今回のブログは、1970年4月6日発行の『週刊アンポ』の記事である。特集は「嗚呼 日本万博大博覧会」。55年前の1970年3月15日から9月13日まで大阪で開催された「日本万国博覧会(大阪万博EXPO‘70)」対する批判記事である。
この万博には6,400万人が入場したとされおり、今年(2025年)開催予定の大阪・関西万博とは大違い、大きな盛り上がりとなったが、70年安保を控えての「安保隠し」との批判もあり、反対運動も盛り上がった。
反対運動としては、この記事にも出てくる万博粉砕共闘会議の反万博デモもあるが、4月26日には太陽の塔に赤軍と書かれた赤ヘルメットの覆面の男が立てこもり、万国博反対を訴えた事件も発生した。(赤軍派とは無関係)
芸術分野では、同時期に前衛芸術集団「ゼロ次元」を中心とする「万博破壊共闘派」のメンバーの1人が全裸で万博会場の正門から突入した事件もあった。(マスコミには報道されていない)
また、万博の前年(1969年)の8月には、関西ベ平連などが中心となって大阪城公園で「反戦のための万国博」(ハンパク)が開かれた。「国家からのお仕着せのバンパクをはねのけて、われわれ自身のハンパクを成功させよう」ということで、万博反対ということもあるが、「反戦」、「反安保」、カウンターカルチャーのお祭りのようなイベントであった。
この時の様子は、ブログに掲載している。
連載No94 1969年夏 反戦のための万国博 : 野次馬雑記
『週刊アンポ』No11 特集 万国博
「万博 牢獄のなかの未来」 鈴木正穂
「世界はひとつ」と人は酔う。進軍ラッパの声高く、万博へ、万博へと草木はなびく。だが、ほくらはインターナショナルを歌えない。鳴呼、世界はひとつ。
<3月15日
朝
新しい未来が誕生>
阪急電車のつり広告。そのえらくバラ色で、妙に甘い響きの「新しい未来の誕生」という宣伝文句に、僕は苦笑する。
<万博を作ったのは労働者だ>
「新しい未来が誕生」する以前、万博会場では、労働者が最後の仕上げに忙しかった。日焼けした顔、白髮まじりの頭。何々組のヘルメット、長靴か地下夕ピ。軍手で作業着は泥まみれのオッサンたち。その時の労働者には、威厳がある。
背広の企業関係者や報道関係者が工事現場に無断で立ち入ろうとするものなら、「コラ!じゃまだ。どけ、危ないぞ!」と叱る。協会本部の食堂においても、泥まみれの姿で飯をぱくつく。そこには労働者のエネルギーがある。
だが、いかにも農民だったと思われる人々がなんと多いことか。
「オジサアン、故郷はどこですか」「青森」「いつ頃からこちらに」「もう、2カ月になりますな」「はじまったら見に来ますか」「いいや、来ません」おそらく、故郷に残してきた妻子のことが思い出されるのか、その50歳ぐらいのオジサンの顔は、暗い。そういう、多くの出稼ぎ労働者の手によって、万博はつくられた。およそ120万人の出稼ぎ者が日本列島をさまよっているといわれる。
祝、万国博。オメデトウ。
しかし、万国博を呪う17人の魂が地下に眠る。そのことを僕は記憶し続けたい。
万博工事による權牲者。
平川岩夫(36歳)兵庫県尼崎市七松。砂川利春(28歳)熊本県芦北郡田浦町小田原。伝法谷市雄(34歳)青森県西津軽郡木造町大字越水字神山。松井基美(41歳)高知県高岡郡窪川町桧生原町。古賀久喜(25歳)大阪市住吉区我孫子東。田中昇(41歳)大阪府吹田市新千里北町。西宮寬(47歳)愛媛県宇和郡御荘町南川。関住光(46歳)長崎県佐世保市早苗町。釜井一義(22歳)熊本県荒尾市北増水。袖川武(38歳)大阪府泉南郡日根村字野々地蔵。山下菊蔵(60歳)。折田照孝(26歳)。古川石松(50歳)。松田定男(33歳)。辻本実(26歳)。松山桂吉(37歳)。飯田善男(35歳)。
全治2日以上の負傷者、292名。
関連事業の地下鉄や高速道路の工事を含むとさらに死者、負傷者の数は増大するにちがいない。
