重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。

今回は「オリーブの樹」152号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より 2020年8月5日~2020年11月9日>

8月5日 作業工場から戻って入浴。シーツ交換と汗一杯のところ交付物が届きました。
今、点呼のあとで手紙類を受け取り、読みはじめたところで、処遇課から追加の電報が来たのでと届けてくれました。「今日ベイルートで大きな爆発があった。7時のニュースを見ればわかるでしょう」と「電報」の訳を教えてくれました。電報はYさんからで「メイは無事です」との文面です。とてもありがたい配慮で処遇の人にもYさんにも感謝しています。
(中略)
 今7時ニュースでレバノンの大爆発のニュースも出ました。当局の硝酸アンモニウムなどの管理ミスらしい。100人超が死に、5000人超が負傷とのこと、痛ましい。レバノンも海外からの帰省で徐々にコロナ拡大が始まっていると、昨日メイの手紙受け取り知りました。デフォルトで破壊された経済の上にコロナ、爆発と銀行も送金停止中のベイルート。岡本さんやオマイヤ、メイの無事を祈っています。NHKニュースで示した場所は港の方ですが、2350トンの爆薬威力で爆風激震倒壊のビルが多いようです。友人たち多くいるので心配です。

8月7日 今日は免業「矯正指導日」。今日の教育プログラムは、13時から1時間8分のDVD鑑賞し、感想を書くことが義務。このDVDは「PAIX-2(ペペ)のプリズンコンサート」でした。「矯正支援官」にも任命されたペペが、ビデオジョッキーで語りつつ歌う番組です。Mさんからペペ300回記念の本「逢えたらいいな」も、ペペプリズンコンサート500回記念10周年の「塀の中②のジャンヌダルク」を送って頂いて、すでに読んでいたので、よりペペの活動を理解しながら、有意義に鑑賞しました。どの歌も、獄生活を過ごさざるを得ない人々にとって、心に響きます。明日から連休。
(中略)

8月18日 今日はコーラスがありました。工場作業を2:30に切り上げて講堂へ。建物から講堂に移動するとき10m程外に出るのですが、ムっとする暑さで、ああ、コロナ禍の猛暑だ……と実感。ほんの一時です。冷房の効いた建物で作業していて、環境は整えられている病棟です。講堂入口にギボウシのとても背の高いうす紫の花、みごとに咲いていました。フェイスシールドを装着して、広く間をとってコロナ禍初のコーラスです。「夏、外は猛烈な暑さ『海』を歌いましょう!」ともうすぐ88才の先生の見事なソプラノに続いて小学唱歌の「海」、「浜辺の歌」。そしてピアニストの新しい先生が「乙女の祈り」とメンデルスゾーンの「詩人のハーブ」の名曲を演奏し、鑑賞させて下さいました。「夏が来れば思い出す」そして「花」でしめくくりました。大声を出すコーラスは気持ちが良い。いつも声を出せないので。
 
8月19日 昨日はお盆休みに集中して仕上げたパレスチナ解放闘争史の全校正を一応終えて発送しました。当初「パレスチナ解放闘争史」を仕上げたいと思ったのは、公判の時に資料として使っていた中東北アフリカ年鑑で、1920年から5年間初代英国委任統治政府高等弁務官、つまり支配者のハーバート・サミュエルがパレスチナ人たちに信頼されていたような記述に出会い、違和感を持ったからです。調べたらユダヤ教徒。もっと調べたらシオニストの指導者。英国閣僚時代からパレスチナへのユダヤ郷土を工作し、アーサー・バルフォアたち外務省と英シオニストで団交して「バルフォア宣言」を勝ち取る時は、変わり身で閣僚を辞退して、シオニスト交渉団の一員に。そして高等弁務官へ。なんだシオニストがパレスチナをいいように支配しているだけじゃないか……。日本の権威ある機関で出版されている本で、そんな書き方しかなかったのかと、がっかり(75年版でしたが)。パレスチナの側から日本の人にも伝えないと……と使命感というか、欲求が湧いて、いつか記そう……。と思っていたものです。やっと少し仕上げたにすぎませんが。

