今回のブログは、元青山学院大学全共闘の黒瀬丈人氏からの寄稿第3回目である。
生い立ちから高校時代、大学時代、そして現在に至るまで、それぞれの時代の流れの中でどう社会と向き合って生きてきたのか、ということが書かれている。
全体で9万5千字に及ぶ労作なので、何回かに分けて掲載していきたい。
第3回目はいよいよ本編、青山学院大学時代前半(1968年の闘い)である。

【青学全共闘への軌跡】

ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く痛いほどに閃光として刻まれている

黒瀬丈人
元青山学院大学全学共闘会議・法学部闘争委員長 全共闘行動隊

<目次>
1 前書き  「青春の墓標」そして-香港の若き魂たちよ!―自由・自発・自主の尊厳
2 序章   第一節~第三節(1949年―1967年)
「団塊の世代」時代の情景からベトナム反戦闘争に至る過程とは? 
1960年安保闘争の記憶/樺さんの死~反戦高協/10.8羽田闘争
3 本章   第一節~第三節(1968年―1970年)
烽火の記憶~青山学院全学闘から全共闘と70年安保・ベトナム反戦闘争
4 終章   1971年以降 青学全共闘/中核派からアナキズムへ 早稲田―1972年虐殺糾弾・
アンダーグラウンド演劇
5 あとがき  鎮魂、そして闘いは終わっていない

3 本章 □1968年 青山学院全学共闘会議(青学全共闘・前身~全学闘)の闘い
―「権門(けんもん)上(かみ)に奢れども 国を憂うる誠なし 
財閥富を誇れども 社稷を思う心なし」(三上卓「青年日本の歌」)-
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《写真:作詞者・三上卓》

 第一節―《1968年》
■4月~9月 青山学院入学(法学部)から全学闘結成へ

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《写真:左・1958年学長就任以来、独裁体制を敷いた故・大木金次郎氏(1969年より院長)。右:故・大木金次郎氏作詞の青山学院大学校歌、下:現在の青山学院大学正門~青山学院HPより転載》(以下、敬称略)

□闘争経過(概略)~1968年以前 
1958年 大木金次郎学長就任
1960年6月17日 大木学長「三公示」(政治的社会的自由の表現・活動禁止)、以後政治的無風状況
1966~67年 芝田進午氏(法政大/哲学・社会学者)講演会開催者処分
 学食値上反対運動
 備品点検問題発生
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1968年4月~9月 青学ブント初の学内デモ行進(約50名) 全学闘結成準備活動
          10月 全学闘結成→大木「三公示」の公示のみを撤廃(実態変わらず)
   11月 第一次8号館バリケード封鎖 全学集会・大木「(建学の精神に反するものは)大学より 出て行け」発言
      この間、理工学部機動隊導入・弾圧
           12月 第二次8号館バリケード封鎖 右翼学生封鎖解除襲撃
                      全学闘6項目要求(処分撤回、機動隊導入自己批判、自治会設立等)
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1969年1月 6項目要求貫徹(桜井学長代行) バリケード封鎖解除 (大木院長へ 桜井学長代行体 制)
   2月 右翼活動(青山を良くする会、青山真理会、青学学生懇談会、青学学生協議会、その後、民主化連合結成・7項目要求)活発化 
   4月 全学闘から全共闘へ組織再編 (大木院長、真鍋理事長、村上学長体制)
   5月 学内右翼自己批判(リンチ)監禁 全学バリケード封鎖 
      大学立法反対/青学生3000名が国会へ抗議デモ 
   6月 バリケード封鎖解除
   7月 村上学長・全学部長辞任 機動隊介入・弾圧・ロックアウト・通行証体制 (真鍋理事長+大木院長+大平学長体制)/渋谷警察署・公安・ 機動隊強権抑圧体制
   8月 抗議行動に機動隊導入・弾圧
    10月 誓約書強制・ロックアウト体制(教授会・職員強制動員) 
    11月 ロックアウト粉砕闘争(警備小屋焼討、機動隊へ反撃)機動隊導入・弾圧
      自治会設立準備委員会予算凍結
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1970年1月~「大学立法体制」への闘争継続
    6月 安保粉砕闘争へ決起、以後闘争は続く・・
※上記のように、1968年学長から1969年院長へ:桜井学長代行→村上学長→大平学長(註:院長は、小中高大の全学を支配、後、幼稚園も併せる)この2年間だけでも、私兵/右翼妨害活動と機動隊・公安に依拠した強権発動が多発していたことがわかる。
多くの大学全共闘運動への反対者として登場する日共・民青は青山学院大学ではまったく登場しない。ただむき出しの右翼・機動隊を尖兵とした強権支配だけがあった。

■解説:
闘争開始/公然化以降、大木学長(院長)は自治会設立を決して認めず、一切の表現の自由を許さず、「私兵」右翼学生、暴力団、統一教会、生長の家学連、日学同を動員、渋谷警察署・公安・機動隊をもって反対闘争を圧殺することに終始する。
桜井学長代理→村上学長→大平学長+真鍋理事長を統括する「絶対君主」指揮命令者として、一切の全共闘との合意事項を無視・破棄した。その最終支配体制が、むき出しに暴露されたのが、1969年以来の大木院長独裁体制である。それは、日大古田支配体制をミニマイズした、同じ構造であり、キリスト教系大学(キリスト教学校教育同盟理事長でもあった)に隠然たる影響力を持ち、明治学院大学/武藤院長ほか、私大強権支配者たちの「ドン」とも言えるものであった。結果、1969年~1989年までの20年間、人間のもつ基本的権利は青山学院大学内では一切封殺されるという青学アウシュビッツを現出させた。
その間、大木は院長に居座り、金と利権と暴力支配にまみれ、政治権力と癒着、本来の研究分野でもある「経済学者」としての能力を、民衆の幸福のためではなく、「金と権力」に発揮し、文部省(当時)・私学連盟などにおいて重職を歴任し、公然たる「ドン」として君臨した。校歌において「神」「愛」「真実」「平和」を語りながら、その魂と行為はヒトラー、スターリン、習近平に匹敵する。佐藤栄作はもちろん、中曽根康弘に至る国家権力は、大学立法体制をいち早く確立した大木院長の弾圧体制に賛辞を惜しまなかっただろう。
そして、1977年神学科は廃止された。英語教育と基督教建学の精神も、旧教の腐敗と闘ったマルティン・ルターも、至上の愛と平和を説き、実践したイエスキリストも大木体制の青学では死んだのである。
1989年急性心不全により、85年のその悪名高い生涯を終えた。大木の死後、深町院長体制で、徐々に学内民主化が始まったのである。その具体例が、1977年神学科廃止以来、同窓生・卒業生が「青山学院基督教学会」を興し、研究・啓発活動(「基督教論集」発行など)を継続していたことに対し、大木は「(青山学院の)名称を使うな!」(いわゆる「名称訴訟」)を起こし、その後学会に対し、会長への追訴訟・学会自体への追々訴訟を起こし、良心的基督教者への攻撃を、その死の当日まで続けたのである。(1986年~1989年まで)青山学院は、その名称さえ大木の私物だったのである。その訴訟は、独裁者の死とともに、「青山学院大学同窓会基督教学会」と名称を変えることに決し、3つの訴訟も取り下げ、となった。
いかに権力を振るったかは、下記、歴任した重職をご覧いただきたい。
歴任:日本国際問題研究所理事、文部省教員養成審議会会長、私大連盟会長、全私学連合代表、文部省私大審議会会長、私大退職金財団理事長、全日本私立幼稚園連合代表、青山学院大学院長、青山学院幼稚園長、従三位、勲一等瑞宝章、藍受褒章受章。
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
《イエス・キリストの言葉/マタイ伝4章》―
欺瞞的名誉とカネと権力権勢に生き、弾圧体制を築いた大木に象徴されるものこそが、われらの敵であり、学生・保護者・教授・職員たちの幸せと、世のひとびと、苦しみ喘ぐひとびとの心の救いこそが、我ら青山学院大学全共闘運動に突入していったわたしの初心であり、その源泉を失ってはならない、と深く思い致す。しかしながら、既に故人となった大木氏に対しては、合掌冥福を祈念し、来世には私利私欲でない真のキリスト者として再生を願う。
   
