野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

タグ:大学

明大全共闘クロニクル(年代記)1970年6月の続きである。今回は70年安保闘争の月、1970年6月14日、15日である。
1969年6月の明大全共闘結成当初は代表者会議などが開催され、それなりに「全学共闘会議」という形をとっていたが、同年7月のブント内の内ゲバ(関東派と赤軍派)以降、明大全共闘の主流派であったブント内部の分裂、70年安保闘争をめぐるML派、反帝学生評議会など党派間の対立、内ゲバなどがあり、1970年に入る頃には、明大全共闘は事実上崩壊していた。党派主導の全共闘の宿命である。
そのような状況もあり、私は、69年後半から学外のデモや集会には、高校の仲間を中心としたグループで参加するようになった。6月のデモもそのグループでの参加だった。
6月14日のデモは途中から雨が降り出しズブ濡れになった記憶がある。

1970年6月14日と15日の記事が明治大学新聞に載っているので見てみよう。
【70年代闘争の第一歩踏み出す “新左翼”最大の動員 雨にぬれ、壮大なデモを展開  明治大学新聞 1970.6.18】
『6月安保闘争の前半のヤマ場、6・14、15は雨に濡れた。代々木公園は14日、新左翼の労働者、学生、市民が大結集し、これまでの最高の動員を記録した。見渡す限りのヘルメット、人の波。各セクトの旗。さまざまな市民団体のプラカードが公園を埋め尽くした。NON-「壮大なNON!」の雄たけびが日比谷公園まで雨を衝いて、響き渡った。
 翌日の15日には、3ケ所で樺美智子さんの追悼集会が催された他、池袋で反帝学評、フロント系学生がゲリラ行動を起こした。群衆を巻き込んだ闘いは、渋谷ハチ公前のビル、商店街で夜遅くまで「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが絶えなかった。

イメージ 1


<6・14>
 全国全共闘、全国県反戦、六月行動委など新左翼陣は「インドシナ反戦、反安保・沖縄闘争のための6・14大共同行動」を渋谷・代々木公園で開いた。
 この集会に先がけ午後1時半ごろ、武闘を叫んでいたML派は新宿から国電原宿駅に向かい、火炎ビン、鉄パイプで武装、駅近くで機動隊と衝突した。火炎ビンと投石で対抗したが、100人以上が逮捕された。
 代々木公園では、昨年の6・15統一集会を上回る7万2千人、新左翼としては最大の動員をみせた。また、革マル派も参加した。「共同行動」としては、まとまりがなく、あちこちで内ゲバが発生したが、さまざまな市民団体、プラカードも目につき、6月闘争前半の壮大な広がりをつくりあげた。
 集会は午後3時前に開始され、6月行動委員会、全国全共闘、全国反戦が、実力闘争の展開と個別闘争の結合を強力におし進めようと訴え、決意表明を行った。さらに樺美智子さんの母、光子さん、小西元自衛隊員などが挨拶、最後に長崎県反戦の反戦宣言を拍手で採択、インターの大合唱で終了した。
 統一集会の後、午後4時前デモ行進に移り、青山通りー赤坂見附―霞が関―日比谷公園のコースを激しい雨に打たれ、ずぶぬれになりながら、ダイナミックなデモンストレーションを展開した。
 デモの途中でも、ML派は火炎ビン、鉄パイプで機動隊と対抗した。国会前の霞が関ランプでは、装甲車が議事堂への道をシャットアウト。この装甲車に反帝学評の学生が“挑戦”。車の屋根によじのぼったりタイヤの空気を抜いたりして気勢をあげた。
 また、社共系団体も全国で17ケ所、1万7百人が集会を開いた。

<6・15>
 60年安保闘争において、国会に突入した学生と機動隊が衝突した事件で、樺美智子さんが殺されてから10年目の命日にあたる15日、全国各地で追悼集会やデモが行われた。東京では6・15実行委が日比谷野音で「6・15樺美智子追悼労学市民統一集会」を開いたのをはじめ、反日共系各派、市民団体ら合わせて30近くの集会やデモが行われた。
 一方、一部のセクトが、渋谷駅周辺で街頭武装闘争を展開したため、同駅周辺は夜半まで混乱が続き、200名以上が公務執行妨害などで逮捕された。
 日比谷野音の統一集会は、中核系学生、反戦青年委などを中心として午後7時から開かれ、樺さんに1分間の黙祷をささげた後、200名ほどが国会南通用門まで追悼献花デモを行った。
 また、この中核派のカンパニア闘争と対比をなして、反帝学評、フロントらのセクトは渋谷駅周辺でゲリラ的に道玄坂上交番を襲撃、火炎ビンや石を長手機動隊と衝突した。まもなく、渋谷・宮下公園で集会を開いていた全共闘系学生ら数百人がこの知らせを聞きつけてかけつけ、群衆と一緒になって、追いつ追われつの“ゲリラ闘争”を繰り返したため、降りしきる雨の中、夜遅くまで混乱が続き催涙ガス弾が発射された。
 また8時頃、渋谷区役所前、山手通り、東大教養部裏門前などのはバリケードが築かれたことから交通は一時ストップされ、機動隊との攻防戦が行われたが、まもなく排除された』。

イメージ 2


【渦巻く反安保の叫び  明治大学新聞 1970.6.18】
<全てが反安保に向け 6・14ルポ>
『70年6月、この間、反安保戦線は、分裂に分裂を重ねるとともに、「反安保」から「反体制」へと、その闘争の質を深化させてきた。しかし、一方において「安保」は昨秋の佐藤訪米の際の「日米共同声明」によって、改訂期の6月を待たずして、すでに、自動延長の道は敷かれていたのである。
 6月14日、そんな遺恨を一心に秘めた「6・14労学市民総決起集会」が、六月行動委員会、全国全共闘、全国県反戦を中心として挙行された。
 4時頃、大会を終えた各セクトは、思い思いに、公園内でデモ行進を繰り広げた。色とりどりの旗が林立し、白・赤・青・黒のヘルメットの隊列がところ狭しと行きかった。
 原宿駅で機動隊とすでに一戦をまじえたML派の200名ほどは手ぬぐいの覆面姿で、片手に1メートル余りの鉄パイプを持ち武装態勢。“ゲバ抜き”を確認したという集会とはウラハラにここには緊張感が漂う。
 突然、あたりを取りまく人並がくずれ、石が飛びかった。
 「内ゲバだ!」と誰かが叫んだ。唐突なだけに皆、無我夢中で逃げまどう。中核とプロ学同との衝突をはじめ、この日は、ブント内部の戦旗派と叛旗派が分派闘争をめぐり、つばぜりあいを行うなど、随所で内ゲバが絶えなかった。
 「やめろ!やめろ!」「ナンセンス」と周りからしきりにヤジが飛びかった。そして、上京組のノンセクトらしい一人がつぶやいた。「内ゲバかア、頭にくるなア」。権力に向けるはずの鉄ツイが“身内”を傷つけ、果ては自分をも傷つけるー内ゲバ。無情なことがあってよいものか。
こうしている間にも、代々木公園を出発したデモ隊は、原宿駅前を通って青山通りに向かった。小降りだった雨もしだいと強まり雨雲が低くたれさがった。道路いっぱいに色あざやかなほど旗とヘルメットが目を打った。

イメージ 3

途中、原宿二丁目付近で、ML派学生100名ほどが突如、隊列を離れ、狭い路地に向かった。10数メートル入りくんだことろで、あらかじめ用意していたと思われる駐車中の車の中から鉄パイプとダンボール箱に入った火炎ビンを持ち出した。付近にいた学生と労働者の中から「ヨシ、ガンバレ!」と気合がかかり、拍手が鳴った。青山通りに抜ける交差点にさしかかろうとしていた矢先、あらかじめ待機していた機動隊が、黒山のように一斉に規制にのり出した。
近くの路地を逃げまどう学生、交差点からわずかのところにある善光寺の境内では、ML派のものと思われる鉄パイプ20本余りが私服と機動隊に発見された。

イメージ 6


6時頃、デモ隊の中の反帝学評の学生が赤坂見附にさしかかった際、赤坂東急ホテル前の外堀通りで機動隊のスキを突いて、隊列の向きを変え旗ザオをかざし戦闘態勢に入った。判帝学評とMLの一部が向きを変え終わるやいななや竹竿と盾がはげしくわたり合った。片側車線に車がジュズつなぎに立ち往生したため、制圧に手間取り、一時的な解放状態になった、石が飛んだ。必死になって竹竿を機動隊に向かって投げるが力及ばずしてとどかない。またそれを拾って投げる学生。何度か衝突したがいずれも歯がたたなかった。私服に追われて逃げる学生に、歩道の群衆の中に交じっていた私服数人がその学生に飛びかかった。まわりの群衆がそれを取り囲み、非難の声を浴びせた。「ヤメロ!なんで逮捕するんだ」「そうだ。ヤメロ」-風向きが悪いとみた私服は逮捕を断念。その学生を強く蹴り上げて退散した。
この後デモ隊は、高速環状線の下を通って国会方面に向かった。
この辺りから警備は輪をかけて厳重さを増した。デモコースから首相官邸になどにつながる道路には、かまぼこ型の機動隊装甲車が、寸分の隙間もなく並べられ厚いバリケードが築かれていた。小高い所から機動隊がデモ隊を見下ろしている。周辺は全面的に交通が遮断され、見守る群衆も数少なく、ただ閑散たる中を「安保フンサイ」「決戦ショウリ」のシュプレヒコールだけが無残にそれこそ無残に鳴り響いた。
国会議事堂がうす暗くなった闇の彼方から冷たいその姿を現した。一向に降り止まない雨をついて、たんたんとデモの波は動いた。今からちょうど10年前、この辺りは「安保反対」をさけぶ何万という学生・労働者でうめつくされた。
そして今、当時と同じような非情な雨が冷たく身をたたいた。物いわぬ国会南通用門には、やはり数台の機動隊装甲車、放水車が立ち並び、アリのはい入るスキもないほどに強固に固められていた。
デモ隊が通ってゆく。そのたびに「ドンドン」と鈍い音が聞こえた。
怨念。学生が装甲車をたたく音だ。反帝学評の一団がうず巻きデモを繰り広げた。一人の学生が旗竿を放水車の放水搭から顔を出している、機動隊をめがけて投げつけた。装備は頑丈でビクともしない。何度も繰り返す。そのうち、肩車によって一人の学生が放水ホースにしがみつこうとした。が、たちまちにして振り切られてしまう。執拗に何度も繰り返す学生。また、一人の学生がホースをつかんだ。必死に登ろうとするが出来ない。そのホースから放水が始まった。白い水が吹き出す。全身水を浴びながらももつかんだホースを離そうとはしない。「ガンバレ!」とまわりから声がかかった。車の下からも放水が始まった。なおも向かっていく学生。装甲車に何度も体当たりする学生。ステッカーをはる学生。と、突然、国家権力の象徴、国会議事堂から「・・公務執行妨害になり・・」と聞こえたと思うや「ダーン」「ダーン」と催涙ガス弾が不気味にサク裂した。デモ隊と見守る群衆へめがけて飛んだ。逃げる人、人。なおもサク裂するガス弾。この時、議事堂は叫んだのだった。
国家権力の厚いカベの前、たとえ装甲車によじ登ることが、体当たりすることが無意味であろうとも、必死になって何度もよじ登ろうとする学生の姿は、そんなことすら感じさせない何かがあった。
デモ隊は、代々木公園→青山通り→赤坂見附→外堀通り→国会南通用門を経て降りしきる雨の中に続々とデモコースの終着点、日比谷公園に到着していった。
6月14日、この日、内ゲバがあった。路線転換もあった。機動隊との衝突もあった。しかし、その全ての日が“反安保体制“に向けて交錯したものだったが、分裂低迷、そして飛躍。反安保戦線の足並みは決して一致していない。おそらく自動延長される「日米安保条約」は今後、両国一方の破棄通告で1年後、消えるものとなるし、”安保の行方“と”反安保勢力の行方“は今後いかに展開されなければならないか。
午後から降り始めた雨は、夜になっても降り続いた。日比谷公園で手短に総括集会を終え帰路につく学生、労働者。彼らにとって、いや日本人全体にとって、今日の日はいかに映ったのだろうか。
公園の草木が6月の雨にしっとりと洗い流されていた。』