8月21日 猛暑続きは昭島も同様です。でも工場も病房も冷房がしっかりと効いていて寒いくらいです。窓を開けると、熱風が入り込んできます。昨日受け取った資料に、メイのFB(丁度ベイルート爆発直後のツイッターなど)もあり、激しい臨場感が伝わってきます。私たちのすごした西ベイルートのハムラ通りは、破壊はされたが、丁度爆発現場の東側に強固で巨大なコンクリートの建物があったお陰で、それが壁になって東方のハムラ通りなどは、ダメージが小さかったようです。他43メートルの巨大な穴が空き、どこも建物が見られない写真も。世界中から「ベイルートは再び立ち上がる」と、連帯と支援のメッセージが国連や様々な国の政府からも寄せられているけれど、日本政府のメッセージは見当たりません。カルロス・ゴーンのせい? 爆発の日は、日中、街に出ても良い日だったので、多くの人が必要物資の買い出しに出ていたようです。爆発時、メイも危険地域のスーパーマーケットの地下に居たようです。隣のビルは倒壊し、無事だったメイが帰る途中の道、傷んだり破壊されたりしていない建物は一つもなく、倒壊で道も通れなかったようです。
(中略)

8月25日 今日工場に出役し、昼食後12時半から作業を開始。13時過ぎ頃呼び出され、廊下に出ると警務課らしい2人の人が、小声で(コロナでドア開放中のため)「警視庁から取り調べがきています」とのこと。またか……。去年も拒否したのに。「取り調べに応じません。よろしくお願いします。」と伝えて、十数秒で終わりました。去年は何人かのアラブ時代の友人たちにも所在確認風に来ていたようです。もちろん皆拒否でしょう。今回は、何が理由なのでしょう。いつも“平安”を乱され、腹立たしい限りです。

8月27日 今日は出役前に胃の内視鏡検査です。9時から約30分。カメラが入っている時間は15~20分位でしょうか。昨夜はよく眠れず、ちょっと頭痛もありましたが、異常なしを確認できました。ピロリ菌のいない胃は癌になり難いそうです。その後モニター画像を見ながら主治医の説明を受けました。それから胃が落ち着いてから朝食をいただき、11時40分ころから講堂2Fの運動へ。12時すぎから昼食。木曜は炊事場の床を含む大掃除。いつもより遅れて13時前に作業場にもどり、毎木曜日の「おはなし」(教訓や注意、コロナ、猛暑対策の話でした)のあと作業開始。

8月28日 今日は矯正指導日。今日の教育プランは「情熱大陸『天王寺動物園』」の25分のテレビ番組でした。感想文を記録カードに記入し、他の目標(9目標)も経過や達成、反省点を記入して来週(月)に提出します。提出したカードには担当官と指導官の2人のコメントが記されて戻ります。思い出すのは小学時代の学級日記のように、先生が書き込み励ましてくれるのに似ています。注意点や励ましが記されます。これが全国一律の刑務所の「矯正指導」の一環なのでしょう。
 (中略)
 
9月2日 記者の杉山さん(共同社会部)からお便りで、「日本赤軍私史」を読んだ感想が寄せられました。「世間一般に流布されている残酷なイメージしか持てずにいました。しかし、本を読み考えを改めています」とのことです。「60年代の闘いの中では“民主主義”を否定してきた。……パレスチナの戦いの姿は『民主主義の徹底こそ社会主義を生む』という考えにつながっていった」……「自分の足元から『民主主義の徹底』を通して国際的に連帯し、可能性のある日本に変えたい」など「私史」の記述が、今の自分より若い時に海を渡り、苛烈極まる体験を経て、たどり着いた大きな考えの変化に大変興味があると杉山さん。そしていくつかの質問が添えられています。
 私自身は、当時は、失敗・敗北の赤軍派の中で何とか打開したいという思いで海外をめざしました。世界は本当に私たちが考えているようなものなのか?海外への不安などはなく、人間同士どこに居ても理解しあえると楽観的に出発。でも、パレスチナ革命との出会いは「付け焼き刃」のような自身の赤軍派理論や路線では通用せず、自分自身の生まれてから育んできた実存を抉り再構築していく過程でした。未熟でも自分に立脚して、父の影響を受けてきた正義を実現したい思いや、中学、高校、大学時代の自分から主体的個人としての再出発。それはただ素朴な正義感や探究心、だれもがあの時代に持っていた想いと共通していたものです。父に言わせれば“君が代の安けかりせばかねてより身は花守となりけんものを”と幕末の国学者の志士平野国臣の一首を引いて、この国が安らかでないから、花を愛する花守を望むように娘が行動を起こすようになったにすぎない、と援護していたのを思い出します。武装闘争の日本での過った路線を肯定してパレスチナ武装闘争──不条理な祖国喪失に全人民、民族がパレスチナ解放建国をめざしている人民の選んだ武装闘争──と共に闘い暮らし、自分たちの足元のない、人々の居ないあり方を問い返しながらたどり着いたのが、「民主主義の徹底」という路線につながりました。「民主主義」は立場によってまったく異なったものが描かれますが、人民主権を主張する時、やっぱりこの概念で括るしか言葉が見当たらなかった当時を思い返しています。日本の現実では「主権在民」の徹底を訴えたいところです。益々国家主義がポスト安倍でも継承されているし。
 また杉山さんは日本で世間の日本赤軍に対する謗りについてどう考えているのかと、問うていました。日本の歴史や社会の現実、国家権力との60年代以降の敗北の攻防の現実として、そしてまた私自身の数々の過ちの結果として、それは理解しています。一方でパレスチナのための闘いに就いた仲間たちは「テロリスト」としてではなく、パレスチナの英雄的な戦いの戦友として称えられて、今も政治亡命が許可されて生活しているのもまた現実です。もちろん私自身は、自分も仲間も「テロリスト」と考えたことはありません。「正義」や「正しさ」は一つではなく、世界各地の歴史に根差した条件で判断されています。こうした多様な世界の現実をふまえながら、今後も日本社会と向き合っていきたいです。
年相応に健康にもあちこち支障がありますし、2008年以来癌が発見されて、4度の手術で9つの癌を摘出し、まだ生きているのは、友人たちの変わらない支え、医師やスタッフ、弁護士、家族の支えのおかげです。海外では何度も捨てては拾ってきた命をもうひと踏ん張り大切にして、友人たち、家族と乾杯したいと思います。そんなことを考えました。

