野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年5月28日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第9回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第9回目はいわゆる<ポツダム自治会>(戦後組織された各大学の学生自治組織)と闘争との関係について、立教大学、東京大学、京都大学の3大学に取材した記事である。
この記事が書かれたのは1971年。各大学からバリケードが消え、全共闘運動の勢いも下火になった頃である。
大学の学生自治会と全共闘との関係は、個々の大学の状況によってさまざまであるが、私がいた明治大学の場合、昼間部の学生自治会は中核派が掌握していた商学部を除き、他の学部はブントが掌握しており、反代々木系の学生自治会であった。1969年の明大闘争の時は、学生大会で「6項目要求」などを掲げてスト権を確立し、その後結成された全学共闘会議にそのスト権の行使を全面的に委任した。つまり、合法的な学生自治会の制約と限界性を、全共闘という闘争組織を作ることにより突破しようとしたということである。
その後70年安保闘争やブント内供の分裂もあり、学生自治会は休眠状態となったが、1971年、ブントを中心として自治会の再建がなされた。自治会再建の目的は、一般学生のオルグのためということもあるが、自治会費を確保するという金銭的問題が大きかったように思う。同じ71年、ノンセクトは明治大学新聞会を中心とする「マップ共闘」という闘争組織を作り、「学内ロックアウト体制粉砕」や「学生会館解放」などの課題に取り組んだ。が、学生自治会との関係はほとんどなかった。
それでは記事を見てみよう。

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【学生階級”その今日的構造 第9回 <ポツダム自治会>への批判 自治会の顔】
戦後「平和と民主主義、よりよき学園生活」を掲げて闘ってきた変革の旗手全学連=学生自治会は、60年代後半全共闘運動の高場の中で <ポツダム自治会> として集中砲火を浴びました。
今回はこのポツダム自治会批判をとりあげ、全共闘運動の退潮した今、各大学の学生運動の中で、<自治会> がいかなる立場を占め、またどうとらえられているかをさぐってみました。

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自治会なしの二年間
東京・池袋にある立教大学。“赤レンガ”ふうの建物、芝生の庭などがこぢんまりしているなかで、闘争を呼びかける大きなタテカン、ステッカーなどがいかにも場違いの感じさえ起させる雰囲気がある。
立大闘争後約1年。大学は本来の平穏さと花やかさをとり戻したかに見える。
「僕らはいつも“アイスクリームをなめるのは早すぎる”とみんなに呼びかけているんですが」というのは3年生のS君だ。
「闘争なんて関係ない」といった様子の大多数の学生に対する形容か"芝生でアイスクリ?ムをなめる“というのもこの大学の雰囲気からくるらしいが、「闘いは終っていない」という活動家学生のいらだちが、立教大学らしい表現として感じられもする。
しかも、めずらしい例だか、この大学には目下学生自治会(クラス委員会)という組織はない。クラス委員会が「解体」されたのは69年6月。それまで民青執行部であったのが、全共闘学生などによって学生大会でリコールされた。以来、70年春立大全共闘も実質的に分解し、その後も再建されないまま現在に至っている。
だから、全員加盟制自治会を知っているのは3年、4年生で、3年生もたった3ヵ月間しか経験していない。あと1年も経つと「自治会なんて知らない」という世代が学生のほとんどを占めることになる。学生の公的な自治組織がなくなって約2年、こんな大学もきわめて稀だ。
