野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

カテゴリ: 学校

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全国学園闘争の記録シリーズ。今回は大阪市立大学である。
大阪市立大学は大学のサイトによると『大阪市立大学は、1880年の大阪商業講習所設立に始まり、日本で初めて市立の大学として発足した旧制の大阪商科大学を経て、今日まで続く長い歴史と伝統を持つ公立大学です。公立では数少ない総合大学であり、高い水準の多様な学問研究を基盤とする研究大学として歩むとともに、「理論と実際との有機的な連結を重視する学風」や市井の精神に発した自主独立・自由進取の気風を重んじて、大阪の発展や日本と世界の未来を担う人間を長年育成してきました。』とのことである。
大学のサイトを見ても、1968年から1969年にかけての大学闘争のことには全く触れられていない。歴史から抹殺されようとしている個別大学闘争の記録を残してくのが、このブログの使命でもある。
では、当時の新聞や雑誌の記事から、大阪市大闘争の様子を見てみよう。

東大全共闘機関紙「進撃」1969.3.10
【運動貫く拒否の思想 医学部問題が発端】

昨年10月、大阪市立大学医学部は三項目要求を掲げて闘争を開始し、2月14日本部封鎖を大衆的に決行し、入試阻止闘争に向かおうとしている。
医学部の三項目要求は次のとおり
1. 講座制=教授会独裁体制解体
2.教授会の公開性、枠の拡大を実施し学生、青医連、大学院生の対等参加を認めよ。
3.教授、教員選考の際、全構成層の参加を認めよ。
このような医学部の闘いの前に、大阪市当局、学校=当局は一度は屈し「医学部民主化委綱領」を締結した。
この「医学部民主化綱領」は、大学の自治=教授会の自治に対する批判、製薬資本の大学運営への介入拒否、無給医、差額ベット等国家の医療行政への批判を骨子としたものである。
しかしながら市大医学部教授会は、一度は「医学部民主化綱領」を締結したものの、この決定を二転三転させるというハレンチな挙に出、実質的にこの「綱領」の空洞化を図ろうとした。
このような医学部教授会の無責任、無方針の背景には、市大内の阪大閥と京大閥の派閥抗争があるといわれている。
闘争以前、医学部主流派は完全に京大閥に掌握されていたが、反主流派を形成する阪大閥は学生の運動を有効に利用しつつ、学生の要求を大幅に受け入れ、当時の医学部執行部(京大閥)に大打撃を与えた。これに対する京大閥からの巻き返し、阪大閥の反撃などの力関係から、その後の医学部教授会のジグザグ路線が展開され、その無責任性が明らかにされたもの。
これに対し学生の運動は「拒否権」の思想を軸に展開されている。この「拒否権」とは単に大学=当局が打ち出してくる学生管理案を拒否するという制度的な意味を持つだけでなく、学生自身が自らの存在基盤を問い直し、自らの学生存在をも拒否していく権利を保有するといった論理を含んだものである。
市大のある指導者が語っていたように、この「拒否」の思想を持ってはじめて自立的な自己統合集団としての学生運動も形成されるだろう。
現在、大阪市立大学では入試阻止を政治焦点として、この「拒否」の思想を軸に大衆的な運動が形成されつつある。」

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朝日ジャーナル 1969.9.21(引用)
【苦悩する個別学園闘争 関西から】
東大の原型を残し 大阪市大

機動隊がいつ入っても、もう不思議はないといわれているのが大阪市大です。昨年11月、医学部ではじまった大阪市大の闘争は、その後他学部にも飛火し、教養部三号館、経済研究所、病院西館(部分)など現在かなりの建物が封鎖されています。もっとも、基本的には依然として医学部闘争、病院闘争の色彩が濃厚です。
 附属病院のベット数1,100というのは大学病院では西日本随一、全国でも慶應病院についで二番目ということです。ところが教授は学外に“逃亡”して姿を見せず、助教授以下の全教官層で構成している教員会は無期限当日直拒否(実際は他に入院患者の診察にあたるものがいないので、部分的にしかおこなわれない)、院生、無給医はことしの2月から診療拒否の無期限ストといったぐあいで、現在入院患者は約300、さしもの大病院も閑古鳥が鳴くような状況です。学生はもちろん1月末からストに入っています。教授会に対して、学生から助教授にいたるまで総スカンという例は、おそらく全国でも、この医学部以外にちょっと例がないでしょう。
もとはといえば、昨年11月、医学部教授会が、学生、大学院生、無給医、青医連で構成している医学部民主化共闘会議(現在は“民主化”をとってしまって、単に医共闘と呼んでいる)との間に到底実行できる自信もなかった改革案―民主化基本綱領を認めてしまったからです。
その内容は①全教員で構成する最高決定機関で学部を管理運営、学生はこの機関に発言権のあるオブザーバーとして参加、公開とする、②同機関に提案する議案は学生、青医連などの諸自治機関で合意したものに限る、③拡大教授会の決定に対し、自治機関の一つでも拒否すればその決定は白紙に戻し、合意に達するまで協議する、というもので“学生参加”の点から見れば、これほど徹底した綱領はないでしょう。要するに学生たちがノーと言えば、何ひとつ実行できない仕組みになっているわけです。
医学部教員会も、この綱領は絶対拒否権の思想や大学解体論の立場をとるものではない、運動戦術論はお互いの立場を尊重するなど4つの付帯事項として認めた上で綱領全文を支持することを決めました。
理工系を除く他の学部は早くから拡大教授会に助手を含むなど民主化が進んでおり、大阪市大全体としても機構の民主制を標榜してきました。その中で最も遅れていたのが医学部だといわれていたのですが、そこに民主化運動が起こっただけによけい激烈な形をとってあらわれたともいえるでしょう。
ところで協議会(他大学の評議会にあたる)の基本綱領に対する態度は微妙で、学生の拒否権を全学的なものとして認めるわけにはいかないが、医学部教授会が学生と約束したことについては、信義の問題として守るべきだというのです。
だが、医学部教授会はその後、基本綱領を実施する努力はみせず、これが学生たちや教員会の目に背信行為とうつり、「あきれはててものがいえない」とあいそをつかされ、全員総辞職の不信任をつきつけられて、学外に“逃亡”せざるをえなくなったのです。
大阪市大はもちろん、大学措置法による“重症校”にはいっています。大学当局が措置法の指定をうけたくなかったら、まず教授会が学内に戻ることが先決で、そのうわさも強く流れているのですが、いまの状況からみたら、それは機動隊に守られてのご帰館以外にちょっと手がないでしょう。
医共闘の学生も、長期のストでさすがに疲労の色はかくせませんが、それでも主な活動家たちはストが解除されても、闘争委員会方式(全共闘方式)をとっても闘うとがんばっています。市大にもプロ学同、社学同、ノンセクトなどの活動家が集まった大阪市大全共闘はありますが、自治会組織にのっかっている医共闘はいちおう別組織になっています。医共闘には構改派の小セクト統一共産同系の学生が少数いるほかは、セクトらしいセクトがいないといわれていますが、にもかかわらず、これだけ長期の闘争を持ちこたえています。これは、昨年末までのセクトを乗越えて闘ってきた東大闘争の原型が残っている珍しい例といえるでしょう。」
大阪市大にも、ついに機動隊が導入された。その時の新聞記事である。
毎日新聞がその時の様子をよく伝えている。

