野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第五章である。
なお、今回掲載の第五章の(2)以降は未発表のものである。

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(「さわさわ」)

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(2016.5.27掲載済)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ(今回掲載)
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き

(以降、第2部、第3部執筆予定。)

【1960年代と私 第一部第五章】
五. 明治大学学費値上げ反対闘争一一66年~67年
1)スト権確立 バリケード一Ⅰ部(昼間部)の闘い――
夏休みが明けて態勢を立て直した学生側からの9月27日団交申し入れを大学の理事会は拒否しました。理事会側は教授会や職員組合と学費問題についての懇談を始めながら、学生側を無視したのです。学生側の繰り返しの抗議要請、公開質問状への回答などを経て、ようやく9月30日に理事会、教職員、学生の三者による話合いを、10月12日に行なうと約束。そしてやっと10月25日になって初めての団交が実現しました。学生側は、この団交で値上げをするか否かの回答を求めましたが、理事会側は、緊急理事会を開いて結論を出すとして、結論を先送りしました。
そして、理事会側は学生大会前に回答するという一方で、全学生に「学生諸君ヘ―本学財政の現状について」という冊子を郵送し値上げの必要性を訴えました。「28日には、学生会、学苑会に『本学財政(経常部)検討案』を交付した。同日、連合教授会が開かれ、理事の入場を断って学費問題を討議した。25日の話合いのあと、学生会は理事会に対して、次の『闘争宣言』を出した」(『雲乱れ飛ぶ』より)。「我々は決して混乱を好まない。その過程で発生する混乱の原因は、すべて理事会にあることを宣言する。なお理事会が責任ある回答を用意できるのであれば、近日中に開かれるであろう学生大会の以前に、学生会中央執行委員会に表明すべきである。これが我々の理事会に対して、最終的に示しうる寛容と忍耐の態度である」と同日付で締めくくっています。闘争宣言は、学生会中執委員長大内義男名で、教育者としての資質を欠いた理事会の対応に抗議する内容でした。 
学生大会をひかえて、学生会は、11月に入って、17日までに学費値上げをするか否か、回答するようにと理事会側に申し入、17日には、19日に大衆団交を行なうよう求めました。学生大会が差し迫っていたためです。 17日、理事会側は「学費改訂問題については、教職員、学生の意見を聞き検討した上で決定したいと考え、引き続き検討中なので、19日までには決定できない。大衆団交でなく、学生側中執と24日に、Ⅱ部学苑会とは21日に話合いたい」と伝えたようです。11月18日に、学生会は全明治臨時学生大会を開催し、賛成271、反対138、保留36、棄権10で「スト権」を確立。そして、19日の大衆団交を求めます。 
こうして、11月22日和泉校舎では、バリケードを築いて学生側が占拠する事態となりました。大学側は24日、和泉校舎における授業休講の措置をとりました。 バリケードストライキは、和泉から神田や生田校舎へと拡がる勢いです。学生会は、クラス討議を経て学生の最高意志決定機関である学生大会でスト権を確立。この民主的な学生大会決議の力をバックに、「理事会側の学費値上げをするのか否か。するなら白紙撤回を」と訴えました。理事会は26日になって11月30日に神田の記念館で大衆団交を行なう旨を、ようやく回答しています。
宮崎学生部長は次のように記しています。「この頃のことだと思われる。(注:11月のスト権確立後)学生部長室で執務していたところに『学長がお呼びです』と連絡があった。何だろうと、階段を上がって、学長室に行ってみると、すでに松尾・高岡両教務部長も来て学長と話しておられた。座ると、学長が『どうだろうねえ、こういう状況になっては、学費値上げは、もう、取りやめるよりしようがないんじやないだろうか』と話始められた。後で思うと、両教務部長も同意見だったのだろう。しかし彼(宮崎先生自身のこと。この本では、自分を「彼」と表記)は、即時に答えた。『とんでもありません。学費は当然、どうしても改定すべきです。それが学生のためなのですから。学長は明治大学の現状を、これでいいとお考えですか。大学を良くするためには、是非、資金が必要なのです。本番はこれからです。いまからそんな腰砕けでは困ります』と。学長は困ったような顔をされたが、二の句が継げられず黙られた。両教務部長も、彼の剣幕に辟易されたのか、その会は打ち切りになった。もしその時、彼が同意していたら、間違いなく、昭和42年度の学費値上げは、不発に終わっていたことだろう。」
宮崎学生部長は、終戦時19歳の近衛兵小隊長の陸軍少尉であった経歴を持つ、正義と使命の信念の人。思い込んだら命がけのタイプで、教職員・学生からは、一旦引き受けたら、どんなに泥をかぶってもやってくれる頼りになる学生部長といわれ、「チビッコギャング」というニックネームで呼ばれていました。当時は当局の盾のように私たちに対峙してがんばっていました。弁護士でもあり、のちに明大総長を歴任し、正義の感をもって私の公判や陳述書も支持してくださっていました。(追記:宮崎繁樹先生は、2016年4月12日、90歳で癌のため逝去されました。その間、獄中にある私に文通で励まして下さいました。去年のお便りに、こんなエピソードがありました。学費闘争時、明大中執委員長だった大内義男さんが、1967年「2・2協定」以来、突然電話で連絡して来たとのことです。大内さんは癌の末期の病状にあり、「2・2協定」にむけて話合った宮崎先生と当時のことを話したかったようでした。電話で「あれで良かったと思います。それを確かめておきたい」と語られたそうです。あの当時の学費闘争は何人もの人に人生の大きな節目となっていたのを実感します。私も又、その1人です。宮崎先生のこれまでの温かい支援に感謝し、哀悼を捧げます。)
なるほど……当時、宮崎先生が理事会や学長よりも腹をくくって、学費値上げを断固やるぞ!と、考えていたのか……と、『雲乱れ飛ぶ』で知ったわけです。もっと、徹底的に話合うべきでした。でも、きっと激しく対立したでしょうけれど。
 11月30日、神田の記念館で午後4時から大衆団交が行なわれました。これはⅠ部学生会の要求で実現したものです。司会は、宮崎学生部長と学生1人の2名。「明治大学を早稲田、慶応に比肩しさらにより優れた大学らしい大学にしていくために是非この学費改訂が必要であり、そのように大学をよりよくすることこそ現在および将来の明治大学生のためになるのだということを理解してもらう好機として活用しようという熱意にも覇気にも欠いていた…。理事たちは高齢の為か(後にマイクの関係で学生たちの発言がよく聞きとれなかったとの話だったが)学生たちの質問にトンチンカンの答えを連発し、弁解的な答弁が多く、いかにも理事たちが後めたい行動をしているような印象を聴衆に抱かせるような雰囲気だった」と学生部長が述べているように、悪い理事たちと正義の学生の印象は、週刊誌でも揶揄されるほどでした。
何も答えない理事会に、団交を終えると数千の学生たちは、ストライキ決行を宣言し、夜の正門を手始めに机、イスを積み上げてバリケードを組みはじめました。立て看に黒々と「ストライキ突入」と書きました。この時の宮崎学生部長の早業は伝説的に伝えられましたが、ちょうど私も、正門のところに居合わせました。 学生部長は突然、バリケードによじのぼると、詩吟朗々の「春望の詩」と「国破れて山河あり~」と始めたではありませんか。バリケードを積み上げ中、立て看作成中の何百という学生がびっくりして、宮崎学生部長を見つめました。吟じ終えると「学生諸君、風邪をひかないように」と声をかけて、バリケードを飛びおりました。拍手と「ナンセーンス」の声が、あちこちから上がり、深夜の正門を沸かせました。私たちも、やるなあ~と見上げていました。
この時の心境を宮崎先生は、「校舎の見回りを終え、引きあげようと正門の内側までくると、学生たちが黙々と机や椅子を積み上げてバリケードを作っていた。平素、最近の学生たちは元気が無いと思っていたのに、他人から命令を受けたのでもなく、一文の個人的利益にもならないのに、黙々と働いている学生が頼もしく思われた」。そこで、誰に聞かせるものでもなく、突然バリケードに駆けあがって詩を吟じたということでした。まことに宮崎先生らしい姿です。何カ月か前の全寮連大会で、民青が、反日共系を非難して、激しく衝突しそうになった時にも、すっ飛んで来て、「民主主義を守れ!乱闘はいかん。諸君、棒はやめなさい、素手でやりなさい!」とハンドマイクで、身を挺して介入していたのを思い出します。 この日、11月30日のスト・バリケード封鎖はまた、記念館からすぐ近<の91番教室で、学生大会を開いていた私たちⅡ部学生にも、弾みをつけました。