<湧き上がる“情念”6・15ルポ>
 『60年6月15日、十数万のデモ隊が「安保反対・国会解散・民主主義擁護」の旗印を掲げ国会を取り巻き、突入した。右翼と官憲の襲撃と弾圧の中、そしてその時、樺美智子さんが権力の手によって虐殺された。
 十年後のこの日、十年前と同じく朝から雨が降りしきり、東京都内では樺美智子さんをしのぶ追悼集会が3ケ所で行われた。家族、友人などの「美智子さんをしのぶ6月の会」。全国全共闘、全国反戦、6月救援員会などで行われた「墓前祭」。日比谷野外音楽堂で開かれた「6・15樺美智子追悼労、学、市民統一集会」。権力に抗議したがために、人間一個の生命が権力の手によって、一匹の蚊をひねりつぶす程にも、なんの悼みもなく虐殺された“生きるために闘った生命”は十年を経た今日、その権力と闘う者にとって、60年安保を知らずとも、その悼み、いや、怨念はつきず、重い。安保体制がのしかかってくると同様に。
 この日もまた、東京は厳戒態勢の中、そして渋谷もまたその例にもれなかった。渋谷はこの日フロントが4時渋谷結集をうちだしていたのである。駅校内は私服の群れと、機動隊によって城塞のようにかためられていた。勤め帰りの多くのサラリーマン、OLはその異様な雰囲気に、わずかに自らの日常性に「安保」を感じたかのように、足早に「マイホーム」への帰途についていた。茶の間では「安保」が数分電波に乗って顔を出すだけだろう。彼らにも同様にのしかかっている「安保体制」を意識するのは、映像の裏にかくされたものを知るのはいつのことだろうか。
 6時頃、ゆったりとしていた機動隊の隊列が急にあわただしくなった。目黒方面からの山手線から緑ヘル(フロント)の50人ぐらいの一団が降りた途端、機動隊にビッシリと囲まれてそのヘルメットの姿は見えない。壁に押しつけられ、かぶっていたヘルメットが飛ぶ、前から、後ろから、横から、構内からでた頃には、服は破れ、体は傷つき、それでも隊列を崩さず進むデモ隊はなんら武装していなかった。フロント、反帝学評が集会を開いていた宮下公園にやっとの思いでたどりついた。

イメージ 4

 それと時を同じくして、東大駒場で「労学総決起集会」を終えたフロントの部隊が、井の頭線の神泉駅から、道玄坂交番にナダレこみ、鉄パイプ、角材、火炎ビンで襲撃していた。
同時に、渋谷を埋めていた市民、労働者、学生が湧きあがるように、「安保粉砕・闘争勝利」の叫び声をあげた。ほとんどそれは一斉だった。そしてそれはまったく自然だった。歩道の人びとは車道にあふれ、<期せずして>渋谷は“反安保”の渦巻きにおおわれた。
 機動隊が規制に出ると素早く歩道にあがり通行人と化す。横断歩道を渡りながらも「安保粉砕・闘争勝利」を叫ぶ。機動隊が引くとまた車道に人並があふれる。私服の向けるカメラを傘でさえぎり、突進してくる機動隊をその傘で突く。傘は彼らにとって最大のタテとなり、武器となった。
 機動隊の規制は歩道を通る人間も無差別的に攻撃しはじめた。逃げまどう学生、女性、アベックさえも容赦なく大楯で押し、足に打ちおろし、水平に構えた楯を所選ばず打ちつける。念りに満ちた顔、恐怖にひきつった顔、もはや、機動隊の暴走をトドめるモノはいない。権力の姿をまざまざと見せつけられる思いがする。
 渋谷駅構内につくられた機動隊“解放区”は徐々、徐々に広げられていった。自らの身を挺する闘いは悲愴でさえある。しかしそれにしても彼らの顔の何と明るいことか。この日の、この闘いは、11月のあの闘いの再現であり、縮小でしかなかった。だが、だが解放された街のなんと生き生きしたことか。狭い道を肩をふれあってしか歩めない道路は解放され、いまや凶器であるばかりか、鉛さえもまき散らし、人間をジワジワとムシバみだしている車は締め出された。彼らの明るさはその喜びなのだろうか。いつか彼らの世界が来ることを信じてだろうか。

イメージ 5


 かけまわる機動隊。歩道の側までかけてきた機動隊員がものの見事に転んだ。その瞬間、2メートルと離れていない所から転んだ位置で、人であふれた歩道に水平うち。幸いにケガ人はなかったようだ。ケガ人がなかったのが不思議なくらい。
 9時頃になると、渋谷の街は完全に機動隊に規制されてしまった。雨に濡れ、ドロだらけになった学生、労働者が闘い疲れたようにアチラ、コチラ。解放された街は数時間にして消えた。渋谷は、新宿、蒲田のように自警団こそ出現しなかったが、木刀を持った愛国党が4.5人出現した。その他も××協力会の腕章をつけたヤクザ風の若い男が数人、街角に立っていた。右翼に対する警察の寛大なさは国士館の学生などが公然と朝鮮高校生を襲い、警察はそれを警戒するどころか、逆に「朝鮮人高校生が襲撃する」という宣伝をすることによって最近とみにあからさまにしてきている。またどこかの「商店主」なのだろうか、ネクタイをしめた<紳士>が「コイツダ」と進言することによってなんの証拠もなしに逮捕し、「あのアベックが怪しいですよ」という一言でもって飛びかかる。カバンを開けさせ、身体検査をし、なにもないとわかっても、突き飛ばすありさま。権力に味方する者のみが唯一正しき世界。
 だが、こうしたことをよそに、催涙ガスにむせぶ学生にレモンを与える一人のオジサンがいた。いつも住民に敵対される学生にとって、それは思いがけないことであった。彼らはとまどっていた。そのオジサンは1台の車が壊されているのを、デモ隊がやったと思い写真を撮りまくる記者に、その車は事故でそうなったと抗議していた。抗議された記者はきまり悪そうにメモ帳を取りだし訂正していた。
 報道陣はこの日、デモ隊から徹底した反感を受けていた。いまやマスコミによる映像は警察によって利用され、自らが機動隊に暴行されることによってエゴイスティックにしか抗議しない報道、私服と一緒になってカメラを向ける報道。まさにマスコミに対するデモ隊の鋭い告発があった。権力によって守られる黄色い統一腕章。それは明らかに彼らのいう「報道の自由」とは、権力によって認められる「報道の自由」でしかないことを自ら認めたのであったから・・。
 街にただよう催涙ガスも、折れた傘も、ポツネンと転がっている靴も、あのサラリーマン、OLが翌朝通るころには片付けられ、雨が流してくれるだろう。しかし、人間の情念、怨念まで流し去ることはできない。
(八重樫記者)』
6月14日と15日が終わり、70年安保闘争も最終日、6月23日を迎える。
(次回に続く)

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクト
ベトナムツアー参加者募集中!!
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、8月20日から2ケ月間、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館で「ベトナム反戦闘争とその時代」展を開催します。
これは、当プロジェクトと戦争証跡博物館の共催です。
当プロジェクトでは、展示会のオープニングセレモニーに合わせてベトナムツアーを企画しました。
ツアーには、当プロジェクトの発起人である山本義隆氏なども参加します。
発起人とゆっくりと話ができる機会でもありますので、この機会にツアーに参加してみませんか?
参加希望の方は以下のアドレスを参照の上、お申込み下さい。

「ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館」展示会ツアーのご案内
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3484
「ベトナム展示会ツアー」の申し込み方
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3482

よろしくお願いします。

【お知らせ その2】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月23日(金)に更新予定です。

2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、いよいよ終わりに近づいてきた(No327の続きです)。前回の掲載からしばらく時間が空いたが、今回は1970年6月、70年安保闘争の月である。
明治大学新聞に70年6月15日に向けた各党派の方針が載っているので見てみよう。