9月7日 台風被害はどんなでしょう。今日は昭島も雨。夕方、9月3日付のIさんのお便り。レバノンのトークイベントを知らせえてくれました。「レバノンに愛を! 知られざるレバノンを語る、4日間てんこもりのトークイベント」がネットで8月24日~27日まで行われた、とのこと。このオンライントークイベントは、レバノン在住の日本人たちが企画したとのことで、8月24日はメイも「レバノンと日本の社会的伝統の違い」を語ったそうです。「政治以外の珍しいスピーチで、楽しそうでした」と、Iさん。レバノンの大爆発の復興に、精神的物質的支援が、世界各地で続いています。これもきっと、日本人たちのそんな想いの企画でしょう。いい企画です。日本とレバノンの学生の各々が、レバノンを語る、料理、小説、宗教と難民、映画など4日間のどのテーマも興味深く、学習したいものです。
今、日誌を記しているところにN和尚からの電報。現思研初期メンバーの「新井進兄逝去す」との知らせ。8月28日に……。ああ、再会の仲間がまた、先に彼岸に旅立ちました。ニックネームは金魚。いつもUさんと民青系の学生たちに、先頭切って論争していた姿、青学の恋人と活動と、大忙しの金魚。端正な姿の新井クンが浮かびます。ご冥福を祈るしかありません……。

9月11日 Uさんの手紙に「懲役に出るというので案じたが、起き上がり小法師のダルマ製作、学校の工作の時間みたいに楽しんでいて何よりです」とあります。「僕のわずかな体験では、50人から60人位の工場で(ナショナルのラジカセの組み立て)のラインで、私語はもとよりよそ見もダメで、看守は怒鳴りっぱなし。男ばかりの懲役はパンツまで全部着替えるので、全裸のスッポンポンになって30センチ位の仕切りをまたいで、その時間両手で万才をして口を大きく開けチェックされるのです。『カンカン踊り』といいました。人権問題監獄法の時代です。」とあります。こちらも作業は楽しいですが、規律は少々厳しいです。9時出役から3時帰房までに20回近く身体検査があります。トイレに行く時、出る時と部屋の狭い一角のトイレでもそうなので、それも数えるとそうなります。「明治監獄法」と「平成監獄法」はその矯正イデオロギーにおいて変わっていませんが、「平成監獄法」では第一条に人権を明記しています。物理的「暴力指導」の禁止と個人裁量(温情)も禁止されたのが「平成監獄法」です。
日本は国連の人権基準に違反し、毎年批判・勧告を受けています。第一に、欧米のような合理主義の方が「矯正主義」より人権を重視します。報応(法応)主義で個人の人格、考え方、プライバシーは尊重され、「判決に基づいた刑に服すること」のみが求められます。個人の暮らし方は自由で、日本のように軍隊調の一挙一投足の監視や懲罰はありません。「矯正」ではなく本人の意思によるカウンセリングで更生を支えるというやり方です。そして、第二に、懲役労働には対価を支払います。韓国でも労働者の平均賃金の8割位。こうすれば出所後の生活資金を持ち、人生の敗者復活が可能です。第三に、刑務所医療は法務省ではなく厚生労働省へ移管されるべきです。欧州はそうなっています。それによって国民健保が受刑者にも適用されること。国連人権理事会で日本の刑事施設などについて指導・改善を求められている点は、このような点を抜本的な司法改革として進めること抜きに成し遂げられません。その方が受刑者はもちろん働く職員たちにとっても良い環境になるはずです。
(中略)

