2020年11月3日、大阪市中央区の「エル・おおさか南館大ホール」で、10・8山﨑博昭プロジェクト主催による秋の大阪集会「きみが死んだあとで」上映とトークの会が開催された。今回のブログはその会のトークの様子である。
「きみが死んだあとで」は、「三里塚のイカロス」の代島治彦監督の最新長編ドキュメンタリー映画で、4月17日から東京・渋谷の「ユーロスペース」を皮切りに全国で上映される予定である。

東京:ユーロスペース 4/17~
北海道:シアターキノ 
神奈川県:横浜シネマリン
群馬県:シネマテークたかさき
長野県:松本CINEMAセレクト
長野県:上田映劇
愛知県:名古屋シネマテーク
大阪府:第七藝術劇場
京都府:京都シネマ

以下の映画の公式ホームページで予告編を観ることができるので、ご覧いただきたい。
『きみが死んだあとで』公式HP

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また、映画のチラシ配布や前売り券販売に協力する「応援団」を募集しているとのこと。詳しくはホームページを参照していただきたい。(ホームページを開くと予告編が自動的に上映されます。予告編を観た後、画面右上の×印をクリックして予告編を閉じれば、ホームページを見ることができます)

今回掲載のトークは、冊子『奔』No6(2020年12月刊行)に掲載されたものであるが、編集発行人である望月至高氏のご厚意により転載させていただいた。この冊子は、残念ながらNo6をもって無期休刊となったが、再刊を期待したい。

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<トーク参加者>
総合司会:辻 恵(大手前高校同学年/弁護士)
登壇者
代島治彦監督
1958年埼玉県生まれ。「三里塚のイカロス」(2017年監督)で毎日映画コンクール・ドキュメンタリー映画賞受賞。他の映画作品に「パイナップルツアーズ」(1992年製作)、「まなざしの旅」(2010年監督)、「オロ」(2012年製作)、「三里塚に生きる」(2014年監督)がある。著書に「ミニシアター巡礼」など。
山﨑建夫 (山﨑博昭の兄)
水戸喜世子(十・八羽田救援会)
赤松英一 (大手前高校先輩)
島元健作 (10・8羽田闘争参加者)
山本義隆 (大手前高校先輩/元東大全共闘代表)
岩脇正人 (大手前高校同学年)
北本修二 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
島元恵子 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
黒瀬 準 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)

(写真は望月至高氏からの提供及び大谷行雄氏のフェイスブックからの転載)

【 10・8山﨑博昭プロジェクト主催 2020大阪秋の集会
代島治彦監督『きみが死んだあとで』上映会とトークの会 】
                       監修 山﨑建夫 ・ 編集 奔編集室
 総合司会  辻恵(つじ めぐむ・弁護士)
上映会司会 代島治彦(だいしま はるひこ・映画監督)
◆辻司会 2014年に発足した山﨑プロジェクト秋の関西集会、今日で6回目の開催になります。今日は代島治彦監督の『きみが死んだあとで』の映画の上映とトークということで、五時までお付き合いいただければと思います。それでは最初に代表の山﨑建夫の方から挨拶をいただきたいと思います。