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2) Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ
Ⅱ部の学生大会は昼間部も注目していました。
Ⅰ部には都学連委員長であり、再建全学連委員長となる斎藤克彦さんがいます。斎藤克彦さんは社学同で、すでに全都・全国レベルの活動をしていました。彼と、彼より人望のある中沢さんの指導下の社学同の拠点である明大Ⅰ部は当時の学生運動の注目の的でした。早大に続いて闘いが始まる! 早大闘争は、三派全学連の社青同解放派の大口昭彦議長のもとにありました。再建された第二次ブントとしては、全学連の最大自治会数を数え、全国の範となるような闘いを明大闘争に期待していました。早大闘争の教訓をもって闘う!そんな雰囲気でした。明大バリケード封鎖は、スト権確立の上で敢行された全学自治会の意志のシンボルとしてありました。
この時期の学生大会は、民主主義と、その手続きによることは学生運動のルールでした。やがて、一学園レベルを超えた連携の中で闘うようになってくると、「ポツダム自治会」などと批判が起こり、そのルールを否定し、直接民主主義、少数派による正規の手続きなしの占拠闘争が全共闘運動の波に乗って全国化していきます。その象徴が東大闘争であったと思います。それより前に始まった当時の明治の学園闘争は、日共、体育会系も一緒に全学意思を問い合い、共同の場で討議し、よりぎりぎりのところで妥結しながら自治会を運営していました。
学苑会高橋中執は、日本共産党に沿った、全国的な学費闘争方針を打ち出していました。日本の文部行政の行き詰まりを、国民に転化しているという日本政府の教育政策批判、そして、学費闘争の解決を、国庫補助の増額によって国が解決すべきと訴え、そのためには、学生・教授会大学当局と一体になって自民党政府と闘うこと、国会内の進歩勢力を拡大し、民主的に政権交代を求めるというものです。したがって、バリケード封鎖には反対です。共に闘うべき教授や当局教職員を敵にまわし問題の解決を遅らせるだけと訴えていました。ストを行うかどうかは、全学投票によって、全学生の意思を確認すべきだ、という主張です。夏の合宿を経て日共系の学苑会高橋中執は、ビラ撒き、教室入り、連日のオルグ活動を始めました、今から思うと、日本共産党は社会ルールに則った民主主義路線を提起しています。もし、日共が学生を敵視したトロツキスト批判やソ連派を除名非難(65年日韓闘争の集会場の日比谷公園で志賀、神山ら非難ばかりしていた)や、66年に始まった中国派批判の「自分たちが正しい」とばかり言いつのらなかったら、もっと学生たちも、日共に共感をもったかも知れません。ところが、日共の方針を批判すると、「トロツキスト!」として、画一的な批判を返すので、私たちは反発していました。「トロツキストって何? トロツキーを読んだことあるのか!」と、よく小競り合いを繰り返していました。 日共に寛容さがあったら、もっと違った展開となったでしょう。
私たち研連も、夏休み合宿を経て、これまで日共の方針の枠内で研連活動を行っていたものを、転換せざるをえないと考えるようになりました。研連執行部は、全学的な学費闘争に備えようと、合宿には学苑会執行部の日共系も、また、反日共系の文学部と政経学部の執行部も招待して、学費闘争分科会で徹底討議をしていました。その結果、研連の執行部の中に変化が起こりつつありました。それまで「暴力破壊集団でありトロツキス卜」としか見ていなかった反日共系の学生と会議でまともに話し合ったからです。これまでは、そう思われて当然でした。反日共系の少数派は学苑会の全学大会をボイコットし、大会が始まると十数人が徒党を組んで押しかけてきます。そして壇上の執行部を殴って、一発食らわせたうえで、「ああインターナショナル~」とスクラムを組んで歌い上げ、再びデモを組んで退場していくのを見てきたからです。そんな「破壊主義者」が実は党派的対立の結果でもあると、研連の人々もわかってきました。
明大信濃寮の合宿で草原を走ったり、一緒にワラビを摘んだり、夜遅くまで歌ったり、お互いに触れあったのはよかったのです。同時に、「あいつら民青だ」と、話し合おうともしなかった文学部や政経学部の執行部の連中も、みんな日共ではないのか……と、対立-辺倒のやり方を変えはじめていました。その意味で研連の学費闘争を問う合宿は「秋の決戦」に向けた交流と新しい変化をもたらしたことになります。

