野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。

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今回のブログは、6月7日のNo519で掲載した関西学院大学闘争の記録の続きである。1969年1月にバリケード封鎖された校舎内の写真と、「卒業拒否者の独白」を掲載する。
まず、1969年1月の各学部封鎖の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
69.1.6 全共闘会議で、第5別館封鎖派(社闘、フロント、社学同、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、学生解放戦線)に分かれる。
1.7 第5別館実力封鎖。全共闘(社闘、フロント、杜学同、人民先鋒隊)30人、6項目要求貫徹、全学スト体制の構築めざす。この日から右翼の攻撃に備え、ゲバルト訓練始まる。反帝学評、学生解放戦線派は 「ショック戦術だ」と封鎖に批判、クラス、サークル末端からの組織化めざす。
1.10 学長、退去命令発す。「封鎖は大学の自治を根底から破壊する行為だ。ただちにこの不法行為をやめよ。いまからでもおそくない。すぐ退去して第5別館を正常な状態にもどすことを命じる」
全学執行委員会(反帝学評系)、学院当局に6項目要求に関する対理事会団交を要求。
1.11 法でスト権確立投票始まる。
1.17 学院本部実力封鎖。全共闘(社闘、社学同、フロント、人民先鉾隊)60人、未明に机、イスでバリケード築く。
学院当局、「第5別館、本部の建物の封鎖が続く限り、大衆団交に応じることができない」と回答。
1.18 l法、無期限ストに突入。この頃サークル闘争委結成され、以後講演会活動やすわり込み運動を展開。
1.21 文闘委、教授会に大衆団交求め、昨年12月東山学部長が署名、捺印した10 ・21反戦闘争弾圧の自己批判書と大衆団交開催するとの確認を反古にした理由を追求するが、教授会「何も答える必要ない」と突っぱねる。
1.24 全学集会開かる。これは学院当局提唱による、第1回目の収拾策動であったが、全共闘ヘルメット部隊150入が介入、大衆団交に切り変える。しかし、院長、学長は一切の釈明をしないばかりか、その場から逃亡を図り、一般学生6、000人の怒りを買った。
その後、2、000人の学内大デモを展開。右翼学生職員なぐりかかり、20数名重軽傷。
この頃から全学1連協、体育会有志連合、キリスト者反戦連合が、活発に動き出す。
1.25 商、スト権確立投票開始。   --
1.26 社闘実力部隊30人、未明に、社会学部校舎を、実力封鎖。
1.27 神、無期限ストライキに突入。経済学部集会開かる。
 右翼学生に守られた教授、大衆団交に切り変るや逃亡。新川執行部、これと同時に「闘争の責任負うことできない」と解散声明。以後、経執行部不在。
1.28 全共闘(社闘、フロント、社学同、人民先鉾隊)200、深夜に文学部校舎にバリケード築く。
1.29 文に引き続き、未明、経も実力封鎖。これで理を除く全学部で封鎖体制を確立し、当日から始まる予定であった後期試験すべてが無期延期となった。

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<卒業拒否者の独白>
 ’60年以降のあまりにも長い、陰湿な空白は、「批判」することによって「人間」の歴史が形成されうるかのように、自己を対象化することなく、自らを「人間」という述語へ転化させ、現実の社会状況のなかで、その述語を未曾有のカテゴリーヘと転化させうることを信ずるインテリゲンチャー達の己惚によって埋められようとしてきた。現実の幻想性に拝跪すれば果てしない地平を、現実そのものにまで引きもどす不断の「人間」の行為を放棄した、世界風物劇場の舞台に、こわれた第2バイオリンの悲痛な主題をかなでながら登場する主人公の戯言は空虚な光束の中に死滅しようとしているのだ。
 その空虚な光束の中にこそ、われわれの現実そのもの一闘争の立脚点があるのだ。だが、その立脚点が「自己否定」などというドラマチックな言葉にすりかえられてはならない。いったい、’67年10月8日の学友の死が、鮮血が「自己否定」などという排泄物によって表現されうるものでしかなかったのか。そのような言葉で美化されうるものだったのか。「闘争」が美化されて語られるのは、世界風物劇場の舞台だけでたくさんだ。
逆立ちして眠れ一卒業拒否者の独白―
 ともかく、いかに無内容なものであろうとも「大学卒」という資格が現在の社会体制の中で一つの特権的で有効なパスポートであることは否めない。しかし、この闘争はそういった一切の体制によって与えられるものとしての無意味な特権に対して〈否〉と叫ぶところから開始されたのだ。独占資本に奉仕するための人間を造るための一連の教育を拒絶するところからー。
 この闘争の最初の段階から、後期試験ボイコット、入学試験粉砕、卒業拒否は運動の一連の流れとしてあったはずである。しかし「入試実力粉砕」を叫びつつも「卒業」や「進級」の意味がわれわれに切実な問題としては突きつけられていなかったことも否めない。そして第5別館、法学部での〈死守〉一それは、この闘争が、あくまでも権力に対する非妥協的な永続的な闘いであることをわれわれに指し示した。
 3月になり、卒業試験がレポートや認定などの種々の巧妙な、そして無内容な方法に切り換えられて学院側から打ち出され、卒業見込者としての僕達に突きつけられてきたのだった。形式だけのレポートや曖昧な認定や面接が無意味なものと知りながらも一枚の「卒業証書」を受け取るために多くの友がレポートを提出し、認定され、そして卒業していった。しかし、卒業拒否した僕の中に、卒業していった者と殆んど同質の問題があり、それが解決されないままに卒業拒否を決断したのだと気づいた時、僕のゲバ棒は外部の敵と同時に僕自身の内部へも向けられなければならなかった。
「卒業拒否」というのは国家権力に対する永続的闘争宣言であると同時に、過去20余年に渡って触まれてきた僕の内部の小さを歴史に対する〈否(ノン)〉である。人間は本来、自由な存在としてあるはずである。20余年に渡る体制の、僕に対する変形作業は、僕を変形し、歪め、そして一個の体制に奉仕する奴隷を造りあげようと仕組まれてきた。奴隷にされかかっていると気付き、人間と  しての自由を願った時、僕は僕自身に付きまとう全ての存在を一つ一つ検討してみなければならなくなった。教育、家族、美的感覚……。これらの一つ一つがいかに歪められ、変形されて、体制の奉仕者を造りだそうとしていることか!
 個人的なレベルで語られる欲求の多くが現体制を認めるものであり、というよりは意識の如何にかかわらず体制に積極的に参加するものであり、「卒業しても闘う」などと未来形で語ることは現在を抹殺した二元的な欺瞞でしかありえない。個人的な特殊欲求が、闘う姿勢につながり、なお普遍性をもちうると言う時、そこには厳密な科学性を必要とするのだよいうことを忘れてはなるま  い。体制的存在者としての僕が、僕の個人的特殊な欲求を持ったまま、その特殊的欲求を追求することによって普遍的な反権力闘争を、行なおうとするのは、至難のことである。一つの自己の過去の歴史に対して〈否〉を発することによって切り裂れた僕の歴史が、大きな人間の歴史に参加するためには多くの弾圧が加えられるだろう。しかし、人間として己れの自由を選択することによって全ての自由を選ぶのだという確証がなくて誰に対してゲバ棒を向けることができるのだろうか。
 しかし、卒業レポートの締切日までに「卒業」することの意味や「卒業拒否」の内容などの討論が進まず、「卒業拒否」は個人的な内部意識のものとなり、ただ個々の内部で一つの行為を“決断する”か”否”かのみが問題となり、組織的に運動化することのできなかったことは否定的に総括されねばならない。
 4月になり、桜が咲き乱れ、4連協の部屋も寂しくなっていた。とり残された空しさみたいな、一人だけで観客のいない舞台で気張っているような奇妙な空白感が僕の中にはある。しかし、今こそ僕は、真の連帯の意味や闘うことの意味が解りはじめているのだと考える。闘いは続くだろう。更に新たな闘いの姿勢が僕の中に構築されねばならない。
 横になると、条件反射で/すぐ眠ってしまう僕に/君は〈自己変革〉を迫る/逆立ちして眠ることなんか/僕は出来やしない(文学部内の壁の落書き)
あえて言う。逆立ちして眠れ!と。

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(つづく)

【予告!ブログを引っ越します!】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなります。
そのため、当ブログはライブドア・ブログに引っ越します。
引っ越し時期は次回更新日の8月2日の予定です。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月2日(金)に更新予定です。

今回のブログは、久しぶりに全国学園闘争の記録として関西学院大学闘争を取り上げる。
関西学院大学のホームページによると、歴史は古く、1889年に神戸に神学部と普通学部を持つ「関西学院」として創設され、1932年に「関西学院大学」として設立されたキリスト教系の大学である。「かんせいがくいん」と読む。昨年の日大アメフト部問題で関西学院大学の名前もマスコミに頻繁に登場したのでご存知の方も多いと思う。