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◆山﨑建夫 2014年―6年前からプロジェクトを立ち上げ三つの事業を行ってきました。記念碑を建てよう、羽田の傍にお寺を借りながら記念碑を建てました。ベトナムの戦争証跡博物館に弟の遺影と当時のベトナム反戦闘争の闘いの写真を展示しよう―これもできました。代島監督はその時も同行してくださいました。そして記念誌もできあがりました。一冊が大部ですが、それが二冊になりましたので、作るのは大変だったのですが、賛同人や沢山の方の応援で出すことができました。本当に感謝しております。
 第一回講演会を東京で始めたとき、講師は山本義隆さん、映画は『現認報告書』(註1)でした。今日は新たに50年後の当時の若者たちということで、代島監督の映画『きみが死んだあとで』です。
『きみが死んだあとで』―本当にそうなのです。彼が死んだ後いろんなことが起こった。三里塚、羽田、佐世保、王子―で弟は当然だけれどもそのことは全く知らない。運動が盛り上がっていくかどうかというときに、その端緒に彼は消えてしまった。で、私たち家族は、その後のいろいろな闘争をテレビの画面を通じて知るわけです。赤軍派がハイジャックして北朝鮮へ行くようなときでも、はらはらしながら観ていました。その学生たちの姿に弟の姿を重ねながら観ていました。その学生たちが、10・8の弟の死をきっかけに、さらに闘いを強めるんだ、あるいはそのようなこととは無縁な学生生活を送っていたが、いやこれではいかんと生活を変えて闘争に参加しだした。映像のなかの沢山の学生たちがそうであった。そういうことを知ったのは僕自身かなり経ってからです。特にこのプロジェクトで、仲間に話を聞いたり、そういう人が多かったんだということを知るわけです。
で、今年の9月末に素敵な話が飛び込んできました。二年前に中央大学の学生がインタビューしたいと。東京で話をしたら中央大学の理論誌(註2)に載せることになった、それで彼は東京の上映会に来てくれます。そしてプロジェクトにこれからも注目している、これからも行事があれば参加しますというふうに言ってくれるんです。もうひとつは、関西大学の女子学生がかつて自分たちの大学でも学生運動があった、そのことについて興味をもって、今の学生と当時の学生とどう違うのだろうと、映像製作をされて、その映像が「地方の時代 映像祭」(註3)に入賞したという知らせを受けました。この2月2日に映像祭があって、さらに優秀賞とか奨励賞とか選ばれるようです。これにも招かれているんです。(注記、奨励賞を受賞しました)
 去年アメリカの映画「いちご白書」のコロンビア大学のマーク・ラッドさんを招いて講演会を持ったのですが、彼女らはインタビューを試みました。彼女らは「何に対しても怒りなど感じたことはない」と言うと、マーク・ラッドさんは、「まるで砂漠の砂に頭を突っ込んで危険を見ないようにしているダチョウと同じだね」という風に言われたんですね。ひどい侮辱のはずです。彼女たちはその場面をそのまま映像に残しています。ひどい侮辱だと思うんですが、そのまま映像に残しています。この場面はゼミでも話題になったそうで、それでちょっと視点を変えて、ではどうするんだということを自分自身に問いかける姿で終わっているんです。そんなにたいしたものじゃないかもしれないけど、ゼロからの出発が少しずつ動き出していく、そういうきっかけを感じさせてくれる話です。
 最後に賛同人にまだなっておられない方がおられましたらぜひ賛同人になってください。こういう講演会やったり、映画を作ったりするのに、沢山お金が要るんです。ぜひ応援していただきたいと思います。賛同人になっておられる方は、年会費を納めていただきたいと思います。また記念誌も用意しております。ぜひ買って読んでいただきたいと思います。宜しくお願いします。
 註1 映画『現認報告書 羽田闘争の記録』監督小川伸介。1967年10月8日羽田、佐藤栄作首相の南ベトナ
ム訪問阻止闘争の記録。羽田空港に通じる周囲の衝突と山﨑博昭の死亡をめぐる記録映画。
  註2 評論集。総合政策学部四年袴谷直樹著『ベトナム戦争と日本人』所収「10・8羽田闘争―兄が語る弟山﨑博昭」。
  註3 「地方の時代、映画祭」は地域のドキュメンタリー作品から年間の優秀作品を権限するもので、今回40回目。放送局、ケーブルテレビ、市民学生、高校生の4部門がある。今年の応募作品は、全260作。そこから各部門薬10作品が選ばれれ、さらに優秀賞と奨励賞が授与された。

◆辻司会 上映開始の前に代島治彦監督にご挨拶いただきます。

◆代島監督 この映画を創りました代島です。この映画を思いついたのが一昨年の11月ぐらいで、詩人でこの会の発起人にもなっています佐々木幹郎さんに、大手前高校の卒業アルバムをみせていただきました。そのなかで、いわゆる社研に20人もいてビックリして、これみんな社研なんですかというと、いや社研のシンパが多くて、前5人ぐらいが社研の部員なのだということを仰って、そのシンパのなかに山﨑博昭さんがいらっしゃった。その他佐々木幹郎さんやいろんな方がいて、山﨑さんが亡くなったあとで、みんなどうしていたのかな、会ってみたいなというという感じでインタビューを始めて、結局14人の方々に話を聞いてこの映像にまとめました。自分でも思いがけず長い映画になってしまいまして、3時間20分あります。前半が96分、後半が104分です。間に休憩が入って小説みたいな上巻下巻みたいな構成にしました。丁度編集している最中に村上春樹の『ノルウェイの森』を何度となく読んでいたんですね、それでこの映画も上巻下巻でいいかってこの形にしました。村上の『ノルウェイの森』は、死というものが生の対極にあるのではなくて、生の一部として存在しているということがテーマですね。それでちょっと『ノルウェイの森』っぽい映画になっています。ぜひ観てください。

