このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。

 今回は「オリーブの樹」121号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。

(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

 

【松田政男著『風景の死滅 増補新版』(航思社)】


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 先日贈られた『風景の死滅』を読み終えました。日本に居たブント、赤軍派時代の文化状況を思い返しつつ、今回出版された意味を探ろうとしました。この『風景の死滅』初版は1971年で、今回2013年に増補新版として11月に出版されています。

 これは“風景論”と当時言われた永山則夫の視座を追体験する映画制作過程を経て論じられている意図をさまざまな角度から示しているものです。当時「60年安保」を経て、アメリカ型の資本主義大量消費者会が“成長神話”として社会を席捲しはじめていた時代です。同時にそれに抗した斗いの時代。その中の永山則夫の「犯罪」。「日本の先進的な青年学生たちは何処にも無い場所としてのユートピアを志向していた非日常的な闘の局面から、何処にでもある場所としての〈風景〉にいかに抗い、そしてそれをいかに超えうるかという日常的な戦闘の局面に自らを移行させつつあると言ってよい」(「なぜ風景戦争なのか」)と著者は風景論でありふれた日常に変革への根源と視座を示し求めようとしていたことがわかります。

 日常のやわらかさにつつまれた「風景」としか呼びようのない“成長神話”の日々に、実は屹立している暴力的な強制力・国家の支配がうごめき貫徹している姿こそ国家の本性が晒されていること、それを透視し変革こそ求めていたと言えるでしょう。それゆえに今、この「風景論」を語る意味を新しい文化の創造の一石を投じるものとして求めているのだろうと思いました。

 私自身は風景論としてではなく、第三世界の斗いのあり方として記されていた(それも風景論とも言えるが)「私怨の空間」と題する論文に興味を持ちました。著者が1950年代に見た「眼には眼を」というアンドレ・カイヤットの映画を通して、アラブ人民が反植民地斗争や第三世界とは何ぞや?と論じられている文章です。

 映画は、妻の治療を仏人医師に断られ、ただ黙って妻の死に立ち合わざるをえなかったアラブ人が、その仏人医師を砂漠に連れ出すだけの映画だそうです。砂漠は不毛の大地の風景がひたすらに続き、恐怖と絶望の頂点で仏人医師は倒れるのです。これはアルジェの斗いと連なり、フランツ・ファノンの暴力に関するテーゼと関連することを著者は解明しています。「『全力をこめて私怨に身を投じること』をば、ひとりのアラブ人が身をもって実践した時、彼は、それを、過去数世

数世紀にわたって支配されつくした彼ら自身の大地を奪還する行為と結合することによって、フランス人植民者

ランス人植民者の歴史的連続性を断ち切ってしまったのだ」と。それらはパレスチナの、レバノんンのンの、アルジェリアなどの各地の「個人的経験」、「私怨」が普遍的な解放の斗いの根っこにあることを私も同感しながら読みました。

ンの、アリジェリアなどの各地の「個人的経験」、「私怨」が普遍的な解放の闘いの根っこにあることを私も同感しながら読みました。

そしてその中で、「第三世界」とは何か?と問うています。「第一世界・先進資本主義や植民地主義国、第二世界・先進社会主義国と、対立している冷戦構造が世界政治を支配している限りにおいて有効な呼称としての他の世界」という堀田善衛の論理や「一言でいえば第三世界とは“飢えている世界”」という志水速雄らの論に批判を加えて、著者は言う。「あえて言い切っておけば、第三世界とは架空の空間なのである。地理区分上の或る実体的な大地が、歴史の真只中に自己を突出させた時、すべての地理区分を超えるべく歴史に敷設されたところの媒介的な架空の概念である。それは言い換えれば〈何処にも無い場所〉真の主人公──(ファノンの言うところの:重信補)地上の呪われた者たち!──が未だそこを奪還することを得ぬ約束の地なのだ」。うーん、……。

「架空概念」というよりも実体的政治的な概念として、私たちは友人たちと使うことが多かったです。つまり「第三世界」は堀田善衛的過渡期世界概念の通念を持ちつつ、世界的意味においても、地域的〔リジョナル〕意味においても、また一国的意味においても、参加決定する当事者でありながら、その能力と役割を持ちながらも、それを奪われた人々とその人々の住む空間というふうにとらえていました。著者の言と共通するところもあるかとも思いつつ読みました。(1122日)


【板坂剛著『三島由紀夫と全共闘の時代』(鹿砦社)】


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『三島由紀夫と全共闘の時代』読みました。

 著者は「まえがき」で「人間の心の奥に潜む解決不可能な矛盾、それが『パンドラの箱』の中身であると、ここでは定義しておきたい」と、断った上で、“三島由紀夫と全共闘運動”のパンドラの箱を開いてみようとこの一冊に込めています。著者は両者の類似点はまったく同質の“狂熱的自己陶酔”であったが、その方向性、運動論、政治理念は真逆を示していたと捉え、「この一律背反に美点も欠点も鮮明に示されているにもかかわらず、両者の関係性について本格的に検証されていない」と自らの個人的体験から語りはじめています。

