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「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部も文字量が多いので、10回程度に分けて公開する予定である。今回は、第二部第二章(1)である。

【1960年代と私  第2部 高揚する学生運動の中で】
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連(今回掲載)
2.三里塚闘争への参加
3.68年 高揚の中の現思研
4.御茶の水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連の分裂
6.ブントの国際反戦集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年 東大闘争
11.新しい経験と 4・28闘争

第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連

10・8羽田闘争に続く第二次羽田闘争と合わせて、一連のこの「羽田闘争」で学生の検挙者は当時の明大新聞によると491人にのぼったと記録されています。負傷者は、学生、警察官、一般人を合わせて、消防庁調べで414人とのことです。

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学生たちは、私がそうしたように、負傷者を自分たちで病院や医学連などで治療してもらう措置を取ったので、実際の学生の負傷者は更に多かったはずです。この時、水戸巌・喜世子夫妻が救援活動に乗り出して、各病院の支払いに奔走され、また弁護士に頼んで逮捕者を支援したりし、その後の救援連絡センターを設立していく土台を築いています。
政府側も弾圧を強め、当時としては初めて「凶器準備集合罪」を学生たちのデモに適用しました。更に、公安調査庁を中心にして三派全学連に対する破防法の団体規制を検討し始めました。そして、逮捕された学生の主な国立・公立・私立の大学の学長を58人招いて、事後措置を含めて協議する事を決めました。警視庁も、10・8闘争後、11月には明治大学、中央大学、法政大学、早稲田大学の各学長、総長に対して、佐藤訪米前後の学生会館への学生の宿泊を禁止するよう申し入れたりしました。数々のこうした脅しや弾圧措置に対し、全学連は更に徹底抗戦を宣言していました。
第一次羽田闘争後、第二次羽田闘争への予防弾圧として10月には、中央大学など含め、学生会館や自治会への機動隊の導入が行われたりしました。学生自治会側は、学生会館運営委員会と協力して、抗議の対抗措置として、泊まり込みを正当化する方法として「深夜映画祭」を行ったりしていました。ベトナム反戦の反体制運動の中で生まれている多様な戦い方を文化的にも表現し、若松孝二や寺山修司、赤瀬川原平らの映画、演劇、アートなどの文化・芸術に影響を受け、また影響を与え始めていた頃です。これらは、日本共産党の文化活動と違った形で、表現を作り出し、学生たちも共感していきました。

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私も、中央大学であった若松孝二監督の「オールナイト映画祭」を現思研仲間の遠山さんらと、覗いた事があります。「壁の中の秘め事」か「情事の履歴書」というタイトルだったか・・・。
映画の微妙なセックス場面になると、「映倫カット」で、その部分のフィルムの上映不許可になります。若松映画は、「映倫カット」のその部分をそのまま空白で上映していました。あっと言う所で映倫マーク入りの空白になるので、学生たちは「ナンセンス!」と大声を挙げて楽しんでいました。私は遠山さんらを誘って、既に始まっていた真っ暗な教室に入ったのですが、その「ナンセンス!」が楽しくて一緒になって遠山さんと「ナンセンス!」と声を張上げて笑ったりしていました。途中でフィルムが切れたかで、中断になり、教室に電気がパっと灯されました。ぎっしり学生たちが居ましたが、なんとそこには女性は、私と遠山さんしか居ませんでした。先程大声で騒いでいたのは、私たちだという事は一目瞭然で、バツが悪く、慌てて暗幕を潜って外に出ました。2人で道路で思い切り笑い出してしまいました。今もまざまざと、遠山さんの笑い声、笑い顔と共に思い出します。
67年の10・8羽田闘争の頃だったと思いますが、三里塚で測量が行われというニュースが入ってきました。成田国際空港建設の閣議決定が1966年7月4日になされ、67年秋から測量が始まったのです。
決定に反対して既に結成されていた「三里塚反対同盟」(三里塚芝山連合空港反対同盟)の中で青年行動隊隊長の島 寛征さんは、中央大学の学生だったようで、早くから中央大学のブントの仲間に相談、協力を求めたようです。中央大学も、それを聞いた明治大学も、社学同の仲間たちは、国際空港建設に反対する農民たちの戦いの支援に早く取り組むべきだと訴えてきました。10.8羽田闘争後、測量開始を受けて、全学連の三里塚への戦いの取り組みも始まります。
67年10・21国際反戦デーは、国際的にベトナム人民と呼応した統一行動が世界各地で行われています。米国では徴兵制に反対し、徴兵カードを焼くなど闘いは全米に広がり、ワシントンで20万人のデモが行進し、ペンタゴン(国防総省)突入のデモに、ペンタゴンが休業に追い込まれています。欧州でも数万のデモが各首都を埋め、日本でも国鉄労働者が10月20日に「米軍用タンク車輸送阻止」の闘いで10・21闘争に呼応しています。反戦意識は広く世論を形成していました。
そうした中で、政府は11月2日、原子力空母エンタープライズの日本寄港を承認し、それを11月12日の佐藤首相の訪米土産とする事にしたのです。
この原子力空母の受け入れは、憲法違反であり、政府野党、全学連、学生たちは憤り、「原子力空母の寄港阻止闘争」が火急の課題として日程にのぼりました。既に述べたように、チェ・ゲバラの戦死、山﨑博昭さんの虐殺を受け止め、更に反戦闘争を求めて街頭へと参加する学生たちは増えていました。ラジカルな党派色の強い全学連に加えて、党派のセクト主義的な競合や一般学生を見下し、指導しようとする在り方を嫌うノンセクトラディカルの学生が、市民たちの自発的な参加の場として、ベ平連( 65年4月24日ベトナムに平和を!市民文化団体連合結成。66年10月16日ベトナムに平和を!市民連合に改称)が各地、各職場、各大学、高校にも生まれ育ち、戦いの裾野は広がり続けました。

