野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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昨年の暮れの大掃除で、昔の「日本読書新聞」が出てきたということはNo413で書いたが、その新聞に、映画「赤軍―PFLP世界戦争宣言」の記事が載っている。
この映画は、若松プロダクション製作。監督は若松孝二と足立正生。
映画は1971年に公開されたが、その後、2009年に若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」がDVD化される時に、38年ぶりにDVD化された。
DVDの宣伝文によると
「鬼才・若松孝二、足立正生監督らがレバノンの赤軍派、PFLPと共同し、パレスチナ解放のために闘うアラブゲリラの日常を描いたドキュメンタリー。未だ話題の人物である元赤軍リーダー・重信房子のインタビューなど、貴重な映像を収録した1枚。」
この「赤軍―PFLP世界戦争宣言」はユーチューブでも一部画像を見ることができる。
今回は、1971年の「日本読書新聞」に掲載された足立正生氏による記事を掲載する。

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(映画のポスター)

【映画運動の戦略論について 足立正生 赤軍―PFLP世界戦争宣言マニフェスト 日本読書新聞 1971.10.4】

すべての<運動>を包摂し世界革命戦線の創出に向け

我々は今、日本共産主義者同盟赤軍派とパレスチナ解放人民戦線が、その世界革命戦線の建設を、相互の戦略理論闘争を過程にして行おうとしてる<ニュース映画>『赤軍―PFLP・世界戦争宣言』の上映運動を始めようとしている。それは、赤軍派とPFLPが、映画を共同制作するという、新たな戦略論の実践形態を持つ契機を全ての方針とし、映画の上映運動を「文化活動」、「思想運動」、「大衆運動」の全てを包摂しきろうと試行錯誤することから始まろうとしている。

<映画と政治運動の党派性の確執>
実際にフィルムを作るのは、私たち若松プロダクションの映画製作スタッフが分担している訳だが、映画作家が作家の立場を固持する党派性、赤軍派とPFLPの共闘とその戦略論上に措定される「世界赤軍」の生み出す党派性の確執の現実化を、映画運動の戦略論として構造づける任務を負おうとすることから始めようとしている。つまり、<ニューズ映画>を「世界赤軍」建設のマニフェストとするのである。
 そこで、我々が提出する<ニュース映画>とは何か。
 「プロパガンダは即<情報>であり、<情報>は真実を伝えることである。しかも、我々(パレスチナ解放人民戦線)の真実の、最良の形態は武装闘争である。従って武装闘争こそがプロパガンダの最良の形態だ」という戦略論が私たちの掌中にある。従って<ニュース映画>は、その伝えるべき真実と伝える方法を、そのプロパガンダ=武装闘争の<言葉>を現実から把みとり、現実へ再び<言葉>として投げ返す戦略論の一つとして、プロパガンダの実態として提出されなければならない。
 従って、武装闘争=プロパガンダ。
プロパガンダ=<ニュース映画>
 そして<ニュース映画>=プロパガンダ=武装闘争という、世界革命戦線のマニフェストの戦略論を体現しなければならない。我々の<ニュース映画>が真実の<言葉>であり得るかどうかという課題と、よし真実の<言葉>であったとして、<言葉>はいかに、どこで語られてゆかなければならないのか。マニフェストはいかに行われなければならないのか。<言葉>は、その映画運動の基本的な問いを自らに課さなければならない。
 すでにイスラエル国境を深く入った駐屯地から、対戦車砲を切札にした索敵行動に出発しようとした時、彼等は紫色に熟した桑の実を一杯にした二つのコップを持ってきて押しつぶし、果実液を作った。「あっ、これは劇映画につかう血ノリと同じ色だな」と私が悪い予感を覚えた通り、未明の三時から五時までの行軍が終わったその場で、「我々は今、イスラエル兵と遭遇している!ただちに戦闘配置につけッ!」と全員に隊長が宣言し、今まで8人いたゲリラ兵士が6人に減っていた。
 自動小銃クラシニコフを乱射しながら陣形を展開し、手榴弾を投げて突撃した彼らが再び匍匐前進して一点を包囲すると、隊長が威厳含みの静かな口調で藪に向かて演説を始めた。再びクラシニコフの乱射、殺到した6人が負傷したイスラエル兵に模した同志を捕え、武装解除していった。隊長を始め隊員たちが、得意満面に。カメラを握ってただ呆然と突っ立っていた私に「どうだ。いいオプレーションだったろう。我々パレスチナ解放人民戦線兵士は、いかなる敵にも戦略論で説得し、それども敵対するなら捕えるか殺す。」と、5分たらずの模擬戦闘シーンの展開がいかに典型的に実現したを説明してくれた。私には、それが演習であることも、ゲリラたちは私のカメラの為に、最も危険な朝陽の下の敵陣近くで行ってくれた決意も分かっていた。しかし、私は、カメラのシャッターを押すことは出来なかった。何故か。

