野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

カテゴリ: 日記

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなりました。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、ブログのアーカイブスで探していただくか、記事タイトルで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。(まだ検索に引っ掛からないようです)
 
重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」147号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

img698_1

<独居より  2019年5月15日~2019年8月8日
5月15日 監獄人権センターのニュースレター№98を他の資料と共々今日受け取りました。まだ読み込めてはいないのですが、そこに各地の視察委員会から当該施設への意見や提案と、それに対する施設側からの解答があった内容の報告が載っています。「医療・平成29年度(平成30年4月末現在)」の報告です。その一部に「東日本成人矯正医療センター」の報告があり、「視察委員会」が稼働しているのを知りました。主な内容は「入所後、短期に死亡するケースがまま見られるが、改善されていない。改めて他の施設と解決協議を求める」という視察委の意見に対し、「疾病の早期発見治療は矯正全体でも(矯正施設の意味と見る)取り組んでいる。(中略)当センター入所以前の施設においても最善の医療処置を施していると聞き及んでおり、今後も早期受け入れを始め、他の施設と協議等鋭意進めたい」という当センターの「官僚答弁」が載っています。
去年1月14日、私が当センターに入所以来一度も「視察委員会」の動きは見られず、まだ未稼働だと思っていました。「所内生活の心得」には視察委員会に触れていますが、八王子の時のような患者との関わりはみえません。八王子の時は「子安町通信」が発行されて、患者へのアンケートや面会もあり、視察委は患者の意見を汲み取る努力や、投函ポストも投書意見を入れやすい位置に設置されていました。昭島に来てポストも私たちの生活で通る範囲にはなく、他の患者も知らないし、「まだなんじゃない」という程度です。せっかく新法で設置された「第三者機関」が有効に稼働するよう昭島でも全患者のアンケートなどが八王子のように行われることを期待します。
(中略)
5月23日 今日は朝から腸洗浄の下剤4リットルを、12時までかけて飲み、何とか準備を終えて大腸内視鏡検査へ。普通、2リットル~2.5リットルでOKになるのに、私の場合は何回もの手術で人の手が入っており、癒着していて洗浄も大変です。午後1時半から2時半の検査は、新しい腫瘍なしでした! まだ大丈夫、腫瘍はないと思いつつ、気がかりでしたがホッとしました。でも内臓をかき回すのでやっぱり疲れます。
(中略)
5月29日 今日は、うすいピンクの芍薬開きかけが5本と、スターチスの紫が届き、丸岡さんのための追悼の花として飾りました。今日の命日、あの日のように雨でしたが、あの日は震えるほど寒かったのに、今日は蒸し暑い命日です。あの時はありがとうと、あれこれ丸さんに感謝しつつ空を見ていると、雨から陽の光に変わりました。
(中略)
5月30日 芍薬の大輪の5本のピンクの花が開きました。みごとな花です。(500円です! 安すぎ!)
今日はリッダ闘争の日。花で弔い祝えるリッダ闘争は久しぶり。あの47年前の闘いは、アラブ諸国政府も人民もアラファト議長も賛辞と支持を表明し、解放の闘い・国際連帯のシンボルの闘いでした。現在のパレスチナ解放の闘いの惨状は、PLOやアラファト路線の誤りはあっても、決してパレスチナ側に責任がある訳ではありません。かつての帝国主義の植民地支配の思惑とシオニストの「ユダヤ国家建設」の相互利用はパレスチナ人を犠牲として生まれ、その構図は今も続いているからです。
トランプ政権の親イスラエル政策は犯罪的です。反イラン親米同盟は中東を益々危険に陥れ、パレスチナ問題の解決を益々周辺化しています。6月に発表されるという米の「新中東和平案」では「パレスチナ側が拒否すれば資金援助を米が停止するばかりか、いかなる国からの援助も阻止する」という一項もあるとか。国際社会の国際法・国連決議に基づく反撃は果たしてどこまで可能なのか。イスラエルの核には目をつぶり、イランを追及するダブルスタンダードも結局は米政府の主張に日本含めて石油禁輸に応じる流れ。この方式をパレスチナにも押し付けようとするのでしょうか。
でも抑圧はパレスチナの「帰還の権利」、パレスチナの民族自決を逆に浮かび上がらせるでしょう。リッダ闘争の時代は何と自由な解放の夢を語り合ったものだったのか、今さら比較しています。リッダ戦士たちが「闘いは幸せ」と言った意味をかみしめつつ、5・30の祭に花を!と一人5・30を祝し世界の友に挨拶を送っています。パレスチナに献花を!

6月1日 今日の新聞で星野文昭さんが30日に亡くなられたことを知りました。読売によると肝癌の手術を都内の病院で行った後、容態が悪化したとあります。都内の病院ってこの東日本医療センターのことか……。重篤な状態で検察は刑の執行停止を許さなかったのですね……。丸岡さんの時同様の検察の意図を感じます。冤罪の上、刑期でも仮釈放当然の星野さん。権力は報復的に自由を許しませんでした。ご冥福を祈ります。

6月3日 リベラシオンのブログに公開するため「オリーブの樹」の1号からバックナンバーを校正チェックのため読み直しています。2001年当時は接見禁止の中で初めての公判経験に学び、理解しながら書面準備したりと必死でした。ああそうだった! などと1号から12号まで読み、思い出し胸いっぱいになります。公判の情景、証人の発言、メイの発言、未知の友人の方がメイのこと詩に記して下さったものも載っています。(12号)読み直し、高校時代の旧友の「シゲに捧げる『私小説』」も改めて読み、より深く思いが溢れます。大学の友人の傍聴記やカラス天狗さんの論文は今も光っています。
また、公判一年を迎えた意見書(2002年4月24日)では、ものごとが少し見えるようになった公判シロウトの私が、ハーグ事件に関する検察の調書改ざん(PFLPへの「依存」発言のTさん自供書で私を陥れるために「依存」から「依頼」へとあたかも作戦を依頼した話への改ざん)を告発しています。読み返しても、権力側はいかに私を重刑にさせるかで、検察側が証人を恫喝したのかも明らかです。この4年後には検察側を忖度した新しい裁判長によって懲役20年の判決が出されていくのですが、それ以前の2002年ころを読んでいて(丁度9・11事件やイスラエル首相シャロンによるPFLP議長暗殺から、西岸地区破壊、アラファト大統領府砲撃の時代)みんなの支援が胸熱く迫ってきます。丸岡さんの寄稿もあって、再会のように何度も読み返すことができました。

6月14日 安倍首相の対イラン外交、方角を間違っていませんか? 核合意を離脱しないようイランに求めるより、それはトランプに言うべきこと。そうでなければ、イラン側から見れば、安倍はトランプのメッセンジャーボーイを買って出た人に過ぎません。(本音はそうなのですが)ロウハーニー大統領もハメネイ師もその労を歓迎するとしても。ハメネイ師の「安倍首相の善意に疑いは抱かないが、トランプ氏は意見交換に適した人物ではなく、答えることもない」は、精一杯の歓待の言葉。同じ日の13日にホルムズ海峡で日本のタンカーが攻撃を受けたとのこと。これは、日本の外交努力やイランとの友好に反感を持つ勢力の謀略を思わせます。場所はホルムズ海峡というよりオマーン湾で、イランのせいにするよりサウジ、UAEら米・イスラエルと協力した技術力で、対イランの緊張を作り出そうとしたと考えるのが論理的です。

6月17日 今日から一部夏暦で、入浴が週3回月・水・金になり、一回増えました。また、今日の昼には冷たい麦茶がいつものお茶の代わりに給されました。この頃7Fでなく5Fのベランダで運動。プラスチック柱で遮られて少しも隙間がなく、外が見えないので、閉塞感で外で運動した気がしません。隅に生えていた一株のゲンノショウコも抜かれてしまいました。7Fの方が隙間から空や遠くがちょこっと見えるのですが。
(中略)
6月18日 丁度「救援」紙が届いて、やはり星野文昭さんが5月30日にこの昭島の施設で手術後に亡くなられたことを知りました。当所の視察委意見として、監獄人権センターに載っていたように、ここに入所して死ぬ患者が多すぎるという指摘を思い返しました。星野さんの獄死は、完全に検察と徳島刑務所などの責任です。肝癌は、14cmx11cmだったとのこと。もう長い間、癌に罹患していたのに、執行停止も仮釈放もせず殺したのですから。再審を継続して闘うとのこと。獄中医療の改善を共にめざしてほしいです。哀悼と共に連帯しています。
6月25日 今日はフリースジャンパーを回収し、カーディガン貸与と団扇(といっても円形の白ボール紙)配布。それに今日から拭身(3分。洗面器水2杯使用可)が可能になりました。今日は5Fのベランダでの運動後、初の拭身をしました。今日は久しぶりに陽が射しています。
(中略)
7月3日 昨日「要望願い」で、面会室にマイクを八王子のように設置してほしいと提出しましたが、早くも今日回答がありました。「回答・マイクの設置は考えていない。面会室にそれを新しく設置するのは不可能」とのことです。いろいろ事情はあるでしょうが、他の難聴者の今後のためにもとくいさがったのですが、どこからも苦情はない、とのことです。とても若そうに思えたので、検討するよう上の方にお願いしてください、と言ったのですが「私が上です」と言われてしまいました。何とかしてほしいです。面会室ではとても聞き取り難くて和尚にも迷惑をかけています……。八王子には一室がマイクで難聴者対応でした。いいところは真似てほしい……。
(中略)
7月6日 西日本豪雨の記念の日。それ以前に、私たちにとっての「7・6事件」から50年目の7月6日です。当時関わった人々の何人もが彼岸に在り、また、多くの人々が苦い痛みをもって、この50年前を思い返していることでしょう。丁度あの1969年―全共闘運動が、次々と機動隊の導入によって「学内正常化」の厳しい攻防を強いられた年―から50年。赤軍派結成からも50年。関連文書を書きつつ、「7・6事件」は即時的に暴力に流れたことを、当時の知性、政治思想性が感情に制約されていた赤軍派を始めとする党派の敗北状況を、反省と共に思い到ります。
(中略)
7月8日 月曜日、Iさんの便りで、柳田さんが3週間前に亡くなられたと知りました。呆然です。Kさんとうして「朱徳」の本を送って下さり、3年後の再会をめざしている、と言って下さったのに。今頃は、彼岸で西浦さんと再会して語り合っていることでしょうか。合掌。悼みつつ、大阪医療刑で予定直前の移監で会えなかったアポイントメントの日を思い出しています。
(中略)
7月22日 朝届いた新聞で、「自公改憲過半数」「改憲勢力2/3は届かず」の見出し。とりあえず2/3に届かなかったのはホッとしましたが、自公維の力の強さを(あれほど数々の森友から加計、議員の失言繰り返しつつ、利権やメディア印象操作に権力を利用している結果なのですが)見せつけられています。比例区の投票を見れば、全有する者に対する自民党の得票率はたった17%に過ぎず、公明党も10%も減らしているのに、です。諦めた庶民の姿は、投票率の低さに出ています。でも、次の衆議院選はどうなるかわかりませんよ。日米関係や様々のほころびが出てくるのは見えていますし、若い層の支持が自民党に多いとのことですが、共産党にも、「れいわ」にも支持層があるのは救いです。できたばかりの「れいわ」は、既成の社民・共産支持票ではなく、今後、無党派層やこれまで投票してこなかった人々にも届く広がりを作っていけるかと期待しています。もっと野党がうまく共同すれば、まだまだ自民党の強権政治や人気取りの諸政策も学びつつ、乗り越えていけるのでは、と期待したいのですが……。これは今後の野党次第ですね。もっと自民党と違う国や社会の根本的姿ビジョンを語ってほしい。「れいわ」はその点で魅力的だったのか? 新聞ではわかりませんが。でも改憲議員は国民民主党にもいるし、一本釣りされる人も出てくるでしょう。3分の2を揃えて改憲強行突破もあり得ますね。あの安保法束ねて、強行採決した時のように。「改憲」が現実問題として、迫っています。阻止を!
7月23日 大暑の今日も梅雨の空。でも、雨が降っておらず、一週間ぶりに5Fのベランダ。ぬかるんでいて、患者たちは立ち話。私はウォーキングで汗をかき、身体を動かすのが楽しみ。
房に戻って汗をふきふき一息のところへ、転房の指示。午後からの引越しに備えて荷物の準備です。遅れた朝刊の選挙の確定結果をよく読みたいのに……。
一面には、自民、維新、公明が各一議席、昨日の朝刊より増えています。あーあ、これで国民民主党の改憲勢力を切り崩して強硬採決もあり得ます。夕方受け取った人民新聞、木村さんの文に「山本太郎新党は吉と出るか凶と出るか?!」とあり、少し「れいわ」の雰囲気がわかりました。パワーが溢れた「やるぞ!」という断固とした主張が新鮮に感じられます。ポデモスやシリザのように、または五つ星の方? これから進みそう。自民支持や諦め投票しない層を切崩してほしい。
今日のがっかりは、房が北側に移り、森や緑が見えなくなったことです。でも隙間から少し空が見えるので、前の北向きよりましです。

