野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

タグ:その他芸術、アート

2018年10月7日(日)、東京・四谷の主婦会館で、10・8山﨑博昭プロジェクト主催による秋の東京集会が開催された。今回のテーマは「異なった視点からの10・8羽田闘争」。
集会の第一部の講演会では、ウイリアム・マロッティ氏(UCLAカリフォルニア大学ロサンゼルス校歴史学准教授)と嶋田美子氏(アーティスト・60年代研究家)が講演を行った。
今回のブログでは、このうち嶋田美子氏の講演を掲載する。
(ブログ掲載にあたっては、嶋田美子氏の了解を得ています)

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「60年代をどう歴史化できるのか -外からの視点」
嶋田美子 (アーティスト・60年代研究家)
「よろしくお願いします。何かちょっとここにいるのがアウェイ感があるんですけれども、まず私が何をしてきたかというのを自己紹介したいと思います。
私は実はアーティストで、東京の立川市の砂川町で生まれ育ちました。たぶん皆さんとは一世代違うので、実際の闘争とかの経験は全くないんですけれども、何となく近所でそういうことが起こってたなというのは実感はしています。ただ。年代的には実体験というものはありません。

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アーティストしては、私は『戦争と女性』や『従軍慰安婦問題』についての、これは戦時時代の日本の女性が植民地で何をしたのかという写真を基にして、いろいろ版画作品を作ってきました。これは日本人従軍慰安婦像になってみるというパフォーマンスで、ロンドンの日本大使館の前に座って従軍慰安婦像のマネをしているというものです。

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これはこの間、ロスアンジェルスのグレンデールに行きまして、ここにも従軍慰安婦像があるんですけれども、そこで金属色に自分を塗りまして、そこでまた日本人慰安婦像になっているという、黄色っぽい方が私です(笑)。

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これは日本でも靖国神社の前と国会議事堂の前でやりましたけれども、外国でやるときは別に30分いても1時間いても何も言われないんですが、国会議事堂の前は特にちょっとだけ座ったら、わーっと警官が来まして『動いてください』と言われて、本当に日本ではこういうことはしにくいなと思いました。

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 それでアーティストとしてこういうことをしてまして、60年代に何で関係があるかというと、2010年あたりから1960年代研究というものにはまってしまいました。そのきっかけというのは現代思潮社・美学校ですー現代思潮社は皆さまご存知の方が多いんではないかと思いますが。2010年頃にイギリスの作家の方がオルタナティブな美術教育の研究をしたいということで、『日本にそういうことがなかったか』と聞かれて、『それは美学校がありますよ』と言って、それで共同研究を始めた訳なんです。私もちょっと美学校に行ったことがありましたが、80年代だったので、全然昔とは違っていました。だんだん研究したり、石井恭二さん他、ほとんど今、美学校の関係の方もお亡くなりになったんですけれども、2010年あたりは皆さんまだお元気でいらして、お話を聞くことができて、それでものすごく面白いと思いまして、どんどんそれにはまっていきまして、2013年に、イギリスのサウスサンプトン大学の美術館で「反アカデミー」という展覧会で、美学校とコペンハーゲンの実験学校というのと、アイオワ州の実験的な学校の3つの資料を並べて展覧会をしました。これはそのカタログです。

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そこでいろいろリサーチもしたので、2015年にそれでイギリスの大学で博士号を取りました。
 現代思潮社は皆さまご存知だと思うんですけれども、石井恭二が57年に始めました。一番話題になったのが60年にサド裁判、澁澤龍彦の訳で『悪徳の栄え』を出版しまして、裁判になって、10年後有罪になるんですけれども、石井恭二さんの言葉として『右手にサド、左手に道元、脳髄にマルクス』というのがありました。(笑)

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それで『民主主義の神話』、これは60年安保の集大成的な本です。その後『トロツキー全集』とか出すんですけれども、ただ、現代思潮社が私が非常に面白いと思うのは、こういうすごいハードエッジな政治の活動もしていながら、基本的にシュールレアリズムなどの美術系、まあ美術でもシュールレアリズムはかなり政治に介入してますけど、そういう関係の本も出しています。67年には平岡正明の本も出していて、これ以前から平岡正明は犯罪者同盟というグループを作ったりして、そういうアーティストというか活動家というか変な人たちも現代思潮社の周りにどんどん集まってきてるんですね。でも、ちゃんとしたルフェーブルなどのフランス哲学本も出していました。特に68年頃から前衛美術の本?細江英公の『鎌鼬』、これは土方巽という舞踏の創設した非常に有名なアーティストですけれども、それの写真集とか、1970年は『オブジェを持った無産者』赤瀬川原平、亡くなった尾辻克彦ですけれども、赤瀬川原平さんが66年ころから千円札裁判に関わって、それについての本です。その千円札裁判にも、それは千円札を模造、模型を作ったということで裁判になったんですけれど、その支援も現代思潮社はしていました。
1962年に自立学校というのを谷川雁が始めまして、これはオルタナティブ教育の講義といいますか塾みたいなものなんですけれども、多くの人が美学校のプロトタイプだと言っています。これにも石井恭二、川仁宏、川仁宏というのは後に現代思潮社の編集と美学校の事務局長になるんですけれども、それらの方が関わっています。

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65年には『東京行動戦線』というニュースレターを出しまして、平岡正明の『デモから思想の集団へ』とか記事があります。もともと石井さんは反スターリン主義というか、共産党主導の既成の左翼の枠からはずれたところで運動していこうということなんですけれども、ここで明らかに直接行動ということを言っています。

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これは68年の『腰巻お仙』唐十郎、あと中村宏の画集です。このほかにもいろいろ出していまして、東京行動戦線65年あたりで石井さんたちが言い出した直接行動というのが、ちょうど同じ時期に美術の間でも、反芸術と言っていたんですけれども、直接行動というか、とにかく今までの枠から飛び出して何かをしようという運動が非常に盛り上がっていたところなんですね。その辺のシンクロニシティというか、政治とアートが協働していくところが非常に面白いと思いましてこの辺の研究をしていたんです。

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芸術の直接行動というのは、例えば、これはハイレッドセンターというパフォーマンスグループなんですけれども、これは64年の『銀座に謎の集団あらわる』です。64年といいますと東京オリンピックですが、東京オリンピックで街中を綺麗にしようとか、今と同じですけれども、浄化作戦みたいなことがあったんですね。それに対する皮肉、パロディとしてアーティストたちが集まって、わざと銀座の街を過剰に綺麗にするというーこれは雑巾で現座の歩道と車道を拭いているんですよ。そういうことをずっと半日くらいしていたという、皆が白衣を着ているので、お巡りさんも本当にこれは浄化運動だと思って、誰も何も言わなかったということがあるんですけれども、(笑)彼らも63年あたりまではまだ美術館とかで発表していたんですが、これ以降、美術館を否定して、今までのこれがアートだとされてきたことをどんどん否定していく訳です。

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さきほど出版物でもありましたけれど、唐十郎の状況劇場です。状況劇場も60年代中頃から、それまでの劇場とか建物の中でやるシアター演劇をやめて街中にテントを張ります。花園神社にテントを張って、ずっと旅芸人みたいにして上演していた訳ですけれども、それも68年末ごろになりますと、やっぱり新宿も浄化運動になりまして、花園神社が場所を貸してくれなくなって、これは新宿中央公園で無許可でテントを張ってやろうとしたところ、まわり中、機動隊に囲まれたシーンです。そレでもテントの一部を開けて機動隊を背景にしてそのままずっと上演を続けて、上演直後に唐と関係者が警察に捕まったということがありました。

