野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

タグ:その他政界と政治活動

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(9-10)である。

<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代      (2019.1.11掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」   (2019.1.11掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (2019.1.11掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会    (2019.2.8掲載)
5.67年現思研としての活動     (2019.2.8掲載)
6.67年春福島県議選のこと     (2019.2.8掲載)
7.全学連の活動ー砂川闘争      (2019.4.19掲載)
8.67年学園闘争の中で       (2019.4.19掲載)
9.10・8羽田闘争へ        (今回掲載)
10.10・8羽田闘争の衝撃     (今回掲載)
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
9.10・8羽田闘争へ

 67年10月8日、この日の闘いによって、学生運動が転換したと言っても過言ではないでしょう。
 砂川基地拡張反対闘争を闘いながら、三派全学連は矛盾や対立は続いていました。中核派のヘゲモニーに対して、他の党派もそうだったのでしょうが、私のまわりでは特にブントが対抗意識を露わにしていました。中核派の「反帝反スターリン主義戦略」と「反帝戦略」のブントは、闘いの位置づけ、分析において常に対立し、全学連の基調報告や政策にどう反映させるか、7月の全学連大会でも争っていました。私たち現思研は、それらを学対の村田さんや、山下さんから聞くとか、機関紙で知る程度で、主体的な立場でどうとらえるというほどの考えもありませんでした。学内の党派的な拮抗や、民青との対立には反応しますが、党派的な大学外のやりとりは、あまり注目もしていません。
 67年には、ベトナム反戦闘争が国際的な高揚を背景に、学生運動、ベ平連をはじめとする市民運動も広がっていました。
 4月に美濃部革新都政が始まり、社共や総評・産別などの労働運動も共同し、世論は平和と反戦を求める要求は強まっていました。再びアジア侵略によって経済成長を遂げようとする独占企業、財・政界の露骨な動きに対し、多数の都民が美濃部都政に平和と民主主義を託したといえます。
 学生運動は、そうした時代を背景に学費闘争、砂川米軍基地拡張反対闘争を闘い、ラジカルさを競うように各党派の街頭活動は先鋭化していきました。6月には佐藤首相が訪韓し、9月20日には、第一次東南アジア訪問の日程が決まり、日韓条約を免罪符のように、日本政府は戦争の責任をあいまいにしたまま、再びアジア経済侵略を開始しています。こうした佐藤政権下の67年、8月には新宿で米軍タンク車衝突炎上事件が起き、9月には米政権が、日本への原子力空母エンタープライズ寄港を申し入れています。そして、10月8日、佐藤首相は南ベトナム傀儡政権の招きによって、ベトナム訪問が行われようとしていました。佐藤首相のベトナム訪問には、ベ平連も社共の既成政党も、連日、街頭抗議活動を行っています。

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 10月8日、全学連と反戦青年委員会5,000余名は、この日、激しい弾圧に抗して闘います。実際には、前日に法政大学で行われた、中核派による解放派リーダーへのリンチ事件で、全学連としての統一行動は不可能となってしまいました。10・8闘争の総指揮を執るはずだった高橋孝吉さんらに対する中核派のリンチ、テロのやり口に、反中核派で社学同含めて爆発寸前の矛盾が激化しました。ブントや解放派らは中大から法政大学へと抗議行動を起こし、衝突しそうな状況であったようです。私たち現思研も、中大での決起集会に参加し、翌日の備えて明大学館に戻って、みな泊り込みました。
 法政大学での党派対立に備えて、各派は角材を準備したのでしょうが、この角材は内部対立ではなく、権力に向けて行使されるべきだということで収拾したと聞きました。それが10・8闘争の新しい実力闘争街頭戦に転じていったのです。
 当時の私は、授業もあったし、文研サークルの活動や詩集作りに熱中し、学苑会執行部も現思研の後輩に財政部長を継ぐように説得し、やりたいことを整理しながら、来年は卒論に集中しようと考えていました。すでに必要な卒業の単位はだいたいとっており、卒論と教職課程を中心に、来年の68年を迎えようと計画していました。このころ、関西から東京駐留で、学館に寝泊まりしている佐野さんや藤本さん、また、その後、北海道から学館に来ていた山内昌之(のちの小泉首相ブレーン)や吉田さんら、頼まれれば、現思研として雑務を引き受けたりしていました。社学同の人々のことを身内のように親しんではいましたが、だからといって「同盟員」としての活動を特に義務付けられるわけでもなく、招請があればデモに参加し、機関紙を購読するくらいの活動です。もちろん学内での私たちの自治会や生協の活動自身が、社学同にとってはメリットでもあるのです。
 早稲田社学同の荒さんもよく私たち現思研の部屋に顔を出していました。彼いわく「現思研は心の軍隊だな。お互い家族のように思いやるのはうらやましいが、それだけでは心情主義だ。学習会をやったり、機関紙討論などの理論的活動をやっていない」と批判していました。のちに下級生から思い出話として知らされたのですが、私は「あらそうかしら。観念的で大言壮語の『戦旗(機関紙)』を読んでもピンと来ないのよ」と平気で言い返していたようです。また、私が、じゃあ学習会をやろうかと言って始めるのはカフカの朗読だったり、ブント社学同の学習会というので、私が準備しているので参加するのかと思ったら、医科歯科大の山下さんや早稲田の村田さんにレクチャーを頼んでアルバイトに行ってしまったそうです。中国文化大革命にも共感せず「あんな画一的なおかっぱ頭が社会主義なら、私はあんな革命はいりませんよ」と言っていたと荒さんは、のちに語っています。この頃から荒さんが私にニックネームで「魔女」「魔女」と呼ぶので私は腹を立てていました。「魔女って『奥様は魔女』のサマンサみたいなもんだよ。魔女らしくないのに魔女みたいなことするからさ」と荒さんが言い出したので、以降、ブントや赤軍派の多くは「魔女」というニックネームで呼んでいました。私が怒るので、私の前では当初は使わなかったですが、のちには、68年ころにはまあいいかと気にしなくなり。当時の通称となってしまいました。こうした雰囲気の中で羽田10・8闘争を迎えることになりました。
 10月8日早朝。いつもは早々に知らされる集合場所が(すでに萩中公園に決まっていたままかもしれません)当日朝ブントから「今日はこれまでと違う。歴史的闘いとなる。ことごとく指揮には従ってほしい。まず、何人かに分散して東京駅へ行ってほしい。そこで次の指示が出る」というのです。上原さんや、67年に入学した田崎さんら含めて、私たちは分散して三々五々、御茶ノ水駅から東京駅へと向かいました。
東京駅のホームに着いてからか「品川駅京浜急行ホームにただちに結集せよ」というのです。私たちは赤旗を巻いたまま、品川駅のホームへと向かいました。社学同の仲間たちもどこに行くのかわからないし、乗り替えの改札があるので、みんな一番安い区間の切符買うように言われて、10円区間だったか20円区間だったか覚えていませんが、京浜急行品川駅に入りました。スクラムを組んで改札を無賃で突破するグループはいません。ホームいっぱいに社学同の仲間らしいのがうろうろしています。成島副委員長や、佐野さんもいます。しばらくすると「ピーッ」と笛が鳴って「乗れーッ!」との号令です。みな、あわてて乗り込みました。私たちは30人くらいの明治の仲間たちです。現思研の仲間は仕事があるので、そんなに多くなかったと思います。田崎さんはこの日、生まれて初めての街頭デモで、行く先も告げられず?みんなと行動を共にしたとのことです。昼間部には元気の良い池原さんらがいます。私は東京生まれですが、品川から京浜急行で行く地域は、まったくなじみのない方角です。いつも通う小田急線よりも狭い家の真近に迫ったようなところを電車が走っていきました。駅名を読みながら、指示がないかと耳を澄ませながら待機していました。「ピーッ」と笛が鳴り、「降りろーッ!」との指示がとびました。あわててみなホームに降りました。小さな駅のホームです。私たちが降りると列車はガラ空きで、残った少ない乗客が何事かとホームをしきりに眺めています。ホームの駅名を見ると「大森海岸」と書かれていました。ホームに立っていると、「飛び降りろーッ」の号令がどこからか。無賃下車です。ホームの背は簡単なコンクリートの柱が並び、そこに太い鉄棒が通してあります。これをまたいで、駅脇の道に跳び降りろという要求です。かなりの高さで、みな元気よく次々跳び降りるので、私たちも跳び降りました。そこで1,000人を超える人々が集結して、緊急の集会です。「我々は決死の覚悟をもって羽田空港へ突入し、佐藤訪ベトを阻止する。我々こそがその使命をやりとげるのだ!」成島全学連副委員長が声を限りに演説しています。他の人の工事用ヘルメットではなく、成島さんだけオートバイ用のヘルメットです。
 どこから調達したのか、前方に角材が届きました。社学同ばかりか、社青同解放派ら全学連の反中核派連合が結集しているようです。どどっと、角材が地面の置かれると、先頭部隊が決まっていたのでしょう。早大の荒さんら、一人ずつ角材を握り、短いアジテーションが終わると、シュプレヒコールで景気付けながら旗棹を持った部隊に続いて角材部隊が続き、ジグザグデモで出発です。私たちは救護看護班なので、友人たちは、貴重品を持ってくれと私たちに託してきます。救急箱もあり、それらを分担して荷物管理しつつ私たちは後方を歩くことにしました。デモ隊は1,0000人~1,200人だったといわれています。ぎゅーぎゅー詰めの連結車両のほとんどがデモ隊だったのです。デモ隊は、角材か樫棒の前衛部隊100余人に続いて駅の広場から道路を渡り、デモでジグザグ進みます。そこまでは予想外の展開ながらいつもの調子で、私たちはデモの最後尾についていました。