7月24日 目覚めると、隙間から遠くの緑が見えない。そうだ、今日は北側の部屋に移ったんだ……と、改めて残念。関西の「リベラシオン」の方で「オリーブの樹」の創刊号からのバックナンバーをアップすることになり、もう出ているそうです。私の方でもこの間は創刊号からの正誤表をつくるため読み直し、どれだけの友人たちに支えられて、後半、獄中を過ごしてきたのかと、各号を読みつつ皆に感謝ばかりでした。公判での丸岡さんやライラ、寄稿のカラス天狗、辻邦さん、第一審判決後2006年6/3、約80人が「重信メイさんのお話を聞く会」をTerrezaで開いて下さり、それがきっかけで、関西支える会―さわさわに至ったこと、改めて記録というものの再現力に、ありがとうという思いで読み返したところです。その間、丸岡さんをはじめ、柳田さんに至るまで、なんと多くの友が先に逝ってしまったのか……と思いました。過ぎた10年はとても短いけれど、これからの10年は生きているのかな……と思う年になったと、改めて実感しています。
(中略)
7月26日 韓国との関係悪化は安倍外交の結果です。どうして「外交の安倍」といえるのか、全部失敗し、税金で外国を飛び回ってきただけなのに。「選択」で山崎拓も同様発言。「私に言わせれば、トランプ大統領の緊密な関係も『抱き付き外交』で実がない」と断じています。「外交の実を見ると成果はゼロに等しい」「今の自民党議員の間では『わが身の保身のため首相を支持する』という危うい構造力学がある。」と看破し、安倍が意図的に後継を作らず、自分を脅かさない人で閣内を固めていて、人材払底に陥ったと嘆いています。一方で、今日の朝刊で「れいわ新選組」がなぜ人々に受け入れられたのか、よく判る記事に出会いました。山本太郎の訴えが本物であり、うす汚れた政治のパラダイムをひっくり返す勢いがあったのを理解しました。大手新聞が今でなく、投票前にこの記事を載せていたら票は倍増したかも……。「あなたの生活が苦しいのは、あなたのせいにされていませんか。あなたが役に立たないとか、あなたが勉強してこなかったからだとか。冗談じゃない!」涙があふれたと40代男性は語り「生活は苦しいけど、彼に託すしかないと思った。だってぼくを勇気づけてくれたのは彼だけだったから」と、貯金5万円から1万円寄付したと述べています。「自信を奪われているんじゃないですか。みんな。自己責任? ちがう! 国がやるべき投資をやってこなかったからだ」「生きててくれよ!」生活できない辛さにある人々のマグマを、この人は受けとめる力を持っているスピーチです。
(中略)
7月30日 この頃前より規則が厳しく、昨日はYさんに送った校正したプリントに、一行「校正よろしくお願いします」と書いたら、「今後は一行目でも通信文を書けば、一通分の信書として換算する」との指導で、その一行を消しました。今日も手紙に哀悼文を「原稿」として「同封願い」を出したのですが、却下で「増枚願い」(制限枚数の7Pより増加したため)を指示され、今回は許可されました。今後は「よろしく」とか「おねがいします」いろいろ省略して送るしかなさそうです……。(中略)
 また、友人から「『オリーブの樹』は歴史資料なのか、大原社会問題研究所や東大社会科学研究所でも資料として公開されている」とか。前にも友人が、中東研究者の宮田律さんのH・Pにオリーブの樹からの引用があったと送ってくれました。どこかで出会うのは嬉しいですね。また、今日受け取った資料に季刊「アラブ」の「現代史の証言・1975年重信房子と単独会見・日本赤軍ゲリラ闘争継続宣言・高木規矩郎」とあり、ギョっとしつつ、これ読んだところです。私がインタビューしたのは、アラブ時代に仲間の逮捕者にメッセージを送る意図で、何度かやっています。この時も、仲間の逮捕、自供をうけて「それは彼らの弱さや責任ではなく、私たちの弱さであり、それを自己批判しつつ責任を負う」と奪還を示唆したようなものでした。
 
7月31日 七月尽。今日は運動!と房を出て、講堂の1Fならいいのですが、2Fの狭い空間でラジオ体操と立ち話、ウォーキング。久しぶりのおしゃべりをみな楽しんでいます。短い廊下から講堂2Fに入るのですが、むあっとする熱気、30度以上の暑さを実感しました。
資料、水谷さんの文受け取りました。「革共同政治局が動労千葉に敵対、加えて二つの女性差別問題を隠蔽。党本部で追及・批判が噴出。ついに政治局炎上」と7/15付で中核派内部の危機的状況を暴露・分析しています。水谷さんはこうした問題を歴史的にも捉え返し、今参院選も取り組み放棄し「中核派形成の党是が崩壊」しており「その元凶は清水丈夫の論理にあり」(党と労働組合の一体的建設論で、ようは今の時代は党員しか戦えないとする論理)と党の革命を求めている水谷論文です。まったく「門外漢」の中核派のことですが、注目していたいと思います。水谷さんも自らを問われつつ記していると思います。
今日の朝日新聞に旧日本赤軍の「新たなイメージ写真」手配の記事。今、何のために? 警察国家の更なる「危険」や「陰謀」キャンペーンと「予算」に利用されています。

8月1日 リベラシオンの方、「オリーブの樹」ネットサイトへのアップに伴い、正誤表作成など協力下さってありがたいことです。リベラシオンのサイトに「JAPAN TODAY」や「人民通信」もアップするとのこと。私たちのそんな昔の海外発行のもの、よく見つかったなあ……と驚いています。「JAPAN TODAY」は80年代の新計画に沿って、海外の人々に「日本とは、いったいどんな国なのか? 奇妙なことに政権が憲法を壊そうとし、進歩派が憲法の厳守を訴える国」など、日本紹介です。これは「ソリダリティー英語版」の見解主張よりも「日本紹介」をテーマにした英語版です。「POLITICAL REVEW」は「ソリダリティー」の後継版です。70年代総括を経て、当時から私たちは人民主権を柱とする戦略(路線、政策)は変えていません。
(中略)
8月4日 「表現の不自由展その後」の中止報道。75日が3日で中止とは…。日本の空気の酷さを改めて実感します。安倍政権下の社会では横槍で中止になるだろうと思ったけれど、たった3日とは。主催者は日本の自由に幻想を持っていたのか、あまりに危機管理が軽いです。
「あなたの言うことには反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利を私は命をかけて守る」と言ったヴォルテールの姿勢こそ、民主国家の姿なのに、日本は「日本会議政権」と化しているようです。匿名で脅したり、政治家が扇動したりしている姿への抗議を、広く市民社会に伝え、中止撤回再開実現によって、なんとか委縮社会のこの流れを変えたい。死刑執行、韓国に対する政治で報復。生き辛さを排外主義に扇動する「日本会議」の匿名講義が確実に日本を蝕んでいます。
(中略)
8月8日 今日初めて、東日本矯正医療センターの視察委員会による「もくせいの杜通信」(通関1号。2019年3月発行)が、やっと届きました。何で遅れたのか?「監獄人権センター」のニューズレターで、ここの視察委員会がすでに存在し、稼働していたのを知ったのですが、これまで2018年1月入所以来、何の兆候もありませんでした。今回の号は、人権センターで記したものと同じでしょうか。(1)視察委員会って何のためにあるのか?(2)どんなことをするのか?(3)どんな人が視察委員にいるのか?(4)どんなことをしてきたのか?(被収容者らの提案を受けたり面接したりして、年度末にこのセンター長に意見書を送る中に反映する)(5)意見書提案に何を書くのか?(自分のみならず、他の人たちみんなの為に改善してほしい点など。特命可。例として、これまで職員の態度が抑圧的で研修を求めたこと。職員の都合退職者多く、メンタル向上の措置を。スーパーバイザーを招き、刑務官と異なる領域の文化の尊重を育てるべし、など職員関連が記されていました。被収容者からみた問題発生の原因は、指導の客観性、科学性の欠如があり、外部スーパーバイザーの必要。法的観点から、規律違反に対して強制的に意志制圧の道具となっており、規律自体に合理性があるのか検証の必要あり、外部チェックの要請。この点、私も大いに賛成です。合理性のない不要な規律がありますから。また、人権センターのニューズレターにあった、入所後短期の死亡批判。(6)視察委員会からのおねがい(事実確認できないので面談申し出て。個別法律相談は「法テラス多摩へ」)など、これからの意気込みが感じられました。「法テラス多摩」は渡辺先生のところか……と思いつつ読みました。東拘や八王子の視察委でやっていたように、全患者アンケートをやって、実情を知ってほしいと思います。
(終)