9月28日 今日はこれ以上ない程の秋晴れ!雨も昨日上がり、久しぶりにベランダ運動で外気にあたり、土の匂いを嗅いで深呼吸。(中略)
今日は私のバースデイも迎えました。「後期高齢者」と変なネーミングの時期に入りましたが元気です。一輪のりんどうと野菊に、家族や「さわさわ」や「土曜会」や手元にある写真を出して、みんなと交流しつつバースデイのつもり。獄中にいるとどうしても視野が狭くなり、対象化されぬままにイメージが肥大化する分、自己中になりがち。戒めつつもう二年弱のその後のイメージを考えると、あれもこれも今やっておかねば……と描いてしまいます。何をするにも自分でできない環境にある分、友人たちに負担を強いてしまいます。みんなに支えられていることに感謝の日、振り返る日です。
(中略)

10月9日 今日は工場出役時9月分の報奨金伝えられました。695.6円で696円です。“塵も積もれば山となる”とも言えない程ですが、少しずつ山となっていくでしょう。
(中略)

10月15日 今日は、午後、作業の時突然こう告げられました。「コロナとインフルエンザの流行も考え、ここは病院なので4月の時のように緊急事態期間と同じような措置をとることになりました。ついては現在の小法師・達磨製作は中止。各自が居室でこれまでと同じスケジュール、作業着着替えも行い、9:00~3:00の懲役作業を行う」とのこと。作業は達磨の紙型をつくる以前の作業で、紙を(10センチ程のもので厚手)やわらかく揉んで4層にはがし、それを5ミリ以下にちぎって綿のように小さくする作業とのこと。まだよくイメージは湧きませんが、これまでの好奇心とはぐっと違う作業でがっかりです。9:00~3:00の懲役は続くのですが、個別居室で行い、いつから工場に戻るのかは未定とのこと。この施設でコロナが出たのか……と思ったりしましたが、わかりません。面会について4月のように中止か?と尋ねると、今のところそれはないようです。
(中略)
 
10月16日 今日からダルマ(起き上がり小法師)製作に替えて「紙千切り作業」に入りました。普通のボール紙の余り(切りとってのこった端っこなど)が素材。それが幅1センチから3センチ位、長さ5センチから10センチ程。その一片をくりかえし揉むと柔らかくなり、何層もの紙の繊維がボール紙の厚みから分離されます。それを4層以上にはがします。そのはがして薄くなった紙の繊維を指先で5ミリ以下に千切って綿のようにするのが「紙千切り作業」です。担当官は、これは、ダルマの紙型を作るための作業と説明しました。私は近所に紙型を作る工場があり知っています。それは、ダルマの粗雑な紙型に、綿のような5ミリ以下の千切り紙である必要はありません。むしろ紙片のまま裁断脱色煮たて糊を入れ金型で作るもの。私は実物を見、説明を受けたところで言いました。「これは精神病院などで精神疾患の人がやらされる“作業療法”ではありませんか。何故、私が懲役としてこれを強いられるのか?『ダルマの紙型』というが、あの粗雑な紙型に5ミリ以下の綿状なものが必要だと思いますか?私は紙型作りの工程もよく知っています。作業療法で作られた綿を捨てずにボール紙片と一緒に紙型に利用しているとしても、それは、5ミリ以下が必要なためではありません。『コロナ・インフルエンザの緊急事態の4月同様の措置のためダルマ作業を中止し、身体フォロー工場を無期限に閉じる』と言ったが、緊張感は特に無く、ダルマ作業中段の口実のようにみえる。教官共々和気あいあい意欲的に楽しんでいたダルマ作業では、教育効果がないという上からの判断なのか? とにかく精神病療法の強制は納得できない」と言いました。「緊急事態であり、個室作業はこれしかない」という返事しかありませんでした。一日やってみましたが5ミリの綿をボール紙片一つから作るのに指先を爪で押しつつ自傷行為を強いられます。1・2時間ならまだしも4時間以上すぎると両手の人差指、親指が熱をもち痛みズキズキしました。ダルマ制作には、「作業療法」としてやっているグループもありましたが、だからといって、ダルマ中止だからと、作業療法の治療を押し付けられるのは不当です。それに1センチから3センチ位の紙千切りではなく、5ミリというのがひどい。昔の療法です。指先の自傷行為となり今では、この「紙千切り5ミリ以下」は、やっていないのではないかと思います。人権問題でしょう。

