野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

カテゴリ: 書籍

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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(川上泰徳著・岩波書店刊)】
「シャティーラの記憶」(川上泰徳著・岩波書店刊)を読みました。頭の芯から言葉にならない想い――こんなにもつらく繰り返される人々の苦難と闘い、そしてそれは私自身の自らの記憶と体験と交叉する分―-なつかしさと化学反応を起こしたように言葉にならない想いが溢れ出たのです。
 シャティーラ――そこは、ベイルート市内からも近い0.1?の狭いパレスチナ難民キャンプ。私が1971年、ベイルートに着いた3月、初めて訪れた難民キャンプがシャティーラです。イスラエルがベイルートを占領した1982年、パレスチナ難民たちをキリスト教徒右派民兵を使って、シャロン国防相が虐殺させたのも、このシャティーラです。
 この本の著者は、20年にわたって特派員などを体験してきた中東問題専門家であり、フリーランスとなった2015年から2018年の3年間、ナクバの70年目にこの本をまとめる考えで、のべ6?月ベイルートに滞在してシャティーラ難民キャンプに通いました。そして1948年前後からパレスチナを追われたナクバ(シオニストのパレスチナ人民族浄化によって1948年のイスラエル建国が成された、パレスチナ民族にとっての大厄災のことをナクバという)時代の難民の第一世代から現在の若者たち第三世代、第四世代の約150人のシャティーラの住民にインタビューを重ね、それぞれの時代の経験と記憶を探り、パレスチナ難民の70年の実情を記録しているのが、このルポルタージュです。
読みながら、人間としてこれ以上ない仕打ちを受け、闘い、生き、語る人々の姿に、何度も立ち止まらざるを得ませんでした。1948年当時、パレスチナを追放された70~80万人と言われた難民登録者数は今や650万人を越えていますが、ここで著者が浮かび上がらせた住民の実情は、同じように650万件の記憶と経験があるのだと思いつつ読みました。どこのキャンプでも、きっと同じことが溢れていると思います。かつては、あるいは今もファタハやPLO、PFLPに属して闘い、闘い、闘ってきた老齢の父や母、その息子、娘たち、住民のパレスチナ人一人一人の人の一端が立体的にこの本で描か言を聞き、記憶を集めるのは、パレスチナ問題の歴史の事実を検証するためではなく、「私はあくまでも難民たちの脳裏に焼き付けている体験の記憶という主観的な言説を集めることで、彼らの体験を70年という時の広がりとして知りたいと考えた。それは私がジャーナリストとして、パレスチナの実感に触れる方法であり、人間体験としてのパレスチナをシャティーラという舞台の上で再構築しようとする試みである」と記しているように、やり方も独特です。まず、シャティーラに行き、出会った人にインタビューを試み、人から人へと話をしてくれる人間を探してインタビューを続けたのです。「50人、60人の話を聞いても見えてこない。(中略)取材が3年目となり、100人を過ぎたころにシャティーラを舞台にしてそれぞれの事件や時代ごとにうごめく人間の集団が見えてくるような感覚があった」と「あとがき」で述べていますが、オープンマインドのアラブ人、パレスチナ人だから見ず知らずの著者と出会い、率直に語ってくれて、この本の記録が成立していることがわかります。
 目次の第1章は「ナクバの記憶」として1948年にどのようにシオニストによって殺され、家を追われたのか、当時のアラブ志願兵らの姿も浮かび上がります。もっとも重要なこのナクバの記憶が少ないページしか割かれていないのは、すでに著者がインタビューを始めた時には、多くの当事者が亡くなられているためでしょうか。当時10歳前後だった人々の証言を読みながら時代をしみじみ感じてしまいました。私が70年代初めのシャティーラで聴けば、ナクバの記憶が家族中から怒りと哀しみと共に途切れることなく溢れ語られ、パレスチナ史はそのこと一色でした。のちのシャティーラの歴史となる右派キリスト教徒民兵による虐殺や、シリア軍やレバノンシーア派のパレスチナ人弾圧もありえなかった時代です。
 このシャティーラキャンプはパレスチナ祖国奪回をめざす民族主義者のパレスチナ人によって、闘いと訓練の砦として、当初場所が確保されたそうです。この始まりから、70年代のパレスチナ革命の「黄金時代」(カラメの闘いからミュンヘン闘争を経てアラファトの国連演説など)からさらに82年のサブラ・シャティーラ虐殺事件。この虐殺の実態を住人は語っています。あの虐殺直前にイスラエル軍に包囲されたシャティーラ住民は、代表団を平和の使者として白旗を掲げてイスラエル側との交渉に向かったのですが、そのまま行方不明となったそうです。そして、9月16日から18日の3日間の殺戮の目を覆うような残忍さ。