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すぐそこには鈴ヶ森ランプの高速道路に乗るインターチェンジの入口があります。その坂道の下までくると笛が鳴り「羽田へ突入するぞーッ!」「走れーッ!羽田はすぐそこだぞーッ!」と激がとんだのです。角材をもった連中は全速力で高速道路の坂を上りはじめました。デモ隊が続きます。置いていかれてはならじと、救護班は後に続きました。私たちの役割は、取り残されては果たせないからです。新入生たちも私たちと一緒に走りました。身軽に棒一本持った連中や、何も持たずに走るデモ隊に対して、カバンや救急箱を抱えた10人ほどの私たちも走りました。たちまち引き離されながら息を切らせて高速道路に上がると、すでに佐藤訪ベトに向けて一般車両の通行を禁止していたらしく車は見当たりません。かわりに何十メートルおきくらいに見張りとして立っていたらしい機動隊員は、学生たちの急襲攻撃で殴られたり倒れたりしています。それらの機動隊員たちを踏まないように避けながら、デモ隊の後を追って疾走しました。しばらく行っても「羽田はすぐそこだぞー!」という掛け声ばかりで、一向にそれらしい風景が見えません。たちまち引き離されながら、必死に追いかけます。走りに差が出て、部隊はいくつかに分かれて羽田へと向かっていたらしいのです。先頭集団を走っていた早稲田の荒さんらが、渋谷方面へと道を間違えたようだというのが聞こえました。出口を逆走すれば羽田に向かうのですが、入口をそのまま走ると、東京方面に向かってしまうようになっていたのをよく知らなかったのです。(のちに知ったとのことです)そのうち機動隊が羽田方面からと、大森方面から追いかけて、私たち百余名の集団を挟み撃ちにしようとします。装甲車から降りてきて、殴られて孤立してぼう然としたり倒れたり休んでいる機動隊仲間を収容する部隊と、学生デモ隊を攻撃する部隊に分かれています。彼らは、学生たちを包囲し、警棒で乱打し、蹴ったり激しい暴力をふるっているのが見え、だんだんこちらに近づいてきます。高速のインターチェンジの少し低いところで、「あっ!」という間に2,3人の学生が追い詰められて、飛び降りました。「あっ!今落とされたんだ!ひどい!」。見ていた仲間が悲鳴をあげました。下を見ると倒れたままです。生きているのだろうかと心配です。機動隊は仲間の復讐に燃えて、容赦ない暴力ふるい、血まみれの学生たちが、頭や顔から血を流してうずくまり、血の臭いが充満しています。機動隊は次々と殴りながら、何故か逮捕せず蹴散らす方針らしいのです。私たちの番です。ひとかたまりに私たちは身を守り、包囲を縮めてくるので、身動きが取れません。小隊長らしい男の指揮で殴りかかってきました。私たちは「救護班」の腕章を巻いているし、荷物を抱えているので一目瞭然のはずなのですが、警棒で殴りかかってきました。「見ればわかるでしょ!救護班に何する!」「女に何するんだ!」と私たちは口々にわめきました。私も頭は殴られなかったですが、肩や背、腕をしたたか警棒で殴られました。あとで見たら腕には青アザが出来ていました。みな口々に抗議しつつ、頭から流血している仲間を護るように立って対峙しました。そこに首都高速道路公団のマイクロバスが通りました。ちょうど羽田方面から大森方面に向かって走っていくようだったので「運転手さん!助けて下さい。怪我人がいます!」私は道路に飛び出して車の前の方に走り寄りました。運転手はきっと、ずっと先から学生たちが殴られ蹴られ、小突き回され血を流してうずくまるのを憤りの思いで見ながら走ってきたに違いありません。うなずくと、運転手はすぐ車を止めて、降り、ドアを開けて、数人の近くにいた血だらけの学生を車に運び入れるのを手伝ってくれました。機動隊に聞こえるように「ひでえことをするなあ」と大きな声で言いながら、どこに行けばいいのか?と私に聞きました。機動隊員たちは指揮者の号令で、羽田方面へと去って行こうとしています。私は運転手に「この近くに個人病院はありませんか?大きい病院だと警察に通報されたりすると困るんです。お金は私が御茶ノ水の大学までもどって持ってくるので、即金で払いますから」と言いました。「よし、わかった」と言って車をスタートさせました。私は、一緒にいた他の現思研の仲間には気がまわらず、怪我人で頭がいっぱいで、みんなと別れて私は車に乗り込みました。私たちの乗った公団の車は、鈴ヶ森ランプから普通道に出て、道からちょっと奥まったところにあった個人病院に連れていってくれました。
私は病院に飛び込んで「おねがいします」と呼びました。年輩のやせた院長が出てきました。私は「デモで怪我した人がいるので治療してほしいのです。今、手元にあるお金をまず払います。これから、私が御茶ノ水にある大学にとんぼ返りして治療費を持ってきますから、こちらの怪我人を助けて下さい。警察には知られたくないんです。私自身もこの怪我をした人たちの名前も知りませんし、聞くつもりもありませんから。とにかく私が責任を持ちますから助けて下さい」と院長に訴えました。道路公団の運転手は、怪我人を運ぶのを手伝ってくれた上に、自分のポケットをさぐって、有り金を差し出し「これ治療費に使って下さい。学生さんたち、がんばれよ!」と言って行こうとしました。「あっ、すみません。名前教えて下さい。あとでお金返したいので」と言うと、笑いながら「いや、いいから。一市民ということでそれでいいでしょ」と言うと、院長にお願いしますと言って出て行ってしまいました。院長は怪我人の傷をざっと見ながら「まあ若いんだから大丈夫だろう」と言いながら引き受けてくれたので、私はすぐにタクシーに飛び乗って御茶ノ水へと向かいました。そして、お金を調達すると、また、タクシーに飛び乗って医院へと、とって返しました。この時、大森に戻るタクシーの中で、運転手から「今、ラジオで聞いたんだけど、学生がデモで殺されたらしい」と教えられました。えっ?!と息を呑み、ラジオのニューズを聴きました。私にとっては羽田近辺はなじみのない場所で、橋の名前をいわれてもわかりません。でも、鈴ヶ森ランプから羽田方面に向かい、押し返されたデモ隊が、橋の上で攻防を繰り返しているらしいことがわかりました。当初は私も羽田空港に通じる3つの橋の位置関係や橋の名前も、また、殺された学生というのがどのグループに属するかもわかりませんでした。そこに社学同の仲間がいるのかもわかりません。とにかく大森の個人病院に戻って精算しました。治療した4,5人の学生たちは、どこの大学の人か聞きませんでしたが、必要な人には電車賃を渡して別れました。その後、現思研や社学同の仲間と合流すべく、そこから歩いて行こうとしても、機動隊の通行止で方向もはっきりしません。現思研の仲間たちもどこかで闘っているはずです。この日は、機動隊に追いかけられる学生たちを羽田周辺の住民たちがあちこちで助け、分散、蹴散らされながらも学生たちはみな萩中公園の方に集まって行ったようです。私は何人かの仲間に会い、御茶ノ水の学生会館に戻りました。

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夜、萩中公園で追悼集会が開かれ、それに参加してきた仲間も戻りました。仲間の話や報道から、殺されたのは京大1年生の山﨑博昭さんで、中核派が中心に攻防しつつ羽田へと突破を試みた弁天橋で殺されたことがわかりました。現思研の仲間たちは、突撃隊やデモ隊で加わった者もおり、防衛戦を突破して、鈴ヶ森から穴守橋をはさんで攻防を繰り広げたとのことです。穴守橋を渡ると羽田空港です。中核派は、社学同や解放派が萩中公園集会前に突撃隊を率いて、鈴ヶ森ランプをから羽田突入を図ったと、ブントの成島副委員長の誇らしげな発言を聞いたので、集会を早々に引き上げ、突撃体制に入ったと、政経学部の中核派の友人が語っていました。
前日の中核派によるリンチ事件から、全学連統一行動が分裂した結果でもありますが、穴守橋では、社学同や解放派、反戦青年委員会、中核派は弁天橋、革マル派は稲森橋をはさんで、羽田空港突入攻防を繰り返したのです。弁天橋では、橋の真中の障害物として置かれた装甲車に、車のキーが付いたままに置かれており、学生が運転して警備車を押し戻しました。そしてそこに出来たわずかなすき間から抜けて前に進もうとする学生たちを、機動隊は警棒メッタ打ちにし、学生も投石と角材で対抗しつつ、警備車を倒して道を広げようと、ワイヤーや丸太などで激しくわたりあったそうです。すき間から一番早く向こう側に到達した一団に山﨑博昭さんがいて、無差別の警棒の乱打に虐殺されたのです。(それらは、50年後に「10・8山﨑博昭プロジェクト」によって当時の公判、証言、資料の科学的真相再究明の結果を本の中で明らかにしています。すでに当時から主張していた内容を再検証したもので、警察の「学生が運転して轢き殺した」というデマがつくられたが、矛盾をきたして、結局通用しなかったという事実なども明らかにしています。)また、ちょうど昼ごろには、山﨑さんの死が穴守橋にも伝わり、佐藤首相の飛行機がベトナムへと飛び立ったこともあって、弁天橋に向かう者も多かったようです。川に落とされ、ズブ濡れの人や、怪我人が多数いましたが、弁天橋のたもとでは、山﨑さんに連帯して「同志は倒れぬ」を歌い、1分間の黙祷をしたとのことです。革共同の北小路さんが車の上に乗って「機動隊もヘルメットをとって黙祷しろ!」と糾したが、機動隊はリンチを止めなかったと話していました。攻防を経て、萩中公園で夜遅くまで虐殺抗議集会が続きました。
この日のことを「戦旗」(ブント機関紙)は次のように記しています。
「装甲車を先頭に学生はジリジリと橋の上を前進した。装甲車の前に近づき進み、橋を渡ろうとした。その時、これを見た機動隊は、学生の群れに襲いかかった。逃げ場を失った学生が次々と川に飛び込んだ。残っている学生に向かって警棒を振りかざした機動隊が狂犬のように襲いかかり、メッタ打ちにする。このメッタ打ちされた学生の中に山﨑博昭君がいたのだ。学生の装甲車はやむをえず後退し、橋から引き上げた。山崎君はこの機動隊の突進、警棒の乱打の中で虐殺された。」(「羽田闘争10・8→11・12と共産主義者同盟」より)

10.10・8羽田闘争の衝撃
この日、共に闘った一人の学生が殺されたことは、大きな衝撃となりました。「命を賭けなければ、もはや闘えない時代なんだなあ・・・」社学同の昼間部の友人が、現思研の部屋に来てため息をついてそう言いました。理屈抜きに、もう後には引けない新しい段階へと闘いが転じたのを、誰も実感していました。
「学校の先生になる者たちこそ、こういう闘いの中で日本社会の変革の担い手になるべきだ」私たちの友人たち、教育研究部の人々も、下級生も元気がいい。私もまた、みんなの憤怒を聴きながら、もう詩を書いてはいられないな、もう書くのはやめよう・・・と思いました。これまでは自分の中で、政治では言葉にできない情念や憤怒を詩に結晶させようとしつつ、カタルシスのように書いていたような気がするのです。10・8闘争による闘いの気分は、そんな私のあり方を問うていたのだととらえたのです。詩にではなく、本当に社会を変えるために情熱を捧げよう、そんな風に思いました。そして、新しい社会参加への関わりを模索しました。その第一は、何よりも、来年には卒論を仕上げ、教育実習も終え、先生の職業に就いて、社会変革の多くの担い手の一人として生きること、そこに私自身の生きがいがあると確かな思いを持ちました。
家に戻って、10・8闘争のことを父に話しました。学生が殺されたこと、それほど激しい弾圧で数えきれない負傷者が出たこと、住民が学生たちをかくまったこと、首都高速道路公団の運転手が怪我人を個人医院に運ぶのを手伝ってくれて、持っていた現金を差し出してくれて、名前も名のらずに去ったこと・・・。テレビでは学生の暴徒化と、もっぱら、公安側の情報報道を流しているけれど、現実は過剰警備が殺人に至ったことなど話しながら「私、先生になっても社会活動はずっと続ける」そんな話をしました。
この時、父は、自分も若い時、民族運動に参加したことを話してくれました。父の親類らの話から小耳にはさんで、昔父が何か「大それたこと」に関わったらしいことを、子供時代に聞き耳をたてて知ったこともありましたが、父からくわしく聴くのは初めてでした。
子供時代から私たちは、父とどう生きるべきかとか、人間の価値や正義、どちらかといえば天下国家を語り合う家族でした。博識の父を子供たちは、いつも質問攻めにしたものです。財政的に商売は武士の商法でうまくいかず、貧しかったけれど、父の知識を社会への窓口として、私たち兄弟は豊かな子供時代を過ごしました。父は子供たちを大学に行かせる財力がなかったせいもありますが、働くことを奨励し、社会から学ぶことを大切にしていました。自分が「知識人」的な生活を体験した結果かもしれません。私が働きながら大学に行く手立てを見つけて、入学を決めたあとに父に話すと、父は大変喜んでくれました。でも、父はいつもの静かな口調で「房子、『物知り』にだけはなるな。物知りだと思った時から人間が駄目になる」と言ったものです。子供時代から金の多寡(たか)で人間の価値をみる軽薄な人間になるな、と教えた父。その父がこの日語ったのは、若い時の自分の民族運動の時代と友情、そこで志を共にした人々が捕まり、刑を科されたこと、中学時代の親友池袋や、四元、血盟団の井上日召の話などです。美しい日本が、資本主義の金の支配によって、人々の暮らしはたちゆかなくなり、餓死や飢えが広がり、娘を売らざるをえない農民たちがいる。その一方で、財界、資本家、政治家や官僚たちは国民を犠牲に、利権と権力を謳歌しているとは何事ぞ!と若者たちは憤り起ちあがったといいます。父も井上日召らの呼びかけに、池袋と共に加わったということです。そんな話を私は、10・8闘争の夜に聴きました。そうか、そういう風に父も生きてきたのか。子供時代に朝鮮戦争がはじまり、朝鮮人排斥の中で、父だけそうしなかったこと、近所の馬事公苑へと「天皇の車がお通りになる」というおふれに、近所の人々が道路に並び、頭を下げているのに、父は決してそういうことをしなかったこと・・・など、他の日本人の人々と反応の違う父の姿を思い出しながら、そんな父を誇りに思っていた小さい頃の自分をも思い出していました。それ以来、これまでよりも、もっと話し合う親子になったと思います。活動のために、会う機会は減っていきましたが、どこにいても、のちにアラブに行った後も、父はずっと私の理解者でした。
10・8闘争はまた、チェ・ゲバラのボリビアでの戦死と重なりました。世界では、民族解放、革命のために命をかけて闘っている、チェ・ゲバラの「二つ三つ、更に多くのベトナムを!それが合言葉だ!」の呼びかけ、さらには、連帯はローマの剣士と観客の関係であってはならないというチェの言葉は、私たちにベトナム反戦から国際主義精神に基づく革命を実現する道をさし示していました。「たとえ、どんな場所で死がわれわれを襲おうとも、われわれのの闘いの叫びが誰かの耳に届き、誰かの手が倒れたわれわれの武器を取り、誰かが前進して機関銃の連続する発射音の中で、葬送の歌を口ずさみ、新たな闘いと勝利の雄たけびをあげるなら、それでよい」とチェ自身が語ったような死に方だったのです。また、チェはこうも言いました。「我々のことを夢想家というなら、何回でもイエスと答えよう」と。チェの闘いと死。世界の若者たちを共感させ、心をつなげた人が死んだことは、私には大きな衝撃でした。自分のことは後回しだ・・。求められた時は、私はいつでも応えられる私でありたい!チェ・ゲバラの戦死に、また、山﨑さんの死に、私は一歩踏み出したのです。それは心情的レベルにすぎなかったかもしれません。
 全学連もまた、10・8羽田闘争を教訓として、死を覚悟した闘いの時代だととらえました。そして、それを乗り越えて闘う決死隊、先鋭部隊を先頭とする街頭戦のスタイルが、10・8以降、新しい闘いのスタイルとなりました。決死隊はヘルメットをかぶり角材などで武装し、警察の警備の過剰な攻撃に対処する先鋭化へと向かっていきます。権力側は、公安情報によってマスメディアを誘導し、山﨑さん虐殺を「学生の運転した車が学生をひいた」というキャンペーンを張り、闘いの中で警察の警棒の乱打によって虐殺されたことを認めようとしませんでした。

