今回のブログ記事は、「朝日ジャーナルで読む1970年代」シリーズの3回目。1971年1月22日号の「朝日ジャーナル」に掲載された「総合生協への道-都下鶴川団地からの報告―」という記事である。
この記事の著者は中村幸安氏。中村氏は、明治大学学生会中央執行委員長として、60年安保闘争を闘い、その後、明大工学部の講師となるが、69年から70年の明大闘争では、助手共闘の中心となって活動された方である。建築科の講師ということもあり、「NPO法人建築Gメンの会」の理事長をされていた。
中村氏は当時、記事の「鶴川団地」に居住しており、2002年に講師を退官された時に配布された資料の中で次のように述懐している。
「1968 年に購入した『公団分譲住宅』が、実は欠陥住宅であることが判明したのは、1969 年である。大学は学園紛争の真っ直中。住居は欠陥問題で大騒ぎ。自分の問題の解決も図れない者が、どうして世直しなんかできるものかと主張を繰り返してきた者としては、自分の住まいの問題を自分で解決する良い機会訪れたと言うわけである。」

記事が長いので、今週と来週の2回にわけて掲載する。

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【特集・71 市民運動の重層化 総合生協への道 -都下鶴川団地からの報告― 中村幸安】(朝日ジャーナル1971.1.22)(前半)

<分譲住宅の雨漏りと駐車場>
  われわれの共有する住民運動を語る場合、所有する住居の特殊性を説明しておかねばならない。その特殊性とは、われわれの住居は公団分譲住宅団地であるという点である。土地は共有であり、個人所有に帰属するのは五階建てアパートの専用空間のみである。したがって、いやおうなしに住民は共有地、共有施設の管理運営を通してコミュニケートせざるを得ない存在なのである。
 しかし、この存在形式が普遍的なものとして運動創造への基盤になるなら鶴川六丁目を語る必要はない。ところが、日本住宅公団から分譲された共有・専有資産(施設)は1年(造作・植栽)と2年(躯体)にわたる瑕疵補修期限がついたものであることによって、瑕疵補修請求運動が特殊な形で組織されることになったのである。管理組合の理事会は住民の中の建築専門家による建築専門委員会を組織し、全面的に日本住宅公団に当たることにし、瑕疵に関する一切の問題を10世帯単位から選出される自治委員(自治の階段代表)を通して処理するようにし、住民に建築知識を付与し、住民による補修工事の監視体制をとることにした。そのためには、団地を一巡して、クレーム例を解説し、集会所においてスライドを利用してクレームの内容と補修工事監視上の留意点を教示した。
 このことによって、天下り的告発運動を下部に定着させ、住民総体で買い取った商品の瑕疵を補修させ、直接公団の営業所へ出向き大衆団交も再三再四もってきた。この運動の経過こそ、それ以降の運動の方向性を想定したものといえるだろう。買った商品が雨もりするので、それを至急補修してくれるように請求しても、それが容易に運ばないことの本質とその社会構造を住民はいやという程見せつけられたのである。あたかもこの瑕疵補修請求運動の運動論と組織論が検証されるような恰好で表面化してきたのが路上駐車追放の住民の声である。
 入居時において既にパンクしている公団団地の駐車場の実態は説明を要しない。したがって入居早々に、共有財産としての道路(私道)に私有財産としての自家用車がやむなく駐車しはじめ、子供の安全が脅かされることになった。自然発生的に自動車を所有する者、しない者の如何を問わず、道路からの退去を要求する声が起こった。この現象はどこの団地でもあることである。しかし、この問題に対処するため、鶴川六丁目の自治会と住宅管理組合は「鶴川団地駐車場対策委員会」を組織し、管理組合の代表とマイカー族で結成していたモータークラブの代表と自治会の代表を参加させて、路上駐車をはじめとする駐車場問題の抜本的解決の方途を諮問した。答申は「報告書」として提示され、「報告書」を中心に自治委員会で大衆討議にかけ、暫定処置として、子供の安全や排気・騒音の影響を比較的受けない私道と市道を積極的に仮設駐車場とすることに決定したのである。
 この駐車場問題を契機として、住民の間には10年先、20年先はともかくとしても入居して2年に満たない段階で駐車場がパンクする団地とは一体「何」なのか、と住宅政策そのものに、激烈な討論の結果もふまえ疑問を抱きはじめたのは事実である。その結果が、駐車場問題を解決するためには住民が共同出資して駐車場用地を買収すべきだとする意見と、与えられた駐車場に入りきらない自家用車を持って入居する方がおかしいという両派(本質派と秩序派)にわかれつつも、目下、駐車場拡大の方向に住民の意識が向かっていることは事実である。