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ほかにも現代思潮社には直接あまり関係ない人たちなんですけれども、グループで街頭でパフォーマンス、それも非常に危ない感じのパフォーマンスをする人たちがいまして、これはゼロ次元というグループです。これは紀伊国屋書店の地下ですね。今もありますけれども、そこに全裸でガスマスクを被って行進してそのまま逃げるということをしていました。これは写真記録だけ残っています。彼らはもともと名古屋のグループなんですけれども、やっぱり60年代の中頃に東京に来まして、こういうことを街頭でしていました。

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ゼロ次元と、彼ら似たようなことをする人たちが一緒にいろんなイベントをしていたんですけれど、ベトナム反戦のイベントがあります。これはダダ・カンという、今も仙台に住んでいるパフォーマンス・アーティストです。糸井貫二という方で、今95歳ですけれども、お元気です。この『殺すな』というのは1967年ですね。岡本太郎の字で『殺すな』という、ニューヨ-クタイムスに一面広告でベトナム反戦の広告を出したんですけれども、それに共鳴してダダ・カンはそれを持って走るという行為を時々やってまして、何度もやっているんですけれども、この写真は1971年仙台でのものです。糸井貫二は、グループなどには属さなかったんですけれども、時々こういう風に、その時々の政治情況に共鳴して裸で走るとか、こういうことを街頭パフォーマンスをしました。70年には大阪万博の太陽の塔の眼のところを赤軍というヘルメットを被った人が占拠したことがあるんですけれども、そのニュースを聞いて、それに共鳴して、何かしなくちゃと、その場で万博会場に行って、太陽の塔の周りを裸で走って逮捕されたということもしています。

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これはあまり知っている人がいないんですけれども、クロハタというグループで、彼らは非常に政治的な演劇的なパフォーマンスをしていたんですけれども、これは明らかにベトナム反戦とありますね。焼身の儀式クロハタ本庁。由比忠之進が1967年11月にベトナム戦争に反対して焼身自殺したことに共鳴して、これは新宿の街中なんですけれども、ここで追悼の儀式をするということで、これはたぶん人形で、こちらの人が松江カクさんというアーティストでクロハタの中心人物ですが、その人形を新宿西口広場に持って行きまして火を付けたと。これがその写真です。

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十重二十重に人が囲んで、向こう側でガスマスクを付けて万歳しているのがゼロ次元です。ダダ・カンもここにいまして、いつも彼らとよく行動を共にしていたのがヨシダ・ヨシエという美術評論家で、彼も非常に政治的な運動に共鳴して三里塚にも行っていたんですけれども、彼とダダ・カンはこの後逮捕されました。
こういうことは美術史の中では、ほとんど今まで無視されていまして、ダダ・カンもゼロ次元も、たぶん10年前に美術関係者に聞いても誰も知らなかったんじゃないかと思うんですけれども、幸い黒ダライ児さんという人が『肉体のアナーキズム』という本を出しまして、それにゼロ次元とかダダ・カンとか、あまり資料に残っていないけれども、非常にその当時、社会に介入して重要なことをしたアーティストのことを書いて、今は割と注目、注目とまではいかないですけれど、少なくとも美術館での展覧会にも入るようになっています。

それで、この辺の美術とか政治の60年代の動きが非常に面白いので研究していましたら、去年の秋から東大で授業をしないかというお誘いがありまして、これは留学生向けのグローバル教養演習というんですけれども、それを英語で授業をやって欲しいと。それで『何を教えたらいいんですか』と言ったら、『日本に関することだったら何でもいい』というので、だったら『60年代の現代思潮社とアングラ・ア-トをやります』と言ったら『いいですよ』というので、シラバスを出しました。それを見たほかの学芸員や美術関係者が『嶋田さんね、あんなことやっても絶対に誰も来ないから』と言われました。あまりにマイナーで、そんな日本人も知らないようなことを何で外国人が興味を持つかと。それでフタを開けましたら20人近く生徒が集まりまして、無事にゼミを開くことができました。それで、1人だけあとでドロップして18人か19人なんですけれども、みなさん本当に熱心で、全く休みもせずちゃんと半年間授業を取ってくれました。留学生は 東大と提携しているいろんな国の学校から来るんですけど、アジア、ヨーロッパ、北米、南米、オーストラリアなどで、みなさん学部生で大体二十歳くらいなんですよ。日本語もほとんど出来ない。日本の60年代のことについてもあまり知らないんですけれども、リアクションが非常にビビッドというか面白かったんですね。
この授業は日本人の学生が取ってもよくて、他のクラスは日本人の学生が3分の1とかあるらしいんですけれど、このクラスは日本人は誰も取らなくて(笑)、でも、始まってから学生たちがすごく面白いからというので、ほかの日本人学生に『このクラスはこういうことをしているんだよ』と言ったんですって。授業は六全協くらいから初めて、1970年くらいまでだったんですけれど、その子が日本人学生に60年安保の授業の話をしたら、東大の学生は誰も60年安保を知らなかった。安保って何ですか、それ?みたいな感じだったそうです。でも知らないのは留学生たちも同じなんですけれども、日本人学生は無関心、知らないというより知的好奇心がないというか、そういう感じでした。半年間で10年間くらいの事をやって、美術館に展覧会にも見に行ったりして、最後は自国のことと関連して、レポートを書くか何かプロジェクトしてくださいと言ったんですけれども、そうしたらベトナム系のフランス人の学生がいまして、彼女はたぶん親がベトナムから移民した子たちなんですけれども、彼女がパリの五月革命以降の、フランスの大学の改革と、日本の大学の、例えば東大の68年以降どう変化したかを比較してレポートを書いてきまして、やっぱり東大はあまり変わっていなかったということがわかりました。(笑)フランスの国立大学は、今まで通り保守的な大学もあるんですけれども、かなり68年以降、移民やマイノリティーに関する学部が増えたりとか、非常に変化があったということをレポートしてきました。