 しかし、イスラエル包囲下の虐殺の中でも、シャティーラの住民たちの中から約100人が虐殺者に抗して、ゲリラ戦で闘い続けたので、狭い露地の地形を知らない虐殺者たちは恐れ、キャンプの奥に入れず、18日撤退していったとのこと。撤退するまで、抵抗戦を闘ったという当事者の証言があります。私たちもサブラ・シャテーラ虐殺に対する国際民衆法廷をPLOと共に、83年日本で開催する準備をしたのですが、ゲリラ戦の抵抗は、当時十分知られていませんでした。
 また、93年の「オスロ合意」の過ちが難民キャンプを無気力にさせてしまったことも実感できます。シャティーラなどレバノンの難民キャンプの居住者は1948年のナクバの時の難民たちであり、オスロ合意によって、「帰還の権利」が棚上げされたばかりか最終地位交渉でもイスラエル政府は帰還権を拒否し続けてきたし、そうなることは当初から危惧されていたからです。
 第7章「内戦終結と平和の中の苦難」がそれですが、レバノン内戦終結と「オスロ合意」を経て、レバノンのパレスチナ難民が平和から除外されていく姿や、また、PLOやファタハからガザへの帰還メンバーに選ばれたり、役職を示されながら、愛する家族の居るシャティーラに残った人々の話に人間の尊厳の心の持ちようを教えられます。
 第8章、第9章は、私の知らない時代で、後半部分の記録には、衝撃を受けつつ読みました。
 第8章の「シリア内戦と海を渡る若者たち」では、シリア人と違って、パレスチナ人は欧州で難民として認められず、多額の旅費を掛けつつ、シャティーラに舞い戻った人や、逆に自ら欧州から戻ってきた若者たちの姿も描かれています。
 また、シリア難民の何家族もがレバノンで保障のない生活を強いられ、家賃の安いシャティーラに間借りしていることも知りました。200ドルの家賃と日々の食費を稼ぐために毎日大通りに出て、ティシュを売って、健気に母親を養うシリア難民の少女の話。そうか、シャティーラに身を寄せて暮らすシリア人まで居るのか……。
 さらに第9章「若者たちの絶望と模索」では、深刻な「パレスチナ人の今」が、人々のインタビューから浮かびます。「オスロ合意」で、「帰還権」は棚上げされ、80年代のシーア派民兵によるキャンプ攻撃が続き、当時学ぶ機会を奪われた子供たちの今。政治的NGOなどに参加し、親たちの希望を継承する若者が育つ一方で、薬物依存や売買がキャンプに広がっている実情に驚かされます。それが家族間抗争や世代間断絶にもつながっているとのことです。
 「ナクバから70年を経て、かつて『パレスチナ革命』を担ったシャティーラには殺伐とした光景が広がっている。今シャティーラが直面しているのは、従来のパレスチナ問題を超えて、難民第三世代、第四世代となる子どもや若者たちと家族として、人間として、どのように関わるかという、より根源的な課題である」と記す著者の9章の結びに衝撃を受けました。レバノンのパレスチナ難民の置かれた差別による貧しさ、正規の就職を禁じられた生活を強いられ、数々の弾圧の中希望のない未来を見た時、若い人々が闘いも努力も虚しくなることも判ります。この若者たちの現実を、闘ってきた大人たちは、どんな苦悩でそれを見つめているでしょう。故郷を追われ真っ当な生活を奪われた結果の現実の一面だからです。でも著者は第1章からずっと、特に「終わりに」の中で、このシャティーラの人間的絆の深さ暖かさ、互いに助け合い問題を解決する委員会や調停など人々の暮らしの自治・自決の姿を記しています。この自治・自決はまた、女性たちこそがその家族と社会を支える存在であること、そしてその根本には、あくまでもパレスチナへ帰るという代を継いだパレスチナへの帰還を、かつてより強く願い続けている老若男女の意志として記しています。今やパレスチナのディアスポラは世界中に存在し、パレスチナ人が被った政治的暴力、生活を破壊される貧困を生む経済的暴力含めて、この暴力やそれを告発し克服しようとする意志は、「パレスチナ人の70年の経験がパレスチナを超えて、世界へ、そして普遍へとつながっていることを示している」と。パレスチナのナクバから70年、0.1? に住む人々の記憶と記録が普遍的な告発、世界の人間の尊厳の闘いとして問い返されています。
 ナクバに始まるパレスチナ人の70余年は、あまりに悲惨です。どのように人間性を奪われてきたのか、数々を淡々と語りながら、直、人間性豊かな人々。この本が人々の個々の歴史の縦糸と時代時代のシャティーラでの事件とその解決の共同性――ある時は武装し、ある時には真摯に仲介し―― 一つ一つが具体的に描かれていて、目に見えるようです。
 この現実をもたらした歴史的犯罪は今も裁かれず、パレスチナ人を「邪魔者」のように扱う世界で、なお帰還を求めるシャティーラの住民たちの世界を変えようとする諦めない意志に共感し、世界を、日本を変えねば……と、改めて思います。
リッダ闘争の日に読み終えました。
(5月30日記)