◆上映◆

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◆辻司会
 皆様のお手元にアンケート用紙があります。ぜひご記入の上お帰りの際には受付の方にお渡しいただければと思います。併せて、わたしたち10・8山﨑博昭プロジェクトは、今第二期の活動をやっておりまして、10・8の闘いがやはり1972年沖縄闘争まで続いたんだという意味で、1972年の50周年の22年までは、あと2年間活動は継続しようと考えています。その賛同人を募集しておりますのでぜひ賛同人をお願いできればありがたいです。またプロジェクト、映画に対するカンパをお願いします。
 東京で午前の部午後の部、会場は100人収容と狭かったので、2部制に分けて延べ151名の方に映画を観ていただきました。今日関西では120数名の方にご参加いただいています。当時山﨑博昭と闘ったその時代の同年代の記憶を次の世代にしっかり記憶してもらおう、そしてさらに記録に残してその意味を問いかけるということで、代島監督がこの映画を創ってくださったということで、代島監督からインタビューを受けてくださった皆様方の声を聞かせていただくことにします。では代島監督、宜しくお願いします。

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◆パネラー登壇
◆代島監督司会 今日沢山の方に来ていただいて、ありがとうございました。今日、出演者の方が9人集まってくださいました。全部で14人でしたので9人はすごいです。では山﨑建夫さんからどうぞ。

◆山﨑建夫 とても恥ずかしかったです。

◆水戸喜世子 今日はありがとうございました。この子は(膝に抱いたコアラ母子のぬいぐるみのこと)博昭君のお母さんの春子さんが私の家を訪ねてくださったとき、我が家のこどもたちにプレゼントしてくださったものなのです。いつもは私と二人だけで過ごしているので、今日は沢山の方が集まるところにぜひ連れてきたいと思いました。皆さん宜しくお願いします。

◆赤松英一 少し喋らせてください。映画のなかでも触れられていたように、山﨑君の世代から二つ上で、彼らが運動に立ち上がるきっかけになったということと、それから、他の出演者の方と違って彼が死んだ後も30年近く中核派で活動を続けていたということから、反戦闘争の中におけると山﨑君の死というだけではなくて、あの中核派をはじめとする革命的左翼、新左翼の闘いが何であったかという総括を話さなければならない責任を感じながらこのプロジェクトに参加してきたわけです。個人的生き方の問題としてではなく、やはり少し広い観点で話す必要があると思っていたもので、東京の集会では、当時の運動の根本的な問題はなんであったかというと、国家権力とか国家とか資本主義とかを倒した後いったいわれわれはどういう社会を創るのかという構想、単なるビジョンとか理論とかでなく、それをいかに現在から創り上げていくのかという実践がなかったことにあるという話をしました。
今日はもう少し運動に沿った、しかも今日のフィルムのなかで僕が一番長い間口ごもった、あの革マル派との戦いについて、一言だけ話をしたい。出演者の方々がそれぞれの契機で参加しながら止めていった理由として、いろいろな問題―暴力であったり、党派の問題であったりするんですが、やはり今の日本の社会運動がここまでダメになって、安倍や菅といった人たちをのさばらせていく最大のきっかけになったのは、やはりあの内ゲバ、および内ゲバというものを超えた革マル派との戦いだったと言わなければならない。そのきっかけになったのが、やはり12・4(註4)であり、そしてそれに対するわれわれの反撃ということのなかにあった。当時の新左翼の内ゲバという初期の在り方自体に本当は問題がありました。セクト主義であったり、未成熟な若者の暴力的な傾向があったわけですが、しかし革マル派というのは、そういうものと違った存在として出てきたのです。つまり冷静に真っ向から党派というものを根絶するということを目的として、組織のすべてをかけてやってきた。そういう時にどうするかということが問われて、われわれはそこから逃げることはできないと思って対決したわけですが、それは党派の新聞にもあったように、警察・革マル連合とか、あるいは反革命とか、つまりそれを権力と同等の回し者として規定して戦ったのです。
で、今になって、明確に言わなければならないのは、完全に間違っていたということです。やはり革マル派っていうのは、本人の主観的存在においてだけではなくて、ある種の革命党派なんですね。あれは革命党派でなくて反革命だからこういう戦い方でいいんだとして、彼らと同じ水準になった。歴史的にいうと、トロツキーなどを帝国主義の手先だとして葬ったスターリン主義だとか、あるいは新左翼に対してスパイの手先といった日本共産党と同じ過ちに、当時の新左翼が陥ってしまったということだと思うのです。
さらに、日本の社会運動がなぜここまでダメになったのかというときに、新左翼という革命党派としての可能性をもっていたものがダメになったということと、もう一つ、やはり総評―地区労に代表される戦後の革新運動を完全に解体させてしまったということを思わざるを得ない。もちろん総評とか社会党というものは社民そのものだったのですが、しかし同時に戦後の民衆が作り上げてきた抵抗のひとつの形であって、特に地区労といったものに根を張ったものが、運動の基盤だった。それが今一掃された。なぜかといえば、明らかに国労解体から始まる総評の解体であり、それが可能だったのはやはり革マル派という党派が、JR総連を通じて自分の伸長のためには社会党総評・地区労など民衆運動の基盤を解体しても構わないというところに踏み切ったからに他ならないのです。それがなぜ彼らはできたかというと、革マル派は60年安保闘争で大衆運動が高揚したけれども革命党派がなかったから運動は成功しなかったという総括から、前衛党がなかったら大衆運動だけでははダメだよとやっていたんですが、そこから発展して党は何やってもいいんだ、党があればあとは何とでもなるんだという思想になったのですね。(司会から発言時間を注意されて)時間がないので、納得してもらうことは難しいと思うのですが切り上げます。本当は、別の闘い方、民衆と一緒になって戦うやり方があったはずですが、そのためには、自分の党の在り方を徹底的に自己批判しながら、闘う必要があった。それができなかったということを、単に歴史的な問題として反省するのではなく、今からの人生のなかでも考えていこうと思っています。(註5)
(註4) 1971年12月4日、関西大学千里山キャンパスにおいて中核派と革マル派の内ゲバが発生。中核派の京大生Tと同志社大生Sの2名が鉄パイプで撲殺された。
(註5) 赤松英一氏の内ゲバと映画感想については、個人サイト『RED PIINE&VINE』に詳しい。