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中国人の学生はこれを見せたらすごいリアクションしたんですよ。『造反有理というのは文化大革命じゃないか』と。(笑)その子は二十歳だったんですけれども、ずっと小さい頃から、文化大革命は本当に悪いことだったと、ほぼ内容も知らされない感じで、今ここ数年は、文化大革命についてもう少し幅の広い研究とか、映画とかが作られたりしているらしいんですけれども。とにかく彼にとっては『造反有理』という言葉が、東大の門に書かれていたんだということが、ものすごくショックだったらしくて、何でこれがここに書かれていたのか検証したいと言っていました。いろいろ調べたみたいですけれども、それはなかなか日本語がそんなによくできないので、まだそれほど進んでいないようですが、彼はそういうところをもう少し研究したいと言っていて、たぶん中国に帰ってしまうと研究できないので、(笑)アメリカかヨーロッパに留学して研究を続けたいそうです。
あとイギリスから来た女の子なんですけれども、彼女は駒場寮の研究をしたいと言っていて、(笑)教養学部だったので授業は駒場なんですけれども、駒場寮があったということをちょっと話したら、その歴史を知りたいから調べたいと言ったんですけれども、東大には駒場寮の資料が一切ないんですね。彼女が調べた範囲ではほとんど何もなかった。それでもあきらめずに、彼女は京都に行って、京大の吉田寮の研究をしています。(笑)今年に入っても泊りがけで吉田寮に行ったりしています。京大では結構英語が通じるらしいんですけれども、大して日本のことを知らなくて、日本語ができない人たちがそういう風にどんどん自ら飛び込んでいって、私が知らないようなことまで調べあげてレポートしてくれたので、本当にこれは面白かった。日本人の学生とのギャップがあまりに激しいので、その子たちに『何でこれそんなに面白いの』と聞いたんですよ、彼らが言うには、やっぱりこれはユースカルチャーだと、自分たちは二十歳くらいだけど、すごく同時代的なところが、フィーリングが分かるところがあると。それともう一つには、彼らはまだ若いですれども、自分の国の60年代の歴史を知っているんですね。パリから来た女の子はベトナム戦争、自分のルーツのことも知っているし、フランスの68年のこともよく知っているんですね。ですからそれと関連で考えられるということがありました。それを聞いてこれからどうにかしなければと思ったのは、こういう風に海外の人に向けてやるのも面白いんですけれども、やっぱり日本の教育をどうにかしなければいけないんじゃないかと。まあ日本でも1968年に関するいろんな試みはやられていると思うんですけれども、色々と問題があります。例えば『1968』という分厚い本を2冊、小熊英二が出しましたけれども、あれは当事者インタビューもないし、特に文化の面を全部切り捨てているんですね。もう言語道断だと思います。(笑)68年についてはこれまでもお見せしましたけれど、ああいうもの、アーティストとかノンポリとかヒッピーとか、今まで政治的と思われていない部分が実に政治的だったんですね。彼らがあってこそー政治運動もですけれどもー両方があっての60年代なので、文化を切り捨てて60年代を語るということは全くナンセンスなんです。

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これは去年、『「1968年」無数の問いの噴出の時代』が国立歴史民俗博物館でありました。非常にまじめでカタログもすばらしい展覧会でした。ただ、これもやっぱり、私のアーティストの立場から見ると、文化的な面が、特にもうちょっと風俗的とか、たぶん学術的にはくだらないと見なされるような部分が欠落していると、どうしても60年代というものの全体が見えないような気がするんですね。でも資料的はいろんなものがあって面白かったです。

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それで今、千葉市美術館で『1968年激動の時代の芸術』という展覧会をやってます。これもかなり資料が出ていまして、単に美術美術を並べただけじゃなくて、結構面白いんです。これは先週のオープニングで、城之内元晴さんの『新宿ステーション』という映画が展示されていまして、それを観る足立正生です。(笑)

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これも展示されたものですけれど、現代思潮社の本の出版記念講演のポスターで、『トロツキー選集全巻完結記念講演会』、このデザインは中村宏です。中村宏さんというのは絵描きさんで、『砂川五番』とかを描いた、50年代はわりとルポルタージュ絵画の作家です。中村さんも美学校で教えていたんですね。これは中村さん自身が『こんなのまだあったのか』とすごく驚いてました。

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これは木村恒久さんというデザイナーで、この方もやはり美学校で教えていたんですけれども、これは新宿駅に積み重なる米軍機です。もちろんこれはコラージュなんですけれど、これもたぶん制作は68年頃だと思います。もちろんフォトショップはないです。コンピューターもないです。これ全部手で切って貼って、それをもう1度写真に撮ったものなんですけれども、かなり近くで見てもどういう風に作ったのかよく分かりません。木村さんもやはり60年代に革命的デザインとしていろんなことをしてまして、こういう風な社会的テーマでのコラージュをたくさん作っています。
この『1968年激動の時代の芸術』という展覧会はかなりいろんな面白いものがあります。ただ、これも第一部のところは学生運動とかそういう政治運動の資料もあるんですけれども、だんだんほかの部屋に行くと美術作品を並べただけみたいになってしまっています。
1960年代というものをどのように歴史化していくか、それを提示していくかというのには二つ問題があると思うんです。一つはより総合的なアプローチ、文化と政治性を両方なければいけないと思います。このような1968の展覧会にしても、まだどちらかに、どうしても政治的な資料だけとか、または美術の動きだけというものに、枠にとらわれている感じが、まだします。もう一つは60年代というものを単に日本のものー日本の独自の視点があるということは非常に大切で、日本の68年というのも重要なんですけれどもーそれをグローバルな視点で見るということが非常に重要だと思います。それは今回、東大の若い学生から私が学んだことなんですけれども、彼らから見てとか、同時代的に他のところで何が起こっていたかというものを見ることによって、日本の60年代というものが、より厚みを増して、より興味深いものになっていくんじゃないかと思います。
その同時代性ということで言いますと、その同時代性というのは同時多発的なんですね。例えば今までの歴史ですとパリでパリ・コミューンが起きました、それはシチュエーショ二スト運動があったからです。それがパリを中心として周りの地方に波及していきましたみたいな感じ、または先進的な国で、例えばアメリカでベトナム反戦運動がありました、それがもうちょっと後進国的な日本にも伝わってきました、みたいな、そういう一方向性の歴史認識ではなくて、実はあまり関係のないように見えて、いろんなところでいろんなものが同時に起きていたと、そういう認識が面白いんじゃないかと私は思うんです。
特に、この間香港に行っていまして、香港の1967年の香港暴動というのがあったことを知りまして、それの資料がアジア・アート・アーカイブというところに行って出てきました。

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これは『Who is Guilty of these Atrocities?』このような暴行は誰が責任があるのか、誰のせいなのかという冊子です。これは、今までの歴史では中国共産党に扇動された農民や労働者が決起して、警官隊と衝突して、警官を2名か3名殺害とされています。その時にいろいろデモとかがありまして、警官が市民に非常に暴力をふるったと。それでこういう小冊子が作られたのですが、それと同時にそれを警察側から見た、警察がどのように香港を守ったかみたいな小冊子もありました。たぶんこのような暴力的といいますか、武装的な衝突が起こったのは香港でも67年が初めてではないかと思うんですけれども、これも香港には香港の事情があって、日本にはもちろん日本の事情があるんですけれども、ほぼ同時にこういうことが起きているということが非常に興味深いです。
その上に、1967年のこの暴動を受けてなんですけれども、創建実験学院という非常に実験的な、オルタナティブな教育の場を作ろうという運動が、67年のあと68年に香港で起きました。この学校は67年の香港動乱後に68年に創設されまして、創設に関わったのは香港、台湾のアーティスト、建築家、映画評論家、出版社、これを読むと現代思潮社・美学校に似ているなと思います。1年でポシャってしまって、有志が九龍地区でそのあとも続けたそうなんですけれども、この実験学校も美学校も大きな動乱が起こって、政治的な不安の中で、教育というものに対して問題提起が起きたわけです。前の山本義隆さんの講演会でもありましたけれども、産学協同体質に対する反対、それと大学を解体するとか、『帝大解体』ってありましたけれど、そういうことの提起がなされた。それを受けて美学校もこの実験学校もあったと思うんです。
それなので、元の現代思潮社・美学校に戻りますと、そういう60年代に提起されたものがいまだに、特に日本ではきちんと継承されていないというか、きちんと考えられていないと思いますので、やっぱりその辺のところから考えることによって、60年代を単に昔のことではなくて、今に伝えていけるのではないかと思います。
ちょっと香港のこと戻りますと、この創建実験学校とか、67年動乱の資料が今出てきてアーカイブに入っているというのも、アンブレラ運動が起きまして、今まではとにかくそういうのは中共のせいだとか、暴動だと言われていた訳ですね。中国共産党に洗脳された人たちが暴動を起こした、と。ただ、アンブレラ運動後もうちょっと情報が出てきてから、やっぱりそういう説明は一面的なものにすぎないのではないか、と。映画とか海外からの本とかいろんな情報がすでに香港には60年代にあった訳で、単に中共対植民地政府との対立だけではなかった、むしろ世界的な60年代の運動の中でそれを見直そうと。今そういうインフォメーションがいろいろ出てきています。しかし、香港は一応自治的なことがあるんですけれども、やっぱりその辺を大学教育の中でいろいろやっていこうとすると、中国の方の締め付けがいろいろ厳しい訳ですね。

