野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、去る2月8日に89歳で逝去された最首悟氏(元東大助手共闘、和光大名誉教授)を追悼して、『朝日ジャーナル』(1971年1月29日号)の最首氏の記事を掲載する。
最首氏については、2015年6月に「10・8山﨑博昭プロジェクト」主催の集会で「いのちを考えるー戦後を生きて」という題で講演していただいた。

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(講演する最首氏)
この講演の内容は以下のブログに掲載している。
No392  10・8山﨑博昭プロジェクト第二回講演会「いのちを考えるー戦後を生きて」報告 前編
また、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビューにも協力していただき、私を含めて数人で2024年にオンラインで3回インタビューさせていただいている。
そんな縁もあり、今回追悼記事を掲載させていただいた。
この『朝日ジャーナル』の記事は、「激動の大学・戦後の証言」という連載の最終回である。最首氏の原点ともいえる「60年安保闘争」への関わりについて書かれている。
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【激動の大学・戦後の証言 「60年安保闘争」 最首悟】
安保の年ーー1960年
春を迎えた東大教養学部の構内は、入学試検に合格して歓喜にみちた新入生の群れであふれていた。
しかし、これらノンポリの学生たちも、間もなく安保阻止の隊列に参加し、デモ行進のなかで解放感を満喫するようになる。
やがて運命の6月15日、多数の学生が国会周辺で武装警官隊に襲撃されておびただしい血を流し、東大生・樺美智子さんの命が奪われた。
*****
これは、あのあいつが、どうしてああなったのか、それにしても、やっぱりどうしようもないと、1960年から61年にかけていわれた一学生の安保闘争始末記(になるか)である。
1959年、東大教養学部理科ー類入学、適度にシニックで、適度にむなしくて、それでいて良識派で、東大生であることに、十分よろこびと満足を覚えている。要するに、わたしは一般学生とひっくくられるなかでも、その代表格みたいな東大生であった。
*****
1960年3月3日 一次試験の日。去年の事を思うとまさに感概無量。狭い東大前の駅はあふれんばかり。その中を歩いていると、久しぶりに入っていてよかった、誇りとも安心ともつかない何物かを感じる。・・・去年の発表の日、感激を抑えきれず”あ、玉杯"を歌いながら家へ帰った時のことを思い出す。あの夜の家中の喜び、銀杏並木の下で胸をはずませた入学式、時計台の下に咲き誇っていた赤いツツジの花ーーあの頃は全てが歓喜に満ちていた。しかしあれから一年、僕は一体何をしてきたのだろうか。政治、社会に対する目を養った事は一つの進歩だったが、その他は、学問的に特に向上したとも思えない。学生運動でもアウトサイダーであった。受験時代、あれほど読みたいと思った本さえ、ほとんど読まなかった。大学の一年間の生活は確かに楽しいものに違いなかったが、同時に撲の全てをとかしきってしまったようだ。二年こそ・・・。

ノンボリ学生として
これは東大教養部学友会の発行する雑誌『学園』の1960年新人生歓迎号に載った匿名氏の(多分、編集部員の)日記の一節である。当時の一年間の大字生活を経たばかりの、ごくふつうの学生の感慮が、ここに集約されている。わたしも内面記録や日記をつける習慣があったら、これとほとんど同じようなものを、書き残していたかもしれない。
59年12月、わたしは学友会のクラス選出理事になった。サークル間の予算の配分、駒場祭をはじめとする各種行事を主催することなどが、その任務だった。当時、教官理事を含んだ学友会と自治会は、犬猿の仲であった。より正確には、自治会執行部および常任理事会は、政治とかかわらない運動部理事を主軸とした無害な学友会理事会が、クラス活動重視の方針を掲げる方向に移っている事態を、自治会きりくずしの攻勢とみなしていたのである。自治会側から見れば、学友会は端的に大学当局と結びついた右翼であった。
ーー駒場は学生運動のメッカとも言われており、我が教養学部自治会は、誇るに足る活動を展開しておりますが、現在の運動の主眼は飽くまでも、政治活動にあり、日常の学園内の地味な活動は忘れられかねません。一方、学部側からは、学生生活を円滑なものとするために、いわゆるクラス活動を奨励しております。こんな事情から近年クフス関係から会員をまとめて行こうとする動きが、学友会ではますます盛んになってきました。
ーー学友会は矢張り、サークルを母体とした領域でしっかりしたものになり、クラス活動は全般的に自治会の下で行われるべきだ。ところが、現実を考えたさい、 残念ながら、果して、自治会が駒場の全学生の真の代表と認められるでしょうか。
*****
このような主張が学友会の印刷物に載っていることから、自治会側が学友会の能動的な御用組合としての役割を攻撃することは、当然であったろう。しかし、わたしたちノンポリ学生にとっては、それは自治会の理不尽さとしかうけとれなかったのである。
わたしはやがて『学園』の新入生歓迎号で、初の対外的文章を発表するにいたる。
――クラスこそ僕達全駒場生に平等に与えられた場なのであり、僕達のもつ最低の権利ともいえるものなのです。クラスという場を活用出来るか否かは、皆さんがこれからおくる駒場の生活に、多大の影響を与えるだろうということができます。皆さんがマスコミなどから知識を得られている駒場の自治活動にしても、その底辺はクラスにあるのです。クラスから選出される代議員により構成される代議員大会が、自治?動に対し最高の権力を有しているからです。クラスのもつ機能を正しく把握すれは、自治会幹部の浮きあがり等というのが、そもそもナンセンスであり、僕達の責任?避に他なりません。しかし僕達が真剣に取っくまなければならない自治活動を云々する前に、それを盛り上げるクラスの原動力について語るべきだと思います。
――たしかに駒場には幾多の問題があり、それも皆さんがすぐにぶちあたる問題が非常に多いといえます。しかしそれを「乾いた学園」などと一言にかたづけて、我関せずの態度をとる学生こそ問題だといわざるを得ません。自治会、学友会、恊組、学生会館設立凖備学生委員会、学内セミナーなど、表面に表わしている行動形態は異なっても、その目的は、よりよき学園づくりにあることは言うまでもありません。この諸団体に対し、皆さんはクラスを単位としてその意向を表明し、直接にその行動を規制する権利があるのであり、またそうするのが義務であると思います。