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 10月17日の、山﨑君追悼日比谷野音集会には、党派を越えた6,000余人の労働者、学生が、山﨑さんを追悼しました。全学連委員長の秋山勝行さんは、この集会で「全学連は必ずや、この死に報い、この虐殺の本当の張本人を摘発し、粉砕するまで闘い抜く。時が経つにつれて、羽田の正義者は誰であり、犯罪者がどちらの側であったかが、ますます明瞭なった。全学連の死闘こそ、佐藤首相の南ベトナム訪問を最も真剣に受け止め、くい止めようとした力であり、日本人民が当然やらなければならないことを、もっとも忠実に実行した」と語っています。今からとらえれば、この10・8闘争を契機に、党派はこれまで以上に運動の先鋭化と非妥協性にもっとも価値を置く闘い方に進んでいくのです。私も、広範な運動や合法的なさまざまな多様な活動を軽視し、それよりもラジカルであることが、もっとも使命を実践していると思うようになりました。
 全学連は、10・8闘争から11月12日の佐藤訪米阻止闘争へと引き続く闘いを準備しました。10・8闘争で死者が出たことで、この日は決死隊として死を覚悟する者たちも多かったのです。社学同のデモ指揮にたった早大の村田さんは、オートバイのヘルメットをかぶり、いつものしゃがれ声を嗄らして死をいとわぬ闘いの指揮をとると、アジテーションで絶叫していました。第二次羽田闘争という位置づけで、全学連は、先頭に角材による「武装部隊」をすえて、3,000人の全学連、・反戦青年委員会が闘いました。しかし、武装力を強化したのは、学生より機動隊の方でした。この日かそののちから新しく等身大の大きさのジュラルミンの盾で防衛する態勢をとりながら、、催涙弾を100発近くデモ隊に撃ち込んで、前進をはばみました。この日は大鳥居駅付近が、まるで戦場のようになりました。
 10・8闘争の時もそうでしたが、マスコミが学生を暴徒と悪宣伝していましたが、羽田付近の住民たちは違いました。機動隊に追い立てられて路地に逃げ込む学生たちをかくまい、負傷した学生たちを手当してくれます。「あんたたちは、一銭の得にもならないのによく闘っている」と感謝されたという仲間もいました。私自身の10・8の時の経験でも、正義と信じて自らをかえりみず闘う学生たちに、住民たちは大変好意的でした。こうした高揚は、米欧各国でも同じようにありました。ベトナム反戦運動は、国際的な各地の若者たちをかりたて、チェ・ゲバラに共感し、一つの大きな力に育っていました。
 10・8闘争を経て、闘いの質はよりラジカルとなり、また、より多くの大学、高校でベトナム反戦の闘いばかりか、授業料の値上げや大学自治、管理運営などで、当局との闘いがますます広がっていったのです。67年の新しい闘い方は、68年を更にラジカルに高揚させていきました。

つづく

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月19日(金)に更新予定です。

前回のブログでも紹介したが、「明大土曜会沖縄ネットワーク」では、4月16日から4月19日まで、沖縄・辺野古現地統一行動に参加した。今回のブログは、この現地闘争報告である。

【辺野古現地闘争に参加して (standing on the Henoko beach in Okinawa)】
 
土曜会沖縄ネットワークは4月16日から4月21日まで、13名参加の現地闘争を展開しました  <報告: 明大土曜会H  2019.5.6>

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1) まずは団結式でしょう !!
芝工大全学闘、明大土曜会を参集の出発点にした、その土曜会沖縄ネットワークが生まれたのは今年の1月中旬でした。その目的は、①沖縄連帯の運動や集会に参加する、②我々自身で沖縄を語れる場をつくり横に広めていく、③辺野古現地闘争に参加する、④沖縄の人々との関係を構築することでした。
かくして3ケ月後の4月16日、那覇空港で3グループ(明大G・芝工G・気仙沼G)13名がドッキングして一路、辺野古経由で名護市に向かいました。かつてはキャンプシュワブの海兵隊でにぎわった「辺野古歓楽街」は昔の面影を残している店がチラホラなので、団結式は名護ビーチ近くの沖縄料理屋に陣を取った。
まずは自己紹介なのだ。大学別では東工大1、東洋大1、横浜国大2、明治4、芝工4に沖縄に移住し、首里城修復の従事経験を持つ芝工建築科のNさんが合流した。

2) 辺野古新基地と<キャンプシュワブ>
「1966年、ベトナム戦争の真っ最中に米国の海兵隊と海軍はキャンプシュワブに接する辺野古の海を埋め立てて、V字滑走路とヘリパッドを持つ飛行場と大浦湾側に巨大な軍港建設を構想した。
戦争による米国の財政悪化は新基地の建設を許容するものではなく長らくお蔵入りしていたものだ。
1996年、県内移設の条件付きで普天間基地返還が発表されて以来六年。結局は政府が考えていたとおりの、基本的には、アメリカに占領されていた時代の辺野古埋立―巨大な新基地を日本政府が財政負担して建設する計画に落ち着いた」
(七つ森書館 由井晶子『沖縄 アリは像に挑む』より 以上要約)

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 写真は米軍作成のイメージ図であり、国道329キャンプシュワゲート前の辺野古テント村に掲示されている。
<キャンプシュワブ>は辺野古に隣接しており、国道329号の西側内陸部のシュワブ訓練地区と東海岸のキャンプ地区に分かれ、キャンプ地区には活断層が走っているといわれる辺野古弾薬庫がある。
1950年代は砂川闘争を頂点とする本土の基地闘争が激化していた。本土の反米反基地反核感情を懸念した米政府は山梨県、静岡県、岐阜県の海兵隊を沖縄に移駐させた。キャンプシュワブは沖縄地上戦で戦死した海兵隊員の名前をとって1956年11月から運用が開始されている。先のイメージ図にある通りキャンプシュワブは核が常在する海兵隊基地でもあった。在日米空軍の横田基地弾薬庫には今も核運用部隊が常駐しているのだから辺野古弾薬庫も同様であると思われる。

3) 沖縄に来たら安和桟橋の土砂搬入阻止でしょう !!
4月17日は水曜日、毎週水曜は名護の琉球セメント前の安和桟橋からの埋立土砂搬入搬出阻止集中闘争日であり、朝7時半からダンプ1台でも1分でも遅らせる抗議行動が展開されています。

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まず合法スレスレの順法闘争は、①国道に数珠つなぎになって一台づつ右折して入ってくるダンプを遅らせるため横断歩道をゆっくりと青信号から赤に変わる直前までの「牛歩」戦術、②桟橋入り口でのスタンディングと何回も何回も回る「ぐるぐるデモ」戦術、③桟橋前の国道をゆっくりと走る「エコドライブ」戦術、④出港時のカヌー隊がぎりぎり船まで近づいて海保との「いたちごっこ」戦術として展開されているのです。
 陣頭指揮の山城博治さんがシュプレコールを連発する「土砂搬入を阻止するぞ」、それに答えて「ワッショイ」「ワッショイ」、抗議は約150人、カヌーは15艘が出た。大幅に出港が遅れた積み出し船は午後4時に出ていくが、カヌー隊と岸の部隊が呼応しエールを交換、加藤登紀子の「美しき五月のパリ」のメロディに乗せて、{辺野古を返せ}が歌われる。<<座り込めここへ 今こそ立ち上がろう>>
続いて、沖縄返還闘争で歌われ今も反基地闘争のシンボルになっている{沖縄を返せ} だ。
<<沖縄を返せ かたき土を破りて 民族のいかりにもゆる島 沖縄よ 我らと我らの祖先が 血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ 我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ>>
我々も沖縄の人々の抗議活動の輪の中に入って、こぶしを空に突き上げて必死に抵抗する、力を合わせて巨大なものを押し返えさなければならない。現場に立てば学生時代のエートス(心性)が蘇ってくるのです。
抗議活動が無ければ通常10トンダンプ300台×3回が入り、3艘の積み出し船が出る。この日の戦果アギヤーはダンプ10トン換算で170台搬入に止め、満載できないままの2艘が大幅遅れで出航した。
 沖縄県の独自の辺野古新基地建設の工期試算は辺野古・大浦湾の二本の活断層と軟弱マヨーネズ地盤が発見される前でも10年であったし、今、建設工事を止める沖縄県の権限と辺野古反対の7割のウチナンチュの民意が加わっている。
一日中マイクを握って阻止行動を指揮している山城博治さんは「逮捕者は1名も出さないと戦いと」言う。沖縄の変革主体である市民を中心に、10年以上は続くであろう辺野古新基地建設反対運動の本質なのではないのだろうか。
 横田基地の爆音訴訟原告の方とお会いした。16日は高裁那覇支部で「普天間爆音訴訟」原告約3千4百人のへの判決言い渡しがあったとのこと。