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ですから、オルタナティブな教育の場を作りましょうということで、これは『Foo tak building』という一つのビルの中に『Art and Culture Outreach』というのをアーティストの人たちがこしらえて、本屋をやったり、そこで出版物も作ったり、ディスカッションをしたりする場所にしています。

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これは『Rooftop Institute』というので、これも香港にあるんですけれども、これもアーティストが自分の家の一番ビルのてっぺんのところで、屋上ですね、屋上を塾みたいなことにして若い人たち、ここで日本人のアーティストも呼んでいるんですけれども、お互いに学習し合うという、そういう活動をしています。

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特にPK Huiさんという、大学教授だったんですけれども、彼はアンブレラ運動以後に大学の専任教授のポストを辞めて、実験教育の場を今、創造しようとしています。『流動共学』という名前で、いろんなところに移動しながらやる教育の場を作ろうと、この『流動共学』はアートの学校というわけではないんですが、わりとアートを中心にしていろんなことをやっています。主催している人たちはHuiさんもそうなんですけれども、年代が上の人が多いんですよ。60代くらいの人が始めて、それで今運営してたり参加してたりするのはほとんど若い人たちです。日本でもそういう形で美学校的なといいますか、真にオルタナティブなー今の教育の枠内で何かを変えるというのもいいんですけれどもーそうではなくて、むしろ今のものに替わる、今にないものを作っていくという、そういう場を作っていくことによって、そして、そこでアートと政治とかを語ることによって、自立学校や美学校、大学闘争の中で提起された問題が、また継承できるのではないかと、そういう風に思っています。

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あと、今日はあまり学生がいないのであれなんですけれど、(笑)これは最近友だちがロンドンに行って、こういう展覧会があったよと写真を送ってきてくれたものです。ここには『Every woman ought never to go out without a hammer in her pocket』女の人は外へ出ていく時はポケットの中にハンマーを持って行きなさいね、と書いてあるんですけれども、これは何かといますと、婦選運動、女性の参政権の運動の資料の展覧会なんですね。

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これは『Window Smashing』、婦選運動というのは、最初は婦人運動家の中流階級の人たちが提唱し始める訳ですけれども、実際に婦選を獲得するためには直接行動しなければだめだった。イーストエンドの貧乏人のクラスの女の人たちが実力行使に出る訳ですね、外に行ってデモをしたりして、それでこのスローガンになる訳です。みんな外に行く時はハンマーを持っていましょうね。そういうことによってしか、規則とかにとらわれずに、運動というかアクションしないと何も手に入らないということです。この展覧会がどこであったかというと、ナショナルアーカイブなんですね。国立資料館です。国立の博物館です。国立の博物館がこういう展示をしているんです。資料をただ並べるだけじゃなくて。日本の美術館や博物館だと常に中立性を求められるんですね。中立な美術はないと思います。中立な展示も意味がないと思います。ですから、こちらでやってらっしゃるベトナム反戦の展示は素晴らしいと思うんですけれども、やはり何かのメッセージを伝えるために私たちはアートや展覧会をするんであって、単に中立的なブツを並べるために展覧会をするのではないんです。
『今の学生たちへ 行動してもいい 規則に従わなくてもいい』とここに書きましたのは、60年代についての講義をしたのは秋学期で、今年の春学期にはフェミニズムの講座をしたんですね。それには日本人の学生も来たんですけれども、大正時代の女性アナーキストの話をした時に、『そういう暴力はよくない』と言うんですね。あと、『フリーラブとか不倫とかするのはよくない』とか、とにかくそういうルールに従わないことをしているから、日本の女性運動はダメだったんですよとか、女子生徒からそういうことを言われて、愕然としました。ルールを誰が作って誰のためにあるのかということをあんまり考えなくて、とにかくルールがあるんだから従わなきゃいけないみたいなことが、とても多いんですよ。そういうことを言った子に対して、私が何か言うより前に、ほかの学生が『それって違うんじゃない』みたいにすごく反論して面白かったんですけれども。今の学生たちというか日本の学生たちとか日本の人に向かって、とにかく何でもかんでも規則に従わなくてもいいということを伝えたいと思いますし、やっぱりこういう風な『Window Smashing』、こういうことを国立の博物館で出来るような、国立でなくてもいいですけれども、私たちの出来る範囲で、こういう形で60年代文化を今につなげて、今のこの状況を変えるようなシチュエーションを作りたいと思います。
ありがとうございました。(拍手)」

司会(佐々木幹郎)
「どうもありがとうございました。大変刺激的な話で(笑)見事にまとめられましたね。素晴らしい講演でした。嶋田さんありがとうございました。(拍手)」

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【質問】
水戸喜世子
「国会前のどこでパフォーマンスをされたのですか?」
嶋田
「国会議事堂の前の門のところです」
水戸喜世子
「別に何か像があって、そこの横に座ったということではないですか?」
嶋田
「あそこは何もないので、椅子を持って行って・・」
水戸喜世子
「何分くらい座られたんですか?」
嶋田
「行く時から金箔に塗っていましたから、何か不審者じゃないですか。(笑)もう向こうからお巡りさんがこっちを見ているなという感じはあったんですけれども、そこで椅子を持って行って座ろうと思ったら、もうパッて取り巻かれて『何ですか、あなたは』ということで・・」
水戸喜世子
「それは新聞にも何も出なかったんですか?」
嶋田
「出ないですね。『写真を撮っているだけですよ』と言ったんですけれども、『ここで写真を撮っちゃいけません』と言われて・・・」
水戸喜世子
「日本以外にはどこでやられたんですか?
嶋田
「日本以外はロンドンの大使館前と、ロスアンジェルスの従軍慰安婦像のところです。機会があればほかでもやりたいんですけれども」
水戸喜世子
「応援します」(笑)
嶋田
「一緒にやりましょう」(笑)(拍手)