3) 学生大会にむけて対案準備
研連執行部としては、大学当局のあり方は国庫補助で解決できるものではないこと、財政の公開、学費値上げの根拠もはっきり示されておらず、当局に徹底して問う必要があると考えました。それに、日本の教育行政の変革には、日共への1票の投票に解消する党派利己主義にも反対です。また、当局との闘いを回避しての闘いはありえず、学費値上げ反対を実現するためには、ス卜権を確立し大学当局と徹底して闘わざるをえないと考えました。Ⅰ部には全学連の執行部の命運もかかっており、バリケードストライキに突入するだろう、そんな時にわれわれⅡ部が、「全学投票を!」などと言っている場合ではない、全学投票は物理的にも時間的にもできない。その全学投票の結果が出るまでⅡ部が授業を続ければⅠ部のバリケードを私たちが解除する役割を負うことになるのではないか、日共の反米日本独立の民主主義革命路線も気に入らない、などと話し合い、対案を出そう、出さざるをえないと話し合いました。
 もし、研連が対案を出せばひっくり返るでしょう。なぜなら傘下のサークルには、どの学部の人もいるので、研連から直接、各サークルの知人友人たちに「自分のクラスの代議員になって、研連の出す対案を支持してくれ」と訴えたら、相当の数の代議員支持が可能になるからです。また、いつもボイコット戦術に明け暮れているML系の文学部自治会と中核派の何人かがいる政経学部自治会執行部にも伝えて、「今回は、研連が対案を出すので、ボイコットせずに反日共系でまとまって、スト権確立のための統一行動を起こそう」と話をまとめました。同時に、Ⅰ部の学生会中執と、研連のカウンターパートナーの文連執行部とも話し合いをしながら、研連執行部が中心になって対案準備をしていきました。
 65年にはまだなかった学生会館が、この時には開館しており、三階には学生会中執と学苑会中執、文連、研連中執の部屋、および会議室がありました。つまり社学同と民青の拠点が正面に向き合い、その横に文連と研連の執行部室があるので、いきおい研連と文連や学生会との交流や活動がひんぱんになり、討論も活発になっていました。
11月には研連大会を開いて、対案を出す運びになりました。研連事務長としての私はそうした集約を行っていました。でも、オルグや政局に頭を使うレベルで、理論的なことは私は苦手です。政治研究部の岡崎さん、黒田さんや夜学研の伊藤さん、経済研の田口さんらに、世界情勢や教育行政についての議案作成に協力してもらいながら、対案を作っていました。学生会執行部もⅡ部研連が対案を出すらしいというので、「がんばれよ!」とアドバイスをしてくれます。私たちも学生会のメンバーに、学生大会の仕組みやポイントを聞きました。そこでわかったのは、「スト権確立」の方針が通っても、人事案まで提出しなければ旧日共執行部がどうにでも変更できること、財源を確保すべきこと、それに学生大会での勝利を確実にするための事前のオルグが欠かせないなどということです。
 そこで役割分担をして、文章を書くのは各研究部の理論家にまかせて、私たち執行部は代議員オルグに集中することにしました。票読みをすると五分五分です。私は雄弁会の縁から、各地の選挙の応援などに行っていたので、票面みの重要性や有権者のオルグも見てきました。研連から、予算やイベントでの便宜をはかってもらいたい各研究会も、対案には賛成して、協力を約束してくれました。
また、半信半疑の反日共系の文学部と政経自治会もボイコット戦術はやめて、大会に参加すると決めました。この二つの学部の代議員は反日共系がてこ入れして、多数が 研連の対案に賛成するはずです。法学部と商学部が民青の牙城ですが、研連のサークル仲間たちが、クラス代議員選挙で立候補していた日共と競合してくれています。ことに商学部から何人も「代議員になったぞ!」という報告が入りました。法学部は少しですが、やはり代議員になることができました。
 人事案は私がまとめることになりました。誰も執行部入りは辞退します。「いやー、それは会社があって難しい」と、Ⅱ部の学生なので、なかなかやれる人がいません。最も頼りにしていた政治研の岡崎さんに学苑会中執委員長をお願いしたのですが、固辞され、大会の議長なら引き受けるということにしてもらいました。この人は田口富久治教授の、Ⅱ部での一番弟子で、頭もきれ政治力もあったためです。次には政経学部のML派の酒田征夫さんに頼みました。彼は夕張炭坑の出身で、演説は上手いし、セクト的ではない人です。涙ながらに熱烈に語るのはこの人しかいない、と次善の人選でした。交渉に行ったところ、「やってもいいけど、実は学費が払えなくてもう除籍になったか、なるところなんだ」と言うのです。これには困りました。私は、勤めていた会社をたまたまやめて、それまでの貯金で凌いでいたのですが、こちらも余裕があった訳ではないのですが、3万円だったか貯金が残っていました。それを貸すから、「まず学費を払いなさい」と渡しました。当然のことながら学生でないと委員長にはなれないからです。「1年以内に返す」と言いつつ、結局、返せずにのちに夕張の石炭で作った置き物を「すまない」と、ひとつくれました。
 本当は新しい学苑会人事には党派的な人は除きたかったのですが、人事案が埋まらないので窮余の策でもあったのです。同時に、対案を出す研連からも、中執に入らないのはまずいということになりました。そこで、研連委員長でノンポリ、責任感の強い岡田さんが中執副委員長に、研連雄弁会の反日共系で、溶接工の仕事をやめたばかりの水島さんを学苑会事務長に、私が財政部長を引き受けることにし、法学部で軽音楽研に所属する人にも入ってもらいました。それ以外は、文学部と政経の人々から党派的な人々も含めて寄せ集めながら、やっと人事案を対案にくっつけて、研連執行部案を作りあげました。
 学生大会の勝敗は、選挙と同じで当日よりも前日までの活動で決します。学生大会前は、民青側も必死でした。研連執行部が反日共系になってしまったのが失敗だったと、「トロツキスト重信のニコポン外交にだまされるな」など大書の非難をしていました。

