野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

タグ:高校

この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年代前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第5号に掲載された都立竹早高校闘争である。都立竹早高校のホームページを見ると、文京区・小石川にある歴史のある高校で、明治33年「東京府立第二高等女学校」として創立、今の名称になったのは昭和25年とのことである。今回の記事に登場する「生徒権宣言」についても「竹早高校の歴史」の中で『昭和44年6月「生徒権宣言」出される。(いわゆる高校紛争の時期)」』と記載されている。
また。「日本マラソン界の発展に大きく寄与し、NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』の主人公にも描かれた金栗四三先生は、大正10年から昭和4年まで、府立第二高等女学校(現在の竹早高校)で地理歴史の先生をしていました。」とのこである。

イメージ 1


【高校生のひろば 週刊アンポNo5  1970.1.12発行】
学校の“正常化”とは何か
都立竹早高校 三年S生

竹早闘争、その発端は教師の不正事件であった。竹早の特殊事情という中で、不正は行われた。教師は、竹早の閉鎖的、排他的な租界としての特殊性の中で、ぬくぬくと日常性に浸りこんだ没主体的な生活を続けた。その中から悪に対する不感症が生まれた。
しかし、没主体的な彼らの生活態度から生まれたものは、単に汚職だけではなかった。彼らは非教育的な現教育体制=受験体制を肯定した。彼らが管理者的立場=非教育的立場をとって、われわれから自由を奪い、受験を押し付けることによって、彼らは体制を維持し、自己の日常性を守ろうとしたのだ。
<不正事件の背景>
 4月10日の毎日新聞をかわきりに、新聞、ラジオ、テレビによって竹早の不正事件が報道された。そしてわれわれ生徒は、このとき初めて教師の汚職を知らされたのである。現校長は着任以来、秘かに“改革”に着手し、彼の言葉によれば“正常化”を行ってきた。生徒には何ひとつ知らせずに、事件が明るみに出てから次つぎに生徒に配られたレポートによれば、補修費などの収支決算内容の公開などの“成果”をあげていたというわけである。そして彼は事件の“首謀者”であり、彼の正常化に反抗した某学生主任を他校に転任させることによって改革の終了としようとしていたのである。幸いにも、学生主任が転校を拒み、リベートをとったのは自分だけでなく、またそれは長年の慣行であることなどを内外に主張したため、事件が公になった。もし、校長の意図どおり事が穏便にはこび、表面化に至らなかったら、被害者であるわれわれはつんぼさじきにおかれたまま卒業していたにちがいない。校長のこのような“改革”に対する態度はいったい何を示しているのか。校長は今回の事件をあくまでも竹早の特殊事情だとしている。その特殊事情とは、都立高校として、独自の校地、校舎を持つことができず、学芸大附属中学との同居の中で、極端に教育活動が圧迫されている。進学熱が高まり、そのための補習費などを学年で運営してしていくうちに学年を中心とした強固な校務運営体制ができあがった。その中で学年主任がすべてにわたっての大きな権力を握り、校長さえ口出しができなかった。たしかにこのような特殊事情が汚職を生み出す巣となった。しかし、竹早の問題は金銭上の不正だけではない。入学して以来、われわれが受けてきた教育そのものが問題とされるべきではないか。受験教育ただそれだけであった。そして、それがすべてをゆがめていったのではないか。教師に盲目的に服従するだけの生徒、そしてすべてに対して無関心、無批判の逃避者としての生徒を生み出していった。それを単に教師の頭のすげかえ、校務運営体制の改革によってーしかも生徒不在のままー乗り切ろうとした校長の管理者態度は批判されねばならない。
<5月の10日間>
 竹早の教師のほぼ全員にあたる34人が教育庁の処分をうけた(免職1人、諭旨退職1人、減給2人を含む)。われわれの教師に対する不信感がどうしようもない形で存在し、われわれは授業を拒否する以外に他はなかった。討論会が19日間にわたっておこなわれた。
 それは、われわれの今までの積り積もった不満の爆発であった。そこには受験を頂点とした価値体系ができあがり、自由を、権利を捨て、われわれは受け入れた。教師は生徒の服従を得て、学校運営、授業、特別活動に絶対的な権力をふるった。1年から行われた補習、息つく暇もなくテストが続いた。テストの成績、これがわれわれの全てを決定した。ゆがんだ優越感と劣等感。これを助長させ逆に利用しようとする教師、そこから生まれる生徒と教師の間の、そして生徒どうしの間の醜い人間関係、次第にわれわれは出口のない袋小路に追い込まれていった。
 やり場のない苛立ちの中から、はけ口が見つかり、一挙に吐き出された。緊張と興奮に包まれた討論会であった。しかし、われわれの教師に対する不満、学校に対する不満はやがて社会に対してぶつけられねばならなかった。そして竹早の改革=社会の改革といった図式ができあがったが、それはあまりにも直感的であった。そして、その理論的根拠に欠けていて、行動の具体的方向性が見失われがちであった。改革は空振りするばかりで、授業をしていないというあせりから授業再開が決議され、以前となんら変わることのない授業は始まった。
 ここの段階ではまだ既成の価値基準から完全に抜けきれず、真の教師を求めて高校教育そのものを根底から考え直すといった態度は見られなかった。
<生徒権宣言>
 10日間の討論が成果らしい成果を残さなかった中で、具体的な形として表されたものに、生徒権宣言がある。
 その中でわれわれは、まず第一に教師の従来の権威を否定した。そして生徒は一個の人間として認められることを確認し、われわれの持つ権利を明確化した。すなわち、自由の権利、学校運営参加の権利、そして一切の思想、表現の自由であり、言論、出版、掲示の自由は保障され、サークルも自由とされる。
 われわれは、このようなことが二度とおこらないように、教師一人ひとりから確認書(自己批判と改革の意志表示をしたもの)をとり、竹早の歴史として永久に残すことを決めたが、校長の拒否にあい、ただ今後の教育の方針を示したプリントが配られただけであった。
<全学スト突入>
 5月の討論が終わり、改革がいっこうに進展しない中で、われわれは授業という日常性の中に埋没していった。そして5ケ月。11月決戦が近づき、青山高校は封鎖をもって闘い、しだいに緊張が高まっていった。その中でわれわれは、新たな決意をもって再び立ちあがった。
 きっかけは生徒権宣言の承認問題。学校当局は生徒権宣言に対する見解の中で、われわれの宣言を「全般的には妥当なこと」とし「生徒の切なる願いの言葉として受けとりたい」といいながらも、明確な形での承認はなされていなかった。
 この点を追求するために総会が開かれ、10月4日、ストライキの提案がなされた。要求項目として、1.生徒権宣言の全面承認。2.処分権の撤廃。3.試験制度の廃止。4.スト件の承認があげられた。そして1週間がたった。その間、生徒権宣言は承認された。処分権についても撤廃は拒否されたが、修正案が認められ、不当と思われる処分については生徒側の合意に基づかなければならないとされた。
しかし、10月22日、われわれは全学ストに突入したのだ。要求すべき項目もなく全学ストに入った。その時からストライキの性格が変化していった。それは、要求を掲げて、ある程度受けいれられた時にスト解除するといった要求獲得の総評的なストライキではなかった。日常性の打撃であり、自由な活動の場の確保であった。
ストライキを自主的な活動の場とする必要があった。そして3年ABクラスにストライキ実行委員会がつくられた。
数クラスで自主講座が始まり、討論会では試験制度や授業について話された。しかし、その自主講座とはいったい何を目的としたものなのか、その意味は、今までの授業とどこが違うのか、そこの追求がなされていなかった。そして末梢的なことを議題にした討論が、いったいなんの意味を持つのか。
具体的な問題を討論する前にまず、教育というものを本質からとらえ直していかねばならない。そして、そのために現状分析が必要であった。生徒権宣言を実践していく意味で、最首悟氏の講演をABスト実行委員会の主催で行ったが、教師は講堂前にピケをはり、実力阻止をはかった。ここに教師の管理者的態度がはっきり露呈したのだった。われわれは管理者としての教師を断固追及し、そのかずかずの恫喝の中、闘いを続けていかねばならない。
そしてその闘いとは、結局われわれ自身の存在を確かめる闘いであろう。5月以来の闘いを通してわれわれは、以前あれほど強固であると思われた高校のすべて、毎日毎日惰性的にくりかえされた授業、そして教師の強大な権威、その他いっさいのものが、静かに、しかし根底から崩れつつあることを感じた。そして、そういった価値体系の崩壊の中で、教育とは何か、学問とは、そして学校とはと問いかけるうち、それではなぜ自分は高校に来ているのかという疑問が生じた。すなわち、自己存在の基盤が問われているのであった。結局、闘いの中で自分自身の存在を確かめていく他はなかった。いや、そのための闘いだった。そしてこれからも。
(終)