●青学に入って感じたこととは?―自治会が存在しない?学生会会長が学長?―
《1968年》
1968年4月青山学院大学(以下、青学)法学部に入学した。
大学受験は、早稲田/社会科学・国学院/文・法政/経済と、青学/法を受け、全て合格だった。
青学を選んだのは、単純に、自宅から近い、キャンパスが美しい、なじみの渋谷が近かったからで、ほんとにこれも直感で決めた。早稲田政経は、受験勉強で特化していなかったから、諦めた。入学の書類を、早稲田、国学院、法政にもらいにもいかなかった。母親が、合格したのだから、一応もらいに行きなさい、と言っていたが、行かなかったので、母親は自分でもらいに行った、と後で聞いた。
ところが、事前の勉強不足だったため、入学して知ったのだが、大学には自治会がない、という。高校にもあった生徒会のような組織もない。
学生は、文化団体連合(文蓮)と体育会、応援団、教授によるアドバイザーグループ(通称、アドグル)、ゼミ、学友会などに所属し、それぞれふつうの日常を送っていた。なんと学友会の会長が大木金次郎学長、だと知った。さらに、「大学三公示」という60年安保以後、出された学長公示、というのが徹底されており、ほとんど「政治的社会的無風状態」にあった。
青学は、前身が、東京英学校で、それが、東京英和学校+東京英和女学校になり、それぞれが、青山学院+青山女学校、最終的に青山学院となったのが、1927年の頃である。
その影響があったのだろう。キャンパスの雰囲気は、世間一般が思っている通りで、1968年当時のアイビースタイル(平凡パンチ創刊号表紙のような)の男子学生、華やかなファッションショーのような女子学生たち、それに伝統の応援団・体育会、武道系、スポーツ系、技術系のゴルフ部や自動車部など、文連の音楽系サークル、英語研究や茶道華道、研究系などのほか、ごく一般にある同好会も含めて、極めて華やかで盛んだった。そのまま、社会や国際情勢に関係なく、青学の「無風」、つまりは政治的無関心・趣味と娯楽享楽・10年一日の勉学一本、4年間過ごせば、そのまま企業へ入り、企業にビルトインされる。そうして政治的社会的異議もなく、無傷無風状態で生活していく。大多数の学生(全学約8000人)はそのような「華やかな」雰囲気のなかで、見かけだけは羊のように生きていた。私の感覚で言わせてもらえば、である。ミッション系では、ICU,立教、明治学院、上智、なども同じような状況だったと思うが、如何せん、「自治会」がない、というのは、単純におかしい、と思った。経緯を省いて言うと、現在でも青学には「自治会」が存在しない。そして、牧師養成のかなめであった文学部神学科は、キリスト教(プロテスタント)の大学とは裏腹に、1977年廃止されたのである。

●「学長三公示」と大木独裁体制の腐敗
当時の学長・大木金次郎(当時の理事長は真鍋)の「学長三公示」とは、1960年安保闘争のさなか、そうした活動を学内で「制圧禁止」するために掲げられた「青学における弾圧」公示である。学内での政治的行為・行動・活動一切を禁止する、ということを骨子として制定された「大木独裁体制」の象徴であった。したがって、①自治会設立は認めない、②一切の政治的活動は学内外で禁止、③これに違反した学生は退学等処分対象とする、というものである。のちに、この三公示は撤廃されるが、その骨子である政治的社会的活動は禁止(処分対象とする)する「体制」はしっかりと残された。
青学に入学試験で入ってくる学生たち以外に、推薦でほぼ無試験で入学している学生もたくさんいただろう。これは、聞いた話であるが、高等部から上がってきた学生は、その成績によるが、文学部英文科以外は、無試験で入学できた、と聞いた。成績能力により、希望する学部にストレートで入れるわけではなく、振分けされた、と聞く。体育会においては、スポーツ系の成績を高めるため、また、単に縁故などにより入学するものも多数いたであろう。大木が、配下の職員、教授会、理事会、学生会、体育会、文連などに絶大な支配力を持っていたことは、全学闘から全共闘運動展開の過程で、常に右翼体育会、暴力団、学外反共勢力が妨害と攻撃を強めて行ったことに端的に見ることができる。これは、「小さな日大の古田」である。のちに、連帯していく明治学院大学においての武藤もそうだった。ミッション系のおとなしい羊たち、華やか大学風景、その一方で支配構造を形成する大木独裁構造があった。その裏には、膨大な資金留保/集金システム・大手銀行・大手建設会社・各種納入業者・縁故関連の、大木を中心とする利権構造があったのである。私の敵は、こいつだ、とそのときは漠然として、まだ確信に至らないが、感覚が芽生えていた。4月である。

●歴史研究部とマンドリンクラブ
入学式のあと、にぎやかで、華やかな各クラブや同好会の新入生勧誘の場が、メインストリートの銀杏並木にずらっと並んでいた。私は、二律背反のように、歴史研究部(以下、歴研)とマンドリンクラブの2つに入部。歴研部室には、ブントの先輩たちがいた。同じクラスになったK君(故人・2歳年上)は、私が歴研部室で先輩たちと話をしていたら、部室のドアをバッと開けて、「ここは、ブントの部屋ですか!」と入ってきたのには驚いた。彼は二浪して青学法学部に入学してきた。体格が良く、筋肉質で、ハンサムな男らしいやつだった。その後、彼といっしょに、クラスで檀上から、自治会をつくろう、という呼びかけをした。彼は忘れられない仲間だった。
4月には、自身、王子野戦病院反対闘争に、またひとりで、参加していた。ブントとともにやる、という決心がなかなかつかなかったが、以後行動は歴研とともに、社会科学研究部(以下、社研)を中心とするブントの先輩たちも併せて一緒に活動を展開していく。
マンドリンクラブは、ギターが好きだったので、ギターパートとなり、ここで親友のM君と出会った。彼は実家が中目黒の靴屋で、よく、喫茶店で長時間いろいろな話をした。今も連絡は取りあっている。唯一、「学生時代」(ペギー葉山)のような時間を送ったのが、このマンドリンクラブの7月千葉の岩井で行った合宿、秋の定期演奏会のための練習、である。リーダーは中村さん(指揮者4年生)、といい、のち、CM作曲で有名になる。おおらかで、明るく、渋谷でアジ演説をしていた私のもとにスタスタと寄ってきて、話しかけてくれた。思わず私もヘルを脱いで敬意を表したものだ。もしこの嵐のような激動に身を投じなかったら、中村さんのもとで音楽活動をしていただろう。中村さんとクラブの先輩たちと同期で、渋谷の喫茶店にいったとき、いかつい国士館の数人の学生がきて、隣の席に陣取った。こちらは女子が多かったので、うらやましかったのか、ちょっかいを掛けてきた。ちょっとこわかったが、彼は気さくに彼らに声をかけ、しばらくして彼らも笑顔で、仲良くなった。そういう才能のあるひとだった。ひとの警戒を解いて、おおらかにさせる何かを持っていた。このクラブの活動は、5月と7月がメインで、あとは、闘争に入っていった。私のいわゆる学生時代らしき一瞬の光は、このときだけである。もうひとつの閃光が待っていた。
このマンドリンクラブでも、のち全共闘運動に参加したT君がいた。M君もシンパシーを持ってくれていた。
    
●ブントに参加―民青との激突、東大・明大闘争支援
◆民青都学連行動隊
・東大闘争支援のデモ、銀杏並木―安田講堂を前にして、民青の妨害を受けながら、行った。もちろん、赤ヘルである。のち、東大闘争支援の構内デモ後、150名ほどが泊まり込みをしていたとき、民青都学連行動隊200名ほどが深夜、デモをかけてきたことがある。みな起き上がって、対抗態勢を取った。自分は、2階のベランダから、民青のデモ隊めがけて、牛乳瓶を投げつけた。民青はその後、撤収した。遠くからシュプレヒコールを上げていた程度のもので、彼らも怖かったのだろう。大したことはなかったが、深夜の寝こみに、こちらも「安眠妨害」されたので、角材で突っ込んでやればいいのになあ、と思っただけである。ブント指揮者からはそういう指示がなかった。
・別な日に、明大闘争支援の動員デモも夜間行った。ブント上部からの通達で、「学生服を着たものには手を出すな」と言われたので、小競り合いはなかったが、ビンを片手に、何かあれば、これで殴り合いをしよう、と思っていた。右翼学生と思しき数名が、こちらをにらみつけていたことを覚えている。