<職住分離の壁に挑戦>
 瑕疵問題、路上駐車問題、住宅管理問題を個別登りつめたわれわれは、さらなる壁の除去のために、公団分譲住宅管理組合の「連絡協議会」の結成を働きかけ、連帯して闘うことを呼びかけた。東京、神奈川、千葉、埼玉県下の24の管理組合の参加を得て、その第1回の会合を持ったのは69年の9月20日である。準備会をもってから、1ケ月を待たずしてわれわれは「連絡協議会」の結成に成功したのである。
 この協議会の場を通してわれわれが把握したものは「アウシュビッツ団地」の実体にほかならない。「職住分離」がもたらす居住地の限りない退廃は、一切の問題を自治能力によって解決し得ないくらいにしており、職住分離の政策がものの見事に体制の意図する方向に進行していることであった。
 しかし、この状況からの脱出は単に管理組合が連帯するだけではなく、各地に存在する自治会そのものが連帯する必要があるという確認に至り、70年の5月31日に「町田市公団公社自治会連合会」の結成を見るに至るのである。そして、この連合会は昭和45年度活動方針の「はじめ」につぎの一文を載せた。

「しかしながら、このような人口増加にもかかわらず、教育施設の整備はまったく遅れ、教室が不足し、保育所が不足し、教員、教材が不足しております。また、交通機関も不足し、バスは超満員で乗り残しがあいつぎ、電車も超満員でのろのろ運転に終始し、タクシーが足りず1時間以上待たされる。消防設備はさらに遅れ、急病人が出ても救急車が来ない。それどころではない。医者がいない。安心してかかれる医療施設がない。保健所も貧弱だ。というように団地住民は無計画な団地造成政策の被害者であります。
それだけではなく、団地内の物価はたいへん高く、しかも品不足でよい品を安く手に入れることができない。駐車場が不足し、路上駐車により被害をうけているのは一般住民はもとより車の所有者も例外ではありません。
 かかる現状の認識の上にたって個別に進みつつ共に撃つことで連帯し合ったのです。」

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 1970年3月1日、鶴川六丁目(鶴川団地東地区自治会)は、慎重な検討の末、独占メーカーの牛乳に対抗し、全販連と共同し生産者農家の原乳を加工している「小岩井牧場・小岩井牛乳」を住民に供給することにした。当時、生協や団地自治会で扱っていた牛乳価格をみると、最低が関西主婦連会館内で販売されていた180cc―18円の時実牛乳であり、鶴川六丁目の自治会牛乳は200cc―17円50銭(セルフサービス)であり、配達して19円という格安のものである。しかも、「本物の牛乳」とあって非常に好評を博した。
 配達は住民学童のアルバイトにより、事務、会計は住民の参加によって賄い、収容能力三千本の冷蔵庫も全販連のはからいで管理事務所横に設置することを管理組合理事会は積極的に承認し、上屋の建造に当たっては立替払いをしてくれるまでに、各機関の協力によって牛乳供給活動は軌道に乗り、現在は物価値上げの中にあって200ccの牛乳をセルフサービスで17円に値下げし、配達で19円50銭という価格で供給しているのが実情である。しかも、単なる斡旋業としてではなく一切合切住民の手によって賄っているのである。
 牛乳供給を開始したわれわれの自治会は1970年度の活動方針の主要な柱として「生活協同組合の設立」をかかげ「住宅環境整備」をかかげた。筆者が管理組合の理事をやめ建築専門委員会委員長として瑕疵問題を引継ぎ自治会の事業部長に就任したのは、文字通り「生協設立」のためであった。6月から生協設立に向けての活動が開始され、地元養鶏農家との鶏卵の取引を再編し取引価格は東京生鮮市場の取引日の全販連価格を基準とし、週1回集会所で事業部の主婦が販売しはじめ、引続き農生産物の販売も開始した。明治大学農学部誉田農場、千葉大学園芸学部からの直送野菜を「夕市」と命名して自主販売した。
 こうして、単なる安売り機関としての事業部や「生協」とは違い、地元の生産者との結合をはかり、業務全体を住民の直接参加によって行う、というさらなる共同体(コミニュティ)の創造に向けて我々の運動は飛翔しはじめたのである。この状況下に降ってわいたように突出されてきたのが通常料金の3倍の運賃で、定期券が使えないという「貸切深夜バス」であった。