【「リベラシオン社」について】
重信さんの日誌の中に「リベラシオン」というWebサイトのことが書かれています。
正式には「リベラシオン社」という名称のサイトです。
主にブント系の資料を掲載していますが、その中に「日本赤軍」のページがあり、そこで「オリーブの樹」のバックナンバーを見ることができます。
「リベラシオン社」日本赤軍ページ
【1969年「11月決戦」アーカイブス】
今年の11月は、70年安保闘争最大の山場となった1969年11月16日の「11月決戦」(佐藤訪米阻止闘争)から50年目となる。
そこで、以前、このブログに掲載した「11月決戦」の記事を紹介する。
1969年11月 佐藤訪米べ阻止闘争 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-11-07.html

1969年11月 佐藤訪米べ阻止闘争 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-11-14.html

「11月決戦」は勝利か、敗北か?
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-11-21.html

【お知らせ その1】

2019.11.16東京集会_page0001_1
10・8山崎博昭プロジェクト2019年秋の東京集会 特別講演会
(台風19号の影響で延期になっていた講演会です)
「ベトナムをどう見るか―歴史認識と現実」     
講師:中野亜里さん(現代ベトナム政治、大東文化大学国際関係学部教授)
 
日時:2019年11月16日(土)18時00分~21時00分
会場:全水道会館5階 中会議室 
 文京区本郷1-4-1(03-3816-4196)
 JR線「水道橋駅」から徒歩2分、都営地下鉄三田線「水道橋駅」A1 徒歩1分。
参加費:1500円
 
講演概要
1 ベトナムと関わりから見えたこと:「オモテ」と「ウラ」の世界
2 日本人のベトナム認識とベトナム人の歴史観・世界観:「社会主義」「民族解放」の神話、明らかにされていない歴史、自国の歴史に興味がないベトナム人
3 ベトナム政治・対外関係の現状:開発と民主化・人権問題、中国・アメリカ・日本と
の関係
4 今後の展望

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月22日(金)に更新予定です。

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなります。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、記事タイトルまたはキーワードで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。

手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。

kandaku1


今回のブログは3回目、7月19日のNo522で掲載した関西学院大学闘争の記録の続きである。1969年2月の入試粉砕闘争と学館前座り込みの文章と写真、新聞記事を掲載する。
まず、1969年2月の入試粉砕闘争の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
2.4 全共闘「入試実力粉砕」の方針打出し、泊り込み強化。これに対し武田教務部長、「全共闘側の武装阻止にも素手で立向う」と言明し入試会場は体育館と中等部、高等部校舎を使用することに決定さる。
2.6 全共闘武装部隊80人、学院当局に雇われた右翼学生200が看守する体育館を未明に火炎ビンと投石で攻撃し、右翼学生を完全に粉砕。院長は、5時10分に機動隊導入を要請。早朝から「入試粉砕、闘争勝利」のシュプレヒコールで学内を武装デモ。午後1時、機動隊500、正門前に待機し、その場で、松田政男氏の講演を聞いていたサークル闘、全学1連協、キリスト者反戦連合の学友300人と対峙。午後2時機動隊、試験場防衛のため、体育館、中等部、高等部に配置さる。学生会館前で、2、000人の学友、機動隊導入に反発し、徹夜ですわり込む。
2.7 経済学部入試始まる。午前8時20分、担棒とヘルメットで身を固めた全共闘80人、機動隊に突入。
7名が不当逮捕さる。引き続き、入試終了直後、再び機動隊と激突。すわり込み部隊500人に減る。入試実現派300グランドでデモ。
2.8 商学部入試。全共闘、第5別館と法学部のバリケードを強化し、機動隊の強制解除に備える。

img634_1

img635_1

img635-1_1


入試粉砕闘争は、2月6日未明、全共闘武装部隊80人が、火炎ビンと鉄パイプを武器として、入試会場にあてられていた体育館、中等部、高等部周辺にむらがる右翼、体育会系学生、教職員250を完全に粉砕した時点にはじまる。全共闘は、6項目要求関する対理事会大衆団交予備折衝を積み重ねてきたが、学院当局はこれを拒否。彼ら当局の意図は、大衆団交を一般的な「おしゃべり」の場にすることだったのである。
 入学試験を契機に、関学闘争は質的転化を遂げた。すなわち、学園闘争史上、はしめての関学入試粉砕闘争が、12月以降の6項目要求闘争という個別学園闘争の枠を突き破り、大学の存在そのものを突き崩す闘いとして闘いとられたということである。関学80年の歴史を“マスタリー、フォア、サーヴィス”の下に窒息せしめ、労使協調のイデオロギーに毒された中堅サラリーマンを大量に育成し、関西財界に売り渡し、なおそのうえ“入試実現”によってブルジョア大学としての延命を謀らんとする学院当局と、そしてそれを強要してきた資本制国家100年の日本の社会総体に対する闘いが入試粉砕闘争であった。
そしてこの闘いは、大学の解体を要求するばかりか、国家にとっては資本制分業生産の一時的麻痺を意味することから、それを維持、回復せんがための機動隊=国家の暴力装置の反革命的介入は必然のことであった。そして、その時まさに「関学の栄光の歴史」は、もろくもくずれ去ったと言ってもよいだろう。
 これに対し、「学問の自由」なる関学の危機を即自的に感じはじめた多くの学生大衆は学生会館前に座り込み「機動隊導入弾劾」のシュプレヒコールを繰り返した。グランドでは、右翼系学生500の「入試実現」の垂れ幕もたれていた。

img636_1

img637_1

img638_1

img639_1


img640_1

学内に押し入ろうとした機動隊を、学生会館前まで押し返したデモ隊は、その場で抗議の“座り込み”に入った。
“機動隊導入弾該!入試粉砕!”のシュプレヒコールは、われわれの団結と連帯感を呼び醒し、時間の経過は、闘争の限界点を示した。
 全共闘、右翼、機動隊、そしてこの座り込み部隊の対峙関係の中で、座り込みは、夜を徹して闘われた。
 しかし、自己目的化してしまった座り込みは、重く沈み、次第に生気を失っていった。

img641_1

img642_1



2月7日、経済学部入試が、機動隊250の警備のもとに実施され、全共闘60名が午前、午後の二度にわたって機動隊の阻止線を突破するために衝突、学生会館前に座り込んでいたサークル闘、全学一連協の学友を踏みつけて、機動隊は、法学部校舎のバリケードを解除する構えを見せた。
 これに対して、全共闘は「バリケードを断固死守する」方針を打ち出し、深夜、徹夜の座り込み部隊とともに武装デモを行い、バリケードの強化にとりかかった。
「機動隊に警備を願っているは、入試実施のためだけであり、学内のバリケードには手をふれさせない」と言明していた小宮学長は、ここに至っては、全共闘を機動隊に売りわたす他になすすべがなかたのか、9日早朝、機動隊2,500が、第5別館を包囲し、激しくガス銃を撃ち放ち、薬物入りの放水を浴びせかけてきた。

img643_1

img644_1

img645_1

img646_1
img647_1

img648_1

img649_1

img650_1

img651_1


【騒然と初の“警棒入試” 関学】毎日新聞1969.2.7(引用)
受験生がかわいそう “むしろ延期を”府警にがい顔
「入試反対」「警官帰れ」兵庫県西宮市の山手の学生街を揺るがすシュプレヒコール、ヘリコプターの爆音―警官のヘルメットと警棒に守られた関西学院大学入試は、大学入試の常識とおよそかけ離れた狂気と騒乱に包まれた。全国での初めての異常な入試に受験生たちは「紛争最中の試験だから、ある程度は覚悟していたが、後輩の試験だけは静かに受けさせるだけの先輩の思いやりが欲しかった」と嘆いていた。
ゲバ棒をっ持った共闘会議派、すわりこみだけのノンセクト学生、スピーカーでがなりたてる入試賛成派、それに警官隊―7日、関学大キャンパスの朝は「四すくみ」の形で明けた。その渦の中で入試は強行された。
 午前7時ごろに機動隊約700人が試験場の体育館前道路をジュラルミンのたてで封鎖した。そこから約100メートル離れた地点につくられた全共闘のバリケードには石の山がどんと築かれた。
 大学正門はイスのバリケード、立看板、旗―ぴったり閉じられ、受験生シャットアウト。午前8時ごろから集まり始めた受験生たちは試験場を案内する地図を受け取りながら戸惑い気味。「案内します」「試験場はこちら」白腕章の大学職員が声をからすなかをグラウンドから体育館など試験場へ。
 午前8時15分、全共闘の学生約70人が投石を始めた。石は警官のタテに当たってガンガン鳴りつづける。機動隊員は守勢一方。たまりかねた機動隊の投げ返した石が間にすわっていたノンセクト学生の間に落ちる。数分後、横から回り込んだ30人余の機動隊員が攻勢に出た。その前にノンセクト学生が立ちふさがり、機動隊員に「帰れ」「帰れ」と連呼、とうとう機動隊を押戻し、投石はやんだ。
 学生と警官の衝突をまのあたりに見た受験生と父兄たちは「覚悟していたが、こんなにひどいとは。子供がかわいそうだ」とショックの大きさに声も小さい。大阪市からきた母親は「せっかく勉強してきたのだから、ベスト・コンディションで受けさせてやりたい。試験が始まるのを見届けたら先に帰るつもりでしたが、これでは心配で帰れません」と試験場に消えてゆくわが子を不安げな目で見送っていた。
 受験生の一番乗りは午前7時すぎ、山口県柳井市から来たA君(18)。「旅館にいては落ち着かないし、大学の異様な姿をこの目で見てやれと思って早くきた」というが、学生と警官がにらみ合う状況を見て「やっぱりいやですね」とぽつり。
 試験は3会場とも定刻9時に始まった。次第に増える機動隊員がその周辺を固めている。6日未明、たたき破られた体育館の窓やドアにはベニヤ板が打ちつけられ、寒風はかろうじて防がれていたが、監督官室などはあん幕でおわれただけ。
 明石市のある父親は「このような異常な状態で、入試を強行する大学側の態度が理解出来ない。現時点で入試がむずかしければ延期するなり、何らかの方法があったはず」と吐き捨てるような口調。
 一方、ある母親は「入試に反対する学生さんの気持ちもわからないわけではないが、受験生にとって入試は一生を左右する重要なものです。この大学を目指して勉強してきた受験生のために大学が機動隊を導入したことも、受験生を守る意味で仕方ないことだと思います」としんみり。父兄の意見も賛否両論だった。
 小宮孝学長代理の話
外の騒がしさが試験場内に聞こえるのではないかと心配したが、構造のせいか静かなので安心した。欠席者が少なかったのは受験生の真剣さの表れで、強硬してよかったと思う。14日まで機動隊にお願いして妨害は実力で排除してもらう。
 答案、頭にはいらぬ
 正午、昼休みで出てきた受験生たちの多くは、外の騒ぎを「少しは聞こえたが、解答に一生懸命だったから・・・」と話していたが、奈良市から来た受験生は「二時間目の国語で長い説明文を読んでいる途中、再三のシュプレヒコールがうるさくて、初めから読み直した」と憤然とした面持ち。また、親子連れの一組は「もし息子がパスしても、入学式のことが気になりますね」ときびしい口調だった。
(つづく)