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(明大記念館)

4) 学費闘争方針をめぐる学生大会
Ⅱ部の学生大会はⅠ部の団交の日、11月30日に始まりました。当日には1票か2票差で、私たちが日共系の執行部を不信任、対案が通るという見通しが立ちました。Ⅰ部はすでに、記念館で団交を行っている最中です。この団交が決裂すれば、既に確立しているスト権を行使して、駿河台校舎正門にバリケードを積み上げることになっていました。学生会中執と連絡をとりあうと、記念館は満員の学生、教職員を含めた4千人以上が団交中です。そんな中、私たち学苑会の大会は、午後7時からすぐ近くの91番教室(600人収容)で始まりました。
まず、高橋委員長以下、日共系の執行部が壇上から学生大会開催宣言を行いました。彼ら現執行部は全員、壇上に座っています。大会前に、学苑会中執宛に研究部連合会執行部による対案の方針案を提出したので、高橋委員長らも緊張しています。これまで、反日共系は殴ってインターナショナルを歌って、デモの隊列を組んで出て行く、というのがお決まりの流れでしたから、少々の暴力に耐えればすむことで、気にもならなかったのです。でも、今回は手続きを踏んで大会に参加しています。91番教室には入りきれないほどの学生が集まっています。通路まで入れると1000人近くはいます。前方に代議員、通路を挾んだ後方にオブザーバーでぎっしり。民青の動員も多いのです。大会開催宣言の後すぐに、大会が正式に成立しているかどうかを、代議員を点検するための資格審査委員と議事運営委員の選出から始まりました。これまでは、あらかじめ学苑会中執側の決めた学生が立候補し、シャンシャンと決まります。でも、今回は違います。これが一番大きな勝負ともいえます。私をはじめ打ち合わせていたメンバーが勢いよく手を挙げました。ここで採決によって一人ずつ議事運営委員を選び、議事運営委員会を構成することになります。
まず議事運営と資格審査の二つの委員を選びます。議事運営委員が資格審査委員を兼任してもいいのですが、この議事運営をどちらの主導権で行うのかが、大きな分かれ目で、同時に票読みの色分けが初めにはっきりします。このときは 一括でなく、一人一人選んでいって、各5人ずつ選出したように記憶します。私の票が多数だったのは、私が文学部の反日共系の研連やノンポリの他の学部でも顔を知られていたためです。
その結果、私が議事運営委員長と資格審査委員長になりました。当時、私は2年生。21歳の誕生日を迎えた直後の秋のことです。
この学生大会のすぐそばでは、バリケードを決するⅠ部学生4千人をこえる団交中です。そして、こちらは日共に対案を突きつける 、明大の歴史的な大会として、私たち研連の主導のもとで始まりました。 議事運営委の中からまず議長団を選出しました。これは打ち合わせどおり、政治研究部の岡崎さんが議長になりました。彼は「策士」で、こういう時にはうってつけの人物でした。そして、他にも副議長、書記を確認。順序はもう覚えていませんが、議長団を選出した後、代議員の資格審査が行われました。日共系の高橋学苑会委員長らは、もともと反日共系の文学部自治会(駿台文学会)と、政経学部自治会(政経学会)は、認めていません。まずその参加をめぐって激しいやりとりがありました。これは採決を行って、反日共系執行部を認めることを採決しました。このように、反日共系に少しずつ有利に議事が始まりました。しかし議事はたびたび中断されました。学苑会中執の主張を反日共系がはげしく批判し、又、研連対案に対する日共側の批判に研連の政治研究部中心に反論をくりかえします。学苑会高橋中執の日共系議案と、研連対案の基本的な対立軸は、教育政策・国庫補助をめぐる論争とスト権をめぐるものです。高橋委員長は「この大会で、スト権を確立し、一週間以内に全学支持投票を行う」と提案しています。研連案は「スト権をこの最高決議機関である学生大会で確立して後、すぐにストを決行すべきだ」というものです。論争がくり返されましたが決着がつきません。
会議の途中、団交決裂を告げるⅠ部の学生たちがなだれ込んできて、600人収容の91番教室は1000人以上の学生であふれました。これなら本当に学園が変わるかもしれない、大変なことになるという雰囲気になりました。(資料によると団交の席上、午後9時15分、値上げ問題を白紙撤回するための緊急理事会開催を求めた学生側の要求に対して、長野理事長がはっきりと拒否した。そのため学生会は、これ以上話合っても誠実な答えは得られないとして団交を中止した。直ちに抗議集会にうつった。このため、全学闘争委員会は、駿河台本校でも1日から突入することを決議した。)
対案委員長候補の政経学部の酒田さんは、切々とした演説をしてくれました。「学友諸君、正義の闘いは今、ストライキとして始まろうとしている。昼聞部の築くバリケードを、私たちの手で、解体するのか。否否否! われわれは、学生として、彼らと共に学費値上げ反対を訴えるべきだ!」。日共も負けてはいません。大論争が続きます。
 手順としては、まず高橋中執の、議案を採決して否決して、そのあと研連対案を採決するのです。私たちは当初から、論争になれば強行採決はやめようと、議長の岡崎さんと話し合ってきました。なぜなら、混乱に乗じて民青が、旧執行部の正当性を主張し、二つの学苑会になるような、民青の戦術にハマらないようにすることです。そのためには、夜間に学ぶⅡ部学生にとっては苦しいけれども、二日間の大会になってもやむを得ない、と予測していました。しかし出来るなら今日夜中かかるとしても決着をつけたい。なぜならもうすぐ零時には、昼間部のバリケードが築かれるからです。また、討議は打ち切りたくありません。そして、絶対に暴カ的に対処させないこと。それを反日共系がおろかに暴力を振るえば、劣勢の民青は待ってましたとばかり神田地区民青を動員し、学生大会を潰しにかかるからです。そこで、ブント系の学生会にも、Ⅱ部の反日共系にも、絶対に暴力は振るわないこと。それを守ってほしいと約束していました。
両者の演説が続き、各代議員の質問が続き、長引いてしまい、結局、午前3時30分すぎ、明け方に審議を打ち切りました。予定の審議を1日目に終えないと、明日、又、さらに継続審議になる不安があったため、明け方まで討議しました。代議員たちが積極的な時間延長を望んでいたので、審議が続いたのです。4時近くになって私は動議を出して明日の継続審議を求めました。そして、12月1日に再び、91番教室で決定戦を迎えることにしました。外ではⅠ部の団交が決裂してデモ、抗議集会、バリケード作りが行われています。明治大学新聞は、この日のことを、次のように記事にしています。「4000人を集めた30日の大衆団交が決裂し、怒れる若者たちはスクラムを組み、記念館講堂から抗議デモに移った。このダイナミックな怒声と足音はさしもの本館をゆるがし、緊迫感を盛りあげた」。こうして午前0時近くから、バリケードが築きあげられるようになりました。
学生大会を継続審議とした私たちが会場を出てると、先にもふれたように宮崎先生がバリケードに駆け登って、「国破て山河あり」と始めたのでした。うずまく学生の波の中で、私たちは、「勝つぞ! 明日は勝とう!」と代議員たちと握手しました。
 私は議事運営委員長として岡崎さんと明日の手順と人事案をもう一度確認し、明日は勝てると確信していました。私は、責任感と情熱で胸が満たされるのを感じていました。