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毎日新聞 1969年10月4日(引用)
【大阪市大も機動隊導入 時計塔を水攻め】 

<ろう城学生 火炎ビンで抵抗>
全国の公立大学で唯一の“紛争重症校”大阪市立大学は4日朝、大阪市住吉区杉本町の本部キャンパスに機動隊を導入、9月30日早朝の医学部の封鎖解除につづいて全学バリケード封鎖解除に乗り出した。
前年秋以来、医学部民主化をきっかけに泥沼紛争で、あくまで“話合い解決”を主張し続けた渡瀬譲学長も大阪市議会の激しい突き上げや大阪府警の赤軍派(社学同関西派)の手入れなど大学内外の諸情勢に抗しきれず、3日午後全共闘側に“最後通告”を出し、警察力による封鎖解除に踏み切った。しかし、一部学生は徹底抗戦を叫んで同キャンパス本部時計塔に“ろう城”、火炎ビンで激しく抵抗し〝京大時計塔抗戦”につづいて“大学の象徴”時計塔をめぐり警官隊との攻防が繰り広げられた。
学長は4日午前8時半、杉本町キャンパスを封鎖している反日共系学生に対し退去命令を出し、大学側の要請で待機していた大阪府警機動隊員ら600人が学内に入り、本館、工学部、教養部などの封鎖を次々に解除した。
これに対し学生ら数人が赤旗、黒旗を掲げ本館時計塔屋上にたてこもり、火炎ビンを投げて抵抗した。このため時計塔真下に積み上げたイス、机のバリケードが黒煙をあげて激しく燃えあがり、また工学部正門玄関付近で機動隊導入に反対する一般学生、教職員ら約150人がすわり込みやジグザグデモを繰り返した。
学生の“時計塔ろう城”作戦に対し大阪府警は威力の大きい高圧放水車、ヘリコプターまで繰出したが、学生らは屋上に防水テントを張りめぐらし、放水車からの“水攻め”に備え、テントのすき間から火炎ビンや石を間段なく投げつけた。本館入口から屋上に通ずる高さ約25メートルの狭い通路には、イス、ロッカーのバリケードが積まれ、簡単に排除できず手間取り、キャンパスは警官隊の波と火炎ビンの炎、放水、黒煙、ヘリコプターの騒音に包まれた。
大阪府警は“ろう城”学生に殺人未遂、放火、傷害などの容疑で全員逮捕の方針を固めたが、コンクリートで流し込んだ堅固なバリケードに手を焼き、解除に手間どった。
大学側は同日から12日まで教職員以外の立ち入りを禁止、授業も行わないことを決め、また午後6時から午前7時までの夜間は一切学内立ち入りを禁止した。
<ノンセクトが“徹底抗戦”>
この日8時、大学側が「秩序回復のため退去を求めます」と呼びかけたとたん、本館屋上からガソリンのはいったカンと火炎ビンが投げおろされ、本館玄関の屋根に積まれた机やイスが燃え出した。しかし、約10分後、機動隊の放水車が火を消し止めると同時に本館南側の講堂から機動隊がドアをつき破って館内になだれ込んだ。
時計塔内には5人のノンセクト学生が“徹底抗戦”を叫んでたてこもった。「もう、ろう城する目的がない」と徹底抗戦戦術をとらなかった全共闘内部のプロ学同、中核、社学同などのセクトに対し「大学の機動隊導入には実力で抵抗するのが全共闘の論理だ」と塔の上でがんばっていた。
また学生の集団は市内各地でゲリラ活動を繰り返した。」

毎日新聞 1969.10.5(引用)
【時計塔も“落城” 大阪市大】

大阪市立大学の全学封鎖解除も4日朝から出動した大阪府警機動隊は、大阪市住吉区の杉本町キャンパス本部時計塔屋上の“徹底抗戦”組の排除に手こずったが、同日午後7時10分、10時間40分ぶりに、屋上へのハッチを突破、学生5人を不退去、凶器準備集合、公務執行妨害、傷害、放火未遂容疑で逮捕、全キャンパスの封鎖を解いた。
 この攻防で、警官13人、解除作業を手伝っていた民間人3人が劇薬らしい液体を浴びて軽傷を負った。“時計塔”トリデに呼応した杉本町周辺での火炎ビンによるゲリラ活動や先月30日封鎖解除したばかりの医学部(阿倍野区旭町)への再突入騒ぎでの検挙者を含めると、この日計29人の学生が逮捕された。
 機動隊を最後まで手こずらせた時計塔トリデは、屋上に工事用パイプを頑丈に組み合わせ板やテントを張り付けたもの。5人は10時間に及ぶ放水で全身びっしょり。催涙ガスで目もまっかに充血しガタガタふるえるばかり。すでに“戦意”を失って抵抗もしなかった。」
(終)

※ ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」の中に大阪市大新聞を掲載しました。
こちらもご覧ください。
1968-70全国学園闘争図書館
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

【全国学園闘争アーカイブス】
このブログでは、東大・日大闘争以外の知られざる全国学園闘争を掲載している。
今回は、以前掲載した中から東京工業大学の闘争を紹介する。
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-23.html
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-30.html
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-11-06.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

●糟谷孝幸君追悼50周年
「首都圏の集い」
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日時:2019年12月8日(日) 午後1時半~4時
会場:千代田区和泉橋区民会館
   (会議表示は「国連憲法問題研究会」)
会費:入場無料
  (参加希望者は03-6273-7233(研究所テオリア)まで申し込み下さい。

<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月6日(金)に更新予定です。

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手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載してきた。

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今回のブログは6回目、10月11日のNo528で掲載した関西学院大学闘争の記録の続き、最終回である。1969年2月の全学追求集会の写真とその後の経緯について掲載する。
まず、1969年2月から4月の闘争の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。
【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
1969年

2.26 全学集会粉砕総決起集会に500人。前日深夜、会場にあてられていた新グランドに当局が張りめぐらした柵を、全共闘武装部隊100人で破壊し、当日は早朝から武装デモ。一小宮院長、正午すぎに姿を現わし追求集会に切り変える。院長は、「機動隊の暴力は、法の名によって認める。入試は、社会的責任上実施した」と強硬に言い張る。その後、場を中央講堂に移し、再び追求するが堂々めぐり。
2.27 前日に引き続き追求集会。院長、教授と右翼学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散。
3.1 全共闘50人、京大入試粉砕闘争に出撃。
3.3 小宮院長と26評議員全員が辞任。辞任理由は「健康上重責に耐えることができない。とされていたが、実質には確認書を反古にするための闘争分断工作。
全共闘30人、神大入試粉砕闘争へ。
3.5 全共闘500人、「大衆団交破棄に対する学院当局弾劾集会」を開いた後、図書館、産業研究所、正門守衛室を封鎖し、卒業、後期試験などによる一切の収拾策動粉砕を決議。
3.7 法、教授会大衆団交開かる。教授会、「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書に署名、捺印。
3.10 理学部実力封鎖。理闘委、教授会に対して「学院の入試強行に協力した」など6項目の自己批判を求める大衆団交を要求してきたが、教授会が、これを拒否したため。これで7学部全部を封鎖し、中央講堂、体育館だけを残すことになった。
3.11 教職員組合は職員集会を開き「関西学院の非常事態に際し全教職員に訴える」との大学への要望を採択。
3.13 社、卒業試験に、全共闘50人「試験ボイコット」のデモ。機動隊50待機。(神戸YMCA)
革新評議会学生ら、大阪駅前で「全関学人は紛争解決のため、立ち上がれ」と訴え、48時間のハンストに入る。
3.14 経、卒業試験。(大阪予備校)
この頃から、革新評議会、民主化行動委員会、法学部有志連合など右翼諸団体の組織化進む。
3.17 革新評議会による「事態収拾」集会開かる。全共闘60人、介入し、右翼学生250を追い散らす。
経教授会、全共闘を支持する松下昇講師に、4月からの契約更新をしない ことを一方的に決定。松下講師、これに対して「関学闘争で大学側が機動隊を学内に導入したことについて大学側は自己批判すべきなのに、それをせず、大学側の態度を批判してきた私をやめさせるのは教育者としても絶対許せない。私はどんなことがあってもやめない。一人でたたかう。」(3・18朝日新聞)と語る。
大学評議会、28日の卒業式中止を決定。
3.19 学長代行に小寺武四郎教授決定。「早急に新執行部を決めて正常化のために努力する」と抱負を語り、「廃校か否か」のアンケートを全学生に配布。「学内正常化のため」の商学部集会、200を集めて大阪プールで開かる。
3.22 学長代理代行に城崎進教授就任し新執行部出そろう。
3.23 「学院正常化、全関学人総決起集会」開かれ、学内右翼諸団体、体育会系学生、教授、職員、父兄、OBなど1、200が結集。体育会系学生ら、プラカードを持って、集会を防衛。全共闘150人「右翼粉砕、封鎖貫徹」をシュプレヒコールし、これと対峙。午後3時になると、右翼学生200が、正門バリケード解除にとりかかったため、全共闘武装部隊、これらを完全に粉砕。機動隊200が出動。以後、右翼学生の組織化進まず。
3.28 「卒業ボイコット、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕全学総決起集会」開かる。
3.29 小寺学長代行、退去命令出す。   
3.31 小寺学長代行、再び退去命令出す。
4.1 休校処置(ロックアウト)解かれる。
4.5 「入学式粉砕、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕」集会開かる。機動隊300、正門前周辺で待機。
学院当局、「新しい大学の創造にむかって」の第2回目のアンケートを全学院生に配布。
4.12 新入生歓迎総決起集会。約100名参加。
4.13 松下講師講演。第5別館屋上で文闘委の情況劇。
4.15 理、学外試験中止。レポート形成に切り変わる。他の学部もレポート形式による後期試験実施さる。
4.18 経済学部新入生オリエンテーション。大阪府警機動隊100、大阪城周辺で警戒。全共闘30人が、阻止行動。
4.26 「安保粉砕、沖縄闘争勝利」の国際反戦闘争。京都、神戸、東京で関わる。全共闘100人これに参加。
4.27 社、学外試験が、機動隊100、と右翼学生に守られ、三田市の湊川女子短大で行わる。全共闘50人、試験場に押しかけるが、阻止できず。
4.28 「首都制圧」沖縄闘争。東京、大阪など20万人が決起し、機動隊と激突。銀座、渋谷に「解放区」。関学全共闘からも東京派遣20人。