その死者の家族にとって万博とは。
呪。万国博。
その暗い脇の明るい舞台で、スポットラィトを浴びる万博マークもあざやかな白いヘルメットの花、容姿端麗なコンパニオンたちは地図を片手に、笑顔の訓練に余念がなかった。
<戒厳令下の万博へ>
その頃から、すでに警備訓練も熱心に行なわれていた。VIPという重要人物のために、さらに70年安保という政治焦点のこの年に、無事、破壊されることもなく、偉大な大国、日本を誇示するために。寒風吹きすさぶ駐車場で、どうせ多くはにわか仕込みのガードマン、100人ぐらい、5つほどの隊列が、恥しそうにニヤニヤ笑いそうになるのをかみ殺して、指揮者の命令に「オイチニィーオイチニィー」と足をそろえて歩いていた。その行進には、ユーモラスなものがただよう。だが、やおら警棒を抜いて「撃て!」と身がまえる時、寒々としたものが僕を襲う。
そして白いネッカチーフを首に卷き、例の黒靴、青い乱闘服の機動隊員が、5・6人の隊列で地図を広げ、トランシーバーを持ち会場内のパトロール。もはや、自由はない。
さらに、未来の警備体制を先取りするための実験がコンピュー夕・システムを実用化するために行なわれる。巨大な警察都市へのテスト・ケース。
コンピュー夕が4台。ワンタッチ式の非常通報器が83ヵ所。うち30ヵ所はパビリオン内部。放送マイクが653ヵ所。うち非常広報器の役割を果す特別装置つきが57ヵ所。そして、受像機が本部に設置されている監視用閉回路テレビカメラが出入口、駐車場、お祭り広場などいたるところに50ヵ所。
<釜ケ崎から>
僕は、その同じようなテレビカメラのシステムを「人類の進歩と調和」という白々しいテーマとは、まったく反対のところにある、大阪西成区の釜ケ崎で見た。アルコールとホルモン焼きと小便の臭気が充満し、昼さなかに酔っぱらったオッサンが肌寒い陽だまりの下で、酔いつぶれ寝息をたてていた。彼らを監視しているテレビカメラが9台。受像機は西成警察署にある。果敢に釜ケ崎で運動をすすめているFさんは、その現実を「格子なき牢獄だ」と吐きすてるようにつぶやく。
たしかに、きらびやかなネオンがけばけばしく、外観からはまるで温泉マーク風に見えるホテルがたくさんある。だが、それは「ドヤ」で「立って半畳、寝て一畳」の棺桶式、或は、消却炉式と自嘲的に形容する一泊250円の宿屋で、非常口はもちろんなく、そして悲惨なことにすべての窓には鉄の格子がはまっている。そこで生活している人びと、およそ1万数千人。日雇、賃金約1,900円。最も過酷な肉体労働に彼らは従事する。
「松山一郎さん、すぐに家に連絡して下さい。おかあさんがキトクです。妹より」ビラが福祉センターのドアに舞う。
資本がつくりあげた労働者を搾取するメカニズムは、万博工事が始まった頃、釜ケ崎の労働者を建設工事に使わなかった。すでに、労働市場は確立されていて、大企業は下請け、孫請けで釜ケ崎の労働者を搾取することで精一杯だったから。その口実は「ガラが悪いから」ということだったらしい。そして、つまり、新しい労働市場を拡大する必要があったので「真面目な、素朴であろう」農村からの出稼ぎ労働者を万博建設工事に多く使うことによって日本の繁栄を築く。
いびつに、ゆがんだ繁栄。
その状況の中で、釜ケ崎のごく少数だが、ラディカルな労働者は次のアピールを出す。
万国博におこしになった世界の皆さん
日本で有名な「生活館」釜ケ崎ーカマガサキを案内しますー
私たちは「京都」や「奈良」とともに、日本で有名な大阪市内のスラム地区である「釜ケ崎」を見学されるようおすすめいたします。
万国博会場から地下鉄で30分「動物園前」という駅で降りていただくと、すぐそこに「釜ケ崎」があります。