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参加者A
「中国人の学生の話がありましたが、毛沢東と文化大革命は中国での評価はどうなんですしょうか?」
嶋田
「どうなんでしょう。一応、毛沢東は毛沢東で別個としてリスペクトして、文化大革命はダメでしたよみたいな感じらしいんですけれども、文化大革命の間に党の文化みたいなものがあって、バレーとかですね。ああいうものが称賛されて、普通のポップ・カルチャーみたいな歌謡曲とか、そういうものは本当に迫害されたですって。ですから、その辺の時代の抵抗としてのポップ・カルチャーみたいなことを、今いろんな映画になったりとか、確か去年、青春の何とかいう映画があったと思うんですけれども、それもバレリーナで共産党主導のバレーはしたくないんだけど、自分のやりたい踊りをするとダメだと言われるみたいな、そういうことの表現とかはできているらしいんですけれども、文化大革命自体の意味を検証するとかいうことは、まだなかなかできないみたいです。」
参加者A
「政治と文化がここのテーマだと思うんですが、ちょっと若い人に、日本人ですが、文化大革命に話をすると、あんなもの評価するのはとんでもないと言うので、やっぱり政治と文化をもっと検証する必要があると思う。」
嶋田
「あと、香港にいた時に、足立・若松映画祭がありまして、そこで赤P(赤軍―PFLP世界戦争宣言)を上映していまして、あれは中国本土では上映できないそうなんです。香港ではできたので、結構本土から若者が観に来ていて、私は観ても分からないんですけれども、一緒に行った香港の人が、彼女は元々上海の人で、ちょっと聞いたりすると、あの人は本土からだと分かると。結構本土の若者が来ていたというんですけれども、あの中でパレスチナの人が毛沢東の本を持っていたりしますよね、そこでみんなドッと沸いたりしたんですね。(笑)ですから、結構そのリアクションが、私はどういう意味かまだ分からないですけれども、まあ面白かったです。」

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参加者B
「フェミニズムについていろいろ研究されているというお話があったんですけれども、60年代から70年代にかけてウーマンリブが生まれたり、田中美津さんとかいろいろあったと思うんですけれども、その頃の運動に対してはどう思っているかお伺いしてよろしいでしょうか?」
嶋田
「今日、本当は来るはずだった青山学院大学の先生のチェルシーさんも60年代の女性についての研究をしているので、彼女の方が詳しいと思うんですけれどもー。フェミニズムの中では60年代は、上野千鶴子さんがおっしゃっているのですけれども、リブやフェミニズムが生まれたのはバリケードの中でおにぎりを作らされていたからだと。それに対しての異議申し立てということで、確かにその部分もあると思うんですけれども、何かそれはあんまり座りがいい話だと、私はちょっと思ってしまうんですね。というのは、ゲバルトロ-ザとか、女子大がいろいろ運動もしていましたし、女の子が実際にそういう破壊活動なりバリケードなりに加わったこともあるし、または、その中でおにぎり作っているけど、おにぎり作って何が悪いというのもありまして、女性がそういうことをしない、したくないからフェミニズムに行ったというのは、それに一理はあるとしても、ちょっとあまりに単純化しすぎているような感じがしてしまいます。フェミニズムの話を特に今若い女性に言っても、さきほども言いましたように『暴力はいけません』ってすぐに言うんですよ。暴力はあまねく暴力で、対抗暴力も無い。この間、セリーナ・ウイリアムスと大阪なおみのテニスの試合で、セリーナが何か言ったりラケット投げたりすることも暴力的だったからよくないとか、そういう感じなんですね。特にフェミニズムだけとはいいませんけれども、女子の中の暴力に対するアレルギーみたいな、暴力いけませんと言っていればいいみたいなところがあるので、やっぱり私はもっと女性と暴力について、特に一番最初に出しましたけれど、戦時中の日本の女性が暴力的でなかったとは絶対に言えないので、むしろその正反対であったので、もうちょっとその辺のところも深く考えていかないといけないと思います。あまりに全部を女性性(非暴力的)、男性性(暴力的)として分けるのは、 もうちょっと別の見方があってしかるべきではないかと思います。」
(拍手)

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(終)

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクト関西集会
「世界が見た10・8羽田闘争」
●日時:11月17日(土) 開場:13:30 14時~17時
●会場:エル・おおさか 5F 視聴覚室
アクセス:http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html
(最寄駅/天満橋駅から徒歩)
●資料代:1000円
講演1 アメリカから見た10・8羽田闘争、及び日本のベトナム反戦闘争
講師:幸田直子(近畿大学国際学部国際学科講師)
講演2 在日コリアンから見た10・8羽田闘争と韓国民主化運動
講師:金光男(キム・クァンナム)(在日韓国研究所代表)

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【お知らせ その2】
50年前の芸術はこんなにも熱く激しかった
「1968年激動の時代の芸術」展
10月7日に行われた10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会で講演したウイリアム・マロッティさんと嶋田美子さんが企画に関わっている展示会です。
●会  場:千葉市美術館
●開催期間:2018年9月19日から11月11日

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月9日(金)に更新予定です。

赤瀬川原平さん追悼第2弾として、1970年に出版された赤瀬川原平さんの初のエッセイ集「オブジェを持った無産者」の書評を掲載する。


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(表紙)

この本はエッセイ集ではあるが、いわゆる「千円札裁判」に関する文章が半分以上を占めている。
「千円札裁判」とは、1963年に赤瀬川さんが製作した模型“千円札”に関して警視庁が「通貨及証券模造取締法」違反で取り調べを行い、1965年11月に起訴された事件である。裁判の特別弁護人に美術評論家の瀧口修造氏が就任している。裁判では「懲役三月執行猶予1年」の判決を受けた。
本の書評は「現代の眼」1970年8月号に掲載されたもので、画家の中村宏氏が書いたものである。
中村宏氏は1950年代、政治的、社会的な事件や事象に取材して描いた作品群で「ルポルタージュ絵画」として注目を集め、絵画だけでなく、装丁、挿画、イラストなども手掛けている。1970年前後の作品には、空に浮かぶ蒸気機関車、セーラー服姿の一つ目の少女などがモチーフとして描かれている。早稲田祭ポスターや夢野久作全集の装丁などで作品を目にした方もいると思う。
中村氏の書評はやや難解な部分もあるので、理解を助けるために、この本にも掲載されている赤瀬川原平さんの「スターリン以後のオブジェ」という文章を先に読んでいただきたい。