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【進級拒否宣言】
 <学生)に立脚点を持つ僕が今ここに進級拒否宣言をするのは〈学生〉であることを自主的に放棄するのではなく、より本質的な意味において〈学生〉であることを指向せんとするからだ。
 いいかえれば、共同幻想としての大学に対して自己幻想を軸にした形で大学共同幻想を払拭していく作業を存在の地点で開始することを言うのだ。この6項目要求闘争が、個別大学社会内の問題としてかかげられ、その問題が個別大学社会内の問題を内に含みながら、体制そのものに対する政治闘争として形成 されていく現在にあって、当初、闘争の攻撃対象であった教授、良識学生等が闘争に触発され、学園の正常化を何よりも希求し、問題の解決を事態の技術的な処理としての大学内制度改良、変革に収拾を見出す時、この闘争を一貫して担ってきた者と虫のいい収拾者の間には再び敵対が表面的にも現象する。
 このことは、6項目要求闘争が改良(制度的変革)の契機を内に孕まざるをえない側面より出てくる結果としての大学共同体幻想(特権的知識人=教授、良識学生の〈誠実〉なままごとである制度いじりの上に確立されようとしているより進歩的な、より近代的な外形を持った体制内大学)へのよりラジカルな あるいは、より自由な地点からの永続的な〈否〉の闘争を組むことを示す。そしてそれは同時に僕が意図的により自立した本質的学生を追求することになる。さらにく革命闘争の主体は労働者であり、階級の否定はプロレタリアートの止揚なくしては……〉と言うマルクスの言葉を一面的に認識し、一定大学時代は学生運動をやり、一年程恰好つけて留年でもし、学校を卒業すれば横すべり的に労働者になり生産点につき、組合員になることがあたかも革命闘争を真に担いうる唯一のコースであるかのごときを語る職業革命家、あるいはその卵達の安易に通りすごす問題を掘り下げることとしてもある。現体制では、プチブルの域を出ない学生存在の、そしてその上に立つ学生運動を根底から否定する課題を持つ闘争として進級拒否がある。
 今日まで闘争主体の学生期間をプロレタリアートへの移行期間として、運動は本質的にプロレタリアート側に立つ闘争として組まなければ云々、されてきた。それはプロレタリアートが革命の真の主体(このことは十分正しい)であり、学生運動はそれへの一方的な連帯であり、よりかかりでしかない。学生が学生として立脚点において自立してこそ初めて相互の関係のラジカルな連帯を語りうるのだ。それすらできず、自分の学生存在が労働者に対して気はずかしいのだったら、即時学生を止めて労働者になり、労働者として自立して労働運動を推進させる方がましだし、誠実というものだろう。
 以上のことは、全社会の中の一部の社会である大学の中にいて大学で革命を起す等ということではない。国家権力を頂として個々の社会が有機的に連結することで国家独占資本主義体制が形成されている中で、個別一社会の中でコンミューンが形成され、革命が起こるなどと夢想しているのではない。
 個別社会の中で全体革命、つまり永続革命への視点をすえるなかから、個別社会内での闘争が改良的に転化せざるをえないことを把握し、そのことに永続的な〈否〉の闘争として、変革そのものを不断に革命する闘いとしてあるのだ。当然のことながら、そのように全体的革命を指向することの内には自己の変革も含まれており、ここにおいて自己はそのような革命の主体であると共に、革命を体現する対象でもあることを示している。
 このことにおいて始めて全体という言葉を単に対象の概念ではなく、方法の概念でもって用いるのだ。このことより僕が永続的学生であることは、学生であることに立脚点をすえる中から大学共同幻想体へ永続的闘争を組み、本質的学生を体現していくことである。この進級拒否の闘いは、関学でもほんの一握の学生が苦痛をもって語るように、〈体制内学生〉であることが〈労働力商品〉としての学生の〈被害者〉アレルギーから解放される闘争として位置づけられるだけではなく、真に、自らの保証された位置を苦痛をもって確認する中で、ただ単に意識内だけで自分を否定して、将来的には職業革命家になってそのつぐないをするつもりだから、今は労働者におんぶしてもらう闘争であることを暗黙的に自己合理化していくからこそ、原則的には一応労働者との連帯を常に語りながら、現象的には意識的に目覚めた者の先駆的なプチブル急進主義の闘いと転落せざるをえない。  
 そのような学生戦線の闘争が労働者の中の解る者しか解りえぬ擬似家族幻想的連帯の闘いしかなりえぬのであって、職場共同幻想のなかでなんとかプチブル生活をあこがれている広範な労働者への本質的な語りかけにならない。真に過去のわれわれのそのような限界を持った学生戦線の闘いを鋭く総括する中から、進級拒否者同盟の結成の提起があるのだし、この進級拒否闘争の推進の中にこそ、過去の学生戦線の日本階級闘争を不断に疎外した限界を突破するものがあるのだ。そのことをす通りする形で観念的に自己否定の闘いとか、労働者と連帯した闘い等の空語をふりまくな。
 自己の内なる特権的学生の変革否定、これは単に意識そのものがそうであり、それでもって将来的に労働者になっていけばそれですむのではなく、自己の闘争以前の意識ではなく、存在そのものの変革なしには状況への、あるいはこの闘争を真に担っていく変革主体とは決してなりえぬことを知れ!
 進級拒否者は、他のいかなる部分(進級して闘っていくという者たち)が意識においてこの矛盾の本質を意識し、口先では如何なることをほざこうとも、彼らの存在の地点では自らの日常性を否定できないことにより結局は立脚点を<被害者〉としての学生として位置づけざるをえなく、運動次元では旧左翼然とした物とり革命路線に転落せざるをえないような運動を突破するものとしてある。
 現闘争において過去の学生運動を総括し<加害者〉としての自己意識と、それを実体化することこそ語られるのだし、今回の闘争はそのような自己の否定、変革、幻想の払拭、立脚点の自立を存在に実体化し、〈被害者〉〈加害者〉を止揚していく全体革命、非妥協的〈拒否〉の永続革命としての方向を見出す闘争なのだ。