◆代島司会 ありがとうございました。赤松英一さんで検索すると赤松さんのホームページがでてきますので、そこに結構赤松さんがいろんな論を書かれています。ぜひ読んでみてください。

◆島元健作 片隅でそっと見ていようと、また見てもいたのですが、映像が昔の闘争場面が出てくると血がたぎりまして、ちなみに今さら自慢してもしょうがないのですが、あそこに映っている闘いには全部参加していました。ただそれだけで話は終わるつもりですが、ちょっと赤松さんがああいうことを言われましたので、それならちょっとー。それならね、赤松さん含めてね回想記だされた水谷含めてね、なんで海老原問題に謝罪しないんですか。あるいは闘って正しかったなら、なぜあれこそが革マル派との戦いだったと表現しないんですか。未だに曖昧でしょう。あれだけ悪辣なね、あれだけ軍事力のある党派に、ああいううかつなちょっかいを出すような戦いを始めたことがそもそもの間違いなんですよ。戦争のやり方は全く間違っているでしょう。あのときの軍事責任は誰がとったんですか。そういうことを当時の人たちは誰も未だに言及していません。(異議なしの声)それで反省もクソもないと思います。赤松さんね、昔ながらのこういう限られた場のなかで何を今更アジテーションしているんですか。もっとやることがあると思います。(拍手)

◆代島司会 山本義隆さんです。東京から来てくれました。

◆山本義隆 今日佐々木君が来ていないのですが代わりに東京の集会で佐々木君が語ったことを言っておきます。この映画フィルムだけで10時間あるんですよ。それだけあるフィルムをね、監督が全部文字起こしして文章化してそれを読んで編集したんですよ。大変な作業だったと思います。文字起こしは大変ですよ。それを監督はやられた。これはぜひ知っといてもらいたい。(拍手)

◆代島司会 10時間ではなくて80時間です。(笑・拍手)