【「安保の6月」スタート 方針まちまちの学生戦線 明治大学新聞1970.6.4】
『1970年の6月がスタートした。60年から、めぐりめぐって10年。「日韓」があった。そして67年第一次羽田闘争があった。佐世保、三里塚、王子、10・21新宿―諸々の闘い。東大闘争、日大闘争、大学立法粉砕に決起した全国学園闘争。だが、その後、相次ぐ機動隊導入、ロック・アウト。拠点を奪われた中での“11月決戦”。打撃。“勝利”と“敗北”の総括。そのいずれをも“冬”がおおった。立ち直りのきざしをみせた4・28ではあったが・・・。そして今、6月を十たび迎えた。

<武闘かカンパニアか>
実質的な“安保決戦”といわれた昨年の11月「佐藤訪米阻止闘争」。その打撃からまだ完全な立ち上がりをみせない反日共系各派は、足並みが揃っていない。
 昨年の「6・15統一集会」は六者共闘(革共同・共産同・社労党・第四インター・ML・解放)が実現。ゲバ抜き大衆闘争を展開し、三万人以上の大結集をみたが、今年の6月は“武闘組”と“カンパニア組”真っ二つに割れている。それぞれ両者の極を行くML派と中核派の中傷合戦が展開されている。5月中に行われた集会でも、たびたび内ゲバを演じてみせてきたのもこのゆえんによる。6月14日代々木公園での「労学市民大集会」が今年の唯一の統一集会である。中核派はこの集会を「社共を上回る多数派に転化する場」として設定。“ハネ上がり”は弾圧する方針だ。これに対しMLは「カンパニアの中核は十年前のブント以下だ」として真っ向から衝突する。その上、MLはこの日、政府中枢に向けて“出撃”を決めているため、内ゲバの懸念は拭い切れない。
 この14日の直前に各セクトはそれぞれ政治集会を開催し、意志一致を図る。そして、一つのヤマ場15日の行動は各派まちまち。中核が日比谷公園で「6・15記念集会」。ブントが「反帝戦線大集会」。反帝学評がこの日国会・首相官邸に向かう。
 もう一つの頂点は、自然承認日の23日午前零時。各派は政治ストを予定しているだけ。頂点というよりも、70年6月安保闘争の最終日という感が強い。
 各派の行動をその機関誌でみてみると、これまで街頭ゲバルト闘争の先頭に立ってきた中核派は“穏健な”見出しで「6月安保決戦の爆発的高揚を」(「前進」6月1日付)と掲げてある。それ以上に「6・12革共同大集会」が目立つ。その理由は「(6月安保決戦の)勝敗のカギは、6・12革共同大集会の圧倒的成功のいかんにかっている」からである。「6・15十周年記念」には日比谷野外音楽堂で大集会を持つが、呼びかけ文句は「音楽堂をうめ尽くせ」のみである。過激な行動を戒めて6月はカンパニア闘争で迎える方針である。6・15のほか行動スケジュールは、6・11に「二週間のゼネストに突入」する。14日には全国反戦、全国全共闘主催の「労学市民総決起集会」が代々木公園で開かれる予定。そして当日から23日まで、波状闘争を組む中で、21日から3日間、安保粉砕総力戦を展開する。
 「6月決戦へ人民の総武装を」(「赤光」6月2日付)、「機動隊殲滅―首都制圧」(同6月6日付)など、激しい口調はML派。6月決戦における最過激行動を起こすと思われるのは同派であり、「6・14から10日間の死闘」と命名している。14日には代々木公園で大集会を持つが、この集会を「武装出撃拠点に」として位置づけ、大きなスペースをさいて代々木公園周辺の地図まで掲載している。その決意を「14日をカンパニアで流すことは、6月決戦を敗北に導くことにつながる」としており、昨年の11月決戦時と同じく「機動隊殲滅」を「具体的な任務」だと叫んでいる。この「機動隊殲滅」の字句が見られるのは、ML派だけであり、機動隊との衝突がかなりの規模で起こることは間違いないだろう。
(後略)』

当時の各党派機関誌があるので、いくつか写真を掲載する。

イメージ 1

(赤光)

イメージ 2


(前進)

イメージ 3


(先駆)

イメージ 4


(解放)

イメージ 5


(戦旗)

70年4月以降、明大全共闘は、全共闘の主導権をめぐるML派とブント、反帝学評との争いにより、実質的に解体状態であった。
そのような状況の中、6月12日の夜に14日の大統一行動を控え、ML派が反帝学評にゲバルトをかけ、10数名の重軽傷者を出した。13日の和泉校舎では反帝学評とブントがピケを張りML派を阻止した。正門前には機動隊が配置され、12時からついにロックアウトになった。
この12日夜のML派による襲撃事件の詳細が明治大学新聞に掲載されている。

【真の学苑会とは ML・反帝学評襲撃 セクト発想を排し大衆的に 明治大学新聞1970.7.2】
『事件の経過を追ってみると、学苑会学生大会の前日の10日、ML派執行部は、①今年度の予算は二部文自治会、および二部政経自治会へは分配しない(約70万円の借金のためという理由)②反帝学評系を中執委員に加えない、旨を二部文学部自治会へ申し渡した。これがその発端である、
これに対し、反帝学評系は学苑会大会当日の午後5時半、問題の「対案議案書」を中執に提出した。大会が始まる直前の午後6時54分、ML派は「人事案」がもられていない旨を発したが、その場で両派折衝した結果、大会途中に提出してよい事を確認した。
大会が開始され、議事に入ろうとした時、議長の桜田健君(Ⅱ文四年)が「大会開始前に“対案議案書”が提出されているはずであるから、まずその事案を報告してもらいたい」旨を発言した。その後は次のとおりである。
資格審査委員長が対案に関する経過報告、および「人事案が出されていないので受理しない」と発言。
会場から「人事案については大会途中に提出してよいと言ったではないか」の声。
15分休憩。
桜田議長降壇。
本間中執副委員長「人事案が欠けているので、対案として認められない」ことを表明。
議事進行。経過報告。総括。
一代議員が対案書に対するその後の取り扱いについて質問。
中島資格審査委員長が答弁。
「審査委員6名中、受理3名、受理しない3名のため、委員会で断は下せない」
9時半、二度目の休憩。
再開、9時50分。採決に決まり、議場を閉場。
採決の結果は受理64名、受理しない14名で、対案書を取り上げることに決定。
以上が大会のあらましの経緯である。
そして翌12日、ML派の襲撃模様は次の通り。
午後6時ごろ、Ⅱ文自、Ⅱ文闘、Ⅱ部文芸1年、Ⅱ部仏文1年およびⅡ法闘の約20人の学生が、五号館地下二階の学生控室で、当日の継続大会に向け参加態度を協議していた。そこへ、ヘルメット、竹ザオ、角材、チェーン、コーラビンで武装した他大学生を含む約30人のML派学生がなぐり込んだ。その場に居合わせた学生の話によると、Ⅱ文自治会執行部、対案書を提出した者は、特にネラわれたふしがあるという。その結果、内臓破裂のおそれがある者を含む重軽傷者十数人を出し救急車で近くの病院に運び込まれた。

イメージ 6


6月12日の反帝学評に対する「ML派襲撃事件」はショッキングだった。最近、本学で発生した内ゲバの中でも特筆すべきものである。学費闘争時の昭和41年12月、ML派は民青系から学苑会中執をとって代わった。以来、反日共系と民青系との攻防はいくたびかくり返されてきたが、この事件は、はじめて学苑会中執をめぐる反日共系同士の抗争である。
ML派が握る学苑会といっても、実はML派が学苑会中執の委員をすべて独占している訳ではない。「反民青」で一致しているML派、反帝学評(Ⅱ文自)、反帝戦線(Ⅱ政経自)が統一し、それぞれポストを分け合ってきた“仲間”である。ただ、中執委員長はその中でも“力”のあるML派から輩出してきた。
今回の事態は、反帝学評が提出した“対案書”の問題がML派にとって不利な展望をみせたからであると、一般的には推測されている。反帝学評がなぜ、対案書を提出したのか。それは別述の通り、予算配分問題と中執人事が原因であろう。しかし、なぜ、ML派が突然中執委員を独占しようとしたのか。その真意は定かではない。中執委員独占とはもちろん学苑会完全支配を意味する。
襲撃事件の余波は、今のところML派にとって、“悪しき状況”が続いている。五号館で暴行を受けた中にはノンセクトの学生もいたことから、反帝学評を中心に「反ML」で固まっている。
ML派が襲撃事件に関する見解を出しているので、みてみよう。
「ML派に対する疑問に答える」-学生大会流会の原因と批判的克服のためにーというビラである。
まず最初に「大会開催不能に至らしめたことを素直におわびします」と謝罪している。「対案書」については次のようにいっている。「“対案”なるものは執行部の提起してきた運動を全面的に否定したときに初めて出されるものである。だから彼ら(反帝学評)が対案書を提出したことは、彼ら自身も参加している中執、自らも展開してきた運動をも否定している。また、全二部共闘に対する全面的敵対行為として、このこと(対案書提出)をとらえたが故に、翌12日われわれのゲバルト行使があったのである。」と、対案書提出敵対論をとっている。また、対案書の内容についても「たとえるならば民青の運動の現実的展開が全面的反革命として登場した時、討論以前に暴力的敵対が不可避とされたように、学苑会中執および二部共闘の一切の運動に対する全面対決としてあった」としている。
対案書が本来執行部に対する全面的敵対行為としてあるものであるというが、例えばML派の出してきた予算、中執の独占問題は、反帝学評にしてみれば、同じように全面的敵対行為としてうつったことだろう。対案書はすべて敵対行為であると判断し、切り捨てようとする行為は、二部全学生を代表しその運動を領導すべき学苑会執行としては早計すぎた感がある。
ML派が中執人事をうむをいわせず独占しようとしたこと、その故の全面敵対と全面敵対―おそろしくセクト主義的発想であるとみられても仕方がない。そしてつまるところ止揚していくための党派闘争ではなく、主導権を握るための派閥抗争である。しかし、そこには学生大衆の黙殺がある。学苑会とは学生を土台にしてはじめて成立つものであって、決してセクトの主導権争いの場ではないはずである。
一方、反帝学評は翌12日、ただちに全学連(石橋興一委員長)の「緊急声明」「大衆運動の敵対者MLを放逐せよ!」を発した。
「ML派に対し、階級闘争の道義性に基づいて自己批判を要求する。応じない場合は断固たる措置をとると同時に、全国全共闘からそして階級闘争の全戦線から放逐するであろう」と激しく自己批判を迫り、さらに「党派としての明確な自己批判と治療費その他全額支払いがなされない限り、共闘することはありえない」とし、「ML同盟と学生解放戦線に対しての自己批判要求を緊急に声明しその活動を開始する」と結んでいる。
このことは今度の襲撃事件が明大学苑会内部だけに留まらず、全国的な反帝学評対MLの抗争に発展していく可能性を秘めている。
これらの問題は、表面的には当然学苑会の主導権をめぐる争い、現在の状況を踏まえればつまり反帝学評が学苑会をトレるか、トレないかに絞られてくると思うが、それに向けて、再びゲバルト行使の危険もある。問題はそれだけに終始してよい性質の問題ではないのではないか。いかにして、それを運動発展のバネにするのか。昨年6月、バリストに突入してから、本学の本質的な問題は果たして好転したか?否である。学苑会とは全学生を領導するものである。故に、本学の問題と取り組み、個別学園闘争を徹底的に闘う中から運動を創り上げるものが真の学苑会というものであろう。』