【1969.2.26-27 全学追求集会】
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5ケ月間に及ぶ関学闘争の烽火は、権力側の集中砲火を浴びせかけられながらも今なお炎々と燃え続けている。当局が、改革案でいくら制度的手直しを試みたとしても、それはわれわれに対する解答にはならないであろう。われわれは「法と秩序」の厚い壁に屈することはできない。ただ、闘争の永続化あるのみである。

【アピール】
 主体の参加を媒体とし、主体の喪失は必至となり、その崩壊過程の中で、まさに、“自己否定”を自問してみる。
 “NON”“NON”“NON”と繰返されたこの闘争は、日常性から非日常性に、そして、それが日常性へと回帰する不連続線である。“NON”は今後も生き続けるであろうし、創造へ続く、“拒否”の闘いとならねばならない。゛
 闘争のなかで、自己が歴史の客体から主体に転化したとき、類々と、“関学80年”の死者の列が現れた。私は、バリケードのなかで人間のはらわたの臭いを知り、バリケードの外の、風化した現実を確認したのである。
 第5別館、法学部で闘った学友の姿は、“生”の極限状態であり、全学集会のあの蛇のように長い人の帯は、まさに、幻想でしかないのではないか!
 われわれは、いま、あの国家権力との対峙関係のなかで、かいま見た、“生”の意味を再度とらえ返してみるべきではないのか!

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一人の人間の行為が
見る者に対して
重くのしかかってくる

彼の行為の中に
何を見出し 如何に止揚するのか
それは 決して
きまぐれの有効性のみで語られるべきものではない

写真が全ての抑圧のなかで
権力と向きあうとき
それは
武器となりえる

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この「関学闘争の記録」は69年4・28闘争で終わっている。その後の関学闘争の様子が新聞に掲載されているので見てみよう。

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【全共闘も海まではー 関学大で洋上講義】毎日新聞1969.4.30(引用)
30日朝、神戸港中央堤から関西学院大学(西宮市)商学部新1年生500余人と50人の教職員を乗せた関西汽船の客船わかば丸=1,044トン=が午後5時帰港の予定で小豆島一周に出港した。教室の使えない封鎖大学「いくら全共闘でも海上まではこられまい」と、一人千円の実費負担の“洋上講義”に踏み切ったものだが、場違いに“初登校”に新入生たちはさえない表情だった。
タラップでは教職員が身分証明書の提供を求めて船内での“反乱”に目を光らせていた。
 一方、兵庫県警は「ヘルメット学生4,50人が関学大を出た」という情報で、約50人の機動隊を待機させたが、午前8時半ごろ隊列を組んで押しかけたヘルメット学生は18人。機動隊に阻止され、わかば丸のそばまで行けず、機動隊と対立したまま「新入生は乗船を拒否でよ」とシュプレヒコール。
 船上では西治辰雄学部長が「決して全共闘を避けたわけではない」といいながらも、こわばった表情でデッキに立ちすくみ、わかば丸は神戸海上保安部の“なだかぜ”水上署の“きくすい”両巡視艇に守られて午前8時50分、ものものしく出港していった。

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【関学大で封鎖を解除 機動隊出動 百余日ぶり】毎日新聞1969.6.13(引用)
兵庫県警は関西学院大学=西宮市上ケ原、小寺武四郎学長代行=の要請で、13日午前7時、1900人の機動隊を学内に入れ、118日ぶりに実力で封鎖を解除した。同大学が警官を導入したのは、2月9、10日の入試についで2回目だが、全学生と大学職員に「14日に登校するよう」呼びかけ、バリケードに使われたイスや机などを片づけ、来週中には新学期の履修届を終わり、6月30日から正規の授業を始めることにしている。
 学内に100人余りたてこもっているとみられていた全共闘学生は機動隊の入る直前の午前5時、学内の通称“時計台放送”で予告して退去したため、機動隊が学内に入った時はもぬけのカラで第一学生会館にいた1人を調べただけ。
 このため封鎖解除は抵抗なく進められ、午前7時2分豊倉三子雄教授のマイクによる退去勧告に続いて行われた経済学部校舎を手はじめに法、商、神、社会学部、図書館、第五別館、教授研究室など25の建物の封鎖解除が午前9時ごろ終わり、キャンパス南西側の上ケ原上水道で火炎ビン43本、西側のゴミ焼却場などで鉄パイプ75本、角材69本、石多数を押収した。
 大学側が強制封鎖解除に踏み切ったのは、今月9日に提案した同大学改革案が約1万人の学生の支持を得たので、機動隊導入に一般学生に強い反発はないと判断した。

【キャンパス情報 やっと授業を再開】毎日新聞1969.7.1(引用)
<関学大>闘争に終止符をうって新学期が30日に始まった。全共闘学生によって封鎖されていた学舎が4ケ月ぶりに機動隊の手で解除され、16日から一部の学部では新入生や4回生の授業を再開したが、2,3回生を含めた全学(学生数12.500人)の授業再開は初めて。
(終)

【全国学園闘争アーカイブス】
このブログでは、1968年から69年にかけての全国学園闘争の記録を掲載しているが、これまでに掲載した中から、いくつかを紹介する。
今回は当時ライトウイング(右派)で知られていた大学である。

1968-69全国学園闘争 国士館大学編 その1~3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2013-05-24.html

1968-69全国学園闘争 拓殖大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-05-23.html

1968-69全国学園闘争 拓殖大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-05-30.html

1968-69全国学園闘争 拓殖大学編 その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-06-06.html

1968-69全国学園闘争 拓殖大学編 その4
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-06-13.html

【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月

●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月8日(金)に更新予定です。

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなります。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、ブログのアーカイブスで探していただくか、記事タイトルで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。(まだ検索に引っ掛からないようです)