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月16日(金)に更新予定です。

手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。

イメージ 1


今回のブログは、6月7日のNo519で掲載した関西学院大学闘争の記録の続きである。1969年1月にバリケード封鎖された校舎内の写真と、「卒業拒否者の独白」を掲載する。
まず、1969年1月の各学部封鎖の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
69.1.6 全共闘会議で、第5別館封鎖派(社闘、フロント、社学同、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、学生解放戦線)に分かれる。
1.7 第5別館実力封鎖。全共闘(社闘、フロント、杜学同、人民先鋒隊)30人、6項目要求貫徹、全学スト体制の構築めざす。この日から右翼の攻撃に備え、ゲバルト訓練始まる。反帝学評、学生解放戦線派は 「ショック戦術だ」と封鎖に批判、クラス、サークル末端からの組織化めざす。
1.10 学長、退去命令発す。「封鎖は大学の自治を根底から破壊する行為だ。ただちにこの不法行為をやめよ。いまからでもおそくない。すぐ退去して第5別館を正常な状態にもどすことを命じる」
全学執行委員会(反帝学評系)、学院当局に6項目要求に関する対理事会団交を要求。
1.11 法でスト権確立投票始まる。
1.17 学院本部実力封鎖。全共闘(社闘、社学同、フロント、人民先鉾隊)60人、未明に机、イスでバリケード築く。
学院当局、「第5別館、本部の建物の封鎖が続く限り、大衆団交に応じることができない」と回答。
1.18 l法、無期限ストに突入。この頃サークル闘争委結成され、以後講演会活動やすわり込み運動を展開。
1.21 文闘委、教授会に大衆団交求め、昨年12月東山学部長が署名、捺印した10 ・21反戦闘争弾圧の自己批判書と大衆団交開催するとの確認を反古にした理由を追求するが、教授会「何も答える必要ない」と突っぱねる。
1.24 全学集会開かる。これは学院当局提唱による、第1回目の収拾策動であったが、全共闘ヘルメット部隊150入が介入、大衆団交に切り変える。しかし、院長、学長は一切の釈明をしないばかりか、その場から逃亡を図り、一般学生6、000人の怒りを買った。
その後、2、000人の学内大デモを展開。右翼学生職員なぐりかかり、20数名重軽傷。
この頃から全学1連協、体育会有志連合、キリスト者反戦連合が、活発に動き出す。
1.25 商、スト権確立投票開始。   --
1.26 社闘実力部隊30人、未明に、社会学部校舎を、実力封鎖。
1.27 神、無期限ストライキに突入。経済学部集会開かる。
 右翼学生に守られた教授、大衆団交に切り変るや逃亡。新川執行部、これと同時に「闘争の責任負うことできない」と解散声明。以後、経執行部不在。
1.28 全共闘(社闘、フロント、社学同、人民先鉾隊)200、深夜に文学部校舎にバリケード築く。
1.29 文に引き続き、未明、経も実力封鎖。これで理を除く全学部で封鎖体制を確立し、当日から始まる予定であった後期試験すべてが無期延期となった。

イメージ 2


<卒業拒否者の独白>
 ’60年以降のあまりにも長い、陰湿な空白は、「批判」することによって「人間」の歴史が形成されうるかのように、自己を対象化することなく、自らを「人間」という述語へ転化させ、現実の社会状況のなかで、その述語を未曾有のカテゴリーヘと転化させうることを信ずるインテリゲンチャー達の己惚によって埋められようとしてきた。現実の幻想性に拝跪すれば果てしない地平を、現実そのものにまで引きもどす不断の「人間」の行為を放棄した、世界風物劇場の舞台に、こわれた第2バイオリンの悲痛な主題をかなでながら登場する主人公の戯言は空虚な光束の中に死滅しようとしているのだ。
 その空虚な光束の中にこそ、われわれの現実そのもの一闘争の立脚点があるのだ。だが、その立脚点が「自己否定」などというドラマチックな言葉にすりかえられてはならない。いったい、’67年10月8日の学友の死が、鮮血が「自己否定」などという排泄物によって表現されうるものでしかなかったのか。そのような言葉で美化されうるものだったのか。「闘争」が美化されて語られるのは、世界風物劇場の舞台だけでたくさんだ。
逆立ちして眠れ一卒業拒否者の独白―
 ともかく、いかに無内容なものであろうとも「大学卒」という資格が現在の社会体制の中で一つの特権的で有効なパスポートであることは否めない。しかし、この闘争はそういった一切の体制によって与えられるものとしての無意味な特権に対して〈否〉と叫ぶところから開始されたのだ。独占資本に奉仕するための人間を造るための一連の教育を拒絶するところからー。
 この闘争の最初の段階から、後期試験ボイコット、入学試験粉砕、卒業拒否は運動の一連の流れとしてあったはずである。しかし「入試実力粉砕」を叫びつつも「卒業」や「進級」の意味がわれわれに切実な問題としては突きつけられていなかったことも否めない。そして第5別館、法学部での〈死守〉一それは、この闘争が、あくまでも権力に対する非妥協的な永続的な闘いであることをわれわれに指し示した。
 3月になり、卒業試験がレポートや認定などの種々の巧妙な、そして無内容な方法に切り換えられて学院側から打ち出され、卒業見込者としての僕達に突きつけられてきたのだった。形式だけのレポートや曖昧な認定や面接が無意味なものと知りながらも一枚の「卒業証書」を受け取るために多くの友がレポートを提出し、認定され、そして卒業していった。しかし、卒業拒否した僕の中に、卒業していった者と殆んど同質の問題があり、それが解決されないままに卒業拒否を決断したのだと気づいた時、僕のゲバ棒は外部の敵と同時に僕自身の内部へも向けられなければならなかった。
「卒業拒否」というのは国家権力に対する永続的闘争宣言であると同時に、過去20余年に渡って触まれてきた僕の内部の小さを歴史に対する〈否(ノン)〉である。人間は本来、自由な存在としてあるはずである。20余年に渡る体制の、僕に対する変形作業は、僕を変形し、歪め、そして一個の体制に奉仕する奴隷を造りあげようと仕組まれてきた。奴隷にされかかっていると気付き、人間と  しての自由を願った時、僕は僕自身に付きまとう全ての存在を一つ一つ検討してみなければならなくなった。教育、家族、美的感覚……。これらの一つ一つがいかに歪められ、変形されて、体制の奉仕者を造りだそうとしていることか!
 個人的なレベルで語られる欲求の多くが現体制を認めるものであり、というよりは意識の如何にかかわらず体制に積極的に参加するものであり、「卒業しても闘う」などと未来形で語ることは現在を抹殺した二元的な欺瞞でしかありえない。個人的な特殊欲求が、闘う姿勢につながり、なお普遍性をもちうると言う時、そこには厳密な科学性を必要とするのだよいうことを忘れてはなるま  い。体制的存在者としての僕が、僕の個人的特殊な欲求を持ったまま、その特殊的欲求を追求することによって普遍的な反権力闘争を、行なおうとするのは、至難のことである。一つの自己の過去の歴史に対して〈否〉を発することによって切り裂れた僕の歴史が、大きな人間の歴史に参加するためには多くの弾圧が加えられるだろう。しかし、人間として己れの自由を選択することによって全ての自由を選ぶのだという確証がなくて誰に対してゲバ棒を向けることができるのだろうか。
 しかし、卒業レポートの締切日までに「卒業」することの意味や「卒業拒否」の内容などの討論が進まず、「卒業拒否」は個人的な内部意識のものとなり、ただ個々の内部で一つの行為を“決断する”か”否”かのみが問題となり、組織的に運動化することのできなかったことは否定的に総括されねばならない。
 4月になり、桜が咲き乱れ、4連協の部屋も寂しくなっていた。とり残された空しさみたいな、一人だけで観客のいない舞台で気張っているような奇妙な空白感が僕の中にはある。しかし、今こそ僕は、真の連帯の意味や闘うことの意味が解りはじめているのだと考える。闘いは続くだろう。更に新たな闘いの姿勢が僕の中に構築されねばならない。
 横になると、条件反射で/すぐ眠ってしまう僕に/君は〈自己変革〉を迫る/逆立ちして眠ることなんか/僕は出来やしない(文学部内の壁の落書き)
あえて言う。逆立ちして眠れ!と。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7


(つづく)

【予告!ブログを引っ越します!】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなります。
そのため、当ブログはライブドア・ブログに引っ越します。
引っ越し時期は次回更新日の8月2日の予定です。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月2日(金)に更新予定です。

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(9-10)である。

<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代      (2019.1.11掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」   (2019.1.11掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (2019.1.11掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会    (2019.2.8掲載)
5.67年現思研としての活動     (2019.2.8掲載)
6.67年春福島県議選のこと     (2019.2.8掲載)
7.全学連の活動ー砂川闘争      (2019.4.19掲載)
8.67年学園闘争の中で       (2019.4.19掲載)
9.10・8羽田闘争へ        (今回掲載)
10.10・8羽田闘争の衝撃     (今回掲載)
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
9.10・8羽田闘争へ