第三者的な受けとめ方
学友会の準公式見解とはいえ、それは同時にわたしの意識のありようであり、授業以外には関係のなかったキャンパスに、活動のとっかかりを見出し、倦怠から脱出を図かろうとする表現だった。クラス活動うんぬんについては、また別の側面があった。クラス活動重視をうちだす学友会理事の内部でも、寮生、下宿住い、自宅通学生では意識のちがいは、はっきりしており、クラス活動重視論をもっとも主張するのは、自宅通学生であった。
もともと政治的意識、共同体的意識は、寮生と通学生では比較にならない落差があり、通学生のなかでも下宿と自宅ではまた落差があった。単純化してしまえば、寮生にはクラスは必要でなく、下宿住いは入学当初からなんらかのサークルにはいり、サークルにもはいらず教室と家の往復運動するのが自宅通学生という図式が、クラス活動必要度を反映し、また勉強態度、遊び様式、学生運動へのかかわり方などを規定しているといってもよかった。
わたしは自宅通学生で、千葉県市川市からかよっていた。「あのあいつが・・・」というのは、学生運動活動家の立場からすれば、「あの学友会右翼官僚が ・・・」であり、クラスでいえば、「あのコンパ好きな世話男が・・・」を意味していた。
しかし、わたしは学友会理事になったことによって、別に積極的にクラスで立候補したわけではなかったが、内面では少しずつ地すべりを起しはじめていた。
そのころの安保反対闘争といえば、警職法改悪反対国民会議をひきついだ安保改訂阻止国民会議は、第三次、第八次統一行動をのぞけば、依然として低迷していた。安保は重い、なるほどねえと、第三者的にうけとめながら、安保改訂反対にはかわりないという心情は、どう説明すればよいか。わたしは一般学生の典型でありながら、安保改訂などまたとんでもないと思っていた。安保改訂阻止よりは、安保反対なのである。しかも、どうしてそうなのか展開してみろよといわれれば困ってしまうのである。
デモには何回か出かけた。感激することはなかったわりに、違和感はいつも残った。前出の匿名の日記のうち、5月15日の項も多分に共有するものがある。
1959年5月15日、全学連安保阻止大会5千人結集、駒場は自主的授業放棄で参加。
――駒場からは、千名近くが参加した。日比谷の野外音楽堂での中央集会には失望した。安保改訂反対のスローカンと同列に岸内閣打倒をはじめとする数々のスローガンが10近くもかかげられ、議事の途中に、ハチマキ姿の雑誌社の労働組合の人達がやって来て、 ストライキの報告をし、カンパをたのんだ。学生の安保改訂に反対する集会に雑誌社のストライキが関係あるのか何か嫌な気がした。壇の上に代わりばんこに出て来て演説をブツが良く聞きとれない。そのうち「大会スローガンの採択に拍手して下さい」といって10近くあるスローガンを一つずつ読みはじめた。僕は最初の安保反対のだけ拍手して、あとはしなかった。ふとかたわらをみたら、どっかの大学の幹部らしい奴が、赤旗を膝にはさんで立てて、となりの学生と何か人のうわさをしながら手をたたいていた。また嫌な気がした。
そう、スローガン一つ決めるのに、代議員大会では、ことさららしく議場を閉鎖してまで厳密に採決するのにくらべ、中央大会となると、どんな大会宣言、スローガンも、拍手しようがしまいが、みんな満場一致できまったことになるのだ。これ立派なサギである。

籠城事件がきっかけに

クラス討議は低調だった。活動家のクラスまわりがくると露骨に冷たい空気が流れるようなククスであり、安保賛成をのべたてる奴はいないけれども、条約審議や学習などまっぴらだったから、討論の起りようがないのだ。行動形態についても自主的授業放棄レベルでは、教師に授業をやめてもらうかどうかが最大関心事であり、とどのつまりは、ジグザグデモは是か非かという論議でボソボソとくりかえすことになるのである。
ちょうどその時期に、安保改訂阻止闘争が、というよりは、全学連が一挙に身近になる事件が起った。全学連の清水丈夫・書記長、東大法学部緑会の葉山岳大・委員長に逮捕状が出て、2人が駒場寮に立てこもった“清水・葉山籠城事件”である。
突如、クラス討論がふっとうした。清水丈夫君をかくまうかどうか、警官隊の人構を阻止するのかどうか、問題の重大性よりも、みんな興奮してウキウキしはじめた。11月27日の国会内集会の評価をめぐるモタモタした論争などけしとんだ。
安保闘争といえば、「挑発にのるな!」とすぐ口から飛出してくるほど、"桃発“という,言葉は乱発されたが、 わたしにとっては、11月27日がその言葉を聞きはじめた日であり、清水籠城事件では、むろんその言葉はさかんに飛びかっていた。しかし、その声をつぶすように、興奮の波が寮からはじまって全学に浸透していった。また先の日記を借用する。
12月8日 今日あたり警官隊が来るそうだというウワサ。北寮の前は、報道陣の車が事あれかしと並んでいる。なんとなくワクワクする。もし今、警官隊が来たらスクラムを組んであくまで阻止するかと聞かれたら、はっきり、する、と答えられる。大学に入ってから、これ程学生運動に対してはっきりした考えを持った事は初めてだった。
12月9日 昨日の代議員大会では、清水君を10日まで守るという事になったが、それ以後どうするかについてはうまくごまかしてある。ビラを読んでおかしいと思ったが、やほりこれについては不満の人が多いようだ。こんな情勢になっても、小手先でごまかして、後は成行にまかせようとする自治会側の態度は反省すべきものではないか。
12月10日  清水君を擁してデモ。朝から興奮の一日だった。清水、葉山両君とも逮捕された。何か考えなくてはいけないと思いながらも疲れて、それともまだ気が落ち着かないのか、考えがまとまらない。
12月12日 マスコミの言う良識とは一体何だろうか。10日以後の事をはっきりしなかった代議員大会の決定に反対して署名運動をはじめた事まで“良識派の勝利”などといっている。・・・感情的に同じ大学で学友を守ろうと同情を働かせるのが当然なのではないか。もし、ああいう行き方がマスコミの言う無関心派が転じた良識派であるなら、僕は良識派になりたくないし、なることも出来ない。

プントが与えた驚き
感情が働きだしたことによって、このノンポリ氏にも大きくいって安保闘争へのかかわり方に微妙な変化が生じている。わたしにとって、もっとも感情が動いたのは、寮を出てきた清水の顔を見たときであった。天上人、イデオロギー武装を強固にしているはずの全学連の闘士の顔は、血の気がひき、やつれていた。ああ、彼もおれたちとおんなじだと思ったとたん、わたしは安保闘争に自分を賭ける下地の下地みたいなものをつくったのである。
ブントの誠実な活動家・茅野寛志(のちに寮でわたしと同室となり、彼から大きな影響をうけた。60年10月に病死した)は「寮間の学内集会にも5、6百名が集り、清水も挨拶した。しかし長いろう城生活でかなりやつれ、青白く、また感動が激しく、切れ切れの、力の何となくない挨拶だった。少しみじめに思えたが、止むを得ないのたろう」。
と、遺稿集『残さるべき死』の中にこう書きとめているが、毅然とし闘士ぶりを控え目ながらもとめる心は、やはり大衆を意識してのことだろう。そして、疲れきってしまった闘士を見て、かえってたかぶる大衆がいることに、たぶん、彼は思い及ばなかったのだろう。
1月16日、わたしたち学友会の理事は神奈川県の真鶴で、合宿していた。テレビで羽田ロビー占拠(本誌71年2月26日号参照)の報を見ながら、何を馬鹿な・・・という思いと、たぶん、馬鹿は承知で主力を投人し、体をはってがんはるブントへの驚きが交錯した。何を馬鹿な・・・で終らなくなっただけでも、わたしの内面では地すべりを起しているのである。
その年の3月、学友会がクラス活動重視の方針に基づいて、力を注ぐことにした新人生オリエンテーションの企画ができあがり、寮食堂で文科、理科二回にわけておこなう新人生歓迎会に、自治委員長挨拶がなくてはかなうまいということになった。自治会は難色を示した。すでに臨戦体制にはいっくる自治会は、独自に戦闘的オリエンテーションを考えており、飲み物つきのテレテレした歓迎会などに自治委員長を出すわけにはゆかないのであった。
わたしはオリエンテーション担当として、 自治委員長・西部邁の説得にあたった。自治会と学友会の有機的連携の必要性にはじまって、決め手は自治会主催で全新入生があつまるか、歓迎会の犯罪性をうんぬんするまえに会場にのりこんで、その雰囲気をかえようと、なぜ考えないのかであった。西部は承知した。そして、それは学友会と自治会の対立の雪どけのはじまりであり、わたし個人にとっては、のちにデモで走っているときでも、ぴったりブントのオルガナイザーがつき、共に走りながらオルグるという事態にまで発展する素因となった。