そこには日本の庶民のいつわらない生活があります。人間の匂い、アルコールの臭い、煙草のけむり、怒号、わめき、釜ケ崎こそ日本国民の喜びと悲しみ、涙と笑いが渦巻いています。「釜ケ崎」こそ驚異といわれる世界第2位の生産力(独占資本の急速な経済成長率では世界一)を築いた日本資本主義の歴史的な秘密がかくされているのです。
日本万国博のテーマ「人類の進歩と調和」というお題目が、「釜ケ崎」にどのように結実しているでしょうか。
「釜ケ崎」は日本の資本主義がヨーロッパの資本主義よりずっと遅れて出発して帝国主義になっていく「明治天皇の時代」に第五回内国博覧会が開かれた時にできたスラムです。「富士山」と「釜ケ崎」を見なくしては本当の日本を知ったことにはなりません。釜ケ崎には、約1万8千人の単身労働者と、2、3千人の世帯持ちが生活の根拠をおいています。
とくに午前五時過ぎ、「天王寺動物園」横丁や、南海電車で難波駅から乗って一つめの駅「新今宮」のガード下にいけば、その日その日の「日雇労働者」と「手配師」の労働契約の状況がみられるのです。平均5、6千人が集まります。
「釜ケ崎」に足を運んでいただいて、つぶさに人間として考えていただきたいのです。
釜ケ崎の労働組合は、万博におこしになった世界の皆さんが「釜ケ崎」を見学されることを心からおすすめしますとともに、無料でガイドの役をお引き受けします。(抜萃)
大阪市港区南市岡二丁目12ノ28
(電話06ー583―1072)
全日本港湾労働組合関西地方本部
建設支部西成分会
<ハンバク闘争>
「こんにちは70年!市民、労働者はたたかう!」と大きく書いたたれ幕が束京数寄屋橋のビルの屋上から降ろされ、「万国博ANPO70年まであとXX X 日となりました。(中略)私たちは宣言します。こんにちは70年!さよなら安保!6・15市民解放評議会」の赤や黄や白のビラが、坐わり込んだ人々の上空を舞ったのは、たしか僕が19歳の時、1968年6月15日だった。あの日、数寄屋橋の万国博の電光宣伝掲示板に「万博まであとXXX日」と輝やいていたかは、記憶がない。
69年、夏、「反戦のための万国博」。70年、3月8日。万博まであと7日、大阪は扇町公園。昼さがり、3月にしては肌寒い日だった。200人ぐらいの万博粉砕のために小さな集会が、20人ぐらいの私服警官が見守る中で行なわれていた。
キリスト教館の問題で教会闘争を提起し、万博は日米共同声明の延長上にあると考える反安保キリスト者連合の人々。(彼らは万博開催中、毎月第3日曜日午後3時、扇町公園に集まり、執念深くハンパク運動を取り組み続けることを確認している)そして、台湾館粉砕を中心スローガンとして、毛沢東思想学院、反戦日中、ML派等の日中友好関係の人々だった。
その集会で「アンチ万博」というガリ版ずりのミニコミをくばっていたN君は、「オレ、こんなとこで喋るのは初めてやあ」と言いながら恥しそうにマイクを持った。彼のひとりの友人は前日逮捕されている。彼は次のように書く。
「3月7日、『万国博を迎える市民大会』が大阪、厚生年金会館で開かれた。万博に関する最初の公的な集会であった。小学生が動員され、たかそうなコー卜を着たおばあちゃんやらが参加した。が、大会は無事に終わらなかった。“大会の終りごろ、万国博反対をさけんで若い男が壇上の中馬大阪市長につかみかかろうとし”た。“この騒ぎはごく短い間のできごとで”あったかもしれない、しかし、万博に関する最初の公的な集会は決して平穏に開催され、終了したのではない。(“内は朝日新聞三月八日朝刊からの引用)
この宣戦布告に対して警察当局はどのように対応したか。不当逮捕、家宅捜索、拘留延良というキチガイじみた弾圧をもって。
万博とはなにか。なぜ、粉砕しなければならないのか。『アンチ万博』を発行するわれわれはこう考える。万博とは、企業の国際見本市であり、支配体制の強化の一環であり、私たちの文化ではなく、さらに70年から眼をそらせるためのものであるという分析でとらえきることはできない。それは、もっと深く帝国主義国、日本に根をおろしたものであり、帝国主義の体内深くから、つかわされた怪物である。」