この内ゲバの翌日、13日には日大全共闘を中心とした集会が開かれた。この集会の記事が朝日新聞に掲載されている。

【日大集会に千五百人 朝日新聞 1970.6.14】
『日大全共闘などノンセクトの学生を中心とした「安保フンサイ、アウシュビッツ解体連帯集会」が13日午後、東京・文京区後楽園の礫川公園で開かれた。同大はじめ法大、東大、明大などの学生約千五百人(警視庁調べ)が参加。はじめに大学ごとに集会を開き、日大の集会では秋田明大日大全共闘議長が「日大における古田体制による弾圧のようなアウシュビッツ化は全国の学園でも見られる。一人一人が自立した闘いを展開しよう」と呼びかけた。その後、全体集会が開かれ、各大学の代表があいさつした。
午後6時半からデモにうつり、淡路公園まで約2キロを行進した。途中、デモ隊から噴霧式殺虫剤のカンが10個近く投げられたが、大きな混乱はなく、同8時すぎに解散した。この間、機動隊との小ぜり合いで3人が公務執行妨害現行犯で逮捕された。』

この集会には私は参加していないが、明大新聞のY記者が参加し、記事を書いている。参加者の視点からの記事である。

イメージ 7


【ノンセクト独自に集会 日大全共闘ら二千人 明治大学新聞1970.6.18】
『「反安保6・14新左翼共同行動」を前にした13日、「日大アウシュビッツ体制粉砕・反安保」集会が礫川公園で4時頃から行われた。この日の集会は日大全共闘を始めとする、ノンセクト独自の集会としてもたれた。若干のセクトのヘルは見えながらも、完全なノンセクトのみの集会であり、こうしたノンセクト独自の集会ははじめてであった。
各大学代表のアジテーションは「これまでのセクトの囲い込みによる全共闘運動、そして個別闘争をおろそかにし、政治闘争至上主義的に闘いを進めるセクトの闘争」を批判し、「ノンセクトによる、独自の自立した運動を、個別闘争を徹底的に闘う中から、「安保体制」権力総体に向けた闘争を展開しよう」という発言に貫かれていた。結集した約三千人の学生は。いつものようなヤジもなく聞きいっていた。
集会を終えたデモ隊は、道路いっぱいにジグザグデモを繰り返し、後楽園を過ぎる頃、先頭を行く日大全共闘は大隊列を組み、一歩一歩大地を踏みつけるように進んだ。めずらしくも機動隊の規制もなく進んだデモ隊に、中央線水道橋駅の架橋を抜ける頃、機動隊がおどりかかり、隊列を縮めようとする。しかしガッチリと組まれた隊列は容易に崩れない。それでも日大経済学部校舎前を通る頃、機動隊の必死の攻撃に隊列は崩された。押し付ける機動隊、ガードレールから転がり出るデモ隊、それでも隊列を組み直し、最先頭が機動隊の大楯にヘルメットをつけると、歩道を埋めた学生がいっきに歩道から飛び出し、デモの隊列を横から押す。今までに見られなかった、歩道の援護部隊とデモ隊の一体となった戦闘的なデモが展開された。また途中、どこから投げつけたのだろうか、バクチクの音とともに煙がたち、バルサンの臭いが漂い、解散地点の淡路公園まで数発が機動隊に投げこまれた。
最近の集会にみられるノンセクトの“量”の拡大には目をみはるものがある。しかし、現在的にはまだ多くが単なるノンセクトの位置にしかとどまりえず、独自に、主体的に運動を展開することは少なかった。そうした時、はじめてノンセクト独自の集会をもったことは、ノンセクト運動として主体的な自立した運動を展開していくであろうことを予感させた。』

6月も前半が終り、いよいよ後半6月14日、15日へと突入していく。

(次回へ続く)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月9日(金)に更新予定です。

2010年6月、1冊の本が出版された。「叛逆の時を生きて(朝日新聞出版)」。1960年代後半から70年初頭にかけての「あの時代に、学生運動に加わった人たちはどんな思いだったのか、なぜ、あんなに学生運動が盛り上がったのか、急速にしぼんだのはなぜなのか」、当時の学生運動に関わった人たちや関係者に取材した本である。2009年に朝日新聞紙上でも連載された。
この本の中に、明大から取材を受けた人がいる。

「革命家になろうと思ったことはなかった」米田隆介(「叛逆の時を生きて」より引用)
(前略)安田講堂ではセクトの外人部隊のひとりに米田隆介がいた。明治大学自治会の委員長で社学同のメンバーだった。米田は攻防の始まる3日前、安田講堂に入った。
「安田講堂に入れば逃げられないことはわかっていた。それまでのさまざまな闘争で先輩が次々に逮捕されていた。今度は自分の番だと思っていた。ためらいはありませんでした。」
たてこもるねらいはなんだったのですか。
「ひとつは、権力に抵抗して闘いの火を広げること。もうひとつは、社学同の組織をアピールし、組織拡大をめざすことでした。安田講堂攻防の後、全国各地の大学で新たに闘争が起きた。その意味では、効果があったのかもしれません。」(中略)
安田講堂の攻防では5階のバルコニーにいた。道路からはがした敷石が投石用にたくさん用意されていた。
「あれはかなり重かった。機動隊の頭に当たると、亡くなったり、大けがをしたりする。その前年に、日大で警察官が亡くなっていた。そうかといって、投げないわけにいかない。直撃しないように投げた。機動隊員の近くに落として、バーンと割れるように。」
攻防が終わったときは、放水でずぶぬれだった。
「冬の夕方だったから、ともかく寒かった。これで暖かいところへ行ける。しばらく休める。そんな気持ちだった。」(後略)

イメージ 1

(安田講堂攻防戦の写真)

米田氏は、当時、明治大学学生会中央執行委員長であったが、社学同の行動隊長として東大安田講堂に籠り、1969年1月18日と19日の攻防戦を闘った。
先日の明大土曜会で、米田氏から46年前の東大安田講堂籠城に至る経緯や攻防戦の状況など話を伺ったので、その要約を掲載する。

【明大土曜会での米田氏の話】
<東大安田講堂籠城に至る経緯>
2008年の時に東大の駒場祭に呼ばれて、東大闘争について話をして欲しいということで、東大助手共闘の最首悟さん、東大全共闘の片桐さんとともにパネラーで話をしたことがあります。
69年に東大安田講堂に入った時は、明治に全共闘はなかった。私の意識としては、明治の中執委員長としてではなく、社学同の一員として入ったということを駒場祭でも話をしました。
69年1月10日に駒場で民青とやった時の写真があります。荒君とか私とか久保井さんとか大下君も写っています。これは荒君の本「破天荒伝」の中に使われている写真です。

イメージ 2
私にとっては、東大闘争は全共闘運動という意識は全くなくて、三派全学連の宣伝合戦、70年安保に向けて自分たちの勢力をどれだけ増やしていくかというのが主題の闘いであった訳です。
当時のブントがどうなっていたかというと、68年の10・21防衛庁闘争の時に、後の赤軍派のグル―プは火炎瓶を使えということを言っていて、それに対して東京のさらぎさんなどのグループはそれはできないということで、それの折衷案として丸太を抱えて防衛庁に突っ込こんだ。前日の10月20日に、明大の池原さんを隊長にして20名程の部隊がトラックに乗って防衛庁占拠を目指して、一部占拠した。そういう闘争があって、ブントの中も東京系と関西系に分かれていた。
1月16日の夜、ブントの政治局メンバーから、社学同の指導部であった委員長の荒岱介、ブントの学対部長の高原浩之に「機動隊の導入が近いが、革マル派から連絡が入った。彼らは法文二号館から出ると言っている。社学同も安田講堂から出ろ」と何とも信じられない方針が出たそうです。私はこのことは直接聞いていませんが、安田講堂に荒君と高原さんが戻ってきて、そんな事を言っていたという記憶はあります。
高原さんが「出ろってなんや。学生は皆、死ぬ気でやっとるんや。敵前逃亡しろと言うのか、」と言ったことに対して、「政治局の決定に従えないなら、全てお前らの責任だ。」ということで大ゲンカになって、対外的には社学同だけでやる、ブントの政治局の許可を得ない、社学同の勝手な判断でやったという形になった。
その時の社学同のメンバーは、委員長が荒さん、ブントの学対が後に赤軍派に行きますが高原さん、北海道から山内さん、中大の久保井さんなどがいた。明治では、当時社学同が30人くらいで、トップが池原さん。明治は学費闘争の後に上の世代が皆いなくなったので、学費闘争が終わった時の66年入学の1年生のグループと65年入学の小森さんなどが中心だった。その小森さんが67年8月頃に運動を辞めてしまう。学費闘争の時の中執の大内委員長の後に、中執委員長代行を小森さんがやっていたが、「米田を中執委員長にする」ということで去っていった。生田は篠田さんなどの力があって、妹尾さんがキャップだったと思う。池原さんが68年10月に逮捕されて、社学同の組織のキャップは両川君がやった。両川君も11月に逮捕される。やる人間がどんどんいなくなる中で、本来、僕は中執委員長だから残った方がいいと思ったけれど「しょうがないから行くか」ということで入ったのが、私が東大安田講堂に入る経緯です。
1月18・19日に至る具体的な経過を話しますと、1月15日の安田講堂前で行われる「東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会」に向けてブントとしては同志社を中心に関西からも動員して200名くらい集まった。当初は全員籠城という意気込みだったが、そうもいかないということで、指導部レベルでは、荒君も高原さんも、山内君も久保井さんも村田さんも全部入らない。米田が入れということで私が入り、関西から来た100名くらいは人選して半分くらい返している。関西から50、東京から50で全部で100名くらいが入る事になった。