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(由比忠之進さん)
ちょうど、67年11月11日、エスペランティストの由比忠之進さんが首相官邸前でベトナム戦争に抗議し、焼身自殺をしました。また、佐藤首相訪米のタイミングを狙ったように、ベ平連事務局は、「横須賀入港の米空母イントレピット号から、米国のベトナム戦争に反対して4人の水兵が脱走した」と発表しました。ベ平連は、脱走兵たちを匿い、密かに4人を安全に北欧のスウエーデンに亡命させる事に成功し、それを踏まえて、4人の水兵の声明を発表したのです。
「われわれが軍隊を脱走するという行動を公表すると決めたのは、それによって他のすべての国の人々が、この戦争を止めさせる行動に起ち上がることを願ってのことである」と、その公表の意図を声明で述べました。テレビでは、脱走した4人が、日本人の様々な人々に支えられて潜伏生活を過ごしている様子も、小田 実ベ平連代表の発言と共に映像でも伝えられました。

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(小田実氏と脱走兵)
この快挙は、私たちには大きな衝撃でした。常々、党派が草刈り場のように見下していたノンセクトラディカルのベ平連の戦い方に感激したためです。「こうした戦い方があるのだ!」と、非暴力政治戦の鮮やかな戦い方を示したからです。また、同時にこんな事を公表したら、米・日権力は、搦め手から襲いかかって来るのに。ベ平連も、米兵も大丈夫なのだろうか・・・と、心配になりました。
現思研の仲間たちと、「すごい時代だね。国際主義って、これでしょうね」「全学連のやり方では、一本調子で、次々と弾圧が正当化されてやられてしまいそう。脱走兵を助けてるとか、もっと見えない所で貢献した方が、ベトナム反戦としては有効ではないか?」「いや、弾圧に抗して街頭行動をくり広げる事こそ、ベ平連の人たちの脱走兵支援も支える事になるんじゃないか」などと、学生会館4階の部屋で語り合ったものです。チェ・ゲバラの死、米軍の脱走兵、エンタープライズが来る。私たちの小さな学生運動は、世界の流れに直結している時代を実感していました。
この頃の67年12月の学生大会で、私は現思研の仲間の宮下幸子さんに、私の担当していた学苑会中執(中央執行委員会)の財政部長を引き継いでもらいました。
私は、生協(生活協同組合)理事、現思研活動、それに卒論(卒業論文)に集中しながら、アルバイトを続けられる体制へと転換しました。
エンタープライズの寄港を政府が認めてからすぐ、全学連は11月17.18日に、全学連大会を開きました。1日目は法政大学、2日目は板橋区民会館に約1000人の学生が参加しました。秋山勝行委員長が基調報告をし「エンタープライズ寄港阻止闘争を第三次羽田闘争として戦い抜く」ことが、満場一致で可決されています。そして、新年68年1月6日に全学連の総決起集会を行う事を宣言しました。
ブント社学同は、秋山中核派委員長に批判的でしたが、それが執行部間の各党派の対立であり、また、戦闘に向けた動員競争のように続いていました。その分、東京のブントの拠点校である明治大学、中央大学は、最先頭で戦う事が要求されていたようです。昼間部の社学同は「2・2協定」のしこりや、学費闘争を指導した学生たちの退学処分を受けた後、11月9日に学生会中執によって選出された米田隆介さんが委員長になりました。新しい学生会は、「2・2協定」の「汚名挽回」とばかり「原潜空母エンタープライズ寄港阻止闘争」に向けて、張り切ってはつらつしています。
この頃12月頃か、ブントの総決起集会が学生会館5階のホールで行われました。
そこで、ブント内で、統一派(斉藤克彦一派)に続いて、今度は一緒にブントを作ってきたマル戦派(マルクス主義戦線派)と、ブント中央派との論争が既に始まっていたようです。その頃、マル戦派の主張する「危機論」はナンセンスなのだと、現思研にも山下浩志さんがレクチャーしてくれた事があります。また、早稲田大学の村田能則さんや荒岳介さんらも、マル戦派の路線批判を繰り返していました。危機論だ、段階論だとか言うけれど、ブント機関紙「戦旗」自身の理論も大仰な空論と見て、現実とかけ離れていると感じる私同様の現思研の皆も「大した違いじゃないし、どうって事無いのに、こだわるなあ」といったレベルです。要は、自分たちの所属する党派の文献も信じていないというか、あまりに空論的でついて行けないといった所です。ロシア革命だ、ボリシェヴィキ綱領だ、ゴータ綱領だ、エルフルト綱領と学習会はやるのですが、「欲しいのは、よその国のでは無く、ブント綱領で、世界一国日本綱領をどう文章にしたのか?見た事が無い」といった不平を言うくらいでした。
68年の新年を迎えると、社会党・共産党などの革新政党が1月19日、佐世保港入港予定のエンタープライズの入港絶対反対を掲げて、現地と東京に於ける抗議集会を決定しました。
全学連もまた、その現地と東京における抗議集会参加を決定しました。そして、新年1月6日総決起集会を行うと宣言しました。それを受けて明治大学和泉校舎では「エンプラ寄港阻止・ベトナム戦争反対」のシット・イン(座り込み)が行われ、集会も開かれています。そして、全学連第一波行動として、神田、駿河台、和泉、生田地区の明治大学校舎から、1月12日清水谷公園へ向かいました。16・17日には「同盟登校」を行い、日比谷野外音楽堂の「1・17エンタープライズ寄港阻止・ベトナム反戦青年学生総決起集会」に参加しました。私たち現思研も、この日比谷集会に参加したし、18日の社会党・共産党との統一集会にも参加しました。

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(1・17集会)
ブントは、中核派の現地闘争方針に対し、関西を中心に現地闘争に集結させ、東京の社学同は、首相官邸などの東京での抗議集会やデモを中心に活動しました。ブントは、中核派の現地闘争主義を一面的として批判し、「中央権力闘争」を常に主張していました。
同じ頃、中央大学は授業料値上げ反対闘争をめぐって、「全自」と呼ばれる学生大会や自治会選挙で、民青も、右翼も暴力的に介入する闘いが続いていました。外部の右翼が、中央大学の学生会館前の小さな祠(ほこら)の一角に陣取って危険な動きをするのを、明治大学社学同らが、中央大学支援でレポ体制を取り、私も年寄りの右翼たちが樫棒を隠し持ち、地図を広げて襲撃計画をやっているのを見張ったりしていました。友人の中央大学の前田佑一さんは、右翼に後頭部をばっさり刀で切られ倒れた事もありました。中央大学の授業料(値上げ)白紙撤回を求める戦いは、学生たちの意志に沿った中央大学社学同指導部によって、勝利へと、後に2月に導かれます。