そして、「今、日本人民に最も必要なことはアジア人民の血と屍の上に成立しているだけでなく、さらにアジア人民の血と屍とを再び虎視たんたんとねらう万博に出かけて、1日だけの、恐らくは空虚であるだろう楽しみを得ることでは決してない。出入国管理体制粉砕の闘いにまず立ち上ることこそが早急の任務である」と結ぶ。また、彼はこうも叫ぶ。
「万博期間中に予定されている各国の軍艦の大阪港寄港にこめられた大阪港軍港化のもくろみを糾弾する港湾労働者の声を聞け。
『万国博に各国の軍艦が大阪港に多数長期にわたり停泊し、自衛隊の軍艦が出迎え礼砲を鳴らし合います。軍港化の第一歩を万国博に便乗して行ない、その後、恒常的に自衛隊の基地化されてしまいます。軍港化反対の闘いをつくりだそう。』(塩水港精糖裁判ニュースより)と。」
デモは万博マークの氾濫する大阪の町を進んだ。
そして、彼等は安保万博粉砕共闘会議を結成する。
日中友好運動の中で活動してきたひとりのオジサンは、「二つの中国をつくる陰謀、台湾館と台湾デー粉砕の闘争を入口として安保粉砕の大闘争に合流して行きたい。老兵は老兵なりに体を張って与えられた任務を果たすために、残る生涯をかけて台湾館粉砕を叫びつづけることを誓いとする」と悲痛なまでに叫ぶ。なにが彼をそう叫ばすのか。
3月10日、共闘会議は万博開幕の3月15日、午後2時半に中央口駅に約千人が集まり、会場周辺道路でのデモを申請する。
大阪府公安委員会は、11日「15日は初日で、入場者は60万人を越えるものとみられ、この混雑にデモが重なれば、たちまち滞留が起き、事故につながる恐れがある。中央環状線をはじめ問辺道路もマヒ状態が予想されるので、デモが広域にわたって交通の大混乱を起しかねない」という理由で不許可。再申請するも、ふたたび不許可。
共闘会議のSさんは、「安保闘争とからませ、われわれは強くないが、図体が大きい敵の重さと大きさを利用したい。最初の闘争は、後々のパターンをきめるので、ゲリラが続発することを期待したいなあ」と闘いの前々日語った。
3月14日、開会式。新聞報道を見ると、不思議なことに、右翼大白本愛国党の三人が「唯物的ブルジョア万傅反対宣言」といぅビラをまき、公務執行妨害、道交法違反、建造物侵入現行犯で逮捕されている。もっともく 大日皇誠会の連中は、「日本の祭典万博万歳!日本の国際的信用と誇りを失墜させる国賊!反博共闘会議を粉砕せよ!」とがなりたてていたが。
3月15日。午後2時前後、万博中央口構内は、私服と制服警官と警備員で埋めつくされていた。そこに出現したのが逮捕覚悟の安保万博粉砕共闘会議のおよそ150人。ジグザグデモと坐わり込みで、バンパクフンサィを叫ぶ。制服警官300人が出動。鉄道営業法違反、威力業務妨害、不退去罪で67人が現行犯逮捕。中央口の横にある警備本部からひとりずつ手錠をかけられ、警官に肩をひっつかまれて彼等はトラックに乗せられていく。その情景を、ほとんど混乱を起こすことなく、無表情に、無感動に一般客はながめていた。
この逮捕覚悟で、バンバクフンサィを叫ぶ象徴的な行動に、僕らはなにを見るか。
おなじ頃、お祭り広場の席から釜ケ崎解放戦線のビラがまかれた。だがその場にいたI君の話では、すぐに警官が追いかけたという。
3月16日、午後6時。(以下、朝日新聞による)「国府館三階の展示室で若い男が、かくしていた長さ15センチのスパナをとりだし、いきなり展示室の壁ぎわに飾ってあった蒋介石総統、宋美齢夫人のカラー写真を入れたケースのガラスをたたいた。そばにいた同館のガードマンが前から組みつき、同じ部屋にいた大阪府警の私眼警官が後ろから飛びついて男をとり押えた。男は『これが権力か。』と大声で叫びながら抵抗したがすぐ、手錠をかけられ、威力業務妨害現行犯で逮捕された。同館には、23人の私服警官がおり、事件当時、同室には10人ていどの観客がいただけでさわぎは10分ほどでおさまった。」