闘いなき理論は無力
新入生歓迎会での西部委員長の挨拶は、語りつがれる名アジテーションになった。この演説と、4月18日におこなわれた清水幾太郎の講演「安保闘争の意義と進め方」と、4月23日、自民党の衆院安保委の中間報告をもとめる動議提出とが、4・26ストライキ闘争をもたらした三大要因であると、分析した活動家もいた。結果として野次、怒号のない西部演説の実現に一役買ったことになったわたしも、時間切れのサインを出したりしながら、身を入れて聞いた。
だいたいデモへ出発する前の集会での演説などは身を入れて聞かないものだし、また野次と怒号にみちた代議員大会での発言は、聞えないことはないにしても、聞こうとする意欲は喪失してしまうものである。また行動提起があらかじめなされており、クラス討議の結果が、代議員一任とならずに、ある行動をとることを選択してしまえば、提案説明やら一般討論やらを聞く必要はないのだ。
たから、ある代議員が緊張しているのは、クラス決議をやぶろうとしている場合か、クラスがまとまらなかったか、もともとクラスが無関心で、討論などされない状態のまま代議員大会に出ている場合か、修正案がその場でどんどん出される場合であって、そのいずれもが代議員制度の崩壊か逸脱を意味しているーーという奇妙な事態が生れるのである。
わたしは、西部演説を身を入れて聞く機会にぶつかって、感動した。それは一種の根性論であった。「根性をもちなさい」というのではなく、「おれは恨性をもってやる」論なのであった。理論なき闘いは盲目であるが、闘いをはなれて理論は無力である、批判の武器は、武器の批判に代ることができぬ。労学同盟をめざしながら、なお別個にたって共に撃つ視点にたつ学生の独自で妥協なき直接的抗議行動なくしては、もはや復活した日帝のあらゆる侵略と抑圧の出発点である安保改訂を阻止するきっかけはつかめぬ。おれはその先頭にたつ・・・。
それ以来、もう10年という歳月のフィルターをかけているから細かな点は忘れたが、西部の演説はそんな趣旨だったろう。わたしは西部の真情あふれる語り口に感激し、そういう奴がもっている理論や思想はきっとそんなに間違ったものではないだろうと考える同路に一歩踏みいったのである。反米愛国など冗談じゃない。おれに祖国なんかあるものかーーという単純な反発をのりこえさせてくれるような、真情のこもった共産党員に出会っていれば、わたしはおのずとちがった自己形成をしたかもしれない。ノンポリがどのようなポリになっていくかの契機には、ある具体的な人物が決定的にかかわっている。

肉体を通して解放感を
わたしは、我を忘れてデモ暮しまで、もうちょっとのところへきてい た。実際、そうなるには、自民党岸政府の安保委強行突破策動への怒りと、ストとはこんなに楽しいものかというおマツリ気分の4・26ストと、焼香請願にたいする反発と機動隊にぶんなぐられる経験が必要だった。学友会の仕事と、少し毛のはえはじめたクラス活動家として、わたしはすっかり忙しくなり、生きがいみたいなものを感じはじめ、忙しくなるにつれて寮に泊りこむ日がふえた。寮に泊るたびに少しずつポリ化し、通学生がもつ日常時間感覚はくずれてゆく。そして、とうとう、結核の既応症と喘息のため、遠距離通学はふさわしくないから寮内の結核予後部屋にはいることは妥当ーーという学生診療所のお墨付きをせしめて、強引に駒場寮にはいりこんだ。
それからは一潟千里で6・15をむかえる。ポリ化したといっても、それは、国家権力なるものが透けて見えてきたような感じをさすのであり(それはそれで、ノンポリにはふたたび帰れない決定的な心のバリケードだったが)、あいかわらす政治用語はつかえず、まして政治的に人を説得することなどできなかった。人を説くことがまだできない自覚は、いかに自分の肉体を酷使するかにつながる。肉体運動を通して、わたしは一つには「生の拡充」を、解放感を満喫し(一口にいって、デモは偉大なレクリエーションだと書いた人もいる)、ひとつには人身御供的な志向をするようになっていった。
6月14日、自治委員会で「国会内抗議集会」提案を可決。前日までの数日間どこかでおこなわれているブントの激論の様子は、寮にいるわたしたちに伝わってきていた。そして、議論もヘチマもあるか、やるほかないじゃないかといきまく、いわゆるブント・シンパの過激な大衆の一人に、わたしもはいっていた。そういう者はみんな、とりたてて能もなくと思い、わが身一つを賭けて最後の機会をと思う連中だったろう。
しかし、わたしたちがブントの決定待ちだったことには、かわりない。この日、当時の太田総評議長は、アイク訪日当日のデモ中止を社共両党に要望して、事実上、安保闘争はしりつぼみとなるお膳立てが、ほとんど完了した。
6月15日、素手の者が、武器をもったむきだしの憎悪に襲われて起した阿鼻叫喚の図。襲撃した者??主として第二、四機動隊、第七方面警官隊、維新行動隊。襲われた者??市民、学生、教授、大学職員団、報道陣。学生の暴動化、機動隊との乱闘なる言葉、日本語の乱用の典型を示す。一方的にうちのめされ、たたきのめされ、わずかな抵抗は、敷石200枚、それさえ投げかえされ、ヘルメットなしの被害甚大。まさに大量の人身御供、人柱であった。
わたし自身は、午前1時、3?目の襲撃にあって、ひたすら遁走できた体力か残っていたために、大きな負い目をしょいこんだ。第1回は国会の南通用門右側、第2回は構内の衆議院側に位置していたわたしが、活動不能の傷を負わなかったのは偶然であり、自分に対してやましいことはない。しかし、最後の催涙ガスに目をつぶされ、恐?のかたまりになって逃げた行為は、おまえは人身御供となるはすじゃなかったのかーーという問いをともなって、わたしを突きさした。わたしはこの次こそ逃げまいなどと体をかわすことができずに、ずっと逃げた事実にむきあっていなければならなかった。
一年後の冬、わたしはまだ駒場にいて、どうしようもない奴といわれている。その証左の一つとされた文を長く引用して、その説明にかえたい。引用文は、第25期自治委員長選で、社青同・江田五月に50票の差で敗れた社学同・山崎修太に対するわたしの署名入り推薦ビラである。

満身の力で壁をたたけ
――警官が学生を猛烈にぶんなぐるとき、何も支配者階級の暴力装置の一員としてぶんなぐっているのじゃない。学生という存在、ぬくぬくと生活している存在に対する憎悪だ。労働者の場合も同様である。かしこぶって労働者の中に入って、"ともに闘おう“。労働者の学生に対する本質的な憎悪の念すら気がつかぬおめでたさ。「革命的労働者はわれわれをうけいれる」。何たるたわごと!そんなたわごとを堂々といえるほど、われわれは鉄面皮じゃない。
ーー道化いわく、それはおかどちがいだ、学生運動は学生の利益を守るためにあるのです。大いに結構。だが動かないぜ。せいぜいやってくれ。学生がなりたってゆかないような不利益を支配者が出すものか。こんなことを何時間続けていっても同じことだ。それを半年、一年続けると完全な無表情の仮面が完成するんだ。が、その下にあるのは、グロテスクなドロドロとした苦汁である。それを政治的無関心だとか、幼な子よと呼びかける連中のノッペリした面の皮をひんむいてやりたい。(略)われわれは全くの袋小路のなかにいる。どうしようもない状態だ。では、何故発言するか。どうして自己表現するか、完全な沈黙からぬけだそうとするか。
――われわれが「牢獄と一体になっていることをやめて、牢獄のなかにいること」を意識してしまったからだ。牢獄と一体でいる限り何と幸福であったろう。牢獄自体がもがくなんてことはあり得ぬからだ。しかし、いったん個々別々の牢獄のなかに自分が身をおいていることを気がついたら、壁をたたきつづける以外に道はないのだ。どんなに休み休みであろうとも。出るためにたたくのではない。個室にいれられた各人は、一緒にたたいたらどんな事態がおこるかさえ知らぬ。カクリされた者に組織論などない。ただたたくのだ。疲れはてねころんでも、またいつかたたきだしているんだ。たたかざるを得ないんだ。
ー―ここには、結果を予想できない、純粋な行動だけがある。それ以外はすべて欺瞞である。空想にふけることも、じっとしていることも、全て牢獄から誰かがいつか出してくれるという期待の形態である。そこにとどまれぬ何かがある。理論でも感情でもない何かがある。それによってわれわれはたたきつづける。われわれは、共通の言葉のいかにとぼしいかを自覚する。
――しかし、最後のコミュニケーションはいまだ存続する。それは、全ての幻想をすてた、たたきつづけるという行動である。統一の真の意義、ぎりぎりの線までさがった統一はここにしかありえない。
満身の力をもって壁をたたけ!たたきつづけよ一
(さいしゅ・さとる・東大助手)

【お知らせ その1】
重信房子さんの新刊本です!