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(バリケード中の明大記念館)

5) 日共執行部案否決 対案採択
大会2日目は、民青の側が妨害行動に出てきました。私の議事運営が不当であると不信任動議をつきつけました。民青の代議員がトイレに行ったときを狙って、議場封鎖宣言をして、1票も2票も締め出して採決し、無効にしたなどと、騒ぎ立てていました。そして、動議を繰り返して、議長団不信任とか、議事運営委員長不信任案を提出しました。一方、研連からも、文学部自治会、政経学部自治会側からも発言を求め、日共高橋中執批判、議案批判を繰り返しました。どちらにも流れる浮動票が十数票あります。
 こうして、2日目の遅く午後11時近くになって、学苑会中執案に対する採決を行うと宣言して、私が議場封鎖を指示しました。丁度、民青の人が議場の外に出ていたのに議場封鎖をしたと、社研代表が私の不信任動議を提出しました。岡崎議長団は却下して、採決に入りました。「学苑会中執の総括運動方針案ならびに人事案に賛成の人は代議員票を挙げてください」と、岡崎議長が求めました。挙手している数を数えたものを、私が集計し、議長団に提出する役割です。オブザーバー席から、カウントのミスがないか、民青も反日共系も、同様に数えています。もう忘れてしまったのですが、日共系執行部案は賛成より反対が5票程度上回りました。
ワーッと大歓声です。まず、日共系の議案を否決しました。でも、研連議案に対しても、棄権票が出れば同数くらいになることも考えられます。続いて研連執行部によるスト権確立を含む運動方針案の採決が行われました。やはり議長に促されて、挙手を求めました。先の挙手で色分けがついていました。棄権した人が手を挙げるがどうか。まず、賛成の代議員の挙手を求め、私たちがカウントしました。68票です。次に反対の代議員の挙手を求めました。すでに、賛成をカウントした段階で、1票差で勝ちそうだとわかりました。壇上の議長団に反対票67と記して渡しました。岡崎議長が「賛成68票、反対67票です。研連から提出された対案が可決されました。」と宣言すると、満員の会場は大騒ぎです。昼間部の人もたくさんオブザーバー席でみています。すかさず研連の対案の人事案で委員長になる酒田さんが「現学苑会中執は否決され、研連の対案が承認された。高橋学苑会中執に対する否決は、不信任であり、即、現執行部は辞職すべきだ。」と動議を提起しました。それをうけて議長が動議の採決に入り、賛成71票、反対64票で不信任案を可決しました。続いて研連対案の人事案が採採択に付されて、72票対44票で採択されました。
「この結果、研連執行部案が人事案ともどもⅡ部の次期方針として承認・採決されました」と、岡崎議長が言い終わらないうちから、ドドッと反日共系は拍手歓声とともにオブザーバー席から壇上へと、何十人も駆けあがってきました。感動して泣いているサークルの仲間もいます。岡崎さんが、「静粛に願います。私たちは、全学生の公正な意志よって、最後まで学生大会を成功させる義務があります。無法は許しません!」と叫びました。こういう時は岡崎さんは役者なのです。民青の高橋委員長が議長に演説させろと要求しました。岡崎議長は許可しました。 
「学友諸君、今大会は不当だ。われわれは、リコールまたは学苑会民主化委員会を組織するだろう」と宣言して壇上を降りました。他の執行部も続きました。議長団に促されて、対案側の人事の新執行部が読み上げられ壇上に次々と上がりました。酒田委員長がスト権確立の勝利宣言と、今日の今から全Ⅱ部学生の意志としてⅠ部学生会とともに、バリケードを砦として、学費値上げの白紙撤回を求めて闘うと演説しました。
 ああよかった、と私もほっとしました。次々と壇上に学生が駆け上がって『国際学連の歌』を歌い、残った代議員やオブザーバー一体となって『インターナショナル』を歌いあげ、拍手で大会を閉めました。もうすでに12月2日の午前1時になっていました。
 あの時の興奮は、大変なものでした。1000人近い学生が、昨日、バリケードを築いてそこに残ったⅠ部学生とともに、夜の正門から駿河台下、お茶の水へとジグザグデモで闘いの勝利を祝いました。12月1日をすぎた2日の、寒い夜気の中、みな熱狂的にこの日を祝い、闘いへと一歩進みました。私たちは次のプラン、引き続き破れた日共系高橋執行部がどう出るか、大学学生課がこの大会をきちんと認めて、こちらに予算を回すか、これからの実務的なことの多くをどう実現するかで、頭がいっぱいでした。日共系は翌日に正当性を認めて、会計事務などを引き継ぐことに同意。「学苑会民主化委員会」で、対抗する方針を採ったようです。その結果、大学当局もすんなりと私たちを認めて、当局が学費と一緒に会費徴収している自治会費を、新執行部に支払う手続きも順調に進みました。私は財政部長を引き受けました。