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(1・15飯田橋)
68年エンタープライズ寄港阻止の現地闘争は、激しい弾圧にさらされました。
1月15日には、東京では現地闘争に向かう200余名の中核派の学生が法政大学を出て、飯田橋駅に向かう所、400余名の機動隊に阻止包囲され衝突を余儀なくされたのです。そこで、131名という大量の学生が検挙されました。それでも、学生たちは、更に九州へと向かう決意は変えませんでした。逮捕を免れた70人ほどは、急行に乗って佐世保へと向かいました。
関西から現地に向かった社学同の仲間たちも、九州の待ち伏せ弾圧攻撃にさらされました。全学連の予定していた九州大学における集会に対して、警察の圧力もあり、九州大学当局は「不法占拠」や「暴力行為」を許さないと告示警告しました。
16日朝には、中核派やブントを中心とする学生約400人は、各地から博多駅に到着したのですが、未明から改札口や構内に待機していた1300人を超える機動隊が包囲したために、そこで衝突となりました。機動隊は、制圧して学生をサンドイッチ状態にした上で、強制的に身体捜検を行い、何人ものリーダーを狙いうちに拘束しました。
その後、彼ら学生たちは、九州大学へと向かいました。当初、九州大学教養学部では、職員等も500人がピケを張り、学生の入場を断るために正門に待機していたそうです。到着したデモ隊に対し、九州大学を包囲した機動隊は「学生らが、実力行使して構内に入った場合、侵入罪で検挙する」と警告したようです。しかし、博多駅に続く過剰な弾圧に抗議して、実力で入ろうと学生たちは決意していました。結局、九州大学教養学部長が、この衝突を憂慮して。自発的に正門を開けたために、その混乱は避けられ、全学連集会を整然と行う事が出来たのです。