26.4.17「獄に暮らせば」カバー&帯

『獄に暮らせば』「21年7ケ月の獄中日記から}(作品社)3,520円(税込み)
2026年5月29日刊行予定。

日本も世界も、もっとより良いものに変えたい!
そんな思いで学生運動に身を投じた日から、思い出さずにいられない革命と解放闘争の日常。
連合赤軍事件、レバノン、パレスチナ・ガザ、そして新たに出会った獄中の人々、さらに次々襲い掛かる大腸癌、小腸癌、子宮癌など病魔との闘い。
本書は、著者による2022年5月28日朝、満期出所時までの獄中ドキュメントであり、かつ元日本赤軍リーダーが、一人の人間として、戦争と平和に向き合い、人々の命を思いやった、その心情と葛藤を綴った2000年11月8日から2022年5月28日までの闘いの記録である。

【お知らせ その2】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その3】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年6月13日(金)に更新予定です。

今回のブログは、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
また、政治闘争の記事については、大学新聞ではあるが、かなり詳細に書かれているので、記録的価値は高い。
原稿の分量が多いため、4回に分けてブログに掲載してきたが、今回は最終回1973年から1974年である。
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(『一橋新聞』1970.9.16)

『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉〈Mの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1973年
1・18 東大安田決戦4周年
学生運動の飛躍をかけ闘わる
プロ統派全学連を中心とする1・18実行委員会は午前中東大当局のロックアウト攻撃を粉砕して安田講堂前集会、午後6時から清水谷公園で総決起集会を行い、対政府・文部省闘争を全国から結集した約300名の部隊で闘い抜いた。

川口君虐殺糾弾!早大解放の闘いは進む
昨年11月8日川口大三郎君が革マル派に虐殺されたことを契機に早大四万学友は早大解放の闘いに着手していた。この日中核派は「カクマル殲滅!早大解放!」の闘いとして、早大近くの公園から早大正門に約1000名で進み突入をめざしたが、官憲の弾圧に阻まれ約60名が逮捕された。早大構内では自治会運動の再生を目指す臨執、新執、全学行動委員会の学生と革マル派が対峙したが、全国動員の革マル派300名の敵対に屈せず、当局の試験攻撃による正常化攻勢を粉砕し、総長団交を勝ち取るための総決起集会が克ち取られた。政経、1文、2文でストライキが決議され、試験を阻止する闘いが全学に波及しつつある。

自衛隊の放逐へ 住民登録・協力業務拒否闘争
1月の立川闘争
1月以降「否の会」「芽の会」「若葉町市民会議」などの市民団体、および労働者、学生らは連日立川市役所に詰め、自衛隊の住民登録を事実上阻止し、阿部立川市長に最低限自衛隊の住民登録を保留させ、更に団交を継続し、募集業務などの協力業務を拒否し、住民登録拒否の闘いに対する弾圧はしないことを要求した。
ところが全国革新市長会は「基地立入調査権」を政府に要求し、阿部市長はそれと引き換えに住民登録保留を解くと言い出した。「基地立入調査権」の政府からの回答がないまま保留解除に踏み切って行った。市長選では「自衛隊が強行移駐してくるならば体を張って阻止する」と言っていた阿部市長は、議会主義に屈服し市民を裏切って行ったのだ。
2・12,15阿部市長の官憲導入
による階級的敵対を弾劾!
2月12日は、立川市議会議長を先頭に政和会、新政会、共産党の議員団が防衛庁関係者と懇談するため貸し切りバスで出かけようとするのを、市民が座り込んで阻止しようとするのを、市議会議長の圧力により阿部市長が官憲-立川署を導入し排除したのだ。防衛庁は一方的に返還後の自衛隊の使用を示唆した。
15日は、庁議で最終的に保留を解除しようとした阿部市長に対し、これを粉砕しようとした市民団体を機動隊を導入して強制排除していった。官憲を導入した「革新」阿部市長の責任は重大である。立川市職労からも批判の声があがっている。今後も立川市職労と共に労学市民が実力で住民登録を阻止することが予想される。

1・24 於東京地裁八王子支部に50名結集す!
北畠君(日野自工)解雇粉砕第4回公判闘争
1・31東京高裁判決
東京タワー決起富村順一氏への
差別実刑判決を弾劾せよ
反軍・反基地闘争の巨大な前進を!

ミッドウェイ母港化阻止 横須賀闘争
1・21現地集会開催 横須賀臨海公園にプロ統派を始め300名の労学市民
2・20現地闘争 勤労会館に青ヘル300を先頭に4百名

内乱鎮圧部隊進駐阻止 立川闘争
2・27 住民登録再開阻止 
市民団体、テント村に結集する労学、全学連現闘団(プロ統派)が早朝から立川市庁舎に結集し登録再開に抗議。全学連(プロ統派)40名、叛旗派、革マル派もそれぞれ集会。
3・7 先遣隊進駐一周年
午後6時過ぎから基地正面ゲート前でテント村呼びかけによる自衛隊放逐、進駐阻止の集会が開かれた。

このころ私は誘われて久しぶりに立川闘争に参加し市庁舎への抗議行動などに参加していたが、日時ははっきりしないが立川の公園の集会で、介入してきた革マル派の部隊と旗竿を構えて衝突し組み合うところを横から鉄パイプで襲われ顔面にけがをした。これが最後の闘争参加だったかもしれない。
新聞部では、1972年4月から6月にかけて部員5人で廣松渉、吉本隆明、梅本克己、黒田寛一、田中吉六を採り上げ「初期マルクス像の再構成に向けて」という連載、1972年10月から73年5月にかけて部員5人で宇野弘蔵の『資本論研究』を採り上げて「マルクス経済学への途」という連載を行った。73年2月と5月には金杉単独で「戦後世界とベトナム」の論考を掲載した。自分たちの不完全な闘いが多少なりともベトナム人民の闘いに連帯していたことを確認したい気持ちがあった。

3・15富村氏をついに奪還す
70年7月8日の東京タワーにおける決起以来、3年にわたり獄中に囚われながら、権力と非妥協的な闘いを続けてきた富村順一氏が3月15日、遂に沖縄人民の、全ての労働者人民の手に奪還された。富村氏は沖青同をはじめとする闘う隊列と共に果敢な公判闘争を展開してきたが、第一審、第二審とも2年半の実刑判決を受けたのだった。そして沖青同三戦士の国会内決起闘争は富村氏の闘いを受け継ぎ発展させるものであった。午前8時、支援団体は富村順一氏を迎えて統一集会を克ち取った。この集会で出獄第一声を戦闘宣言として発した富永氏は同日行われた沖青同国会内決起第14回公判闘争に参加していった。

4月1日号掲載 原子力発電所反対闘争への招待
放射能から命を守る闘い 滝沢潤氏(全国原子力科学技術者連合)