(つづく)

【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、10月8日(土)に第5回東京講演会を開催します。
和田春樹さんの講演の中にも出てきた「ジャテック」の活動を担われた高橋武智さんと、作家の中山千夏さんの講演会です。
多くの方の参加をお待ちしています。
●日 時  10月8日(土) 18:00開場 18:30開演
●会 場  主婦会館プラザエフ 9階「スズラン」 (JR四谷駅徒歩1分)
●参加費  1,000円
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

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2017年夏にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で開催する「日本のベトナム反戦闘争の記録」展のためのクラウドファンディングへの協力もお願いします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】

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「週刊アンポ」という雑誌があった。
1969年11月17日、第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行された。
雑誌形式で発行されたのは第1号から12号まで。あとはビラやポスターのような形式のものだった。編集・発行人は故小田実氏である。
確か当時、集会などで売っていたと記憶している。
インターネットの古本サイトで検索してみると、「週刊アンポ」全巻18,000円で手に入るようだ(ちょっと高い)。
この雑誌には、1969年後半から1970年前半までの「時代」がぎっしりと詰まっている。手元に何冊かの「週刊アンポ」があるので、この「週刊アンポ」の記事を紹介する新シリーズを始めることにした。
新シリーズの第1回目は雑誌の表紙の裏に掲載されている「この人と語る」というコーナーの記事である。

【この人と語る救援連絡センター】(週刊アンポ No3 1969.12.13発行) 
『●柴田喜世子さんの場合
70年のたたかいで、ものすごくたくさんのひとびとが逮捕されたし、これからも逮捕されていくだろう。それはけっして当たりまえのことではない。けれどもその「異常」が日常化してしまった。このなかで救援の行動をしているひとびとがいる。

― 忙しいんでしょう?

柴田「待たせてゴメンなさい。今もお客さんに会っていたんです。」

― お客さん?

柴田「ええ、逮捕された人の父兄のかたなんです。毎日このごろは二百人以上のかたがセンターを訪ねていらっしゃるの。そのだいたい三分の一が両親ね。
でも、最近でもね、すぐ警察に飛びこんでしまう親もいるんで、わたしたちも困っているの。息子たちや娘たちが、黙秘でたたかっているのに、それを親がくずしてしまうっていうのが多いんですよ。」

― 親との話合いというのは大変でしょう?

柴田「そうなの。親の気持ちをわたしたちに全部ぶっつけてくるっていうかんじ。話しているうちに、いつのまにか時間がたって、一日じゅうなんて・・・。新しいタイプのコミニュケーションができてくるのかもしれないわ。」

― 人生相談のような?

柴田「まあね?(笑)」

― 警察とセンターというのは・・・

柴田「とてもいやがるわね、センターからの差入れなんかは。特にひどいところは大井署、代々木署、渋谷署、浅草署、それに三鷹署。この五つはもうひどいものよ。機動隊を出してきて、追い返すこともあったりしてね。」

― 救援センターの仕事をしているひとたちというのは?

柴田「ほんとうにふつうの人たちなんです。主婦、それから一度逮捕されたことのあるひとなどで、センターの差入れをうけて感動したというひとですとか、とくに最近では、各地域に主婦のグループができたりして、活動を開始しています。」

― 資金は?

柴田「1ケ月の経費は70万から100万くらいです。そのお金はすべてカンパでまかなわれています。」

― でも足りないんでしょ?

柴田「赤字は出したことないんですけどね。ただ、10、11月で逮捕されたひとたちの数が多いですからね。これからどうなるかと・・・。」

― カンパを?

柴田「欲しいですね。それに、センターは手いっぱいなので各地で活動を開始して欲しいんです。とにかく三人いればできるんですから。活動していくうちに、警察がなんであるのか、ほんとによくわかると思います。」

<救援連絡センターの父兄あて文書>
あなたのご家族の××さんから依頼を受けた、11月闘争弁護団の連絡事務所(救援連絡センター)です。
11月闘争弁護団所属の弁護士は、すでにあなたのお子さんと接見し、あなたの御住所、お名前もその時知った次第です。
また救援連絡センターのもとで、東京都下全地区の市民救援会(各地で結成されています)が一せいに各警察署、留置場への差入れ(衣類、洗面具、食糧)を行っています。
この救援活動をしている人々は、あなたのお子さんが政府やマス・コミなどの言っているような“暴徒”などではなく、日本と世界を再び戦争の泥沼に落ち込むことのないよう願っている最も優れた、美しい魂を持った若者であることを知っています。だからこそ、救援の活動に必要な経費は全国の心ある人々のカンパでまかなわれ、多くの人々が全く奉仕として救援の活動に参加しています。
お子さんのことについては、随分御心配になっていられる事と存知ます。中には警察から呼び出しを受けている方、また、進んで警察に調べに行こうと考えていた方もあるかと思います。けれども、お子さんは、警察の不当な逮捕に抗議して、名前、住所を告げず、頑張っておられます。ここで、あなたが警察に出頭されることは、お子さんの志を無にすることになるでしょう。
その他、何でもセンターに御相談下さい。いうまでもないことですが、料金の御心配など不要です。

救援連絡センター

<国家権力による弾圧に対しては、犠牲者の思想信条、政治的見解のいかんを問わず、これを救援する。>

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No333-1からNo333-3に分けて掲載します。)
東日本大震災と福島第一原発事故から3年。3月8日から3月15日まではNO NUKES WEEKである。
4大学共闘(日大・芝工大・専修大・明大の全共闘派)は、3月9日の原発ゼロ・大統一行動に引き続き、3月15日の「フクシマを忘れない!!さようなら原発3・15脱原発集会」とデモに参加した。

【集会パンフレットより】
「東日本大震災・福島原発事故から3年。いまだに14万人以上の方々が、困難な避難生活を強いられています。そして震災による直接死を上回る震災関連死を生み出しています。いっぽうで安倍政権は、原発再稼働、原発輸出に積極的に取組み、原発推進の旗を振り続けています。脱原発世論を無視する安倍政権を許してはなりません。フクシマによりそい、いま、ここから、ふたたび脱原発の声を、行動を、広げていきましょう!」