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(全学連集会)
正門前には機動隊が配備され、包囲の中で全学連の総決起集会が行われました。ブント・社学同機関紙「戦旗」1月25日号によると、以下のように記されています。
「16日博多駅で全学連の“令状なき強制身体検査”4人検挙。全学連九大で総決起集会。17日平瀬橋で第一回の激突、27名検挙。佐世保で反戦主催全国統一行動(1千5百名)、公明党現地抗議集会(5千名。筆者注:この時期、公明党も創価学会も「日米安保反対」でした。)、東京地区反戦に1万名の大結集。18日実行委共催『佐世保大集会』4万5千名。全学連も参加。全学連、佐世保橋で2回目の激突。座り込み。東京では、全学連、外務省内で座り込み検挙89名。20日、東京で反戦全学連集会。アメリカ大使館デモ5千人」など、連日の反戦行動が続いていた事が示されています。
このように、10・8羽田闘争を契機に、これまでの攻防の質が大きく変わったのです。権力側もこれまでは、学生側のデモ指揮者の数名を検挙するやり方だったのが、大量逮捕に変わりました。佐世保では、あまりも凄まじい弾圧、非武装のデモに対し、楯や警棒で襲いかかる様子が、テレビで全国に放映されました。このテレビで、現地の住民が学生を支持している事も、明らかになり、あまりの過剰警備弾圧に、各地、各界から批判が起こりました。現地では、住民の警察批判と学生たちの勇気を讃えるばかりか、追われるデモの学生たちを匿ったり、カンパを差し出しました。全国的にもテレビの報道映像で、学生たちへの同情が広がりました。博多駅前で、カンパ活動を行うと、ヘルメットにたちまち何万円ものカンパが集まったと、戻ってきた仲間も話していました。後に、学苑会やML派の仲間も現地闘争に参加して負傷した事も知りました。原子力空母エンタープライズは、19日から23日まで佐世保に寄港し、その間一週間にわたる現地闘争が続いたのです。そして、首都東京でも、現地に呼応し、集会・デモが続きました。
学生たちは、大学を拠点として学生たちに呼びかけながら、これまで以上に、デモや集会の参加者を増やして行きました。10・8羽田闘争の新しい戦い方、デモの先頭に角材を持った防衛部隊の登場は、激しい弾圧に抗する手段として常態化して行きました。
ベトナム侵略に抗議とエンタープライズ寄港を阻止しようとラディカルに戦った数千の学生・市民の行動は、広く共感を育て、それが新しい歌や文化や演劇を刺激していきました。「ベ平連」ら、ベトナム反戦を求める自発的な集まりは、更に各地に広がりました。ベ平連の自発的なこうした戦い方と文化が、後の全共闘運動の流れに下地になっていったと思います。
こうしたベ平連の自発的流れは、縛りも無く、ルーズで気の合う者が集まり、文化的、創造的に自分たちのやりたい方法で戦っていました。実は現思研の実態は、ブント愛は強い分、ブントを標榜しつつ、このベ平連的かつコンミューン的だったようだと思います。党派の指導部から見たら、ベ平連的な人々の行動は、「市民主義」だったかも知れないし、また「党派嫌のノンセクト主義」に見えていたかも知れません。その点では現思研は党派的でしたが、私自身は身の丈に合ったこうした闘い方に好感を持っていました。党派の指導部こそ、こうしたべ平連の在り方から学ぶべきだったとつくづく思い返します。明治大学のように、社学同がいわば「全一支配」と言われた昼間部では、ベ平連は大きくなったとは聞かなかったし、また私たち二部でも「ベ平連」はほとんど見かけませんでした。