ポツダム自治会ーこれが全共闘運動の中で最もよく使われ学生自治会の規定であった。全共闘のメンバーは、ポツダム民主主義による全員加盟制の自治会、「平和と民主主義、よりよき学園生活のために」という全学連運動では、体制に積極的にくみ込まれた大学で闘えないと判断し、組織・運動両面で全面的に否定したのであった。
これに60年代におけるいわゆる党派全学連の対立抗争か加わって、全共闘運動はノンセクトが時流を占めることになった。だが、当畤の学生自治会は従来の体質を受けついできた民青自治会がほとんど。ポツダム自治会批判をまともにぶつけられることになった。
立教大学の自治会であるクラス委員会も民青系であった。学生組織の構成は、学生会のもとに体育会、文化会、ククス委員会が組織されるトロイカ方式であった。このうち、クウス委員会は執行部リコールで解体、文化会(執行部は民青系だった)も全共闘系学生によって解体、文化団体連合 (文連)として再編されてしまった。
クフス委員会にかわるものとして、全共闘が当然考えられた。ポツダム自泊会を否定する新左翼党派が、組織的な運動の主導権を握るためには、どうしても形式的な組織を持っておる全員加盟制自治会という組織を否定する以外道はなかったのは皮肉な論理的必然だった。さらに、一般学生の方にも「民青のモノトリ路線とはハダが合わない」(4年生)という声が高まっていた。大衆化とともに管理が近代化・合理化した大学に対する学生の不満のうっ積を民青自治系は正確に捉えられなかったのである。
が、その後いまに至るまで、S君の話では「全共闘によるボツダム自治会批判は十分検討されていない」ということだ。だから、結果としてみれば、立教大の場合、ポツダム自治会批判はアンチ民青のうたい文句としてしか残らず、組織的再編を必要とするこの時期に、学生の組織はいかにあるべきかで、苦悩、混迷している状況のようだ。

自治会アレルギー
学生の自治組織が解体のままになっている大学としてはたとえば小樽商大もそうだ。それはいわゆるアクチブな学生がほとんどいなくなったためだという。しかし、立教大の場合は、いろんな個別闘争とその主体があり、諸セクトもあるにもかかわらず、なおかつ自治会が存在していないという特殊なケースだ。たとえは現在、立大入管闘、理学部共闘会議、教育共闘、それに文連という文化運動の主体があり、セクトも中核を除けばそろっている。
もちろん再建の動きかなかったわけではない。民青系学生が他大学と同じコースの再建を考えているのはむろんのこと、たとえば反帝学評系が理学部自治会を組織しょうとした話も伝わっている。
が、どのセクトも自治公を担いきる力量がないことが再建されない理由の第一だとS君はいう。「ノンセクトも含めて各党派にとって、自治会というのは“さわらぬ神にたたりなし”といったところです」。自治会に対する考え方はセクトごとに異なるので、再建を言えば、他党派に必ずたたかれるし、民青の動きには一致して批判するだろうからだ。
いずれにしても一般学生が自治会再建のために学生大会に集まることはまずないとS君たちはみている。「自治会なんてあってもなくてもいいという風潮がこの大学に蔓延していて……。再建するとしてもその点をよく検討しないといけないが、全員加盟制にはならないんじゃないか」というのだ。学内生活のために闘うといったサービス機能は、今でも文連がある程度代行している。そのため今のところ自治会がなくても一般学生にとって大きな支障はない。また活動家学生に対する大学の“寛容”な態度もあって、「活動家の住みやすい大学」となっているキャンパスのなかで、空白な時間が惰性のようにすぎているというのか現状のようだ。
ただ、全共闘が小規模ながら残されており、新左翼系の間での方針討議の場(活動者会議)は確保されており、問題が起った場合の反応は意外と早い。が、これにどういう組織的内実が加わるかどうかは、まだ予測できないのが現状だ。

“第二”の全共闘出現