イメージ 3

(1.18部隊配置図)

当初、ブントが守る場所は安田講堂ではなかった。資料の1.18部隊配置図の安田講堂の後ろに「(理)1号」とある理学部一号館だった。この建物は安田講堂の裏手の斜面になっている低い位置にある。東大の正門玄関から安田講堂に向かって左側がML派の列品館、その隣が中核派の法学研究室、その奥が革マル派が守るはずだった法文2号館で、マスコミにアピールするのは正面がメインなので、安田講堂の後ろにいたのではやってられないとうことで、荒君が安田講堂にいた今井さんのところに行って、「68年の6・15の時に医学連が安田講堂を一時占拠した実績があるのでブントは安田講堂だ」ということで無理やり入り込んで、解放派と「出て行け」「そうはいかない」と殴り合いのケンカになったが、今井さんが仲裁してブントが入る事になった。

イメージ 4

(安田講堂攻防戦写真)

<1月18日の状況>
1月18日、午前7時30分に青医連が立てこもっていた医学部の図書館の封鎖が解除され、22名が逮捕された。8時15分頃、300名位のデモ隊が正面玄関から入ってきた。機動隊は安田講堂を攻めるために正門は検問していなかったのではないか。デモ隊は安田講堂の前までやってきた。外にもこういう部隊がいるということで、こういう仲間もいるんだと思い、悲壮感はあったがやる気になった。デモ隊は銀杏並木を1周して機動隊に押出された。
革マルはいないということだったんですが、実際には法文2号館にいました。革マルはここで12名逮捕されています。まあアリバイですね。私は安田講堂にいたので見えるんですが、何もないのに革マルのヘルメットを被った人間が屋上に出て来て、その後、機動隊が出て来て、ほとんど抵抗なしで逮捕されていった。そういう意味では革マルは敵前逃亡したが、アリバイ的に12名を残していた。
列品館では、明治の滝沢君が東大闘争の中で一番重い刑を受けている。放火が付いた。都市ガスを引いて、先にノズルを付けて火炎放射器のようにしていた。ML派は38名が逮捕されたが、見ていてもすごかった。ノズルの先から火が出ていて、その他に火炎瓶も投げるので、建物の中で燃えて煙が出てきた。休戦協定を結んで、怪我人を一人降ろした。消防車が来て放水して火を消したが、また火が付いて、ML派はそこで闘いを止めた。
私はブントの隊長ということで安田講堂に入っているし、滝沢君も列品館で頑張った。そこそこ明治も頑張ったということです。
18日の闘いでは、中核派が法学研究室で闘って、建物内部の闘いは見られないが、屋上でゲバ棒で機動隊と最後までやり合っていた。第四インターもここに入っていて、167名が起訴された。安田講堂以外では、ここが一番数が多かった。18日に一番最後まで闘ったのはここです。
1月ですから4時か5時には暗くなる。機動隊の放水も5時10分には終わっています。
その日の安田講堂は1階に機動隊が入ってきた。安田講堂の正面玄関は3階になっていて、裏側から機動隊が1階に入ってきたが、暗くなったので5時過ぎに引き上げた。それで「1日持ったな」という記憶がある。この日はまだ安田講堂の中を行ったり来たりできた。

<1月19日の状況>

イメージ 5

(安田講堂の断面と各党派の配置)

東大の島泰三さんの「安田講堂1968-1969」という本と、私の記憶でによると、安田講堂の屋上には各党派の旗振りが一人ずついた。ブントは上原君が最後まで旗振りで残った。6階部分には中核派、5階の左側に社学同の関東の部隊が50名で右側がケンカした解放派が40人くらい、4階には東大全共闘の全闘連と青医連のグループが30人くらい、3階の後側は東大全共闘40人、3階の正面には関西の社学同が50人と第四インターのグループがいた。
1階は誰もいなくて、1階から入ってきた機動隊が階段を上がって来るのを防ぐという形になっているので、2階に中核派がいた。一番の闘いは1階から2階に上がる過程だった。
3階の正面玄関は、屋上から我々の部隊が火炎瓶をどんどん投げるので、機動隊は鳥籠みたいなものでやってくるが、一升瓶の火炎瓶の効果でなかなか入れない。すんなり入れるのは1階だから、ここから入ってきた。1階と2階の階段にバリケードを作っているが、中核派がバリケードの隙間から火炎瓶をバンバン投げていた。機動隊は消火器で消して、バリケードを確実に1個づつ取り除いていく。向こうも簡単に引いたりしない。実際に闘いになったのはここです。
機動隊が2階に上がった段階で、勢いもなくなって、2日目で水を浴びて体力を消耗しているので、3階の社学同の部隊はメタメタにやられていた。この時点で、東大の防衛隊長の今井さんからは「抵抗はするな」という指令が出ていた。午後2時くらいには実質的に抵抗は終わりで、4階まではちゃんとした階段があるが、5階から上は人が一人くらいしか通れない階段なので、そこにバリケードを作って抵抗すれば1日でも2日でも持ったと思いますが、下の部隊が降伏しているので、上の部隊も止めようということで、その時点で抵抗は終った。
機動隊は外側に仮設の階段を作って5階に入ってきた。5階で抵抗せず、インターを歌いながら逮捕された。逮捕されたのは午後5時頃だった。
僕たちの部隊は殴るけるの暴行は受けなかった。というのは、新聞社も従軍記者みたいな形で来ていましたから、手で殴ることが出来ないので足で蹴ったりしていましたが、そういう状態でした。以上が私が体験した東大闘争です。
なにせ寒かったという記憶がすごくあります。放水というのは、そういう意味で効果があった。特に私たちの部隊は5階のバルコニーに出て火炎瓶とか敷石を投げる役割だったので、出れば必ず上(へり)から水を浴びるので、水の中に催涙液のような薬品が入っていて、私も2ケ月くらい足首に火傷をしたような炎症があった。医務官は火傷だと言って薬を塗っていましたけど。外でやった人はだいたい火傷したんじゃないか。どうやってトイレに行ったかと食事をどうしたかは全然覚えていない。
逮捕されたのが682名で、そのうち起訴されたのが474名。起訴されなかったのは未成年の人だと思う。大学別で言うと、東大が一番多くて83名、次は広島大で29名、これは中核派が頑張ったんですね。早稲田が23名、同志社18名、同志社はほとんどがブントだと思います。明大が16名、法政が16名、東北大が14名、芝工大も14名、京大が13名、山形大が9名、九大が6名です。全国82大学から来たそうです。
その内訳は9割くらいが党派の動員です。党派の会議で安田講堂の守る場所を決めていた。東大の片桐さんのように自分の意志で入った人もいるし、地方から個人で入った人も何人かいたようです。

イメージ 6


(安田講堂攻防戦写真)

<逮捕後のことなど>
私は午後5時37分に、5階のバルコニーで皆と一緒にインターを歌いながら逮捕されて、成城署に連行されました。そうしたら、私の高校の先輩だという検事が2日目くらいに面接に来て、どうだったのか話をしてくれれば先輩が何とかするみたいな話をしてきた。警察は逮捕した時点で、出身高とか人脈をフルに使って、懐柔策はすごかったです。誰が入れと言ったのかなど聞かれたが、しばらくしたら「荒がお前に行けと言ったんだろう」とか、指揮系統を全部知っていた。成城署に行って、23日で起訴されて、刑務所から保釈されたのが70年の1月10日ですから、ほぼ1年です。判決が71年に出て、凶器準備集合・不退去・公務執行妨害で懲役2年6ケ月。ML派で放火が付いた人は5年になったが、それ以外は最長で2年6ケ月。ブントでは、僕と荒君、上原君もそうかな。
私は翌年の72年の6月に控訴を取り下げた。それは、連合赤軍の問題や浅間山荘事件もあったし、僕らが最後まで属していた戦旗(荒派)も中で4人組が出来たり、4人組というのは僕と両川君と早稲田の本多君と大下君で、全員66年入学の同じ学年です。当時、荒君と対立することがあって、もうやってられないと思った。自分が何かで死ぬことは仕方ないとしても、内ゲバで誰かを殺せという世界に入ってきたので、そこまではやれないということで、控訴を取り下げれば刑務所に行く道もあったので、6月に控訴を取り下げて静岡刑務所に行きました。翌年の10月に出所したので、1年4ケ月入っていた。
以上簡単ですが話を終わります。

イメージ 7


(安田講堂攻防戦写真)

米田氏の話の後、明大土曜会参加者からいくつか質問が出された
<質問>
質問1「山本義隆さんはその時はいなかったんですか?」
米田「山本さんはもちろん外に出ていました、今井さんとホットラインがあったということですが、今井さんの方が学生運動の歴史が長いし、実際的には今井さんが決めていたと思う。」

質問2「東大全共闘と党派との関係はどうだったのでしょうか?」
米田「東大全共闘といっても党派がいる訳だから、色の付いていない人はまずいない。党派会議もやっていた。60年安保の世代がいろいろやっていた。
表向きは東大全共闘だけど、実際は党派の交渉をやっていたのではないか。ブントは久保井さんが会議に出ていた。
17日の夜に、指導部は各部隊の責任者を残して安田講堂を出た。」

質問3「全学連との関係は?」
米田「あの時は全学連という意識はない。三派全学連は結成直後に割れて、中核派とかブントとかの党派の全学連だった。そういう意味で完全に党派。」