気軽に表現出来る場として、自治会や党派が68年には、希望のイメージとしてまだ、佐世保に示されたように住民、市民の共感を得ていたせいでもあったと思います。ちょうどエンタープライズ反対闘争が一段落した頃、「2・2協定」から一年経た68年2月6日、中央大学の学費値上げの白紙撤回を理事会は表明します。学費闘争で当局としっかり向き合い、明治大学の「2・2協定」を教訓として民主的な学生自治を最大限活用し、勝利した事を自分たちの事のように明治大学でも皆喜びました。
エンタープライズ反対闘争後、三里塚現地闘争、王子米軍野戦病院反対闘争と、全学連による戦いは、益々、力を誇示して行きました。
ブントは・社学同内部で、マルクス主義戦線派(マル戦派)との党内闘争から69年3月~4月に分裂していったのも、この時代らしいのですが、私自身は、ブント内の色合いの違いには興味も無かったせいか、知りませんでした。資料によれば、68年3月共産主義者同盟第7回大会や社学同全国大会で、マル戦派追放を決めています。このマル戦派との路線政策の対立から、10・8羽田闘争でブントの指揮を執った成島忠夫全学連副委員長らを追放してしまったようです。後にマル戦派と分かれたという話を聞きましたが、私自身まわりにマル戦派の人も居ず、関心角度につながっていませんでした。
最近になって、旧ブント時代の友人が、当時明治大学学生会館5階ホールの総決起集会か何かが終わった後、エレベーターの所で成島さんが学対(ブント学生対策部)の塩見さんの指揮で、早稲田大学の村田さんら社学同の連中から殴られているのを目撃し衝撃を受け、まったく理解出来ず、こんな中核派のような暴力を使うのは、ブントらしくないと思ったと言っていました。このマル戦派に対する塩見さんの発想によるブントへの暴力の持ち込みが、後の赤軍派に到る「7・6事件」に継承されたのでしょうか。
現思研もエンタープライズ寄港阻止闘争から68年の街頭闘争に加わりました。その後の王子米軍野戦病院開設阻止闘争、三里塚闘争へと、全学連の戦いは大きなうねりとなって続きます。佐世保の戦いで、機動隊の弾圧の激しさに学生が流血に晒され政府批判となったテレビ映像を教訓として、政府は以降、学生が暴れる姿をまず広報して、その上で、防衛上仕方なく機動隊が規制するという映像となるよう、プロパガンダを意識した行動を取るようにしたようです。その一方、68年3月には、三派全学連への破防法適用検討を閣議決定したと発表しています。現思研は、仕事のある者は仕事やアルバイトに行き、仕事の無い者は社学同の隊列に加わって、連日デモや集会に参加しました。

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中核派は白、ブントは赤、解放派は水色、ML派は赤にモヒカンの白抜きといったように、それぞれの隊列をヘルメットで統一カラーにして街頭戦を行うようになりました。これは、67年10・8羽田闘争以降の第二次羽田闘争から、ぼちぼち始まり、エンタープライズ反対闘争では、白ヘルメットとブントの赤ヘルメットは、既に登場していたと思います。赤いヘルメットは、売っていなかったので、ラッカーを塗ったり、スプレーを吹き付けて一つ一つ作っていました。私も3月のその頃は、戦いの中にいました。まだデモ隊の全員がヘルメットを被る訳では無く、先頭の部隊に編制される男性のヘルメット姿が常態化し始めたばかりで、私自身はヘルメットを被った経験は以降もありません。