全共闘運動の起点というべき東大の場合、紛争がよりラジカルに長期にわたって続いたため、少なくとも活動家のレベルでは<ポツダム自治会>に対する幻想は徹底的に払拭されたといえる。
しかし、実際に闘争に参加してきた学生たちと、催涙ガスの洗礼を受けていない"新入り"の活動家とでは、自分たちの運動の中で<ポツダム自治会>をどうとらえて行くかという位置づけに微妙なニュアンスの違いがみられる。
駒場の教養学部自冶会は、昭和43年の6・15(医学闘の安田講堂占拠)以降、一時フロントが執行部を掌握していたが、その年の暮れ民青系が再びへゲモニーを奪い返した。その結果、駒場は民青の単一支配になり全共闘は去年の10月ごろまでに、ほとんどキャンパスから姿を消した、といわれた。
ところが、昨年の暮れごろから、代議員大会、自治会を結集軸にして、駒場では”新“全共闘派が台頭しつつある。教養学部の理科二、三類のノンセクト学生を中心とした”新“全共闘派学生が、再び”大衆“の前に姿を現したのは11月の代議員大会からだが、民青系執行部に批判的な一般学生の共感を得て急速に勢力を伸ばし、12月中旬の自治会委員選挙では民青系の1,027票に対し823票を獲得。今年の4月におこなわれた代議員大会の議長選でも、民青系の177票に対し、158票にまで肉薄している。安田砦落城以降の全共闘が、これまで<ポツダム自治会>をほとんど相手にしてこなかったこれまでの姿からすると、大きな変化である。
全共闘運動は「出発転から<ポツダム自治会>の限界を思想的にも方法的にも止揚することをせまられていた」(山本義隆氏)ものだった。この“止揚”の問題に対して、革マルを除く反代々木系の各セクトは「現執行部は非合法な第二自治会である」というタテマエから、自治会選挙をボイコットしている。
だが、ノンセクト系の駒場“第二”全共闘運動の担い手たちは、自治会の役割をよりドライに、機械的に考えているようだ。民青系の候補に対立し、委員長選挙に立ったA君(理科系2年生)は、「われわれは自治会をとる、ということを自己目的化しているわけではない。もし自治会のヘゲモニーを握ることができたとすれば、それはあくまでも日常運動のひとつの成果であって、われわれとしてはむしろ、自治会は運動のバロメーターぐらいにしか考えていないといってよい」と割り切る。
A君を立候補にかつぎ出した一人、B君(理科系2年生)も、「自治会が学生を積極的にオルグするのではなく、自治会はあくまで一般学生に具体的な運動を提起する場としてとらえるべきだろう。自治会でどういう運動を作ってゆくかを考え、その中で自治会のあり方は副次的に想定されるべきものだろう」と言う。
A君らは「11月行動委員会」を軸に、活動しているが、この行動委員会は、最首悟研究室に事務所を共有している「水俣病を告発する会」「連続シンポジウム実行委員会」「小西反軍裁判支援委員会」「医療問題研究会」などの諸組織に加盟しているメンバーが何となく集まってできた「組織というよりは、共有する空間=ひとつの部屋」だそうだ。「あくまで一人一党的な自立した人間でありたい」という自己主張を、運動へ参加していく前提とし、そうした個人個人の運動経験を交流させる場、接点として委員会、行動委員会や自治会を下からとらえなおしてゆく、と彼らはいう。そうした発想は、東大闘争が提起した運動の質をいかに継承して行くかという課題として彼らの間に定着しているようだ。

既成組織への憎悪
一方、闘争を文字通り体を張って闘ってきた全共闘“戦中派”の活動家たちの間には、自治会や既成の組織に対する嫌悪感、一種のアレルギーがいまなお根強く残っている。
「われわれの運動は自然発生的に盛り上がっていくものが非常に大切だ。自分がものを考えて運動にかかわっていく場合、組織のワクは障害になるし、いつまでも割り切れないものを自分の中に残すことになる」とある学生は言う。そうした心理は次のような話からも、うかがわれよう。