【本の紹介】
「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」

岩波書店 2,860円(税込み)
(以下、紀伊国屋書店Webサイトより転載)
内容説明
故郷を追われてから70年。レバノンのキャンプに暮らすパレスチナ難民の証言を通して、苦難の歴史をつむぎ出す。0.1km2のキャンプの歴史から浮かび上がるパレスチナ問題の本質。
目次
第1章 ナクバ“大厄災”の記憶
第2章 難民キャンプの始まり
第3章 パレスチナ革命
第4章 消えた二つの難民キャンプ
第5章 サブラ・シャティーラの虐殺
第6章 キャンプ戦争と民衆
第7章 内戦終結と平和の中の苦難
第8章 シリア内戦と海を渡る若者たち
第9章 若者たちの絶望と模索
終わりに―パレスチナ人の記憶をつむぐ

著者等紹介
川上泰徳[カワカミヤスノリ]
ジャーナリスト。1956年長崎県生まれ。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)アラビア語科卒。1981年朝日新聞社入社。学芸部を経て、特派員として中東アフリカ総局員(カイロ)、エルサレム、バグダッド、中東アフリカ総局長を務める。編集委員兼論説委員などを経て2015年退社。エジプト・アレクサンドリアに取材拠点を置き1年の半分を中東で過ごす。中東報道で、2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

【書評アーカイブス】
このブログでは、主に「オリーブの樹」に掲載された重信房子さんの「書評」(本の感想)を掲載しているが、今回は、以前、このブログに掲載した書評の中から、アクセス数の多かった記事を紹介する。

重信房子さんの獄中書評「夜の谷を行く」(桐野夏生著)
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2017-09-15.html
浅川マキの書評 ビリーホリデイ自伝「奇妙な果実」
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-10-31.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

●糟谷孝幸君追悼50周年集会

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日時:2020年1月13日(祝) 午後1時半~
会場:PLP会館大会議室
   (大阪市北区天神橋3-9-27)
会費:入場無料
内容:「1969年とは何であったのか?」
    海老坂 武 氏(フランス文学者)
   「11.13裁判・付審判闘争の報告」他 
  