手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。

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今回のブログは5回目、9月27日のNo527で掲載した関西学院大学闘争の記録の続きである。1969年2月の法、文、商、社、経、神の学部校舎の再封鎖の写真とノンセクトの動向について掲載する。
まず、1969年2月の闘争の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
1969年
2.15 全共闘、「機動隊導入による強権的闘争圧殺」に抗議して、法、文、商、社、経、神の学部校舎を再封鎖。サークル闘も、学館を占拠し泊り込む。学院側、「ロックアウト」を宣告。
2.17 県警、被逮捕者の自宅、下宿など22か所を強制捜査。
2.18 学院本部再封鎖。
2.19 同窓会館を封鎖。
2.21 第1教授研究館、同別館、第2教授研究館の3建物をバリケード封鎖。キリスト者反戦連合も、宗教センターとランバスチャペルの自主管理に入る。
 学院側、26、27日に「全学集会」を開催する旨を、全学生に文書で配布。

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【ノンセクトの生誕とその動向】
革自同〈革命的自立主義者同盟〉
 明確な政治綱領と総路線を持った政治同盟ではない。社闘内部のある集団に対してつけられた名前であり、日常生活構造批判という論文を中心に結集したノンセクト活動家の集団である。彼らの問題意識は、’66年の薬学部闘争に始まり、’67年学費闘争の敗北過程に既成学生運論批判という形で、新鮮な問題意識をわれわれの前に提出した。大衆の意識構造の分析の中から、自分自身一個の大衆としての自己否定と、それを軸にした対象変革運動を通して、大衆の意識構造の中にくさびを打ち込んでいく彼らの運動輪は、既成学生運動全体に痛烈な批判をあびせかけていった。
 彼らの論理は今年の6項目要求闘争の中で具体化され、闘争の中で欠くことのできない存在として登場している、縦に二本の白い線の黒いヘルメットをかぶった彼らの姿は、闘争のあらゆる所に登場し、兵庫県警をふるえあがらせた革自同は、同時に、第5別館死守闘争をになった中心的な存在でもある。
 しかし、総路線と明確な政治戦略を持ちえない彼らは、全国学園闘争の展開の中で、個別関学闘争を突破する方針は提起しえても、全国政治闘争としての方針を提起しえないという限界性をもっており、この事は、革自同に結集する個々の活動家の今後の課題として提出されるだろう。

キ反連〈キリスト者反戦連合〉
 キ反連は、関学80年の〈キリスト教主義〉への葬送と帝国主義約再編の中で、人民抑圧政策を支えるものとしてある<建国記念><靖国神社国営化>への粉砕、阻止闘争に取り組んでいった。これは<キリスト教主義>なるものが現実状況の中で、果して存在し得るのか否か!という本質的な問いから出てきたものであり、真に牧歌的ムードの中で醸成されてきた自己への闘いであり、反キリスト教的教育を続ける学院権力への鋭い攻撃であった。
 2月21日宗教センターを自主管理、ランバス・チャペルをバリケード封鎖し、闘いの戦列に加わった。しかし政洽方針のなさと同時に、閉鎖的状況はぬぐいされず、この闘争を担う部隊として形成され得なかった。同志社やその他の神学部との横の連帯を志向している現在の状態に今後の飛躍かあるのでは!?

サークル闘争委
 1月18日、文化総部常任委員会の提唱により、生協、新聞総部、総部放送局、その他同好会の参加のもとに、サークル闘が結成された。ここで特筆すべきことは、昨年の文総の体質改善運動の展開と今年の闘争へのコミットという歴史的事実である。混迷と停滞の中にあり、事務執行機関に転落した執行部の解散
と規約改正、そして“状況に基く文化サークル運動を”とのスローガンを掲げた新執行部の成立があった。そして学生会館を拠点にしているサークル闘争委は、6項目要求闘争を闘う中で学生会館自主管理を主体的に担うとの方針のもとに、講演会活動、クラブ、クラスオルグ、入試阻止座り込み闘争を展開した。
以前までは闘争圧殺の担い手であったこの部隊が主体的に闘争に参加したという大きな事実があるか、この闘争の頂点である入試粉砕闘争において、情勢分析の甘さ、政治方針の欠落が指適され、大衆動員主義に陥る限界を持っていた。しかし12月12日“機動隊大学を、再度われらの手に”と全学的に学園奪還闘争が展開される中で、全共闘とともに学生会館主事室を占拠し、自主管理体制に入った。
 厚生補導の場と、して、学院権力のヘゲモニーに包摂され、箱庭的文化運動を続けてきたわれわれの訣別の辞であった。そして学館をゼミ討論、クラス、クラブ討論に全面解放し自主講座を提起したのである。しかし文化運動論の軟弱さのために、次第にまばらになっていく学生の前に、この闘争の総路緑化を図る「核」として存在しえなかった。今後の〈自主講座運動〉の展開がサークル闘争委の課題であろう。
 、
体育会有志適合             
 ’66年の薬学部闘争、 ’67年の学費闘争、そして今年の6項目要求闘争においても、常に学院当局の尖兵として登場してきた体育会の中から、一部ではあるが反乱者が登場した。直接的には1・24全学集会における学院当局への批判から始まり、数十人の学生を結集する中で、今までの体育会のあり方―自己の学生存在への追求を一切ぬきにして学院当局の論理に乗っかる中でしか行勤しえないーそのものに対する批判を提出していった。

4連協〈4年生連絡協議会〉
 43年度学費闘争において当時の4年生がスト解除=闘争終焉の旗印をかかげて登場し、闘争壊滅の主要因となったことの総括の中から結成された4連協は、6項目闘争の中で、「卒業すること」とは、一体いかなる意味を持つのか、について本質的な討論をなしえず各学部4連協の意見調整機関としての機能を出なかった。そのため各学部段階での計7名の卒業拒否者を出しながらも、それを全学4連協として深化できず卒業式を契機として崩壊の途を辿った。

1連協〈1年生連絡協議会〉
 各学年別の連協組織は去年の学費闘争の過程にも結成され、各学部闘争委員会の組織的中軸として活発な活動を行なっていた。しかし、去年の学費闘争は、各学部の枠を突破できず、全学的な組織として各連協が活動を開始したのは、今年の6項目要求闘争が展開されてからである。
 各学部闘争委の連合体としての全共闘から闘いの実態としての全共闘への発展の中で、全学的な運動の展開を指向して結成された全学l連協は、2・6機動隊導入の際には、サークル闘とともに座り込み部隊の中心として活動を展開していった。しかし、いまだ活動家集団としての限界をもっており、政治焦点のある時には活動できるが、ない時には実態をもてないというのが現実である。