 67年10月8日、この日の闘いによって、学生運動が転換したと言っても過言ではないでしょう。
 砂川基地拡張反対闘争を闘いながら、三派全学連は矛盾や対立は続いていました。中核派のヘゲモニーに対して、他の党派もそうだったのでしょうが、私のまわりでは特にブントが対抗意識を露わにしていました。中核派の「反帝反スターリン主義戦略」と「反帝戦略」のブントは、闘いの位置づけ、分析において常に対立し、全学連の基調報告や政策にどう反映させるか、7月の全学連大会でも争っていました。私たち現思研は、それらを学対の村田さんや、山下さんから聞くとか、機関紙で知る程度で、主体的な立場でどうとらえるというほどの考えもありませんでした。学内の党派的な拮抗や、民青との対立には反応しますが、党派的な大学外のやりとりは、あまり注目もしていません。
 67年には、ベトナム反戦闘争が国際的な高揚を背景に、学生運動、ベ平連をはじめとする市民運動も広がっていました。
 4月に美濃部革新都政が始まり、社共や総評・産別などの労働運動も共同し、世論は平和と反戦を求める要求は強まっていました。再びアジア侵略によって経済成長を遂げようとする独占企業、財・政界の露骨な動きに対し、多数の都民が美濃部都政に平和と民主主義を託したといえます。
 学生運動は、そうした時代を背景に学費闘争、砂川米軍基地拡張反対闘争を闘い、ラジカルさを競うように各党派の街頭活動は先鋭化していきました。6月には佐藤首相が訪韓し、9月20日には、第一次東南アジア訪問の日程が決まり、日韓条約を免罪符のように、日本政府は戦争の責任をあいまいにしたまま、再びアジア経済侵略を開始しています。こうした佐藤政権下の67年、8月には新宿で米軍タンク車衝突炎上事件が起き、9月には米政権が、日本への原子力空母エンタープライズ寄港を申し入れています。そして、10月8日、佐藤首相は南ベトナム傀儡政権の招きによって、ベトナム訪問が行われようとしていました。佐藤首相のベトナム訪問には、ベ平連も社共の既成政党も、連日、街頭抗議活動を行っています。

イメージ 1


 10月8日、全学連と反戦青年委員会5,000余名は、この日、激しい弾圧に抗して闘います。実際には、前日に法政大学で行われた、中核派による解放派リーダーへのリンチ事件で、全学連としての統一行動は不可能となってしまいました。10・8闘争の総指揮を執るはずだった高橋孝吉さんらに対する中核派のリンチ、テロのやり口に、反中核派で社学同含めて爆発寸前の矛盾が激化しました。ブントや解放派らは中大から法政大学へと抗議行動を起こし、衝突しそうな状況であったようです。私たち現思研も、中大での決起集会に参加し、翌日の備えて明大学館に戻って、みな泊り込みました。
 法政大学での党派対立に備えて、各派は角材を準備したのでしょうが、この角材は内部対立ではなく、権力に向けて行使されるべきだということで収拾したと聞きました。それが10・8闘争の新しい実力闘争街頭戦に転じていったのです。
 当時の私は、授業もあったし、文研サークルの活動や詩集作りに熱中し、学苑会執行部も現思研の後輩に財政部長を継ぐように説得し、やりたいことを整理しながら、来年は卒論に集中しようと考えていました。すでに必要な卒業の単位はだいたいとっており、卒論と教職課程を中心に、来年の68年を迎えようと計画していました。このころ、関西から東京駐留で、学館に寝泊まりしている佐野さんや藤本さん、また、その後、北海道から学館に来ていた山内昌之(のちの小泉首相ブレーン)や吉田さんら、頼まれれば、現思研として雑務を引き受けたりしていました。社学同の人々のことを身内のように親しんではいましたが、だからといって「同盟員」としての活動を特に義務付けられるわけでもなく、招請があればデモに参加し、機関紙を購読するくらいの活動です。もちろん学内での私たちの自治会や生協の活動自身が、社学同にとってはメリットでもあるのです。
 早稲田社学同の荒さんもよく私たち現思研の部屋に顔を出していました。彼いわく「現思研は心の軍隊だな。お互い家族のように思いやるのはうらやましいが、それだけでは心情主義だ。学習会をやったり、機関紙討論などの理論的活動をやっていない」と批判していました。のちに下級生から思い出話として知らされたのですが、私は「あらそうかしら。観念的で大言壮語の『戦旗(機関紙)』を読んでもピンと来ないのよ」と平気で言い返していたようです。また、私が、じゃあ学習会をやろうかと言って始めるのはカフカの朗読だったり、ブント社学同の学習会というので、私が準備しているので参加するのかと思ったら、医科歯科大の山下さんや早稲田の村田さんにレクチャーを頼んでアルバイトに行ってしまったそうです。中国文化大革命にも共感せず「あんな画一的なおかっぱ頭が社会主義なら、私はあんな革命はいりませんよ」と言っていたと荒さんは、のちに語っています。この頃から荒さんが私にニックネームで「魔女」「魔女」と呼ぶので私は腹を立てていました。「魔女って『奥様は魔女』のサマンサみたいなもんだよ。魔女らしくないのに魔女みたいなことするからさ」と荒さんが言い出したので、以降、ブントや赤軍派の多くは「魔女」というニックネームで呼んでいました。私が怒るので、私の前では当初は使わなかったですが、のちには、68年ころにはまあいいかと気にしなくなり。当時の通称となってしまいました。こうした雰囲気の中で羽田10・8闘争を迎えることになりました。
 10月8日早朝。いつもは早々に知らされる集合場所が(すでに萩中公園に決まっていたままかもしれません)当日朝ブントから「今日はこれまでと違う。歴史的闘いとなる。ことごとく指揮には従ってほしい。まず、何人かに分散して東京駅へ行ってほしい。そこで次の指示が出る」というのです。上原さんや、67年に入学した田崎さんら含めて、私たちは分散して三々五々、御茶ノ水駅から東京駅へと向かいました。
東京駅のホームに着いてからか「品川駅京浜急行ホームにただちに結集せよ」というのです。私たちは赤旗を巻いたまま、品川駅のホームへと向かいました。社学同の仲間たちもどこに行くのかわからないし、乗り替えの改札があるので、みんな一番安い区間の切符買うように言われて、10円区間だったか20円区間だったか覚えていませんが、京浜急行品川駅に入りました。スクラムを組んで改札を無賃で突破するグループはいません。ホームいっぱいに社学同の仲間らしいのがうろうろしています。成島副委員長や、佐野さんもいます。しばらくすると「ピーッ」と笛が鳴って「乗れーッ!」との号令です。みな、あわてて乗り込みました。私たちは30人くらいの明治の仲間たちです。現思研の仲間は仕事があるので、そんなに多くなかったと思います。田崎さんはこの日、生まれて初めての街頭デモで、行く先も告げられず?みんなと行動を共にしたとのことです。昼間部には元気の良い池原さんらがいます。私は東京生まれですが、品川から京浜急行で行く地域は、まったくなじみのない方角です。いつも通う小田急線よりも狭い家の真近に迫ったようなところを電車が走っていきました。駅名を読みながら、指示がないかと耳を澄ませながら待機していました。「ピーッ」と笛が鳴り、「降りろーッ!」との指示がとびました。あわててみなホームに降りました。小さな駅のホームです。私たちが降りると列車はガラ空きで、残った少ない乗客が何事かとホームをしきりに眺めています。ホームの駅名を見ると「大森海岸」と書かれていました。ホームに立っていると、「飛び降りろーッ」の号令がどこからか。無賃下車です。ホームの背は簡単なコンクリートの柱が並び、そこに太い鉄棒が通してあります。これをまたいで、駅脇の道に跳び降りろという要求です。かなりの高さで、みな元気よく次々跳び降りるので、私たちも跳び降りました。そこで1,000人を超える人々が集結して、緊急の集会です。「我々は決死の覚悟をもって羽田空港へ突入し、佐藤訪ベトを阻止する。我々こそがその使命をやりとげるのだ!」成島全学連副委員長が声を限りに演説しています。他の人の工事用ヘルメットではなく、成島さんだけオートバイ用のヘルメットです。
 どこから調達したのか、前方に角材が届きました。社学同ばかりか、社青同解放派ら全学連の反中核派連合が結集しているようです。どどっと、角材が地面の置かれると、先頭部隊が決まっていたのでしょう。早大の荒さんら、一人ずつ角材を握り、短いアジテーションが終わると、シュプレヒコールで景気付けながら旗棹を持った部隊に続いて角材部隊が続き、ジグザグデモで出発です。私たちは救護看護班なので、友人たちは、貴重品を持ってくれと私たちに託してきます。救急箱もあり、それらを分担して荷物管理しつつ私たちは後方を歩くことにしました。デモ隊は1,0000人~1,200人だったといわれています。ぎゅーぎゅー詰めの連結車両のほとんどがデモ隊だったのです。デモ隊は、角材か樫棒の前衛部隊100余人に続いて駅の広場から道路を渡り、デモでジグザグ進みます。そこまでは予想外の展開ながらいつもの調子で、私たちはデモの最後尾についていました。