10月19日 朝、「センター長への苦情申し出」のための書類をもらいました。平成監獄法(「刑事収容施設及び被収容者の処遇に関する法律」のこと)の168条に「苦情」申し立てができると記されているからです。あまり期待できませんが、「紙千切り作業」について述べたいからです。もしそれがだめなら、紙千切り作業が中止されるまで、納得できるまで、公判含めて考えざるを得ません。「指のプロテクターをほしい」と朝話し「一日やってみたが、自傷行為を強いる虐待では?」と言ったのですが、「ここでは個別作業みんなこれだけ」とのことです。「5ミリ以下なんて自傷なしにムリでしょう?」私が「昔1センチから3センチ位の紙千切り作業を精神病院で知ってるけど、それより小さい5ミリはひどい」と言ったら、「傷つけないで!プロテクターは準備します。5ミリがムリなら1センチでもいい」とのこと。1センチでいいの? 何のこっちゃ……。とにかくプロテクター(と言ってもバンソウコウ。医療用テープ)を指に巻いて2日目の作業開始です。そのうち職人のようにタコができて痛みが治まるかも。「1センチでもいい」と言われると、私だけのためではなく、この作業を強いられている人々、実際、作業療法の人にこそ、そうしてあげてほしい。拒めば懲罰なのでみな黙っているけれど。今どき、5ミリ以下の紙千切り作業4時間以上は、虐待として世間では、許されていないはず。
  
10月21日 今日、午後、「センター長への苦情申し立て」に対しての「聴き取り」が行われました。いつもの処遇統括の穏やかな人。「10月16日から新しい懲役作業になったが、その作業は、私も知っていますが、精神障碍者に対する作業療法の一つです。懲役の義務労働が、精神病療法強制には納得できないのです。また、私自身作業していますが5ミリ以下に紙千切りをすると指の腹を爪立てて押すので、痛みます。自傷行為を強いるこうした懲役は、また作業療法であっても許されないと思います。国連の『被拘留者処遇最低基準原則』71条では『刑務作業は苦痛を与えるものであってはならない』と決められています。作業療法としても一、二時間で、4時間以上も強いるのは、おかしいしまた、作業療法でも1センチから3センチ位の紙千切りが普通で、5ミリ以下は自傷行為を伴うものです。こうした作業はやめてほしい。まだ懲役用の個別労働が準備されていないなら、ダルマ作業の第一段階を(のりとプラスチックを使用)個室でやりたいと思っています」といったことを伝えました。きっと今は5ミリの千切り作業は、日本の刑務所だけでは……。

10月28日 今日はフリースのジャンパーを着てベランダ運動に行ったら、暑くて下着まで汗びっしょり。以前はジャンパーを脱いでもOKだったのに、担当の若い人は「確認していない」と脱ぐのを許可せず。今日団扇ひきあげ、カーディガン、半袖作業着もひきあげて、11月から本格的に冬暦に入ります。
(中略)

10月29日 今日大谷弁護士に、この自傷行為を強いる懲役作業について法務大臣への申し出や国家賠償公判などを考えている旨手紙、「新しい懲役紙千切り作業について――報告その1」を送りました。この作業が中止されるまで、納得いくまで争わざるを得ません。本当は貴重な時間をそんなことに使いたくはないのですが。大谷先生はかつての公判のように共に闘ってくれるはずです。

10月30日 昨日の紙千切りで指先を親指の爪で繰り返し押すのがたたって、右手甲から腕へと痛み、診察を要請しました。このまま腕へと広がり、前にあったように両腕が挙らなくなるのでは?と気にしたことと、湿布など何かないか相談したかったためです。腱鞘炎でダルマ作業で右手の甲が痛んでいたものです。Drは手を休ませた方が良いと言い、付添の係官は横から「手休ませるなら右手で字書くのも禁止すべきだ」と言いました。私自身「苦情申し立て」をしている以上、休む気はないし、字を書くのを止めることはできないと言いました。結局今日金曜日は一日作業を休み、土日があるので様子を見ましょうということになりました。
 