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安和桟橋での集会のあいさつでは、「普天間爆音訴訟」の島田団長がマイクを握り腹の底から判決への強い怒りを表明した。「判決は一審から後退したものであり司法に希望を持てない。地位協定で日本は米軍基地の管理権を持っていない。立派な当事者行為なのに砂川事件以来の第三者行為論を持ち出してきた。こういう裁判を受けるのはみっともないことだ」
ちなみに、基地爆音訴訟は普天間基地、嘉手納基地、岩国基地、厚木、横須賀基地、横田基地の周辺住民原告合計約2万人によって争われています。
いつも我々に「沖縄現地報告」を送ってくれている、沖韓民衆連帯平和ガイドのOさんから土曜会の紹介があり、「辺野古に基地はいらない」の土曜会沖縄ネットワークの旗二本とともに明大のY氏が連帯の挨拶をしました。「今回は13名でしたが昔の学生運動仲間に呼びかけ沖縄連帯を進めます」、拍手拍手をいただきました。
僭越なのですが、福島でもそうであったが、沖縄アクションを通した本土全共闘世代の
もう一度の社会復帰を願ってやまないものであります。

4) 沖縄に来たらキャンプシュワブ前の座り込みでしょう !!
18日朝、シュワブ前テント村まで徒歩10分。オール沖縄が支援している「民宿クション」に旅装を解いた。まるでバックパッカースタイルの宿なのである。夕食は400円、朝食付き宿泊は2000円というありがたさだ。
毎朝8時から抗議行動が行われている、シュワブ前の工事車両出入り口に行く。搬入ダンプは午前9時、午後1時、午後3時にまとまってやって来て数珠つなぎになる。
「機動隊は座り込みの邪魔をするな」「機動隊は市民を守る任務につけ」、「ワッショイ」の声が聞こえてくる。この日9時前には約150人の座り込みの隊列が出来ていました。

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「現場の力で搬入を阻止しよう」「ワッショイ」「ワッショイ」。ふと思い出したが、前日のカヌー隊からの挨拶と本日のマイク指揮をしているのは1960年沖縄生まれの芥川賞作家の目取真俊さんではないだろうか。
ここで{辺野古の海を返せ}の歌を、次に{沖縄を返せ}、鬼太郎の替え歌{ゲゲゲのゲート}、リンダの{こまっちゃうな機動隊}が歌われていく。{辺野古を返せ}は沖縄返還の時のシンボル歌だが、今も反基地闘争のシンボルとして歌い継がれている。
座り込み隊列の前に青服の機動隊が立ちふさがる、「機動隊、排除警告はまだ5分早いぞ」「そうだそうだ」、だが排除開始の号令でごぼう抜きが次々と始まる。
ダンプ搬入のちょっとした合間を見て、また隊列が組まれ座り込みが再開される。だから一日5回から6回は強制排除されるのである。

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今、そして振り返れば沖縄戦の後の歴史性からも平和な政治にしようとしているのは、「生活や生命を守る」という根源的なかつ生活者感覚から発せられる民意ではないだろうか。辺野古は、権力という大きな力が小さな力をねじ伏せ押し殺し戦争に傾いていくその歪んだ現場ではないだろうか。
シュワブ前のテント村は人間の居場所である。
隣に座った日本山妙法寺のお坊さんと砂川闘争のことで会話を交わした。沙門のKさんは辺野古に道場を持っており、砂川の妙法寺宝塔を出発起点とする3月のビキニデーと8月の広島平和行進に参加しているので砂川平和ひろばには行きましたと言っておられました。
辺野古アクションを介して、このような市民的不服従のいろいろなつながりと再会が生まれているのだろう。テント村では芝工のYさんが、「辺野古に来れば沖縄の人がなぜ戦っているのか肌身で感じます」と連帯の挨拶をしました。
そういう縁であろう、同日夕刻。明大グループと芝工のS氏はかつて明大生協の職員で辺野古テントに5年前から常駐するH氏と、米兵相手だったかつての辺野古酒場で酒を飲みかわし旧交を温め、辺野古現地情勢についていろいろ教えていただきました。

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5) 土曜会沖縄ネットワークの行動
我々の辺野古前統一行動日は17日、18日であった。明大グループは17日のデモが終わった後に、72年沖縄大学自治会委員長、反戦地主でありチビリガマの平和活動を続けている読谷村の知花晶一さんの民宿に宿泊しました。ここで「沖縄現地報告」を提供しているOさんと再合流しました。翌朝はシュワブ前に合流しました。
芝工・気仙沼グループは20日の毎週土曜に行われている「辺野古デー」まで戦い抜いた。
 明大のSとHは昔の伝を頼って19日夕刻、那覇で「沖縄タイムス元論説委員のNさん」「沖縄平和市民連絡会のOさん」と台湾料理居酒屋で合流した。昔談議にひと花咲かせた後、Nさんから全共闘世代の在沖の活動家はいろいろ紹介する、土曜会沖縄ネットワークの沖縄現地展開については協力するとの言葉をいただきました。
本現地闘争報告の最後として、沖縄タイムスNさんの玉城デニー知事評価といたします。
①3区補選に出ている「屋良」は、僕の後輩記者で基地問題には熱心な男だ、ああいう男が国政に加わるのはいいことだ。だからデニー知事も押したんだろう。
②デニーは彼が選挙に出た最初から着目していた。既存の政治の枠の中に身を置き、その序列に甘んじることはいさぎよしとせず壊してきた。
③平和だのみの革新スタイルには違和感をずっと感じて来た人だ。
④デニー知事はアィデンティティーからも差別を受けたであろう。そういうことを知っている人だ。
⑤官邸筋は、デニーは政治経験も薄くあいつはバカだと言っているが、評論家の森本が官邸にご注進したように、「ああいう男がこれからの沖縄を変えていく」のではないかと実は内心危機感を持っている。だから翁長さんはそのことを良く見抜いて後継者の一人に押したのだろう。

【Nさん】:1950年那覇に生まれる。東京外大OB、都庁勤務を経て74年沖縄タイムス
入社。医療、福祉、環境担当、78年基地問題担当を経て学芸部長、編集局長、取締役論説委員などを歴任。現在、客員論説委員。
追伸:Nさんの、沖縄の変革誌「越境広場 5号(2018.11)」での仲里効さんらとの座談会「復帰後の沖縄を巡って」での発言や「戦後沖縄の転換点―自立をめぐる攻防の行方」での論調については後日紹介いたします。
 
(終)

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【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月7日(金)に更新予定です。

今回のブログは、4月6日に開催された「明大土曜会」での沖縄・辺野古報告である。「明大土曜会」は明大出身者に限らず、芝工大や日大などを含めた幅広い人たちが集まる場であり、毎回、ゲストを呼んで話を聞いたり、情報交換を行っている。
4月6日は、沖縄問題に取り組んでいる明大二部出身のN氏から最近の沖縄・辺野古の状況について報告があったので、その内容を掲載する。

「私は毎月、救援連絡センターのニュースに『辺野古レポート』を書いています。最新の辺野古、高江、沖縄をめぐる情勢をできるだけ事実に即して報告し、あまり主張とか押し出さないスタイルでやっています。
 皆さんも沖縄に関心のある方が多いので、大体はご存知だと思いますが、近々の動きで言うと、例の辺野古への土砂投入の段階ですけれども、3月25日に第二工区に新たな土砂投入を開始しました。前回からやっているものとあわせると、面積でいうと4分の1くらいということです。

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辺野古崎をはさんで浜のあたりを土砂投入を始めているわけですが、比較的浅い海域なので工事がやりやすいというか、本来の工事日程からすると、実は大浦湾の方からやることになっていたんですけれそも、それ自体が工法変更なので、本来なら変更申請しなければいけない部分ですが、それを無視して浅瀬の方から今始まっているところです。
2月24日の県民投票で、投票者総数の72%ではっきり出された『辺野古基地反対』ということを全く無視をするというか聞く耳を持たない形で進めてきています。それは現在もなお連日続いているという状況です。
土砂の積出港については、名護市安和の琉球セメントという民間会社の桟橋から、土砂を台船に載せて、ここまで持ってきて土砂投入する、K-9護岸にいったん下ろして、そこからトラックでまた運んできて、どんどん投入するという状況が毎日毎日続いています。積出港の安和は沖縄の中でもかなり辺鄙なところで、そんなに簡単に行ける場所ではないんですけれども、地元の島ぐるみ会議の人たちが中心となって抗議行動をやっています。毎日毎日動員はできなくて、毎週水曜日が集中行動日ということで、その日は100数十名くらい集まって抗議行動をやっているということです。抗議行動も、辺野古のキャンプシュワブのように座り込みできるようなスペースがなくて非常に危ない。琉球セメントの敷地ぎりぎりに道路が走っているので、座り込んでいるような場所じゃないので、順法闘争ということで隊列を組んでワッショイワッショイしながら、トラックが100数十台くらい来るんですが、県道からゲートに入るには右折しなくてはいけなくて、どうしても青信号を1回見てから右折しなくてはいけなくて、せいぜい1台くらいしか入れないらしい。それを3台くらい入れたいらしいんだが、阻止しようということで、歩道をゆっくり歩きながら妨害するという順法闘争をしながら、ダンプの搬入をできるだけ減らすということで、かなりいろんな知恵を絞ってやっているそうです。毎日毎日は大変だけど、水曜日はそれくらい集まるので、相当止められているそうです。それでかなり工事を遅らせているという成果を、それとして挙げていると聞いています。とにかく人が少ないという現状です。
キャンプシュワブの方では、新たな護岸工事が始まっています。辺野古崎のN4護岸を作って、そこからK8護岸まで伸ばしている。土砂の搬入はK9護岸しかないので、新たに護岸を作って、そこを搬入する拠点にしようと狙っているのではないかといわれている。そこに山石など投入して護岸を作っている。ここにもサンゴが残っていて、最近のニュースだと貴重なサンゴが辺野古崎に何点かあるんだけれども、それを移植しないままやろうとしている。防衛省の方は移植する対象ではないと相変わらず開き直っているんですけれども、実は移植すべき貴重なサンゴがここにあるという指摘もされています。そういう工事が今、着々と進んでいる。
一方で。工事は進めていますけれども、全体的な構想でいいますと、この間言われていますが、大浦湾側の方がマヨネーズ並みという軟弱地盤が広がっているということが分かってきて、数年前から指摘されていたんですが、防衛省はなかなか認めなかったけれど、今年になってついに認めざるを得なかった。いろいろと調べてみると、大浦湾側の予定地域のほぼ6割から7割くらいに広がっているのではないかといわれている。最大深度で水面下90メートル、70メートルくらいのところも相当広くある。それを地盤改良しないと出来ないので、最近の話だと砂杭(鋼管を打ち込んで内部に砂を流し込み、杭状に固めて鋼管を引き上げる)を打ち込んで、それを地盤にして、その上に作るという、それが計算上では陸上部も含めて7万7千本、大変な量なんです。試算では650万立方メートルという砂が必要だと。これは沖縄で3年から5年分の採取する量なんです。沖縄県の工事を全て止めてここに投入できるかという話で、それだけの砂をどこから持ってくるのかという見通しも見込みも全く立っていない、というような実態があるんですね。一方、90メートルになるところもあって、実績でいうと、90メートルに及ぶ砂杭を打てる船とか設備はないということです。70メートルしかないし、国内に数台しかない。ほとんど実績もないし設備も整っていない。なおかつ90メートルの地盤改良には足らないわけで、どうするんだと言うと、70メートル下は固い地盤ですということを言っているんだけれども、聞いてみると、実際のその場で測ったんじゃなくて、近くを測ったものを流用して、そういうことが想定されるという全くいいかげんなことを言っているみたいで、そこまでのデタラメなやり方なり説明をして進めているということです。いわば言葉でごまかし答弁をして、それで多少は世論をごまかせるかもしれないけと、土地は地盤はごまかせませんから、それが破綻するのは目に見えている。しかしながらとにかくやるんだということです。しかし、ここまで大きな変更になると、さすがに変更申請しなくてはならなくて、変更申請の対象は県知事なんだけど、県知事は絶対に認めないと言っているので、変更申請しても認められる見通しはないんだけれども、場合によってはそれも裁判で訴えて強引にやるかも分からない、という話もあります。
それともう一つは、この前からいわれている活断層。楚久断層と辺野古断層が交差するあたりに、相当の活断層が存在していることが前からいわれていて、先日、地質の研究者などが改めてその周辺を調査したらしいんですね。音波探査などやって、明らかに活断層があるということを報告しています。防衛省も実は知っているはずなんだけど、そういうことはありません、と開き直っていて、調査状態も発表していないので、調査の公表を求めているそうです。ただ、活断層もかなり新しい年代だという説もあって、もし仮に活断層が実際にあるとなれば、米軍は絶対に認めませんので、そういう欠陥空港を仮に作ったとしても、果たして米軍は、ありがとうと、使わせてもらいますと言うかどうかも疑わしいという全く展望のない状況があります。それが最近の動きです。
今後の見通しについては、私の方でとやかく言えるわけではないんですけれども、土砂投入については来年の夏くらいまでかけてずっとやろうということのようです。現地の方からの要請としてはとにかく人が少ない。闘争の現場がキャンプシュワブだけだったのが、4月から元々積出港にしていた本部の塩川港が、台風被害の補修工事が終わったので、それもまた始める。そうすると、キャンプシュワブと塩川と安和と3箇所が現場になっているので、こちらも人が足りない。とにかく1人でも多く現地に来て欲しいというのが現地の声なので、僕らもできるだけ辺野古に行こうよということで、4月5月からキャンペーンを始めて、派遣カンパだとか人の募集などやっていこうとしています。それが現地からの切実な声ということです。