イメージ 2


すぐそこには鈴ヶ森ランプの高速道路に乗るインターチェンジの入口があります。その坂道の下までくると笛が鳴り「羽田へ突入するぞーッ!」「走れーッ!羽田はすぐそこだぞーッ!」と激がとんだのです。角材をもった連中は全速力で高速道路の坂を上りはじめました。デモ隊が続きます。置いていかれてはならじと、救護班は後に続きました。私たちの役割は、取り残されては果たせないからです。新入生たちも私たちと一緒に走りました。身軽に棒一本持った連中や、何も持たずに走るデモ隊に対して、カバンや救急箱を抱えた10人ほどの私たちも走りました。たちまち引き離されながら息を切らせて高速道路に上がると、すでに佐藤訪ベトに向けて一般車両の通行を禁止していたらしく車は見当たりません。かわりに何十メートルおきくらいに見張りとして立っていたらしい機動隊員は、学生たちの急襲攻撃で殴られたり倒れたりしています。それらの機動隊員たちを踏まないように避けながら、デモ隊の後を追って疾走しました。しばらく行っても「羽田はすぐそこだぞー!」という掛け声ばかりで、一向にそれらしい風景が見えません。たちまち引き離されながら、必死に追いかけます。走りに差が出て、部隊はいくつかに分かれて羽田へと向かっていたらしいのです。先頭集団を走っていた早稲田の荒さんらが、渋谷方面へと道を間違えたようだというのが聞こえました。出口を逆走すれば羽田に向かうのですが、入口をそのまま走ると、東京方面に向かってしまうようになっていたのをよく知らなかったのです。(のちに知ったとのことです)そのうち機動隊が羽田方面からと、大森方面から追いかけて、私たち百余名の集団を挟み撃ちにしようとします。装甲車から降りてきて、殴られて孤立してぼう然としたり倒れたり休んでいる機動隊仲間を収容する部隊と、学生デモ隊を攻撃する部隊に分かれています。彼らは、学生たちを包囲し、警棒で乱打し、蹴ったり激しい暴力をふるっているのが見え、だんだんこちらに近づいてきます。高速のインターチェンジの少し低いところで、「あっ!」という間に2,3人の学生が追い詰められて、飛び降りました。「あっ!今落とされたんだ!ひどい!」。見ていた仲間が悲鳴をあげました。下を見ると倒れたままです。生きているのだろうかと心配です。機動隊は仲間の復讐に燃えて、容赦ない暴力ふるい、血まみれの学生たちが、頭や顔から血を流してうずくまり、血の臭いが充満しています。機動隊は次々と殴りながら、何故か逮捕せず蹴散らす方針らしいのです。私たちの番です。ひとかたまりに私たちは身を守り、包囲を縮めてくるので、身動きが取れません。小隊長らしい男の指揮で殴りかかってきました。私たちは「救護班」の腕章を巻いているし、荷物を抱えているので一目瞭然のはずなのですが、警棒で殴りかかってきました。「見ればわかるでしょ!救護班に何する!」「女に何するんだ!」と私たちは口々にわめきました。私も頭は殴られなかったですが、肩や背、腕をしたたか警棒で殴られました。あとで見たら腕には青アザが出来ていました。みな口々に抗議しつつ、頭から流血している仲間を護るように立って対峙しました。そこに首都高速道路公団のマイクロバスが通りました。ちょうど羽田方面から大森方面に向かって走っていくようだったので「運転手さん!助けて下さい。怪我人がいます!」私は道路に飛び出して車の前の方に走り寄りました。運転手はきっと、ずっと先から学生たちが殴られ蹴られ、小突き回され血を流してうずくまるのを憤りの思いで見ながら走ってきたに違いありません。うなずくと、運転手はすぐ車を止めて、降り、ドアを開けて、数人の近くにいた血だらけの学生を車に運び入れるのを手伝ってくれました。機動隊に聞こえるように「ひでえことをするなあ」と大きな声で言いながら、どこに行けばいいのか?と私に聞きました。機動隊員たちは指揮者の号令で、羽田方面へと去って行こうとしています。私は運転手に「この近くに個人病院はありませんか?大きい病院だと警察に通報されたりすると困るんです。お金は私が御茶ノ水の大学までもどって持ってくるので、即金で払いますから」と言いました。「よし、わかった」と言って車をスタートさせました。私は、一緒にいた他の現思研の仲間には気がまわらず、怪我人で頭がいっぱいで、みんなと別れて私は車に乗り込みました。私たちの乗った公団の車は、鈴ヶ森ランプから普通道に出て、道からちょっと奥まったところにあった個人病院に連れていってくれました。
私は病院に飛び込んで「おねがいします」と呼びました。年輩のやせた院長が出てきました。私は「デモで怪我した人がいるので治療してほしいのです。今、手元にあるお金をまず払います。これから、私が御茶ノ水にある大学にとんぼ返りして治療費を持ってきますから、こちらの怪我人を助けて下さい。警察には知られたくないんです。私自身もこの怪我をした人たちの名前も知りませんし、聞くつもりもありませんから。とにかく私が責任を持ちますから助けて下さい」と院長に訴えました。道路公団の運転手は、怪我人を運ぶのを手伝ってくれた上に、自分のポケットをさぐって、有り金を差し出し「これ治療費に使って下さい。学生さんたち、がんばれよ!」と言って行こうとしました。「あっ、すみません。名前教えて下さい。あとでお金返したいので」と言うと、笑いながら「いや、いいから。一市民ということでそれでいいでしょ」と言うと、院長にお願いしますと言って出て行ってしまいました。院長は怪我人の傷をざっと見ながら「まあ若いんだから大丈夫だろう」と言いながら引き受けてくれたので、私はすぐにタクシーに飛び乗って御茶ノ水へと向かいました。そして、お金を調達すると、また、タクシーに飛び乗って医院へと、とって返しました。この時、大森に戻るタクシーの中で、運転手から「今、ラジオで聞いたんだけど、学生がデモで殺されたらしい」と教えられました。えっ?!と息を呑み、ラジオのニューズを聴きました。私にとっては羽田近辺はなじみのない場所で、橋の名前をいわれてもわかりません。でも、鈴ヶ森ランプから羽田方面に向かい、押し返されたデモ隊が、橋の上で攻防を繰り返しているらしいことがわかりました。当初は私も羽田空港に通じる3つの橋の位置関係や橋の名前も、また、殺された学生というのがどのグループに属するかもわかりませんでした。そこに社学同の仲間がいるのかもわかりません。とにかく大森の個人病院に戻って精算しました。治療した4,5人の学生たちは、どこの大学の人か聞きませんでしたが、必要な人には電車賃を渡して別れました。その後、現思研や社学同の仲間と合流すべく、そこから歩いて行こうとしても、機動隊の通行止で方向もはっきりしません。現思研の仲間たちもどこかで闘っているはずです。この日は、機動隊に追いかけられる学生たちを羽田周辺の住民たちがあちこちで助け、分散、蹴散らされながらも学生たちはみな萩中公園の方に集まって行ったようです。私は何人かの仲間に会い、御茶ノ水の学生会館に戻りました。

イメージ 3


夜、萩中公園で追悼集会が開かれ、それに参加してきた仲間も戻りました。仲間の話や報道から、殺されたのは京大1年生の山﨑博昭さんで、中核派が中心に攻防しつつ羽田へと突破を試みた弁天橋で殺されたことがわかりました。現思研の仲間たちは、突撃隊やデモ隊で加わった者もおり、防衛戦を突破して、鈴ヶ森から穴守橋をはさんで攻防を繰り広げたとのことです。穴守橋を渡ると羽田空港です。中核派は、社学同や解放派が萩中公園集会前に突撃隊を率いて、鈴ヶ森ランプをから羽田突入を図ったと、ブントの成島副委員長の誇らしげな発言を聞いたので、集会を早々に引き上げ、突撃体制に入ったと、政経学部の中核派の友人が語っていました。
前日の中核派によるリンチ事件から、全学連統一行動が分裂した結果でもありますが、穴守橋では、社学同や解放派、反戦青年委員会、中核派は弁天橋、革マル派は稲森橋をはさんで、羽田空港突入攻防を繰り返したのです。弁天橋では、橋の真中の障害物として置かれた装甲車に、車のキーが付いたままに置かれており、学生が運転して警備車を押し戻しました。そしてそこに出来たわずかなすき間から抜けて前に進もうとする学生たちを、機動隊は警棒メッタ打ちにし、学生も投石と角材で対抗しつつ、警備車を倒して道を広げようと、ワイヤーや丸太などで激しくわたりあったそうです。すき間から一番早く向こう側に到達した一団に山﨑博昭さんがいて、無差別の警棒の乱打に虐殺されたのです。(それらは、50年後に「10・8山﨑博昭プロジェクト」によって当時の公判、証言、資料の科学的真相再究明の結果を本の中で明らかにしています。すでに当時から主張していた内容を再検証したもので、警察の「学生が運転して轢き殺した」というデマがつくられたが、矛盾をきたして、結局通用しなかったという事実なども明らかにしています。)また、ちょうど昼ごろには、山﨑さんの死が穴守橋にも伝わり、佐藤首相の飛行機がベトナムへと飛び立ったこともあって、弁天橋に向かう者も多かったようです。川に落とされ、ズブ濡れの人や、怪我人が多数いましたが、弁天橋のたもとでは、山﨑さんに連帯して「同志は倒れぬ」を歌い、1分間の黙祷をしたとのことです。革共同の北小路さんが車の上に乗って「機動隊もヘルメットをとって黙祷しろ!」と糾したが、機動隊はリンチを止めなかったと話していました。攻防を経て、萩中公園で夜遅くまで虐殺抗議集会が続きました。
この日のことを「戦旗」(ブント機関紙)は次のように記しています。
「装甲車を先頭に学生はジリジリと橋の上を前進した。装甲車の前に近づき進み、橋を渡ろうとした。その時、これを見た機動隊は、学生の群れに襲いかかった。逃げ場を失った学生が次々と川に飛び込んだ。残っている学生に向かって警棒を振りかざした機動隊が狂犬のように襲いかかり、メッタ打ちにする。このメッタ打ちされた学生の中に山﨑博昭君がいたのだ。学生の装甲車はやむをえず後退し、橋から引き上げた。山崎君はこの機動隊の突進、警棒の乱打の中で虐殺された。」(「羽田闘争10・8→11・12と共産主義者同盟」より)