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。

HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月5日(金)に更新予定です。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの10回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第7号に掲載された私立城右高校闘争である。
(城右高等女学校は、1974年に文化女子大学附属杉並中学・高等学校に改称。現在は文化学園大学杉並中学・高等学校となっている.)

イメージ 1

【高校生のひろば 週刊アンポNo7  1970.2.9発行】
「学校はわれわれ自身が考える人間になることを恐れている」ことに気がついた生徒はどうしたか・・・どこにでもあるような私立の女の子ばかりの高校で聞いたはなし。
 新宿から中央線の電車に乗ると阿佐ヶ谷を過ぎたあたりの左側に面白い建物が見える。白い鉄筋のビルの上に、青い中国風の屋根が乗っている。ここが私立城右高校。夕方になると阿佐ヶ谷の駅前にはタテカンが立ち、署名やカンパを呼びかけるまわりには、いくつかの討論の輪ができている。学校帰りの生徒に話を聞いてみよう。
 事件の発端は去年の10月までさかのぼる。それまで毎週月曜日の朝15分間は全校生徒が揃って校長先生の話を聞く時間と決まっていた。その内容はマニキュアの話であったり、あるいは制服のネクタイの話、ガムの話etc。とにかくおもしろくない話。ついに10月9日、朝礼廃止が生徒総会の議題になった。そのあとの事実経過は、12月3日に矢沢洋子先生の出した資料から引用することにしよう。
『・・・土曜日に再び生徒総会を開くことを全会で確認し、そこにいた校長に「土曜日にそのための時間がほしい」と要求した。校長は「時間はやらない。やりたければ勝手に放課後にやりなさい。」とこたえ、それにつづいていろいろのべた。次に後藤先生が「生徒はこのような問題について、このようなかたちで話し合うことは土台むりなのだから、クラスで討論してその決議を生徒会の総務部会にもってくるようにすればよい」と言った。』

《矢沢先生の発言》
『私は校長が求めに応じて(生徒の時間要求について)発言するのはともかく、教師が生徒の自主討論に承認をうることなく勝手に発言すべきではない、ましてや何らかの結論を命令的におしつけるようなことはすべきでないと考えて、後藤先生の話の途中であったが「生徒総会はもう終わったのか?」と司会者にただした。校長は「黙れ、出てゆけ」と大声で私の発言を制した。しばらく後、後藤先生の発言が終ってから私は生徒総会の議長に発言を要求した。議長は「矢沢先生の発言を認めるかどうか」を総会にはかった結果、総会は全会一致で私の発言を承認した。
 私に発言の要点は①後藤先生のいまの発言が教師全体の統一見解であるかのように生徒にうけとられたくない。なぜなら少なくとも私は後藤先生とはちがった意見をもっているし、この問題についての教職員の「統一見解」というものもまだ職員会議で討論していないのだから、存在しない。②生徒の真剣な話し合いは認めるべきだし、生徒が話し合いが立派にできることが現に示された。③一人一人にとって大切なことがらについては、総務部会のような代表者だけの討論にまかせてしまうのではなく、自分自身が討論に参加し納得した上で行動すべきだ。納得しないまま行動するのはよくない。の諸点であった。
<10月11日(土)臨時生徒総会>
①朝礼の廃止。②毎週月曜日の朝礼の時間には「生徒集会」をやる。③次の月曜日にはフォークソングをやる。が決められた。
<11月26日(水)職員会議>
・・・授業中に専門の科目以外のことは話してもらいたくない(校長)ということであったが、学校での掃除やあいさつなどを考えれば「すべてが教育」なのだからそういうのはおかしいといったところ、校長は「とりけします」と述べた。
 その他、いくつかの問いとそれに対する応答などが交わされたあと、突然、ある教師から「矢沢先生が学校に対して反旗をひるがえしている」という発言があった・・・。』

《「ふみ絵」による解雇通知》
『<11月28日(金)職員会議>
 まず私が意見を延べた。その要点は①学校の見解=「教育方針」とちがう個人的意見を生徒にのべるべきではない、という批判に対して「教師と生徒の信頼関係は一定不変の考え方なりを上から下へとおしつけてしまっては生まれない。お互いが自分自身の考えをのべあってこそ信頼関係が成立する」②教師の間での意見の相違があっても、生徒はそれで「動揺して悪い方向へ行く」のではなく、自分自身で考え、批判力、判断力なりをやしない、進歩発展が望めるのだと思う。
 そして、①朝礼廃止という事件で考えなければならないことは、これまでの学校の教育方針であり「教育とは何か」ということが問われているのだ。
 こうした私の問題提起に対して後藤先生は「答えになっていない。一緒にやっていくつもりがあるのかないのかを聞いているのだ」といい、校長は「それで矢沢さんの考えはわかった」と、職員会議からの退場を命じた。
<12月1日(月)>
朝、生徒集会で「矢沢先生の処分問題についての学校の説明を要求する生徒集会を開かせよ」と決議。午後、職員会議。(矢沢先生にー編集部注)校長がいきなり6項目を出し、署名、捺印をせまる。「考える時間を与えてほしい」と主張したが、「あと10分」ということで10分後、「回答がないのは拒否とみなして免職」を宣言。即時退場を命令。
注:6項目の第3項「学校長の指示命令に従うこと」第6項「専任教師の生徒に対する指導上の協力を阻害するような言動をしないこと」ほかの項目も同じような内容。しかもその後に「右条項は(中略)守るということを誓うと同時に、その一部の違反があった場合、学校のいかなる処分にも服することを固く約束する」という文章がついていた。しかも、拒否とみなすとすぐさま「右昭和44年12月1日付をもって解職する」ということ以外には何も書いていない解職通知書を出されたのである。』(以上、「資料」より抜き書き)