 日大芸斗委の苛烈な戦斗の渦中に居、6869年の日大・東大斗争時代のエピソードを語り、フラメンコダンサーとしての現在から、時代を俯瞰的にとらえた「あるフラメンコダンサーの述懐」を記しています。この本の中に「鼎談三島由紀夫死への希求」が収録され、三島の本を出版した三人(椎根和・鈴木邦男・板坂剛)がさまざまな角度から三島を語っています(かなり雑談風に)。著者は大学以前から三島の本を愛読しており、日大での斗いを経て、同世代の熱烈な一途な情念を三島と全共闘としてくくりやすいのかもしれません。私はサークルが文学研究部で、三島を語る友人もいましたが、まったく心に響かなかった……。そして701125日、三島のニュースに衝撃を受けている友人の知識人たちに、むしろ驚きと違和感を感じた方です。ですから著者の日大芸斗委時代の燃える筆の文章に一番興味がありました。同時代、私も同じ学生運動の末席に居て、御茶ノ水界隈では大学を越えて助け合い、日大経済学部や医科歯科大、専修、東大、中大などよく助け合いましたが、江古田の当時の激烈な斗いは実感できませんでした。それらを読みながら、かつて芸斗委の隊長だった岩淵クンが「斗いも、人間も、もうたくさんだあ」と言いながらひたすら花札にのめっていた姿を思い出しました。70年のことですが。(当時日本大学当局が雇った「関東軍」と称するやくざ軍団が、学生をあらゆる暴力で痛めつけ、芸斗委はそれに立ち向かって逆襲勝利したことで名を馳せていた。)

本を読み終えて、「はじめに」で、著者が提起したパンドラの箱は「鼎談」で拡散してしまった気がします。だって設定が設定ですもの、それでいいのかもしれません。でも、著者は全共闘時代の教訓はいろいろな角度から語っています。「例えば、七〇年には、中核派が法政大学の六角校舎で革マル派の活動家を殺してまったわけだけれども、私は、あの事件の時に、日本の新左翼運動はもう駄目だと思ったんです」「正しいと信じた行為の結果、敵対する者が死に至ったとしても気にする必要はないという考え方も、ある意味男らしいとは思う。が、こうした精神的な強さの末に、連合赤軍の敗北や革共同両派の不毛な内ゲバがあったような気もするのだが……」などと語っている(男らしくない!「強さ」は「たてまえ」で、「弱さ」の本当の姿が見えなかったと私は思うけれど)。著者の逡巡的記述に、いくつも正鵠を読み取りました。パンドラの箱の中身は、一度開いたら元に戻せないとしても、まだ箱の底には“希望”が出番を待っています。全共闘時代を次への希望として、さらに語ってほしいと思いました。(124


 【金平茂紀著沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)】


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 正月の読書は『沖縄ワジワジー通信』の再読から始めました。

 この本は20111月から1212月まで「沖縄タイムス」に連載された「沖縄ワジワジー通信」と088月から109月までの同紙連載「ニューヨーク発徒然草」を再録し、大田昌秀元知事ら沖縄の人との対談で構成されている本です。

「ワジワジー」は、著者のイライラ、ムラムラする気分に対して「金平さんは、いつもワジワジーしているね」と沖縄の友人に言われて「『ワジワジーするさあ』だなあ」と実感し表題にしたとのことです。

 著者は「あとがき」で「沖縄から日本がよくみえます。よくというのは、嫌いな部分も好ましい部分も含めて東京あたりにどっぷりつかって生活し、ぼんやり見えているのと違って日本の国の風景がより鮮明に見えてくるという意味です。(中略)沖縄に対して東京を中心とした『中央』が、どのようにふるまい続けているのかで日本という国の真の姿が見えてくるのです。弱い立場・遠隔の地域に、自分たちにとって、都合の悪いものを押しつけ続けている態度は端的に醜い。米軍基地の74%が沖縄にあるという事実の重み。僕にはあの原子力発電所の存在がダブってみえてきます」と記しているように、「外側」から「中央」をとらえようとしています。

 沖縄によりそいつつ、次の章ではニューヨークから世界の視座で、同じように日本の「常識」「中央」のあり方を問うています。その視座はパレスチナ・アラブから、あるいは欧州から日本を比較対象化してよく見えたものと共通していると感じました。辺境外側に在って見ると、日本は相対化され、多様な世界の文化や価値観の一つであることが鮮明で、「中央」の「ヘンさ」も浮き彫りになります。「中央」ほどそれが見えないのでしょう。

 著者は沖縄から日本の「沖縄忘却」を告発し、3・11に通底すると看破し、また一方でニューヨークでちょうど現認したオバマ大統領誕生のアメリカの多様性「Yes we can」の変革の熱気に感動し、またグアンタナモのあの収容所取材などホットな臨場感で、私の知らないアメリカを教えてくれます。

 対談では大田元知事の具体的な知事時代、それ以前の日本・米政府のあり様、沖縄を犠牲にして来、今も犠牲にし続ける「中央」そして日本本土の私たちに、沖縄のあきらめない斗いの鋭さを改めて教えています。

 この本は、一人のジャーナリストの沖縄ばかりか世界から日本を見つめる政治だけではない生活の本音語られています。沖縄の今を、今年も「辺野古埋め立て」のみならず犠牲を直視する意味でも、この本を読むのは価値があります。(14日)

 

(終)

 

 

【お知らせ】

「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が12月6日(土)に開催されます。

12月6日(土)に「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が御茶ノ水の明大紫紺館で開催されます。
土屋さんは、砂川事件最高裁判決無効の裁判闘争を現在行っています。その闘いを支援するとともに、土屋さんも関わってこられた明大学生運動60年の歴史を振り返るというのが、この集いの趣旨です。
明大関係者が中心となりますが、それ以外の方々にも参加を広く呼びかけています。多くの方の参加をお待ちしています。
 
○日時  2014年12月6日(土) 午後6時~9時
○会場  明大紫紺館(JR「御茶ノ水」駅下車 徒歩8分)

○会費  八千円

○申込み 11月25日までに下記ホームページのコメント欄に連絡先を明記の上、申し込んでください。

 

ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」

http://www.geocities.jp/meidai1970