<深夜バスボイコット闘争へ>
 この「深夜バス」なるのもは、運輸省、陸運局と私鉄資本が1970年3月の段階から準備したものである。バス料金の改定が困難な折柄、同一の路線を同一のバスが走るのに、従来の終バス以降は、別事業の貸切バスとして別途料金を利用者に課してくるというものである。牛歩に似た行政事務手続きも、このときばかりは、7月16日に私鉄神奈川中央交通が陸運局に申請し、何と7月18日に認可されたのである。青天のヘキレキともいうべきこの大衆収奪の毒牙にわれわれは予想以上の冷静さを維持しえたのは、既述したような運動を既に共有しえていたからだといえばうぬぼれだろうか。
 われわれのうちのだれからともなく、「深夜バス」をからっぽにして走らそうと、声が出てきたのは、神奈川中央交通や陸運局担当官との交渉を大衆的にもやったあとのことであった。7月27日遂に「深夜バス」第1便が発車する日、われわれは住民オーナーの自家用車を13台動員し、第1便のバスに1人も乗らない状況をつくり出すことに成功した。
 このわれわれの反対運動に呼応して、東京バス協会(52社で都営バスも含まれている)は①「深夜バス」と従来の終便との間は間隔を置くこととし、現行の終便を延伸することは原則として行わないこととする。②現行の23時以降のバスとこの「深夜バス」との間には、当然運賃格差などが生ずることとなるが、当分の間はそのままとし、運賃改訂期等に検討することとしたい。③「深夜バス」の特別運賃は、タクシーの割増による一人当たり運賃支出額を考慮の上定める。一般の定期券は原則として認めないこととしたい。という申し合わせ事項を決定し、独占禁止法に抵触する内容のものを出してきた。
 しかし、われわれの戦列も拡大し、鶴川のボイコット闘争を支援する多くの団体が名乗りをあげてきた。われわれが「深夜バス」をボイコットしている理由はこうである。
 『新経済社会発展計画』は「都市計画などによる生活環境の整備に当たっては、地域住民の意見の反映に努めることが必要であり、都市地域の広域化、人口急増による地域社会の再編成等に伴って生ずる地域的な利害の調整に十分留意しつつ、合理的な方法によってこれを実施する」とうたっている。
 しかしながら、現実を見ると、これら諸問題の解決に名をかり「公共料金の値上げ」「租税負担の強化」「受益者負担の原則の徹底」等によって、すべての経済負担を勤労者、住民に転嫁しようとしているのである。それに加え、「収益性の確保しうる」ような事業は「民間事業主体」に委ねるというにいたっては、われわれはそれを黙過できない。生活環境整備に関する資金は社会資本によって賄われるべきであり、政府、地方公共団体、それに利益企業が負担すべき筋合のものである。
 われわれは好き好んで陸の孤島とよばれる団地に住んでいる訳ではない。土地の高騰、賃金の相対的低下という関係で、所得に見合った居住地を選ばざるを得なかったのである。ところが住んでみると、全くといってよいほど、建設行政と運輸行政ばかりではなく、行政側の一致した施策が存在していないことに気付いたのである。鉄道が午前1時5分まで駅に勤労者住民を運んでいながら、バスは午後10時45分を終便としている。新宿駅から1時間を要することを考えると、職場を9時に出ないと「バスに乗り遅れる」ことになるという勤労者の生活は、生活環境として正常なものだろうか。しかも、この「深夜バス」は通常バス料金改定の政策的布石であることを東京陸運局長がわれわれに公言している。
 また、60円という料金の根拠は全くない。この60円の根拠はといえば、東京バス協会もいっている通り、タクシーの相乗り料金を見計らって出してきているものであり、全く原価計算の根拠はないのである。このことは、われわれがボイコット運動を開始すると同時に会合を定期的に持ち始めた神奈川中央交通の労組員の証言によって自治委員全員が確認していることでもある。神奈川中央交通といえば、常にバス企業の中で合理化の先兵をつとめ、ワンマンバス・自動チケット制、車内放送制をいち早くとり入れた会社であり、有価証券報告書にも、組合は上部団体に属していないことを誇らしげに語る会社でもある。運転手の労働災害率はきわめて高く、運転士の平均睡眠時間は5時間そこそこという発言がわれわれの自治委員会の席上で運転士によってなされているのが実情である。