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手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。
まず、この冊子に掲載された「闘争日誌」を見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)
67・9・8  小泉財務部長、関学新聞と会見し「学費値上げはすでに内定している」と言明。
10・31   「学費値上げ阻止」全学共闘会議結成さる。
 11・22    学院当局、抜き打ち的に臨時常務会を開き、同夜全共闘に対し現行学費(67年度当時)の5割アップと43、44年度連続学費値上げを一方的に通告。
12・7  緊急理事会が早朝に開かれ、11・22の常務会案通り5割アップが決定さる。
12・16 各学部闘争委、スト権確立投票を行い、法学部の拠点ストを皮切りに、社、文、商の3学部も無期限ストに突入。経は民青系執行部のためスト権確立せず、戦線脱落。                   
68・ 1・17 右翼、体育会系学生の組織動員により、商、学生大会で「バリケード撤去」決議され、続いて文、一法もバリケード解除。社は、後日に持ち越す。
1・22 社教授会、社・自治会に対し「自治能力なし」と決めつけ、解散命令で弾圧。
1・27 社・学生大会で「後期試験ボイコット、闘争の継続」を決議。
2・26 社・学生大会、「バリケード解除」を決議し、実質的に闘争は終焉。                   
3・23 法、社、商、文の教授会、26名にもおよぷ大量不当処分(退学11名、無期停学8名、停学7名)を発表。
3・28 卒業式当日、棍棒とヘルメットに身を固めた全共闘武装部隊70人、学院本部に突入。昼休み中の院長、学長に処分撤回を迫るが、教授達が右翼体育会系学生150を扇動し、攻撃を仕かけ、投石戦続く。学長、「生命に危険がある」とし、5時すぎ、兵庫県警に機動隊導入を要請。
4・9  兵庫県警、証拠物件押収のため、再び学内に乱入。中田全共闘議長ら9名の学友を、下宿先などで不当逮捕。長期勾留。
5・22 法、処分解除。以後、文の一部、商も処分解除。
6・26 全学総会開かれ、「教授会決定の処分は認めない。応援団の解散要求」決議さる。
9・26 3・28・闘争の第1回公判開かる。法廷内に公安刑事2名が潜入していることが判明し、学友100人はこれを実力で排除、「不当起訴弾該、官憲の不当弾圧粉砕」をシュプレヒコール。
10・21 国際反戦デー。法、文で1日スト。社では4日間のバリケードスト。
11・29 全学執行委員会、学院当局に対して「公開質問状」を出す。これは、学費値上げ、機動隊導入理由など8項目に対する当局の見解を問うたもので、6項目要求の土台となるもの。
12.12 全共闘準備会30人、理事会の行なわれている新阪急ホテルになだれ込み大衆会見を要求するが、古武学長「大学に団交の場はない」と突っぱねる。
12.19 法、文、社で6項目要求(①43 ・44連続学費値上げ白紙撤回 ②不当処分白紙撤回 ③機動隊導入、捜査協力自己批判 ④文学部学科制改編白紙撤回 ⑤学生会館の管理運営権を学生の手に ⑥以上を大衆団交の場で文書でもって確約し、責任者は引責辞職せよ)の1日スト。
文で教授会会見。東山学部長、対教授会団交を開くとの確認書と、10・ 21反戦闘争を弾圧した自己批判書に署名、捺印。
12.23 文教授会、東山学部長の確認書と自己批判書を反古にしたため、文闘委1日封鎖行なう。
全共闘会議が、夜開かれ、学院本部封鎖が提起されたが、意志一致できず流れる。
69.1.6 全共闘会議で、第5別館封鎖派(社闘、フロント、社学同、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、学生解放戦線)に分かれる。
1.7 第5別館実力封鎖。全共闘(社闘、フロント、杜学同、人民先鋒隊)30人、6項目要求貫徹、全学スト体制の構築めざす。この日から右翼の攻撃に備え、ゲバルト訓練始まる。反帝学評、学生解放戦線派は 「ショック戦術だ」と封鎖に批判、クラス、サークル末端からの組織化めざす。
1.10 学長、退去命令発す。「封鎖は大学の自治を根底から破壊する行為だ。ただちにこの不法行為をやめよ。いまからでもおそくない。すぐ退去して第5別館を正常な状態にもどすことを命じる」
全学執行委員会(反帝学評系)、学院当局に6項目要求に関する対理事会団交を要求。
1.11 法でスト権確立投票始まる。
1.17 学院本部実力封鎖。全共闘(社闘、社学同、フロント、人民先鉾隊)60人、未明に机、イスでバリケード築く。
学院当局、「第5別館、本部の建物の封鎖が続く限り、大衆団交に応じることができない」と回答。
1.18 l法、無期限ストに突入。この頃サークル闘争委結成され、以後講演会活動やすわり込み運動を展開。
1.21 文闘委、教授会に大衆団交求め、昨年12月東山学部長が署名、捺印した10 ・21反戦闘争弾圧の自己批判書と大衆団交開催するとの確認を反古にした理由を追求するが、教授会「何も答える必要ない」と突っぱねる。
1.24 全学集会開かる。これは学院当局提唱による、第1回目の収拾策動で あったが、全共闘ヘルメット部隊150入が介入、大衆団交に切り変える。しかし、院長、学長は一切の釈明をしないばかりか、その場から逃亡を図り、一般学生6、000人の怒りを買った。
その後、2、000人の学内大デモを展開。右翼学生職員なぐりかかり、20数名重軽傷。
この頃から全学1連協、体育会有志連合、キリスト者反戦連合が、活発に動き出す。
1.25 商、スト権確立投票開始。   --
1.26 社闘実力部隊30人、未明に、社会学部校舎を、実力封鎖。
1.27 神、無期限ストライキに突入。経済学部集会開かる。
 右翼学生に守られた教授、大衆団交に切り変るや逃亡。新川執行部、これと同時に「闘争の責任負うことできない」と解散声明。以後、経執行部不在。
1.28 全共闘(社闘、フロント、社学同、人民先鉾隊)200、深夜に文学部校舎にバリケード築く。
1.29 文に引き続き、未明、経も実力封鎖。これで理を除く全学部で封鎖体制を確立し、当日から始まる予定であった後期試験すべてが無期延期となった。
1.30 商学部でスト反対派の右翼学生ら執行部の解散求めるリコール運動始める。
1.31 対理事会、常務会団交に向けての予備折衝ははじめるが、団交開催の 条件をめぐって決裂。
2.4 全共闘「入試実力粉砕」の方針打出し、泊り込み強化。これに対し武田教務部長、「全共闘側の武装阻止にも素手で立向う」と言明し入試会場は体育館と中等部、高等部校舎を使用することに決定さる。
2.6  全共闘武装部隊80人、学院当局に雇われた右翼学生200が看守する体育館を未明に火炎ピンと投石で攻撃し、右翼学生を完全に粉砕。院長は、5時10分に機動隊導入を要請。早朝から「入試粉砕、闘争勝利」のシュプレヒコールで学内を武装デモ。午後1時、機動隊500、正門前に待機し、その場で、松田政男氏の講演を聞いていたサークル闘、全学1連協、キリスト者反戦連合の学友300人と対峙。午後2時機動隊、試験場防衛のため、体育館、中等部、高等部に配置さる。学生会館前で、2、000人の学友、機動隊導入に反発し、徹夜ですわり込む。
2.7 経済学部入試始まる。午前8時20分、棍棒とヘルメットで身を固めた全共闘80人、機動隊に突入。
7名が不当逮捕さる。引き続き、入試終了直後、再び機動隊と激突。すわり込み部隊500人に減る。入試実現派300グランドでデモ。
2.8 商学部入試。全共闘、第5別館と法学部のバリケードを強化し、機動隊の強制解除に備える。
2.9 第5別館を除く全校舎バリケード、機動隊2、500によって強制解除さる。 早暁、兵庫県警は大阪府警の助けも借り、第5別館と法学部校舎にたてこもる学友48人を、ガス銃と放水で攻撃。法学部は、午前9時半に解除されるが、第5別館死守部隊35人は、徹夜でこれに応戦し、そこにかけつけたデモ隊2、000人と熱い蓮帯を交わす。法、全員逮捕さる。
2.10 30時間にわたって闘い抜いた、第5別館死守部隊35人、午前11時50分、ガス銃、ヘリコプター、消防車などの権力側の武器に屈す。警棒で乱打され、催涙ガス液を浴び、屋上から階下へひきずりおろされたりしたため、全員が、火傷、打撲傷を負い重傷。
2.12 「全関西労学関学奪還総決起集会」に3、000人。午後3時すぎ、正門近くの上ケ原派出所を投石で襲撃。3人が不当逮捕さる。
2.14 機動隊常駐解かる。入試全学部とも終了。
2.15 全共闘、「機動隊導入による強権的闘争圧殺」に抗議して、法、文、商、社、経、神の学部校舎を再封鎖。サークル闘も、学館を占拠し泊り込む。学院側、「ロックアウト」を宣告。
2.17 県警、被逮捕者の自宅、下宿など22か所を強制捜査。
2.18 学院本部再封鎖。
2.19 同窓会館を封鎖。
2.21 第1教授研究館、同別館、第2教授研究館の3建物をバリケード封鎖。キリスト者反戦連合も、宗教センターとランバスチャペルの自主管理に入る。
 学院側、26、27日に「全学集会」を開催する旨を、全学生に文書で配布。
2.26 全学集会粉砕総決起集会に500人。前日深夜、会場にあてられていた新グランドに当局が張りめぐらした柵を、全共闘武装部隊100人で破壊し、当日は早朝から武装デモ。小宮院長、正午すぎに姿を現わし追求集会に切り変える。院長は、「機動隊の暴力は、法の名によって認める。入試は、社会的責任上実施した」と強硬に言い張る。その後、場を中央講堂に移し、再び追求するが堂々めぐり。
2.27 前日に引き続き追求集会。院長、教授と右翼学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散。
3.1 全共闘50人、京大入試粉砕闘争に出撃。
3.3 小宮院長と26評議員全員が辞任。辞任理由は「健康上重責に耐えることができない。」とされていたが、実質には確認書を反古にするための闘争分断工作。
全共闘30人、神大入試粉砕闘争へ。
3.5 全共闘500人、「大衆団交破棄に対する学院当局弾劾集会」を開いた後、図書館、産業研究所、正門守衛室を封鎖し、卒業、後期試験などによる一切の収拾策動粉砕を決議。
3.7 法、教授会大衆団交開かる。教授会、「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書に署名、捺印。
3.10 理学部実力封鎖。理闘委、教授会に対して「学院の入試強行に協力した」など6項目の自己批判を求める大衆団交を要求してきたが、教授会が、これを拒否したため。これで7学部全部を封鎖し、中央講堂、体育館だけを残すことになった。
3.11 教職員組合は職員集会を開き「関西学院の非常事態に際し全教職員に訴える」との大学への要望を採択。
3.13 社、卒業試験に、全共闘50人「試験ボイコット」のデモ。機動隊50待機。(神戸YMCA)
革新評議会学生ら、大阪駅前で「全関学人は紛争解決のため、立ち上がれ」と訴え、48時間のハンストに入る。
3.14 経、卒業試験。(大阪予備校)
この頃から、革新評議会、民主化行動委員会、法学部有志連合など右翼諸団体の組織化進む。
3.17 革新評議会による「事態収拾」集会開かる。全共闘60人、介入し、右翼学生250を追い散らす。
経教授会、全共闘を支持する松下昇講師に、4月からの契約更新をしない ことを一方的に決定。松下講師、これに対して「関学闘争で大学側が機動隊を学内に導入したことについて大学側は自己批判すべきなのに、それをせず、大学側の態度を批判してきた私をやめさせるのは教育者としても絶対許せない。私はどんなことがあってもやめない。一人でたたかう。」(3・18朝日新聞)と語る。
大学評議会、28日の卒業式中止を決定。
3.19 学長代行に小寺武四郎教授決定。「早急に新執行部を決めて正常化のために努力する」と抱負を語り、「廃校か否か」のアンケートを全学生に配布。「学内正常化のため」の商学部集会、200を集めて大阪プールで開かる。
3.22 学長代理代行に城崎進教授就任し新執行部出そろう。
3.23 「学院正常化、全関学人総決起集会」開かれ、学内右翼諸団体、体育会系学生、教授、職員、父兄、OBなど1、200が結集。体育会系学生ら、プラカードを持って、集会を防衛。全共闘150人「右翼粉砕、封鎖貫徹」をシュプレヒコールし、これと対峙。午後3時になると、右翼学生200が、正門バリケード解除にとりかかったため、全共闘武装部隊、これらを完全に粉砕。機動隊200が出動。以後、右翼学生の組織化進まず。
3.28 「卒業ボイコット、6項目要求貫徹、中政審答申粉砕全学総決起集会」開かる。
3.29 小寺学長代行、退去命令出す。   
3.31 小寺学長代行、再び退去命令出す。
4.1 休校処置(ロックアウト)解かれる。
4.5 「入学式粉砕、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕」集会開かる。機動隊300、正門前周辺で待機。
学院当局、「新しい大学の創造にむかって」の第2回目のアンケートを全学院生に配布。
4.12 新入生歓迎総決起集会。約100名参加。
4.13 松下講師講演。第5別館屋上で文闘委の情況劇。
4.15 理、学外試験中止。レポート形成に切り変わる。他の学部もレポート形式による後期試験実施さる。
4.18 経済学部新入生オリエンテーション。大阪府警機動隊100、大阪城周辺で警戒。全共闘30人が、阻止行動。
4.26 「安保粉砕、沖縄闘争勝利」の国際反戦闘争。京都、神戸、東京で闘わる。全共闘100人これに参加。
4.27 社、学外試験が、機動隊100、と右翼学生に守られ、三田市の湊川女子短大で行わる。全共闘50人、試験場に押しかけるが、阻止できず。
4.28 「首都制圧」沖縄闘争。東京、大阪など20万人が決起し、機動隊と激突。銀座、渋谷に「解放区」。関学全共闘からも東京派遣20人。