イメージ 2

《生徒の自己主張、始まる》
 もちろん生徒はこうした解職処分に反発し、12月2日「説明会」でつぎつぎと疑問を提出し、学校側が説明会を打ち切ったあとでも、日が暮れるまで生徒集会を続け、矢沢先生を含めた三者会談を要求。学校側が拒否したため、翌日、矢沢先生と生徒の合同集会を持った。
 12月4日から、処分を認めない矢沢先生は毎日登校し、生徒は屋上で矢沢先生の授業を受けた。そこへ理事たちが来ると生徒は先生をとり囲んで離さなかった。
 処分理由を説明できない学校側は矢沢先生への個人的ひぼうと生徒へのおどかし(「退学」の連発)でおさえこもうとした。それを乗り越えたのは就労闘争と「二年有志」のビラ(大衆的ビラまきとクラスごとの教師追求)と比留間先生の処分反対声明だった。ビラをいくつか紹介することにしよう。
…………………………………………………………………………………..
12月7日 2の4有志
私たちは何も言わず何もせずにいることはできない
 (前略)しかし現実にはそのような教師が追い出されようとしている。と言うことは私たち生徒が学校の言うこと(統一見解だけ)をどんなことでも聞かなければばらないということになってくるのではないか。だが、なぜ学校側はわれわれに統一見解をおしつけてくるのか。それは、われわれ自身が考える人間になること、判断力のついた人間になることを恐れているからで、考えることのできない生徒を養成しようとしているからではないだろうか。(中略)
 校長先生の発言「学校のやり方について不満を言うものは、入学金を返すからやめろ!」「あなたがたには全部を知る権利はない」(6項目の要求について)相馬先生「生徒はほっておけば悪いことばかりする」「勉強できない生徒は信頼できない」則竹先生「先生と生徒との信頼なんてありえない。この学校は程度が低いから、体にたとえると弱いからだである。(強い学校とは有名校・名門校をさす)(中略)」
1.全教師が私たち、生徒の前で右のような発言をしたことおよび校長先生のウソを黙認したことについて、自己批判を要求する!
2.・・・矢沢先生の処分は認められない。処分の白紙撤回を要求する!
先生!教師である前に人間であってほしい。
……………………………………………………………………………………
また、12月11日付の2年有志のビラでは『西田先生は(生徒を個人的に呼びつけておいて、最後には)「あなたはわかってくれるわね」とか「あなたを見そこなったわよ」と、なだめたりすかしたりしている』ことも書いてある。
 「ときがたてば自然におさまる」と考えていた学校側は生徒の意外な反発をみて「保護者会による収拾」を策動した。さっそく3年有志のビラがでた。
 『保護者会に生徒と矢沢先生を参加させ、自由に発言させることを要求する!
どういうつもりでこの保護者会を開くのか?保護者の意見をとり入れるつもりなのか?そうではない!もしとり入れるつもりがあるならばなぜ「白紙委任」なんてことを書くのか?暮れの忙しい時に家族の都合を考えずに一方的に出席しなかった場合、学校側を認めることになるということは不当である。なぜならばそこには父兄の意見というものが一切伝わらないからである。それでは学校の、保護者会を開く真の意図は何か?「保護者も納得した」という形式だけを作ってでたらめな処分を正当化しようとしているのだ!そうすることによって生徒を納得しないままだまらせておさえつけようとしているのだ!通知では学校側の一方的な話しか聞けないようなので、学校・矢沢先生・生徒・父兄の4者交えて話し合いをしなければならない。この4者のうち1者でも欠けた場合、話し合いをしても真実はわからない(後略)』
 そして3年の一部を除く全クラスが4者会談要求を決議。保護者会当日は「登校したら処分する」のおどかしを無視して三百名以上が登校(全生徒は五百人)し、門を突破した。会場では学校側が扉を閉じたが、父兄が内側から開き、生徒を導入した。
 父兄たちは、このように最初のうちは生徒に好意的で「4項目要求(処分保留・PTA設立・生徒不処分・紳士的話し合い)」を決めたりした。しかし学校側は処分保留を認めず、父兄の「話し合い路線」は失敗に終わった。

イメージ 3

《少数派に転落?》
 学校側は期末試験―冬休みに何とか逃げ込もうとした。しかし、1の2の担任である比留間先生が「期末試験強行反対」声明を発表、ほとんどのクラスが「試験延期要求」を決議した。試験第1日には250人の生徒がボイコット、3日目からは2人の生徒がハンストに突入した。門の脇には、その2人と支援のすわりこみをやる生徒のために、テントが立てられた。
 一部の生徒を相手に試験は強行され、最後まで試験をボイコットした生徒の二学期の成績評価はほとんどが「1」だったのである(比留間先生はクラス担当をはずされた)。
 学校側はさまざまなデマ(矢沢先生の夫は過激派のリーダであるなど)を流す一方、成績評価や処分で恫喝を加え、あるいは懐柔策を用い、まず父兄が手を引くことになり、生徒も一人一人切り崩されていった。
 しかし、一度目覚めた生徒たちは、少数派に転落しながらも根強い抵抗を続けている。まず始業式を粉砕、続いて7項目要求を打ち出した。そして今も授業をボイコットしてクラス討論を続けるクラスもある。いや決して“少数派に転落”などしてはいないのだ。
 1月23日、阿佐ヶ谷駅前で聞いた話・・・「問題が大きすぎるんです。きっと」「一生懸命やったんだけど」「あの頃は楽しかった」「以前も今も授業はちっともおもしろくない」
 女生徒たちは、口々にそう言った。学校を常時警備しているガードマンの事を持ち出すと、彼女たちの中の一人が「あれは暴力団と呼ぶの」と訂正してくれた。
 そこを通りかかった広瀬理事(矢沢先生のかわりに理科の授業を受け持っていて、女生徒たちの話によれば次期校長の有力候補)に記者が質問すると「関係ない」の一点ばり。
 登校時の就労闘争や、タテカンを守る杉並区労協の人たちとガードマンの小ぜり合い。毎日、それを見るのがつらいというのはすべての生徒に共通した気持ちだ。しかし、今も闘い続ける生徒の一人は、決して矢沢先生への同情から闘っているのではない、と強調して最後に「同情からこんなことがやれるものですか・・・」とつぶやいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【城右学園闘争とは何か】
《教育=飼育秩序への叛乱》
 生徒とは学校の命令するところなら何でも従う存在であるーこれまで城右の教師たちはこう信じて疑わなかった。いや教師だけではない。生徒自身、自分たちは学校のいうことには従うべきだし従うほかないと、考えていた。それは何ら疑問をさしはさむ余地のない自明の理としてあった。
 どんなにつまらない授業でも、どんなにくだらない校長の説教でも、どんなに嫌悪すべき担任教師の皮肉たっぷりの「注意」でも、あいては「教師」だし自分たちは「生徒」だから、したがわなければならない、と考えてきた。
 それにたいして少しでも疑問をもったり反対したりすると、すぐに、「やるべきことをやってから文句をいいなさい」「試験もろくにできすによくそういうことがいえるものです」といわれる。そういわれると、生徒は、もともと「勉強」には自信がないからひとことも言えなくなってしまう。
 教師は逆に生徒の「勉強ができない」という負い目につけこんで、自分に従わせようとする。
 こうして、学校に行けば行くほど、授業をやればやるほど、試験をやればやるほど、生徒は劣等感を固定され、自己主張をわすれ、「上の人」のいうことにさからわぬ人間になっていく。すると学校は「うちの生徒はすなおでおとなしく、礼儀正しく、協調性があります」といって銀行、商事会社などの「一流大企業」にすいせんする(城右の生徒の9割は就職)。
 これは「教育」ではなくて「飼育」ではないのか。若者の可能性をひきだす、といったものではなく、可能性をおしころし、「自分はダメな人間だ。だから人のいうことをよくきいて<細く長く>(城右の校是)生きるのがいちばんいいんだ」と思いこむように飼いならすのが、「教育」の目的になっているのではないか。城右の生徒の「叛乱」は、こうした「飼育秩序」にたいする「叛乱」であり、告発であった。そして矢沢先生や比留間先生が「30対2」というかたちで教師集団の中で孤立するのをあえて辞さずに拒否したものは、こうした「飼育秩序」の加担者―生徒を飼いならす調教師―という存在に自らがなるのを拒否することであった。
 これは「教師は命令するもの」「生徒は従うもの」といったこれまでの教師と生徒の観念を根本的にひっくりかえす破天荒なできごとであった。教師を批判するなど思いもよらなかった生徒たちが、1年生でさえ校長にたいしてどなりつけ、紙くずをまるめてぶつけられるようになったこと、そうしたことをとおしてはじめて「自己」を主張することをおぼえたこと、これこそ城右の闘争の最大の成果であろう。
《管理社会=全飼育秩序への叛乱》
 ではこうした教育=飼育秩序への叛乱は何を意味するか。
 城右は私立学校であり、だからこそこういうでたらめな教員解雇が理事会の一存でできるという側面がある。しかし、私立校の存在それ自体が、じつは現在の日本の学校教育秩序の中で基本的役割を演じていることを知らねばならない。
 東京都だけにかぎってみても高校生徒数は、公立20万に対して私立30万であり、1960年以降の高校進学率上昇とベビーブームで急増した高校生の7割は私立校に吸収されている。
 ところで私立校というのは、ごく少数の有名受験校や有名大学附属校をのぞいては、好んで入学するところではない。公立校の入試の関門を突破できず、「仕方なく」はいるところであり、したがって大部分の私立校は「劣等生の収容所」という極印をおされている。
 私立校の大量存在の意義は、じつはほかならぬ「劣等感をうえつけられた生徒」が大量に資本家的支配階級から要請されているということなのだ。
 「劣等感」の由来する「成績」(とくに入試)とは、ものごとを要領よく形式的に頭につめこみ、〇×式の問題に手ぎわよく回答する反射神経的能力がいかに養われたかを測定したにすぎない。ところがそうした「特定の能力」によって生徒に序列をつけ、その序列づけに生徒自身をもあきらめさせること、これが小学校から大学までの日本の学校教育が果たしている役割である。こうした「序列づけ」が管理者―被管理者という工業社会の維持拡大に不可欠な階級社会の再生産のための要請であることはいうまでもなかろう。
 公立・私立、一流校・二流校・三流校、普通校、実業校といった区別それ自体がこうした「序列づけ」の機構であり、「劣等生の収容所」たる私立校の「教育」とは、入学時から生徒がもっている劣等感を固定化し「分」をわきまえさせることにあるのだ。
 城右の生徒の「叛乱」は、それゆえ、たとえ城右の生徒教師がそこまで自覚していないにせよ、事実上、人間に序列をつけ人間が人間を一方的に管理し支配するという現代社会全体の「飼育秩序」にたいする「叛乱」でもあるのだ。
(Y)
(終)