◆山本義隆 それで僕の感想はもっとレベル低いんですけども、東京でも喋ったんですが、その山﨑君にしても、佐々木君にしても向さんとか全部67年に大手前高校を卒業しているんです。大手前高校はすぐそこです。都庁の横の元女学校ですけども、(府庁と訂正の声)そう府庁、で、僕はその7年前の60年にその高校を卒業しているんですけども、たった7年であれだけ高等学校の雰囲気が変わったのかと。これやっぱりショックでした。僕らの頃と全然違っている。その7年の違いっていうのは、ものすごいこと。
それは60年から始まっているんですね。60年の6月20日からです。国会前で徹夜して、その安保改定阻止闘争は6・15で終わって事実敗北ですよ。それで6・20何をしていたかというと、自然承認を待っているだけですよ。たまらんですよ。そして一晩徹夜して次の朝総評の宣伝カーが10年先に闘いましょうと言っているわけだ。要するに安保は10年たったら日米どちらからでも破棄を通告できると。それ言うとる方でもリアリテイーないんだけど、僕ら大学入って一年生ですよ。60年に入っていますから、そのーまあ、純情な子供たちですよ、そういう風に言われると刷り込まれるんですね。そうか僕は10年後にはやらなければいけないのかと。それでね、真に受けたのが三派全学連だと思います。10年たったらやる。そんなこと日本の歴史になかったんですよ、10年先の政治課題が決まっているなんて。今では1年先だって分らんでしょう。
60年代は70年にやらなきゃあいけない。それもね、60年は負けた、それを上回る闘争をやらなければいけないということが初めから決まっていたのです。三派全学連はそのために出来たようなものです。そうすると何が起きるかというとね、60年は負けたけど、60年はブントが指導した運動である、では70年はどの党派が60年安保でのブントの役をするかということになっちゃうわけですよ。僕はずっと見てたけれども、党派的な対立はそういうところから始まったんじゃないかなと思っているんです。そのこと自体は当たり前というか、党派的な競合・対立があること自体は当然でしょうが、わが党派だけが絶対に正しい、自分たちだけが闘っているみたいな言い方はやはり思い上がりですよ。僕はそもそも安保闘争の後、真の前衛がなかったからだという総括の仕方は、分んなかったから、そんな風に考えなかったんですけどもね。実際には何かやらなければいけないと、そういう風に思っていたのが数多くいたわけで、それがでてきたのがベトナム反戦闘争だったと思います。その引き金が10・8だったと思います。映画の中で三派全学連についてゆけない学生諸君が多くいたと言いましたが、それは実力闘争についてゆけないという意味ではなく、政治党派の排他的な指導についてゆけないという意味なのです。
いずれにしても60年代末の運動は学生だけでなく、本当に(映画のなかの)水戸さんの話にもありましたが家庭の主婦が警察に差し入れに行ったり、いたるところで反安保の声が出てくるとか、普通のサラリーマンが家に脱走米兵をかくまったりとかしているわけで、こういう運動の盛り上がりは日本歴史になかったことだったのです。それはものすごく重要なことと思います。学生が自分たちだけが闘ったと思っていたら間違いです。一人ひとりが言いたいこともあるだろうし、間違ったこともあるし、あるけども、そのことはちゃんと伝えていかなきゃあいかんと、そんな風に僕は思っています。よくこの映画を創ってくれはったと、それは一番感謝しています。

◆代島司会 岩脇正人さんはすごく映画好きなんですね。映画評論書いていらっしゃり、家にいくとなん百本という映画をコレクションしていたりする方なので、一番感想が怖いんです。

◆岩脇正人 映画は8千本持っています。それはともかく、それぞれ年をとって、50数年経って、思うことはいろいろあると思うんです。私については、このプロジェクトの文集の第一巻に私の50年間の想いを「山﨑君への手紙」という題で書きました。字数が限られていたのでほとんど箇条書きみたいな文章ですけども、そこに言いたかったことは全部書いてあります。やはり箇条書き的な文章になってしまったので、私の説明を聞かないと判らないことも結構あったと思いますが、ご質問があったらいつでも答えますし、山﨑君が死んだ後の50年を嫌なくらい忸怩たる挫折感みたいなものを抱えていたんです。私はね、そのことを吐き出して一応決着をつけたと僕は思っています。終わりだと思ったら代島さんから映画に出ろと言われて、当時のリーダーがいなかったら映画にならへんと言われたので、責任はもたんといかんと思ってもう一度責任とらなくちゃと思って映画に出た訳です。
映画については私の考えは観るまえと観た後で心が震えたり、映像に衝撃を受けたりいろんなことがあると思うんですけど、どんだけ自分が変わったのかということが、私の映画に対する評価です。評価の軸です。もちろんドキュメント、取り扱っている主題、映像のすごさ、全部映画の評価は変わってくるのですが、一番大事にしたいのは今のことです。だから映画を観てなんや全部知っていることやとか、自分の知っていることを再確認するーそんな見方はカスです。それだけは止めて欲しい。
それともう一つ。一緒に共演していた赤松さんですが、さっきの話を聞いてもうすごい遠いところへ離れ離れになってしまったなという感慨は持ちました。以上です。