以上が闘争経過である。

今回は、「関学闘争の記録」の中から、1969年1月24日の「全学集会」までの部分を掲載する。
【「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局)】
闘う戦列のなかにも
われわれが粉砕せねばならないものがしのびこんでいることを
まず知ることが闘いの出発点だ!

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<アノトキ オマエハ
コトバトイウ コトバヲ
ウシナッタニモカカワラズ
イマサラ ナニヲ
カタラントスルノカ………〉
言葉という言葉のコミュニケーションが
かぎりなくディスコミュニケーションに
風化するこの砂礫地方の帯の中
存在の立脚する机と椅子で
なによりもまずバリケードを演じ
対他化され 先取りされた イマジネールの僕自身の存在そのものを
スクリーンに カンバスに 原稿に誕生する創造作業でもって
政治現実に向って語り始めた
十年前 夜鷹の参の星 死と突然輝き
さらなる夜への歩みの予言者の予言は
呪縛のように拠点への照準を現在に定めよ
砂礫の中 足音は 今の重い拒絶〈否〉 単調の連なり 峻絶なる黒い行為の渇きから
内なる情念のオアシスヘ羞恥で泉を掘る存在と運動の引き裂かれた<被害者〉
独身者の蒼ざめた清純なるヘンズリの定期日常と完全に訣別せよ
喫茶店で珈琲に砂糖二杯の恋人をゲバれ
泣くなよい子だねんねしなのかあちゃんをゲバれ
外なる近代 内なる封建 中和されたアカディミズム教師をゲバれ
彼と我の全体への〈否〉で 日常を切る
この「やさしさ」の中 峻然と今蘇生せよ
永続の学生への門を自らの手で押し開け
〈被害〉と<加害〉が内なる青いまっさおなオアシスの中<羞恥〉を仲人して 結婚する
国家の幻の外 おおくの自由を体現する投企者の この不安と喜びそのものは
世界との恋愛関係そのものではないか!
演ぜられたバリケードは 今 硬さ 確かさ 実感そのものの現実のバリケード それは僕だ
僕はバリケードだ      
とぶな とび立つな 飛翔するな
立脚にまず立て ここにまず立て 永続に向けてまず立て その限りに
どこへでも いつでも飛び立てる
さらなる夜への自立した生の参の星は
 今 ここに輝いている 言葉だ 

<'69 1・7 第5別館実力封鎖!>
 10・8羽田を起点とした日本の状況が“新しい政治の季節の到来”を告げ知らせたのと同様、われわれもまた虚飾の“自由”と“平和”に色彩られた関学の地に“内なる羽田”を打ちたてねばならなかった。
 牧歌的風土の中に埋没し、資本の餌となってきた関学の全歴史に対するわれわれの闘いは、1月7日の第5別館実力封鎖でついにロ火を切ったのだ。だが、そこまでに至る過程の中で、われわれは、数かぎりない裏切りや苦汁をなめなければならなかった。われわれの闘いの前史は、41年秋の「薬学部新設、父兄会費値上げ案」反対闘争に始まる。マスプロ教育の御多聞にもれず、関学もその例外ではなく「水増し入学、教室不足」か甚しく、年度の初めには「立ちんぼ授業」が続出し、悪らつな勉学条伴のもとに放置されていた学生の不満が、「既存学部充実せよ」のスローガンのもとに一挙に爆発する。だが、学院当局は「薬学部新設、父兄会費値上げ案」をあっけなく白紙撤回し、決定的な政策転換を成し遂げた。
 あにはからんや、その次の年度には、われわれの闘いを逆手に先取りした形で学院当局は「既存学部充実のため」と銘を打って43、44年度連続学費大幅値上げを打ち出す。彼らの意図は設備拡大→マスプロ教育による安価で大量の労働力商品の育成にあったのではなくて、設備充実→ミニプロ教育のもとに「心に日の丸、手には技術をもった」資本にとってはより優秀な排外主義的労働力商品の育成を手がけはじめたのだ。これに対するわれわれの闘いは、学費大幅5割アップと非民主的決定という学院当局の暴挙に対する怒りに支えられ、水ぶくれ状態のうちに進行し、法、社、文、商の四学部で続々とストライキ突入をかちとるのである。だかしかし、われわれの打倒すべき主要な対象は決して学院当局の政策でも、反動的教授でもなく、まさに“平和”と“自由”に訓化されてきた自己自身であるという教訓を闘いのなかで知ったのは、後期試験を直前に続々とバリケードが解除されていった時のことであった。右翼の個人テロが横行し、学院当局は居なおりを開始し、ストライキを支持していた学生か脱落していったように、まさに闘いの極限状況の中で、人はそれぞれの本性をむき出すものである。
………長い沈黙の後、第5別館実力封鎖は、これら総体に対する“ノン”を軸に展開されていく……。