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月20日(金)に更新予定です。

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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「アラブ革命の遺産」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「アラブ革命の遺産―エジプトのユダヤ系マルクス主義とシオニズム」(長沢栄治著・平凡社刊)】
「アラブ革命の遺産」(長沢栄治著・平凡社刊)を読みました。初めて読んだのは、2016年です。この頃は、2011年に始まったアラブ民衆蜂起が打ち砕かれ、米欧と同盟するサウジやカタールのアラブ王制国家が煽動する宗派戦争が席巻し「イスラーム国(IS)」を生み、それに驚いた米欧・アラブ王政軍が激しく空爆してISを破壊・追いつめていた時でした。
 この「アラブ革命の遺産―エジプトのユダヤ系マルクス主義とシオニズム」と題する著作は、2012年3月に発刊されていて、丁度まだエジプト民衆革命の勢いのある時に執筆されているものです。この種の研究書には見られない熱い人間的洞察と心情に溢れていて、大変感動しつつ読みました。これは著者の人柄によるところが大きいかもしれません。帯に「終わりなきサウラのために」(サウラは革命の意)と記されています。
エジプトで共産主義者として革命を求めた多くの人々が王制下で、またナセルの民族革命政権下で、どのように闘い弾圧されたのか、そしてその革命の遺産が、どのようにこの新しい民衆蜂起に活かされるのか。それとも、かつてのような激しい弾圧の辛苦を背負うのか、時代の要請に応えるように執筆されています。「アラブ革命の遺産」として、歴史を俯瞰し1940年代・50年代を闘った、エジプト共産主義運動と、そのリーダーとして闘ったユダヤ教徒出身のエジプト人を中心に捉え返しているのがこの本です。「祖国を追われ世界を祖国として闘った」といわれるインターナショナリストのヘンリー・クリエル(1914~1978)と、ユダヤ教からイスラーム教に改宗しつつ闘った共産主義運動の理論的リーダー、アハッマド・サディク・サアド(1919~1988)の二人の闘い、生活、証言に焦点を当て、著者がエジプト知識人・革命家たちと思想的対話と交流を果たしながら書き上げたのがこの書です。この本は600ページに及ぶ大部なものですが、革命家たちの息吹が伝わるような、その闘いの矛盾・対立・葛藤・獄中での姿など、克明に明かしながら、著者もまたその中で呻吟を共にしつつ書いているように思える本です。
この本の主旨やポイントは、著者によって「アラブ革命が始まってから一年が過ぎた」という書き出しで始まる「まえがき」で、判りやすく示しています。その中で著者は、2011年に始まる民衆革命は、歴史的に半世紀以上前の、1952年、ナセルらの七月革命に始まる変革と、アラブ民族革命の遺産が引き継がれていると捉え、当時実現しえなかった志が今も闘い継がれており、それをアラブ革命の遺産として捉え直すことを自らに課した作業として執筆していることがわかります。
1952年、エジプト革命に始まる植民地支配からの解放と、人間の尊厳と権利を求める闘いがアラブ中を覆い、世界に影響を与えつつ、また、影響を受けながらアラブ民族主義革命が進んだ時代です。こうした革命の時代、若者たちは一人ひとりはどう生きたのか? 1940年代から活躍した人々と時代を掘り起こし、再現しつつ記しています。エジプト共産主義運動のリーダーであるヘンリ・クリエルとアハマド・サディク・サアドの歴史は、エジプトの革命の遺産の実情を示しています。クリエルは1943年、エジプト共産主義運動、民族解放民主運動(DMNL)を創設し、サアドはそのライバルの組織「新しい夜明け派」の指導部に属する理論家ですが、二人のユダヤ人指導者は、パレスチナ問題で正反対の立場に立つことになります。
1947年11月、国連総会のパレスチナ分割決議にソ連が賛成するという、アラブの共産党・共産主義者たちにとって衝撃的なことが起こります。サアドは、アラブ民族主義者同様、分割決議に賛成したソ連に、共産主義者として異議を唱えます。そしてのちにも、ソ連や「外国人(移民してきたユダヤ人など)」の共産主義運動の様々な軋轢の中で、「運動のエジプト化」に尽力していきます。
また、パレスチナの英植民地経済・社会を分析しつつ、反シオニズム・反英を貫きます。一方、クリエルは分割決議を支持するDMNL 路線を創出し、反対を主張する同志と党内矛盾対立に至りつつ闘います。このクリエルの分割案支持は、ソ連への追従というより、シオニズムに対するユダヤ人クリエルの親和性を疑った同志たちによって、1958年3月DMNL から絶縁を宣言されます。クリエルは、その当時既に1950年7月にファルーク王政によって、エジプト国籍を持ちながら「外国人」として国外追放されて、パリでの活動を強いられた中で、同志たちの絶縁という苦境に出会ったのです。クリエルがユダヤ人であり、国外に在って追放の身で指導しようとしたことが反発を生んだ、といえます。クリエルはその後「連帯」という組織を立ち上げて、アルジェリア独立戦争を支持して投獄されながら、南アの反アパルトヘイトの闘いなど、第三世界解放運動に尽力し、1978年6月、パリで暗殺されます。この本の中で、それらが詳細に多様な角度から記されています。