【お知らせ その1】
今年は1967年10月8日の第一次羽田闘争から50年目となります。10・8山﨑博昭プロジェクトでは50年目となる10月8日に、「50周年集会」を開催いたします。
メモリアルな集会ですので、多くの皆様の参加をお待ちしております。

イメージ 4

イメージ 5

「10・8羽田闘争50周年―追悼山﨑博昭」
日 時:2017年10月8日(日) 16時20分~20時30分(予定)
                 (開場16:00)
会 場:主婦会館プラザエフ・9階「スズラン」(JR「四谷」駅徒歩1分)
参加費: 1,500円
●第一部 50周年を迎えてプロジェクト三事業の報告 16:20 ~ 17:20
●第二部 10・8羽田闘争と今             17:20 ~ 18:50
詩朗読   佐々木幹郎作「死者の鞭」          品川  徹
記念講演 「10・8と反原発の今をつなぐもの」     水戸喜世子
記念講演 「平和村からのメッセージ」  ベトナム平和村代表NHI(ニイ)
ベトナム政府からの挨拶(予定)      
●第三部 山﨑博昭に捧げる短歌絶叫コンサート    19:00 ~ 19:30
   福島泰樹(短歌絶叫)  永畑雅人(ピアノ)
●「記念パーティー」                19:45 ~ 20:25
 乾杯・私にとっての10・8を語る(発起人・参加者)
        
※ 集会に先立ち、弁天橋での献花・黙祷及び50周年忌法要を行います。
【弁天橋での献花・黙祷】(雨天決行)
●集合 10時20分 京浜急行空港線「天空橋」駅改札 
●10時30分~11時15分 弁天橋付近で発起人挨拶と献花・黙祷
【50周年忌法要】
●12時~ 福泉寺にて50周年忌法要 
境内に山﨑博昭の墓石・墓碑(反戦の碑)があります。

<問い合わせ> 「10・8山﨑博昭プロジェクト」事務局
(FAX)03-3573-7189 (メール)monument108@gmail.com

【お知らせ その2】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は10月13日(金)に更新予定です。
「10・8羽田闘争50周年集会」の速報を掲載予定です。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの9回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、前回に引き続き都立立川高校闘争の記事を掲載する。「週刊アンポ」第8号に掲載された記事である。

イメージ 1


【高校生のひろば 週刊アンポNo8  1970.2.23発行】
―あなたがたが処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなにもしないくせにと思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません。ただ許してほしい。(往復書簡より)―

イメージ 2


 都立立川高校の生徒たちにとって1970年の夜明けは、悪夢とともに始まった。12月31日、4名の退学処分(大晦日の深夜、処分通告の呼び出し電話!)。24名無期停学恫喝―確約書」処分。
 右に引用したのは“ノンポリ”生徒から、退学処分を受けた一人、古川杏子さんへ宛てた手紙の一節だ。次ページに、その全文と、古川さんから彼女へ宛てた返事を掲載した。
 昨年の10・21から11・25までの立川高校闘争の経過は「週刊アンポ」第3号“高校生のひろば”を読んでいただきたい。その後まず生徒会長が辞職した。(どの高校でも、生徒有志が質問状なり要求なりを出した時、学校側は「非合法団体だから」という理由で取り合わない。そのホンネは、立川高校では生徒会での大衆的な支持があったにもかかわらず。「執行部は一部の生徒の代弁者になっている」という理由でつき離された)さらに中央委員会は議長をリコール、自ら解体を決議した。そして収拾策としての会長選挙は大衆的な阻止行動で1日延期され、結局全校生徒の4分の1そこそこの投票率で強行された。
 学校当局は最後の切り札として処分を持ち出したのだ。しかし、冬休み明け1月8日から再び闘いは始まった。連日の校門前ビラまき、それを阻止しようとする教師たち。私服刑事たち。(腕をねじる、地面や壁にたたきつけるーヘルメットは必需品―なぐる、ける、服を破る)ことはもとより、門の内側にはテレビカメラがすえられ、校長室、教頭室、職員室に受像機があるという。(しかも「朝日新聞」の記者が取材に来ると、その日に限って妨害はなかった。下の写真は1月19日、校門前。中央が古川さん。手、顔をつかんでいるのは、立川高校の教師たち。