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<己の崩壊する全過程を記録し>
彼等はゲリラであり、戦場の任務を分担しているのであるが、更にその上、「パレスチナ解放闘争のためのプロパガンダ」映画の俳優も同一位相で兼務していることを、実に明確に桑の実の果汁を塗りつけて、私のカメラに語りかけているからである。日常的に行っている現実と私のカメラのために表現している非現実の戦闘に、彼等は区別をつけないことを主張しているからである。
 ドキュメンタリズムの精神は、このゲリラ兵士を対象とした時、記録係である私の位置が崩壊してゆく全過程を記録することを強要して、撮影を続行してゆくだろう。
 あるいは、プロパガンダとしての<言葉>は、そのゲリラ兵士たちの戦争=武装闘争というゲリラ戦の戦略戦術の現実を<報道>することによって語りつぐことは可能になるだろう。<ニュース映画>は、作家がその<言葉>に対峙して韜晦するのではなく崩壊してゆく時の全過程を通して<言葉>たり得ることを、私はこのエピソードで学んだ。
 そして、その<言葉>の所在は、ゲリラにとっての現実と非現実の誤差が、彼等の<武器>を媒介にすれば零だと主張できるものであったように、<ニュース映画>にとって<報道>する内容対象と、<報道>の対象と<報道>の方法が、やはり、「世界革命戦線」と「世界赤軍」建設の党派性によって立証されない限り、所在不明となってゆく。「兵士から学んだものは、兵士にかえしてゆく」ことが、我々がエピソードそのものを語ることによってではなく<言葉>に関し、我々の<ニュース映画>が負い得る真実の<報道>の任務ではないだろうか。
 今、我々は、<ニュース映画>を上映する行為によって、それを体現しようとしている。上映運動は、抑圧された人民の<真実>が、抑圧された<報道>という名の商品におとしめられることから解放されなければならない。
 <ニュース映画>、『赤軍―PFLF世界戦争宣言』は、われわれの<言葉>として、その上映運動の過程で、我々の<報道>機構を創出し、運動実態に還元されるべく用意されている。

<兵士に学んだものは兵士に返す>
武装闘争=プロパガンダ。
プロパガンダ=ニュース映画
我々は運動実態の創出によって、<ニュース映画>=プロパガンダ=武装闘争の戦略論の体現を行おうとしている。そして、それは、世界革命戦線の創出を目標とする<革命バス>による遊撃戦によって一歩一歩具体化されていくだろう。
 <革命バス>の行軍は、今、あなたの横腹を走り抜けようとしている。
 乗る者は、誰か。乗っている者は、誰か。<革命バス>は走る!

(筆者あだち・まさお氏=映画作家)

先日の明大土曜会で、長編ドキュメンタリー映画「三里塚に生きる」を上映した。当日は、この映画の監督・編集の代島治彦氏に来ていただいて、映画の上映後、お話を伺った。
(監督・撮影は大津幸四郎氏)
今回は、この代島監督のトークを掲載する。

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(写真「三里塚に生きる」)

【「三里塚に生きる」を語る 代島治彦監督 2015.8.1 明大土曜会にて】
1.明大関係者について
57歳です。いろんなことが終わった後、大学に入りまして、どちらかというと政治活動より文化活動です、僕らの時代は。この映画で明治大学に関係があるのは2人で、1人は最初に出てきた山﨑宏という明治大学農学部の人。彼は高校時代から関心があって、明治に入ったら中核に入ろうと思っていたそうです。そうしたら誘われなかった。サークルでも勧誘されなかったし、自分が田舎から出てきたみすぼらしい青年で、労活評(労働運動活動者評議会:構造改革派)にたまたま入ってしまって、今、こうやってまだ三里塚にいる。彼が『あの時中核に入っていたら、絶対俺はここにいないし、労活評だから続いているんだ』としみじみ言っていました。