11月4日 今日9時からの紙千切り作業の材料を待っていたら「今日からダルマ作業に戻ります。ただし水入れ、スポンジ、布類とダルマを入れますので、これで作業して下さい」とのこと。急遽転換したようで「糊や、固めるゴリ棒やプラスチックは不可。入れられないので、その範囲での作業をして下さい。」とのこと。とりあえず紙千切り作業は廃止となりホッとしました。ダルマは他のグループがたくさん不良品をつくり、私たち「身体フォロー工場」が「修正します」と引き受けていたものです。その作業の一つとして、不良品のペンキキはがし、おもりのバランスを正す粘土削りなど、水とスポンジでの作業となりました。「苦情申し出」に対応してくれたようです。まだ何も返答はありませんが。
 (中略)

11月6日 ダルマ個室作業中の午後2時過ぎ、処遇課より「告知があります」とのことで、作業中断で拝聴。「あなたが10月20日当センター長への苦情申し立てを行った件について回答します。2点覚えてますね?一点目『紙千切り作業は精神疾患の作業療法で、それを懲役作業で強いるのは納得できない』不決定。自己の考えを述べたに過ぎない。二点目『紙千切り作業は自傷行為を強いるもの、やめてほしい(せいぜい4時間でなく2時間程度が作業療法の人にも)』不決定。自己の考えと希望を述べたに過ぎない。以上」とのこと。まあ、そういう回答とは思っていました。でも実際には紙千切り作業はなくなっています。3時半頃、担当官の人から「来週月曜日から身体フォロー工場でダルマ作業再開になります」と通知。なんのこっちゃですが、まあ、工場で作業ができるのは喜ばしいことです。

11月8日 2000年に逮捕されてから20年目の11月8日を迎えました。もう20年も過ぎたのか、不思議な思いです。最初の10年は裁判で検察の一方的シナリオに対決しつつ過ぎました。その間09年から癌の手術と抗癌剤治療が続き、4回開腹手術をして9ヵ所の癌を摘出。今では目も耳も歯も劣化しつつ、気持ちは一層前向きです。これは逮捕以来20年、今も変わらず支えて下さっている友人たち家族たちの心が私に力を与えてくれるためです。この20年、上田等さん、ウニタの遠藤さん、宮崎先生ら師のような先輩から、丸岡さん、西浦さんら近しい友人たちまで、たくさんの再会を約した人々と会えず彼岸に送りました。私の逮捕によって被害を与えた方々に謝罪しつつ、心新たに出所をめざし、お詫びとお礼・感謝と乾杯を夢想しています。
 “二十年目逮捕記念日目眩めく喜怒哀楽を抱きて立てり”

11月9日 今朝から「身体フォロー工場」が再開されました。「新しい懲役『紙千切り作業について』10/29~11/9報告その2」に代えて概括すると、10月16日に新しい紙千切り作業が始まりました。すでに「報告その1」で述べたように、この作業に対して10月20日「センター長への苦情申し出」を行ない、10月21日にその「苦情の聞き取り」が行われました。私は10月29日に大谷弁護士宛に「報告その1」を発信しました。(そこでは第1にはじめに、第2に経緯、第3に紙千切り作業について、第4に苦情申し出を行なったことを記しました)。その後紙千切り作業による指先の酷使と前からの腱鞘炎で右手が動かないので診療を10月30日に受け、この30日(金)の作業を休みました。休み明けの11月4日「今日から紙千切り作業は中止。ダルマ作業に戻ります。ただし個室のため材料は水入れ、布、スポンジとダルマのみ」とのことで、不良品のペンキ落としのなどの作業に入りました。11月6日には告知があり、センター長への苦情申し立て2点は「不決定」と通知されました(日記に記したとおり)。その後、午後「11月9日月曜から身体フォロー工場でのダルマ作業再開となる」と告げられました。センター長への「苦情申し立て」は受け入れられませんでしたが、実際上「紙千切り作業」は廃止されました。以上から、考えていた「不服申し立て」の手続きなど(大谷弁護士に相談したのですが)そのことは一旦とりやめたいと思います。理由は実際上は旧に復したことと、これ以上それにエネルギーを注力したくないこと、11・8の20年を迎え、心新たに社会復帰へと日々過ごしたいと思っているためです。新しい懲役のあり方を心配し、支えてくださった友人たちに感謝し、前向きに自分の執筆など作業も進めます。

(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は5月14日(金)に更新予定です。