質問4「あれから46年経って、今から考えると東大安田講堂に籠ったことについてどう考えますか?」
米田「ああいう時代だからね。あの当時の学生運動のピークをどこに見るのかということもあるけど。全共闘系だった人はその後に来たと思うし、僕は三派全学連を作った時がピークだったと思う。その後、どんどん分かれて行く訳だから。そういう意味では66年の学費闘争の最中に全学連を再建した時が、気持ちとしては一番高揚していた。」
「その流れの頂点から、東大闘争は下降に向かう最後の闘いみたいな感じだった。」
米田「それがちょっと遅れて地方でいろいろ起こり、高校生のレベルまで行った。中学生(全共闘)までいた訳だから。」
「我々の世代は全学連の最後の世代で、2つくらい下の世代は全共闘の雰囲気を持っている。それがある程度続いて全国的に広がったというのは、全共闘の方はあった。我々も明治に入った時に、1年くらいで全学連が再建されて、明治もいいかげんなんだけれど盛り上がった、社学同も30人くらいしかいなかったが、(学内を)仕切れた。それが66年の学費闘争でなくなってしまった。」

(終)


今回は、2週にわたって掲載してきた日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートの最終回である。
座談会の後半、ゲスト・スピーカーの発言の後、会場から質問が出され、それに対する質疑の部分を「質疑編」という形でまとめたものである。

イメージ 1

(看板写真)


イメージ 2

(会場写真)

【日大930の会(後半・質疑) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】
(ゲスト・スピーカーの発言の後、会場からの質問に対する質疑)

質問(会場から)
「9・30団交の後、佐藤発言を受けた首相官邸包囲デモが何故できなかったのか。それを日大全共闘が提示できなかったこと、そして皆さんに協力をいただけなかったこと、その辺を5人の方にご意見をいただきたい。」

中大全中闘 O氏
「これは党派の中に非常に複雑な微妙な心理があったと思う。中大の最後の問題はその最初の表れだったと思う。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「党派の話はいいんじゃないの。」

中大全中闘 O氏
「その問題があって、向こうが反古にしたというのは、ある意味で権力闘争という観点からすれば、一つのそういう心理なり意識も働いたことだと思う。その微妙なところがまだ運動の中に残っているテーマとしてあるのではないか。」

司会:日大M氏
「大学闘争が直接的な政治とどう向き合うかということで言うと、日大闘争は、まだそれに向き合う体つきになっていなかったことは事実だと思う。直接の問題でストレートに機動隊とぶつかったけれど、私どもとしては、直接政治と向き合うということはテーマとしてなかったと思う。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「一般的にはどんな感じだったんですか。大体ああいう風になれば、じゃあ敵は誰だとハッキリ見えてくる。そうしたら、それに対して抗議・行動なり、国会包囲デモ、官邸包囲デモという方針は全共闘でも出るわな。」

司会:日大M氏
「出せないということは無かった。日大闘争のスローガンは、古田を倒せなどいくつかのスローガンに代表されるものでしたから、それを突然明日、佐藤首相の発言があったからといって首相官邸のデモになるかといったら、それはなかなか馴染まなかったのだと思います。」

質問者
「むしろ党派が指導してやるべきだった?」

司会:日大M氏
「日大は党派はそんなに強くないですよ。」

会場から
「セクトの刈り上げで日大全共闘は潰れたんじゃないですか。佐藤がああいったことを言ったということが、日大生は一瞬だったから理解できなかった。何故、佐藤自身がそんなことを言ったのか理解できなかったからです。」

司会:日大M氏
「そういう流れになったのかなという感じはしたんじゃないか。個別学園闘争の問題だと思っていたら、いや、意外にそういう問題ではなかった。だからあんなに機動隊と激しくぶつからなければならなかったということも含めて皆の中にあったのではないか。僕の中にもありましたが、それが直接政治と闘うことと結びついていなかった。」

質問者
「勝利した者は勝利した決着を付けなければダメなんだよ。何故官邸包囲デモくらいできなかたのか。これからも全共闘運動をやっていく上で同じ問題が起きる。中途半端にやったらまた負ける。」

日大T氏
「後で分かったことだけど、翌日、あるセクトの人間に『いつバリケードをはずしますか』と聞いたら、『大学側が昨日の約束を完全に守るという確約するまでバリケードははずさない』と言った。僕はそれを言われた時点ては感心した。実はそうではなかった。その党派は70年までバリを引っ張ろうとしていた党派だった。所詮、セクトは我々を利用することしか考えていなかった。日大闘争が敗北したのはその辺に原因があった。次回、日大闘争が始まったら、その辺は気を付けてやろうじゃないか。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「次回の日大闘争の為に、今日ここで皆で集まって、45年前の話をしている訳だよね。
官邸を包囲しても勝てないと思う。でも、せめて包囲する、それでまた挫折する、それで起ちあがる。だから、先ほどの話にもあったように党派は大衆を利用する、党派を拡大するために草刈り場にする、党派のサガですね。ですからそういうものとして対応すればいいし、早稲田の場合は、革マルと状況が厳しくなるとセクトは皆逃げるわけだよ。残るのは反戦連合だけだよ。それで革マルにつかまって、僕も数か月入院したことがあった。
そういうものとして付き合えばいい。僕らは下の年代にキッチり伝えて行く。例えば労働運動を35年やってきたが、最近の若い連中は使い物にならない。それはどういうことかというと、学生運動の経験がないから。運動を組織したり、要求書を作ったり、デモをやったり、そういうことも知らずに、パソコンに向かっていたらこれで運動が出来るみたいなつもりでいる。これじゃ全然ダメ、それが現実です。」

イメージ 3

(1968.9.30「叛逆のバリケード」より)

司会:日大M氏
「日大闘争を巡って、今のようにそうすべきではなかっただろうかと見ていた人がいたというのは、我々の日大闘争に対する一つの意見であることは間違いない。
何故、佐藤発言の後、国会包囲しなかったのか、そういう方針が全く出されなかったことについて、例えば副議長だったYさんに聞いていいのか分からないけれども、全学共闘会議の全体会議でそういう議論がなされたことがあるのでしょうか。」

日大Y氏(副議長)
「肩書は全共闘副議長だったけれども、私の個人的な事しか言えないが、9月30日と10月1日はすごい転換点で、私は両国講堂から歩いて法学部まで戻りました(会場から「電車が無かったので皆歩いて帰った」という声あり)。気分としては意気揚々として帰った。
それで10月1日の発言があって、個人的には次の手は何を打つのかとか、頭が真っ白になったのではないかと思います。先ほどから話があった11・22とかは、私はパクラレて11月は20日間ほど神田警察署にいて、11月22日の(東大の)銀杏並木のことろに日大生が千名とか二千名集まってすごかったという話を聞きまして、結果論ですけれども、10・1の佐藤発言に抗議の意思を持った学生が東大の前に集まったとも解釈できると思います。
頭が真っ白になったまま、1969年の1月を迎えたという感じで、全共闘の幹部の中でどうするのかという話し合いがあったかどうかは殆ど記憶にない。」

司会:日大M氏
「敢えて聞きますけれども、政治党派から指導はなかったんですか?」

日大Y氏(副議長)
「私は一応ML派だったけれども、そういう指導を受けた覚えは一切ない。ML派も法学部や経済や文理学部にオルグを派遣してやっていましたが、最終結論は『Y、お前はどうも使えない』と言われたことは覚えています。」

司会:日大M氏
「Mさん(芸闘委)はどうなんですか。」

日大M氏(芸闘委)
「結論から言うと、官邸デモなんかやらなくてよかったと僕は総括している。実際、全共闘でもそういう論儀は全く出ていない。9・30があって、佐藤発言があって、3日の2回目の団交で拒否される訳です。この過程の後も、実際に勝ったという実感を持っている訳です。全共闘の実体を残して、いずれバリケードが無くなって、大学を実体取れるかどうかという論議は何回もした。どういう風にするか、学生会館みたいなものを取らなければいけないだろうとか、いろんな話はしていたけれども、政治闘争に行こうという話はしていない。どういう風にして全共闘の組織を作ってきたかというと、全共闘は日大闘争のスローガンを実現する組織です。この全共闘を政治党派が引っ張り回さないということ、約束というか明文化したものではないが、各党派が政治闘争は自分たちの部隊を連れて行く、全共闘という形をとらないで行くべきということになっている。中核派はマル学同中核派日大支部という旗を持っていく訳です。ML派は解放戦線という旗を持っていく訳です。ただ、全共闘が政治党派と同じように動くということはしない、という不文律があって・・・」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「それは一つのあり方だよね。」

日大M氏(芸闘委)
「これを守ってきたから、党派もそれを守ってやってきたから、68年の段階での日大闘争は保持できた。何で全共闘がそういう求心力があったかというと、全共闘が解体したら日大では右翼に勝てないんですよ。敵が目の前にいるんです。その頃は芸術学部で右翼とぶつかる前ですから、必ずどこかで(右翼と)ぶつかると皆知っている訳です。これに勝つためにも全共闘を傷付けたらダメということを党派の人間も皆知っているんです。
だからそういう論議にならなかった。政治闘争なんか止めた方がいいんだって。」

司会:日大M氏
「確かに10月1日の佐藤発言で、私の所属していた3年生闘争委員会での話の中では、本当に勝利するためには、もしかしたら政治と向き合わなければいけないのかもしれないという議論は、話としてはしました、ただ、我々が何をするのかという時には、例えば一番象徴的だったのは、10・21国際反戦デー、ああいう政治的テーマの時にはわれわれは全共闘としていくのは止めよう、個人で参加しよう、全共闘は政治的テーマについて取り組むべき組織・運動体ではないという了解の中で全共闘をやってきた。」

日大M氏(芸闘委)
「もう一つ、芸術学部で起こったことですが、元々革マルだった人たちが中心のグループが、学生権力ということを出してくる。これは元々書記局グループが言いだして、それは9月でものすごい爆発が起こって、それを見て急に左ブレしたのか、そういうことを言い出した。ところが学生権力ということ自身には理論付けできなくて、結局、第四インターと結びついて、というのはインターの書記局の人が芸術学部に泊り込んでいたので、それの意見について行って、日大闘争が越えて行こうという論議がいっぱいあったんです。
政治化しようという論議もあった。だけど、全共闘自身ではそれを取り上げなかったということです。」

イメージ 4

(会場写真)