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3年前の高江でのヘリパット建設強行に対しての反対運動を封じ込めるため、全国の都道府県から機動隊が派遣されたんですけれど、その中で特に警視庁の機動隊が派遣されたことは違法だということで、訴訟を始めたんです。私も原告の一人ですが、東京都は警視庁に都民の税金を不当に使ったので、都知事が警視庁に返還を求めるという請求なんです。被告は小池知事。東京都の方は門前払い、争点にならない、通常の給料を払っているので特別ではないということを言っているんですけれども、裁判長がかなり関心を示してくれていて、実質審理が始まって証人尋問が始まったんですね。ついこの間も3月20日に証人尋問がありまして、3回目が4月24日、是非よろしかったら来て下さい。画期的な裁判になったし、第一回目が重久という警察長の中でも高級エリートで、この高江の機動隊派遣のためだけに、警察庁(警察庁警備局外事情報部国際テロリズム対策課理事官)から出向して、その期間だけ沖縄県警の警備部長に就任したんですね。終わったらまた帰ってきて、今、警視庁警備1課長をしている。その人の証人尋問をしました。それと昆虫研究家とか映像作家とか弁護士の証人尋問がありまして、今度は、高江で実際にヘリパットに反対する住民の人2名と土木技術者と原告の1人の証人尋問をするというこになります。
以上です。」

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明大土曜会の沖縄ネットワークでは、この「明大土曜会」の後、4月16日から4月19日まで、沖縄・辺野古現地統一行動に参加した。詳細報告は次回のブログに掲載予定であるが、統一行動の写真を何枚か掲載する。

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(土砂搬入抗議)

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(土砂搬入抗議)

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(辺野古ゲート前)

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(本部・塩川港)

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(強制排除)

(終)

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No 516  重信房子 「1960年代と私」第二部第3回(1967年)の後半です。
文章が長いので2つに分けました。
前半では、「7.全学連の活動ー砂川闘争」を掲載しています。  

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)