驚いてはいけない。なんと私服習官が23人も台湾館にいるのだ。
たしかに、彼らの行動はラディカルで先鋭的だろう。しかし、次のような警備監察に関する特別規則を読むと、僕等は会場の中で、インターナショナルを歌えないどころか、もちろん、万博ナンセンス、安保フンサイと叫べない。デモ、集会が一切禁止されていることに気づくであろう。そう、逮捕覚悟でないと、未来都市では、うっかりアクビもできないのだ。
<資料>
管備監察に関する特別規則
(S44年 8・14制定)
(禁止行為)
第8条 何人も会場内において、次の各号に掲げる行為をしてはならない。ただし、第8号から第12号までに掲げる行為を博覧会に関する諸規制に基づいて行なう等協会が博覧会の運営上必要と認めた場合は、この限りではない。
(1) 立入禁止場所に立ち入ること。
(2) 出品物、施設、備品等博覧会の用に供せられる物を損傷し、または汚損すること。
(3) 喫煙禁止の場所における喫煙等火災予防上危険な行為をすること。
(4) 酒類を提供する場所および休憩所以外の場所で飲酒すること。
(5) 通行を妨げ、または通行の危険となる行為をすること。
(6) 場所を占拠して気勢をあげ、または他人に嫌がらせをすること。
(7) 他人の身体または物件に害を及ぼすおそれのある物を携行し、または投げ、注ぎ、若しくは発射すること。
(8) 拡声機、メガホン等を使用すること。
(9) ポスター、ビラ等の文書を掲示し、または配布すること。
(10) 寄付を募集し、署名運動をし、または調査回答を求めること。
(11) 集団示威運動、集会または演説をすること。
(12) プラカード、のぼりその他これらに類似する物を掲示し、または携行すること。
(13) 前各号に掲げるもののほか、他人に危害を及ぼし、迷惑をかける等会場内の秩序をみだす行為をすること。
(入場拒否)
第15条 入場券、入場証または招待券を所持する者が次の各号の一に該当する場合は、協会は、会場の秩序および安全を保持するため、当該者の入場を拒否することができる。
(1) 他人の身体または物件に害を及ぼすおそれのある物を携行して入場しようとするとき。
(2) 異様な服装をし、酩酊し、著しく粗野または乱暴な言動で他人に迷惑をかける等博覧会の秩序維持上好ましくないと認められる状態で入場しようとするとき。
(3) 犬その他の動物を会場内へ持ち込もうとするとき。
万博は70年安保のかくれみの、或いは眼をそらすためにあるのだという説は正しい。だとすれば、僕らはいかに切りくずしていくのか。
<オリンピック、万博、次は・・・>
70年3月14日、朝、花やかに開会式は行なわれた。
祝砲。
あの大砲の音の記憶は、沖縄のカデナ基地を飛び立つビーゴーニ(B―52)の爆音につらなる。耳をつんざき、腹わたをかきむしる大砲の音。花やかなお祭り広場でファンファーレが高らかに響く時、国連館の前に陣地を組んだ日本国軍隊、自衛隊の大砲は6台並んでいた。70数ヵ国の国旗が旗めく掲揚台から鉄カブトの隊員が赤い信号旗で、隊長に伝令を送る。隊長の号令一下、陸上自衛隊第三師団、姫路特科連隊の隊員は、ダークグリーンの105ミリりゅう弾砲の前に戦闘準備を整える。各砲の指揮者1人。そして兵士5人。白い鉄カブトで、白いネッカチーフをまき、保安隊員という腕章をまいたいかつい兵士が直立不動。
11時40分頃。信号旗が振られた。
「ウテエ!」金色の薬きょうが砲筒にほおり込まれる。僕は緊張して、体をちぢこませ、耳を手で力いっぱい押える。
そう、あの音は、ベトナムの空に響いている。