◆代島司会 ありがとうございました。では残り時間が少ないので、3分程度ずつどうぞ。

◆北本修一 北本修一です。映画を観て私は感動いたしました。映像の美しさ、代島さんよう頑張ったなと思いました。映画を観て、知らなかった事実が一杯ありました。50年前、その場の近くにいたにもかかわらず、知らなかったことが。たくさん出てきました。
 私は弁護士になって、40年以上、色々な人々の様々な社会運動を手伝う仕事に関わってきました。 余り思い出したくないこともあるのですが、私が生き、活動することについて、高校生から大学生の間の体験が柱になっていると改めて認識した次第です。

◆代島司会 ありがとうございました。

◆島元恵子 話すことを考えていたんですけれども、結局まとまらなくて、思いつくままにちょっと時間をいただきます。考えていることは岩脇君と同じで、『私たちに鎮魂歌がうたえるかあるいは50年後の追悼とは何か』(「かつて10・8羽田闘争があった」・合同フォレスト・2017年)のなかにまとめてありますので読んでいただけたら嬉しいです。一所懸命書いたので読んで共感してもらえる人が少しでも多かったらいいなと思います。
話は代わりますが、うちの父は103歳でまだ元気でいるのですが、東大闘争のときに、兄が一年間拘置所に入っていて、家族会を立ち上げるグループでやっていて、関西の家族会の北本君のお父さんとか一緒になってかなり頑張ってやっていました。この前、父のいろんなものを片付けていたら、その頃に父親宛にお父さんお母さんがよこした手紙の束が出てきて、これを何とかしたいと思いながら体調が悪くてできていないのですが、それからいろいろ考えて、1967年の反戦闘争のその時は、私たちの親たちの世代―大人たちは戦争の記憶がまだ生きていた時代だと思います。だから市民のなかにもやっぱり戦争はいけないというものが強くあったために、そういう人たちが皆亡くなってしまって、(私たちは)その頃の親以上に70歳を超えた歳になってしまっているので、いろいろ考えるんですけれども、反戦というのは、今の私にとって私は何をすべきなのかというのが一番のイメージです。
これだけは言いたいことは、戦地へ兵隊で征った人たちが中国や朝鮮やアジアの国にやったことについてはほとんど口を閉ざしたまま墓場まで持っていってると思います。あるいは、聞いていることもあるかもしれないことかもしれないですが、人というのは酷い目にあったらあんなことがあったこんなことがあったと一杯話すけども、どれだけ残虐なことをしたかということについては、言いにくいことだし、なかなか話せないことだと思うのです。でも親の世代のそういうものを引き受けて次世代にキチッと伝えていかなければ、まるで何もなかったかのような、アジアの人々に対して日本は何をしたかということを全然知らないままに子供たちは大きくなっていって、そういうなかで戦争は悪いといっても何もいってないのと一緒だと思います。私は一所懸命考えているんですが、気力体力も衰え何もできない状態ですが、こういう場で発言することも一つの行動かなと思い喋らせていただきました。

◆代島司会 ありがとうございました。最後ですので一曲歌っていただけますか。映画のなかの「北上夜曲」の替え歌をぜひ。

◆黒瀬準  ♪ぼくは生きるぞ いきるんだ
       きみの面影胸に秘め
      想いだすのは 想いだすのは
                  弁天橋の碧い空
                   (満場の拍手)
◆辻司会 まだまだ議論を深めたいのですが、時間の関係で今日は終わらせていただきます。
10・8が何だったかということを取り上げてずっと資料を検索したり考えるチャンスを作ってきました。この映画がさらに大きなきっかけとなって議論が深まっていけばいいなと思っています。来年の6月、東京で集会をやりますが、樺美智子さんと山﨑博昭君と糟谷孝幸君とそれから日大全共闘で亡くなった中村克己君の死を考えるということで、時代をもう一度議論しようと。60年安保当時の長崎浩さんに講演をしていただく企画をしています。6月か7月の末には関西でも同種の企画をしたいと思っておりますので、来年またぜひ皆様とお会いできたらと思います。今日はありがとうございました。(拍手)

◆代島監督 来年6月ぐらいに大阪、京都の映画館で公開できると思いますので、その時にはまた応援してください。
             
※2020年10月4日に、東京・渋谷の「ユーロライブ」で開催された秋の東京集会午前の部のトークは、以下のアドレスでご覧になれます。

「きみが死んだあとで」上映とトークの会(東京)

(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月2日(金)に更新予定です。