例えば、薬学、教養とともに、いまなお全共闘系の勢力が強い農学部ではこの4月、自治会委員長選挙があり、約10票差で全共闘系は民青系に敗れたが、票のうえでは惜敗でも幹部はホッとしたという。それは、下手に自治会をとると、事務的な雑務に追われて日常的な運動がおろそかになるから、ということらしい。
既成の組織に対する異常なまでの拒絶反応は、心情的には、闘争の中で敵対してきた民青系自治会に対する個人的反感につながっていることが多い。「民青の場合『東大は閉鎖される』というウワサを意識的に流し、一般学生が動揺するのを見越して収拾に乗出すというズルさがあった」「昼間はゲバをたらないで、新聞の締め切り時間を過ぎたころ、巧妙にゲバをやった」「われわれのやり方は絶対に正しいんだ、という妄信の裏返しとしての殉教者意識から、一般学生の上に立って指導者面をする」という憤りはいまなお彼らの間にわだかまっている。
しかし、基本的には彼らの組織アレルギーは、<運動体>としての全共闘運動の組織論理の当然の帰結といえよう。
農学部のC君は、教養学部にいたころ、社青同解放派に属していた自治委員だったが、組織と個人の板ばさみになった時、セクトから離れて行った、という。「僕の場合は、自治委員という立場はあっても、自分を含めた一人ひとりがどう運動をかかわり合い、自分の闘いを作り出してゆくのかがいつも問題だった。
実際そうした議論を闘わすことによって、運動は次第に高揚していった。そもそもぼく自身が闘争に参加したのも、闘いを勝ちとるということより、闘争の中で自分をみつめ直し、仲間との連帯の場を求めるという動機が強かったと思う」。
C君は、その“場”の可能性を現在農学部で闘われている運動の中に見出しつつある、と語る。
現在農学部では、同じキャンバスにある地震研の問題が応用微生物研究所、農学部に飛火し、東大闘争のミニ版といわれる臨時職員の待遇改善闘争が三者をまきこむ形で組まれている。全学的な共鳴や闘争スケジュールがあるわけではないが、各学科施設ごとの組織間の連携は、ある学科の活動家が同時に他の学科の闘いにも参加するという形で保たれている。また2、3人が思いつけばその場でスト実行委員会も結成するといった具合に、あくまで個人の自発性に依拠した闘いが作り出されている。
5月13日に、林学教室で助教授、職員の不当処分に抗議する教授会との話合いか持たれ、教授全員が自己批判をするという“事件”があったが、これも始めは林学部の“一般学生”のイニシアチブで集会が企画され他学部からも学生か参加して白熱したものになったのだという。
このように、民青系自治会か具体的な運動を提起しうるほどの実力を持ちえない状態の中で、個人の創意から即座に委員会や会議が結成され、あるいは個々の問題ごとに、他学部の学生の参加を保証した水平組織が作られるなど、新しい運動スタイルは本郷キャンパスに定着しつつあるようだ。

アジテーションの場
京都大学の場合はどうか。まず文学部を例にとってみよう。
この大学はもともとブント系が強い影響力をもっている。文学部もその例外ではない。69年春、京大闘争の中で文学部学友会は「文学部自治会のすべての権力を文学部闘争委員会へ」とみずから解散してしまった。これは、たとえば中核系自治会のある大学では自治会とは別個に全共闘が組織され、全共闘運動を領導するのは中核系全学連だとしたことときわだった対照をのぞかせていた。「煮ても焼いても全員加盟制の自治会などはどうしようもない」というのが彼らブント系学生の言い分だ。もっとも情報通のノンセクト学生に言わせると「三派全学連の分裂、ブントにおける分裂で学生運動への影響力が小さくなっては困るからだ」という見方もある。
その同じブントの学生は70年5月学友会を再建した。が、それは決してポッダム自治会でないと彼らは断言する。文学部3年生のB君はこう説明している。
「そんなものにまったく興味はない。今、イメージできるのは"武装“の問題だ。基本的に暴力をもってしか闘争できない部分に、いかにして共産主義を体現していくかの問題だ。このなかでは、自治会というのは大衆的なアジテーションの場でしかない」というのだ。