◆千代田地区民青―あかつき行動隊
・激しかったのは、昼間、明大における千代田地区民青(通称:あかつき行動隊)との闘争である。これが、地区民暴力部隊との初戦であった。今でもはっきりと覚えているが、ひげ面で、どうみても30代以上と思われる、黄ヘルをかぶって樫棒を持った民青がいた。明大の校舎を占拠していて、ブント部隊もそれを突破しようとしていた。1階中庭部分に突き出た校舎で、ブント部隊2名がバリケードを組んで放水している地区民青2名とやりあっていて、それを応援した。投石はきかなかった。とにかく放水でずぶ濡れになった。その後、2階部分の通路から突撃してこようとした3名の地区民青に、めちゃくちゃに投石をして撃退。へとへとになった。民青都学連の学生と、地区民青とでは鍛え方が違う。後年、宮崎学氏の「突破者」という著作で知る。1970年以前、新左翼同士の内部闘争とは異なり、「殺す」ことをも辞さない武装と結束があった。ご承知の方も多いと思うが、「あかつき」というのは、日共の「あかつき印刷所」から由来している。実際は、○○地区民主青年同盟、である。とにかく鍛え上げた労働者である。総括集会を行っていた時も、校舎の1階から3~4名が突撃してきたので、私は白兵戦をして、ほんの1m手前の地区民青を石で殴りつけ、1階出入口へ逃げ込もうとするので、大声でわめき威嚇して、追いかけた。私は身長が178㎝あり、大きかったので敵も怖かったのだろう。逃げるのも早かった。それから突撃は止んだが、今度は、4階の窓から投石してきたので、私も投石して反撃した。しばらくして、どっと疲労感が湧いた。手強い相手だった。
・当時1966年の頃だろうか、青学で「食堂値上げ反対」「備品点検問題」の抗議活動があった、と聞いた。それには、民青(キャップをYという)、ブント系のひとたちが、少数で集会とシュプレヒコールを上げる程度の動きはあったそうだ。なので、本格的な民青との闘争は彼ら青学ブントの先輩たちも経験したことがなかったと思う。青学の民青は、少数かつ非常に静かで、外人部隊を入れることもなく、運動の過程でも妨害者として正式に登場はしていなかった。むしろ、右翼系の組織が眼前の主敵だった。この民青キャップのYは、東大駒場で行われていた民青の大会を、偵察にいったとき、焚火をしていた数名の民青の見張りに声をかけられ、応えに窮して「Y君と会って話したいので、呼んでもらえる?」と逃げたところ、本当に、Yが見張りのひとりだったやつと一緒に、50mくらい手前に来た時、その見張りに、吐き捨てるような小さな声で「トロだ!!」と言ったのが聞こえたので、一緒に偵察しにきた文学部闘争委員長Y君、法学部I君、あと一人の4人で、脱兎のごとく逃げたことがある。民青の連中が「こらあ、待て~!」と大騒ぎしていた。多分、大会も混乱したことかと、推測できる。このYは、当時の市川染五郎に若干似ていた。青学構内では、民青の看板もビラも、集会も何もなかった。私が激闘したのは、本体の日共・民青部隊だった。

●6.7ASPAC粉砕闘争(赤坂見附)から神田カルチェラタン闘争
―1968年6月21日―初の逮捕
カルチェラタン闘争の前段、6月7日、清水谷公園でASPAC粉砕決起集会とデモに参加した。溜池交差点を出るあたりから、機動隊の盾がずらっと押し寄せてきた。左手の霞が関方面から、中核派のデモ隊が規制を受けながら、降りてくるのが一瞬見えた。この頃、「激動の7ヶ月」を過ぎ、中核派も疲弊の極にあったようで、規制をはねのけることができなかったのだろう。ブント部隊約1000名、私は同クラスのK君と最先頭にいて、機動隊に対して、投石・投ビンをもって、弾圧と規制を押しのけようとしていた。
私、K君、ほか1名が最先頭だった。機動隊は少しずつ後退していたが、とにかく夢中で投石を続けた。その後の記憶がどうしても思い出せないが、ほんとうに夢中だったのだと思う。逮捕はされなかった。K君も無事だったが、その後の機動隊の反撃で、喫茶店に逃げ込んだI君や、相当数の学友が逮捕された。
溜池交差点を通ると、あのときが甦る。フランス5月革命が大激動にあった。欧州全域、ドイツでも、イタリアでも、米国でも世界の学生と労働者、市民が、ベトナム戦争反対を基軸に、スチューデントパワーを中心に、怒りを奔流させていたときである。米国では、ウェザーマン、ブラックパンサー、マルコムX,非暴力学生調整委員会が有名で、私の耳にも入って来ていた。同時にソ連のチェコ人民弾圧に抗議する闘争も燃え上がっていた。自由の抑圧、弾圧にもう黙っていなかったのである。


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《写真上:中大から出撃した藤本敏雄反帝全学連委員長率いるブント部隊―1968年6月21日、ネットより転載》

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《左上:コロンビア大学学生の闘争のなかの姿を描いた『いちご白書』/右上:ソルボンヌ大学から始まったフランス学生叛乱「5月革命」-労働者ストにも波及―ネットより転載引用》

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《1968年2月5日、米大使館の前で、権威の象徴である同大使館に対して抗議運動を指導するルウディ・ドチュケ氏》(©/AP/Press Association Imagesより転載引用)
                                                                                                                                                         