ドースン・バクーウン・ドースンという猛烈な衝撃音。10発だったか、12発だったか爆弾は飛ぶ。淡い紫色の硝煙があたりに漂い、金色の薬きょうは少しこげて、ぽろりと砲口から落ちる。祝砲は打ち終わった。そして、イチニィー、イチニィというふうな掛け声をかけて、兵隊はもとどおりの場所に直立不動で整列する。
お祭り広場からは、奇妙に悲壮な音楽が流れ、花火が打ちあげられ、風船が舞い上がり、噴水の水がいっせいに出る。
「耳に何もつめてないんですか」「もちろんしてません。なれてますからね」
平然となんとなく誇りに満ちた、ニコヤカな顔をしたひとりの兵士、自衛隊員は笑った。
色とりどりの花やかな民族衣装の、子供たちや、コンパニオンは肩をたたきあって感動に満ちた笑顔で、お祭り広場の開会式の主役だった。さあ、世界はひとつだ、と人は言う。
だが、実はきらびやかなお祭り広場は格子なき牢獄で、戒厳令下の中のひとつの空間にしかすぎない。
荒涼とした会場の外には、制服警官が5、6人、或いは20人ぐらいの隊列で、警らしていたし、トランシーバーを持って陰険な眼つきをした私服が300メートルおきぐらいに立ち並んでいた。それに灰色の装甲車が駐車場で待機していたし、御苦労なことに放水車も止まってる。
会場の中は、うすい茶色のユニホームに身をかためた警備員がそこかしこに突っ立ていて、もちろん、制私服の警官が右往左往。総計、5,500人の警備体制。
それは、戒厳令下。開会式の余韻がまだ会場を包んでいた時、南の空から編隊飛行のジェット戦闘機が爆音も雄々しく、赤、青、白の飛行機雲をたなびかせて、大空に<E X PO‘70>と日本国空軍、航空自衛隊ブルーィンパルスがカッコヨク飛んだ。あのキーンと響く金属音は、ファントム戦闘機がベトナムの空を飛ぶ時の音にちがいない。
オリンピック、そして万博。さて、次は・・・。
それにしても、着飾ったコンパニオンと背広姿の人々でお祭り広場はあふれていたが、泥まみれになって働らいていた労働者は、その日、どこに行ったのか。
<3月15日。新しい未来は・・・>
もしも、70年3月15日の朝、新しい未来が誕生していたとすれば、僕はあれほどまでにけだるく、疲れていなかっただろぅ。
コンピュータの60万人の予測が間違っていたとしても、猛烈に多くの人々が歩き、もくもくとパビリオンの前に、食堂の前に並んでいた。秋田県なんとか教会や農協旅行のたすきをかけ、モンペ姿のオバサンたちが、旅行会社の旗をめじるしに、ゾロゾロ歩き、修学旅行生たちは胸にワッペンをつけ、行儀よく引率の先生の指示にしたがっていた。それに、ほとんどの人々が手に手にカメラをぶらさげ、コンパニオンの横でニヤニヤしながら「ハイ・チーズと笑って」それは、ちょうど有名な観光地だ。実に奇妙なバビリオンがせせこましく密集していて、あれがもしも未来だとすれば、お化屋敷に、遊園地、産業見本市に、博物館、そして、動物園プラス百貨店がある都市を想像すればいい。それで、すべてはいいつくせる。
しかし、それにしても、なぜあんなに多くの警備員が立ちならび、警官がパトロールしているのか。もちろん反対闘争で危険だと思われるパビリオン(アメリカ、ソ連、キューバ、南ベトナム、中華民国、大韓民国)には、トランシーバーをもった私服がウロウロ。
ニコヤカな笑顔を絶さないコンパニオンは、赤や緑や白の帽子をかぶり、ミニスカー卜に白いアミタイツ。或いは、パンタロンに、ハンドバック、「オハヨウゴザイマス。ヨウコソイラッシャイマシ夕。」ニコヤカにニコヤカに笑い続ける。笑い続けなければならない。痛々しく、いじらしいほどまでの微笑。つくり笑い。彼女はあなたに笑っているのではない。たとえ、つくり笑いであるにせよ。
子供たちは、歓声をあげて、眼を輝やかして、エキスポランドを飛びはねる。つきそいのパパやママはなんだかゆううつそう。休日の動物園か遊園地の風景。