日大N氏
「10・1の佐藤発言があって、一時、日大全共闘が方針を出し切れないことがあったと思うんですけれども、68年の11月頃には9・30確約事項の内実化ということを言ったと思うんです。具体的に学生会館を獲得する委員会とか、生協設立準備員会とか、そういうのを打っていって、そいうスローガンを揚げて進んで行ったと思います。私は生協の設立に関わって明大生協に大変お世話になって、補助金をいただいたのに踏み倒したんですけれども、それがどうにか方針として持ったのは(68年の)暮くらいまでです。暮れになってくると、今度は向こう側が疎開授業を始めて、それを潰しに行くので忙しくなってしまって、内実化の運動の組み立てが殆ど出来なかった。そのまま69年に流れこんで行ったという経過があったと思います。」

会場から
「違う話ですが、1966年くらいだったと思うんですが、佐藤栄作の翼賛組織で日本総調和連盟が出来る。1967年の秋に日大のオール体育祭というのがあるんです。僕はそのために盆踊りを練習させられた。その盆踊りは、当時人気絶頂だった橋幸夫が歌っていたんです。今でも踊れるかもしれません。10・1の佐藤発言といいますけれども、それ以前にずっと古田重二良は相談していたはずなんです、その流れの中で、もっとも政治意識を出したのは日大なんですから。私の感覚は全く勝ったと思っていなかったし、嬉しくも何ともないし、次の日に佐藤さんが発言した時も普通なんです。当然なんです。だって親方は佐藤栄作なんだから。だから皆さんの感覚と大分違うなと思った。私の感覚からすれば普通なんです。当然です。古田重二良は(佐藤栄作の)子分みたいな形で来た訳ですから、ある意味で企業舎弟。佐藤栄作の発言によって何も驚くことはないし、あれから始まったというのは僕の日大闘争なんです。皆さんと分析の仕方が微妙に違うと思った。」

司会:日大M氏
「国会包囲はどうなんですか?」

会場から
「国会包囲だろうが学内だろうが、相手は国家権力だと思っているから、それは単なる戦術の問題で、しようがしまいが大した問題ではないと思う。」

イメージ 5

(会場写真)

日大T氏
「私も付属の体育会出なので補足しますが、日本(にっぽん)会という会があって、総裁が佐藤首相。日本の精神を日本に反映または浸透するということで、ポツダムの憲法を当然否定している訳です。それの会長だったのが古田なんです。その中には自民党だけでなくて、当時の民社党の連中がメンバー全部入っている。そのルートで、日大は古田体制になって文部省から補助金を日本で一番もらっていた。国立大学ではないのに。当然そこから佐藤派の方に現金は行っている訳だし、そうしたグループの1員だから佐藤と古田がくっ付いたって何もおかしいことはない、ということなんです。それが他大学にはない、汚い世界の大学に我々は居たんだということです。」

会場から
「日大の付属出身ですが、今、2人が言ったことは、後で考えればそうだなということで、僕は1年生だったので、その時、次の日にどうしていいか、一瞬で理解ができなかったのが本当なんです。何で首相がそんなこと言うの?そこで、日大闘争は実はかなり大きい闘争なんだな、政府もこれはマズイと思っているんだな、つまり学園闘争ではないんだと、その時初めて知ったというのが、一般のレベルの闘争に入っていた人たちの考え方だったんじゃないかと思う。つまり、後から考えればそうだなと。でも、その現場にいたあの日の頭の中はそうではなかったと僕は思う。」

司会:日大M氏
「多くの人の頭の中はどうだったのかということと、後からどうだったのかということは確かにあると思う。」

日大Y氏(芸闘委)
「話が変わりますが、69年1・18-19の時、何故、安田講堂にたどりつけなかったのか。白山通りのバリケードは何だったのか、一指揮者として今でも不満です。行けたのではないか。誰か邪魔したのではないか。邪魔をしたのは誰だ。7不思議なんです。」

イメージ 6

(1969.1.18-19神田カルチェラタン)

日大T氏
「行けましたよ。」

司会:日大M氏
「私も医科歯科大の前にいたけれど、バリケードは自分たちで敷石積みました。でも何でこんなことしなくてはいけなのかなという・・・。」

日大T氏
「医科歯科の前はテーブルを重ねただけだから、あんなものはバリケードではない。」

日大Y氏(芸闘委)
「白山を潰したバリケードは誰が作ったの。」

司会:日大M氏
「分からない。」

日大T氏
「本郷交差点まで3時過ぎたらガラガラだった。誰もいなかった。」

司会:日大M氏
「行けるか行けないかということだったら、行けました。」

会場から
「僕もその時、学ラン着て見ていたんですが、どうして行かないのかと思った。たぶん、その秘密を知っている人たちはいるはずです。」

司会:日大M氏
「私の記憶では、法学部は何人かヘルメットをカバンに入れて安田講堂の周りをウロウロしていました。私も最初はそうしてましたが、現地の方は結構、(警備が)厳重だった。それで御茶ノ水に戻って、ガラーンとした御茶ノ水で、何で安田講堂に行かないのか、頭の中に疑問としてありました。多くの人がそうだったのではなかったかと思います。」

日大Y氏(芸闘委)
「全部撤収して安田講堂に行ったからガラーンとなった。情報がたぶん掴んでいたはずなのに、行動隊に伝令が来なかった。」

日大T氏
「来なかったんじゃないよ。『経済、動くな』というのは初めから朝から言われていたし、追加で2時頃にまた言われた。」

日大I氏
「僕は、あの時にこうした方がよかったんじゃないかとか、これだったらこうなるんじゃないかという考えを捨てたんです。今やっていることと、今生きていることが大切で、疑問は疑問で、あの時、だからこうならないかというのと、先輩には申し訳ないけれど、一時は何なんだろうと思ったけれど、それを越えられなかった僕らも考えた方がいいかな。それは恨みとか何とかではなくて、今何をするかということで、あの時、こうだったからこうならなかったという考えはありません。その方がいいと思っている。」

日大Y氏(芸闘委)
「それを総括しないと、次に全共闘運動をやった時に同じ過ちを犯してはいけない。」

日大I氏
「俺も先輩も、もうそんな力はないんだよ。」

日大Y氏(芸闘委)
「あるんだよ。」

日大I氏
「グズグズ考えることは止めよう。」

日大N氏
「誰が止めたかというのは、去年あたり明らかになっていると思う。日大全共闘の情報局が警察無線を傍受して、催涙弾が無くなったということを聞いた連中が2人くらいいて、その人たちがどこかの党派の偉い人に軟禁されてしまったということだと思う。それが日大全共闘が安田講堂に行けなくなった一つの要因ではないかと思う。」

司会:日大M氏
「我々の日大の集まりとしては初めて外部のゲストをお招きしてお話をということで 当初は5人も呼んだら時間がないので碌な話も聞けないのではないかということで、確かに一言くらいしか話を聞けなくてもう少しという感じもありますが、今日の公開座談会はここまでとします。」


以上、昨年の9月28日に開催された日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートを掲載した。
こうやって文字起こししてみると、当日、話を聞いていただけでは気付かなかった事も見えてくる。
この座談会の詳細については、次号の「日大闘争の記録 忘れざる日々Vol.6」に掲載されると思うので、それをご覧いただきたい。

(終)

今回は、前回に引き続き、昨年の9月28日に開催された日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートの後半部分を掲載する。
なお、後半部分はゲスト・スピーカー発言後の質疑の部分も含めると長くなるので、質疑の部分は、更にもう1回、「質疑編」ということで次回に掲載することにした。
したがって、この日大930会公開座談会概要レポートは3回シリーズとなる。
では、後半の部分、ゲスト・スピーカーの発言の続きである。

イメージ 1

(会場写真)

【日大930の会(後半) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】(前半でゲスト・スピーカー4名の発言があった。)

中大全中闘 O氏
「中央大学第二部でした。中央大学第二部というのは、60年安保の時は全学連反主流派の教育大、中央大学二部、早稲田文学部という学生運動の伝統あるところだった。しかし、私が入った65年には残念ながら民青に自治会が全部握られていた。その中にいた構造改革系の人たちは崩れてしまっていた。
中央大学は大学問題を中心にするという流れになっていたが、私たちのグループも学生運動をもう1回再構築するためには、政治課題、街頭闘争だけではダメで、大学の学内問題を取り上げて学生層全体に訴えていくということで、そういうものの先駆け的な闘いとして学館学費闘争があって、68年2月に学費値上げ白紙撤回という地平を開いた。
この流れを全国の学生運動に広げていきたいと思っていたので、68年5月に日大闘争が始まった時は、中大は近くにあるので、感動したと同時に興味深く思った。大学の在り方というのは、学生の決起の大きな課題になるという確証を持った。その中で我々の党派の活動家も獲得しなければいけないということで、しょっちゅうこの日大の闘争には出かけていた。ところがどこの党派が主導しているのか、そこも分からない。そこを見抜けないと入って行けない。
そういう中で感じたのは、中大闘争は終って正常化している、そういう中で、68年5月になると東大、教育大、日大と新しくバリケード・ストに入ってくる。そういう中で中大では2月の学費闘争の時にブントと大激論して、ブントは『このまま70年安保までバリケードで行くんだ』という方針を出した。これは学生大衆には通らない。闘いは一旦閉めようということで、またいろいろな問題を抱えて闘争をする、その時にどういう風に持っていくのかということは、今から考える正直無かったと思うが、本来であれば、その段階で東大、日大、教育大連帯ストライキというスローガンでもよかったのではないか。そこまでの政治力が弱かった。国際的な労働運動を見れば、どこかの工場がストライキに入れば、他の工場も連帯ストに入る、そういうものが問われていたと思う。神津さんの本にも『中大もバリストに入れ』ということを言われたと書いてあるが、、バリストをやるには課題、大義がなければいけない。その大義をどうするかということが、学費値上げ白紙撤回の後の闘いをどうするかという中で、バリケードを解除しようと言った我々にも問われていたものだと思う。
9月30日の大衆団交の時は、私は図々しくもあの団交に参加していた。壇上の一番隅に、いかにも日大の学生のような振りをして、そこに座って一部始終を見ていた。調印が行われて勝利した。私はこれは第二の中大だと思った。これでバリケードを解くだろう。中大の学費値上げ反対闘争の勝利の段階と同じような気分になって帰ってきたが、翌日に佐藤首相の介入があって白紙撤回した。日大闘争を権力闘争にしたのは政府側である。大きな節目は9・30だったのではないかと感じた。
三番目は、11・22。我々は全共闘の連絡会議・共闘を作ろうということで、一つは全学連が党派別に分裂している中で、学生戦線を統一するには、全共闘という組織体の連合という方向しかないのではないか、そのための大きな一歩が日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会だった。当日、夕闇迫る中での日大部隊の登場というのは、映画になるような感動的な場面だった。どちらかと言うと、東大全共闘にしても対民青の戦術的な位置づけであって、戦略的に、これを機会にいかに全都の全共闘運動の連絡会議を作るとか、そういうところまでいかなかった。
東大安田講堂攻防戦が終わってから、5派でやっていた党派の調整会議が8派になって、その段階で初めて全国全共闘の組織を作ろうということになった。準備をして7月に全国全共闘活動者会議をやって、9月5日に全国全共闘連合を設立した。
代表が山本さんで、副代表が秋田さんで、あとは8党派の代表が事務局職員ということで、私も事務局職員としてやっていた。今から考えると8派共闘を越えるものではなかった。
9月17日に第1派として教育大奪還闘争をやっていただいたが、11月の佐藤訪米阻止闘争の時には、全国全共闘連合は機能していなかった。各派とも党派軍団でやった。そういう流れの中で全国全共闘連合が不十分なままで行ってしまった。
私は広い意味の大学闘争ということでは、日大も東大も教育大も同じだと思う。それが全体として大学をどう変革していくのかという綱領的なものが出来ていない段階で、各個別闘争の煮詰まりの中に行ってしまったということに問題があったのであって、大学変革、大学闘争という範疇の中に日大も東大も中大も全部含まれているのではないか。
ですから、68年の闘いは、大学闘争という範疇の中で、その生成、発展、ぶつかった壁というものを総括することが今でも必要ではないかと思っている。」