4・26前期学生大会でストを決議
26日午後2時320名の結集で臨時学生大会が開かれた。
前期自治会執行委の議案内容は、筑波法反対と学内諸要求が主なものだった。
狭山差別裁判糾弾闘争委員会からは「来る5月下旬に予想される寺尾新体制の第1回公判に、ストライキで高裁前日比谷小公園に結集せよ」と提案された。
反帝学評・反軍行動委員会から「73年反戦―反合春闘と連帯し、沖縄返還をテコとした帝国主義的国民統合を粉砕し4・28-5・15をストライキで闘い抜け」と提案された。
小平祭共闘会議からは前期評議会によって一方的にでっち上げられた小平祭規約の白紙撤回と評議会の自己批判、公選制による小平祭の設立が訴えられた。
午後6時20分採決が行われ、前期自治会執行委員会案が可決、糾闘委案が可決保留、反帝学評・反軍行動委案が否決、小平祭共闘会議案も否決された。
これによって4月27日28日、5月15日ストライキが行われることになった。

この記事からは3日間のストライキが誰の提案でどのように行われたかよくわからない。

ベトナム、インドシナ人民の進撃と連帯
4・28全国統一行動闘わる
労働者人民中央総決起集会 沖共闘など於・代々木公園
ベトナム人民、沖縄人民の闘いと連帯し、ベトナム革命の圧殺・封殺を許さず、沖縄の手国主義的・反革命的統合粉砕!日米共同反革命基地強化阻止を掲げ、4・28労働者人民中央総決起集会が沖共闘の呼びかけで、6時半から代々木公園で開催され、約1200人(プロ統派550、戦旗派100,糾弾共闘50,沖青同20、プロ青同その他)が結集し、集会後日比谷公園までデモを行った。
この日中核派は芝公園に2000名、革マル派は日比谷公園に1200名を集め、集会、デモを行った。

5・15「屈辱の一周年」
諸戦線を結集し永続的な沖縄解放闘争へ前進を!
沖共闘など於・日比谷野音
 協定批准阻止―5・15返還粉砕―自衛隊派兵阻止闘争を闘い抜いてきた沖共闘をはじめとする労働者人民は、5・15返還の屈辱の一周年を永続的沖縄闘争の飛躍点とすべく5月15日午後6時から日比谷野外音楽堂で総決起集会を開催した。参加者三千名、主な内訳はプロ統派600,戦旗派200,プロ青同150など。この日鶴見の沖縄人居住地区で独自闘争に決起した沖青同から沖縄の現状を告発したアッピールが寄せられた。反戦米兵組織VVAW横須賀支部、三里塚反対同盟の北原事務局長が連帯の挨拶を行った。
労働戦線から決意表明のあと、女性解放をめざし優生保護法改悪阻止を闘う三法案粉砕実行委員会から、この集会と並行して厚生省糾弾闘争をリブ、アジア婦人会議、ベ平連など市民団体と共に闘っていることが報告された。反軍戦線、部落解放戦線、入管戦線、反弾圧戦線の発言のあと、各党派が決意表明し9時ごろ終了し、デモを貫徹した。

再開狭山差別裁判公判闘争勝利へ
5・19部落解放全関東集会
狭山差別裁判糾弾!石川青年奪還!再開公判闘争勝利に向けて、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の呼びかけで、5・19部落解放全関東労働者人民集会が400名の結集で午後6時より豊島公会堂で開催された。基調報告では、「部落民、在日中朝人民は相対的過剰人口の帝国主義的利用の流動的労働力の最下層労働者として社外工、臨時工、パートの位置を強制的に迫られている。部落差別、人間の自然的差異、「性」による差別の拡大、推進(差別文書「女性の能力開発」が端的に表している)を通した近代的労務管理が、マル生、合理化を頂点にして労働者階級の団結の解体として推し進められている。企業別、産別、本工の従業員組合を突破してしいたげられた人民を見つめた労働運動の推進が必要である。」と述べられた。

緊迫した情勢下闘いの深化にむけ
5・20優生保護法改悪阻止第2回東京集会開催
5月20日板橋区の産業文化会館で優生保護法改悪阻止第2回東京集会が300名を結集して午後1時半から開催された。昨年の上程策動以来各地域・職場・学園等で闘いを組んできたアジア婦人会議・婦人民主クラブ・リブ?三法案粉砕東京実行委員会等二十数団体と諸個人が「優生保護法改悪阻止実行委員会」に結集し共同討論・共同闘争を推進してきた。5月11日の閣議での再上程決定に対して、政府厚生省に対する断固とした抗議糾弾行動を連続して展開している。
経過報告のあと諸団体から以下の5点が問題提起された。1.改悪の真の狙いは何か 2.産む産まないは女の権利か 3.優生保護法と「障害者」問題 4.ピルの解禁をどう考えるか 5.刑法堕胎罪をどう考えるか。
討論では、府中療育センター在所生有志グループ・青い芝の会等が障害者の立場で発言し、「侵略を内乱へ」などと空語を並べる諸君や「産む産まないは女の権利」という諸君は「障害者の悲惨を助長する差別者だ」と糾弾した。障害者の痛みに健常者はいかに応えていくのか、避妊とは何かといった根源的問題が提起された。

6・3 ミッドウェイ母港化阻止
横須賀現地闘争大衆的に闘わる
昨年の相模原闘争以来、相模原、横須賀、立川、横田を貫いて、労働者、市民、反戦米兵を中心に国道16号線を貫いた強力な反軍・反基地の闘いのうねりが生み出されてきた。6・3集会はその闘いのうねりをミッドウェイ母港化阻止へと集中すべく、母港化阻止連絡会を中心に呼びかけられた。反軍諸団体を始め、プロ統派300,市民団体100,第4インター100,戦旗派50を始め700名が結集した。VVAW横須賀支部の発言、米駆逐艦ガーキー豪乗組員の米兵一同からのアピール、軍需産業労働者である全造船浦賀分会―親組合に反対する会の決意表明があった。

7・7-8 第13回小平祭終わる~徒労の試み
第13回小平祭は7月6日の国立兼松講堂での前夜祭に続いて7日8日の両日前期小平で開かれた。昨年10月の学生大会決定(実行委の公選制移行決議)を尊重して自主的に解散した前実行委のあとを受けて発足した第13回小平祭実行委は、統一テーマとして「自らの掌に新しい力(と未来)を取り戻そう」を掲げ、次のようなアピールを発した。
小平の現状考察として、学生自治の重要な基礎単位たるクラスの崩壊状態、もう一つの単位であるサークルのサロン的情況を挙げ、大多数の学生は受験教育に象徴される差別と分断の能力主義教育課において、主体性は圧殺され、みずみずしい感性は摩滅している、とする。「大学祭とは各クラス・サークル企画を中心とした、われわれの知的創造の集約の場であり、同時のわれわれの知的創造を未来に向かって前進させる場でもある。」(第8回小平祭アピール)それは大学祭当日だけでなく学内の広範な恒常的な運動の一環として存在する。
祭は歴史的に考察すれば、日常的に抑圧されている一般大衆に非日常的な発散の場を与えることによって支配手段とする側面を持つ。従って我々は、実際の運動の中で虚構性を突破し、上記の理念の内実化を図って行かねばならない、と訴える。
 第9回以降積み重ねてきた理念から、第12回実行委が大学祭の本質を支配階級が与えた「擬制のまつり」と看破し、それを解体し「真正のまつり」へと突き出したことから見れば明らかに後退である。
本番の小平祭では、実行委は河村錠一郎助教授、出口裕弘教授によるシンポジウム「文学と大学」、小川プロ制作の映画「三里塚―辺田部落」などを企画、クラス、サークル企画にも多少は意欲的な企画も行われたが、総じて模擬店の氾濫に終始し実行委の呼びかけも徒労に終わったようだ。

10・5ミッドウェイ入港
10・10全青協関東ブロック横須賀現地闘争
10・21反戦闘争闘わる
早大解放闘争―決戦局面へ
11・5川口君虐殺糾弾全人民追悼集会
11・8早大周辺でバリケード戦を展開