3月に入ってからも寒い日が続いていたが、当日は気温も上がり行楽日和(デモ日和)。会場の日比谷野外音楽堂の上は青空が広がり気持ちがいい。
会場はぎっしり満員。主催者発表で5,500名が参加とのことである。
集会はオープニングライブの後、木内みどりさんの司会で始まった。
最初に福島からの報告ということで、武藤類子さん(ハイロアクション福島)のスピーチがあり、続いて呼びかけ人である大江健三郎さんと澤地久枝さんからのスピーチがあった。次に秋山豊寛さん(元宇宙飛行士・有機農業者)が賛同アピールを行い、なすびさん(被ばく労働を考えるネットワーク)からの被曝労働の報告、そして松下照幸さん(原子力発電に反対する福井県民会議幹事)から原発再稼働の現地報告があった。最後に鎌田慧さんから閉会のあいさつがあり、集会は終了した。 
この集会スピーチの中から、秋山豊寛さんとなすびさんのスピーチを掲載する。

秋山豊寛さん(元宇宙飛行士・有機農業者)
『京都から来ました秋山でございます。
私はもともとといいますか、宇宙へ行ったのは会社の出張なんですけれども、福島で18年ほどシイタケ農家をやっておりました。原発、福島第一から32kmの地点で、原木シイタケ、クヌギとかナラ、それにシイタケ菌を植えてシイタケを栽培するという農家をやっておりましたが、もう福島ではハッキリ言ってシイタケは出来ません。
ナラなりクヌギなりの原木、あるいはその木には放射性物質が濃縮されて入っているんです。
それを元にしてシイタケをつくれば、必ずセシウムに汚染されたシイタケしかできないんです。
私の友人で果樹農家がいます。私は福島で農家をやっている間にいっぱい農家の友人が出来ました。彼は、汚染された地帯でもそれを離れて新しくやるには、私と同じように、彼も午年です。という事は72です。新しくやるのはとっても辛いことです。
私はたまたま京都の方で学校の先生をやるという仕事があったので、京都に移住しました。
彼はこの間電話をくれまして、「秋山さん、俺の身体また汚染されてるよ」
毎年彼はホールボディチェックといって体内のセシウム量をチェックするのをやっているんですけれども、「去年測った量よりも、今年の1月に測った方が、セシウム137のベクレル数が高くなっている」と。
今日の集会は「福島を忘れない」というタイトルが掲げられておりますが、福島では現在進行形なんです。あそこに若い人たちも暮らしています。毎日毎日、危険な中で暮らしているんです。
忘れないという事よりも、皆さんも今、それなりに汚染されているかもしれないんです。東京も関東もとっても危険な地域になりつつあるんです。その事を、皆さん、自分の中で確認して下さい
今やらなければいけない事、こういう問題を広げてはいけない事なんです。川内原発を再稼働させてはいけないんです!(拍手)
そして何よりも、そういう政策を推進する各自治体の首長、議員たち、そしてあの永田町にいる国会議員と“自称している”人たち。私あえて「自称している」と言います。
あの保守的な最高裁判所ですら、「違憲状態である」という判断の中で選ばれた人が、どうして国民を代表するんでしょうか!(拍手)
私たちはそうした人たちを一人一人、責任ある、責任なんか取れっこないんですよ。
福島の問題で誰が責任を取ったんですか!(拍手)
東京電力の社長だって、大量の退職金をもらってのうのうと暮らしているじゃないですか!(拍手)
そんな不正義が日本で許されるのは、私たちがひょっとしたら認めているからじゃないですか?
こういうのを認めない社会をつくろうじゃないですか。(拍手)

(No333-2に続く)

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(No333-1の続きです)

「私たちが責任をとる」大江さんが先ほどおっしゃった通り「未来に対して何ができるか」という事なんです。
私は今72です。先日70代の仲間が集まって古希の会というのを作りました。
「俺たちはもう先がないんだから、どういう生き方をするか。この事によって未来になにか貢献できるかもしれない」そんな思いを誓い会いました。
私たちが、責任をとれない連中、国会の中継なんかを見ていますと、「私が責任者だ」「責任をとります」腹でも切るっていうんでしょうか!?
やつらはそんなことしっこないんです。
「私がその立場にいる事が責任をとる」なんていう事をいろんな人が言っているでしょ。
そういう社会を変えましょう。私たちに未来を残せるっていう事はそういう事でしょ。
そのためには少なくとも原発の再稼働という原子力村教、私から見るとあれは一種の新興宗教ですね。自分たちが正しいと思いこんでいる人たち、その人たちに思い知らせること。
そして、できるだけ多くの人たちが声を上げて、そして彼等を恐怖させようではありませんか。(拍手)
与党の幹事長が「デモなど、ああやって大きな声を上げる人たちはテロだ」と言いました。
彼らがやっている事、日々政策の中でやっている事がテロ以外の何者ではないでしょうか。(拍手)そういう社会を変えましょう。それが私たちの未来への責任です。
今日集まった人々、私は日本の最良の部分だと思います。皆さんは小さな事、「デモしかない」そう思っているかもしれない。
だけど皆さんが信じ続ける事、思い続ける事が実は大きな力であり、今私たちに不当な事を強いている人々に対する怒り、そして悔しさ、そうしたものをまとめて大きな声にしていきましょう。呟きを声にしましょう。声を行動にしましょう!
それがこの集会ではないでしょうか。(拍手)
私たちは京都でも、あるいはこの間は鯖江で、あるいは松山で、あるいは福岡で、いろんな小さい声を集めて一つの行動に押し上げてきたと思います。
この今日の天気。これは神の恵みです。天は我に味方しているんです。
寒い中こんな暖かい日を私たちにくれた事はとても、別に私は宗教者ではございませんが、やっぱり何か大きな力が私たちに味方しているとしか思えません。
今日の集会を元に、川内原発、あるいは伊方原発、「原子炉の形が違うから安全だ」なんていうのは信じられません。全てあの地域、潜在的な福島なんです。
なにが「世界で一番安全な基準」ですか!住民の避難計画さえ立てられない様な基準がどうして世界一なんでしょうか!?私たちはそういう言葉に惑わされない。
惑わされては負けだ。くじけては負けだ。
そういう気持ちを持って今日は集まっておられると思います。
今後も頑張っていきましょう。(拍手)』