イメージ 2

(1968.2中大大衆団交)

司会:日大M氏
「5人の方から日大とどういう形で接触してきたのか、日大闘争をどう見て来たのかについて発言をいただいた。会場に来ている他の方からも発言をもらいたいと思う。
明治大学も中央と同じように闘争課題をどうするのかということで、全共闘がどういう形で出来たのか発言をもらいたい。」

イメージ 3


明大Y・R(会場から)(68年学生会中執委員長)
「明大全共闘ですか?私は明大全共闘の時にいないので、今回、彼(Y)に出てもらった。全共闘ではなく党派の人間として69年の東大安田講堂で逮捕されているので、明大全共闘結成や9・5全国全共闘結成の過程にもいない。」

明大全共闘Y
「明大全共闘は69年6月に結成した。私が作った訳ではないが、69年4月に駿河台の学生会館に機動隊が入ってきて、それがきっかけで大衆団交があり、全学的な盛り上がりがあり、学内的には学生部の廃止とか農学部再編反対とか学館の自主管理とか大学立法粉砕など六項目の要求を出して、6月に学生大会をやってスト権を確立して、並行して全共闘を結成した。学生大会で、これからの運動は全共闘に一任していくという形で、全共闘が自治会の運度の範囲ではなくて、全共闘の運動としてやっていくことが承認されてやってきた。6月にバリストに入ったが、10月初めに機動隊が導入されてバリストは解除された。元々、明大全共闘も党派主導で、党派が7から8、残りがノンセクト(一般)という割合だったので、ブント内あるいは党派間、ML派と解放派の内ゲバなどがあって、70年に入ると全共闘は実質的に解体していった。
(筆者補足:全共闘結成に至るきっかけとして、69年4月の日大全共闘の闘いに伴う駿河台学生会館への機動隊乱入があったが、これはあくまでもきっかけであって、それがなくても他のきっかけがあれば、それによってバリストや全共闘結成に至ったと思う。それだけ情勢が煮詰まっていたということだろう。なお、69年6月に結成された明大全共闘は、一部(昼間部)の全共闘であり、二部(夜間部)は別組織として、7月に全二部共闘会議を結成した。その後、9・5全国全共闘結成を前に、一部と二部の全共闘を統一した全明全共闘結成に向けた動きがあったが、ブントとML派の組織論の違いにより決裂。結局、ML派と中核派主体の全明全共闘が9月に結成されたが、、ブントと解放派、ノンセクトの大部分は参加しなかった。全共闘が解体し、70年6月以降、運動は停滞期を迎えるが、72年に明大新聞学会闘争を闘うノンセクトを中心としたマップ共闘が結成された。ここに明大全共闘の総括を踏まえた運動の遺産が受け継がれたと考えている。)

イメージ 4

(1969.6明大全共闘結成大会)

司会:日大M氏
「学内問題があって大衆運動があって全共闘が結成されたのではなく、どちらかというと政治的なスローガンが全面に出て、俺たちも遅れるなということで全共闘が結成されたということですね。」

【会場に来ていた「福島原発行動隊」のS氏(60年安保社学同委員長)から60年安保世代から見た日大闘争について話を伺う】

司会:日大M氏
「闘争が日大で起こったということは、どんな形で知ったのでしょうか。」

イメージ 5

福島原発行動隊 S氏
「当然、ニュースなどで知りました。私は60年安保闘争を闘いまして、61年の末に最後にいたのは革共同ですね。当時全学連委員長をしていた唐牛健太郎と、私は社学同の委員長をしていましたが、この2人は運動を離れた訳です。その時、私も唐牛も考えたことは、すでに革共同とブント、全学連主流派を指導していた政党が分裂をして、お互いに理論闘争で済めばよかったんですが、角材を持ち出した暴力的な闘争になりだしたところだった。自分たちは、これは何かおかしいんじゃないか、帝国主義と闘い、共産党と闘うということで血盟の約束をして発足したブントだったんじゃないのか。これが内部分裂をする、これは仕方がない。分裂してもお互いが理論的に闘うというのならいいんだけれども、これが暴力を持って闘い出したということに対して、自分もその暴力に手を染めて、これは何かおかしいということですね。別に理論的根拠がある訳ではないんですが、自分たちはエリートだ前衛だ、これを言っている限り、俺こそが正しい、あいつは間違っている、間違った奴は反革命、こういう理屈になる前衛意識そのものに間違いがあるんじゃないかと言って、私たちは運動を離れる訳です。
私はそれから神戸の港湾労働、山口組の田岡さんが社長をしている会社に入って、港湾労働者の中に入る、その後は埼玉県の工場に行って共産党と掴み合いのケンカをするといったように労働運動ばかり歩いて行った。68年9月30日は、夜の工場でそういうことをやっていました、連日、赤旗に叩かれてやっていたことを覚えています。
そうした党派とか前衛意識とか、そういうものから離れた日大の闘争は、そういうものとは無関係なものだなと、本当に新しい学生たちが自分たちで闘争を盛り上げて行く、とても素晴らしい闘争だなと、唐牛とも話をしたのを覚えています。大変新鮮に見えました。
60年安保闘争の時は日大の自治会の旗を見た覚えはないんですね。活動家として日大芸術学部の学生とのお付き合いはありましたが、日大がまさか学生運動をするとは60年当時は思っていなかった。
縁が無いと言えばウソで、実は共産党と闘うためには、相当こちらの態勢を強化しなければいけないということで、日大の空手部の人と非常に親しく、空手部が組織として当時のブントにやってきては、空手その他で社学同などの行動隊を教育してもらうこともありますし、いくつかの全学連の大会には日大の空手部の人に大勢来てもらいまして、共産党が攻めて来るのに準備をするということがありました。先ほど、東大の中で民青の宮﨑君たちの団体のことが出て来て、学生でなくて大人が出てきたと言っていましたが、共産党の行動隊というのは力があると覚えていますが、幸い日大空手部の前には共産党も現れませんでした。60年安保闘争においては日大とのつながりはそのくらいしかありません。
私は労働運動をやっていましたので、日大の現場を見に行くことは出来ませんでしたが、唐牛の方は東大の闘争にお手伝いをしたいと思って動いていたようです。私は年寄りが出て行く場合じゃないから止めた方がいいんじゃないかと言いましたけれど、そんなことを覚えています。あの全共闘闘争というのが、日本の学生運動にしっかり根を下ろして活動した。これから、いつかまた学生運動が盛んになるとしたら、やはり同じように全共闘というスタイルの闘争になるんだろうと僕は思います。今、党派党派と言われておりますが、党派が主導するようなものは党派のための学生運動であって、全共闘は自分たちのための運動だったんだなと思います。(後略)」

イメージ 6

(1968.9.30日大講堂での大衆団交)

(ゲスト・スピーカーの発言の後、会場から質問が出されたが、この部分は次回に掲載する。)

以上、昨年の9月28日に開催された、日大930の会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」でのゲスト・スピーカー発言の概要を2回にわたり掲載した。

日大全共闘は他大学全共闘からどのように見られていたか・・・やはり、この人の発言が日大全共闘に対する正当なかつ最大の評価だろう。
この公開座談会の1週間後、品川区の「きゅりあん」で10・8山﨑博昭プロジェクト「講演と映画の会」が開かれ、山本義隆氏(元東大全共闘議長)の講演があった。
山本氏は講演の中で日大全共闘について次のように発言している。

イメージ 7


山本義隆氏
「その点ではね、本当にね、初めのうちは(東大では)共闘会議と言ってたんですが、そのうちに全共闘という言い方、これは日大から輸入したんですけどね、あれ、全共闘と言ったのは日大なんですけどね、本当の意味で全共闘を作ったのは日大です。これは文句なしに本当に。単に日大全共闘というのは武装した右翼とのゲバルトに強かっただけじゃないです。
本当に、あのね、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した、最大限組織した、ボク、あれは戦後最大の学生運動だと思います。今でも、あれ、考えるとナミダ出てきます。
ホント、そうです。ボクは、東大全共闘はものすごい恩義があるのです。借りを作っているのです。返しようもないけど、ホントすごいです、本当にそう思います。」
(日大のJUNさんによる書き起こし)

この山本義隆氏の講演の動画は、以下のサイトでご覧になれます。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」  http://yamazakiproject.com


(次回「質疑編」に続く。)

↑このページのトップヘ