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68年3月8日、王子米軍野戦病院開設反対闘争に参加したのを覚えています。遠山美枝子さん、S(??)さんら女性も含め現思研や社学同の仲間たちが、大学別に現地闘争に参加しました。私たちが、王子米軍キャンプに通じる道路に向かうと既に阻止線が引かれていて、午後3時過ぎには、各大学の旗を立てた一団が続々と集まって来ました。
ヘルメット姿の党派の隊列もあって、私たちは、赤いヘルメットの社学同の隊列の後の方に加わりました。先頭部隊のジグザグデモに合わせて、後続デモ隊も、ジグザグにデモ行進を進めます。そのうち、機動隊が襲いかかってきました。デモ隊は慌てて引き、また態勢を立て直して知らない人々と仲間のようにすぐスクラムを組み直して進みます。
それを繰り返しているうちに、猛然と機動隊が深追いしてきました。指揮車から「逮捕!」の号令の指示で学生を片っ端から拘束し始めました。私たちは救護班ではなかったので、現思研の何人かと一緒に逃げたのですが、バラバラになって路地へと逃げ込んだ時には、遠山さん、Sさんと3人になってしまいました。路地の途中でにゅうと手が伸びてきて、誰かに腕を掴まれました。この路地の住民でした。
「隠れなさい!」と、私を引っ張ったのです。遠山さんとSさんと、その家の小さな門の中に入りました。門の所には、パンジーとデェイジーの寄せ植えのプランターがあり、どこからか梅の香りが漂っています。門の中の小さな庭の隅に隠れるように招いてくれたのは、私たちの母親位の女性でした。外では、笛や怒号が聴こえています。その内、しばらくすると静かになりました。
「こんな所に、ベトナムからの訳が分からない傷病兵なんて連れ込む野戦病院なんて、まっぴらごめんだよ。学生さんたち、頑張ってよ」その夫人が大声で言いました。住民が味方と言うには本当に心強い。戦いが正義で、住民が応援してくれるから、こちらもやる気満々です。この68年当時の戦いは、常に住民の支持が力になっていました。エンタープライズ反対闘争も同様です。
少し話をして、ほとぼりが冷めたかと礼を言って、路地を出て歩き出し、通りを見るとちょうどパトロール中の機動隊数人が獲物を探していたらしく、「いたぞ!こいつらも学生だ!」と、取り囲まれてしまいました。「何よ!」「何もしていないのに何するんだ!」と遠山さんと私、Sさんが大声で騒ぎました。「お前らは、あばれてた学生だ!靴を見てみろ!」と言うので思わず足元を見ると、走っても靴が脱げないように靴の真中あたりを輪に靴紐で縛っていたのです。「何もしていないじゃないか!住民妨害は あんたたち機動隊だ!」と、私たちは、言い返していると、腕を掴まれて、傍に停車していた装甲車のような護送車に引っ張り込まれそうになりました。
そこへ、「何するんだ!この学生はたちは、内の知り合いだよ!」と、さっきの家の夫婦が飛び出して来て、私たちをかばってくれました。あっと言う間に近所の人や野次馬が取り巻いて私たち3人を引っ張り護ろうとしてくれます。
私たちも気が大きくなって、「証拠が無いのに逮捕するなんて、無謀な弾圧だ!あなたの名前を名乗りなさい!」などと大声で抗議しました。それで指揮者らしい男が通りから歩いて来て、集合を告げたらしく、私たちの手を離してにらみながら機動隊は撤収して行きました。
逮捕を免れて、私たちも興奮して嬉しさ一杯です。「ありがとうございます」、住民や野次馬にお礼を言いました。さっきかばってくれた夫婦は、嬉しそうにニコニコしています。でも話し込んではいられません。仲間たちは大丈夫だろうか・・・。私たちは、お礼を告げると、靴が脱げないように縛っていた靴紐を解いて、大通りへとそっと顔を出して見ました。
白いヘルメットの中核派が隊列を編んで、ジグザグデモで気勢をあげ、社学同の赤いヘルメットや青いヘルメットの社青同解放派も合流して、離れた所で渦巻きデモや道一杯広がるフランスデモを繰り返しいるところでした。1000人以上の大きな集団になっています。私たちから離れていった機動隊が、そちらに向かって包囲し、大量逮捕したのは、後に判った事でした。夜までゲリラ戦の騒乱は続き、飛鳥山公園の方に戻ろうとしましたが、道が分かりません。