【スターリン以後のオブジェ】「都立大学新聞」1968年10月掲載(引用)
『催涙弾、石ころ、警棒、ラムネビン、手錠、竹槍 - 私たちはこれらを「オブジェ」としてみることができるだろう。あるいは裁判所ではこれらすべてを「ブツ」という。裁判所でいう「ブツ」とは、かって犯行に用いられたもの、あるいは犯行に用いる予定であったもの、それらのいわゆる「凶器」が静寂を強制されている法廷の中に持ちこまれた状態である。
私たちのいう「オブジェ」も、その自立的であることにおいてこの「ブツ」とよばれる状態に似ている。しかし私たち「民間人」は「ブツ」のように静寂を強制できる法廷というものを特別にもってはいない。私たちは日常生活の中に足をひたしながら、そこに交叉する法廷状の空間を仮構し、そこにオブジェという命名を行うのである。だから私たちがオブジェとよんだにしても、それはいつかは投げつけられて、機能する催涙弾として私たちの前に現れ、私たちはそれに涙を流さずにはいられない。しかし私たちはそのとき催涙弾の恐怖とともに、法廷の中に置かれ、機能を留保した催涙弾にもまた別の不安を感じる。それは、催涙弾が相手の人間に投げつけるための使命をおびたものでありながら、その法廷状の空間における催涙弾は、その投げつけられる相手をも含めた「私たち」と同等であり、同等の権利を主張することの不安なのだろうか。いいかえれば、相手をも含めた「私たち」が、その催涙弾の使用者としての地位を奪われることの不安であるのかもしれない。
オブジェという名称が、はじめて私たちの周囲の日用品につけれれたのは、法廷ではなかったが、それはいわば法廷状の空間である美術館であった。1917年、ニューヨークの美術館に一つの便器を持ちこんだ下手人は、いわずとしれたマルセル・デュシャンである。彼は便器を便所から解放し、その解放された空間の一つとして美術館を選んだのである。私たちは便器を、私たちの排泄を受け入れ、下水道に導く使命だけを担わされたものとして認識している。そのようにして便器を支配し、管理統制している私たちの内部の権力をデュシャンは放棄し、便器に自由を与え、それによって彼自身の頭蓋骨の内部も自由によって満たされたのである。このような双方の互いに対応する解放の条件として、オブジェという名称が生まれた。
一方、同じく1917年、ロシア大陸で行われていたことは、これとはまったく対称的なことである。10月、ペトラグラードの彼らは同じく「自由」を得るために、自らの生活を支配する権力を奪取したのである。一方にならっていうならば、いわば彼らは便器をかち取ったということができるかもしれない。たとえばロシアよりもさらに東方にあった八路軍が、進撃した都市の水洗便器をそれと知らずに米をといだというようなエピソードを、私たちは祖先の帝国軍人から軽蔑的によくきかされる。しかし、そのようにしながら彼らは中国大陸を支配する権力を奪取し、その便器をも手中にしたのである。
この双方、ニューヨークの便器に対応するものと、アジアの便器に対応するものとが交叉し、完全に同居する一瞬間というものがあるに違いない。片や自由のために権力を放棄し、方や自由のために権力を奪取する。その双方をとりもつ「自由」というものは、それを志向する彼方にしか完成しないものであり、たとえ交叉するにしても、この双方はその交叉地点にとどまってはいない。それぞれの志向する自由の一応の実体化と同時に、ふたたびそれらはその交叉地点から遠ざかっていくのであろう。いやこの双方は、永久に志向する彼方で交叉する予定しかないのだろうか。
私たちが自由のために奪取しようとする彼方の権力とそれを手中にし、そして完成された権力とは連続していながら明らかに異なる方向に向いているのだろう。
しかし、私たちが外部の支配から解放されようとするとき、私たちにおおいかぶさる権力の奪取に向かう以外、最終的はないのであるが、その権力を奪取しようとする行為の先端で、私たちはもう一つの権力、己れの内部を支配している権力をひそかに放棄するのではないだろうか。ラムネビンはオブジェを通過してラムネ弾となり、旗竿はオブジェを通過して竹槍となるだろう。しかし、一瞬放棄されたかもしれない私たちの内部の権力は、再びラムネ弾、竹槍として認識を支配する。このような状況に迫られた放棄よりも早く、己れの内部の権力を自らが放棄するとき、おそらくそのときオブジェという認識が生まれるのだろう。
私たちが完全に、すべてを放棄するとき、私たちは完全に、すべてを蜂起する。というとあまりにも洒落らしくなってしまうが。しかしたとえそうなるにしても、私たちは蜂起するために放棄するのでも、放棄するために蜂起するのでもないだろう。その最前線に接近するにつれ、それらは統一の様相を呈する筈のものである。少々大げさになったが、ただその双方を性急に統一しようとすることほど、おろかなことはないだろう。それは最終的には官僚と、そして官僚的芸術を生み落すのがオチである。
いずれにしろスターリン以後のオブジェという課題が、おそらく私たちには潜在的にあるのである。その一つが模型千円札なのである。それはまた、デュシャン以後の闘争なのである。この模型千円札は、国家権力によって拉致され、「ブツ」として法廷の中に置かれたのだ。(後略)』

それでは、「現在の眼」(1970年8月号)に掲載された書評を見てみよう。

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(現代の眼)

【著者への手紙】
『オブジェを持った無産者』赤瀬川原平著   中村 宏(画家)