6月21日、ブントは、中大中庭で約3000人の部隊(赤ヘル)を集結させ、藤本敏雄全学連委員長の激しいアジ演説のもと、角材とヘルで武装し、駿河台通りに机といすを持ち出し、バリケード封鎖を試みた。
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《写真:私の第一番目逮捕後、反撃に転じたブント部隊。白い丸印部分が青学文学部闘争委員長Y君(故人) 》
これを神田カルチェラタン闘争(ASPAC粉砕闘争)《※ASPAC=帝国主義首脳会議、現在のG7に当たる》という。青学ブント部隊も、中大に集結、自分もその一員として参加した。中大に到着、総決起集会後、校舎の机といすを、無我夢中で運びだし、駿河台通りに並べた。歩道の敷石を夢中で割った。他の2~3名の学友も。自分はノーヘルで角材もなかった。報道が写真を撮っていた。いくつかの破砕された石が並んだ。同時に、駿河台通りに、お茶の水駅方向から、機動隊のジュラルミン大盾、投石防止ネットが、びっしりと押し出してきた。距離、100mほど。これも夢中で自分のこぶしの2倍あるだろう重たい石を投げつけた。すると、大盾が前のめりにガツンとなった。数度投げた。怖いという感覚はあったが、夢中だった。砂川闘争、10.8羽田闘争で経験はしていたが、この大盾とびっしり押し寄せてきた機動隊の厚みと圧力を自分の眼前で受けたのは、初めてであり、正直怖かった。「権力に全実存をさらす」(小野田譲二)というほど恰好をつけるものではなかった。隣でひとり投石していた仲間が逃げたので、ふと、後ろを振り向くと、ほとんどの仲間が逃げ去って自分ひとりだけが、ポツンと残され、通りの中央、机といすの斜め脇にいたのである。まさしく権力の前にひとり全実存をさらすことになった。思わず、逃げようと走ったところ、歩道にいた公安刑事がタックルしてきて、私は初の逮捕者となった。その公安刑事は、背が小さく。ズボンがタックルしたため、破れていて、ケガをしていた。年はどう見ても当時で50代だった。変な話だが、今にして思うが、そんなに無理してタックル、ケガして何になるのか、哀れみを感じた。ズボンは奥さんに直してもらったのか、など変なことを考えていた。
今はもう鬼籍にいるだろう。この逮捕容疑は、「往来妨害・公務執行妨害」であった。往来妨害罪など聞いたことがなかったが、確かにそうだな、とつまらないことを後日思ったものだ。
警察署の道場に連行され、持ってもいなかった角材を無理やり持たされ、かぶっていなかった赤ヘルをかぶせられ、写真を撮られた。(繰り返すが、私はこの闘争にはノーヘル、角材なし、だった)その後、久松警察署へ留置され、弁解録取書を取られ、黙秘します、と答えて、4泊5日で放免となった。地検の取り調べがあったが、長椅子にほぼ終日座りっぱなしで、検事に呼ばれて第一声言われた。「お前、反戦高協にいたな・・」、即座に「そんなこと関係ないでしょ」と答え、検事をにらみつけた。調べの詳細はほとんど覚えていない。とにかく黙秘します、だった。ところが、自分のミスで、青学の学生証を持っていたので、身元がバレてしまった。放免されたあと、学生部長に呼ばれ、注意処分となった。停学・退学処分にはならなかった。理由はわからない。逮捕された他のひとたちも同じだったと思う。敢えて聞いたこともない。
この闘争で、39名の逮捕者が出たが、うち4名が青学ブントだった。うちひとりが、流山児祥氏(現・演出家協会理事長、アングラの帝王、と評価)、のちの初代文学部闘争委員長Y君(2020年春他界、奥さんの実家「○○の卵」販売に携わっていた)、のち革マル系シンパとなるY君(10数年前に他界、元大手サラ金会社取締役)、わたしの4名である。その時のことを、救援対策の女子学生が、「三つ柳にひとつ藤」と語っていたそうである。 
母は、父との離婚後、ずっと働いていた。1965年、義父との再婚後も、である。青学入学後、母のために、少しでも自分自身でお金を稼ごうと思い、5月から朝5時に起きて、牛乳配達のアルバイトを始めたのだが、この闘争で突然逮捕されたため、牛乳配達のアルバイトはそれで中断してしまった。母にも牛乳屋にも、迷惑をかけた。母が牛乳屋に紹介してくれたからである。自分は第6コースという配達ルートを担当していたから、その分、負担となってしまったと思う。ちなみに、後に革マル派シンパとなったY君は、父が警察官だった。
後日、家庭裁判所に呼び出され、19歳未成年者であったため、母も仕事を休んで同行しくれた。家裁審判は、「審判不開始」-つまり、少年審判手続きには入らない、というものであった。母にはすまない、と思った。
放免となった翌日、6月26日反安保統一行動総決起集会デモに、青学ブントの赤ヘルで参加したが、地下鉄構内で、向かいのホームに私服公安刑事3名が、下を向いてバレないようにお互い距離を置き、歩きながら監視しているのを発見。バレているのになあ、とふと哀れみを感じた。久松警察署の監房で、担当の警察官(50歳位)が、出房のときに、わたしが着ていた紺のヤッケをみて、「乱闘服か?ケガするなよ」と言って笑いながら話かけてきた。ふつうのおじさんだった。優しいひとだった。

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《写真:ASPAC粉砕/神田カルチェラタン闘争・1968年6月―写真下の一番左に小さく写っている白い丸印が、ノーヘル・角材の黒い服が筆者》

●1968年春~1969年、青学で出会ったひとたち
◆藤本敏雄氏は、青学ブントのフラクション学習会か何かがあったとき、青学に来られて、膝を交える近さで、 いろいろな革命談、特にキューバ革命、チェ・ゲバラ(医師・ゲリラ軍リーダー)、山谷・釜ヶ崎(現・あいりん地区)などの権力の力が及びにくい地区を拠点にゲリラ的に権力に攻め上る、というような独創的な話を、してくれた。とても面白く、魅力的な方だった。存命ならもっと興味ある話を聞きたかった。

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《写真:若き輝きを放つ故藤本敏雄氏-ネットより転載引用》》
◆三上治氏も経験豊富な鋭い革命観を話してくれた。ブント叛旗派の精髄を体現している。真摯な行動力あふれる人間。ほんとうに革命ができる、と思った。 反戦高協のときの、革共同の中心メンバーたちが眼前にいた時と同じく、運動の中核にいるひとたちには、それぞれの熱情・覚悟・革命観と意志が感じられ、高校生から青学生になって、こうしたある意味、「人間性・熟練・手練」に優れたひとたちに出会えたのは、財産といっていい。
◆ブントにはまた多彩な先輩たちがたくさんいた。荒氏もそのひとりである。翌年、中大か明大か忘れたが、日大・東大全共闘を中心に沖縄闘争勝利の決起集会があったとき、中核派の全学連副委員長・水谷氏がアジ演説をしているその下で、荒氏が「お前ら、反帝愛国青年だよ~!」と野次っていて。自分は演壇近くにいて、中核の白ヘルをかぶりつつ、なるほど、変に感心していた。(中核派は、沖縄奪還闘争、を呼号していた)-次に、ML派のリーダーが、演説していた。その時も、彼は「お前ら、毛林(もう、と、りんぴょうのMとL)派だよ~」と野次っている。また、なるほど、と思った。頭の直観力が優れていて、かつパワフルな面白いひとだった。砂川闘争で見た、警官を指弾して立ち往生させていたのを、彷彿とさせた。
◆名前は忘れたが、歴研の部室にその日、一人でいた時、明大ブント幹部のひとがブラっと入ってきた。
何を論争したのか忘れたが、ちょっと喧嘩のようになったことがある。自分も19歳の若輩だったから、反発心が強かったので、粋がったのだろう。もっと話をじっくり聞ける自分だったらよかった、と後年思った。
◆中大ブントに飛田氏がいた。彼の奥様は、私の家内の親友である。大きな目をして真っすぐにひとを見て、誠実な人柄で、いろいろな話題が豊富だった。「全共闘白書編集委員会」の前田氏と飛田氏は、最近お聞きしたのだが、中高での友人だった、と聞いた。不思議な縁である。飛田氏から聞いた話で、「連合赤軍の森な、あれ、あんなになるなんて、はじめのころは思っても見なかったよ」と後年、語っていた。飛田氏の祖父は、「侠骨一代」(映画)モデル、血盟団/井上日召の朋友でもあった義侠のひと、と前田氏の『情況』稿にある。
各氏に共通していたのは、独創的な自身の革命観、優しい包容力、人間的魅力がある。しかし、対敵においては、妥協を嫌う断固とした闘争心があふれていたことである。藤本氏、荒氏、飛田氏もすでにあちらに逝ってしまった。惜別のことばを贈りたい。

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《左から:『夢の肉弾三勇士』『天使の爆走』―当時の劇団女優/田根楽子(らっこ)、赤星エミ、北村魚(とと)/左:1976年再演時チラシ~敬称略》
◆全学闘の副議長だった流山児祥氏は、その後、1970年に「演劇団」を立ち上げ、私も縁があったのだろうか、その後1975年ごろまで、音楽(劇中歌)を担当したり、ちょっとだけ出演したり、深く関わることになった。この頃の代表作が、『夢の肉弾三勇士』である。ほか、多数の作品を矢継ぎ早に打った。凄まじいほどのエネルギーだった。この演劇団の活動から、演劇を志向して、1971年早稲田大学第二文学部に試験を受けて入学することになる。初代議長のS氏も演劇団メンバーとなり、その後関わっていくようになる。今でも、企業活動で長い間交流が中断していたが、60代になってから再交流するようになった。彼の処女作を、『花びら雫』(1970年5月)という。
ブント赤軍派の日本航空―「よど号」機ハイジャック事件、その年の11月、三島由紀夫が市谷自衛隊本部で、国軍創設を訴え、自らの命を捧げて、森田必勝とともに、割腹自殺した。歴史的大事件が多発していた。
◆その後、全学闘から1969年4月全共闘へ組織改編を行っていく過程―1969年の弾圧体制との闘いで、全共闘へ参加あるいは、シンパとして知り合ったのが、石原信一氏(現・作詞家協会理事―当時、青山小劇場主宰)、夏目房之助氏(アニメ評論家・夏目漱石の孫)、ねじめ正一氏(直木賞作家・詩人)、伊達氏(青学中核派/現・MXテレビ社長)、三遊亭円楽氏(全共闘シンパ/落語家)、及川恒平(演劇団/歌手/小室等の六文銭)などで、多彩な人々とも知己を得ることになる。ひとり、文連委員長だった山本寛君は、中核派同盟員で、1980年代の浅草橋放火事件で全国指名手配となり、ながく交番などの指名手配ビラが目を引いた。その写真は、彼が逮捕されたときの写真で、若かった。風貌がチェ・ゲバラに似ていたので、みんなが「ゲバラ」と呼んでいた。今はどうしているだろうか、革命軍にいるのだろうか、それはわからない。彼が主宰していた同人誌『阿礼』『櫓人』には、高野庸一氏(評論家)、ねじめ正一氏も寄稿していた。同人の集まりは、新宿ゴールデン街の「石の花」というスナックだった。彼は忘れられないひとりである。