夜の集会には、職場で働いていた現思研の仲間も来るはずでしたが、あちこちの大通りで、道一杯に攻防が広がり、私たちも夜まで、それに加わって抗議行動を続け、8時過ぎには、学生会館に戻って、仲間の逮捕者がいないか、確認する事にしました。この日は救援班や医学連も見あたらなかったからです。
後にこの日は、157人もの学生が逮捕された事を知りました。現思研の仲間も逮捕されたような気がするのですが、記憶がはっきりしません。68年には、たびたび現思研の仲間が逮捕されたり、二部の学苑会のML派や解放派の仲間、加え一部昼間部の仲間が逮捕されたので、一つ一つの闘争の時の、誰がやられたか思い出せないのです。3月から5月と、ずっと王子野戦病院反対闘争は続きました。
命がけの戦いは、街頭で住民や老若男女を含めて戦われ始めていました。新聞によれば、3月から5月、王子野戦病院開設反対闘争は、野次馬を含めて戦いには、連日5万人以上の人々が街頭戦の「いたちごっご」に参加し、ゲリラ的に抗議を続けたのです。
同じ頃、三里塚・芝山空港建設反対闘争が大きくなり始めていました。
ブントは、68年3月24・25日、共産主義者同盟第7回大会を開催し、(66年に統一したマル戦派を追放した大会です)世界同時革命を定式化し、70年安保粉砕・日帝打倒の戦いを基調として提起しました。
ここで、松本礼二議長に代わって、関西ブントの佐野茂樹さんが議長に着き、既に67年には、斉藤克彦さんらは「2・2協定」以降、放逐され、68年の7回大会ではマル戦派を追放しました。当初の第二次ブント再建時に目指した大ブント構想―労働者階級の党としてのブント再建は、関西派がヘゲモニーを持った事で、党の攻防の中心が学生運動の闘争機関、指導部のような機能と方向へと純化していったように思います。
3月31日には、社学同全国大会が開かれ、マル戦派は、この大会をボイコットしています。ここで、早稲田大学の村田能則さんが社学同全国委員長に就任しています。当時、早稲田大学の村田さんは、現思研の学習会にもよく来て、ブント路線を語っていましたが、この社学同全国大会が中央大学で行われたらしいのですが、私には参加した記憶がありません。社学同同盟員ながら、党派の大会や党派の幹部には、あまり魅力を感じていなかったのは事実です。
(つづく)

【参考】
以前、このブログに掲載した佐世保闘争の記事がありますので、ご覧ください。
「1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった」
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2018-09-14.html

【お知らせ その1】
10・8山崎博昭プロジェクト2019年秋の東京集会 特別講演会
「ベトナムをどう見るか―歴史認識と現実」

     
講師:中野亜里さん(現代ベトナム政治、大東文化大学国際関係学部教授)
日時:2019年10月12日(土)14時00分~17時00分
会場:大田区萩中公園集会所 第2及び第3会議室 
〒144-0047 大田区萩中3-26-46 公園管理事務所(03-3741-1946)
 京急空港線「大鳥居駅」から徒歩6分、JR蒲田駅から京急バス「萩中公園前」下車1分。
参加費:1500円
 
講演概要
1 ベトナムと関わりから見えたこと:「オモテ」と「ウラ」の世界
2 日本人のベトナム認識とベトナム人の歴史観・世界観:「社会主義」「民族解放」の神話、明らかにされていない歴史、自国の歴史に興味がないベトナム人
3 ベトナム政治・対外関係の現状:開発と民主化・人権問題、中国・アメリカ・日本との関係
4 今後の展望
※講演会終了後、懇親会あり

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月27日(金)に更新予定です。