本誌編集部より電話あり。“著者への手紙”欄で貴殿の『オブジェを持った無産者』をあつかいたいので、ひとつ頼む - と。
苦しかったけれども一応ひき受けた僕は、貴殿に向けて手紙を書かなきゃならんはめにおちいってしまった。
実は、他人に頼まれて手紙を書くなんぞ、とても僕には出来ないことだし、第一、貴殿に今さら手紙など、ちとしらけすぎている。
なによりも、数年にわたる内容をもつ、貴殿のこの本に対して、ちょっくら何か書けと言われても、僕の手にあまるものだ。いわばこのエッセイ集は貴殿の珠玉編であるわけだろうから、僕などの手あかに染めぬほうがいい。
と、まあ逃げの手を打ってはみたものの所詮は何か書かなきゃならんのだ。困った。どこから、何を書こうか。原平さんよ、何か言ってくれ。「手紙なんぞいらないよ。よく読んでくれればそれでいいよ」とか、なんとか。
ぐちばかり、ぶつぶつ言っていても始まらない。ともかく、とりとめもなく、書き始めることにするよ。それにしても貴殿は文章がうまい。ちょっとしたエッセイストだ。絵かきにしておくのは惜しい -いや失礼 -。過日東京と言う精神的へき地に作られた美学校と言う、図画工作教室の廊下で、この本を貴殿から渡され、今もこの本の装丁を見ているわけだが、まず目にとび込んで来る本のケースは、なかなかにくにくしいものだ。荷札にカモフラージュしてはり込んだタイトルの手ぎわよさは、ちょっとしたもんだと思うよ。すでに表紙のハンマーとはさみ同様、この本自体も法権力へ向けての第X号目の物的証拠であることを予告したわけか。
マルセル・デュシャンの便器に、いたく思いを寄せる貴殿は、しかし次のように言う。
≪・・・(デュシャンの)便器にとっては、輸入された、上からの革命であり、便器の上には再び美術館という支配者が根をおろした。(中略)一方、ハイレッド・センター(筆者注:高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の名前の頭文字を英語にしてつなげたもの)のオブジェは、その後にできた、デュシャン以後、あるいはスターリン以後のオブジェである。偽造されたオブジェ、あるいは模造されたオブジェである・・≫
つまりデュシャンの美術館的有産者オブジェよりも、もっと観念的、いや虚構的、いや無産者的であるのが、貴殿のオブジェと言うわけか。なるほど、貴殿のオブジェは、たしかに空間的論理的呪物的であるよりも、まず時間的心情的行為的である。そして、「タブロウ」(筆者注:壁画や彫刻に対して,カンバスや板に描かれて額縁に納められた絵)にはならず、すべて「情況」となる。
≪・・・そしてたしかにこれもオブジェであるのだが、これは<東欧風>の便器とは違って。我々の<行為>を当然のことのように要求し、誘発し、山手線に乗って裁判所へ行ったりすることを、誰にでもせがむのだ≫。
だが、どうだろうか。「便器デュシャン」としてのデュシャンから、デュシャン自身、「便器以後」をつくっているのではないだろうか。デュシャンのオブジェ観念は、便器止まりではなく、もっと深部を、つまり、オブジェ ⇔ 情況 ⇔ オブジェよりも、オブジェ ⇔ 論理 ⇔ オブジェの円環を提示しているはずだと思う。便器からガラス作品への方位をそう見るのだが、いかが。
要するに、便器のデュシャンは「美術館」と「お芸術」に唾棄したかっただけのこと。便器でも何でもよかったのではないか。痰壺でもいいわけだ。公衆便所を黄金でつくることにかかわって、革命が眼前にある、とレーニンが言ったと噂を流すダリの観念、あるいは60年安保闘争中、国会議事堂正面玄関の階段に立小便の放列をした若者たちの行為と、つまりは、同じ、情況オブジェ論につきているのではないだろうか。
ガラスのデュシャンは、情況オブジェ論から一歩出て、各オブジェ間の論理的解明へと向かう、論理オブジェクト論を示していると思える。僕が考えるオブジェ観念は後者に属する。たしかに貴殿が指摘するように、オブジェを「ブツ」と言った方が、何かはっきりする。しかし、すでに貴殿のオブジェは「法廷」という「美術館」の軍門に下ったことのその意味から「ブツ」に転位したのである。この場合の「ブツ」とはむろん物質のことではなく、あくまでも物件のことであり、情況の中の価値品目である。
情況ぎらいの僕が思うには、やはり芸術作品と言われる品目は、どうさかだちしても「美術館」からはぬけ出す出来ないと思う。あたかも、われわれ自体の生活が、国家あるいは階級関係からぬけ出せないように、だ。ああ、いやだ、いやだ!
ひとり、芸術品目だけが、かりに「美術館」からぬけ出せたとしても、もうひとつ外側の「美術館」 - 国家、がまちかまえている。むしろ国家へ近づくだけの話だ。国家へ近づくことを、「情況化」という。ここにあっては美術館を有するデュシャンの便器も貴殿の法定を有するオブジェも、同質のものとなる。「行為」とは観音様の手のひらの上の悟空であったのだ。
芸術品目、すなわちオブジェは、このように情況とかかわればかかわるほど、国家権力へ近づく。つまりオブジェにおける呪物性をさけて、逆にオブジェを拡大すればするほどオブジェは情況化し、国会意志の御意にめすことになる。この辺のあたりで「芸術と政治」なんぞという低次元の問題をもたげる。
さて、オブジェは、あくまでも拡大してはならず、むしろ逆に、呪物として自閉させ、その果てに論理物質としてのオブジェを見る、としなければならないものだと考えるがいかが。オブジェとは僕が思うには、あくまでも、呪物であり、物質の内側において覚醒する論理そのものでなければならないのだ。したがって、情況と係わり合うことではなく、情況は、あとからつくられるものとなる。呪物とはまた、物質に向かう微粒子的自覚であり、それはタブロオの自覚の世界へとつながっていると思う。
貴殿のオブジェは「物品贈呈式」を経て拡散していったらしいが、どうも僕には疑問だ。しかし、貴殿のオブジェは贈呈出来るものなのだろう。僕のオブジェ、いや呪物は、贈呈など出来るしろものではない。古典的女学生のごとく恥ずかしくて、とても、とても ―。
いや、まったくへんな話になってきたようだが -。それにしても貴殿の精神には、一貫してパロディー魂が感じられて、痛快だ。なかんづく、社会主義リアリズムに対して「資本主義リアリズム」とはねえ。面白い。
「スターリン以後のオブジェ」とか、「順法絵画」とか、「蒼ざめた野次馬を見よ」とか「野次馬軍団」とか、「芸術は武装放棄せよ」等々。なによりもエセ「千円札」とはパロディそのもの。本当に痛快だよ。だけどここだけの話だが、本当の「ニセ金づくり」てのは、本当の芸術家だと思うよ。ニセ金つくるやつなんざあ、きっと自閉症にきまっている。芸術なんかも、自閉症患者のつくったニセ世界の絵図面だぜ。
≪・・・“千円札裁判”は、私にとっては救いであったのだ。私は“梱包”をつくり“千円札”を作ってからやることがなくなってしまい、心臓ノイローゼと同時に極度の睡眠恐怖症におちいっていた≫と、貴殿はあとがきでかいている。少なからず、ほんの一部分ではあったが、世間様をさわがせた罪人の、真人間に対する、これは詫びであるように、僕にはとれる。
いいではないか、「懲役三月猶予1年」になろうが「無罪」になろうが、実はどっちでもよかった、と言う罪。そして裁判を利用して心臓ノイローゼや睡眠恐怖症をなおし、あまつさえ「オブジェを持った無産者」を出版したと言う罪も、貴殿のこの1通の心のこもった詫び状で、すべて許されるのだ。腹黒いユーモア、おっと“黒いユーモア”などと、きどらないで、罪を詫びる、そしてそれを許す「悲しくも優しいユーモア」の方が、僕には分かるような気がする。
≪・・・ひょっとすると、私のまえに逆光の中の人影として見えた瀧口氏は、エレベーターで昇って廊下を歩いてきたのではなく、最初から逆光を背にして、逆光の窓の外側からこの廊下にはいっていたのだろうか≫と、貴殿の恐怖は瀧口修造氏をとらえる。
悲しさを理解したもののみがもつ恐怖。その恐怖をもっても理解した瀧口氏。本当は瀧口氏こそ、貴殿に向けて手紙をかくべき人ではなかったか。

(現代思潮社刊・B6版・363ページ・980円)』

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(裏表紙)

(終)

10月27日の新聞を見ていたら「赤瀬川原平さん死去」という見出しの記事を見つけた。「えー!?」という感じである。あの赤瀬川さんが死んでしまった・・・。(絶句)

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(新聞記事)

赤瀬川さんは、私の大好きな芸術家であり、作家であり、写真家(カメラマン)である。
ちょうど翌日の10月28日から千葉市美術館で開催される「赤瀬川原平の芸術原論展」を見に行こうと思っていた時だったので、よけいショックだった。
10月28日は少し風は強いが秋晴れのいい天気だった。
千葉市美術館は千葉駅から徒歩15分ほどのところにある。建物の下の部分は千葉市の中央区役所になっており、美術館は上階にある。
美術館に到着すると、正面に人だかりがしている。カメラを持った人たちもいる。赤瀬川さんが死んだということで、美術展の初日ということもあり、取材か?と思ったら勘違い。全く関係のないCMと思われる撮影スタッフの人たちだった。
美術館の入り口には「赤瀬川原平の芸術原論展」のポスターが貼ってある。美術館へのエレベーターは私一人。もっと人がいると思ったのだが・・・。

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美術館の館内に入ると、入口に
「去る10月26日、赤瀬川原平氏がお亡くなりになりました。77歳でした。ここに、生前の氏の活動に対し改めて敬意を捧げるとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。」
という小さな紙が貼ってある。
美術展のパンフレットによると
【赤瀬川原平(1937−)は、前衛美術家、漫画家・イラストレーター、小説家・エッセイスト、写真家といった複数の顔を持つ芸術家です。 
 前衛美術家としてその経歴をスタートした赤瀬川は、1960年、篠原有司男、吉村益信、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加。1963年には中西夏之、高松次郎と「ハイレッド・センター」の活動を開始し、「反芸術」を代表する作家となりました。またこのころ制作した一連の《模型千円札》が「通貨及証券模造取締法」違反に問われてしまい、1965年より「千円札裁判」を闘うことで、その名は現代美術界の外にも広まって行きました。同裁判の控訴審が終了した1968年頃からは、漫画家・イラストレーターの領域に活動の場を移し、『櫻画報』の成功によって一躍パロディ漫画の旗手となります。さらに70年代末より文学の世界にも本格的に足を踏み入れ、1981年には芥川賞を受賞しました。80年代以降は、「超芸術トマソン」「路上観察学会」「ライカ同盟」の連載や活動を通して、街中で発見した奇妙な物件を写真に記録・発表しました。また1999年、エッセイ『老人力』がブームを巻き起こしたことは、記憶に新しいところです。 
 このように赤瀬川は、とてもひとことでは言い表せないほど多彩な活動を展開してきました。一方で、様々な分野を大胆に横断しながらも、60年代から近作まで、その制作への姿勢は一貫しています。彼は何かを表現したり、創造したりすることよりも、卓越した観察眼と思考力を駆使して、平凡な事物や常識をほんの少しズラし、転倒させることを好みます。そうすることで見慣れた日常を、ユーモアに満ちた新鮮な作品へと変えてしまいます。60年代の《模型千円札》《宇宙の缶詰》にしろ、《トマソン》『老人力』にしろ、この独特のズラしや転倒の方法論から生まれました。 
 赤瀬川原平は、その独創的な作品と発想によって、日本の現代美術史において揺るぎない地位を築く一方、いまなお若い作家たちに刺激を与え続けています。本展は、500点を超える赤瀬川の多彩な作品・資料を通して、50年におよぶ氏の活動を一望します。1995年に名古屋市美術館で開かれた「赤瀬川原平の冒険−脳内リゾート開発大作戦」を除けば、これまでその活動が本格的に回顧される機会はありませんでした。今回、60年代の前衛美術はもちろんのこと、70年代の漫画・イラストレーション、80年代のトマソン、路上観察学会の仕事にも大きなスペースを割き、美術分野を中心に、この作家の幅広い活動を展観します。さらに土方巽、唐十郎、足立正生、小野洋子、瀧口修造、林静一、つげ義春、永山則夫、中平卓馬、鈴木志郎康らとの交友を示す作品資料も展示することで、当時のより広い文化状況の一端もお見せ出来ればと思います。】
とのことである。