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(写真 山﨑宏さん)

『あまちゃん』の音楽をやった大友良英に音楽をやってもらったんですが、彼が明治なんです。彼はそれまでは前衛音楽で、1979年に三里塚で2回目の幻野祭があった時に明大から行っているんです。そんな縁もあって、この音楽をやってもらったんです。
だから明治大学に関連があるスタッフというと、この2人です。」

2.映画を作るきっかけ 
「映画を作るきっかけというのは、小川プロの三里塚シリーズの一番最初の『日本解放戦線三里塚の夏』、1968年に作られて、1968年から69年の大学のバリストの中のいろんなところで上映されて、それを見て感動して三里塚に行った学生とか若者が多いと聞いているんですけれども、それを撮影したのは大津幸四郎という、僕と一緒にこの映画を撮影した人なんです。僕は大津幸四郎さんと10年くらい一緒に映画とかテレビのドキュメンタリーとかやっていまして、大津さんが77歳の時に『俺は最後にもう一度三里塚に行って映画造りたいんだ』と言ったんです。

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(写真 大津幸四郎監督))

あの時、小川紳介と1本で袂を分かって、その後、土本典昭と一緒に水俣に行ってしまうんです、大津さんは。三里塚で1本だけなんです。その後、小川さんは別のスタッフと三里塚シリーズをあと6本作るんです。大津幸四郎としては小川紳介の作り方が気に食わなかったところがあって、もっと農民の姿を撮ったんだけれども、『三里塚の夏』という映画は、この映画(「三里塚に生きる」)と違っ気持ちが高揚してくる映画なんですね。それは黒澤明の『七人の侍』とか『隠し砦の三悪人』的な、助っ人が来て、あるいは農民自身が強い者に立ち向かって行ってやっつけていくんだみたいな盛り上がって行く映画なんですね。それはそれでドラマチックで面白いんですけれども、大津さんとしては、もうちょっと俺は百姓の姿、百姓が何で土地にしがみついて、土にしがみついて生きているかというのを描きたかった。それが出来ないまま水俣に行って、ずっと三里塚は小川紳介のテリトリーだから、なかなか再び入るということはなかった。小川紳介は1992年に死んでいるんですね。その後、ずっと時間が流れたんだけれども、もう大津も77歳になったし、三里塚闘争の初期の農民たち、青年行動隊だってもう60代だし島さんはもう70ですから、そういう歳になって、おっかあなんか死んでいる人もいる。だから俺にとっても最後のチャンスかもしれないから、今、彼らがどうしているか、彼らの人生みたいなものを訪ねていって、映画になるかどうか分からないけれどもやってみたい、と。僕は大津さんに誘われて付いていった方なんです。僕が大学2年の時に管制塔占拠ですから、知ってはいるんです。知ってはいるだけど、僕は三里塚に行っていない。、何となくそういう僕自身の後ろめたさがあったんです。
僕は埼玉の熊谷出身なんですが、家は農家なんです。農家の長男なのに家を継がないで、農業なんてもう食っていけないし、どっちかと言うと東京に行って一旗揚げてやろうみたいな感じで出てくる訳です。東京一極集中に一役買っている訳ですけれども、そういうことが何となく、50代後半になって人生を振り返った時に、農業をあんなにあっさり見捨ててよかったのかとか、そういう気持ちはあったんです。
あともう一つは皆さんんの世代、一番若者たちが盛り上がった60年代から70年代という時を生きた皆さんの世代に対してあこがれもあれば反発もあるんです。何でそうなったのか。僕らは何か大きなものが挫折した後に青春を迎えるんです。だから僕らが過ごした青春って、意外と挫折感しかないんです。」

参加者1「あの時は挫折する必要ないもんな。」
参加者2「キャンパスの雰囲気がね。」

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(写真 代島治彦監督」)