●9月立川基地突入闘争参加、中核派として進む決意固める
前述のように、7月にマンドリンクラブの合宿に参加して、唯一、学生時代、という思いをした。キャンプファイア、伝統の先輩後輩入り乱れての取っ組み合い、交流、トイレと入浴・食事以外は練習、という合宿は楽しかった。8月の夏休み期間中、いろいろな本を読み、闘争のことを考えていた。反戦高協の経験、ほんの3月まで活動していたことの括り、けじめ、青学ブントとの関わり、どの道を行くのか、など。9月になって、自分の行く道は、革共同全国委員会(中核派)ではないか、と思うようになった。秋山氏や北小路氏、本多氏、山村氏(「前進」編集人)、丸山氏、ほかの戦闘的な熱情あふれるひとたちの顏が浮かんだ。実際に、マルクス主義学生同盟に加盟するのは、1969年に入ってからだったが、夏休み後、9月22日立川基地突入闘争に決意を決めて参加した。相当数の学生、反戦青年委員会の人たちが逮捕されたが、基地突入はなされた。機動隊に追われ、自分と参加学生の3人は、立川市民の方の民家の台所にかくまわれた。市民はその当時、学生をかくまってくれたのである。王子闘争でもそうだった。
青学にいた高等部出身の中核派(加盟はしていなかった)シンパ~と言っていい、グループに会った。それが、高等部出身のK君、S君(1970年以降リーダー)、T君、である。のちに、小学校時代のクラスメイトI君もいた。1969年春段階で、中核派グループは、15人ほどだっただろうか、革マル派グループも同じくらいだったと思う。青学ブントは闘争を主導していた「老舗」で、30名ほどだったと思う。1968年の春、5月頃だったろうか、突然、学内にブントの旗を掲げて、赤ヘルデモが行なわれた。「三公示体制」への明確な挑戦である。そういうデモが準備されていたことを、自分は知らなかったが、正直、感動的だった。
「三公示」が、初めて実力で粉砕されたのだから。

●10月全学闘結成大会―「三公示体制・大木独裁粉砕・自治会設立」の小さな烽火
10月6日全学闘争委員会結成大会の前日、渋谷センター街を150mほど行った角を左に曲がったところに、シャンソン喫茶「シャンソン・ド・パリ(通称;シャンパリ)」に、副議長流山児祥、法学部I君、文学部Dさん、Kさん(のち、女優)、文学部闘争委員長初代のY君など10名ほどが集まり、立て看板防衛、結成大会などの準備、意志一致、話合いを行った。ブントの他のメンバーはなぜかいなかったが、今はその理由はわからない。とにかく、準備がすすんでいた。結成大会は、中央銀杏並木~チャペル前のキャンパスに、大きな立て看板を据え、机を並べて、始まった。S議長のアジ、副議長流山児祥のアジに続いて、私がアジを行った、と記憶する。その前に、学生会館前の広場で、結集を呼び掛けるアジを私は行った。
結集呼びかけのアジ演説は、その後ほとんど私がすることに、成り行き上なってしまい、「三公示」の不当性を訴え、自治会設立の必要性を中心に行ったのだが、シュバイツァーの「人間はみな兄弟」、ガリレオ。ガリレイの「それでも地球は動く」というようなことも訴えた。

同盟登校と自主討論を追求いよう!1968.10.17_page0001

《法学部闘争委員会ビラ》

今から思うと、幼く素直なアジだったが、学生も青学で人間として自由に生きるべきだ、集会・結社などの自由は揺るがない、というようなことを訴えたかったのだろう。結成大会が、別の校舎で行われた。正式に議長Sさん、副議長流山児祥、私が法学部闘争委員長、Y君が文学部闘争委員長、ほか経営学部、理工学部、経済学部、神学科のリーダーが決定され、それぞれ決意表明がなされた。その最中、革マル系シンパ3名の野次が後方であった。同クラスK君(いつも行動を共にしていた)と、駆けつけてみると、翌年、革マル派リーダーになるKさん、Oさん、Fさんがいて、野次をやめろ、というと、黙って睨み返した。その時は、それで終わったが、妨害行為をするのが、右翼学生ではないことに違和感を覚えたものだ。Kさん、Fさんとは、70年代、親しい友人となった。結成大会は、予想していた職員や右翼学生・体育会系反対派などの妨害行為もなく、デモ行進も行われた。渋谷警察署の介入もなかった。
この日から、青学全共闘の闘いが、セクトの示威行動・主張のみではない、青学生を糾合していく端緒となったのである。全学闘・全共闘運動は、セクト(ブント)の人間を核としたが、その運動はセクトの主張を実現する運動ではなかった。そういう在り方もあったのは事実だが、その源泉にあったのは、大学の枠内に閉じ込められ、社会や政治や世界の動きとは強制的に隔絶される「三公示体制」、その打破、全学生が大学においては主人公であり、主権者であり、人間として自由であること、それらを圧殺する一切の弾圧に反旗を翻し、闘ったのが全共闘運動のほんとうの姿である。創造する学問、教授と学生がカリキュラムの消化、不毛の一方通行の教学過程ではなく、共に意見を交わす、研究・研鑚。学問をしていく、そのような生き生きとした大学を目指すものだった。
そして、全共闘運動/個別学園闘争の一点から、それは全面展開していくエネルギーを内包している。(社会主義青年同盟解放派全学連―「一点突破全面展開」テーゼ)-学生抑圧体制の根幹を突き詰める活動をしていくと、国家・政府権力機関・構造―強権支配構造に突き当たるのである。それは、市民、労働者、農漁民、知識人、老若男女、人種、民族を問わず、すべての人間において同様な意味をもつ。故に、その運動は真理にもとづく普遍性をもつのである。支配するものをも含む普遍性である。革命はひとつのありようとしてだが、国家権力を支えた軍隊・警察が革命側についたことにより、成功する、また、彼らが情勢において瓦解する、ということもあり得る。何故か?このことは、普遍的真理において人間すべてが平等なのだ、ということではないのか。「善人往生す、いわんや悪人においてをや」(親鸞聖人)-右翼、警察機動隊、公安刑事、現場で尖兵として働かされている彼ら自身こそ救われなければならない、ブッダも、イエス・キリストもまたそう教えている。だが、そういう思いを底辺にもちつつ、厳然たる眼前の敵は、彼らだったのである。彼らは私と仲間を襲撃し、逮捕拘束し、傷つけ、運動を破壊したからである。

●影響を受けた本とは?
19歳~20歳のこの頃、読書がなかなかできなくなっていたが、それでも、「前進」「解放」(革マル派、解放派)、「共産主義」(ブント)、「前衛」(日共)などの機関紙誌や様々なパンフレット、政治ビラなど以外に時間があれば、読んで「栄養補給」し、影響を受けた本がある。

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それは、小野田譲二「遠くまで行くんだ」、サルトル「実存主義とは何か」「存在と無」、ロープシン「蒼ざめた馬」(サビンコフ).カミュ「正義の人びと」―カリャーエフ(詩人)―、「マフノー運動」(アナキスト連盟)である。
小野田譲二氏の”遠くまで行くんだ″というフレーズは、こころに響いた。セルゲイ大公を暗殺したロシア社会革命党戦闘団カリャーエフの行為と思い(「正義の人びと」)も響いた。彼は、大公の孫たちが乗っている馬車には、爆弾を投げなかった。大公がひとりで乗っていた時に決行し、のち逮捕後、死刑となった。白軍、ボルシェビキ赤軍と戦ったマフノー運動の正義性、トロツキーに殲滅されたクロンシュタット水兵軍団の闘いも。実際の闘争のなかで、胸に染み入った。戦闘団のサビンコフの闘いも、である。圧政圧殺するものは、誰であろうと敵ではないのか、教条的な「思想」にとらわれてはならない、生きている自分と、生きている人間の苦しみや悩みや、現実の人びとのなかで、闘う実存性こそが、自分の道だと。