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(パンフレット)

当初は赤瀬川さんの50年に及ぶ活動の回顧展として企画されたものと思うが、直前の赤瀬川さんの死によって、遺作展になってしまった。まだ存命の方の作品の回顧展と、亡くなった方の作品の遺作展では、見る側の気持ちも違ってくる。
会場には、1960年代の「読売アンデパンタン」展に出品された作品、「ハイレッドセンター」時代の活動を記録した写真、梱包作品、シェルタープランの模型、宇宙の缶詰、そして、伝説的な千円札裁判で押収された模型(自家製)千円札、模型千円札で梱包されたカバン・ナイフ・ハサミ・カナヅチ、大日本零円札などの作品が並んでいる。
この時代の関係書籍としては、以下のようなものがある。

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「赤い風船 あるいは 牝猫の夜」(1963年)

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「オブジェを持った無産者」(1970年)

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「いまやアクションあるのみ!」(1985年)

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「東京ミキサー計画」(1984年)

次のコーナーには、娑婆留闘社発行の獄送激画通信、朝日ジャーナルに掲載された「桜画報」の原画、各種雑誌への掲載作品(週刊アンポの表紙、現代詩手帖カット、映画批評表紙など)、ポスター(三里塚幻野祭、第2回国際反帝会議、赤軍―PFLP世界戦争宣言)などが並ぶ。
この時代の関係書籍としては以下のようなものがある。

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「追放された野次馬」1972年)

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「桜画報・激動の千二百五十日」(1974年)

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「週刊アンポ」(1970年)

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「朝日ジャーナル1971年3月19日号掲載の桜画報」

次のコーナーでは、「トマソン」と路上観察の写真群が並ぶ。「トマソン」とは「むかしジャイアンツの助人外人にゲーリー・トマソンがいた。高額の契約金でジャイアンツに入団しながら、毎打席ごとに三振の山を築き上げた。人間扇風機といわれながら、打者としての機能を失くしてベンチに控える姿は、そのまま超芸術の構造をあらわしていた。以後私たちはその存在を胸に焼きつけながら、超芸術物件をトマソンと呼ぶようになったのである」とのこと。
町の中の道路や塀や建物などに、人知れずひっそりとある造形物、トマソン=「超芸術」物件の写真が並んでいる。
私もカメラを趣味としているが、なかなか「超芸術」物件は発見できない。というかカメラで撮る自分自身の自意識に縛られている。これらの写真を撮る境地まで、まだ達していないということである。
この時代の関係書籍としては以下のようなものがある。

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超芸術「トマソン」(1985年)

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「東京路上探検記」(1986年)

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「路上観察学入門」(1986年)

赤瀬川さんは作家尾辻克彦として芥川賞を受賞しているが、千葉市美術館では作家としての作品は展示していない。
「赤瀬川原平×尾辻克彦」という文学と美術の多面体展が「町田市民文学館ことばらんど」で12月21日まで開催されているので、作家としての赤瀬川原平に興味のある方は、そちらの展覧会へどうぞ。

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「父が消えた」(1981年)

時代ごとの赤瀬川さんの関係書籍を何冊か紹介したが、1冊となると、この本がいいかもしれない。赤瀬川さんへのインタビューを基に作られた本である。「全面自供」のタイトルどおり、自伝的本である。

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「全面自供」(2001年)

このブログを書きながら、本棚の赤瀬川さんの本(尾辻克彦を含む)を数えてみると、29冊もあった。私の蔵書の中ではダントツで1位の著者である。朝日ジャーナルや現代の眼、構造、現代詩手帖など関連書籍を含めると、どのくらいあるか分からない。
いままで写真で紹介した本は、私の本棚の中の一部である。
冒頭にも書いたが、赤瀬川原平さんは私の大好きな芸術家であり、作家であり、写真家(カメラマン)である。
このブログのタイトル「野次馬雑記」も、以下の赤瀬川さんの文章に影響を受けて付けたものである。
「野次馬軍団宣言
東京に野次馬が出る。蒼ざめた野次馬である。ふるい東京のすべての実権派は、この野次馬を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。警視庁と新聞社、検察庁と裁判所、体制内反対派と体制内賛成派。・・・・
万国の野次馬 蒼ざめよ!」

千葉市美術館で赤瀬川さんの作品や写真を見ながら、その作品や写真が出来あがるまでの行為(アクション)そのものが、私たちを惹きつけ、刺激するものだということに改めて気付かされた。
出来あがった作品や写真は、行為の結果として美術館に展示されている。それは行為の到達点であり、到達点だけを見ても、その作品や写真の意味を理解することはできない。
作品や写真が出来あがるまでの過程、それを作る行為そのものが作品であり芸術なのである。それらの行為(アクション)は、私たちに現実(対象)が持つ既定の意味への疑問を投げかける。与えられた既定の意味をそのまま受け入れて生きていけば、何も考えることはない。体制側にとっては都合のいいことである。既定の意味に疑問を持たせないことが、体制を守ることなのである。
しかし、行為(アクション)が現実(対象)への疑問を投げかける時、私たちを取り巻く世界は変わっていく。
赤瀬川さんの「ゲージュツ」の核心は正にそこにあるのではないだろうか。

合掌。

※「赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで」千葉市美術館で12月23日まで開催。

(終)

【お知らせ】
「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が12月6日(土)に開催されます。
12月6日(土)に「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が御茶ノ水の明大紫紺館で開催されます。
土屋さんは、砂川事件最高裁判決無効の裁判闘争を現在行っています。その闘いを支援するとともに、土屋さんも関わってこられた明大学生運動60年の歴史を振り返るというのが、この集いの趣旨です。
明大関係者が中心となりますが、それ以外の方々にも参加を広く呼びかけています。多くの方の参加をお待ちしています。

○日時  2014年12月6日(土) 午後6時~9時
○会場  明大紫紺館(JR「御茶ノ水」駅下車 徒歩8分)
○会費  八千円
○申込み 11月25日までに下記ホームページのコメント欄に連絡先を明記の上、申し込んでください。

ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」



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