8.67年の学園闘争の中で
 67年街頭行動の中で、一番鮮明に忘れることができないのが、10・8羽田闘争です。あの経験は私に、学生運動ばかりかその後社会に出ても教師として働きながら重視しようと考える生き方に導いたといえます。67年は、私はまだ学苑会の財政を担当していたと記憶しています。66年の対案によって、日共系から学苑会執行部を、いわゆる三派系の学苑会に転換して以降、たしか5月の定例学生大会だったと思いますが(もしかして、それ以前にあった「2・2協定」に関する3月の臨時学生大会だったかもしれない)私は財政担当として、会計報告の中で、民青の時代の不正を糾弾しました。この時の大会は、66年12月1日の一票差で勝利した大会と違って、大きな差で三派系が勝利しています。私は、民青から引き継いだ会計帳簿を一つ一つチェックし、日共系の暁出版印刷所の領収証が実際より多いと感じたので、私は印刷所に行って、原簿をチェクしてもらい、実際に支払われた額を書き出したうえで、領収証の総計額の書類を再発行してもらいました。2回の印刷代数万円が水増しされているのがわかりました。それを示しながら、民青時代の帳簿の不正を学生大会で報告しました。印刷所の方も、私たちが三派系とか理解していなかったのか、妨害することもなかったので、正確な数値が得られたのです。民青は「清廉潔白」をこれまでも主張していたので、ダメージでしたし、日共内の中国派のパージと重なり、急速に学苑会奪還や「民主化」の中央奪還の活動は退潮していき、商学部、法学部自治会死守体制をとり、文学部民主化委員会など、学部活動にシフトしていきました。そのころか、その後のことですが、ブントの現思研活動に対して脅威を感じていたのか、今度は、ML派に属していた会計監査委員が、私の会計処理の領収証に不正がある、デパートの食品や衣料の領収証があったとして告発をはじめました。私に直接問い合わせや審査を行わず、ML派に報告し、ML派からブントの指導部に話を持ち込んだことがありました。それによって、私に自己批判を迫り、私を辞めさせようとしたのか、他の交換条件があったのかわかりません。私は、こうしたやり方で自治会のことを党派問題にしたことに、ML派に大いに憤慨しました。まず、「私の会計処理は正当だ」とブントの人に言いました。「ML派こそ自己批判する必要がある」と伝えました。ブントの人は驚いていました。これは実際に「不正領収証」だったのです。理由は、学苑会委員長であり、全二部共闘会議議長のML派の酒田さんの授業料の一時穴埋めだからです。66年12月の学生大会対案人事で酒田さんに委員長になるよう説得した時には、授業料が払えず除籍になりそうというので、私が会社を辞めて貯めていた虎の子貯金を貸しました。それも返せず、3月再び授業料支払いが求められる季節となり、「2・2協定」後の処分含めた大学側との闘いにおいて、委員長を除籍させるわけにはいかないと、中執内部で会議をして決めたことなのです。酒田さんが返却するまで一時的に中執財政で立て替えること、その会計処理は私にお願いされた訳です。ML派も、立て替える考えもないし、私含めて、他人の授業料をもう払えなかったからです。私は「ML派の会計監査委員が、問題を党派的に歪曲したのは許せない。学生大会で、すべて経過報告する」といきまいて怒りました。しかし、ML派が謝ったので、そうはしませんでした。そのかわり、私は大会の新人事で私の財務部長の他、副財務部長にML派の人間を置くよう要求しました。ML派に監視と責任を分担し、公明正大を証明してみせようと思ったからです。この人事は、たしか67年5月の大会だったと思います。ところが、この財務副部長のK君は、数か月の夏休み明けから大学に来なくなり、一時金として常時支払いのため彼が管理していた金を使い込んだと謝りに来て、そのまま辞めたいと言い出す始末でした。「使い込んだ金は働いて返す、ML派には言わないで」と言い、その後連絡不通になりました。もちろん中執会議で報告しました。ML派とは、以来、冷ややかな関係となりました。また、卒論もあり、10・8闘争後の67年秋の大会で、財政部長は現思研の宮下さんに後継してもらい、学苑会活動は、一切、引き受けないようにしました。現思研が拠り所であり、また、卒論や、アルバトも多忙だったためです。
 また、この66年から67年は、日共系の学生たちとの主導権争いがとても激しかった時代です。66年にはじめて日共・民青系の人たちの激しい暴力を目撃したことがあります。これが初めてで、衝撃的でした。三派系(都学連系)は、ラジカルでも、民青のソフト路線では考えられない光景だったのです。明大本館で、全国寮大会が開かれました。当時は、今の武道館の建つ前から、そこには近衛兵の駐屯宿舎がありました。戦後、そこは苦学生たちの寮となっていて、「東京学生会館」(東学館)と呼ばれていました。そこにはまた、活動家の拠点として、ML派などが活動の場にしていました。「東学館闘争」の立て籠もりなど、退去と建物の破壊に抗議した闘争を経て、66年11月、学生たちはこの東学館から追放されました。それ以前のことだったと思いますが、この全寮連の大会において、執行部の奪い合いで激しい対立となったのです。当時の全寮連の執行部を牛耳っていたのは日共・民青系で、御茶の水女子大など、いわゆる反日共系の寮の代表に対して資格がないから大会への入場を認めないと対立が続いていました。結局、どちらが次期執行部を形成するのかの争いであり、また路線的には米帝に従属した日本政府の文部行政を批判し、「諸要求貫徹」を主張する日共系に対する反日共系の闘いでもありました。日共系は、鍬の柄のような棒を持った防衛隊を組織し、入場に押しかける反日共系を入場させないと、暴力的に渡り合っていました。2階から突き落とされ、頭から血を流し、よく死なずに済んだというような流血が続き、双方多数の怪我人が出ました。
 学生会館にいた私たちは、緊急救援を頼まれて、怪我して本館中庭に倒れている学生を、青医連の友人たちに治療してもらうために走り回りました。本館の現場に駆けつけてみると、代々木病院からの救急車が正門脇にすでに停まっていました。代々木病院の救急車隊は、倒れている人に「大学は?え?こいつはトロッキストの方だ」などと言いながら負傷した学生を選別して放り出したりしているのを目撃しました。「ひどじゃないか!」と私たちは泣きそうなほどの衝撃を受けながら、倒れている者たち、選別排除の目にあった者たちを立て看を担架代わりにして、次々と学館に運び入れました。「民青が・・・」話す程に、どくどくと流血します。糸は木綿糸まで消毒して縫っていたけれど、大丈夫なのか・・・と怖くなりました。一方、民青は、会場封鎖をして寮大会を続け、「トロッキストの妨害にもめげず、新方針、新執行部を選出した」と後の日共機関紙「赤旗」にも載っていました。
 私は、反日共系の側にいるわけですが、民青の偽善的振る舞いにはうんざりするのですが、本音では、どうして反日共系は先に手を出してしまうのかが不満でした。いつも民青系は、やられてからやり返すと思っていたのですが、この寮大会の時は、まったく違っていました。民青の人たちは譲れない時には、暴力を「正当防衛」として先に手を出すものだと知ったのはこの時です。
 67年か68年に、明大二部の民青が本格的に暴力を仕掛けてきたことがありました。きっかけは何だったのか・・・。とにかく明大二部の民青の勢力がずいぶん削がれてしまったことが一つ大きな危機感だったと思います。また、三派系が民青のビラ撒きなどにも暴力をふるったりしたことが原因だったかもしれません。日共系に対し、三派系は横暴でした。学苑会執行部ばかりか、生協二部の学生理事選挙でも、日共系は敗れて、議席を失っていました。残っている商学部と法学部自治会を拠点に、「政経学部民主化委員会」や「文学部民主化員会」などを立ち上げて、巻き返しを図っていました。クラスに討論やビラ撒きに入ると、日共系と反日共系が教室でぶつかって論争もしていました。時には、三派系の活動家たちは、民青系の学生を無理やり三派系の自治会室に連れ込んできて、「自己批判要求」なども暴力的に行っていて、民青、日共の神田地区委員会で、我慢の限度にきていたのだろうと思います。
 ある日のこと、夜9時を回っていて、最後の授業が始まり、みな現思研の仲間も教室に向かい、私は一人4階の現思研にいました。
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(学館4階平面図・現思研は学生新聞委員会室)
「うオー」というようなとどろき、「あぶないー!」「民青の襲撃だ!」遠くで怒鳴り声がしました。「日共の暁部隊はすごい」「中大では民青の方が暴力的だ」など、ブントの人たちから話は聞いていたので、民青が攻撃を仕掛けてくることを、私たちも話題にしていました。来た!私は現思研の部屋(マロニエ通りに面した4階)からすぐ走っていって、反対側にあるエレベーターが3階にあったので、それを4階に上げて非常ボタンを押して停止させました。エレベーターを日共系に支配させないためです。そして、そのすぐ脇の階段用の鉄扉を閉めようと急いで手をかけ、民青が来るのを遮断するべきだと思いました。襲撃隊は、すでに3階の学苑会に到着したのか、ガラスの割れる音や怒鳴り合い、ドアを突く豪快な音がしています。覗こうとしたら、その一瞬に3階から4階へと黄色や白のヘルメットをかぶった集団が駆け上ってきました。「いたぞ!重信がいるぞ!」と先頭で2段跳びに駆け上がってきたのは商学部の民青のリーダーの和田さん。ぎょろ目でいつもキャンパスで反日共系に立ち向かい論争している闘志満々の人です。私はあわてて鉄扉を引き、閉めてカチャリとロックしました。間一髪で遮断しました。カンカンカンカンと鉄扉を叩き、しばらく怒鳴りながら鉄扉を壊そうとしていましたが、しばらくするとあきらめたらしく静かになりました。3階や隣の学生会館旧館の方に走っていったようでした。
 旧館には、各学部自治会室があります。こちらの新館の4階には現思研のいる新聞会室以外、和室、会議室がありますが、調べてみると、4階にいたのは、夜9時から10時近いため、私以外誰もいませんでした。それも知らず民青は隣の旧館の窓からガラス張りの新館4階に板を渡して渡るつもりか、うかがっていました。私は会議室すべての電気を付けました。民青の行動が、ちょうど授業を終える学生たちによく見えるようにするためです。そして、現思研の新聞会室に戻り、ドアをロックして、ベランダからマロニエ通りの学生たちに呼びかけました。「学友のみなさん!民青が地区民青や日共の人を引き連れて、ただ今、学館を襲撃中です。この暴力を監視してください!」と叫びました。ロープや板を渡って新館に乗り込んでも、民青が私の部屋に入るには、もう一つドアを壊さなくてはなりません。私もハンドマイクはないので、大声で訴えました。最後の授業を終えて夜間部の学生たちがぞろぞろと出てくる時でした。私の方からは、何人の民青襲撃隊が加わっているのかは見えず、分かりません。ただ、「日共の暁部隊には半殺しにされる」と中大の友人からも聞いていたので、現思研でも時々話題になっていたのですが、それが現実になりました。
 当時の千代田区など第一区の選挙区の日共の衆議院議員候補は、紺野与次郎さんで、私の中学時代の仲良しの友人の民子さんの父親でした。「大丈夫よ、もし日共に拉致されたら民子さんのお父さんに訴えればいいから!」などと軽口をたたいていたのですが、本当になってしまい、驚きつつ、下には学生仲間がいるので、闘争心の方が湧いてきました。続々と学館の下に集まった友人や野次馬が「日共は暴力を止めろ!」「ナンセーンス」と大合唱しています。そのうち、雄弁会の友人で地理学科のMさんが、「警察が来たぞ!」と大声をあげました。すると、あっという間に日共・民青は撤収を始めて、さっと消えてしまいました。撤退時は隊列を組みつつ全力疾走です。警察は来ませんでしたが、Mさんの機転だったのです。
 民青は「暴力はふるわない」ことを原則としており、こんな暴力を白日にさらしたくなかったので、逃げ足は速かったのです。
 もう1回の次の攻撃は、その後のことです。67年末か68年初めのことか、学館を道をへだてた大学院裏の校舎の1階で、民青と反日共系が長い旗竿で小競り合いを始めました。解放派やML派ら文学部の自治会と民青の対立のあった時です。
 この時の私は、やはり4階にいて、マロニエ通りを見下ろしました。そこに大学院の裏の方からマロニエ通りを通ってデモ隊が整然とピッピッピッと笛に合わせて駆け足でかけつけてくるところでした。水色のヘルメット部隊の助勢です。4階のみんなは援軍に手をたたき、下の野次馬や学生たちも拍手していたところ、突然、反民青の部隊を襲撃し始めたのにはあっけにとられました。社青同解放派の党派性は水色のヘルメットなので、てっきり救援隊が仲間と思ったのですが、これが民青部隊だったのです。「あっ、そういえば民青全学連のシンボルカラーは青だ!」と誰かが叫びました。全学連防衛隊というのができ、トロッキストを粉砕するために駆けつけたということなのです。この時も、背後から100人ほどが襲いかかり、反日共系は防戦に追い込まれ、コーナーに押されていた日共系の学生の血路を開くと、あっという間に撤収するという見事な動きを示していました。
 よく訓練された組織された暴力に、現思研の仲間たちと感心してしまいました。しかし、大学祭などは、右派も民青の人々とも対立するばかりではありませんでした。
 私自身の当時の関心や活動についても、ここで触れておきたいと思います。研連での合宿や行事、ことに秋の駿台祭の文化祭にはみんな協力し合います。駿台祭には昼間部も夜間部も、駿河台校舎を使う者たちが、共同して駿台祭実行委員会を結成します。66年にはそこで共同した応援団長のSさんらの協力のもとで、その後の学費闘争の時にはいろいろ助けられました。
 体育会の危険な自治会破壊攻撃に、応援団は「中立宣言」して、体育会の動きに歯止めをかけてくれたし、本館で使用していた貸布団が体育会の占拠で妨害されて運び出せないのを、応援団員を動員して片づけを手伝ってくれました。貸布団屋に代金を支払う私には、当時、布団を失うことは深刻な問題でした。
 文化祭プログラムは、民青など含め、研連と昼間部の文連(文化部連合会)、応援団と協力し、学園祭はサークル中心の展示・発表・講演の催しをやります。実行委員会で大きな講演や、広場での打ち上げパーティーも企画しました。
 67年には、右翼体育会の拉致や暴力が2月は猛威をふるいましたが、入試も終わり、新入生を迎えると、彼等は野球部の島岡監督の指揮で神田から引き上げ、生田など合宿所に戻っていきました。応援団は神田にいるので、引き続き交流していました。
 67年の文化祭では、私も企画を担当しました。そのころ、「少年サンデー」「少年マガジン」「ガロ」などマンガが大学生の読み物となっていると、社会的に話題になっていました。なぜマンガが流行するのかといった「マンガ世代の氾濫」を問う企画をつくりました。また、当時、吉本隆明が学生に読まれており、そのことにも注目しました。そこで、「ガロ」に執筆していた上野昂志、マンガ評論の石子順三、最後の講演を吉本隆明として企画し、駿台祭に招請しました。その前年、66年には、私たちは羽仁五郎を「都市の論理」の著者として招請しました。「交通費しか払えないが、講演をお願いしたい」と私は交渉しましたが、「講演料はきちんと払ってもらいたい」と言われましたが、講演後、始めからそのつもりだったのでしょう。交通費分も含めて、すべてカンパしてくれました。
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(「都市の論理」広告)
 65年は、小田実も記念館でベ平連運動について話をしてもらいました。ML派の人らがベ平連批判と質問をすると、「ベトナム反戦に関して、君たちは君たちのやりたいようにやったらいいでしょう。同じように、他の人がやりたいようにやるものまた、自由に認めるのが民主主義だ。ベ平連は各々自分のやりたい方法で、やれる方法でやる。私もそうだ。文句をいわれる筋合いはない」と返答していたのを覚えています。67年の学園祭の吉本隆明の講演は、ちょうど10・8闘争後の遅くない日となったので、10・8闘争について吉本の考えを知りたいと、学生会館5階ホールには入りきらないほどの学生が集まりました。ちょうど、10・8闘争に関して知識人、文化人と呼ばれる人々が「暴徒キャンペーン」を張る政府マスコミに対抗して、警察の過剰警備による弾圧を批判し、学生たちの闘いを孤立させまいと奮闘している最中だったのです。吉本は、10・8闘争に関してそれまで発言していなかったので、学生たちへの「支持」をみな期待し聞きたかったのです。ところが、おもむろに口を開いた吉本は、評価する、しないと表明すること自体がナンセンスなのだと述べて、みんなをしらけさせました。知識人の主体性とは何かを語り、自分のやり方で表現していると述べたのです。学生たちが吉本に期待したほど、吉本の眼中にには学生たちの闘いが評価されていないことが、よくわかったのです。私自身は、67年10・8闘争までは詩作をしていたので、吉本の「詩」や「抒情の論理」などの本を読んだことはありましたが、思想的影響も受けていなかったのですが、友人の中にはがっかりする者もいました。
駿台祭のこうした講演のほか、日共系の社研(社会主義科学研究部)や民科(民主主義科学研究部?)のサークル展示には支援し、当時のベトナム反戦など研連でも共同したりしました。私の所属していた文学研究部は、部室を開放して、「駿台派」という同人誌を販売している程度だったと思います。67年は、その「駿台派」の編集長として、私も短編から詩、エッセイを編集していました。この67年には、自分の情念の広がりや突出を詩の中で格闘していた感じです。世界・社会を変えることができるという思いと、自分の意思を政治的な言語でなく、何とか表出したいと考えて、現代詩に熱中していたように思います。政治的言葉、ことに学生活動家たちの自己陶酔的なアジテーションのパターンの政治用語から排されている心情を表現したいという思いにかられていたのです。「駿台派」では、小説や評論で、詩の発表の場が不十分と感じて、文研の詩人仲間に呼びかけて、67年には詩集「一揆緑の号」を発行しました。9月に編集を終え、印刷中にちょうど吉田茂の死があり、はさみこみのしおりで「臣茂」が死んでも「臣人々」は生き続ける憂国的心情を記しました。この詩集は、10・8闘争のあと発行されましたが、10・8闘争を契機に、私自身は詩作を一旦やめて、政治的声を拒否せず聴こうと思ったのです。
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(詩集「一揆緑の号」)
「やりたいことをやり、なりたい自分になる」「自分の欲望・意志に忠実に生きる、生きることができる!」そんな思いにあふれていました。社会を変えられると信じていました。高校を卒業して就職し、新卒新入社員として社会に出た64年から65年に大学に通える道を見つけ、夢中で「学生」をやっていたといえるかもしれません。
大学生活、学習も詩作もアルバイトも、学生運動も、すべてが楽しくて充実感を味わっていました。自分一人の人間の能力は限られているけれど、思いっきり自分の可能性を開いて生きようとしていました。寝る間を惜しんで、常に好奇心を持って前向きなエネルギーにあふれていた自分を今、振り返りつつ、その情熱を認めることができます。しかし、当時、私に欠けていたことを、今ははっきりわかります。自分のことに精一杯だったのです。友人たちの悩みや困難に一緒に悩み、耳を傾け、解決に尽力していたつもりでしたが、今から捉え返すと、自分の関心角度からしか結び合っていなかったのだろうと思います。それを若さというものかとも今は思います。そうしたあり方は友人にも、家族、特に父や母に対しての配慮を欠いていました。大学を受験し、自分の意思通りに生きる私を、家族はみんな応援してくれました。そして学生運動にも理解を示してくれました。私も何でもすべて家族に、特に父親に語りました。
でも、私が両親や兄弟たちに支えられていたほどには、私は家族をかえりみる余裕がなかったのだと、今ではとらえ返すことができます。若さは身勝手で思い切りよく、時には傷つけていることを自覚できないものなのでしょう。
このころ、替歌もたくさんバリケードの中で歌われました。学費闘争のころには校歌や明大の戯れ歌(ここはお江戸か神田の町か 神田の町なら大学は明治・・・)なども歌っていましたが、ブントの歌もありました。67年にはブントの先輩たちが歌う「ブント物語」の歌(「東京流れ者」の曲で歌う)を知りました。この歌をコンパなどでインターナショナルやワルシャワ労働歌で締める前に、みな楽しんで歌っていました。「ブント系の軽さ」といえますが、なかなか当を得た戯れ歌です。