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<1・24全学集会>

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マスプロの拠点である第5別館封鎖に始まる6項目要求闘争は、1月24日、沈黙を守り続けた学院当局と後期試験に流れる大衆を登場させた。当局は、全共闘の追求に何も釈明できず、収拾策動の場が大衆団交の場となり、あわてふためいた当局はその場を逃亡。2,000名にふくれあがったデモ隊列は、「6項目要求貫徹、封鎖貫徹」のシュプレヒコールで道路を埋め尽くした。その後全学封鎖体制、入試阻止へと闘争はエスカレートするなかで、水を吸い込んだ部隊の動向に関学闘争のカギがあり、体質がある。

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(つづく)

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【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月21日(金)に更新予定です。

今回は、前回に引き続き国際基督教大学(ICU)における闘いを掲載する。
週刊アンポNo11に掲載されたアメリカからの留学生の闘いである。前回のブログ(No482)を読んだ上で読むと、背景がよく分かると思う。

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【自由な個人以上のもの ICU留学生はたたかう 週刊アンポNo11 1970.4.6】
<大学側のたずなを切って>
 わたしたち、キャサリン・ホリコシ、サンドラ・シャー、フィリス・オガタの3人は、1969年の春、ICU(国際キリスト教大学)に入学を許可され、カリフォルニア大学からの交換留学生として、1969年8月29日に日本に来た。10月にICUの寮に入り、11月に退学処分を受け、1970年2月17日には、2月23日までに寮を出るようにとの通告を受けた。権力にそむくことに恐怖を感じながらも、わたしたちは通告に従うのを拒否することを決定した。この決定の原因になった一連のできごとは、1969年9月に始まった。
 カリフォルニア大学からの留学生は、8月の末に日本に着いたが、3週間の間旅行をしていてICUにはいなかった。9月に東京に帰ってきた時、下宿より寮に入りたいという人がいたのに、わたしたち留学生は全員、下宿に住むように言われた。ICUの教授会が内部であまりに分裂していて、1969年の春に教授会の執行部によって全共闘に出された確認書を、教授会全体としては、認めることができないという状態だったからだ。教授会が確認書についてあいまいな態度を取りつづけるかぎり、全共闘は授業を行わせないことにしていた。ICUの学生は、わたしたちに不信感を持っていたにちがいない。彼らは最初、わたしたちを寮に受け入れるのをためらった。この不信感は理解できたし、わたしたちの中では彼らの三項目要求の運動に強い共感を感じている人もいたが、それにもかかわらず、わたしたちがICUに現れたことは、紛争が解決されないうちに、学生の抗議に反して、執行部がまもなく授業を再開するつもりであるというしるしだった。執行部がわたしたち留学生をICUの学生に対して使うかもしれないと感じて、わたしたちのうちある者は留学生の指導教授であるハンス・バーワルド教授に、ICUの学生の運動を支持し、“不正な授業再開”のための執行部の道具にはなりたくないというわたしたちの欲求をはっきりと伝えた。
 非常に用心深く、また三項目要求の運動についてできるだけ知識を与えたあとで、3つの寮がわたしたちを受け入れ、10月に3人の留学生が寮に移った。

<バックに黒い影が>
10月20日に主な教育区域を囲む波型の金属のへいの建設が始まり、機動隊が呼ばれた。バーワルド教授は、わたしたちに登録用紙を配った。恐れていたことが現実に起こった。“不正な授業再開”が行われ、わたしたちは協力しなければならないだろう。バーワルド教授が他のどんな選択をすることも認めていないのだから。
 10月24日、執行部は9月に入学した学生全員のためのオリエンテーションを開いた。このオリエンテーションで、授業が紛争についての討議には使われないことが明らかになり、22名の留学生のうち15名が執行部を非難する請願書にサインして、現在ICUの事務取扱である三宅教授にこれを手渡した。登録の最終期限は11月1日だった。9名の留学生が登録を拒否した。
 その次の日、バーワルド教授は、登録するようにという彼の命令に従わないなら、契約不履行の法律が適用される可能性があるといって、わたしたち9名をおどかした。このため3名が登録した。バーワルド教授は三宅教授に請願書のことで謝罪し、留学生の登録の最終期限を独断的に3日間くりあげた。教授の言い分は、カリフォルニア大学からの留学生がICUで問題を起こさないことをはっきりさせるのが自分の責任だ、というものだった。執行部への完全な協力方針をとって、バーワルド教授は、中立であると主張した。しかし教授と討論していくうちに、このことは中立の問題ではなくて、さらに上の権力に従っているだけなのだということが明らかになってきた。この時わたしたちはバーワルド教授は、窮地におちいっているわたしたちを助けてはくれないだろうし、わたしたちを彼の命令に従わせるためならどんなことでもするだろう、ということを知った。
 10月27日は授業再開の最初の日で、機動隊はデモをする学生たちを乱暴に鎮圧した。機動隊は何の武装もしていない学生たちに対して、ジュラルミンの楯と警棒を使った。多くの学生が負傷し、一人の少女は頭をひどく打たれて局部麻ひをおこし、広範囲にわたる病院の治療を必要とした。機動隊がICUの紛争についてまったく何も知らないのに、学生を敵にして戦うというのは信じがたいことだった。ICUは大学どころではなくて、ファシスト帝国だった。

<登録を拒否>
 10月28日に、登録を拒否するわたしたち5人の留学生は。プラカードをもったおだやかなデモをした。法律が適用されるというおどかしで登録してしまった、留学生のベン・ボーティンが参加した。わたしたちはへいの検問所の前でデモをし、執行部に抗議した。このデモのため、わたしたち6人全員は、11月1日、正式に交換留学生の資格をとり消された。
 法律が適用されるかもしれないというおどかしを受けて、ワレン・デヴィスは10月28日に登録しデモに参加しない決心をした。しかし彼は、抗議する学生たちを鎮圧することによってしか正常な教育活動を続けられないなら、その教育活動に協力することはできないことを知った。
 象徴的なことに、へいは大学内の分裂を保つのに役立っていた。へいの内側には、偽りのおだやかで正常な環境を。外側には迫害を。この分裂は耐えがたく、次の日、ワレンは登録をとり消した。彼はすぐ、交換留学生の資格をとり消された。
 三宅執行部の学生の攻撃の道具となることを拒否した留学生は全員で6人だったが、わたしたちは、わたしたち以外の留学生で、わたしたちのしていることを正しいと信じているけれど、その確信を主張することのできない人たち(バーワルド教授のおどかしはあまりに手きびしかったのだ)から支持を得ていた。
 11月の間中、三宅施行部は学生への圧迫をエスカレートさせ、多くの学生がとるにたりない嫌疑で逮捕され、負傷した人もいた。わたしたちが執行部を公然と批判し、またその不条理な授業への登録を拒否した結果、ICUはわたしたちをICUの学生とは認めないとした。わたしたちは学生ヴィザで日本に来ているので、出入国管理事務所はICUに私たちの立場についての説明を求めた。ICUは、留学生たちがヴィザをとる前に、ICUは入学を許可しなければならなかったのだから、彼らは法律的にはICUの学生と認められているが、授業に登録しないのだから、もはやICUの学生ではない、と回答した。出入国管理事務所に隠されたのは、わたしたちが登録を拒否した理由だった。ICUはその回答に、まるでわたしたち6名が勉強したくなくて登録を拒否したかのような感じを持たせた。やはり出入国管理事務所に隠されたことは、登録を拒否したICUの1年生たちは退学処分を受けていない、ということだった。ICUにおいてインターナショナリズムは、もしかつて存在したのなら、今は死んでしまったことが明らかになった。

<暴露されたからくり>
日本とカリフォルニアでわたしたちへの支持があったため、カリフォルニア大学のいろいろなグループが交換留学生の資格取り消し処分のことで、交換留学性制度の責任者であるウィイリアム・アラウェイ教授に働きかけた。わたしたちは日本および合衆国憲法によって保護されている自由を行使したため処分され、無権利状態で、弁論するどんな機会も与えられずに、一人の人間によって判断を下されたのだ。権力の乱用を批判されて、アラウェイ教授はICUの状態を“再評価”するため、12月に日本に来た。最初の決定を下した同じ人に訴えなければならないというのはまちがいだ、と考えながら、わたしたちは教授に処分について考え直してくれるよう訴えた。日本にいる間に、教授は処分を取り消すと発表した。
 ベン・ボーティンは処分を取り消された。しかし教授の発表は全くのうそだということがわかった。彼以外の6人は資格を取り消されたままだったのだ。教授はわたしたちに条件付きの処分取消しを提案した。それによるとわたしたちは、不条理な授業をボイコットするストライキを中断しなければならなかった。ストライキをする理由も、このストライキを支持するという留学生の権利の重要性も理解しなかった。アラウェイ教授は決心を変えず、たとえ三宅執行部が学生に対して罪を犯したとしても、カリフォルニア大学交換留学生は、その執行部に協力するというバーワルド教授の決定を支持した。
 わたしたち6人はこうした状態で処分取り消しを受けることを拒否した。カリフォルニア大学とICUは共謀して、学生たちに無理やり授業を正当なものと認めさせようとした。
 ストライキを支持することに確信を持っていたため、登録を拒否する留学生の一人であるトム・ブラムは徴兵に関する彼の立場に不安を抱き始めた。学生という立場になかったら、徴兵を免れることはないのだ。学生の立場を守るため、彼は12月にバークレイの大学に戻った。 
 寮を立ち退くようにというおどかしがひどくなるにつれて、ICUの状態は耐えがたいとして、ワレンは12月に寮を出た。