11月一橋祭雑感
俺たちの戦略――寒風吹き荒ぶ 心優しさ
一橋祭運営委員会の商魂たくましい呼び屋根性も徹底して、ローマクラブの創設者から、マッコイ・タイナー、野坂昭如から南沙織まで。大学通りの天下市ではそぞろ歩きの家族連れを巻き込んで。都留学長のしゃちこばった音頭も応援部の身の毛のよだつ口上も聞き流して飲んでたお情けのビールや樽酒、キャンパスを歩くわれわれが払拭できなかった肌寒さは何故。彼らのこれ見よがしの心優しさが鼻持ちならない。

再開公判闘争火蓋切る
狭山差別裁判糾弾闘争
11・27二万人の怒りの叫びで高裁―霞が関を包囲す
12・6青年労働者先頭に多くの労組結集す
12・8第二の狭山事件大阪松原市で発生
糾闘委も連日決起

11・19学内集会 11・26学生大会を軸に組織化
糾闘委は再開公判に向けて11月19日の総決起集会と26日の学生大会を軸にして闘争体制を整えた。19日の総決起集会は糾闘委、新聞部、反帝学評を中心にした実行委員会で組織された。20名が結集し糾闘委から狭山事件の発端から石川氏の別件逮捕、再逮捕、第1審から第2審井波退官に至る経過が明かにされ、新聞部からは日共の部落解放闘争への敵対に対する批判が提起された。最後に反帝学評が「昨年11月に早大文学部で革マル派にリンチ殺人された川口大三郎君は狭山差別裁判の糾弾に決起し、革マル自治会執行部が狭山闘争を放棄している早大で、学友に訴え闘いを組織しようとした。革マル派は彼を狭山闘争を闘おうとしているから中核派のスパイと決めつけ虐殺した。早大解放闘争と結合し狭山闘争を闘い、部落解放闘争に敵対する革マル派を粉砕していく。」と提起した。
糾闘委の開催要求署名によって開催された26日の前期学生大会は百名余の学生しか集まらず流会した。自治会執行部の日共民青は狭山闘争への取り組みを実質的に放棄し、悪質な誹謗のビラを撒いていた。

1973年
早大解放闘争
早稲田祭粉砕闘争を経て一年に及ぶ
11・5川口君追悼全人民集会 日比谷野音に2千人
11・23早稲田祭粉砕闘争 早大十一共闘

1974年
1・7田中アジア歴訪阻止闘争 沖共闘潮流 大田区民公園
2・7、14狭山差別裁判再開第4第5公判闘争 革マル派の介入粉砕し闘わる
3・22再開公判闘争 寺尾、証拠を却下 

 金杉は1973年春から二年生のT子と同棲し、国鉄のディスカバージャパンの宣伝ポスターを都内の街中に貼るアルバイトに精を出し、妊娠がわかって出来ちゃった結婚をしてT子の実家の離れに転居し、74年2月に長女が生まれ、3月に一橋大学を卒業し、4月に多摩地区の市役所に就職した。

4月1日新入生特集号 サークルへの招待
教育研究会 恒常的教育闘争の展開を!
映像文化研究会 映像創造行為の噴出を
狭山差別裁判糾闘委 狭山差別裁判糾弾 石川青年奪還
アナキズム研究会 管理社会との闘い
一橋新聞部 自己宣伝

この5つが当時の全共闘系のサークルだった。

4・28 政府、資本家打倒を掲げ 
社共の参院選集約を突破し、さらなる政治闘争への決起を 日比谷野音で中央集会
プロ統派800名を先頭に戦旗派など200名を結集、沖共闘浜口事務局長が開会宣言、経過報告し、三里塚反対同盟北原事務局長が連帯の挨拶のあと、全金本山、東水労、東京反戦、国労高崎、労共闘、東交労研、三法案粉砕実行委、全都神奈川糾弾共闘、法制審粉砕実行委から決起の呼びかけを受け、集会を終わり、戦闘的デモを貫徹し、総括集会では全学連(北条委員長)の仲間から総括提起を受けた。

5・14法制審議会 最終答申を粉砕せよ! 二百名が結集
5・29法務省構内に突入 刑法改悪―保安処分による人民収奪を許すな

5・15沖縄人民解放に決起!中央労働者人民集会 於・明治公園
プロ統派500名、反帝戦線、プロ青同、中大戦線を含め全体700名を結集し沖共闘統一集会として開催。

狭山闘争 死闘の4か月に突入
5・22糾闘委決起集会を貫徹 於・小平キャンパス
小平学食前で昼過ぎに開かれ、糾闘委のメンバー等10余名が結集し、糾闘委から狭山差別裁判の過去11年間の経過、一橋における狭山闘争の取り組み、行動提起として23日公判闘争への参加が呼びかけられた。
5・23公判闘争に1万8千人が決起
解放同盟完全無罪を要求

5・28前期学生大会は流会
大会は始め三百余名で成立し、糾闘委からの石川氏の無実・無罪・即時釈放の闘いへの決起の呼びかけがあり、自治会執行委からは新大菅法―大学改善問題などについて提案があったが、退場者の続出により学生集会となった。

6・15社共の参院選収約を突き破り
政府打倒へ武装進撃す!
明治公園において沖共闘主催の刑法改悪・小選挙区制粉砕、南朝鮮人民連帯、田中自民党政府打倒、労学中央総決起集会が開催され、プロ統派を先頭に日本反帝戦線も含め約1500名が結集した。

6・28,29第14回小平祭開催
新たに組織された実行委による2回目の小平祭であるが、例年通りのオマツリとして終始した。

前期自治会執行委員長選挙行わる
A君555票S君303票でA君が選ばれた。期日と詳細は不明。

7・7参議院選挙に三里塚反対同盟戸村一作委員長が立候補

狭山差別裁判公判闘争
9-10月決戦の火蓋切る
9・3二会場に二万人が結集
石川青年からのアピール 勝利への不屈の闘志
9・5日共による分断策動を激しく糾弾

9・8刑法改悪阻止討論集会 
文京区民センター 救援連絡会議主催

10・10三里塚闘争 現地に五千が決起!
鉄塔死守、成田決戦の火蓋切る ガタガタの人民抑圧空港

10・21国際反戦中央闘争
―狭山決戦勝利 フォード来日阻止
午後6時から宮下公園で「10・21狭山政治決戦勝利!フォード来日阻止!日朝連帯!
革マル絶滅!帝国主義ブルジョワ政府打倒!中央総決起集会」が社会党社青同解放派(プロレタリア統一戦線潮流)の青ヘル武装部隊を中心に一千余の戦闘的労働者・学生を結集して勝ちとられた。全都神奈川糾弾共闘からの<死刑判決絶対阻止、無実の部落青年石川一雄君実力奪還>の訴えと日本社会主義青年同盟からの「革命的労働者党建設に向けた最大の環―反革命的宗派革マル解体絶滅」の訴えが強調された。

 秋期の反戦反安保反基地沖縄を掲げた政治決戦であるべき10・21闘争が全国全共闘を継承した沖共闘で主催できなくなり、反帝戦線もプロ青同も市民団体も共闘できず解放派単独の集会となり、革命党建設、革マル解体の叫びが悲愴感を帯びている。全国全共闘、新左翼という政治潮流が完全に解体し、諸党派が党派対立と党内抗争の泥沼に陥っていることを示している。