イメージ 3

<第一の手紙  真実の無意味さ>
 古川さん、お元気ですかーこんな空々しいことは書きたくないけれど、悲しいかな私にはこの際、他に適切な言葉が思い浮かばないのです。それに実際お元気かどうか心配なのです。
今週の月曜日から一度もあなたの姿をみないし、他の人たちも門前でみかけないようだから。
 あんずちゃんーあなたはこう呼ばれてだれからも親しまれていた。今だって、あなたのことを話すとき白々しくも古川さんという人は滅多にいません。私は貴女と直接、あまりおつきあいしたことがありませんが、でも1、2年同じクラスで時々お話しをしましたね。私にとってあなたはしっかりしていて、その考え方には、とてもついていけないような気がしていました。仲よくお話しもした代わりにずい分貧弱で(私がですよ)力量の不均衡な論争もしました。私はそのたびに、自分の不勉強を自覚させられましたが。
 10月21日の反戦デーには私は参加しませんでした。理由は、反戦の何たるかを考えず、安易に戦争反対を叫んで、しかも反戦と授業放棄との関係や、反戦デーをきっかけにして展開されるべき運動についての何らの見解ももちあわさない人が大半だったからです。(私がそう思った人の多くは後の民青の主力にさえなりました)また、21日以降のバリケードストライキにも反対でした。主旨がよくわからなかったし「解放バリ」という閉鎖状態の矛盾を感じたからです。でも、24日にバリの中からやってきたあなたと一寸お話しをして、私は少なくとも貴女方の主張のごく皮相な面を理解できたと思いました。そして、それまでもっていた自分の中の矛盾、今までの秩序を肯定すべきだという義務感と、全ての抑圧を排撃すべきだという権利意識の萌芽を整理し、家族や教師や目上の組織全てに対する義務を廃する方向にすすむという決心をすることができました。あのころから私は、今までの教師に対する「(できない)模範生」のからをつきやぶり、親に対する「家の子らしいいい子」のわくを脱しようと試みはじめましたので、双方に急に反抗的になったとみられたらしく、教師からは生まれてはじめていやらしい皮肉を浴びせられ、家でも父にやんわりと、社会主義のおそろしさについて説教されました。でも、自分で考えて自分で決意した生き方だと思うと、そんな大人のイヤミなどは平気でした。大杉栄にひかれ社会主義をもっと勉強する必要があると痛感したのも、そのころです。
 でも、私は結局そこまででした。私は何も行動することができなかった。それどころか目前にせまる受験におののき、授業再開の現実の必要性と、真実の無意味さのジレンマに悩むばかりで、厳然たる現実の前に私の決心も怪しくなるのでした。そんな私にも警察官導入とロックアウトはショックでした。家でいくらはなしてみても「警察はあなた方を守ってくれるのよ(共に闘い、共に進むべき友からわれわれを守ってくれるとは、有難い保護だ)」
というごく常識的且つ、消極的な誤解の中で話は終始してしまうし、一人で考えても、友人と話しても何の解決も得られないばかりか、授業再開必至という冷たい壁がすでに私を思考から隔絶してしまっている。今さらどうしようもない、という気持ちで私は結局、上辺はもとの「模範生」「いい子」にもどり、内職しながらも授業に顔を出したり、父と大学の相談をしたりすることを余儀なくされてしまったのです。
 私があの闘争の中でたとえ何らかの行動を起こしたとしても、それが余程のことでない限り、処分の対象にはなり得なかったでしょう。私の経歴がきれいすぎるからです。それにしてもあの処分!
 私はお正月の7日間を暗い、憤った気持ちですごしました。元日に新聞で処分を知った気持ちはなんともいえません。処分そのものへの怒りと不安とが、私にお正月気分も感じさせず、勉強に手をつけさせませんでした。
 そして8日の門前の闘争と教師の冷たい眼差し。私はそこにはじめて、教師の本当の姿、仮面をはいだ赤裸な姿をみたような気がしました。それなのにあなた方の闘争に対して、なんの態度も示さず、単に教師から顔をそむけてとおることが精一杯の抗議であることの辛さ。私は今まで、信じたい信じたいと念じてきた教師とあなた方のあの闘争に何度、口惜しさ、情けなさの涙を流したかしれません。
 毎日を、受験勉強に淡々としている今、私は完全なる敗北者以外の何物でもありません。大学に入っても闘争は私から縁どおいものであるでしょう。自分のいくじのなさが今からおしはかれるのです。
 でも、私のように自分ではなにもできないおくびょうものでありながら、あなた方の闘争を自分たちの闘争にしてゆきたくて声なき声援を送っているものも多いのです。私はあなた方が処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなんにもしないくせに、と思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません!ただ許してほしい。この体制が私のような人間を多く育成していることを考えて。
 友人のMさん二人がこんなことをいいました。「何らの前提もなく、相手の人格や思想に対する認識もなしにお元気で、などというのは無責任で、おかしい」「敵に対してその健康を祈るのはおかしい。教師がバリの中の人の“健康を慮って”説得するというのは欺瞞である」。この人たちと同じ立場から私は貴女に心から言います。 
「健康に気をつけて」と。「健康に気をつけて、決して敗北者とならず、挫折せずに闘ってゆかれることを祈っています」と。
1月31日
立川高校の一盟友より