「キャンパスの雰囲気もそうだし、俺たちはそういう暴れるとか、そういうことをやっても空しい訳です。やってもしょうがない。どうせああいう風に悲しい結末とか、浅間山荘、若松さんが最後、意地を張って作りましたけれども、ああいうこととか浴びるようにして、大学に入ったら俺たちどうなるんだろうと思って、1977年に大学に入るんですけれども、どちらかというと僕らの場合は文化活動ですね。芝居やったり音楽やったり映画作ったり、そういうことで自己表現していこうよというような感じですよね。そういうところで入って今まで生きて来たので、僕の中のテーマで言うと、皆さんたちの世代をどういう風に見ていくかという、この映画にどう込められるかというのと、あとは自分が農家の百姓なのに、田舎を見捨てて都会に出てきたことの後ろめたさみたいなもので 僕の中では、あとは大津幸四郎が三里塚を見捨てて、見捨てた訳ではないですけれども、袂を分かって出て、自分が死ぬ前にもう一度三里塚に行きたいと、大津さんが三里塚に行ったのが77歳から79歳の2年間です。それで80歳で映画が完成して試写会が終わって、映画公開の1週間後に亡くなるんです。最後は肺がんなんですけれども、僕と撮影している時も本当に痰が止まらなくて、医者に通いながら薬を飲みながら撮っていた。だから映画を撮ることで命を縮めたようなところがあるんですけれども、そういう大津幸四郎の執念をちゃんと撮ろうということもあったんです。だから映画の一番最後に撮影している大津幸四郎の姿がクレジットのところにちょこっと出てくるんです。あれは、小川プロが『三里塚の夏』を撮った時に、大津幸四郎が公務執行妨害で捕まっているんです。その連行シーンが最後に出て来るんです。当時、公務執行妨害で捕まったカメラマンというのは大津さんだけなんです。当時としては、なかなか反骨のカメラマンだとかいうことで、取り上げられ・・・」

参加者1「起訴された?」

「起訴までいかずに1日です。」

参加者2「撮影しているだけなんだから。」

「カメラで殴ったというんです。一番大事なフィルムが入っているカメラで殴るはずがあるかということで、その頃、日本監督協会というのがあって、大島渚が理事長をやっていたんですが、すぐに記者会見を開いて声明を出すんです。『これは権力からの表現に対する弾圧だ』と。それがすぐに記事になって報道されて、翌日釈放されるんです。そういういきさつがあった大津幸四郎が、執念で撮りたい。あとは、何て言うんでしょうね。やっぱり長い時間が経っているから、人生というか、何が善で何が悪かということはないんですけれども、この題材はそういうものが入り混じった一つの時空間みたいなものが描けるかなと思ったんです。」

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(写真「三里塚に生きる」タイトル)

3.三里塚での撮影
「ちょうど2011年3月11日の原発事故があって、僕の知り合いのドキュメンタリストは東北の被災地、今、目の前で起きている事を撮りにいく訳です。そこで記録映画もいっぱい生まれましたけれども、今起きていることをみんなに伝える、人間の姿を伝えるということは大事なことだと思うんですけれども、目の前のことだけでは伝えられないことがあるだろうとうことで、僕は三里塚に行った時は、本当にみんなのところを取材に回っていて、みんな喋ってくれないんです。何て言うんでしょう、いまさら喋ってもしょうがない。ある意味では、気持ちの中で熱いものはあるんだけれども、終わったことだ。90年代にシンポジウムと円卓会議があって、移転した人たちが多かった。移転した人たちは何十億というお金を貰って移転して、御殿のような家を建てて、もうそういうところをその中に晒したくない訳です。柳川(秀夫)さんとか小泉(英政)さんは、もう言ってもしょうがない、俺たちは俺たちの生き方で闘っているんだから、ということで、柳川さんも最初は『俺は喋んないよ』と、実際に柳川さんにはまともにインタビューしていないです。『柳川さん、生き方で反対続けているんだったら、その生き方を撮らせてよ』と言って、柳川さんは『生き方、畑耕している姿ならいくら撮ってもいいよ』ということで、柳川さんは畑を耕しているところと、農作業をしながら、僕が恐る恐る『柳川さん、ところでどうして反対しているんですか』と聞いているところしかないです。ただ、それが逆にリアルなんです。堂々とインタビューに応じるようなものじゃないんですよね。そういうものが総体として何となく出ているんじゃないかと思うんです。」

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(写真「三里塚を生きる」を読む)