<進め!かぎりなく>
 執行部は学生に対する攻撃をエスカレートさせて、1月27日までに休学届を出さないなら退学させるとおどかした。
 執行部の力は学生の抵抗する力より強くて、1月27日に学生たちは休学届を提出し、登録に対するストライキは解除された。わたしたちも休学届を提出しようとしたが、執行部はわたしたちを退学させるか、少なくとも日本人の学生と引き離したいと願っていて、これを受け取らなかった。
 ふたたび働きかけがあったため、アラウェイ教授は2月17日に、ICUはわたしたちを学生として受け入れるべきであり、カリフォルニア大学もわたしたちを交換留学生として受け入れるという手紙を送った。2月18日、ICUのドナルド・ワース教授はわたしたちに個人面接を行った。予想していたように、わたしたちが新たに留学生として入学するなら、復学を許可すると言われた。この方法でICUはわたしたちが10月からICUの学生だったことを隠すつもりだったのだ。ICUはまた、寮から出ることと、再入学誓約書にサインすることを要求した。
 このすべての手続きをすませる最終期限は2月23日だった。5日間しかなかったのだ。ICUはわたしたちが自発的に復学を拒否しているかのように見せかけながら、わたしたちを復学させまいと一生懸命だった。そして、わたしたちが条件付きの復学を受け入れた場合には、わたしたちの行動を完全に制限するにちがいなかった。
 この状態は受け入れられないものだった。彼らに従うことは、私たちの自由を放棄し、執行部により行動を制限されることだった。執行部は全能者となるだろう。批判を受け入れることさえしないのだから。
 登録を拒否する留学生の一人であるカティー・クラークは、ICUの状態に絶望し、最初に三宅執行部とバーワルド教授の決定に抵抗する必要があると感じ、ますます、彼女と対立している人たちは人間的でないという感じを抱き始めた。紛争がすぐに解決するというきざしはまるで無く、カティーは2月、ICUを退学することにした。
 その代わりに、わたしたキャッシーとサンディーとフィリスの3人は、寮を立ち退くようにとの通告に従うことを拒否するため、ICUに残された。わたしたち3人がまだICUに残っているのを不思議がる人がいるかもしれない。わたしたちが残っているのは、わたしたちが今持っている自由とは何なのかを理解したためだ。わたしたちは誰も暴虐に対して闘おうとして日本に来たわけではないけれど、自由のために闘ったから、わたしたちは今自由を持っているのだということを理解した。誰もわたしたちのために自由を獲得してくれることはできない。わたしたち自身で勝ちとらなければならない。そして不正な権力への協力に反対する時はいつも、わたしたちは自由な個人以上のものとなる。不正な規則に従うことは少しもりっぱなことではないからだ。
(終)

【本の紹介】
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・山本義隆『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』
科学技術振興・信仰に基づく軍事、経済大国化を問う。西洋近代科学史の名著から全共闘運動、福島の事故をめぐる著作までを結ぶ著者初の新書。
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる日本の近代化は、以後、国主導の科学技術振興・信仰による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と、国民一丸となった総力戦体制として150年間続いた。明治100年の全共闘運動、「科学の体制化」による大国化の破綻としての福島の事故を経たいま、日本近代化の再考を迫る。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月9日(金)に更新予定です。

2018年最初のブログは、久しぶりに「全国学園闘争の記録」シリーズを掲載する。
今回は国際基督教大学。ICUと言った方が馴染みがあるかもしれない。
1969年当初、同大の自治会は全学部が革マル系であった。そんなこともあり、当時、集会やテデモで「国際基督教大学」の旗やヘルメットを見たことがない。
当時の新聞を見ても、同大の闘争に関する記事はほとんど見当たらない。唯一見つけたのが、この写真である。

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週刊アンポNo4に、国際基督教大学の闘争の記事が掲載されているので、それを見てみよう。闘争というより、機動隊の暴力に対する告発記事になっている。

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【「大学公認の警察暴力 国際基督教大学の場合  週刊アンポNo4 1969.12.29】
ICU(国際キリスト教大学)は学生総数1,100人、東京の西の郊外にあって、36万坪の広大なキャンパスは文字通りの武蔵野風景を誇っている。ここで警察機動隊により、どんな暴行が学生たちに加えられたかを語る前に、ICU闘争の経過を簡単に述べよう。

<「無方針の方針」が強行された>
 話は2年前にさかのぼる。大学側は入試制度の改訂を行おうとした。能力開発研究のテスト導入と受験料の値上げである。これに反対する学生達の闘争は大学側のガードマン導入により圧殺され、多数の学生が負傷し、63名の学生が処分された(いわゆる能研闘争)。それ以来、大学は学生諸活動の見張り役としてガードマンを常駐させたのである。
 今年の2月27日、学生らちは全学共闘会議を結成して3項目の要求を大学側につきつけた。①ガードマン体制を撤廃せよ ②教授会議事録を公開せよ ③能研闘争での処分を撤回せよ。3月13日の学生総会で3項目要求は支持され、全共闘は学生会の代表兼・総会開催権・大衆団交権のすべてを獲得した。それ以降、2回の全学討論集会、5回の大衆団交がもたれた、久武雅夫学長。武田清子学部長は2度目の団交の直後、辞職してしまった(3月30日)。大衆団交は非人道的であり、思想のせん滅戦だからイヤだというのがその理由である。教授会は代理を立てて大衆団交を継続して7枚の確認書を交わし、学生の勝利として一応の終わりをむかえたかにみえた。5月2日の新学期から授業を進めながら確認書の実質化をはかるはずだった。ところが、5月1日、大学側は「新学期に際して責任のとれる執行部が不在のため」を理由に突如「授業再開無期延期」を決めた。
 湯浅八郎理事長を中心にした大学側は既に「無方針の方針」を決めていた。即ち、一切の話し合いを拒否して全共闘を孤立させる。進級・卒業・就職といった強制力がはらたくぎりぎりの「タイム・リミット」まで学生を“野ざらし”にする。その時点がきたら授業再開を強行し、確認書は黙殺する。これが方針だ。
 8月25日の学生総会では「確認書の実質化を明言しない形でのいかなる授業再開にも反対する」ことが決議された。
 10月19日の学生総会でも、新しく就任した三宅執行部拒否、大衆団交要求の動議が可決された。そして、その翌日の10月20日、その決議をあざ笑うように三宅彰学長事務取扱は機動隊を呼んだ。彼の言葉によれば「あくまでも自由な教育と学問の場としてのICUを守る」ために「すぐに授業を再開し、教育機関として社会に負っている責任を果たすべく決意した」のである。(10月14日付の文章『学生諸君に訴える』による。)
 いま、本館・図書館・教会堂など大学側が「教育区域」と呼ぶ一群の建物は、3メートル程の高さの鉄板でグルリと囲われている。大学当局の方針を承認した学生たちが入構証をもち検問所をくぐってヘイの中に入り、教室では教師たちが授業という名の「業務」をフルスピードで続けている。ヘイの外には、このなし崩しの授業再開に抗議して登録を拒否している学生およそ200人ががんばっている。登録をせず休学届を出さないからという理由で、大学は1月27日に彼らを自動的に除籍するという。
 大衆団交は非人道的な思想のせん滅戦だといわれている。だが、機動隊という名の黒い群れを呼びこんで、学生に犬のようにけしかけ、思想と人間、まるごとのせん滅が行われた次のような事態は、どのように「人道的」だというのか。

<「理性と学問の府」はこうして守られた>
 (10月22日)
 20日の機動隊導入に抗議して約150人の学生(うち半数以上が女子)は学内デモをしていたところ、待機していた機動隊(七機)はこれを人目にふれぬ雑木林の中へ「排除」し、そこで殴る、蹴る、あげくの果てに警棒を抜いて頭を打ちすえるなど権力公認の暴行をつづける。4名が病院に運ばれる。
 S君の証言「林の中で機動隊1名がデモ指揮者の顔面を殴った(前歯欠損)。私は女子寮の方に逃げ。玄関前で楯をもった隊員を指さして抗議したところ、その横にいた指揮者が指揮棒を横に振り私のこめかみを打った。一瞬気を失い、寮内に運ばれ、救急車で病院に運ばれた。」
(10月26日)
約150名でデモをしているところを機動隊が襲う。突然パトカーが構内に入ってきたので、学生の一人がこれを追い、立ちふさがろうとしたところ、逮捕、連行される。別な学生が「彼は何もしていない」と抗議したところ、私服刑事は「みせしめだ」と答える。
(10月27日)
朝8時ごろから検問所近くに全共闘の学生が集まり、来校した学生に授業を拒否するよう説得していた。8時半ごろ。全共闘学生およそ150名はその場に座りこみ、同数のシンパが周りで見守っていた。これに対して三宅学長事務取扱はヘイの中の台上から、そして奥津学長補佐は機動隊の陣頭に立って退去を命じた。彼らが「お願いします」と言って警察指揮官に頭をさげると、機動隊(七機)と三鷹署員、約100名による「規制」が始まった。それは女子学生へのほしいまままのワイセツ行為であり男子学生への暴行だった。学生たちはつきとばされ押されながら第二男子寮近くを歩いていた。この時、4年生の新崎映子さん(22)は、一機動隊員がななめ後ろからふりおろしたジュラルミンの大楯で後頭部を強打されたのである。
 彼女のその後の経過についてはあとで詳しく述べるが、新崎さんの場合のように機動隊の大楯が、頭や首筋をなぐりつける「凶器」に使わている証拠写真2枚を掲げる。これは11月21日昼、場所は同じICUで写され。大楯で打たれてている学生はO君である。①の写真で機動隊員はO君をねらって楯を高くふり上げようとしている。O君は無防備であり、頭を低くして全く無抵抗の姿勢をとっている。