10.10・8羽田闘争の衝撃
この日、共に闘った一人の学生が殺されたことは、大きな衝撃となりました。「命を賭けなければ、もはや闘えない時代なんだなあ・・・」社学同の昼間部の友人が、現思研の部屋に来てため息をついてそう言いました。理屈抜きに、もう後には引けない新しい段階へと闘いが転じたのを、誰も実感していました。
「学校の先生になる者たちこそ、こういう闘いの中で日本社会の変革の担い手になるべきだ」私たちの友人たち、教育研究部の人々も、下級生も元気がいい。私もまた、みんなの憤怒を聴きながら、もう詩を書いてはいられないな、もう書くのはやめよう・・・と思いました。これまでは自分の中で、政治では言葉にできない情念や憤怒を詩に結晶させようとしつつ、カタルシスのように書いていたような気がするのです。10・8闘争による闘いの気分は、そんな私のあり方を問うていたのだととらえたのです。詩にではなく、本当に社会を変えるために情熱を捧げよう、そんな風に思いました。そして、新しい社会参加への関わりを模索しました。その第一は、何よりも、来年には卒論を仕上げ、教育実習も終え、先生の職業に就いて、社会変革の多くの担い手の一人として生きること、そこに私自身の生きがいがあると確かな思いを持ちました。
家に戻って、10・8闘争のことを父に話しました。学生が殺されたこと、それほど激しい弾圧で数えきれない負傷者が出たこと、住民が学生たちをかくまったこと、首都高速道路公団の運転手が怪我人を個人医院に運ぶのを手伝ってくれて、持っていた現金を差し出してくれて、名前も名のらずに去ったこと・・・。テレビでは学生の暴徒化と、もっぱら、公安側の情報報道を流しているけれど、現実は過剰警備が殺人に至ったことなど話しながら「私、先生になっても社会活動はずっと続ける」そんな話をしました。
この時、父は、自分も若い時、民族運動に参加したことを話してくれました。父の親類らの話から小耳にはさんで、昔父が何か「大それたこと」に関わったらしいことを、子供時代に聞き耳をたてて知ったこともありましたが、父からくわしく聴くのは初めてでした。
子供時代から私たちは、父とどう生きるべきかとか、人間の価値や正義、どちらかといえば天下国家を語り合う家族でした。博識の父を子供たちは、いつも質問攻めにしたものです。財政的に商売は武士の商法でうまくいかず、貧しかったけれど、父の知識を社会への窓口として、私たち兄弟は豊かな子供時代を過ごしました。父は子供たちを大学に行かせる財力がなかったせいもありますが、働くことを奨励し、社会から学ぶことを大切にしていました。自分が「知識人」的な生活を体験した結果かもしれません。私が働きながら大学に行く手立てを見つけて、入学を決めたあとに父に話すと、父は大変喜んでくれました。でも、父はいつもの静かな口調で「房子、『物知り』にだけはなるな。物知りだと思った時から人間が駄目になる」と言ったものです。子供時代から金の多寡(たか)で人間の価値をみる軽薄な人間になるな、と教えた父。その父がこの日語ったのは、若い時の自分の民族運動の時代と友情、そこで志を共にした人々が捕まり、刑を科されたこと、中学時代の親友池袋や、四元、血盟団の井上日召の話などです。美しい日本が、資本主義の金の支配によって、人々の暮らしはたちゆかなくなり、餓死や飢えが広がり、娘を売らざるをえない農民たちがいる。その一方で、財界、資本家、政治家や官僚たちは国民を犠牲に、利権と権力を謳歌しているとは何事ぞ!と若者たちは憤り起ちあがったといいます。父も井上日召らの呼びかけに、池袋と共に加わったということです。そんな話を私は、10・8闘争の夜に聴きました。そうか、そういう風に父も生きてきたのか。子供時代に朝鮮戦争がはじまり、朝鮮人排斥の中で、父だけそうしなかったこと、近所の馬事公苑へと「天皇の車がお通りになる」というおふれに、近所の人々が道路に並び、頭を下げているのに、父は決してそういうことをしなかったこと・・・など、他の日本人の人々と反応の違う父の姿を思い出しながら、そんな父を誇りに思っていた小さい頃の自分をも思い出していました。それ以来、これまでよりも、もっと話し合う親子になったと思います。活動のために、会う機会は減っていきましたが、どこにいても、のちにアラブに行った後も、父はずっと私の理解者でした。
10・8闘争はまた、チェ・ゲバラのボリビアでの戦死と重なりました。世界では、民族解放、革命のために命をかけて闘っている、チェ・ゲバラの「二つ三つ、更に多くのベトナムを!それが合言葉だ!」の呼びかけ、さらには、連帯はローマの剣士と観客の関係であってはならないというチェの言葉は、私たちにベトナム反戦から国際主義精神に基づく革命を実現する道をさし示していました。「たとえ、どんな場所で死がわれわれを襲おうとも、われわれのの闘いの叫びが誰かの耳に届き、誰かの手が倒れたわれわれの武器を取り、誰かが前進して機関銃の連続する発射音の中で、葬送の歌を口ずさみ、新たな闘いと勝利の雄たけびをあげるなら、それでよい」とチェ自身が語ったような死に方だったのです。また、チェはこうも言いました。「我々のことを夢想家というなら、何回でもイエスと答えよう」と。チェの闘いと死。世界の若者たちを共感させ、心をつなげた人が死んだことは、私には大きな衝撃でした。自分のことは後回しだ・・。求められた時は、私はいつでも応えられる私でありたい!チェ・ゲバラの戦死に、また、山﨑さんの死に、私は一歩踏み出したのです。それは心情的レベルにすぎなかったかもしれません。
 全学連もまた、10・8羽田闘争を教訓として、死を覚悟した闘いの時代だととらえました。そして、それを乗り越えて闘う決死隊、先鋭部隊を先頭とする街頭戦のスタイルが、10・8以降、新しい闘いのスタイルとなりました。決死隊はヘルメットをかぶり角材などで武装し、警察の警備の過剰な攻撃に対処する先鋭化へと向かっていきます。権力側は、公安情報によってマスメディアを誘導し、山﨑さん虐殺を「学生の運転した車が学生をひいた」というキャンペーンを張り、闘いの中で警察の警棒の乱打によって虐殺されたことを認めようとしませんでした。

イメージ 4


 10月17日の、山﨑君追悼日比谷野音集会には、党派を越えた6,000余人の労働者、学生が、山﨑さんを追悼しました。全学連委員長の秋山勝行さんは、この集会で「全学連は必ずや、この死に報い、この虐殺の本当の張本人を摘発し、粉砕するまで闘い抜く。時が経つにつれて、羽田の正義者は誰であり、犯罪者がどちらの側であったかが、ますます明瞭なった。全学連の死闘こそ、佐藤首相の南ベトナム訪問を最も真剣に受け止め、くい止めようとした力であり、日本人民が当然やらなければならないことを、もっとも忠実に実行した」と語っています。今からとらえれば、この10・8闘争を契機に、党派はこれまで以上に運動の先鋭化と非妥協性にもっとも価値を置く闘い方に進んでいくのです。私も、広範な運動や合法的なさまざまな多様な活動を軽視し、それよりもラジカルであることが、もっとも使命を実践していると思うようになりました。
 全学連は、10・8闘争から11月12日の佐藤訪米阻止闘争へと引き続く闘いを準備しました。10・8闘争で死者が出たことで、この日は決死隊として死を覚悟する者たちも多かったのです。社学同のデモ指揮にたった早大の村田さんは、オートバイのヘルメットをかぶり、いつものしゃがれ声を嗄らして死をいとわぬ闘いの指揮をとると、アジテーションで絶叫していました。第二次羽田闘争という位置づけで、全学連は、先頭に角材による「武装部隊」をすえて、3,000人の全学連、・反戦青年委員会が闘いました。しかし、武装力を強化したのは、学生より機動隊の方でした。この日かそののちから新しく等身大の大きさのジュラルミンの盾で防衛する態勢をとりながら、、催涙弾を100発近くデモ隊に撃ち込んで、前進をはばみました。この日は大鳥居駅付近が、まるで戦場のようになりました。
 10・8闘争の時もそうでしたが、マスコミが学生を暴徒と悪宣伝していましたが、羽田付近の住民たちは違いました。機動隊に追い立てられて路地に逃げ込む学生たちをかくまい、負傷した学生たちを手当してくれます。「あんたたちは、一銭の得にもならないのによく闘っている」と感謝されたという仲間もいました。私自身の10・8の時の経験でも、正義と信じて自らをかえりみず闘う学生たちに、住民たちは大変好意的でした。こうした高揚は、米欧各国でも同じようにありました。ベトナム反戦運動は、国際的な各地の若者たちをかりたて、チェ・ゲバラに共感し、一つの大きな力に育っていました。
 10・8闘争を経て、闘いの質はよりラジカルとなり、また、より多くの大学、高校でベトナム反戦の闘いばかりか、授業料の値上げや大学自治、管理運営などで、当局との闘いがますます広がっていったのです。67年の新しい闘い方は、68年を更にラジカルに高揚させていきました。

つづく

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月19日(金)に更新予定です。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「ガザに地下鉄が走る日」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