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(つづく)

【全国学園闘争アーカイブス】
このブログでは、1968年から69年にかけての全国学園闘争の記録を掲載しているが、これまでに掲載した中から、いくつかを紹介する。
関西学院大学は関西なので、今回は同じ関西の大学である。
<龍谷大学>
1968-69全国学園闘争 龍谷大学編
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-11-27.html
<立命館大学>
1968-69全国学園闘争 立命館大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2010-05-21.html
1968-69全国学園闘争 立命館大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2010-05-28.html
1968-69全国学園闘争 立命館大学編 その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2010-06-11.html
<関西大学>
1968-69全国学園闘争 関西大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2010-12-03.html

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクト2019秋の関西集会

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「1960年代から70年代の米国学生運動活動家リーダー、マーク・ラッド氏が語る!」
講師:マーク・ラッド(社会運動家)
日時:2019年10月26日(土)14時00分~17時00分
会場:エルおおさか 5F視聴覚室
大阪市中央区北浜東3-14 
地下鉄・京阪電鉄「天満橋」駅徒歩5分
参加費:1,000円
50 years ago, a momentum-driven mass movement that helped end the War in Vietnam, 2020 Now, a movement to end all imperialist wars.
1960年代から70年代の米国学生運動活動家リーダー、マーク・ラッド氏が語る!
50年前、時代の勢いに乗った大衆運動はベトナム戦争を終結させた。
2020年に向け、今こそ全ての帝国主義戦争に終止符を!
【マーク・ラッド氏のプロファイル】https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Rudd   
マーク・ウイリアム・ラッド(1947年6月2日生まれ)は、政治オーガナイザー、数学教師、反戦活動家およびカウンターカルチャーの象徴であり、1960年代後半のSDSとコロンビア大学ストライキ闘争や1970年代前半の極左暴力主義組織ウェザーマン・アンダーグラウンドとの関りで有名。
マーク・ラッドは、1963年に米国民主社会学生同盟(SDS)コロンビア大学支部に加盟、1968年には委員長に就任し、同年のコロンビア大学闘争で様々な問題、特にベトナム戦争に反対する反体制学生のスポークスマンとして活躍した。戦争の激化に伴い、マーク・ラッドは他の若い活動家リーダー達とともにSDSをさらに過激な路線へと導かんとしたが穏健多数派の反対に遭い、中国紅衛兵の影響を受けボブ・ディランの曲の歌詞からとって“ウェザーマン”を名乗り極左軍事主義的分派を創設した。1970年マーク・ラッドは、3人のウェザーマン・アンダーグラウンドの同志を亡くしたグリニッジビレッジタウンハウス事故爆破事件以後、当局からの目を逃れ地下に潜伏。7年間の逃亡生活を経て1977年に自首投降し、数年間獄中生活を送る。出所後ニューメキシコ州アルバカーキ市のコミュニティカレッジで数学教師を勤めるが、現在は同地にて引退。
2010年、マーク・ラッドは「アンダーグランド―私の人生とSDSとウェザーマン」という自叙伝を出版、その中で過去の闘争と自己人生を総括し、ウェザーアンダーグランドの路線と自己の役割を悔い改め、今では非暴力主義、民主主義選挙による変革を提唱しコミュニティ活動に献身している。

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月25日(金)に更新予定です。

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなります。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、ブログのアーカイブスで探していただくか、記事タイトルで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。(まだ検索に引っ掛からないようです)


手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。
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今回のブログは4回目、8月2日のNo523で掲載した関西学院大学闘争の記録の続きである。1969年2月の第5別館法学部死守闘争の写真、新聞記事を掲載する。
まず、1969年2月の第5別館法学部死守闘争の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
1969年
2.8 商学部入試。全共闘、第5別館と法学部のバリケードを強化し、機動隊の強制解除に備える。
2.9 第5別館を除く全校舎バリケード、機動隊2、500によって強制解除さる。早暁、兵庫県警は大阪府警の助けも借り、第5別館と法学部校舎にたてこもる学友48人を、ガス銃と放水で攻撃。法学部は、午前9時半に解除されるが、第5別館死守部隊35人は、徹夜でこれに応戦し、そこにかけつけたデモ隊2、000人と熱い蓮帯を交わす。法、全員逮捕さる。
2.10 30時間にわたって闘い抜いた、第5別館死守部隊35人、午前11時50分、ガス銃、ヘリコプター、消防車などの権力側の武器に屈す。警棒で乱打され、催涙ガス液を浴び、屋上から階下へひきずりおろされたりしたため、全員が、火傷、打撲傷を負い重傷。
2.12 「全関西労学関学奪還総決起集会」に3、000人。午後3時すぎ、正門近くの上ケ原派出所を投石で襲撃。3人が不当逮捕さる。
2.14 機動隊常駐解かる。入試全学部とも終了。
2.15 全共闘、「機動隊導入による強権的闘争圧殺」に抗議して、法、文、商、社、経、神の学部校舎を再封鎖。サークル闘も、学館を占拠し泊り込む。学院側、「ロックアウト」を宣告。
2.17 県警、被逮捕者の自宅、下宿など22か所を強制捜査。
2.18 学院本部再封鎖。
2.19 同窓会館を封鎖。
2.21 第1教授研究館、同別館、第2教授研究館の3建物をバリケード封鎖。キリスト者反戦連合も、宗教センターとランバスチャペルの自主管理に入る。
 学院側、26、27日に「全学集会」を開催する旨を、全学生に文書で配布。