10・31狭山差別裁判第82回公判
石川青年に無期懲役
客観的事実を無視 部落差別には一切触れず
解放同盟 闘いの強化を声明

11・2一橋祭シンポジウム成功
刑法改悪阻止に熱気

以上、全国全共闘と一橋大学全闘委とその流れをくむ者たちが行った運動と闘争を『一橋新聞』の紙面でたどってきたが、全国全共闘を引き継いだ沖共闘が主催した集会は1974年6月15日が最後であり、一橋全闘委の流れをくむ共闘組織「全共闘」が学生大会に議案を出したのは72年10月12日が最後である。その後は反帝学評・反軍行動委員会が73年4月26日の学生大会に議案を出し、狭山差別裁判糾弾闘争委員会(糾闘委)がその後も繰り返し狭山闘争への決起を訴えたが、74年10月31日の石川青年への無期判決で一つの区切りを迎えた。全闘委系が掌握していた小平祭実行委員会は73年から委員の公選制に移行した。この時点では、一橋新聞部、糾闘委を始めいくつかのサークルが残り、優生保護法改悪阻止と刑法改悪-保安処分反対の動きが起こっている。

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年5月22日(金)に更新予定です。


今回のブログは、2026年3月6日から3月8日にかけて行われた明大土曜会メンバーによる「沖縄訪問」の報告である。今回の訪問は、土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会共同代表、元明大中執委員長・都学連委員長)の強い要望により2年ぶりに企画された。参加者は12名。現役学生や若い世代も参加した「老青学」のメンバーで、Yグループ゚とNグループの2つのグループに分かれて行動した。
以下、NグループのN氏による報告である。

土曜会26年春季沖縄ツアー(主にNグループ)の報告                              2026年4月4日 N・T

3月6日(金)
早朝、羽田を出発。40分遅れで那覇に着き、まずレンタカーを借り、うるま市宮城島へ向かう。途中、金武湾を埋め立て、勝連半島と平安座島を繋ぐ海中道路を通る。1974年頃、CTS石油備蓄基地建設に伴い開通した道路だ。この道路により海の流れが遮断され、金武湾の生態系も大きく変化したと聞く。途中、前方に巨大なタンク群が見えた。これが石油備蓄基地だ。当時、東京でもCTS建設反対の運動があり、私自身も明大在学中に参加した。その頃は金もないので沖縄現地に来ることは出来なかったが、初めて巨大タンクを真近かに見て感慨深いものがある。

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宮城島の沖宮鉱山では、辺野古埋立て用土砂を採取しており、地元の「うるま島ぐるみ会議」の皆さんが「ダンプ遅延行動」を行っている。事前に連絡をしてあった同会議の事務局長・伊波さんが迎えてくれ、我々も行動の列に加わる。1日3回の行動で、午前中はまだ10人位は参加するそうだが、午後は人も少ないという。他に東京から来たという数人に加え、我々5名が加わり、10数名で「ムカデ行進」を行い、1時間くらいの行動になった。その間、搬出トラックを阻止したが、行動を終えたら待機していた10トンダンプが列をなして排出ガスをまき散らして積み出し港まで向かった。1日200台くらいが搬出するという。
その後、宿泊先の辺野古、クッションに向かう。いつものように「海の見える家」に荷物を置き、Yグループとの合同交流会の居酒屋に向かった。現地で活動している橋本さんを含め13名で賑やかに交流を深めた。

3月7日(土)
11時からキャンプシュワブテント前で県民大行動に参加。オール沖縄会議推薦の議員が全員落選するとういう衆議院選挙から初めての県民大行動で、550名が参加した。

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「辺野古新基地が建設されても普天間の代替となる長い滑走路を選定するまで返さない」と米国防省の公式文書に明記されていたことが判明。前日の6日には普天間飛行場に配備されている米軍ヘリが名護市許田の野球場に不時着するという事故も発生していた。
そうした状況を反映して、発言者の多くが「辺野古が唯一の解決策」と言ってきた政府のウソを糾弾し、米軍基地の日常的な危険性を訴える発言が相次いだ。
続いて連帯の挨拶として、我々の団長である土屋源太郎さんが発言に立った。土屋さんは、「私の大学の後輩の若い人たちと沖縄に来た」と土曜会のことを紹介。そして高市政権の軍拡政策を批判し、「沖縄知事選挙は日本全体の問題であり絶対勝たないといけない」と語り、共に闘いましょう訴えた。土屋さんの発言対しては会場から万雷の拍手が起こり、発言後には何人もの人が握手を求めて駆け寄って来るなど、大変な人気だった。
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(土屋源太郎さん写真)
<県民大会での土屋源太郎さんの挨拶>
こんにちは。91歳になりました。でもね、今日久しぶりにこの集会に参加して、沖縄のみなさん方とお会い出きた。もう本当に感激です。ありがとうございます。
今日は私の明治大学の後輩の土曜会の仲間と12名でこの集会に参加しております。(拍手)私は東京に生まれました。そして戦争になって、1920年の4月18日、米軍の空襲によって我が家が焼かれ、そして私は両親・妹と4人で火の中を逃げ回った記憶があります。戦争は絶対に駄目なんです。平和が必要なんです。それが私の信念の根底にはあります。
それは、東京で私は大学に入るとともに学生運動に参加し、全学連のリーダーとして当時の立川米軍基地の反対の闘い、いわゆる砂川闘争を指導しました。そしてその結果、基地内に侵入したということで逮捕・起訴された。そして裁判になりました。伊達裁判長は日本駐留米軍は戦力で憲法9条に違反している。米軍基地の存在そのものが許すべきものでないとして無罪判決を出します。日米両政府はこれに非常に泡食って、最高裁でいろいろ陰謀をした結果、その判決は破棄された。最終的に有罪となります。
しかし私は、あの伊達判決では米軍基地が憲法違反であるというその精神というものは非常に大事だというふうに思って、現在もその運動を続けています。(拍手)今トランプは軍事力を持って(イランに)介入して、トランプの思うような国に変えようとしている。そのようなトランプと高市首相は一層同盟を強めようとして、そして日本を、今まで戦争の出来なかった国を、戦争をできる国に変えようとしている。この辺野古基地についても、実際にできっこない基地、まさにこれを強行するための工事を再開した。こんなこと絶対に許すことはできないと思っています。それと同時に防衛費を大幅に増額して、先ほど言ったように、戦争できない国を戦争のできる国に変えようとしている。そして、人命を実際に殺してもいいような兵器を輸出するとさえ決める。それから安保3文書を改訂して敵基地攻撃が更にできるようにする。非核三原則も変更しようとしている。こんなことは絶対に許すわけにはいかないんですよ。(「そうだー」の声)本当に闘いを我々は一層強めていかなければいけないと思います。しかし残念ながら先般の衆議院議員選挙で野党は大敗しました。沖縄もそうです。私が住んでいる静岡でも、まったく野党が全部負けてしまった。しかし、そんなことでめげる必要はない。(「そうだー」という声)敗因を分析するとともに、再度闘う姿勢が必ず出て来ます。私は確信しています。
9月には大事な沖縄の知事選があります。沖縄は日本の国内で最も米軍基地が集中している県です。ですから、沖縄県知事選というのは単なる沖縄県の問題ではない。日本全国の問題だと私は考えています。絶対に沖縄の知事選は勝ち抜かなければならない。そのためには、やはり沖縄と本土との連帯、これを一層強めていかなければいけない。残念ながら本土は沖縄に対するいろんな形の温度差があります。それを我々は何としても沖縄とともに闘う、連帯を強めるという闘いを続けたいふうに考えております。この知事選を勝ち抜くためにも、あらゆる手段をもって、できる限りの支援をするという決意を持っています。皆さん、連帯を一層強めてともに闘いましょう。がんばりましょう。ありがとうございます。(「ありがとうー」の声)