4.映画を公開した後の反応
「公開しても、やっぱり、今、三里塚と言われてもピンとこない人が多いんです、世の中。あるいはマイナスのイメージの方が多い。だから、これを公開する時に、宣伝とかPR活動がすごく大変でした。見てくれれば分かるんですけれども、見るまで全然ピンとこなくて、映画評としては新聞は全部出たし、映画の中身としては評価されたんですけれども、観客動員には全然結びつかないという状況が続きましたね。
やっていくうちにだんだんいろんなところに広がっていって、今、だいたい2万人くらい観てくれていまして、映画館でいうと、北海道から沖縄まで28館くらい。映画祭でいうと、台湾国際ドキュメンタリー映画祭のオープニングフィルムに選んでくれて、800人くらいの会場で2回やって、ほぼ満席でした。その後、香港国際映画祭もやってくれて、香港もほぼ満席で、その後、ソウルでやってくれて、その後、上海国際映画祭でやったんす。アジアは回っているんです。何故かと言うと、台湾と香港は特に、ちょうど台湾は学生たちの国会占拠の年だったんです。2014年の春にひまわり学連の若者たちが国会占拠をして、ひまわりを持って平和的に退場した。そういう活動をやった若い人たちが観てくれた。その若者たちは三ノ宮文男の遺書の朗読のところで泣いていた。メディアでは平和的に、あまり苦労や苦難がないような風にも見えるけれども、話を聞いてきましたけれども、中は大変だったみたいですね。仲間割れとか、意見が対立するとか、さっきシールズの話が出てきましたけれども、台湾にしても香港でもその前の運動世代が黒子になって指導しているんですね。前の教訓を全部、そこで意見をすり合わせなければだめだとか、最後まで誰かが傷つくまで闘っちゃだめだとか、ちゃんと言う人がいたんです。だから成功しているんです。香港の雨傘の学生たちもそうでした。雨傘の学生たちもかなり観に来てくれて、雨傘の方はまだ動きが続いていますし、そういういろんな動きがありまして、日本でも、今、安保法制のこともあるし原発のこともありますが、それがどう結びついてくるか分かりませんが、国内の動きで言うと、今年の秋に山形国際ドキュメンタリー映画祭という、日本で唯一のドキュメンタリー映画祭ですけれども、そこで特別招待作品に選ばれて上映してくれます。あとは11月に多摩シネマフォーラムというのがあって、この映画と辺野古の映画を2本連続して上映して、三里塚から辺野古というシンポジウムをやろうということになっている。」

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(写真 映画より)

5.再び三里塚の映画を撮ろうと思った
「僕はこの映画を作る時に、三里塚の現地で取材をしたり撮影をしたりしている時に。結構心はしんどかったんです。というのは、ほとんど明るい話ではないじゃないですか。人間がグチャグチャグチャってなっている中をもう一度踏み込んで行く、傷口を無理やり開ける訳ではないんですけれども、人の傷ついたことばかり聞いている訳ですし、結構しんどくて、この1本まとめたらもう三里塚には近づかないのかなと思っていたんですけれども、終わってみたら、柳川さんとか小泉さんとか、ここに出てくる人たちと心が親しくなったんです。あとは、行けるところは全部、上映会場に行って話をするんですけれども、あの時代、これだけ多くの人が三里塚に行ったり関わったり関心を持っていたのかということに改めて驚くんです。
大阪とか京都に行った時も、同志社とか京大とか立命館の人とか、みんな京都シネマということろに映画を観に来てくれて、終わった後、話をしていたら、第一次強制代執行の時にバスツアーみたいにして行ったとか、そういう人が結構いて、女性も多くて、あと、この間、管制塔を占拠したグループの花見に出たんですけれども、その人たちはその人たちで何か持っているとか、いろりろ垣間見ることがあって、支援者、当時そこに入った若い人たちですよね、そういう人たちの三里塚を舞台にした映画ができるかなと思い始めて、今、そのことをいろんな人に会って話を聞いています。

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(写真「三里塚花子の恋」)

まだカメラを回していないし、自分の中でシナリオ、構想ができない。一応、始めようと思ってチラシは作ったんです。『三里塚花子の恋』(仮題)といって、三里塚に行った女性たちということの象徴的なタイトルですが 恋というのは闘争だけじゃなくて、みんなには日常もあっただろう。日常が楽しかったからみんなが行ったんじゃないか。団結小屋なんて、いろいろあったけど、とってもユートピアだったんじゃないか。若い人が何故あの時、三里塚の団結小屋を目指して行ったのか。ある人から言わせると、67年68年69年70年代前半、大学のバリケードの中がある意味、ユートピアだったというか、皆が何かを賭ける場所だった。ところが、それがどんどん潰されていく訳です。」