なすびさん(被ばく労働を考えるネットワーク)
『みなさんこんにちは。
被ばく労働を考えるネットワークのなすびと申します。同じ名前で昔、懸賞生活というのをやられていたタレントさんがいるのですが、全然別人です。
私たち被ばく労働を考えるネットワークは福島原発事故のあと、収束作業の労働者や除染作業の労働者の労働相談を受け、労働争議に取り組んできました。
重層下請構造のもとで、これらの労働者は賃金や危険手当をピンハネされて、そして、突然の一方的な解雇や使い捨て、ひどい労働環境の中で仕事をしてきました。
今取り組んでいる労働争議の一例をちょっとだけお話しますと、汚染水にまつわる仕事に就いている労働者がいます。
彼は1日8時間の労働以外に朝残業2時間、そして晩に残業2時間、1日12時間以上の作業を毎日強制されていました。
放射線作業というのは危険労働ですから、1日2時間以上の時間外勤務というのは労働安全衛生法上の違反行為です。それを日々、毎日強制されていました。
そして彼の話によると、政府のロードマップ、それから政治的なスケジュール、そして、東電からの強い意向によって、毎週毎週ノルマがきつくなったというふうに言っています。
彼は「本当にもう体がしんどくて動けない」「もう毎日こんな仕事なんかできない」というふうに訴えて、「仕事ができない」という行為を具体的に示したところ、その下請けの社長から、即日の解雇、そして宿舎からの即日の退去を要求されました。
これもですね、解雇は1カ月以上前の解雇予告通知が必要ですので、違法行為です。
そのような様々な労働相談と労働争議を今私たちは取り組んでいます。

(No333-3に続く)

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(No333-2の続きです)

そしてこの2月3月は、被ばく労働者統一春闘というふうに位置づけまして、多くの労働者からの要求を練り上げてひとつの統一要求を作りました。
昨日、東京電力とそして除染作業の元請けの一つである前田建設工業に対して、その統一要求書を提出して、回答を要求するという行動を行いました。
社前で抗議行動を行いました。
午後からは関係する厚生労働省、経済産業省、環境省に対して同様の要求書を突き付け交渉を行いました。
ただ、この収束作業や除染作業というのはそういう劣悪な労働環境であるという事だけが問題なのではありません。それらは被ばくを前提とした労働であるという事が最大の問題です。
今、収束作業の労働者は多くの人が累積被ばく20ミリシーベルトで解雇されています。
もちろんそのまま即解雇という事自体も問題なんですが、20ミリシーベルトという数値がどういう数値か?
これは同じ割合で被ばくをしていけば、「毎年0.1%ずつ癌になって死亡する人が増える」そういう割合です。「なんだ、0.1%か」というふうに思われる方もいるかもしれません。
しかし今、収束作業に入っている労働者は、1日3000人います。その0.1%と言えば3人。
その3人は他の仕事をしていれば死ななかった仕事なのに、収束作業に入った事によって「死ぬ」という事が予定されている3人なんです。
被ばく労働というのは、そういうある割合で誰かが死ぬことを前提とした労働なんです。
これを非人間的な労働と言わずしてなんと言いましょうか!(拍手)
その一方で被ばく労働を止めようというのは実は簡単な事です。
でも、今、そういうふうに言ったら、あの福島第一原発の労働者はみんな引き上げてくるしかありません。そのようになったらどうなるか?
おそらく核燃料は再び臨界を起こして、それこそ手を付けられない壊滅的な状況になるだろうというふうに想像が付きます。
私たちはすでにそういう、ある割合の人たちを犠牲にしてしまう様な社会を選びとってきてしまったわけです。私たち一人一人にそのような責任があります。
私は今、ですから、ここで是非皆さんにお願いしたいことは、「収束作業を急げ」とか、
「廃炉作業を加速化しろ」とか「漏れた汚染水をすぐに回収しろ」とか、そういう言い方をしないでいただきたい、というふうにぼくは思っています。
「急いで処理をしろ」ではなくて、労働者の安全を第一として、「慎重に回収しろ、作業しろ」そのように要求していただきたいというふうに僕は思っています。(拍手)
今、収束作業と除染作業の労働者が、その7割が地元福島の労働者です。この原発事故によって、故郷を奪われ、財産を奪われ、家族を失った福島の人たちに、今もなおこういう仕事を押し付けている。これが私たちの、この社会の現実です。
このような、非人間的な行動をなくすには、もちろん「脱原発」それしかありません。
しかし脱原発というのは単にエネルギー政策を転換させる、再稼働を許さない、全ての原発を即時廃炉させる、それだけで終わるものではありません。廃炉させるには廃炉作業があります。その後に廃棄物の管理作業があります。
私たちはもう、気の遠くなるような長い時間、この被ばく労働の問題と向き合っていかなければならないんです。
ですから、「脱原発」というのは、ただ単に政策の選択の問題ではありません。誰かを踏みつけにしていく様な社会、あるいは誰かを犠牲にしていく様な社会、その上で経済や産業が発展していく様な社会を、私たちは拒否する!(拍手)そのためのリスクと努力、それこそが脱原発の運動ではないでしょうか。(拍手)
都市が地方社会を犠牲にするのではなく、格差や差別を許さない、誰もが共に一緒に生きていく社会を具体的にこれから模索する。そういう取り組みを一緒にしながら、この脱原発運動を共に進めていきたいというふうに思っています。
共にがんばりましょう!(拍手)』

集会終了後、デモが出発。
デモコースは日比谷公園~東京電力前~銀座~数寄屋橋~鍛冶橋駐車場前(流れ解散)である。
記録班として、いつものように日比谷公会堂の交差点でデモを待つ。時間よりやや遅れてデモ隊が姿を見せた。4大学共闘は最初の隊列に入っている。今回のデモコースには歩道橋がないので、空撮(上から写真を撮ること)はできない。歩道の反対側を歩きながら、デモ隊の隊列の写真を撮る。
デモは比較的スムーズに進み、短時間で解散地点に到着した。今回は歩道上での流れ解散ということで、インターナショナルを歌うこともなく、東京駅方面に向かい、そのまま解散した。


※ スピーチは<みんな楽しくHappyがいい>さんのブログを参考にさせていただきました。

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