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その直後、②の写真で、この機動隊員は楯のへりで強くO君の後頭部を打ちすえている。

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 O君の証言「午前12時20分よりの食堂前での集会の後、デモに移った。検問所前で10数人の機動隊員の方向へ進んだ。僕は前から三列目の左側に位置していたが、そこへデモ指揮者が入ったので僕は四列目に移った。その直後、左側から楯で押され、2.3発なぐられた後、楯の面で2.3度頭を打たれ、さらにふり上げられた楯の角で左後頭部を打たれた。一瞬意識を失ったようで、片手を頭に当てたまま、となりのK君と列外に倒れ、救対の人に病院へ運ばれた。後頭部の傷口から血が吹き出していて五針ぬった。相手の機動隊員は左側の最後尾にいたものと思われるが顔までは覚えていない」。―この機動隊員は逮捕され裁かれていないのか。
(10月28日)
朝8時頃より学生は座り込みを始める。機動隊の「排除」にあい2名が「威力業務妨害」で逮捕される。抗議の演説を始めた全共闘議長は機動隊員にとり囲まれて、これも逮捕される。昼から「不当逮捕抗議集会」とデモが行われたが、機動隊はこれを襲い、さらに5名を逮捕、連行する。この日は一般学生や教師など目撃者が少なかったせいもあり、機動隊員の暴行は熾烈を極めた。
 Th君の証言「デモの後尾にいた。前列の方で激しい暴行を目撃したので、“機動隊、何をするのか、やめろ”と叫んだ。その直後、左肩を殴られふり向いた瞬間、機動隊員のこぶしが私の鼻の中央部にまともに当たった。反撃すれば“公務執行妨害”で検挙されると思い、にらみつけていると、指揮棒でみけんを突かれた。その後、鈍痛や鼻血があり、鼻の骨が折れていると知らされた。」
 機動隊員による暴行はこの後も連日続いた。ここに掲げた表は事実のほんの一部にすぎず、全共闘学生のほぼ全員が暴行を受け、殴られ蹴られるのは「いつものこと」と彼らは言う。

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 かって「大学自治」とは、学問・思想の自由を国家権力から守るものといわれた。ところがICUでは、大学当局と警察の結託により、まったく逆に、市民の目から「警察暴力の自由」を守る方向に利用されている。アカデミズムを囲んでいたはずの美しい森は、今、警察暴力を包み隠している。
 さて、新崎映子さんはその後どうしたか。

<権力の犯罪を権力に訴えるジレンマ>
 機動隊員の大楯の一撃でこん倒した新崎さんは、ただちに救急車で三鷹中央病院に運ばれた。ここは、救急指定病院なので闘争で負傷した学生が多く送り込まれ、そのためか大学と連絡が緊密だといわれる。彼女は、吐き気、左半身のじびれを訴えたが、なぜか病院は「医学上何の異常も認められぬ」と診察し、「本人の希望によって入院させている」と大学に報告した。
 めまい、吐き気のおさまらぬ彼女はついに31日、当人の意思で順天堂病院内科に入院、
11月2日危険な状態に陥り、脳神経外科に移された。彼女を診察したO医師は「一口では言い尽くせない。めまい等の運動失調、吐き気、左半身マヒ、眼痛など『脳かん部を中心とする多彩な症状』という危険なものでした」と語る。診断書には「ワレンベルク氏症候群」で「今後も引き続き長期にわたる入院加療を要する」と記されている。「半年、1年の単位になるでしょう。後遺症についてはまだ何ともいえない。若さによる回復力に期待しています」(O医師談)。
 症状悪化に驚いた級友は、看護を続けつつ、加害者の機動隊(=東京都)と大学当局を、賠償金請求と特別公務員暴行陵虐罪で告発する準備を始めた。
刑法第195条 特別公務員の暴行陵虐
 裁判、検察、警察の職務を行い又は之を補助する者其の職務を行うに当たり、刑事被告其他の者に対し暴行又は陵虐の行為を為したるときは七年以下の懲役又は禁固に処す
 まず殴った隊員の名がわかれば訴訟は大いに有利だが、厳しい「襲撃」の最中に顔を覚えている学友はいなかった。
 さらに、順天堂病院では、現在の彼女の重い症状が機動隊員によるという確実な証明はできなという。負傷直後の状態を診察していないし、三鷹中央病院の診断書には何も「自覚症状」が記されていないからだ。当人は最初から異常を訴えており、だからこそ再入院したのだが、その事実は1枚の診断書で否定される。
 O医師は続ける「この症状は『頸椎動脈循環不全』(その結果、小脳に血液が通わなくなる)で引き起こされる。その原因にはさまざまあるが、外からのケガが直接原因になった症例はない。だから機動隊に殴られたとしても、せいぜいそれが誘因になったとしかいえない。彼女の体質からこうなったのかもしれない。」 
 だが編集部とともに会見に立合った東大青医連の脳神経専門のM氏は言う「後頭部に大楯による強打のような垂直な激しい力が加わること自体、異常なケースなのだから、症例がないのは当然なのだ。経過からみて、警官の暴行によって起こったと想定するのが自然だと思う。」
 沖縄で学校の先生をしている映子さんの父親は、事件後上京してきた。大学当局は最初、当日の暴行現場に三宅学長代理、奥津学長補佐がいたにもかかわらず、「報告を受けていない」と突っぱね、さらに「ころんで頭を打ったという」などと事実自体を否定しようとし、その転倒説を順天堂病院を始め大学内外に流布した。そして12月2日、「法律的には、大学には何の責任もない。ただ保護者が治療費を支払えないのなら、一部支払ってもよいがそれには限度がある」というとぼけた回答を寄せた。父親は納得せぬまま、12月6日、ビザの関係で沖縄へ帰った。
彼女の兄は「いろいろ言いたいこと、中には腹にすえかねることもある。しかし今は、とにかく治療第一と考え、本人と訴訟の話はしていない。最終的には本人の意思に任せる」と語る。長い裁判(22才の彼女には、就職・結婚など大事な時間)が本当に彼女のためになるのかという家族としての心配、さらに機動隊の暴行を法廷で立証しても、勝てるとは限らない、相手は国家権力なのだから、という深い疑惑を秘めた言葉だった。
 訴訟準備委員会は最終的に彼女の承認を得るために症状の回復を待っている。幸い病状は少し上向きで、どうにかベットに起き上れるようになった。しかし法廷闘争の見通しは決して明るくない。弾圧によりICU闘争自体が困難な局面を迎えている中で、大学当局は居直り、警察は妨害し続けるだろう。
 その後も、ふえる負傷者の救対に追われつつ、準備を進める学生たちをいらだたせるのは、「警察の犯罪を、警察・検察・裁判に訴えるしかない」状況だ。機動隊によって暴行を受けると、警察差し回しの救急車で警察の指定病院に運ばれ治療され、生活と闘争の場であるキャンパスに戻ってくると、また暴行が始まる。どんな真実も、法律上立証できなくては認められないし、その捜査は警察自身が行う。国家暴力の体系が巧妙に仕組まれ、システム化されているのだ。
 それにもかかわらず、いやそれだからこそ、われわれはあらゆる形での他の人々への訴えをやめてはならない。国家お墨付きの「法的事実」に、われわれの「実体的真実」をぶつけ、権力の犯罪を裁くのだ。ICUの学生たちの訴訟もそこに意義がある。

【声明】
 10月27日、東京三鷹市の国際基督教大学構内において、一女学生が歩行中、機動隊員によって楯で後頭部を殴打される事件が発生した。我々はこの事件を重視し、現在学校当局と機動隊(=東京都)を告訴する準備を進めている。
 大学は、一部反動派によって一方的に5月段階で授業再開が中止されたまま実質的な休校状態が10月27日迄維持されていた。即ち、彼らは、学生を「タイム・リミット」に追いつめる事によって、全学共闘会議の提起した大学(=社会)の存立基盤を問う問題に対して回答する事を回避したのである。10月27日の授業再開はかかる背景の中で、機動隊常駐、検問所体制という弾圧体制のもとで強行された。当局の指示のもとに機動隊は、一握りの「受講者」のために「阻止線」を拡大し、我々の集会すら暴力的に解散させようとした。そして遂に、無抵抗の女子学生に、上記の如き重症を負わせるという結果を生じさせた。
 この「事件」は、既に商業新聞によって報道されている。だが事態の本質は「傍観者が巻き添えをくった」などというものではない。
 大学当局はこの事件に対し、極めて卑劣な対応をとり続け、虚偽の「報告」を学内に流したあと、医学上の調査結果を恣意的に抽出した文章を作成するなどしている。
 我々の「訴訟準備」は、かかる当局そして機動隊=国家権力の「病理構造」を弾劾するのみならず、「資本制大学止揚」として位置づけられた全共闘の闘いの正当性に立脚するものであり、かかる闘いの一環である。「訴訟」はブルジョア法の枠内における闘いでしかないが、ブルジョア的諸権利すら完全に剥奪された現在にあっては、かかる闘いも我々は同時に推進しなければならない。
機動隊による暴行傷害はこれに留まらず、入院加療を要した者だけで20数名に上る。全国の闘う学生・労働者・市民に連帯を訴えたい。
国際基督教大学全共闘・訴訟準備委員会
(終)