●10・8新宿第一波米軍タンク車阻止闘争、10・21第二派阻止闘争(騒乱罪適用)最先頭へ  
~シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて 
 ときの流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと 戦うため~「(世情」中島みゆき)

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《写真左:新宿駅東口広場を埋め尽くす約2万人の反戦・学生・市民/右・下は構内を席捲する学生部隊、この中に私もいた―10.21新宿米軍タンク車輸送阻止闘争。機動隊約3600名を圧倒、この闘争はベトナム人民を勇気づけた。ちなみに、10.21は学徒出陣の日にあたる》―ネットより転載―

1968年10月8日、私は中核派部隊の一員として、白ヘルを装着、新宿駅―米軍タンク車輸送阻止の第一次新宿闘争に参加した。ブント、ML派、解放派などとともに。解放派のメンバーが、機動隊に逮捕されそうになったので、救出したことがある。(逮捕者144名)米軍タンク車は、1967年8月に新宿駅構内で衝突事故を起こし、大炎上、米軍がベトナム戦争で使用するジェット燃料が積載されており、70~120両の列車が連日、新宿から立川基地・横田基地へ輸送されていることが、暴露されたことに由来する。10.21国際反戦デーを前に、私もまだ同盟員ではなかったが、中核派ヘルメットをもらい、この前段闘争に加わったのである。青学全学闘結成の2日後である。ちょうど、67年10.8羽田闘争の1年後となる。
その後、10.21新宿米軍タンク車輸送阻止闘争に加わった。決起集会後、国鉄(現JR)代々木駅に到着した電車を降り、ホームから線路に飛び降り、新宿駅方向へ線路を、鉄パイプを持ってデモ行進した。右手遠くに、公安私服刑事1名を発見したので、角材を振り上げて追いかけたが、もんどりうつように逃げ去った。
新宿駅東口広場は大群衆が取り巻いており、映画か何かの看板があり、私は中核派の最前列にいた。構内を仕切る鉄板柵を、リーダーのアジ演説後、最先頭にいた他の仲間2名とともに、闘いの狼煙・太鼓のように、ガンガンと叩き、めくれ上がった下の端をさらに破壊し、ひとが通れるように鉄板をさらに破壊した。その突破口から、続々と侵入が始まった。中核派以外に、革マル派、ML派、第四インター、フロント、共学同、民学同、社会党協会派(反独占)、反戦青年委員会各地区、それを大群衆がびっしりと東口、西口を埋め尽くす状況だった。構内の第四機動隊ほか、5機団を投石で追いかけた。彼らは、だんだん南口階段方向へ引いていき、階段上で固まっていた。投石を振り絞って無数に夢中で投げた。10.8羽田闘争では丸腰の高校生部隊だった。1966年10月の反戦デモ以来、サンドイッチで機動隊に挟まれ、脅迫・暴言・暴力リンチを受けながらのデモ行進だった。傷だらけだった。10.8新宿闘争から第二弾へ続く、この日は夢中ながらも、こころが嬉しく弾み、死んでも構わないと思って全力で闘った。あの第四機動隊が逃げたのである。(※騒乱罪適用/749名逮捕、機動隊制圧時、テロ・リンチ行為が多発した。多くは、党派の仲間もいたが、地方動員の仲間、一般市民である)ベトナムのひとたちを殺す戦闘機、爆撃機の燃料輸送は止まった。危険な高揮発性ジェット燃料を密集した都民の間を通過させることを止めた。

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《写真:「10.21とは何か」より転載引用。中央白ヘル3名のうち1名が私自身であるー中核派最先頭だった》

今でもどうしても思い出せない。どのように撤収したのか思い出せない。夢中だった。
後年50代のころ、企業の仕事でベトナム/ハノイ駐在時、仲良くなったベトナムの友人(50代くらい)に、昔こういう闘争に参加した、と話したことがある。彼は覚えていて、右こぶしを高く上げて、感激、手を熱く握りしめてくれたのである。ベトナム駐在時、いつもついてくれたドライバーのクンさんが、小学校時代、ハノイ爆撃のとき両親と逃げ回った、怖かった、と話してくれた。また、現地合弁企業の副社長タオさんは、中越紛争時従軍経験があり、もうひとりのドライバーだったチュンさんは、ポルポト軍と交戦経験があった。山本義隆氏が、ハノイで数年前、ベトナム反戦連帯のイベントに招待されたことがある。この新宿米軍タンク車輸送阻止闘争は、おもに60代以上のベトナム人は、記憶しているのである。そしてそれはしっかり語り継がれている。当時、ベトナム航空の副社長もミグ戦闘機パイロットだった、と聞いた。ベトナム民族(キン族)が日本人を大好きなのは、単に観光地や食べ物、風景・古都、などもあるかもしれないが、究極の闘いで連帯してくれた国だからではないかと思う。佐藤栄作がゴジンジェムと握手したからではないのである。2005年当時、50代以上の男性がベトナムでは非常に少なかった。フランス、アメリカとの戦争でその年代が戦死多数だったからである。
青学ブントは、この日、六本木/防衛庁突入闘争に全力で突進していた。果敢であった。軍隊の本部へ向かったのだから。さらに、社青同解放派は、国会へ突入していった。また、生産性本部、などへも突入闘争が行なわれ、「別個に進んで、共に撃つ」(レフ・トロツキー)が見事に結実したな、我ながら納得し、振り返って追想する。こういう闘争こそ本来の人民大衆のための人民による闘いである。日共・民青はそして何もしない、「暴力学生」「挑発分子」「トロ」、こういう人間は、ベトナムで子どもたちや妊婦やおじいさん、おばあさんが焼かれているのが平気な人たちなのだろうか。実力で戦争協力を粉砕しないで、何をもって反戦というのだろうか、そういう思いが湧いた。
 この10.21闘争を機に、右翼「関東軍」が結成された。

●日大芸術学部への右翼襲撃、度重なる弾圧の嵐と不屈の決起~日大全共闘への熱い共感があった

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”11. 8 スチールパイプ、角材、スチール制のタテ等を持ち、完全武装の「関東軍」日大、拓大、東海大の応援団・体育会、「皇道会」ヤクザなどの右翼暴力団約400名が江古田芸術学部を襲撃。午後全学総決起集金。白山通り武装デモで制圧。このデモの中に日本愛国党の宣伝カー突入しデモ参加者を負傷させ、さらに愛国党員がオノをふりまわして学友数名を負傷させた。″(「日大闘争年表」より引用―ネットより転載)
このニュースをテレビと新聞で知って、愕然とし、日大の学友へ心から連帯したい、と思った。むき出しの暴力攻撃。青学の比ではない。青学は右翼学生、機動隊程度のものだが、襲撃してきたのはゴリゴリの武装右翼学生連合と暴力団、鉈を持った右翼団体である。彼らは、古田の私兵であり、いわば右翼過激派に他ならない。日大の学友が負傷しながらも、これらを打ち破ったことに喜びを覚えた。1971年早稲田大学第二文学部へ入学したときの、クラス親友O君はこのとき、芸術学部の全共闘部隊だった。彼はML派だった。             
●11.22東大・日大闘争勝利全国総決起集会~真実の連帯行動―民青へ突撃した青学全学闘

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 あの時、安田講堂の総決起集会で、私は安田講堂の前、中核派部隊の真ん中にいた。
日大の全共闘部隊が登場したとき、心底、うれしく、連帯の熱い気持ちが込み上げてきた。青学全学闘の部隊は、集会の前に東大に到着していて、真っ先に教育学部に籠る民青の都学連行動隊(日共が与えた民主化棒所持)に突っかかっていった。反帝学評、ML派、革マル派部隊、その他の党派部隊も、いた。とにかく気が早い。民青も日共中央が指令した外人部隊だった。そのあたりの東大民青部隊の思いと、日共中央の指令の齟齬が、川上徹氏(故人)『査問』にも触れられている。
東大民青は、医学部学生への不当処分に対しては絶対反対であり、そういう意味では東大全共闘とも目的は同じ関係にあったのではないか。戦術としてのバリケード、ヘルと角材による「自衛武装」には反対(「暴力学生」粉砕」)だったのだろうが。