参加者1「ユートピアというのはちょっと・・・」

「ユートピアは例えですが、そういうものがあって、それがある意味そっくりそのままじゃないけれども、三里塚の団結小屋が一番多かった時期には18くらいありましたよね。セクトの人たちやノンセクトの人たち、いろんな人たちがいましたよね。そういう場所だったんじゃないか。それがたぶん1978年の開港阻止闘争くらいまでは、いろいろゴチャゴチャありながら続いていたんじゃないか、という感じがするんです。
反対同盟が1973年の3月に分裂します。それで中核派が三里塚基軸を打ち出してもう一度巻き返しを図ってテロルとかあります。そこでまた闘いの局面が変わっていって、85年87年の東峰十字路の裁判の執行猶予が出ます。85年も中核派が仕掛けた3・20三里塚交差点の闘争とか、無意味な闘争をやっているんですけれども、そういうところまで引きずっている。その辺の事は、この映画ではスッポリと抜け落ちているんです。それを管制塔占拠の人たちから指摘されたんです。『俺たちがいないじゃないか』と言われても、そういう文脈じゃなかったんです。」

参加者3「管制塔を入れたら七人の侍とかそういう路線・・・」

「そういう路線になってしまう。確かに三里塚には違う文脈もあるんです。だから、この映画の英語のタイトルは『The Weges of Resistance Narita Stories』ですけれども、抵抗の代償、抵抗した結果受けた代償ということなんです、海外の人は三里塚の地域闘争なんて知らないんです。この間、ニューヨークで上映しましたけれども、ニューヨークでも非常に関心が高くて、映画のレビューもよかったんですけれども、その人たちは抵抗の物語として観るんです。日本の若者もこんな抵抗をして、こんな時代があったのか。日本ってそんな風に見られないですね。レジスタンスなんてないんじゃないか。要するに同化圧力が強いから、常に国民総動員で高度成長でもみんなでがんばるという国だと思われているんです。そういうところでは、すごく新鮮に見られるところがあります。
それで、もう一つの三里塚の文脈としては、農民じゃなくて、当時若者、今はおじいちゃんおばあちゃん、そういう文脈もあるんじゃなないかと思っています。ただ、僕は知らないですから、この前も加瀬勉さんの家に行って5時間くらい喋ってきましたけれども、やっぱり聞かないと分からないです。加瀬さんは加瀬さんの闘争に対する解釈があるんです。
加瀬勉の自分なりの冨里から三里塚に移ってきてこうなったという解釈があるんです。それで、加瀬さんが言っていた言葉で僕がジーンときたのは、加瀬さんはボロボロなんです。俺が運動やったために両親が貧乏だった、家も直せなかった、農機具を入れている小屋もつぎはぎだらけ、加瀬さんは自分の代でお終いだと言っている。
この間、島寛征さんに聞いたら、自分たちがやった闘いは自分たちの代で終わらせるくらいの覚悟を決めてやらなと、次の世代の負担になる、ちゃんと継げない。だから俺たちの代で1回終わらせなければいけないんだ。次の代は次の代で始めればいいんだ。だから、前のそういうしがらみとか、決着がつかないことを次の世代までタスキ渡しする必要はない、気持ちだけでいいんだと。、だから、そういうことを聞いていると、モヤモヤしたものがそこいら中にまだあるんです。
管制塔占拠に関わったある人が、今言っていた『七人の侍』、『俺たちは侍だったんだ』という言い方をするんです。『七人の侍』の一番最後に、侍のまとめ役だった志村喬が『勝ったのは俺たちじゃない。百姓だ。』と言うんです。『俺たちはこの地上を舞っている風のようなものだ。土に生きている百姓が勝ったんだ。』と言って映画が終わるんです。ただ、そんなかっこいいものでもないんじゃないかと思うんです。
かっこいいものじゃないんだけれども、絶対にそこには何か大事なものがあって、大事なものを今でも見えなくしている何かモヤモヤしたベールがあるんです。それをやってみたい。加瀬さんと話てみても、誰と話していても、その人のフィルターがかかるんです。この映画もそうですけれども、その人の記憶は、それぞれの思いがかかったものしか言えないじゃないですか。それを10人20人組み合わせた時に、もしかしたらフィルターとフィルターが重なって、あるフィルターが5枚くらいかかったら、そこでスーッと透明になるかもしれないです。そこで、何か事実が浮かび上がるかもしれない。」

参加者1「映画の発想だね。」

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(写真 映画より)