<第二の手紙  明日はない>
 手紙、ほんとうにありがとう。夜寝れないことを除いて、たいそう元気でいます。
 10月にはあんなにきらきら明るい微笑みと躍動する肢体と諂いの意志が重なりあって「生活」をつくり、進歩と増殖と蓄積の巨大な貧しさでぬり固められた日常性の蔓延る、そのシルクスクリーンを、べったり闇に塗りつぶすんだ!と駆けだしたのに、あなたの手紙を、読んだら、まるで権力を睨めつけつつも、踏みにじる側と踏みにじられる側との、相互了解性があるようで、あたしたち、90日たっても、やるせないほど脆弱いのだと思った。
 70年に入って、少年係から公安へ、私服2名から16名へ、制服20名から60名へという官憲による立川警備体制の強化の中で、更に高揚する緊張関係の創出において(それも「生徒会」などという、居直りの安住地帯を破壊した地平でーそれはまた、一切の何々主義者の大衆操作の場をも奪いとる、自立の拠点でもある)どこまでやれるか、という信じられないような賭けとして、処分闘争は始まったのでした。そして、立高襲撃闘争は、根源的な混乱状況の創造を、最も厳しい弾圧化で実現する、極めて、ラディカルな性質を、あなたにもみせつけたにちがいない。魂の痙攣で闘争があるのでない限り、この賭けは、「絶対処分させない」ところから複び永久律動の輪を広げてゆくでしょうし、あたしたちみんな極左冒険主義者で挑発者で犯罪者で、最後まで憎まれ役でありたい。とはいっても市民社会秩序での遠近法で区切られた時間間隔の渦中では、「革命的前衛」が「展望」を語る時さえ、それらの威厳に溢れた言葉の端にぶるさがってしまう市民社会への幻想は、どうしたってあるのだ。
 1月31日の大量処分、立高アウシュビッツ粉砕の街頭デモで、2人の仲間を官憲の手にわたしてしまって、あとの集会で多くの人たちが「彼らへの真の連帯は、われわれの闘争そのものだ」といっていたけれど、あたしってば、やっぱりそうしてみんな立川署取り囲み、奪還闘争を組織しようとしないのかと思ったんだ。でも、それだって思うだけ。そうして「蜂起の日まで」という発想の杣(そま)に住む魔物は、一方では「今はその時でない」と<今日>賭けに全額をはたくことにおびえ、一方では、「耐えてゆく」思想性と綱領の獲得に溺れてゆく。こうして現在を明日に売りわたす時、全生活の中で失われる、とりかえしのつかないものは何か。類型は。権力の側の終身刑の鉄則だ。生かさず殺さずうまくやってきた奴ら、「明日という字は明るい日と書くのね」という残酷このうえない歌に「俺たちに明日はない」と叩きつける、そんなこと第3世界でしかできないとうのも実はデマなので、結局何に敗けるったって、こんなに凄まじく暖かい化物やられるほどみじめなことはない。あたしはといえば、スターリニストふぜいに首切られて、殴られ蹴られ、体育科教師どもからは「お前なんか女じゃない」と罵倒され(あいつらは女を知らない。女というのは、もっと強いものだ)それでも極左の方針だし続けられるだけの生活感覚と技術と肉体をもっているわけではなかった。切断された首が視た世界の視野は気の遠くなるほどでかくて、自己否定なんて言うと、自分でうそいってるんじゃないかハラハラ涙が止まらなかった。でも、云々の覚悟がなければ闘えない、とか、云々の立場でなければ闘えない筈だ、とか、「語る言葉がない(ある)」の一切合財、いつだって抑圧者の側の「闘わせない」論理でしかなかったじゃないか。あたしたち、市民社会の甘い汁を吸っているどの瞬間からだってニタッと笑って、ひっそり立ちあがってゆく。
 凍てついた路上で、軍手をはめた番犬たちと、あたしたちと、鉄格子の陰に潜んだ私服との乱れた境界に、「通りがかりの者ですけれど」とかウソついて侵入してきて、したり顔で「先生の言うことを聞きなさい」「静かに勉強しなさい」「なんです、その乱暴な言葉は」とか、ヘドのでるような御託ざっくざっく並べたて、あたしたちの引き裂かれた衣服は視ないことにしていた母親たちーあなか方が間違っている。あたしたちの一人が「平和なんて欺瞞だ」と叫んだ時、ズラッと並んで一斉に、ウキウキと狂信的なまでに笑った母親たちのあわさった歯と歯の間で噛み殺されてゆく叛逆の嬰児は、「母」の大古墳をつくるだけの量になるだろう。ともかく、「生活」の陰に隠れようとしたって誰も隠れられる生活なんて持ってやしないのに、持ったことにしている自己操作で街は一杯だ。
 あたしたち、敵とか味方とか、状況においての一回性ぬきで規定するのやめよう。語っている肉体が忘れ去られれば、言葉は現実感覚でのワン・クッションになり下がる。沈黙がじっと危機的様相をおびて立ちすくんでいるのなら、あたしたち、再び街で出会うことによって、これらの言葉は、かき消されなければならない。あなたの、そしてあたしの肉体のつき刺さった「闘えない」部分の咎科の痛みは、じゅくじゅくとあたしたちを苦しめるだろうけれど、いまのところ痛みを全身にひろげていく以外、まともに他人の顔みて生きてゆく方法はないように思えます。
 あとになりましたが、まったく無断で、あなたの手紙を公開してしまってごめんなさい。どうしても、誰があなたの手紙を受けとったか知らせたくて、この雑誌にお願いして載せてもらいました。あなたの顔をあたしが知らないのは、あたしの恥です。では、お元気で。
2月5日
あんず

以上、「週刊アンポ」第8号に掲載された都立立川高校闘争の記事である。
この古川杏子さんのその後が、「高校紛争 1969-1970」(中公新書2012年 小林哲夫著)に載っているので引用する。

イメージ 4

【「高校紛争 1969-1970」 舞踏家 古川あんず】(引用)
 横山淳が都立立川高校を退学処分となったのは、同校の封鎖に関わったからである。1969年11月のことだ。このとき、4人が退学処分を受けたが、この中に古川杏子(きょうこ)がいた。のちに、古川あんずという名で世界的に知られる舞踏家となる。
 67年、高校1年の古川はブントの「社学同高校生委員会」結成大会に最年少で参加しており、感性豊かな早熟少女として、高校生活動家のあいだでは有名だった。
 1969年10月。立川高校(立校)の文化祭で演劇部、社研部、サッカー部、剣道部の有志が唐十郎の戯曲『由比正雪』を演じていた。客席には唐が主宰する状況劇場の麿赤兒、四谷シモン、李礼仙の姿があった。社研部の古川あんずが状況劇場に電話をかけて『由比正雪』を演じる許可を求めたことから、所属の看板役者が観に来てくれたのである。
 69年の文化祭から1週間後の10月22日、古川たち生徒十数名が校舎の一部を封鎖した。シャッターの内側にはロッカーを並べ鉄線で縛った。スローガンは「反戦、反安保、教育秩序に総叛乱を」だった。26日に封鎖を解除する。
 11月15日、生徒有志が成績評価、処分制度、生徒心得などの撤廃を訴え大衆団交を要求、再び封鎖する。翌日、学校は警察官を導入し封鎖生徒を排除した。
 12月31日、学校は中心メンバーの古川、秋山たち4人を退学処分にした。古川たちは、年が明けて処分撤回闘争を行い、学校内に突入しようとした。古川は教師数人に両手両足を抱えられた状態で、腕をねじられ、顔をつかまれて、排除される。
 70年9月、封鎖、退学になった生徒が中心となって『立高新聞』を作る。2~4面は古川の論文が掲載されている。大量処分が理不尽であることを次のように喝破する。
 「思想を処分するのではなく行動を処分したのだとやつらが『社会的責任』という市民社会のよりよき番犬の標語をうたいあげる時、思想はマスターペイションとしての過去の『学問』のしかばねに転落せしめられ、その『学問の自律』論が『処分』する側の主体の自己切開をもはぐらかす役わりを果たしてきた」
 退学処分を受けた原田武久は古川をこう振り返る。
「-妥協を許さない厳しさを持っていましたが、凜々しくきれいな女性であり、だれからも好かれていました。とくに女子に人気がありました。彼女が書いた文章は絢爛たる筆致で今なお輝きを失っていません。」
 その後、古川は定時制高校に編入して、桐朋学園大学音楽学部作曲科に入学する。舞踏集団の大駱駝艦に入ったのは20歳のころだ。
 2001年10月、古川はドイツ、ベルリンで亡くなった。舌癌だった。享年49歳。
 翌11月にお別れ会が行われた。何度も共演したジャズの山下洋輔、舞台女優として活躍した大駱駝艦の恩師である麿赤兒が並ぶ。麿はあんずの遺影にこう語りかけた。「天使の羽は腕力があまりに強すぎて、あまりに遠くへ飛翔してしまった」(「朝日新聞」2001年11月19日)。「あんず」は天使のフランス語(“Ange”発音はアンジュ)にちなんで名付けられた。

(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は8月4日(金)に更新予定です。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの8回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第3号に掲載された都立立川高校闘争である。この号では教師から見た闘争が書かれているが、第8号にも処分された生徒の手紙が掲載されている。今回と次回の2回にわたり、都立立川高校闘争の記事を掲載する。

