは、自らを乗り越えて闘う党などあってはならないからだ。しかし、この時(17歳)は、戦後の所感派/国際派の対立も、六全協のことも、日本トロツキスト連盟創設、革共同も安保ブントも、みな日共から、それを批判し生まれたこと・・日共の「無謬神話」―内実の歴史を細かくは知らなかった。1960年以降生まれた、構造改革派のことも後に知る。そのとき、その瞬間、自分は自身の直観として、実際、自由な討論や意見交換もない、それは「民主」ではない、と。自分はそういうものに決別したのだ、と。自らの17歳のこころ(信念)に、緊張の思いで、強く固く信じたのである。それはおそらく直観(ひらめき)といっていい。

□早稲田大学学費値上げ反対闘争と機動隊導入の衝撃―1966年・大学の自治崩壊、こんなことが!・・―


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《早稲田学生大会/ネットより転載引用》
樺さん虐殺・全学連国会突入以後、自身の反戦高協デモへの初めての参加のころ、1966年早稲田大学において、一方的な学費値上げに対する学生の反対闘争が起きた。この頃は、慶応大学、明治大学でも反対闘争が起きていた。バリケードも登場した、と記憶する。問題は、大学側武装警備員の弾圧もさることながら、?大学への機動隊導入制圧″の衝撃であった。
当時、大学は理性の府、ある意味「象牙の塔」と言われるほどの権威がまだあった時代、学問の自由と大学・学生の自治、というのは「保障」されていたものであった。戦後行われた諸闘争のなかでも、大学に機動隊がなだれ込み、学生を強圧弾圧し、傷つけ、追い出し、暴力でつぶす、などという事件は、あまり記憶がない(※詳細に調べればあったのかもしれないが、おそらく頻繁に起きたことはないはずである)。?こんなことがあるのか!?″とテレビや新聞を見ながら、激しく憤りを覚えた。世田谷の「田舎」(母校の目の前は広大な畑と雑木林)にあったひとりの高校生であるわたしが、早稲田に駆けつけ、闘う大学生を支援しにいく、などという大それた発想自体はなかったが、こころのなかに、国家が暴力で「大学・学生の自治」を踏みにじり、学生の反対闘争を破壊、大学に土足で踏み入り、弾圧することへの激しい憎しみ、それを導入する大学理事会に怒りが湧いた、これは事実である。大隈重信公も嘆く、在野の自立・批判精神放棄である。同時に、早稲田の闘う学生たちに真実、共感を覚えた。

□『善隣会館』襲撃事件―日本共産党中央ゲバルト部隊―1967年―暴力的本質の顕在化を見た


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《中国人を襲う日共ゲバルト部隊/写真はネットより転載引用》
もうひとつの衝撃がある。当時、中国共産党と日本共産党が路線上対立、日中友好協会の拠点『善隣会館』へ、約500名の日共ゲバルト部隊が夜間トラックで乗りつけ、会館を取り巻き、こん棒とヘルメットで襲撃する、というニュースを見た。「こん棒」は樫製の棍棒で、警官隊が持っていた警棒と同じ材質、日本共産党本部が調達したもの、ヘルメットも同様である。差別的言辞をぶつけた、と聞く。
この事件を見て、あの横田基地デモとはまったく異なる別な姿と相貌、反対・批判するものへの容赦ない暴力的襲撃を行う日本共産党中央の独裁的・暴力的体質を感じた。彼らの言う「民主」とは彼らのみの独善的「民主」であって、この事件においては、中国共産党は敵対分子で、敵ならば襲撃しても構わない、という驚くべき本質を見せつけられた思いがした。この事件が、のちに東大・京大全共闘をはじめとする各大学への襲撃、トロ虐殺を呼号する「唯一の前衛党」の真実を垣間見せた事件として記憶された。棍棒とヘルメットは、日共党中央が用意した、のちの東大闘争、京大、明大など多くの大学での外人部隊そのものがすでにこのとき、登場していたのではないのか。