「だから、スーッと最後透明になる瞬間が出てきたら映画になると思うんです。ただ、その透明になる瞬間がまだ見えない。透明になった先に見えているのものは一体何なのかということが、まだ分からないです。『三里塚に生きる』を編集している時も、そういう感じがあったんです。一体、この皆が言いたくない事って何だろう、言いたくない事の先には何があるんだろうと思った時に、三ノ宮文男の遺書だったり、いろいろなものがありますよね。そういうものに行くんですけれども、言いたくないと言われた時に、これは映画にならないかなと思ったんですけれども、皆がそうなっていった時に、これは映画になるかなと思ったんです。そういう中で椿たかさんとか、おっかあたちは結構積極的に喋ったり、あとは三ノ宮文男のかあちゃん(静枝)ですね、かあちゃんがこういう喋りをしたのは、皆初めて聞いているんです。今までは絶対、文男のことは口に出さなかった。ところがこうやって喋った。そういうのが重なっていくうちに、もう40数年前の事ですよね、彼らの気持ちが透明になって見えてくるという感じなんです。
ですから、次回の『三里塚花子の恋』(仮題)は侍の方の気持ちをやってみたいと思っていて、侍の中には女性もいるだろうし、三里塚の百種と結婚して向こうに住んでいる人もいますよね。20数組結婚して、そのうち13組くらい離婚している。この映画の中で柳川さんがシンポジウムの時に言っているですけれども、『1人自殺した。昨日葬式があった。』
それがプロ青(プロレタリア青年同盟)の人で、彼女は移転を苦に自殺してしまうんですけれども、活動家で入った人たちは純粋じゃないですか、やっぱり気持ちがあるから。そういう決断を迫られた時に悩むんです。そういう人に何人も出会ったんです。」

参加者4「必ずしも純粋じゃないよ。」

「純粋じゃないところも出てくるんです。」

参加者4「純粋だったら活動やめたら自分で死んじゃうよ。だから、我々が生き残っているということは、あまり純粋じゃなくて、フレキシブルというか・・・」

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(写真 代島治彦監督)

「純粋じゃ生きていけませんよね、不純さも含めないと。そいうことを含めて出てくると思うんです。例えば、今回取り上げなかった青年行動隊の人がいます。その人の奥さんは、三里塚で始めて農家の人と結婚した中核の人なんです。その人も移転する時には1回離婚しているんですね。また戻って結婚していますが、そういうことが事実として今もあるんですね。そういうことを2~3ケ月前からこねくりまわしながら人と会っていまして、最近、中核派の人の本で『革共同政治局の敗北』という本が出ましたよね。水谷さんと岸さんが書いた本ですが、あれを読んだんですが、あの中でも三里塚は利用主義だったという自分たちの総括が出てくるんですね。特に第四インターへのテロを含めて総括しているんだけれども、その具体的なものは出て来ないです。岸さんが『悪かった』と一言書いているだけなんです。そういうことが出てくると時なんですね。(中略)
僕が『三里塚に生きる』を作る時に、一番読んだのはドストエフスキーです。『カラマーゾフの兄弟』なんですけれども、『三里塚に生きる』のエピグラフという一番最初に出てくる一粒の麦というキリスト教の聖書の言葉ですが、あれは『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフなんです。ドストエフスキーの文学って、たった1週間とか2週間とか短い期間の出来事なんです。そこに100年、200年のいろんな事を凝縮させる、あの感じをやってみたかったんです。


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(写真 映画より)

『よくよくあなたがたに言っておく
一粒の麦が
地に落ちて死ななければ
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら
豊かに実を結ぶようになる。

ヨハネによる福音書
第十二章第二十四節 』

(終)

※ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」には、三里塚関係の冊子・ビラを多数掲載しています。そちらもご覧ください。
<アジビラ(新左翼・三里塚関係)>


【お知らせ】
明大土曜会では、8月30日(日)の「戦争法案廃案! 安倍政権退陣! 8.30国会10万人・全国100万人大行動」(主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)に参加します。
●集合場所  経産省前テント広場
●集合時間  午後1時30分
       午後1時45分出発 
       午後2時~3時30分 国会議事堂周辺で包囲行動に参加
(国会エリアと日比谷エリアに分かれているため、状況によって日比谷公園霞門周辺で行動に参加する場合があります。)

※当日は「戦争法案反対の明大土曜会の旗」を目印に集まって下さい。

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