イメージ 1


【「ガザに地下鉄が走る日」(みすず書房)】
岡真理著「ガザに地下鉄が走る日」を読みました。
この本はイスラエルにとって武装作戦で攻撃されるより脅威に違いない、と思いつつ読みました。パレスチナの西岸地区やガザでイスラエル軍によってパレスチナ人が銃弾や空爆で殺されるニュースは日本でも時々伝えられます。でも日本に住む人々にとっては同情を寄せても遠い存在でしかありません。この「時々伝えられる」パレスチナとは、どんな現実なのか?人々はどう暮らしているのか?実は「時々」ではなく、日常生活のすべてイスラエルの欺瞞的で野蛮な介入と弾圧の中にあること、その数々の姿……。それらを一人の研究者として思索しつつ、旺盛な好奇心を持つパレスチナ人の伴走者としてすごした日々の行動の記録が凝縮されているのがこの本です。
著者から読者に提供される経験と思索の数々は、共感を与えずにはおかない筆致で描かれています。どの章も20代だった著者が新しい社会・現実に直面しながら思索し、問題意識を組み立て、更にパレスチナ問題を解明していく40年近い思索の過程がパレスチナの現場の人々との対話と協力を通して生まれる姿が浮かびます。人々に語りかけ鋭く学ぶ姿勢に私は感動すると同時に、自分をふりかえります。私は解放運動の闘いの側、解放組織の側からしか見えなかったことを読み取ることが出来るからです。著者がアラブ・パレスチナの人々と出会い共感し連帯しながら研究提示している記録を私は追体験的に想像しつつ当時を思い、その地名、サブラ・シャティーラ難民キャンプ、ラシーディーエ難民キャンプ、タッル・エルザァタル難民キャンプ、そしてパレスチナ人がよく語る「ワタン」「ヘルウ・フィラスティーン!(すばらしいパレスチナ!)」や言葉に感情移入して胸に郷愁のように熱く迫り、情景が広がります。
第一章から第十四章のうちどの章もいいものです。第二章のガッサン・カナファーニの「太陽の男たち」。第三章「ノーマンの骨」と題されたイスラエルによるナクバ(大破局)虐殺の真実。第四章「存在の耐えられない軽さ」に記された、イスラエルの10年以上の完全封鎖の下「生きながらの死」におかれたガザの人々の告発。第五章「ゲルニカ」が語るサブラ・シャティーラの82年の虐殺、それらは過去ではなく、著者の筆で今につながる日常性として活写されます。また祖国パレスチナに帰ることの出来ないレバノンのパレスチナ人が、著者がパレスチナ、エルサレムにも最近行ったことを知り、思わず声を揃えて「ヘルウ・フィラスティーン?」と聴く第九章の情景。第十二章では「人間性の臨界」と題して、2008年から9年にかけてイスラエルがガザでいかにパレスチナ人を虐殺したのか、この空爆と虐殺に抗して雨の中日本でも扇町公園から約500人の抗議とデモのあったこと、きりなく記したいエピソードにあふれています。どの章も心に響きますが、第一章、第二章そして最終章についてふれておきます。
 第一章「砂漠の辺獄」の中で著者は自らの経験から思索を開始します。著者が22才の夏トルコ・シリア国境を通過した時、陸続きの国境の間にはどちらの国民国家にも属さない「ノーマンズランド(緩衝地帯)」があることをはじめて知ります。この経験は2003年の米軍イラク侵略の戦禍を逃れるためにヨルダンへと向かったパレスチナ人が、他の国籍のある人々と違って、ヨルダン入国を拒否されてノーマンズランドに留め置かれ、難民と化していた衝撃の事実と向き合うことになります。また、イラクからシリアに逃れ同様の境遇に遭うパレスチナ人。更にはシリア内戦の中、レバノン、ヨルダン、トルコの国境地帯ノーマンズランドに滞るしかない人々、欧州へと難民化をもとめ海の藻屑(もくず)となる人々……。人間としての扱いを拒まれた「ノーマン」……。主権を基礎とする「国民国家」の空隙に落ち込んだ人々を著者は凝視する。「彼らは人権とも、彼らを守る法とも無縁だ。『法』も『人権』も、それは『人間(マン)』、すなわち『国民』の特権なのだということ。国民でないものは『人間』ではない、それが、普遍的人権を謳うこの世界が遂行的に表明している紛うことなき事実であり、その事実が──彼らが『国民』でないために『人間』でないという事実、それゆえに人権や人間を護るべき法の埒外の存在であるという事実が──露わになるのが、ここノーマンズランドだ。」もっとも必要とする人々に人権が与えられず、自らの力では越えられない国と国との間に棄ておかれた砂漠の辺獄。「人間と市民の同一性、生まれと国籍の同一性を破断する」難民という人々の住む穿たれた穴の暗黙の虚構の上にこの世界があると著者は見据える。そこから著者は「パレスチナを思考することは、ノーマンとともにこの砂漠の辺獄から世界を思考するということに他ならない。」という視座を得て、国民国家の狭間で生きることを強いられた「ノーマン」の現実をパレスチナの重層的姿としてその視座のもとに最終章の第十四章「ガザに地下鉄が走る日」まで記録しています。
 第二章「太陽の男たち」では、ガッサン・カナファーニーの小説「太陽の男たち」が「国境と難民」について思考するうえで、二十一世紀の今日的問題を既に半世紀以上も前に記したものとして、改めて読まれるべき作品として紹介しています。世界に問題が溢れるとうの昔に、パレスチナの現実がそこに始まっていたことを示しています。この小説を簡単にスケッチすると、イスラエルの民族浄化作戦によって48年パレスチナを追放された3人の男たちの10年目の物語。働き口も無く、パスポートもビザもない3人がクウェートへと職を求めて密入国を試み果たせずに、死を迎えノーマンズランドにうち棄てられていく物語です。クウェート密入国の手段は灼熱の50度にもなるイラクのバスラからクウェートへの空(から)の給水タンクの内に潜んで、国境を通過することです。この運搬を金稼ぎに諒解する運転手もまたパレスチナ人です。イラク国境は越えたのですが、クウェートの検問所でひまつぶしの係員たちのくだらない話の相手をさせられながら、運転手はジリジリしながら入国手続を終えるや、大急ぎで車をノーマンズランドに移動して停車し、タンクの蓋を開けたが、すでに3人は事切れていました。灼熱の7分の辛抱のはずが20分以上を過ぎてしまったのです。運転手は「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。」と繰り返すのです。この悲鳴で物語は終わります。ここに、作者ガッサンの思いが込められています。
その後、エジプト人のタウフィーク・サーレフ監督によって「欺かれし者たち」のタイトルで、この小説が映画になりました。映画の方は、灼熱地獄のタンクの中で、3人は必死にタンクを叩くのです。でも声は届かず、結局絶命し、原作と同じく、骸はノーマンズランドに棄てられます。今回この著書を読みつつ私は、昔のある光景を思い返しました。あれは、71年の12月の終わりか正月72年の冬、私は26歳のころのことです。当時の私は、ボランティアでPFLPの情報センターを手伝っていました。私のボスがPFLPの週刊誌「アル・ハダフ」の編集長で作家のガッサン・カナファーニです。彼から、自分の小説「太陽の男たち」の映画が出来たので試写会をやるから来いよ、と誘われました。どこかの文化センターの一室で、十数人の身内だけの試写会で、丁度日本から遊びに来ていた女友達を連れてきてもいい、というので出掛けました。ほんの内輪の訳は、PFLPハバシュ議長らイスラエルに命を狙われている人々を護る保安上の配慮だとわかりました。ハバシュ議長夫妻と、ガッサンの妻アニーらがいました。映画は、後半小説のストーリーと違って、タンクの内から必死にタンクを叩く画面になったとたん、暗闇の中でガッサンが身じろぎし、制作した監督の方を見ました。監督は緊張している風で、みんなを見回しました。映画が終わると、ガッサンが何かまくしたてて、監督も負けずに捲し立てていました。ハバシュがニコニコして「いい映画だった」と言って席を立ったので、みなハバシュ夫妻を送りつつ、会はお開きになりました。
翌日、ガッサンに事情を聴くと、ガッサンは、原作通りであってほしかったと話していました。タンクを叩いたのに、世界は耳を傾けず、やっぱり死ぬのは希望がないじゃないか、というようなことを語りつつ、アラビック・コーヒーを啜っていた情景が浮かびます。居合わせたイラク人の映画監督は、サーレフは絵になる最後にしたかったんだろう、闘いを示したかったんだろう、と言っていました。その後PFLPの72年5月30日のテルアビブ空港襲撃作戦に対する報復で、72年7月、生き残ったオカモトの軍事裁判直前に、ガッサン・カナファーニは殺されます。今回この本を読んで、この映画が73年制作と記されているのを見て、ガッサンが生きている間に、もしかしてこの映画にゴーサインを出さなかったのかもしれない、と思いました。ただ、ガッサンの同意を得ていて遅れただけかもしれませんが。
アルハダフの大きな机で、大好きなアラブコーヒーを啜るガッサンを思い返しつつ、この第二章を何度も第十四章と共に読み返しました。最終章が本のタイトルともなっている「ガザに地下鉄が走る日」。2018年のナクバから70年目の「帰還の大行進」が語られています。1948年、民族浄化の犠牲者の難民たちが、ガザに19万人を超えてやってきます。当時のガザの人口は8万人強。70年後の現在、ガザの総人口は200万人。そのうち7割の130万人が、ナクバで難民になった人たちとその子孫です。ガザの200万人の「ノーマン」たちが、人間の諸権利と切り離され、「難民キャンプ」というより「強制収容所」と呼ぶ方がふさわしい「ノーマンズランド」の中で、なお帰還を求める大行進の闘いが続いています。殺されても殺されても。パレスチナを占領し、パレスチナ人の帰還を許さないイスラエルは、逆に諸外国のユダヤ系国民を「帰還法」によって、いつも帰還を促し、「国民」の特権を行使させています。このシオニズム批判も著者は鋭い。
そしてまた、2014年3月、封鎖7年目のガザのフランス文化センターを訪れた著者が見たカラフルな絵について、最後に語っています。それはガザの地下鉄の路線図。本物の路線図のように精巧で、著者を釘付けにしました。それが、ガザのアーティスト、ムハンマド・アブ・サルの制作した「ガザの地下鉄」という題の、想像上の地下鉄路線図だったのです。ガザから西岸のエルサレムへ行って、アルアクサー・モスクに祈ることもできるし、西岸の人々は、ガザに来て海水浴することもできる。ガザに地下鉄が走る日、西岸の分離壁もレイシズムもない、かつての入植者や難民たちが、断食明けの食事を共に囲む……。ガザの地下鉄は、まだ訪れない美しい希望を「絶望の山」から「希望の石」を切り出す鑿だと、著者は記します。ガザの帰還を求める叫びに対して、著者は「私たちが、この世界を私たち自身のいかなるワタン(祖国・郷土)として想像し、それを全霊で希求するのか、ということと限りなく同義である」と、本を結んでいます。そして、「あとがき」がまたいい。ガザに示されるパレスチナの真っ暗の闇の中で、もし「私」のために灯が灯されていると知ったら、その灯に向かって人は歩み続けることが出来る、と著者は書いています。「真っ暗の山中の遠く浮かぶ灯に、私たちもまた、なることが出来るのではないか。いや、そうならねばならないだろう。パレスチナに希望があるとしたら、それは私たち自身のことだ」と。そうあり続けたい。何度も眼元を濡らしつつ読み終えた本です。
              (2月21日記)

「ガザに地下鉄が走る日」みすず書房 3,200円(税別)」
(「みすず書房」サイトより)
イスラエル建国とパレスチナ人の難民化から70年。高い分離壁に囲まれたパレスチナ・ガザ地区は「現代の強制収容所」と言われる。そこで生きるとは、いかなることだろうか。
ガザが完全封鎖されてから10年以上が経つ。移動の自由はなく、物資は制限され、ミサイルが日常的に撃ち込まれ、数年おきに大規模な破壊と集団殺戮が繰り返される。そこで行なわれていることは、難民から、人間性をも剥奪しようとする暴力だ。
占領と戦うとは、この人間性の破壊、生きながらの死と戦うことだ。人間らしく生きる可能性をことごとく圧殺する暴力のなかで人間らしく生きること、それがパレスチナ人の根源的な抵抗となる。
それを教えてくれたのが、パレスチナの人びとだった。著者がパレスチナと関わりつづけて40年、絶望的な状況でなお人間的に生きる人びととの出会いを伝える。ガザに地下鉄が走る日まで、その日が少しでも早く訪れるように、私たちがすることは何だろうかと。
目次
第1章 砂漠の辺獄
第2章 太陽の男たち
第3章 ノーマンの骨
第4章 存在の耐えられない軽さ
第5章 ゲルニカ
第6章 蠅の日の記憶
第7章 闇の奥
第8章 パレスチナ人であるということ
第9章 ヘルウ・フィラスティーン?
第10章 パレスチナ人を生きる
第11章 魂の破壊に抗して
第12章 人間性の臨界
第13章 悲しい苺の実る土地
第14章 ガザに地下鉄が走る日
あとがき

著訳者略歴
岡真理  おか・まり
1960年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は現代アラブ文学、パレスチナ問題、第三世界フェミニズム思想。 著書に『記憶/物語』(岩波書店)、『彼女の「正しい」名前とは何か』、『棗椰子の木陰で』(以上、青土社)、『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房)ほか。訳書にエドワード・サイード『イスラム報道 増補版』(共訳、みすず書房)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(共訳、青土社)、ターハル・ベン=ジェルーン『火によって』(以文社)、アーディラ・ライディ『シャヒード、100の命』(インパクト出版会)、サイード・アブデルワーヒド『ガザ通信』(青土社)ほか。2009年から平和を目指す朗読集団「国境なき朗読者たち」を主宰し、ガザをテーマとする朗読劇の上演活動を続ける。

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月5日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