【お知らせ】
次回は1月26日(金)に更新予定です。 

2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、8年間連載を続けてきたが、今回が最終章である。
1970年6月14日と15日が過ぎ、70年安保闘争の最終日、6月23日を控えて、大学当局は突如として6月18日から23日までの全学ロックアウトを行った。
全学ロックアウトとなったため、私は6月20日から22日まで法政大学にいた。高校時代の友人が法政大学にいたため、高校時代の仲間のグループとともに、そこで23日に向けた準備など行っていた。
明大新聞に全学ロックアウトになった6月18日の記事が掲載されているので見てみよう。この日は、私は新聞の告知でロックアウトを知ったが、大学へは行っていない。

【抜き打ちロック・アウト 内ゲバ理由に18日から6日間 明治大学新聞 1970.6.18】
『18日、大学当局は「6月18日(木)より23日(火)まで全学休校とし、各校舎出入口は閉鎖します。詳細はテレホンサービスで承知願います」の新聞広告と掲示によってまったく突然にロック・アウトを行った。
それと知らず登校した学生はその告示板と「最近、学内外で他大学生を含む一部分の学生の暴力行為、業務妨害等が頻発している状況にかんがみ・・・」という告示によって、締め出された。
こうした大学当局のロック・アウトに対し、本校、和泉、生田各地区においてつめかけた学生の抗議集会が開かれた。和泉地区では1,000人近くの学生が集まり、ベ平連、反帝学評、MLなどを中心として弾劾集会を開き、11時30分頃正門の鉄扉を実力で解除した。しかし、かけつけた機動隊に排除され、5名が公務執行妨害で逮捕、1名が救急車で運ばれた。

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一方、生田校舎では、正門はロックアウトしたものの、生田寮側から学生が続々と登校し、9時頃約200人の学生が、高木工学部長を囲み追求集会を行い、12時頃集会を終えた。
 また本校では5時頃から抗議集会やデモ行進が行われた。

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(解説)
このような事態について大学当局はロックアウトの理由を「学生諸君へ」の文章で「最近『安保』の自動延長をめぐり、学内において一部学生の過激な行動と、学生各セクト間の主導権争いによる暴力行為が頻発」ということをあげている。しかしながら、それが決して「『安保』の自動延長をめぐった」問題ではなかったことは明らかといえる。その点において18日から23日までのロックアウトはいかに考えようとも不可解という声が強い。また、15日の生田における「寮闘委」の学生による生田学生課長などに対する「団交」要求を迫ったこともあげているが、これにしても、これは寮闘争の一環であり、そうしたところからは、そのような期間は出てこない。さらには18日における「寮闘委」の学部長会議への抗議行動にしてみても、それはすでに学部長会議で決定ずみであったといううわさもあり、またそれが事実でないにしろロックアウトの理由として掲げられることは基本的におかしいとみられる。
 このようにみてくると、大学当局の「ロックアウト」それも18日から23日までという期間はなんら納得のいかぬものであるばかりか、明らかに「6月安保」を機に盛りあがる「反安保」運動への弾圧であり、圧殺であるといわれてもしかたがない。大学当局が常にいう「力の論理」を認めぬという態度が、はしなくも今度の「ロックアウト」措置によって、自ら「力の論理」をもってしか臨んでいないことを露呈したとみるむきが多い。そして学生間に強い不信感を残したことは事実である。』

【薄れた大学側の警察アレルギー  6・17和泉の混乱から  明治大学新聞 1970.6.25】
<“オレ達の大学だ” 排除される学生に当局不信>
〇本学連合教授会は大学の自治と教育・研究の自由を守る観点から、新次官通達に対してつぎのような疑念と憤満とを表明するものである・・・(略)・・しかるに、当局の単なる治安対策的な大学紛争処理の在り方は、真の解決にすこしも役立たないばかりか、大学問題の自主的解決を阻害するものである。大学に対する教育上の配慮と判断とを無視した警察当局の、一方的な判断を優先させることによって学内に警察権のほしいままな行使を許すような事態になれば、もはや大学はその本来の機能を主体的に果たしえなくなる・・・(略)・・(昭和43年4月25日「連合教授会声明」)
〇われわれは今日の大学問題が単なる治安面の学生対策によって解決されとは考えない。治安当局の大学介入はかえって学内をいっそう混乱におとし入れ、激動する大学内の秩序をさらに収拾できないものにすることを強く憂うものである・・・。(同日「学長声明」)
 『約1年前、大学側は別掲のような見解を表明、警察権力の大学介入に反対の意向を強調してきた。ところが、昨秋の機動隊導入、ロックアウト以来、うって変わってコトあるごとに機動隊要請が行われ、今では警察と大学との癒着を疑われるほど、憂慮すべき事態であることは否定できない。学内秩序の維持を理由にした予備検査的な警察権力の要請・介入は、一面で学生自治への挑戦と化している・・。
 6月18日の全学ロックアウト突入の際の和泉での混乱を見るなかから、学生の間につのってきた大学当局への不信感をさぐってみよう。
 
 6月23日の安保条約の固定期限切れの迫った18日、本学は突如、6日間に及ぶ全学ロックアウトという事態に突入した。これは警察側から、都内の主な大学に対して発した、ロックアウト要請があったことからして、あらかじめ予想されていたとはいえ、6月安保決戦の第一のヤマ場であった14日、15日を大学当局は看過してきただけに、余りにも突然で不意を突かれたとの声が強かった。当日は、本校、生田が比較的平穏だったものの、和泉地区はロックアウト糾弾の声でうずまった。
 この日は早朝から、ロック・アウトの新聞広告を知ってか知らずか登校した学生が京王線・明大前駅周辺や固く閉ざされた和泉校舎の正門前に集まった。その数、数百名。
 「最近、学内外で他大学を含む一部学生の暴力行為・業務妨害が頻発している状況にかんがみ」
 -と叫ぶスピーカーからの声。これをロック・アウトの理由だとすると当局側には、説得力は感じられなかった。というより論理以前の問題として、あまりにもその言葉は冷たく聞こえた。「声の姿は見えず、機械的に同じことを繰り返すその言葉に、当局と学生との間の目に見えない断層があった」とある学生が言った。
 また、そのロック・アウトの論理にしても、本校地区で12日に起きた学生解放戦線のノンセクト学生を含めた反帝学評系学生に対する襲撃事件にからんだ予防措置としているが、これにも批判が多い。田代新寮闘争委員長は「生田の場合、その事件とは関係ない」としており、和泉においても「本校で内ゲバなり、寮生が押しかけたからといって、それを理由に和泉もロック・アウトにするのはおかしい」という声が強かった。
 また、安保固定期限切れの23日に向けて法学部2年14組が11日からスト入りしたのをはじめ、相次いでクラス単位の運動が盛り上がりを見せ、本校でも二政経1年8組、二政経3年7組など個別的にクラス・ストを行ってきたところが多かった。学生会中執の力量不足など全学的なマトメ役に欠けていただけに、その価値は大きいものがあった。「われわれのクラス運動の圧殺でしかな」(法2年)とブチまけていたのが印象的であった。
 11時半。正門をこじあけたとたん、ドッとあたりにいた学生が校舎内に乱入した。ヘルメットの学生はそれほど多くはなかった。“喜び”と唐突さのために、興奮気味でデモ行進する学生。いわゆる“一般学生”といわれる部分もかなりを占めている。それをただ冷たく見守る教職員。そこには対話はなかった。

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 ただちに機動隊が要請された。正門横に座り込んだ学生数十名と、それを取り巻く学生。いかめしい乱闘服にジュラルミンの楯で警告もそこそこに排除に乗りだした。座り込みの指導者は、間髪をいれず逮捕され、無抵抗の学生は楯で押しやられた。正門から10メートルくらいのところまで有無を言わさず学生を蹴散らした機動隊。このところ頻繁になった機動隊要請だが、この日の排除は強硬で、一般学生を遠く押しやることでヘルメット学生と分断し、機動隊はヘルメット学生を取り囲み楯で押しまくった。「ここは俺達の大学だ」と誰かが叫んだ。

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 -「学生のゲバルトを政治ゲバルトで押さえようとする大学弾圧立法が成立した」(本紙44年8月14日付号・木下理事の話)
 -「機動隊など外部の力の導入などに関しては、今のところ白紙である。そういうことをできるだけしたくはないしまた避けたい。警官隊を入れてまで抗議をしたいとは思わない。それは真の解決にはならないからだ。それは学生と大学とのミゾをますます深めるもとであり、一番好ましくない姿である。「(本紙44年10月11日付号・中川学長の話)
 -かたくなに警察権力の介入に批判的だった大学当局。各大学に機動隊導入の相次ぐなか、徐々に警察アレルギーは薄れていった。
 完全に機動隊に制圧された和泉校舎一帯。正門前には、機動隊放水車がドッカと腰をすえ、その周りで隊員が冷厳に蹴散らされた学生と対峙していた。
 高姿勢な機動隊の警備に、一人の学生が声を震わせながら叫んだ。
 「皆んな見たか。これが大学の姿なんだー」
 学生の排除されるのを目のあたりに見ながら、校舎内にいた教職員が、ただ正門の黒いトビラをしめるだけだった。』
6月23日、70年安保闘争最終日、この日のデモは日比谷公園まで3時間以上かかった。途中の衝突の影響で催涙ガスがデモコースの各所に充満し、眼が痛かった。
6月23日の記事が明大新聞に掲載されてるので見てみよう。