第一部は「アハマド・サディク・サアド論」、第二部は「ヘンリ・クリエルとエジプト共産主義運動」、第三部では「エジプト共産主義運動におけるユダヤ教徒問題」、第四部は「パレスチナ問題とエジプト共産主義運動」、第五部は「アラブ民族革命の時代を生きる」として、「はじめに」の中で概括しています。この第五部は補論的部分と断りながら、二人の革命家について触れています。エジプト・シリアのアラブ連合共和国時代(特に1958年)、激しい反共弾圧の拷問に殺された、誠実なレバノン共産党リーダーのファラジュッラ―・ヘルウを蘇らせています。この本の中で、それは、シリア・レバノン共産党書記長として、40年も君臨し、「ミニスターリン」といわれたハーレド・バクダーシュの正体を露わにし、対比しながら、ハルウの殉難の様子を哀悼をもって伝えています。また、友人でもあるムスタファ―・ティバ(元クリエルの同志で1952年から1964年、フルシチョフの訪エジプトまで獄にあり、闘い続けた革命家)との出会い・交流の中で著者が教えられた様子が率直に記されていて、補論部分はアラブ民族主義政権の強権・拷問・弾圧の中で、革命家たちがどう闘ったのか、学ぶことができます。
とくにナセル政権の評価をめぐって、結局、ソ連の国家外交政策に犠牲を強いられ、解体していった党(1965年3月、ナセル政権支持で、エジプト共産党は自主解党宣言をする)に、共産主義者の矜持をもって闘い続けた革命家の友人、ティバの姿を熱い共感で描いています。1960年代、日本の私たちは唯闘いの突出に力を注ぎ、市民・人民と共に闘えなかった革命をふり返りつつ読みました。
この本に私がとりわけ深い関心を抱いたのは、海外の私たちの1974年、闘いの中で交差したヘンリ・クリエルについて、その生い立ちや、共産主義者としてのエジプト時代を深く知ることができたためでもあります。クリエルは、何故あの時パレスチナ解放闘争支援を他の第三世界への尽力と比べて、躊躇したのか? 当時の疑問が、この本を読んで納得できるようになりました。
ヘンリ・クリエルは、初期のエジプト共産党を創ったユダヤ人であることを、1974年、私たちが彼らと出会った頃から知っていました。彼らの組織「連帯」はその多くを地下組織化して第三世界の解放闘争を支持していました。当時の第三世界の解放闘争は常に暗殺に晒されるなど厳しい中にあり、彼らの兵站を支えるためにはそうせざるをえなかったのです。クリエル本人もファルーク王政から外国人として追放されながら、そしてアルジェリア解放闘争を支持してパリで投獄されながら、ひるまず南アやアフリカの闘いもまた支えていました。私たちと接触するようになった折「連帯」は欧州では自国政府打倒の闘いは行わない、支持しないことが第三世界革命支援のために必要なことであり、欧州の武装グループには協力しないという立場を明確にしていました。その上でパレスチナ解放の武装闘争にはコミットしない、これまでしてこなかったという立場を取っていました。「第三世界革命支援」と言いつつ、なぜパレスチナ解放闘争は支援しないのか? ユダヤ人との対立にはモサドが介入し、仏・欧州での活動に支障が出るという風にこちらは理解していました。PFLPの国際遊撃戦には共闘しませんでしたが、結局私たちに対しては国際主義の立場からいくつかの兵站的な支援をしてくれました。
 しかし74年に私たちの活動の過ちから、いわゆる「パリ事件」といわれる日本人・外国人の大量逮捕に至り、クリエルの仲間にも小さくない被害を与えたばかりか、クリエルが「テロリストの親玉だ」とか「KGBの手先だ」といった大キャンペーンに晒される結果をもたらしました。私たちは政治的にもまた技術的にもあまりに未熟でした。クリエルらはユダヤ人・イスラエル人とPLOらパレスチナ人の政治対話の回路をML主義者こそ開くべきだと考えていたと思います。当時の情勢もまた私たちも議論を受けとめうる程成熟していませんでした。その後すっかり厳しくなった条件の中「連帯」は活動を続け、78年5月4日クリエルは自宅アパートのエレベーターから玄関ホールへ降りたところで2人組の男たちによって射殺されました。誰がクリエルを殺したのか? モサド、仏右派の秘密軍事組織OAS,さらにはアブニダールによる殺害まで、当時衝撃的に犯人像が語られました。私はアブニダールに直接聴き、彼らではないと理解しました。それにアブニダール派は暗殺を誇示し隠したりはしません。モサドの仕業だろうと考えました。私たちの失敗、あやまちのためにクリエルらを危険に晒してしまった結果、クリエルの死を招いた責任の一端を負っていると反省して、友人組織を通して追悼を伝えました。今回この本によってクリエルの個人史を読み(当時のエジプトの億万長者のファミリーのユダヤ人子弟は仏の学校に通い、生活も仏人的でアラビア語も不十分で「外国人」という実体だったのも知りました)祖国を追われたスファルディのユダヤ教徒の彼が、ユダヤ人共産主義者として組織したパレスチナとイスラエルの民衆の側の対話が、モサドのクリエル抹殺につながったのだろうと改めてその思いを強くしています。革命を担う人々の人間的側面を革命の遺産として伝える希有な良書としてこの「アラブ革命の遺産」を再読しています。                (2018年12月6日記)