 ブント物語
1.ガリ切ってビラまいて一年生
  アジッてオルグって二年生
  肩書並べて三年生
  デモでパクられ四年生
  ああわびしき活動家
  ブント物語
2.勉強する気で入ったが
  行ったところが自治会で
  マルクス レーニン アジられて
  デモに行ったが運のつき
  ああ悲しき一年生
  ブント物語
3.いやいやながらの執行部
  デモの先頭に立たされて
  ポリ公になぐられけとばされ
  いまじゃ立派な活動家
  ああ悲しき二年生 
4.デモで会う娘に片想い
  今日も来るかと出かけたら
  今日のあの娘は二人連れ
  やけでなったが委員長 
  ああ悲しき三年生
  ブント物語
5.卒業真近で日和ろうと
  心の底では思えども
  最後のデモでパクられて
  卒論書けずにもう1年
  ああ悲しき四年生
  ブント物語
6.先生、先生とおだてられ
  今じゃ全学連の大幹部
  奥さんもらって落ちついて
  今更就職何になる
  ああ侘しき活動家
  ブント物語

※ 管理人注
この替歌は、「戯歌番外地 替歌にみる学生運動」野次馬旅団編(1970.6.15三一書房発行)には「悲しき活動家」という歌として載っています。
本に掲載されている歌詞と一部違うところがありますが、替歌なので、いろいろなところでアレンジされて歌われていたと思うので、何が正しいということはないと思います。
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(戯歌番外地)

(つづく)

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
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【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
ゴールデンウイーク中はお休みしますので、次回は5月10日(金)に更新予定です。

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(7-8)である。

<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代      (2019.1.11掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」   (2019.1.11掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (2019.1.11掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会    (2019.2.8掲載)
5.67年現思研としての活動     (2019.2.8掲載)
6.67年春福島県議選のこと     (2019.2.8掲載)
7.全学連の活動ー砂川闘争      (今回掲載)
8.67年学園闘争の中で       (今回掲載)
9.10・8羽田闘争へ
10.10・8羽田闘争の衝撃
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
7.全学連の活動 砂川闘争