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川上氏によると、日共外人部隊は突然現れた、という意味の記述がある。民青の都学連行動隊については、宮本委員長が後に議会主義へ方向転換していくなかで、民主化棒と黄色・白色ヘルメットで全共闘・党派部隊とゲバルトで渡り合う一連の行動を粛清していった。(いわゆる1971年「新日和見主義事件」の首謀とされた川上氏以下の民青部隊こそ敵ながら哀れに感じる。
彼らは、1958年の全学連が、共産主義者同盟へと自立し、60年安保闘争を果敢に闘った如く、またその後の構造改革派三派のようにはならなかった。静かに、沈黙し、当時知らぬ者のなかった川上氏が『査問』という著書でその実情の一端を語ったのみである。作家・宮崎努氏が弔意を表している。宮崎氏は、あかつき行動隊長(日共「あかつき印刷」から由来)で、われわれの手ごわい敵として行動していたそのひとである。(著書『突破者』が有名)
《写真:上:マルクス主義学生同盟中核派機関誌、下:11.22全国総決起集会・東大安田講堂前―最前列中核派部隊に私はいた。日大全共闘が登場した瞬間、感動だった。》  

●11.26第一次8号館バリケード封鎖―11.30全学集会での大木の「出て行け」発言、右翼学生との対峙
11月26日、青学ブントを主体とする全学闘一部部隊が、事務棟中枢の8号館を占拠、封鎖する行動に出た。このとき、右翼学生も集結し、緊張する事態となった。実は、私は、この行動のことを事前には知らされていなかった。記憶では、8人ほどの決起だ、と聞いた。この封鎖行動は、大木のみならず、職員・教授、一般の学生たちに衝撃を与えたようで、11月30日体育館で全学の学生を集めて、全学集会が行なわれることになった。
この11.30全学集会での大木学長の発言が、問題を引き起こす。要は、建学の精神に合わないもの、意見の異なるものは、(青山学院から)「出て行きなさい!!」と檀上から大声で言い放ったのである。
この発言は、ほんとうに「大学の学長」が言い放った言葉である。
①まず、「学問」とはその名の通り、「問うて学び、学んで問う」=研究・研鑚することであり、研究課題・問題に対して意見や見解は異なるのは、当たり前である。学問はそのようにして継承、発展してきたのだから。万人いれば、万人の意見がある。それを討議や講義・ゼミなどの言論を通して、アウフヘーベンしていく、それが、大学であり、大学院である。一方通行の知識詰め込みではない。
②「建学の精神」とは、キリスト教の愛と平和を世に実現し、その使徒を育成し、国際的に通用する英語を駆使した国際性・愛・真実・平和を標ぼうするものである。旧教の腐敗を告発し弾圧を受けても闘ったマルティン・ルターなどの、いわゆるプロテスタントが青山学院の精神である。プロテスト(反抗叛逆、闘う)、つまり「プロテスタント(闘うもの)」の意味する通りのものである。
③「学長」というものは、大学のすべての人々のリーダーであり、すべての人びとの意見・見解・思想・哲学を 認め、受容しつつも、それらをより良き方向へ導くことこそが、使命である。より良き方向とは、社会に愛と平和と真実、キリストのことばを実践していくことであり、そういう「多くのキリスト者」をうみだしていくのが使命のはずである。意見や見解、思想・哲学が異なるものでも、強権で抑圧するのではなく、認め、討論によってお互いの立場を深めてゆくものである。
大木の発言は、上記とはおよそ真逆であった。さらには、右翼学生と機動隊をもって、自らは安穏の場所にいながら、尖兵として彼らをも使う、という、もはや「教育者」「研究者」を束ねる学長の尊厳を、自ら放棄したことを意味する。そもそも、大木がそのような理想的学長ではないことは、「三公示」によって明確であったが、改めて私的権力者としての醜悪な実態をさらけ出したという意味をもつ。全学闘は抗議の声を上げ、右翼学生は抗議の声をつぶそうとした。体育館内は、一触即発の緊張状態に陥ったのである。実際、乱闘戦にはならなかったが、眼前で彼らと対峙した。彼らの目も、おそらくわれわらの目もお互いにギラギラして映っていただろう。殺気、とはこのことを言う。大木はそれからどこかへ遁走してしまった。卑怯な人間である。自分の尖兵たちが戦おうとしているのに、だ。権力者は常に尖兵の陰に隠れてカネと武器を与える。この全学集会以降、1970年7月退学届をだすときまで、私は大木の顏を見ることはなかった。団交には登場せず、身代わりの桜井氏、村上氏、大平氏を表に出し、自身は隠れ通した。正々堂々と全学闘と議論を戦わせるほどの、度量があったとは到底思えない。

●第二次8号館バリケード封鎖 12.12決起と6項目要求提起―貫徹へ
その後、私は、11月7日中核派全学連の安保粉砕抗議行動に参加した。この時、機動隊の規制も、公安の監視も何もなく、白ヘルと角材を林立させたデモ行進を日比谷から都内を貫徹させた。こんなことは初めてだった。よほど、10,21新宿闘争の影響が大きかったのだろう、と推測した。また、全学連大会にも参加し、各大学での闘争、その火柱、東大・日大を頂点とする全国に燎原の火のごとく広がっていく報告を聞いて、全身に力がみなぎった。
12月12日全学闘総決起大会が、200名ほどの結集で、夜間行なわれた。私は、S議長、流山児祥副議長、につづいて、全身を振り絞って、「本日結集されたすべての同志諸君!~」と決起の演説を行った。各闘争委員長が続く。演説が終わって、任務部隊ごとに、逮捕された場合、弁護士「591-1301」(獄入りは意味多い)を覚えるように、任務分担などを話していたが、実は、朝から何も口にしていなかったため、声が出なくなってしまったのである。後に代わってもらい、教室を移して、ヘルと角材、バリケード封鎖の道具などを集め、決起部隊に次ぎのことを教えた。①右翼学生に囲まれた場合、まず角材を離さず、頭上でブンブン振り回し、寄せ付けないようにする。②右翼学生の弱そうな人間を見つけ、そいつを狙って大声で振り回しながら突進する。③ひとりにならず、3人チームで必ず行動する④機動隊導入・弾圧で逮捕された場合、完全黙秘+弁護士に連絡してくれ、とだけ言い、貫徹する、など。これも全身振り絞って伝えた。
総決起集会後、ただちに行動に各自分担通りに8号館バリケード封鎖を決行したのである。
1階のバリ封行動のとき、私は、神学科闘争委員会と一緒に、机椅子を固く結束、積み上げて、8号館に出入りする場所をそこだけに特定した。隣と通路橋で連絡していた6号館との間にも頑強なバリを構築した。1階での行動の際、左の薬指を骨がみえるほど負傷した。バリが落ち着いてから、翌日、外に出て、救援対策部の女子に外科に連れて行ってもらったところ、看護婦が「まあ、ひどい」と言ったのだから、重傷だったのだろう。この傷は今でも跡になっている。血がポタポタ滴っていた。
そして、この日、救援対策部の女子たちが差し入れてくれたオニギリ1個と小さな唐揚げ1個を初めて口にしたのである。うまかった。とにかく水1滴飲んでなかったから。死んでもいい、と思ったら、こんなことできたのだな、と今さらながら感じた。朝から、ビラマキ、集会、会議、アジ演説、呼びかけ、デモ、その連続で休むなんてことは考えにもなかった。とにかくいつも無我夢中だったのが、真実である。明日は「ない」と思っていた。
全学闘は、自治会がそもそもないところから始まっている。従って、文化団体連合各クラブ・部や同好会、体育会、学生会、新聞会など、組織のあるところからはそこから、なければ個人で参加する形態だった。青学ブントは、社研・歴研・新聞会・放送研など、副議長の流山児祥は、劇研、議長のSさんは流山児祥の高校時代からの友人、という具合で、大体100名、がコアの部隊だった。バリケード封鎖後、大きな立派な会議室があり、そこで全体会議を毎日行った。情宣・防衛・要求の再確認、それぞれ任務分担した。
右翼学生たちは、大木恩顧の私兵で、どうしても縁故による無試験入学・推薦入学が多数いただろうことは推測できる。空手部、拳法部、柔道剣道など武道系、と応援団は、上位下達が徹底しているので、1年生は4年生の命令に絶対服従であっただろうから、人数は多かった。ふつうで、動員数150名~200名はいただろう。(「4年天皇、1年奴隷」とは当時全国の応援団の合言葉だった。武道系は特にその傾向大)全学闘でそんなことをしたら、とっくにみんな四散している。われわれは、自主自発、個人の決意によってのみ、闘ったからである。誰からの命令指示によるものではない。結果責任も自分自身が負うのである。いわゆる「ケツ持ち」(ヤクザ用語・後々の面倒は見る、ということ)してくれる権力者などいない。高校3年には、68㎏あった体重は、55㎏になっていた。