イメージ 1

【一教師のみたバリケード闘争 週刊アンポNo3  1969.12.15発行】
都立立川高校 浅野虎彦
10・21は本校でも集会が玄関前の広場で朝から持たれ、熱心な生徒諸君が討論をかわしていた。しかし、いわゆる受験体制中のノンポリが多いため、参加者は少なかった。論理で立ち向かえない教師たちはそれを利用して、全生徒から彼らを浮き上がらすような宣伝をした。
 過去何年かにわたる学校側の非教育的な環境は、生徒諸君が安保・沖縄問題などを真剣に考えることを妨げてきていたが、そうした環境のために集会に参加しようとしない生徒の関心を喚起する目的で、一部の熱心な生徒のグループはついに同日夜中、教師警備の虚をついて教員室1、教室8を封鎖してたてこもった。
ただちに緊急職員会議が開かれた。すると、真っ先に一部の教師集団が(右翼でない)発言し、生徒諸君を暴力学生ときめつけ、犯罪者であるという前提で審議することを提案した。これに対し、右翼系の教師たちも異議なくこれに同調した。またその他の教師連中も身の安全を計るために完全に沈黙し、職員会議は両者の思うように動かされていった。
時日が経過した10月25日、私はこれ以上封鎖を続けることは不利であると判断した。そこで私は連絡をとってバリケードの中の生徒の代表者と会った。私はこの自分の判断を中の人に伝え、彼らがそれについて充分討論し、もし同様な結論に達したならば戦術を転換しなさい、と話した。彼らは結局私の意見と一致したようで、翌26日未明、彼らはバリケードをといた。
これにはバリ中の生徒の父兄までが、教師の暴力的妨害を排除して彼らの封鎖解除を手伝った。彼らは整然として校外へ立ち去ったのである。
そのバリケード封鎖の跡は完全に元の形にもどされており、いやむしろ前よりもきれいに掃除され、もちろん器物の破壊などは一点もなかった。
解除後、教師たちは中に入って破壊の跡の証拠写真を撮ろうと、カメラを持って血眼に走りまわったが、その目的はまったく果たすことができなかった。このことはさらにこれらの教師をいらだたせ、自ら無謀な行動に走り、新聞紙上で笑われるようにまでなった(後述)。
彼らは、このような解除はおとなの指導がその裏にあるに違いなく、非常に長期間に亘って計画されたものであると、さかんに力説した。翌日、会議の席である印刷物が職員に配布された。おそらく連日、宿泊警戒していた教師の中の特定集団が書いたものであることは、以下の文章をお読みになればわかって下さると思う。
『事態の性質について
 69年10月から11月にかけての情勢の中での一連の動きの一環としての政治問題であって単なる学内問題、教育問題ではない。その動きは民主的な組織及び個人に対して分裂と混乱をもたらし、退廃とあきらめにもちこみ、ファシズム的な体制への移行の条件をつくりだすものである。これ故に極左をよそおいながら容易に右翼的諸団体やアナーキズム、ニヒリズムとも、あるいは単なる精神の荒廃(非行的な)とも結びつきうるものであることは、今われわれが目前にしているところである。
 こうした動きはすでに大学では展開されてきたが、大学立法等によって大学を拠点とできなくなった現時点では、高校にまでおりてきて、生徒の歪みや弱さを拡大しながら利用して全国的に高校教育と高校生を荒廃させようとしている。
 従って全高校が狙われているのであるが、とりわけ立高は日比谷、青山、都立大附属等とともに現在の立高の廃校にまで至りうる徹底的な攻撃の目標高の一つである可能性は充分にある。この攻撃に対する闘いは心情だけではない展望をもった統一と団結以外にはない。(中略)われわれはこの情勢の中では教師と生徒の、生徒間の、教師間の団結を強め、はげまし合いながらも、われわれの分裂をきたすようなまた、バリストグループを援助するような部分についてはきびしい批判をもってのぞむのは当然であり、生徒、父母であってもあいまいな部分に対してはきびしい警戒をゆるめるわけにはいかない。』
 以上のような文章が高校教師の間でなんの異議もなく承認され、教師間の共通意志として確認されたというような、そんな職員会議がほかにあっただろうか。

<学校教師の背信行為>
 バリがとかれてから、これらの教師グループは、生徒の中の民青系グループを使って。彼らの方針にそったいわゆる学校民主化案を次々と代弁させ、しかも時々その代弁者を交代させてその陰謀を隠すというような工作も忘れなかった。その結果、ついに彼らの策動は成功し、授業再開へのホームルームが始められるようになった。
 しかし、バリストの諸君は教育の前提となる処分制度、単位、成績表、検閲制度、出席率の撤廃を要求する公開質問状を、百余名の生徒の署名をそえて学校側に示し、その回答をせまった。だが、学校は「君たちとは住んでいる世界が違うから話し合えない」という暴言まではき回答を待つ生徒を残し、夜中12時過ぎ学校を出て行った。
 翌16日も午前中は同様な対立が続いた。午後になると校内にいた教師は、生徒の「話し合おう」という叫びをきかずに帰っていった。ところが、そのあとどこかわからない所で何かを決めた教師たちは、夕刻になって再び隊列を組んで校門に入り、「不退去罪になるぞ」とおどしつつ生徒の引き抜きにかかった。
 事態の重大さを感じたある生徒が、電話で私に急を告げてきた。私がかけつけた時には、何ら険悪な空気はなかったものの、対立はまだ続いていた。私は両者の意見を聞いたうえで、生徒から出されている校長への質問書を学校側が受け取り、生徒集会でそれに回答するよう要求したが、校長は頑としてそれを拒否し、あまつさえ早く帰らないと警官を導入すると恫喝し始めた。私は繰り返し事態の重大さを校長に説き、質問書の受理をせまったのだが、ついに11時校長は「警察の方、私は立川高校の校長です。入ってください」と要請した。こうして警官隊の実力行使が行われ、生徒諸君は校外に押し出されたのである。

イメージ 2

 このことについて言えば、学校は前々から警官は入れないと誓言していたのだし、また組合の校内委員の教師たちも組合は絶対に警官導入に反対するという印刷物を生徒に配っていたのである。だから、この警官導入は絶対に許せない学校教師の生徒諸君に対する背信行為である。

<生徒を車輪にかけて>
 このことで再び事態は悪化した。それにろうばいした教師たちは、警官を入れたのは止むを得なかったという、生徒を対象にした説明会を11月20日、雨の降る中で所もあろうに多摩川畔の空地で開催した。そこで彼らは一方的に学校の意見を押しつけ、生徒の中の質問のあるものには紙片に要旨を書かせて内容を制限し、時間も一人2分に限るという強い姿勢で臨んだ。午後4時となるや、約束の時間がきたと称して教師たちは用意されたマイクロバスに乗り、もっと話そうとバスのまわりをとり囲む生徒を、まさに車輪にかけるようにグイグイ車を動かさせ、居合わせた母親たちの、危ないからやめて下さいと叫ぶ声も聞こえぬふりをして去って行ったのであった。
 このことはさすがに各新聞社も重視した。今まで消極的であった社をふくめて、各紙の都下版はこの事件を大きく取り上げ、学校の卑劣さを市民に初めて明らかにしたのである。あわてた学校は、この記事は事実をまげて報道しているという印刷物をつくり、全父母に速達で郵送したが、これこそ恥のうわぬりをする以外の何物でもなかった。
 以上のように立川高校では、都立の各校に起こっているバリストの中でも全く並はずれて異常な紛争状態を、教師自らが作り出しているのであり、その対策も非常識なやり方を続けて、事態はますます困難になっているのである。
 きょう(11・25)も組合では本部委員会を開いたが、学校管理職が父母たちに配布した印刷物の写しまでが、日頃「赤旗」の購読を勧めて歩く本部委員によって、臆面もなく委員会の席上で配られた。
 このような矛盾を平気でやる教師から授業を受けている生徒が、変革をせまるのは当然のことだろう。このような教師が生徒を説得し、学校を正常化しますから御協力を、と呼びかけるそのごまかしに、世の中の父母はぜひとも気がついてほしい、と私は訴えたいのである。

※ 次回も「週刊アンポ」第8号の「高校生のひろば」に掲載された都立立川高校の記事を掲載します。

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は7月21日(金)に更新予定です。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの7回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第12号に掲載された都立青山高校闘争のその後である。前回のブログの続編として読んでいただきたい。