 米軍による北爆から「ベトナム侵略戦争反対」を訴える国際的な反戦運動が、米欧日で激化し続けていました。朝鮮戦争を上回る兵力を投入しながら、ベトナム人民の北部、南部の強じんな抵抗の前で、米政府は痛打をくらわされていました。米国内の反戦運動は社会に広がり、政府を脅かし、欧州、ソ連、東欧から非同盟運動の主体である第三世界に至るまで米国のベトナム侵略に反対し、ベトナム人民連帯行動を強化しました。日米安保条約を盾に、米国のアジア侵略基地として、日本の米軍基地は侵略の前線として機能していました。兵力の補給、武器の更新、負傷兵の撤退、海軍兵力の寄港と日米政府の様々な密約の中で進められていきます。
 67年1月のベトナム反戦第一波闘争が、12月に再建された三派全学連の初の行動として、羽田へと、400余名が全学連部隊として登場しました。明大は、学費闘争の最終局面でしたが、初代全学連委員長が斉藤克彦さんであり、参加も多かったようです。その後「2・2協定」を経て、斉藤さんに代わって秋山勝行委員長代行のもとで、全学連の第二波行動として、2月26日、砂川基地拡張阻止闘争が行われました。この時の参加か、その後の参加か、私自身の参加記憶ははっきりしません。たぶん「2・2協定」後で多忙で参加しなかったのでしょう。
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(1967.2.26滑走路前での総決起集会)
 ただ、この2・26闘争で三派全学連と反戦青年委員会は、初めて独自の集会を持ち、「反戦勢力」の流れを作り出したと、全学連自身が評価しています。このため、砂川基地拡張反対同盟青木行動隊長は、1,500人の青年、学生、労働者に次のような挨拶をしたと、記録されています。
 「あの11年前の砂川闘争以来、こんなに前進した集会はなかった。これまで抗議集会といっても、基地に近寄ることができず、立川市役所前の広場などに集まって、犬の遠吠えをするだけでした。それが今日はどうでしょう。このようにして今日は滑走路の前で堂々と集会をやり抜いたのです」(77年「流動」8月号より)。67年前半の私たちの主要な闘いは、「2・2協定撤回」「学生処分白紙撤回」と、現思研の組織化であり、学外では、ベトナム反戦・砂川闘争が中心としてありました。その中で、第一次砂川闘争を闘ったのは、全学連の明大の先輩たちであり、この時の逮捕起訴の裁判で、「伊達裁判長判決」が出たことを学びました。伊達裁判長は「米軍は日本国憲法に違反する軍隊であり、基地に侵入したと起訴された全学連の学生は無罪である」と言い渡したのです。ところが検察は、高裁を飛び越えて上訴しました。そして最高裁判決で差し戻しされ有罪になったという話です。当時も、司法権力のいかさまだと、私たちは話をしていましたが、のちに、このころの記憶は、2013年、土屋源太郎さんの話で、1955年の闘いが再び明らかにされているので、ここに触れておきたいと思います。
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(土屋源太郎氏2015年撮影)
 土屋源太郎さんは、伊達判決で無罪を受けた被告の一人であり、当時明大生で、全学連の都学連委員長として活動していました。土屋さんは、「伊達判決をいかす会」を立ち上げ、「砂川伊達裁判判決破棄した最高裁判決は無効」を求めて活動を開始していました。なぜなら、伊達判決を覆すために米駐日大使と日本の外相・最高裁判所長官が判決を巡って会っていたことが示される資料が、米国の機密文章解除の中から発見されたためです。土屋さんの発言は次のような内容です。(「情況」誌2014年11・12月合併号)
 「1950年朝鮮戦争が始まると、立川基地からも米軍機は飛びたち、ベトナム侵略戦争でも拠点になっていった。米軍立川基地もその一環であり、原水爆を搭載できる大型機、高速戦闘機発着の必要から、滑走路拡張が必要となった。1955年5月、砂川町長に政府は基地拡張の通告を行い、126戸の農家と17万平方キロメートルの接収を告げた。これは町の生活破壊であり、砂川町議会を始め、反対を表明して『砂川基地拡張反対同盟』が結成された。これが砂川闘争の始まりだった。この基地のための測量に抗して、機動隊の暴力にスクラムで抵抗し、5,000余が流血の中で闘い抜いた。『土地に杭は打たれても心に杭は打たれない』と青木行動隊長の発した言葉は、その後の闘いの合言葉となった。権力の分断工作、逮捕などに抗して、1956年、反対同盟は全国の人から応援され、全国へも支援を呼びかけた。この時から全学連として砂川闘争に関わるようになった」と土屋さんは述べています。そして、延べ2万5千人以上の学生が砂川に泊り込み、地域ぐるみの支援活動を行ったとのことです。
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(ポスター)
 「1956年10月12日、13日、数千の機動隊に守られて早朝から測量隊が現れた。6,000を超える労働者、学生、市民が座り込み、測量阻止のスクラムを組んで反対同盟と一体となって闘った。この闘いの中で『赤とんぼ』が唄われ、大合唱となり、さすがの機動隊も静かになった。この日、1,000人以上の怪我人、13人の逮捕者が出た。世論の反対の高まりの中で、15日以降の測量は中止になった」。その後のことです。57年の7月8日、早朝から基地の柵をゆさぶり、抗議行動を行った柵がこわれて立ち入れるようになり、基地内に200~300人の人数が数メートル侵入した結果となったようです。当時、都学連委員長だった土屋源太郎さんは、指揮をとっており、この基地への侵入は当然のことと考えていたそうです。
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(基地に突入する全学連)
 「基地に入ると、1.5メートルくらいの高さに鉄条網が数百メートルにわたって置かれ、その後ろから機関銃を乗せた米軍ジープが2台現れた。司令官から基地内に入った者があれば射殺してよいと命令を受けていたという。対峙は昼近くまで続き、国会議員や調達局(測量当事者)、警察と話し合いがなされた。『本日の測量は中止する。双方は同時に引き上げる。逮捕者は出さない』ということで闘いは終わった」のです。
 ところが2ケ月以上も経った9月22日に、米軍立川基地に侵入したとして、労働者、学生、23人が逮捕され、労働者4名、学生3名が『安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反』として起訴されました。土屋都学連委員長もその一人でした。この砂川事件で起訴された7人の被告には、総評弁護団中心に、大勢の弁護団が結成されました。被告側の主張は「安保条約に基づく米軍基地の駐留は、日本国憲法第九条違反であり、基地侵入は無罪」という立場で、「この裁判は憲法裁判だ」として臨んだのです。59年3月30日、東京地裁一審判決は伊達裁判長によって宣告されました。「主文・被告人全員無罪」。主旨は、「米軍の日本駐留は軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため、自衛上やむを得ないとする政策論によって左右されてはならない。米軍の駐留が国連の機関による勧告または命令に基づいたものであれば、憲法第九条第一項項前段によって禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかし米軍は、米戦略上必要と判断した場合、わが国と直接関係ない武力紛争に巻き込まれる危険があり、駐留を許可したわが国政府は、政府の行為により、再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意した日本国憲法の精神に悖る。
わが国が、外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で米軍の駐留を許容していることは、指揮権や軍出動義務の有無にかかわらず、憲法第九条第二項前段によって禁止されている戦力の保持に該当するものであり、結局わが国に駐留する米軍は、憲法上その存在を許すべからざるものと言わざるを得ない。米軍が憲法第九条に違反している以上、一般国民の同種法益以上の厚い保護を受ける合理的理由は存在しない。軽犯罪法より重い刑事特別法第二条規定は、なん人も適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効である」以上が伊達判決の主旨です。
 この「伊達判決」に危機感を持った米日権力者は、司法に介入してこの一審を否定すべく、秘密裏に話し合っていたのです。そのことは、当時の秘密だったので、被告らも知りませんでしたが、この会議の結果、上訴に至ったのです。この最高裁判決によって編み出された「統治行為論」という詭弁が、以降も日本国憲法をを骨抜きにしていくようになりました。最高裁判決いわく、日米安保条約のような、高度の政治性を有するものに対する違憲か否かの判断は、司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見きわめて明白に違憲、無効と認めない限り、裁判所の司法審査権の範囲外であるとして司法判断をしないと決めたのが、「統治行為論」です。「統治行為論」というこの論理によって、以降の「福島裁判長判決(自衛隊違憲論)」を退け、また。「イラク派遣訴訟」や、米軍基地に関する判断回避など、立憲主義の否定、骨抜きは基本となってしまいました。
 司法において、最高裁判所が憲法判断できなければ、国の統治者の恣意的な憲法判断を許し、憲法第九条も骨抜きにされていかざるをえないのです。とにかく、土屋源太郎さんらは最高裁の差し戻し判決によって、再度、地方裁判所の審理が行われ、有罪となり、被告7人は罰金2,000円の有罪刑を科されました。最高裁判決から40年を経て、2008年、米国立公文書館で砂川事件「伊達判決」に関する解禁文章14点が発見されました。(国際問題研究者の新原昭さんの発見)その主な重要な点は、マッカーサー米大使と藤山外相の田中最高裁判所長官との間で行われた砂川裁判「伊達判決」を破棄するための謀議密約があったこと、その内容を大使が、米本国国務省にに報告した公電にあったのです。以上のように、50年代砂川闘争は闘われ、かつ、権力の謀略によって、無罪から有罪に変化したばかりか、「統治行為論」という、日本の立憲主義の否定が公に「合法」化されてしまったのです。
 こうした歴史の上に、再び砂川基地に対する拡張計画が出され、それを阻止する闘争が日程にのぼったのが、67年だったのです。
 67年2月以降、ベトナム反戦、さらには4月28日沖縄返還要求闘争が続き、そして5月16日、「三派全学連」は中大学生会館において350人以上の学生参加の上で「砂川基地拡張実力阻止闘争全学連総決起集会」を開きました。同じころ、明大二部の研究部連合会(研連)合宿が行われています(4月29日~5月3日)。研連は執行部が、学苑会執行部に対案として名を連ねた人々に代わって、教育研究部幹事長の諏訪さんらが中心となって新執行部を運営していました。この合宿には、教育研のクラケンや、現思研の仲間も参加しています。(私の記憶はあいまいですが、遠山さんと当時一緒に参加した写真が残っています。)
 5月16日には、学苑会は5月末の定例学生大会開催を決定しています。すでに4月以降、新入生を迎えた自治会の呼びかけで、反戦・反基地闘争は広がっていきます。全学連の呼びかけで、5月26日、砂川基地拡張阻止の日比谷野音集会や、デモが繰り広げられていました。この集会で、革マル系の全学連と場所取りめぐって乱闘になったとのことですが、私には記憶にないです。この集会をふまえて、5月28日、砂川現地において総決起集会が行われました。立川市砂川町に基地拡張予定地において、日共系の集会と、三派全学連の基地拡張反対決起集会が別々に行われることになりました。当初は、社共統一行動を予定していたのですが、結局、全学連の参加をめぐって折り合いが付けられなかったのだと思います。明大新聞67年6月8日号によると、日共系の集会には3万人で、明大からは約20人が参加し、安保廃棄・諸要求貫徹実行委員会主催の「ベトナム侵略反対・立川基地拡張阻止・米軍基地撤去諸要求貫徹、6・28砂川集会」として開かれました。当時の日共系の主張には、必ず「諸要求貫徹」という言葉が使われていたのを思い出します。一方、三派全学連は、約3,000人で、明大からは約250人が参加しています。そこから200メートルほど離れた場所で、約500人の革マル系全学連も集会を開いていたと、明大新聞に載っています。
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(1967.5.28砂川現地闘争)
当日は、私も現思研の仲間と共に参加しました。私たちの結集した全学連(三派全学連)は機動隊と激しく衝突し、双方合わせて約100人の負傷者を出し、学生48人が逮捕されています。私たちも、明大昼間部の自治会も「2・2協定」の敗北的事態をのりこえて、再建された社学同勢力も勢いづいていました。まだ学費闘争指導部に対する処分が行われる少し前であったので、200人を超える人々が参加しています。
私も、現思研の仲間も、ブント社学同の隊列に加わり、「明治大学」としての隊列を組んで滑走路北側の集会に参加しました。和泉校舎から現地にマイクロバスで乗り付けた部隊が200人と明大新聞に出ているので、農・工学部の生田校舎や、神田駿河台校舎も含めれば、はるかに300人を超えていたでしょう。このころ、現思研のメンバーは、研連や各学部自治会、学苑会執行部で活動しつつ、学外のデモ、集会には15人から20人の仲間がデモに加わっていました。時には現思研のみならず、学部学生も誘って、より多くの仲間が加わります。
この日は、新入生の経験教育もあったので、私たち上級生らもほとんど参加しました。13時からの集会を経て、4時過ぎからデモ行進に移りました。「江ノ島ゲート」と呼ばれる付近から大量の機動隊が隊列を狭めるように規制し、それに抗議する学生たちは楯と警棒の暴力に阻まれてしまいました。私たちは歩道側へと追いやられ、片側サンドイッチ規制のまま、立川駅方面へと向かいました。
私は青医連の人たちと、傘に大きく「救護班」と書いた紙を貼ってさし、腕にも同種の腕章をまいて、社学同の医学部の友人たちのグループと一緒に、緊急医療救護体制をとる一員として、歩道をデモに並行して歩きました。衝突のたびに、頭を割られる怪我人が出ていました。それでも学生側も機動隊の隙をついて、投石や駆け足行進で抗議します。基地正面ゲート付近になると投石が激しくなり、投石を止めると、ゲート付近で急に一斉座り込みに入るなど、全学連の指揮のシュプレヒコール・笛に従ってスクラムを固めてシットインを行います。機動隊のごぼう抜きに対し、退去させられたあとから再びスクラムを組んで態勢を立て直し、投石する学生たち。
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(1967.5.28砂川現地闘争)
たまらず機動隊は、逮捕した学生を盾にして投石に対抗するという卑劣な行動にでました。野次馬含めて「ナンセーンス!」「何だ!」と騒然です。救護班と書かれた傘を目印に、怪我人が次々と運び込まれてきます。白衣をまとった医学連の友人たちが、即応体制をとっています。この友人たちは、かつて雑談の中で「手術にはまだ立ち会っていない」とか、「縫ったことは一度だけある」という医者の卵たちで、普段は活動の方に熱心な人もいます。でも、こういう場では未経験でもそれどころではないと、果敢です。
頭を割られて血がドクドクと出ています。その本人が何か話すと、それに合わせるように血が更に流れ出ています。青医連の者たちは止血し、また縫い合わせています。「大丈夫?」と私の方が不安になって尋ねると、真剣な顔で「消毒をしっかりしていれば大丈夫。血が出ている方がまし。打撲で脳内出血で血が外に流れない方が怖いんだ」などと言っています。これは頭から血を流し、縫ってもらっている人への励ましの説明かもしれません。私は何もできす、もっぱら消毒か、必要物品を手渡すか、服をハサミで開いて医者の卵たちが治療しやすいような補助しかできません。私と行動を共にしていたのは遠山さんともう一人、女性もいました。
夜8時半ごろ、デモ隊は、ジグザグデモや渦巻デモをくり返して、立川駅前で党派別というより大学別に集まって総括的に逮捕者や怪我人などの安全確認をして、9時ごろにみんなで立川駅から御茶ノ水へと向かいました。学館に戻り、現思研の仲間は、すでに新学期前に新入生逮捕の経験から、よく注意していたので、みな無事でした。この日の明大からの逮捕者は1名でした。当時は逮捕されてもだいたい2泊3日で釈放されていた時代です。長期勾留は指揮者のみだったと思います。
その後も6月も数次にわたって砂川基地拡張阻止の全学連の闘いは続きます。6月末に佐藤首相の第一次東南アジア訪問に対する新たな経済侵略に対する、訪問阻止闘争が広がっていきます。
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(1967.7.9砂川現地闘争)
7月9日には、砂川基地拡張阻止大集会が社共統一行動として行われました。雨の中、全学連、反戦青年委員会も加わり、12,000人の人々が集まっています。
この日も激しい市街戦となり、機動隊はデモのたびごとに、新しい防護服や乱闘靴から、盾や指揮棒に替わっていくというのが、当時の私の印象です。学生は反撃して投石しますが、社共統一行動を要求された反発もうまれます。このころの闘いから、反戦青年委員会は既成左翼や組合の無力さや、しがらみを超えること、「自立・創意・工夫」のもと、独自に全学連との行動を重視するようになっていきます。そしてまた、砂川闘争の先陣争い的な競合が闘いの中から育ち、党派間の内部矛盾も顕著になっていったと思います。
ちょうどそのころ、明大ではすでに述べた学費値上げ反対闘争に関わった指導的な位置にあった学生たちに、不当な大量処分が、6月23日、学長名で発表されました。退学処分11名を含む21名に懲戒処分が科されました。退学処分には、学費闘争の始まりの学生会中執委員長の中澤満正さん、全学闘争委員長の大内義男さん、全学連初代委員長だった斉藤克彦さんも、また「2・2協定」の混乱を収拾していた委員長代行の任を負っている小森紀男さんも含まれていました。二部では、酒田全二部共闘会議議長や研連委員長だった岡田さんに退学処分が下されました。ただちに、昼間部、夜間部の各執行部、各学部自治会は、不当処分に対し「処分撤回闘争」を組み、ハンストや、授業ボイコット体制を取る宣告しました。それらはすでに述べたとおりです、
当時のブントの学生対策(学対)指導部は、中核派と競合しつつ、明大の「2・2協定」自己批判の苦い教訓から、学園内闘争に対しても無理な急進的方針に執着していたのではないかと思います。街頭でも大学でも「改良と革命」の話はかつてのようには出ず、「革命的敗北主義」が主張されるようになりました。徹底的に非妥協に闘って敗北することによって次の勝利への展望をつくるとする考えです。私たちはそうした主張を大学の自分たちの活動の中では実践していないままでした。
私たちは、そういう意味では「社学同」といっても自分たち流のやり方で加わっていたので、仲間意識を大事にし、相互扶助・共同のスタイルで、働きながら学ぶ範囲で、街頭政治闘争に参加していました。党内を、だれが指導していて、どんな派閥があるかも興味はなく、明大学生会館を中心に出会う仲間たちと交流し、助け合っていたので、御茶ノ水周辺大学とは、ブント同士仲良しでした。明大・中大・医科歯科大、専修などの友人たちです。また、関西から東京に任務がえで常駐する全学連や反戦活動家のブントの人たちも、明大学館を根城にしていたので親しく、頼まれれば、現思研の仲間が助けました。後の反帝全学連の委員長の藤本敏夫さんや、学対の山下さん、村田さん、高原さんや佐野さんらです。「2・2協定」以降、明大闘争の過ちを他党派に対しては謝罪しつつ、ブント内では「斉藤糾弾」を求めて彼を探しまわったりはしていたけれど、ブント指導部自身の自己切開の痛みを伴うものではなかったのだろうと思います。その分、東京に乗り込んで活動を始めると、「関西方式」をそのまま持ち込んで、「関西派」的な人脈形成しつつ、自らを自己肯定したまま「革命的敗北主義路線」を主張していたように思います。私の知る関西派の人たちは「政治主義」というか文化、芸術、文学を語り合うことはありませんでした。
ブントは、全国の自治会数では中核派をしのいでいるのだということでした。中核派の断固非妥協路線と競うように「革命的敗北主義」路線が主張されていたように思います。解放派やML派ももちろんライバルではあったけれど、「反中核派」でブントと共闘していたように思います。現代帝国主義の規定、情勢分析、ベトナム連帯の位置づけなどー米帝国主義の侵略戦争か、スターリニズムと帝国主義の代理戦争かといったーあらゆる局面で論争し、他派批判を自らの立脚点とするといったやり方です。
当時の全学連中執のメンバーは、中核派11、社学同9、解放派5、第四インター2となっており、議決においては、中核派の方針に反対して拮抗したまま進んでいきます。その結果、「非妥協性」を競うような運動戦へと、全学連の活動が益々傾斜していったといえます。夏休みを経て、9月佐藤訪韓阻止闘争から、500名をこえる実力部隊を先頭に街頭行動を更に重視し、9・20佐藤東南アジア訪問実力阻止闘争を経て、10・8羽田闘争へと飛躍していくことになります。

(文章が長いので2つに分けています。後半もアップしていますので、ご覧ください)

後半に続く

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