【内容説明】(紀伊国屋書店サイトより)
国家にも、民族にも、宗教にもとらわれずパレスチナ問題に直面しつつ公正な社会のために闘った国際的な活動家クリエルと改宗した知識人サアドの苦難の生。
目次
第1部 アハマド・サーディク・サアド論(ユダヤ教徒エジプト人とマルクス主義―アハマド・サーディク・サアドの場合;アハマド・サーディク・サアドと民衆的思想)
第2部 ヘンリ・クリエルとエジプト共産主義運動(クリエル問題とは何か;家族と文化的背景;エジプト共産主義運動の「第二の誕生」;組織の統一から分裂、そして弾圧へ;その後のクリエル)
第3部 エジプト共産主義運動におけるユダヤ教徒問題(『証言と意見』資料に見る外国人・ユダヤ教徒指導部問題;組織統一と指導部の非ユダヤ化をめぐる問題―『証言と意見』資料から)
第4部 パレスチナ問題とエジプト共産主義運動―サアドとクリエル(パレスチナ問題の展開―一九二〇年代から第二次世界大戦期まで;国連パレスチナ分割決議とエジプト共産主義運動;アハマド・サーディク・サアド『植民地主義の爪に捕われたパレスチナ』)
第5部 アラブ民族革命の時代を生きる(アラブ共産主義者の殉難;砂漠の政治囚収容所からの手紙―ムスタファー・ティバさんとの交友)
著者等紹介
長沢栄治[ナガサワエイジ]
1953年山梨県生まれ。東京大学経済学部卒業。東京大学東洋文化研究所教授。専門は近代エジプト社会経済史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

【お知らせ その1】

2019.9.16全共闘シンポジウム_1_1


「団塊/全共闘世代の未来と課題?続全共闘白書アンケートを素材に」
(9・16続全共闘白書シンポジウム)

続全共闘白書アンケートへのご協力ありがとうございます。
お蔭さまで、430超の回答が寄せられ、年内の出版化をめざして編集作業に入っています。
その「先触れ」として、アンケート結果を素材に、以下のシンポジウムを開催しますので、ぜひご参加下さい。
■9月16日(祝)13:30(開場13:00)~15:30
■帝京平成大学池袋キャンパス(豊島区東池袋2-51-4)
■概要 全共闘世代は高齢社会の厳しい現実をどう受け止め、どんな覚悟で「社会的けじめ」をつけようとしているのか? アンケート結果を素材に、上の世代、当事者である団塊・全共闘世代、その下の団塊ジュニアの三世代クロストークによって、「団塊/全共闘世代の未来と課題」を読み解き、次世代への提言とします。
■パネリスト:落合恵子(作家)、阿部知子(小児科医、衆議院議員)、若森資朗(元生協理事長)、小杉亮子(社会学者)
■コーディネーター 二木啓孝(ジャーナリスト)
■参加費 1000円(資料代を含む)
*詳細は添付のチラシをご覧下さい。
<問い合わせ先>
続・全共闘白書編纂委員会(事務局・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17ネクストビル402ティエフネットワ-ク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス aef00170@nifty.com

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月

●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月13日(金)に更新予定です。

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