●食事、健康のこと―バリケードの生活―
バリケード構築後、毎日、広い立派な会議室で全体会議が行なわれた。「6項目要求貫徹」、任務分担、問題の抽出・討議、日々の方針と実行、情宣展開、バリの防御、右翼の動向、などである。教授の部屋には手をつけなかったが、ひとつ、空手部顧問の教授の部屋はみなが滅茶苦茶に落書きをしていた。電気、水道はつながっていた。バリケードの食料調達班を担当したH君は、オラトリオソサエティという男性合唱部所属で、バリトンの素晴らしい声で、いつも背中に四角いリュックを背負っていた。みんなから?食料班H,H″と親しまれていた。経済学部闘争委員長のM君は、理論家、ケインズからマルクスまで経済学とブントの理論については必聴に値する弁舌の持ち主だった。経営学部闘争委員長S君は、体躯がしっかりしていて、面構えが鬼瓦のようで、なんだか便りになりそうな感じがした。そして文学部闘争委員長Y君は、長髪で細面の優しい男だが、闘争のこと、革命理論のことになると、M君同様、なかなかの理論家だった。弁舌は優れていた。彼は、この闘争もろもろで、6~7回逮捕されている。からだは細かった。S議長は真面目そのもの、年長だったので、信頼が厚かったが、アジ演説は何を言っているのかわからない、との評判だった。日大の秋田議長のアジより?難解″だったかもしれない。秋田議長のインターは朴訥な調子はずれなインターだったが、誠を絵にかいたようだった。「いわば~~」というのが最初の出だしである。流山児祥副議長は、弁舌豊かでひとを「扇動」するアジテーターとしては、一流である。体躯もしっかりしていた。頭は当時、もしゃもしゃの髪だった。食事は、ほんとに貧しいものだったが、この解放された自由な空間と、同志・仲間がいること、交流、非日常的時間が楽しかった。全体集会で、約100名が結集、それぞれリーダーがあいさつしたことがある。青学ブントの先輩や仲間は、ブントでいいが、わたしは、中核派の○○、とあいさつした。実際、同盟員ではなかったが。この頃の全共闘には、そういう自称○○派が多数いたのだと思う。一度、クリスマスのころ、パーティーをやったことがあった。久しぶりに若干の差し入れの酒もあり、食べ物も救援対策部が差し入れてくれ、シンパの学生からも支援があった。外はおそろしく寒かった。風呂は入らず、禁欲生活で、まるで修行僧のようなバリ生活だった。    
およそ、その頃の食事といえば、学食での60円のうどん1杯、Bランチ80円、菓子パン、差し入れのオニギリ、水、そんなもので、当然、「パンのみに生きる」わけで、そうかと言って美味い物を食べたいなどの思いは全くなかった。空腹を満たせれば何でも良かったのである。楽しみは、秋までは、青山通りにあった「三和」という喫茶店に午前中みんなで集まり、コーヒーとケーキがついたサービスセットと、渋谷センター街にあった「シャンソン・ド・パリ」で時々食べるナポリタンとトーストぐらいのものだった。ご馳走は夜、青山学院の向いにあった「パンチ」という名のラーメン屋での熱いラーメン、これがご馳走である。みんな声はガラガラになるし、痩せていた。学友の下宿で、安酒をまわし飲んで、キャベツに塩をかけて食べた。バイトで稼いできた者がいたら、バイト代はみんなで飲み食いしてしまった。横浜で、みんなでチラシ配りのバイトをやったこともある。ビラ配りは得意だった。とにかく金はなかった。カンパと差し入れで何とかしのいでいたのだ。それに比べて、右翼体育会系学生は、普段から鍛えているし、栄養のある食事も摂り、酒も飲み、院長大木とその人脈、公権力である渋谷警察署と機動隊がバックにいた。肉体的には強かったと思う。問題は、志操堅固・思想と哲学、実存をさらして個として決起し、団結したのが、全学闘である。死んでも闘う、と学友I君がビラで書いた通り、死を決意していた。右翼体育会系学生で、死んでも構わない、と思っていたのは、いたとしても極めて少数だったのではないか。おそらく、日本学生同盟(彼らは?ガクドウ″と言っていた)の一部人間は、ヤルタ・ポツダム体制打倒、核拡散防止条約反対、を呼号していたから、ある意味、現支配体制に叛旗を翻す思想があった。だが、彼ら以外(生学連、全国学協、右翼体育会系学生など)は大木独裁体制擁護であり、上からの命令と自己保身、将来の就職・栄達、が主眼だったと思う。おそらくおおかたの彼らの動機はそんなものだったのだろう。
ひとの生は、赤子から老人になり、その生を終えるときまで、明日の見えない暗い穴を手探りで歩くようなものだ。弘法大師空海は、それを次のように語った。いかなる人間もこの冥途への道をすべて知るものはいない。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、死に死に死に死んで死の終りにくらし」(『秘蔵法鑰』)そして、右翼体育会系学生に対して、いつも思い至るのは、批判は内在的であること、ということだ。彼ら人間が、自由・自立・自治を求める運動に反対し、破壊策動を行い、妨害行動をすることは、見せかけの物資的利益のためである。ほんとうの財産、とは、こころにある。絆、仲間たち、自由、自発なのだ。彼らを心底では、憐れむことが内在的批判である。しかしながら、現実には彼らの暴力には実力で対峙しなければならなかったのだ。
私は、いつの間にか中心メンバーのひとりになっていたので、極度の緊張の日々が続いていたし、東大・日大ほか、全国で決起していた学友の闘いに励まされた。高崎経済大学の『圧殺の森』(映画)を観て、あのような地方都市でお手製の目だし袋をかぶって5人ほどでデモしなければならなかった学友に強いシンパシーを感じていた。また、三里塚や砂川、東富士の農民のひとたちの心情・負けじ魂、水俣のひとたちの強大な企業に「蟷螂の斧」だとしても立ち上がって糾弾する痛切さ、行政権力が強制する基地強化、ゴミ処理場建設、ダム建設など、自然破壊を強行する行為、何よりも全世界で闘われていたベトナム反戦運動、反差別運動、チェコ動乱(ソ連の弾圧介入抗議)など、闘うひとびとがいる、ということに励まされていた。自身がベトナム反戦で闘ってきた行いが正しい、と強く感じていた。その意志は貫いたのだが、衛生面では相当酷い状況にあって、まず歯がボロボロになってきた。やせ細って、下着も1ヶ月つけたままだったし、風呂も入っていなかった。19歳の冬、いっぱしの闘士になってきた。
いみじくも、東大総長だった大河内氏が、「太った豚より、痩せたソクラテスになれ」と言ったとおりになったのである。打倒対象の大木は、太った豚だった。「己有を知らず 貧これに過ぎたるはなし」(己のなかにある仏性を知らない、これこそ貧しいということに他ならない)、大河内総長が大木院長を見たら、そのように評したであろうか。キリストを説きながら、カネと権力に固執する、この姿は何ぞや、である。

(つづく)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月16日(金)に更新予定です。