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<タクシーより安いか>
行政、会社側は深夜にバスを出せば経費もかかるという論理をもって運動圧殺に乗り出したが、この論理を適用するなら、早朝割引を割増しにしなければなるまいと住民は反論した。また、午後10時45分までは経費は変わらず25分あとの午後11時10分からどうして経費が急増することになるのだろうか。
 それに、この深夜バス運行で、神奈川中央交通と陸運局は一体となって違法行為を行っているのも事実である。申請されたバスは2台であり、運転士1人に補助者1人の同乗が貸切バスに義務づけられているにも拘らず、初日からバスは1台で往復し、運転士は1人であった。しかし、原価計算では、バス2台、運転士1人、補助者1人で60円を妥当とデッチあげておきながら、実際に走っているバスは申請内容に似つかわしくないものなのである。
 われわれは、これらの事実を大衆的に暴露する中で不退転の決意をもってボイコット運度の継続発展に踏み切ったのである。われわれの非妥協的な代替手段を共有化した闘いは、過去の住民運動で見られなかった成果を引出した。11時以降の通常料金による終バスの延長を行わないと申合せた東京バス協会の確認事項を反古とし、現実に11時10分の「深夜バス」を普通バス料金にし定期券が使えるようにしたのである。
 しかもわれわれの闘争は地域の特殊性から出発しつつも、バス企業の労働組合員(運転士)と結合することによって、問題の「階級性と政治性」を明確化してきた。
 しかし、時間延長そのものが「深夜バス」と抱き合わせで出されてきている限り、われわれの闘いは続くであろう。「時間帯による公共料金の二重価格制」は。<地域別料金><目的別料金><混雑度別料金>制へと住民、勤労者の≪差別≫化の方向で出されてくるのは必至である以上、この政府と独占企業が一致して出してきている国民不在、住民不在の<悪政策>を撤回させなければならないだろう。
 新聞値上げ反対の際にも、ある新聞社の広告に出されたように、「古新聞も値上がりしているから、古新聞代を差引けば・・・」という論理を新聞社は採用した。それが、この深夜バス問題ではもっと強固な<壁>として存在したのである。「20円が60円になったのは不当である。しかし、『深夜バス』はもともとわれわればタクシーに乗って帰っていた時間なのだから、タクシーに比較すれば随分安いではないか」という、本質論を抜きにした経済性の比較論は市民社会の日常秩序とさえ化しているのである。
 この<壁>に対し、真正面からわれわれは対峙した。反対運動のエネルギーまでも「労働」に換算していくのなら、一切の自治会活動も赤字だからやる必要はない。また、問題の本質を抜きにして、「バス」と「タクシー」を「乗物」という概念で取扱ってはならない。「バス」は公共企業、公共事業の立場で捉えるべきものであり、「味噌も糞」もごっちゃにしてはならないことを説くとともに、反対していかねばならないのは「深夜バス」だけではなく、諸物価の値上げに反対していかねばならないことを説いた。そして、この「深夜バス」問題をバス会社対住民の問題から自分の中にある<会社対自分>の問題に置換えていったのである。
 しかし、<運動>そのものを「採算性・経済性」で論じようとするのは、「労働組合運動」そのものの中に貫徹していることを見ておかねばならない。70年安保を「闘う」と宣言した総評をはじめ各組織は「闘争資金・弾圧に対する救援資金がない」ことを理由にサボタージュしたことを思うと、「職住分離」のイデオロギー支配は、骨のズイまで貫徹しているといわざるを得ないだろう。

(次週に続く)