□ベトナム反戦直接行動委員会/日特金属攻撃の衝撃―1966年10月―


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《上:ベトナム反戦直接行動委員会ステッカー/下:爆発事件後のアジト/ネットより転載引用》
高校時代は多感な触覚が研ぎ澄まされていた。小中学校時代より、質的に深く、より感取り、考える。日共・民青の「善隣会館」襲撃事件、早稲田大学への武装警備員、警官隊入制圧を見た衝撃とともに、このベトナム反戦直接行動委員会の日特金属突入事件は、大な衝撃だった。10.14反戦高協デモ初参加の5日後、10月19日日特金属へ同委員会メンーバー10数人が侵入、機器破壊、ビラマキをした「直接行動」。
この「直接行動」というフレーズに感覚が揺さぶられたのを覚えている。(※日特金属は、弾薬兵器を生産していた住友系の企業)たしか、11月にも豊和工業にも突入している。後に、分派して、叛戦攻撃委員会、黒色学生連盟、タナトス社などに組織分派となった。少数だが、兵器産業企業に大きなダメージを与えた。法大に民青が攻撃をしかけた1968年、法大のアナキストが火炎瓶を投擲した新聞記事も見たが、火炎瓶を実際に使ったのを見たのは初めてだった。これは、後に、青学に来ていた法大の中核派チューターから聞いたことである。この事件を機に、アナキズムへのシンパシーが湧いた。関西における、千坂恭二氏が中心となって結成したアナキスト革命連合をこの時に知っていたら、迷わず参加していっただろう。

□『青春の墓標』(奥浩平著―1965年刊)―高校図書館での運命的出会いー

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 1965年日韓条約が締結された。戦後の決算。この時、自分は高校1年であり、民青チューターと接触、反対闘争への積極的参加にはならなかった。高校2年のとき、図書館にたまたまあった『青春の墓標』(故奥浩平著―手記・メモ・ノートを兄であった奥紳平氏がまとめ、出版。あとがきには、故北小路敏氏-当時、革共同中央執行委員長-が当時の政治的状況『学生運動の潮流と課題』を記している)を見つけ、読み込んで、深く感じるものがあった。故奥浩平氏は、奥紳平氏あとがきによれば、1965年日韓闘争で鼻骨を警官隊に折られ、一輪のカーネーションを握りしめ、その後睡眠薬大量服薬し、自殺。
その四肢には大量の紫斑と傷跡があったそうである。それは、1960年安保闘争以来、4年間にわたる警官隊による棍棒乱打や蹴り殴られた痕跡によるものと、医師が診断している。この著書は、自分に深い感銘を与えた。故北小路敏氏のあとがきに記されていた当時の新左翼諸党派のこと、四分五裂の状況、革共同の分裂、など思い深く胸に刻んだ。奥紳平氏の記したことばで、なぜか今も覚えているのは、?青春は、いつの世にもある種の壮絶さとめくるめくばかりの輝かしさと、そして致命的に痛苦なものを持っているものだ″(奥紳平氏「あとがき」より)という一文である。?壮絶、痛苦、めくるめくばかりの輝き″・・・その言葉が、現実に、自らのからだと魂に刻まれるのに多くの時間は必要なかった。《写真:ネットより転載引用》

□『音高く流れぬ』(村上信彦著)―時代と向き合い、どこへ向かうのかー 

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この本は、昭和初期の多感な学生時代を送る主人公、冷酷な叔父の家にひとり養われているが、そこの女中である「春」と恋仲になり、旧制中学の親友・大島、威張るいかつい身体の同輩、市中の高圧的態度の警官、叔父の冷たい仕打ち、などとの確執を経て、威張る同輩に海軍ナイフで立ち向かい、倒し、親友を守る行動、「春」を守る決意、叔父との決別、などを綴った小説である。最後は、昭和2年、共産党の秘密会議・地下工作活動に加わり、政治運動に向かう、おおよそそういうストーリーである。
この本にも大きな影響を受けた。何度も何度も読み返した。個的な事情や状況、というものも、社会のあり方に大きく関わっていること、そのなかでどういう生き方を真剣に選んで進むのか、それを問うた本である。残念ながら、現在、同著書は、手元にない。《写真:ネットより転載引用》

(つづく)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。



【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月5日(金)に更新予定です。