たしかに、エクスポは白い肌、黒い肌、黄いろい肌の人種のルツボにはちがいない。コンピュータは100万人という外国からの見学者の数を予測するが、その数字は驚異だろう。彼、彼女たちは侵略軍の兵士、占領軍の支配者として、日本にやって来るのではない。或いは、被侵略者として、強制的に連行されて来るわけでもない。だから、そこには希望がある。たとえば、チェコスロヴァキアから、4人の青年が徒歩で大阪まで歩いて来るという蛮勇には感動する。そして、もしも、ハニカミヤの日本人たちがうれしそうに、カタコトの外国語で、各国からの観光客に話しかけるとすれば、愉快だ。
<らぶ・いん・エクスポ>
そこには、人間がいる。完壁なまでのコンピュータ管理体制と、多くの警官が会場を制圧していたとしても、そこに歩きまわる人間がいる、というただひとつのことに僕らの未来を睹けよう。
僕は、いかにこの地球上にたくさんの友だちを、恋人をつくるかと夢想している人々に共鳴する。それは、僕自身の未来に対するひとつのイマジネーションなのだが。つまり、いかに国家のわくを乘り越え、個人的な人間のつながり、広がりをつくりあげることができるかということへのプラン。つまり「日本人は偉大な民族である」と言う馬鹿がいれば、その論理を、どのように拒否し、僕たちの「人間は平等である」という思想をうちたてることが可能かどうかの問題。それには、実際、異邦人と顔を見あわせなければならないだろう。その場は、主催者が意図していようと、いまいと、ひとつは万博になる。単なる美談としてではなく、それを逆手にとって、民衆の側のエネルギーで新しいコミュニケーションを、僕等のためにつくりあげることができるとするならば、未来はまだある。
だが、新聞報道によれば、韓国では総連系の人々に近づくなという思想教育が万博に来る旅行者に対してなされているという。またチェコスロヴァキアからは、秘密警察が来ているという情報も流れている。うわさとしても、それは、ありえることだ。ここにも暗い政治の陰がおちる。闇の中で、秘密警察の陰険な眼がひかり、さらに、日本の警察のギラギラとした眼が万博会場を被う。その中の偽りのお祭り。
しかし、いずれにせよ日本政府の威信をかけて、会期中、様々なアクシデントがあるとしても(すでに空中ビュフェの故障などがある)万博は、お祭りムードの中で9月13日に、盛大に幕を降ろすであろう。
なかには「後家のふんばり」でも行かないという人々もいるだろうが、風かおる五月の連休には、50数万人もの人々が「食料と寝袋とシビンを持って、万博へ!万博へ!」となびくにちがいない。延べ、5,000万人の入場者があると予想される人出は、さながら現代における民族の大移動だろう。さらに、コンピュータは、会場で50名弱の人が病死、あるいは事故死することを予測しているが、「命をかけて万博へ!」という悲壮な決意のもとに、大移動する人々の姿は、実にユーモラスで、平和的だろう。
その民衆のふれ合いに賭けるか、それとも、民衆を踊らすために笛を吹く政府の甘い言葉に耳をかすか。そして、僕らにとって「70年」万博とは、いったい何か。
(終)
【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
「創出版」のリンクはこちらです。
昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。
目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]
【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき重版決定!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!
「模索舎」のリンクはこちらです。
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は1月31日(金)に更新予定です。