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(「沖縄タイムス」記事)
集会後は、予定では大浦湾を一望できる瀬嵩の旧灯台跡に登り、埋立て工事の状況を見る予定だったが、Yグループの高齢者の皆さんが坂を登るにはしんどいというので、予定を変更し、全員で恩納村にある「創価学会・沖縄研修道場」を訪れた。ここはかつて、アメリカ軍の核ミサイル「メースB」の発射基地があった場所だ。 
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沖縄には戦後の1961年から恩納村、読谷村、金武町、うるま市の4カ所に核ミサイルメースBを8基ずつ配備する基地が建設されていた。72年の返還後核基地は撤去され、恩納村の基地跡を創価学会が購入したのだが、「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』、という、ひとつの証として」という池田会長の提案でミサイル発射台が残されたという。そこが現在、平和学習の場として整備されている。

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8カ所の発射口の内1か所はほとんど現状のまま保存されており、内部の天井には同じ大きさのメースの絵が描かれ、中国大陸に向かわんとしていた。ひんやりとした発射台内部は核基地の緊張感を漂わせていた。あまり知られていない施設だが、かつて沖縄に存在していた核基地の実態を知る貴重な場だ。
ここでYグループとは分かれ、我々は嘉手納基地が一望できる「かでな道の駅」に向かった。嘉手納の飛行場では時折爆音を響かせ米軍機が飛び立っていく。展望台には軍用機のファンと思われる人たちがカメラを構え撮影をしていた。

3月8(日)

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朝はまず、昨日行けなかった瀬嵩の旧灯台跡に登った。日曜日で埋立て作業は行っていない様子だったが、6台の砂杭打ち作業船・サンドコンパクションパイル船が配置。高さ80mにもなるという櫓が林立して、他の作業船も併せ、広い大浦湾が狭く感じた。遅れていると言われていた砂杭打ちも1月に入り急増し、1月は月別で最多の1700本だったという。それでも杭打ちだけで今後15年はかかるという。
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続いて我々は、普天間飛行場が一望できる嘉数高台に向かった。「世界一危険な基地」と言われるように、飛行場の周りには住宅地、学校などの教育施設がひしめいており、事故の恐怖と隣り合わせだという日常が実感され場所だ。同地は、沖縄島中部に上陸した米軍との激戦地の一つでもある。高台を占領するために一進一退の攻防戦が展開された。戦死者も多く、慰霊碑も何基か立っている。
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その中に「韓民族出身沖縄戦戦没者慰霊 青丘之塔」がある。これは沖縄戦に駆り出された朝鮮人軍人・軍属386名を追悼する碑で、1973年に建立された。ここにも植民地支配の実態が表れている。
次は、浦添市の浦添西海岸に向かった。ここは、かつて米軍牧港補給基地(キャンプキンザ―)の基地水域があった場所で、2008年に返還された。自然海岸が残っているこの場所に、米軍那覇軍港の移設計画が進んでいる。那覇市の海岸沿い、那覇空港にも近い場所にある米軍那覇軍港は、現在はあまり使われていないとされるが、普天間飛行場返還が盛り込まれたSACO合意で浦添地区への移設を条件として同じく「返還」が決まった。ただ、沖縄県も移設を認めており、辺野古ほどには注目されていない。
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我々は、海岸沿いにある巨大なパルコシティーの展望デッキに登り、海岸を一望した。満潮だったためにサンゴ礁は見えなかったが、干潮時にはサンゴ礁が広がり多彩な水中生物の生息が見られるという。こうした貴重な自然が米軍の身勝手な要望で破壊されていくことは許されない。
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次に訪れたのは豊見城市にある旧海軍司令部壕だ。 同司令部はアジア・太平洋戦争末期の1944年に豊見城市の高台に人力によって掘られた。壕内は良く保存されており、司令官室や幕僚室、医療室などが公開されている。部屋には手榴弾で自決した時の破片の痕が当時のまま残っている。同施設は、1953年元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れ、800名以上の遺骨を収集し、沖縄海友会によって海軍戦没者慰霊之塔が建立されるようになって以降、1970年に壕内の一部が復元、公開されるようになった。そうした経過から旧日本軍を顕彰する色彩が強く、沖縄民衆に犠牲を強いた反省や責任の視点が乏しい。有名な太田司令官の「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」という電報も展示され、美談として語られている。
ただ、沖縄戦末期の海軍の追い詰められた実状の一端を知る場にもなっている。一見の価値はある。
 最後に、1月22日に亡くなった沖本裕司さんの自宅を弔問に訪れた。沖本さんは、1970年、一橋大学在学中に返還前の沖縄に移住し、基地問題や沖縄での韓国民衆連帯などに取り組んできた。「本土」の左翼活動家として当時最も早く沖縄の重要性を認識し、自ら移住して「本土」-沖縄を繋ぐ活動に精力を傾けた人だ。近年は島ぐるみ八重瀬の会事務局長として辺野古新基地建設反対運動に関わってきた。また、南京大虐殺の歴史を学び、「南京・沖縄をむすぶ会」の発足に関わり、23~25年に沖縄からの南京平和友好訪問団の団長も務めた。何冊もの報告書を出版した。昨年秋にも体調が優れない中訪中し、編集に力を注いでいたという。
我々土曜会のツアーでも何度もお世話になった。3年前のツアーではで南部戦跡を案内していただいた。
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(平和祈念公園で沖本さんの解説を聞く 2023.3)
自宅ではお連れ合いと「本土」から来ていた娘さんのお話をお聞きした。お連れ合いも70年、秋田の大学から沖縄に来て、沖本さんと共に反基地・平和運動に参加されていたという。お話は尽きなかったが飛行機の時間が迫っており、慌ただしくご自宅を後にし、那覇空港に向かった。
 
今回のツアーは土屋さんの強い希望で実現したが、準備期間があまりなく、前回のような学生・若者グループとしての参加は組めなかった。ただ2名の若者、学生が我々のグループに参加、「老青学」のツアーが実現できた。初めて訪れた場所もあり、有意義なツアーとなったと思う。訪問後、「辺野古・大浦湾での平和学習の船転覆による2名死亡」という痛ましい事故があり、辺野古基地反対にとっては厳しい状況が続くが、「諦めずに闘い続ける」という沖縄の人々に学び、今後も基地反対、沖縄との連帯の活動を続けて行きたい。

以上、明大土曜会の沖縄訪問の報告である。
最後に、若手(20代)参加者2名の沖縄訪問の感想を掲載する。
「今回土曜会の皆様と一緒に沖縄の方を訪問させていただきました。人生で初めての沖縄だったので、やっぱり知識としてはいろいろ沖縄の現状であるとか、米軍基地による米軍の重さとかいうものを意識していたんですけども、やっぱり現場を見て改めてとんでもないことになっているなということがよく実感できました。
やっぱり今私にできることというのは、せいぜい沖縄の生の現実を見てきた者として、そういうことを伝えていくのが今はそれしかできないのかなと思いつつも、まだちょっとそれをやりながら今後も何かしらの形で沖縄との連帯の闘いの方に携わっていければなと思っております」

「基地問題の現場に足を運び、実態を把握できたのは得難い機会になった。特に宮城島における土砂搬出現場では、削られて山肌があらわになった自然の様子や無機質な警備員の様子を見て、建設反対の声が大きな力にかき消されそうになっているのを実感し、土砂流出やトラックをめぐる諸問題について地元の方のお話をお聞きして、基地建設の裏側ではこのような問題も引き起こされているのかと驚いた。ダンプの排ガスの臭いにおいは今でも思い出される。つい本島の基地に注目が集まりやすい中で、様々な視点から問題を捉えることができた。また、嘉手納では戦闘機による爆音に遭遇し、日常感じるであろう苦しみのごく一部ではあるが、日常生活に支障が出る騒音とは何かを体感できた。訪問中にヘリ不時着事故が発生し、沖縄の地方紙では1面を飾ったが、後日図書館で全国紙を調べてみると、その扱いは小さく、本土の関心度合いをまたも象徴していた。訪問後、悲惨な事故が発生するなど難しい局面にあるが、基地が日本で一番集中している沖縄に想いを寄せ続けたい」
(終)

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