【6月反安保闘争の終焉6・23  明治大学新聞 1970.6.25】
『―全国全共闘のセクト野合を越え 全共闘運動の原点へ たとえ権力の壁は厚くともー
<闘いはやまず>
 23日、その前日「日米安全保障条約」はその固定期限が切れた。そしてこの日から<国民>の意志さえまったく無視した形で、302議席という数にのみ依拠した佐藤内閣によって自動延長された。
 この日、全国全共闘、全国反戦共催による「6・23労学市民大統一集会」が明治公園で開かれた。3時頃からつめかけた学生、旗の波は次第に広がり、反戦労働者がつめかける頃、公園の中は身動きできないほど埋めつくされた。その中で、権力との直接対峙をよそに、戦旗対叛旗、ML対フロントなどの内ゲバがありながらも、7時頃、約5万人の参加者を結集し、統一集会は成田空港三里塚反対同盟青行隊長の「反安保体制、階級闘争」へむけたアピールから開始された。

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 68.69年にわたって全国的に展開された学園闘争は、70年に至って強権的な大学当局によってあらゆる闘争は締め出され、大学当局のいう<一般学生>さえもが行き場を失った。この日も多くのノンヘル、ノンセクトの学生もつめかけたのだが、全国全共闘のアピールはこれまでの各大学代表のアピールという慣例を破って各セクトのアピールに終わった。これは全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを、計らずも露呈してしまった。このことは大きく問題にされねばならない。
 今野反戦青年委員会世話人の決意表明採択を最後に集会を終えたデモ隊は、街頭へ繰り出した。先の14日、鉄パイプで武装登場したMLはこの日、鉄パイプにかわって竹竿の武装で参加していたのだが、青山絵画館前付近で機動隊と対峙する頃には、片手に鉄パイプ、もう一方の手には火炎ビンで武装されていた。その数200人ほどだろうか。阻止戦を張る機動隊に一斉に火炎ビン攻勢。退却する機動隊、退却から攻撃。鉄パイプで応戦するデモ隊。攻撃から退却。水平撃ちのガス銃が連続火花のように火を吹き、鈍い音が続く。
 まもなく、わずかに衝突の跡をとどめるだけの場所を何事もなかったように後から後から機動隊を睨みつけるようにデモ隊がジグザグデモを繰りかえしていった。いつもは五列の隊列を余儀なくされるデモ隊は機動隊の壁を押し押し隊列の幅を広げる。デモコースはいつになく長かった。どこまでいっても裏通り、裏通りを抜けて待ち構えるのは機動隊、あらゆるところで小ぜりあいが続き、そして衝突の跡は生々しく残されていった。その中でけがをした学生の手当をする、白ダスキに黒く「6・23救援会」と染め抜いた30,40才くらいの“オバサン達”の姿が脳裏にやきついた。
 デモ隊が国会の南通用門をさしかかる頃、装甲車は幾重にも並べられ、ビデオ車から伸びたカメラがその中から顔をのぞかせ、サーチライトがまぶしくデモ隊の姿を浮かびあがらせる。遠くに国会議事堂が無表情に見えるだけ。「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが一層高く、デモ隊の装甲車を蹴る鈍い音だけが響きわたった。

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<唯一の安保スト>
 その頃、1日以来「連日デモ」を敢行してきたベ平連は、この日も清水谷公園に結集した。その数1万5千人(主催者発表)にのぼり、デモが出発した後、さらに1万人の追加発表がなされるという、まさに前代未聞の“異常”事態となった。
 一方、6月安保ゼネストを掲げた総評は2月頃に至り、当初のゼネストを放棄し、5月1日のメーデ-にいたっては、同盟の右翼的分裂策動におびえ「統一集会」というなんら内実なきものを守るため「反安保」のスローガンさえ下した。そうした既成労組を乗り越えて、この日の早朝、動力車労組の労働者によって“安保スト”が革マル派の学生の支援による「労学共闘」によって勝取られていた。
 だがそうしたことをよそに、代々木公園では社共の「1日共闘」などというまことに形ばかり「中央大集会」が22万人(主催者発表)を集めて、アコーディオンの調べにのって行われたのである。

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<衝突・討論>
 全国全共闘と全国反戦のデモの解散地点日比谷公園の入口では、デモが到着するごとにデモ隊と機動隊の激しい衝突が繰り返されていた。入口付近は催涙ガスが充満し、一見モヤでもかかっているかのよう。しばらくはデモ隊と機動隊の一進一退が続く。だが機動隊が攻撃に出る度に次第に公園の中へと入り込んでくる。デモ隊は退却する機動隊員1人を捕まえた。「ヤレ、ヤレ」と叫ぶ者。「ヤメロ。ヤメロ」と叫ぶ者。いつも抑圧され、弾圧され屈辱を強いられているのだが・・・。「ヤメロ」と言った学生なのだろうか、気を失った機動隊を大楯に乗せて機動隊の待機することろまで運んで行った。それから間もなく、機動隊は公園内までガス銃を撃ち、乱入してきた。公園内までもが機動隊の解放区と化してしまった。
 催涙ガスの炸裂する中で、近くにガス銃の連続音と機動隊のウナリ声を聞きながら、まだ集会を続行する黒ヘルの部隊があった。まわりには散り散りになった仲間を探す姿がチラホホラ見えるだけ。「自由連合」と書かれた黒旗を囲む黒ヘルの部隊は終電近くまで、一人、一人の発言を求めながら総括集会を続けていた。
 日比谷公園にデモ隊の姿がなくなった頃、べ平連のデモ隊は、全国全共闘、全国反戦デモ隊と交差して分断されたため、最後尾はまだデモを続けていたのであった。そのデモが終着点に着く頃には、すでに終電車はなくなり、はからずも徹夜デモンストレーションとなった。
 6・23だろうと、「安保」だろうと、変わることなく輝き続ける銀座のネオン街に、異変が生じたのであった。“金と権威”の銀座は、金もなく名もない若者の夜の街となったのであった。
<70年代闘争へ>
 こうして6月23日は終わった。そして70年の6月は終わろうとしている。この日を最後に6月には大きな街頭闘争はもうないだろう。だが、まだベ平連の「連日デモ」は続く。いつまで続くのか。ベ平連の運動自体にはそれなりの問題点なり、限界性はあるのだが、しかし、ユニークな運動は否定しがたく、とどまるところを知らない。
 70年6月が終わっても「安保体制」は依然として変わりなく存在し、ますます重くのしかかってくるであろう。街頭へ、街頭へと出てきた学生も、労働者も、学園へ、職場へ戻っていく。学園ではこれまで学園闘争で提起された問題はなんら解決されることなく存在し、それ以上に、ロックアウト体制なるものをもって、闘争を圧殺せんとしている。職場においても合理化攻勢はとどまることはないであろう。権力の壁は厚くあまりにも強大ではあるが、それだからこそ一層、今、それぞれの学園で、職場で、地域で根底的な闘いを、個人の“主体性”と“自発性”の中から創出していかねばならない。
 全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを露呈してしまった現在、日大、東大闘争によって創出された「全共闘運動」そのものを再度見つめ直す中でしか、70年6月を70年代闘争の出発点とすることはできないのではないか。
 この日はこれまで叫ばれてきた「労学共闘」が実質的に動力車労組において実現された。こうした「労学共闘」、そして三里塚における「労濃学共闘」もすでに実現されている。こうした闘いの環をさらに推し進めることによって、70年代闘争の展望は開けてくるのではないか。』

70年安保闘争は終わった。
この6月23日以降、明大和泉校舎は旗もなく笛の音も聞こえない状況がしばらく続いた。学内デモをしても2桁は集まらず、旗もちとデモ指揮を除くと、隊列が2名で3列という時もあった。このような停滞した局面は、70年12月まで続いた。
全共闘に結集した学生は、最盛期には2,000名(中心的な学生は約500名)もいたが、70年安保闘争の終焉の機に活動から遠ざかって行った学生も多く、活動を続ける学生は減った。だが、数は減っても、生協の総代選挙、自治会の選挙、学生大会と合法的な機関を再び学生の手に握る活動が開始された。
また、学生会館は自主管理で開いてはいたが、ロックアウト体制ということで、館内に電気やスチーム暖房が入っておらず。冬が近づくにつれてサークルの学生たちの不満が募っていった。
そこで学生会館運営委員会では「学館に電気を入れろ!」という集会とデモをやったところ、100名近くのサークル員が集まった。それに驚いたのか、学校当局はすぐに電気を入れた。
そんなことを繰り返しながら、徐々に学内での体制を立て直して行っていった。
明大全共闘は消滅したが、全共闘運動の遺産を引き継いで、新たな闘いは続いていく。
「明大全共闘クロニクル」は今回で終了となるが、今後、ポスト全共闘の時代、1971年から72年までの駿河台地区での学内ロックアウト体制粉砕の闘いや、MUP(マップ)共闘を中心とした闘いなどを「黒ヘル風雲録」(仮題)という形で掲載できればと考えている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は7月7日(金)に更新予定です。

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