イメージ 1

【上昇志向を喪失した彼らはいま 週刊アンポNo12  1970.4.20発行】
昨年秋の全国高校学園闘争から7ケ月あまり、各校とも一応平穏に新学期をむかえた。
 昨年の闘争主体であった当時の3年生は、ほとんどが卒業してしまい、現在は各校とも新3年生を中心にして活動を行っている。
 昨秋の闘争の火付け役ともいうべき、東京青山高校でも、全共闘の大部分を占めていた3年生がほとんど卒業したため、現在は、新3年生を中心とした新生全共闘がいわゆるシコシコ型の闘争を行っている。
 しかし、現在の彼らには昨秋のようないきいきとした姿は見られない。顔を合わせるたびに、「疲れた、疲れた」を連発する彼ら、彼らにとって昨秋の闘争とはいったい何だったのだろうか。彼らはこれからどのように生きてゆくのか。
 「高校生のひろば」では、“上昇志向を喪失”したといわれる彼らのその後を、青山高校の場合をみながら、4-6月闘争を目前にひかえた今、あえて追ってみたい。

イメージ 2


「闘争?僕にとって闘争とは何だったんだろう。自己の確認だったのだろうか。」
 卒業していった全共闘のN君は闘争をふりかえってこう語っている。
「僕たちの闘いは原点を求めての闘いだったのかもしれない。」
一学友の処分問題に単を発した青山高校闘争の中で、“原点”を求めて闘っていた彼らに対して、当然多くの弾圧、障害がのしかかってきた。
 彼らの闘いは、処分撤回、教師弾劾などと同時に、いかに生きるかの闘いでもあった。彼らは全生徒に、全教師に、そして自分自身にその問いをつきつけた。 
 数ヵ月あまりにわたる闘争の中で彼らは多くのものを得、また多くのものを失った。
 「教師との断絶は前から感じていましたし、『教師なんてあんなものだ』と思っていましたが、闘争の過程で特に校長なんかとの断絶を感じました。それは、結局卒業するまでついてきちゃって、クラスの謝恩会にも全共闘メンバーだけ呼ばれませんでした。
 やはり、ちょっとさびしいですが友だちなんてあんなものかもしれませんね」と語るS君の表情は心なしかどこかさびしそうだった。
 「バリケードは一個の“理想社会”だったなんて思わないけれど・・・。3年間の高校生活の中でそれだけが頭に残っていることは確かだ。でも、僕の場合、それが単なる想い出としてしかないような気がして・・・。そりゃあ、たしかに楽しかったかもしれない。でも、今の僕にはむなしさばかりが残ってしまった。」
 こう語るY君は。今はずっと土方仕事をしているが、彼は仕事をやっている時が一番楽しいという。

<その後なにがどうかわったか>
 これら全共闘のメンバーたちは、現在はほとんどばらばらになっているが、ときどきふらりと学校を訪れる。そして、校内をちらっとのぞいては前のボーリング場へと消える。
 彼らのほとんどは現在働いている。
 職場は土方からトラック運転手、自動車セールスマン、雑誌記者まで多種多様だが、主に肉体労働者が多い。
 「何とか夢中になりたい。」と異口同音に語る彼らは闘争のことをあまり話したがらない。
 一般生徒、シンパ層は、闘争をどうみているのだろうか。
 シンパと自己規定するIさんは「全共闘の闘いを見て、あらためて自分自身を考えるようになった。私自身も途中から参加したが、それは自分に対する反撥からだと思う。」と言っている。
 青山高校は闘争によって何がかわったのだろうか。
 4月からまた新しい校長が赴任した。教師も、例年の倍以上いれかわっている。また、カリキュラム編成にも変更があり、選択科目の中に独語、仏語、中国語(うち中国語と独語は希望者が少ないためとりやめになった)が新しく加わった。
 しかし、本質的には何も変わっていない。
 それよりも、新二、三年生の中で転校していく生徒が例年にくらべて非常に多いことに注目したい。
 その中のひとりS君は転校の理由を次のように語っている。
 「闘争の中で、いろいろ考えなければならないと思った。1年間ゆっくり考えたい。」
 転校生徒の大部分はたしかに、「青山では勉強できない。」という理由かもしれない。しかし、それらの中に多くのシンパ層がいることも事実である。
 これは何を意味しているのだろうか。
 彼らにできる唯一のプロテストなのかもしれない。

 <彼らはこれから>
 卒業していった全共闘メンバーはこれからどう生きてゆくのだろうか。
 T君はこう語る。
 「なるようになるだろう。その場、その場で思ったとおりに生きてゆく。赤軍のハイジャックにしても、なりゆきでそうなっていたら一緒にやっていたかもしれない。主体性なんかないと思う。すべて状況が設定されて、その中で人間はその状況にあった過去のデータのもとに生きてゆくのだと思う。」
 またN君も「闘争をへて未来への展望がなくなったのは事実だ。これからは、できる限り平凡に、めだたないように生きてゆきたい。僕たちの闘争は正しかったとは信じているけど。」と語っている。
 青高闘争は、いろいろなものを奪い去り、いろいろなものを残した。
 それをどういかすかは、闘争を体験したひとりひとりに課せられた今後の課題だろう。青高闘争とは何であったのか。その問いに対する答えは、何年かのちにでてくるものかもしれない。
 全精力をだしきってしまった彼らは、今年も“何かに夢中になろうとして”どこかをさまよっているのかもしれない。

【高校生戦線 70】
●3月21、22日、全国反帝高評結成大会が東京で開かれ、全国から400名あまりの高校生が集まった。
 大会では、68年9月市岡高校始業式粉砕闘争以後の、昨年秋の全国高校闘争、北高処分粉砕闘争などの総括を中心とした基調報告が行われ、全国中央執行委員会が確立された。
 また、4月―6月闘争を圧倒的に闘うことを確認して2日間の大会を終えた。
●3月25、26日、反戦高協全国大会が、32都道府県、1,600名の高校生を集めて東京の法政大学で開かれた。
 大会では、70年代闘争における高校生の任務、特に労働者、学生、高校生を3本の柱として、高校生の闘いを位置づけることなどを確認した
 また、4・28沖縄奪還デーを全国高校一斉ゼネストで闘うことを圧倒的に確認し、新議長に木村君(青山高)、副議長に太田君(泉尾高)を選出して大会を終えた。
●3月27、28日、全闘高連活動者会議が、全国から30名あまりの代表者が集まって、大阪で行われた。
 会議では、秋期決戦の総括と4-6月闘争の方針などが話し合われ、特に反帝高校戦線の組織化を進めてゆくことを確認した。
●3月30日、反戦高連全国大会が東京麻布公会堂で、24都道府県、100校、約700名の高校生が集まって開かれた。
 大会では、69年闘争の総括、70年闘争の展望などが討議され、反戦高協などプチブル急進主義者の破産に対する明確な対決、4・28沖縄デー拠点高ストライキなどを確認し、新議長に大高君(戸山高)を選出した。
●昨年秋、全校投票によって1ケ月の全学ストライキを貫徹した、大阪府東淀川高校では、3月の卒業式闘争を100名のボイコットで、演壇占拠などでかちとり、現在また4月以降の闘争をめざして学内闘争を闘っている。
 その他、市岡高、高津高、住吉高、春日丘高、清水谷高、夕陽ケ丘高、茨木高、阪南高、池田高などでも卒業式闘争を闘い抜き、全大阪高共闘を中心として。4・28をめざし、現在各校で学内闘争を闘っている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は2月3日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