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【関学に機動隊 一か所を残し排除】毎日新聞1969.2.10(引用)
兵庫県警は9日、警察官の警備の下で入学試験を続けている関西学院大学(同県西宮市)の要請で、大阪府警の500人を含む2,500人の警察隊を動員、占拠学生ら20人を逮捕して法学部本館など11ケ所の封鎖を解いた。しかし、第五別館は学生の抵抗が激しく、警官3人が重症、26人が軽傷、学生8人も負傷するなど危険なうえ夜にはいったので、解除を10日に持ち越した。
 この日大学当局は午前7時前、占拠学生に退去命令を出し、そのあと機動隊が正門など二ケ所から構内にはいった。19ケ所の建物には学生がいなかったため、それぞれ約30分で封鎖を解いたが、法学部本館、第五別館では泊り込んでいた約50人の学生が厳重なバリケードをタテに放水、投石で激しく抵抗、警察官はガス弾を撃ち込みながら突入し、約2時間半後、まず法学部本館の解除に成功、占拠学生13人と学外に逃げた7人を逮捕した。
 しかし第五別館では鉄筋4階建ての各階に机、イスのバリケードを二重、三重に築き、約30人がたてこもって抵抗、警官隊は電動ノコギリでこれらを切り落とし、ガス弾を撃ち込んで1階ずつ進んだところ、学生らは火炎ビンを投げ、イスに火を付けて屋上に逃げ、屋上出入口を封鎖した。警官隊は4階天井を削岩機でくり抜いて突破口をつくったものの、多くの重軽症者を出したため、同日は排除をあきらめた。

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(つづく)

【全国学園闘争アーカイブス】
このブログでは、1968年から69年にかけての全国学園闘争の記録を掲載しているが、これまでに掲載した中から、いくつかを紹介する。
関西学院大学はミッション系なので、今回は同じミッション系の大学である。
<明治学院大学>
1958-69年全国学園闘争の記録 明治学院大学編
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-05-15.html
1958-69年全国学園闘争の記録 明治学院大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-05-22.html
<青山学院大学>
1958-69年全国学園闘争の記録 青山学院大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-06-19.html
1958-69年全国学園闘争の記録 青山学院大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-06-26.html
1958-69年全国学園闘争の記録 青山学院大学編 その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-07-03.html
1958-69年全国学園闘争の記録 青山学院大学 番外編 
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-07-10.html
<上智大学>
1958-69年全国学園闘争の記録 上智大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2010-03.html
1958-69年全国学園闘争の記録 上智大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2010-04-02.html
1958-69年全国学園闘争の記録 上智大学編 その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2010-04-09.html

【お知らせ その1】

台風の影響で延期となりました!(10月9日速報)

10・8山崎博昭プロジェクト2019年秋の東京集会 特別講演会

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「ベトナムをどう見るか―歴史認識と現実」     
講師:中野亜里さん(現代ベトナム政治、大東文化大学国際関係学部教授)
 
日時:2019年10月12日(土)14時00分~17時00分
会場:大田区萩中公園集会所 第2及び第3会議室 
〒144-0047 大田区萩中3-26-46 公園管理事務所(03-3741-1946)
 京急空港線「大鳥居駅」から徒歩6分、JR蒲田駅から京急バス「萩中公園前」下車1分。
参加費:1500円
 
講演概要
1 ベトナムと関わりから見えたこと:「オモテ」と「ウラ」の世界
2 日本人のベトナム認識とベトナム人の歴史観・世界観:「社会主義」「民族解放」の神話、明らかにされていない歴史、自国の歴史に興味がないベトナム人
3 ベトナム政治・対外関係の現状:開発と民主化・人権問題、中国・アメリカ・日本と
の関係
4 今後の展望
※講演会終了後、懇親会あり

【お知らせ その2】
10・8山﨑博昭プロジェクト2019秋の関西集会

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「1960年代から70年代の米国学生運動活動家リーダー、マーク・ラッド氏が語る!」
講師:マーク・ラッド(社会運動家)
日時:2019年10月26日(土)14時00分~17時00分
会場:エルおおさか 5F視聴覚室
大阪市中央区北浜東3-14 
地下鉄・京阪電鉄「天満橋」駅徒歩5分
参加費:1,000円
50 years ago, a momentum-driven mass movement that helped end the War in Vietnam, 2020 Now, a movement to end all imperialist wars.
1960年代から70年代の米国学生運動活動家リーダー、マーク・ラッド氏が語る!
50年前、時代の勢いに乗った大衆運動はベトナム戦争を終結させた。
2020年に向け、今こそ全ての帝国主義戦争に終止符を!
【マーク・ラッド氏のプロファイル】https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Rudd   
マーク・ウイリアム・ラッド(1947年6月2日生まれ)は、政治オーガナイザー、数学教師、反戦活動家およびカウンターカルチャーの象徴であり、1960年代後半のSDSとコロンビア大学ストライキ闘争や1970年代前半の極左暴力主義組織ウェザーマン・アンダーグラウンドとの関りで有名。
マーク・ラッドは、1963年に米国民主社会学生同盟(SDS)コロンビア大学支部に加盟、1968年には委員長に就任し、同年のコロンビア大学闘争で様々な問題、特にベトナム戦争に反対する反体制学生のスポークスマンとして活躍した。戦争の激化に伴い、マーク・ラッドは他の若い活動家リーダー達とともにSDSをさらに過激な路線へと導かんとしたが穏健多数派の反対に遭い、中国紅衛兵の影響を受けボブ・ディランの曲の歌詞からとって“ウェザーマン”を名乗り極左軍事主義的分派を創設した。1970年マーク・ラッドは、3人のウェザーマン・アンダーグラウンドの同志を亡くしたグリニッジビレッジタウンハウス事故爆破事件以後、当局からの目を逃れ地下に潜伏。7年間の逃亡生活を経て1977年に自首投降し、数年間獄中生活を送る。出所後ニューメキシコ州アルバカーキ市のコミュニティカレッジで数学教師を勤めるが、現在は同地にて引退。
2010年、マーク・ラッドは「アンダーグランド―私の人生とSDSとウェザーマン」という自叙伝を出版、その中で過去の闘争と自己人生を総括し、ウェザーアンダーグランドの路線と自己の役割を悔い改め、今では非暴力主義、民主主義選挙による変革を提唱しコミュニティ活動に献身している。

【お知らせ その3】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月11日(金)に更新予定です。

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