むろんこの言葉だけでは、彼らがポッダム自治会を乗りこえ、党派全学連をも止揚し、全共闘運動を継承・発展したかどうかはわからない。ただ、ポツダム自治会批判から全共闘運動の組織的再編過程のなかで一つの典形を示していることは間違いない。それはこの文学部に限らず、ノンセクトの多くがこの“武装”の問題を考えているからだ。
京大教養部の学生はほとんど京大闘争後に入学している。直接的な全共闘運動の影響はないわけだ。が、全くのノンセクト政治集団の形成をめざす少数のグルーブ(学部闘連合)と民青シンパを除けば、多くのノンセクトはブントとの連合(C戦線)かそのシンパなっている。
このC戦線は京大闘争を担った教養部闘争委員会が分裂してできたものだが、他方の中核、反帝学評とは、自治会をめぐっても大きな亀裂を見せている。
C戦線のK君によれば、「自治会を含めてあらゆる大衆団体を担っていく。ただ党派性を失わず、有効な合法機関として革命的に利用するだけ。だから全学連なんて必要ない」という。K君たちはノンセクト学生といわれている。現在ではすでに「ノンセクト」の内容もかつての全共闘時代とは大きく変わっているのだ。これと対照的なのはセクトの学生の言葉だ。「学生としての即時的要求をのり越え、学生のもつ社会的制約性を突破していく、この意味で、自治会、全学連を対象化する」(反帝学評C君)。「中核全学連は、中核派の路線を核とする革命集団であり、全国全共闘の中で唯一の方針を提起する部隊だ」(中核派D君)。
これほどの各党派、ノンセクトの相違と混乱は、人に60年安保後の学生運動の混迷をも思い起させる。が、K君らの発想は、60年代後半の全共闘運動は社共を乗りこえたように、彼らは全共闘を止揚するものとして、党、軍事を志向するものだという。
自治会に関して、民青系全学連の「平和と民主主義、よりよき学園生活」の方針と最もよく対立するのは、京大ではこのC戦線のノンセクトといわれている。今月初旬行われた経済学部の学生大会では教養から進級したC戦線のノンセクトメンバーが民青系執行部提案を破り、勢力も拡大している。
京大では民青がまた下降線をたどっているという。しかし党派全学連をもつ中核派や反帝学評でなく、いかなるものであれ全面的に全学連を否定したC戦線などの影響力か拡大していくとすれば、いわゆるポツダム自洽会が、党派全学連を含めて学生運動の中でメスを加えられていく過程にあるとみていいだろう。

組織論とどう取組む?
これまで見て来たように、全共闘運動が<ポツダム自治会>を否定した仕方は、各大学の闘争形態、学内事情など個別的な条件によってかなりの違いが見られる。しかし、それが自治会を過渡的なものとしてとらえるものであれ、あるいは自治会を飛越して直接に「党」「軍」をる志向するものであれ、底に共通しているのは「自治会なんか知らないよ」というさめた心情だろう。
しかし、それが果して<ポツダム自治会>を止揚したことになるのか。
実際の運動の中から、逆に自治会のあり方を規定していこうとする東大教養部の活動家たちには、彼らみずからに認めるように、自治会を掌握した場合、それをどう運営して行くかという具体的なイメージがない。「党」「軍」を目指す場合でも、そうした目標に一般学生をどう結集していくか、という展望が欠落しているといえる。
また、柬大農学部に見られるように、個々の点の運動をブロック化して行くことを当面の目標にしていても、そのブロック化をさらに推し進めていく場合、いつかは組織という壁にぶつからざるをえないだろう。
つまるところ、そうした明確な組織論の欠如から来る現在の混乱は、「運動体」としての全共闘運動に当初から内在していた矛盾であった、といえよう。
その矛盾に再びおち込まないためには、従来の<ポツダム白治会>イコール民青系自治会という近視眼的なとらえ方を克服し、オープンショップ制自治会としての<ポツダム白治会>の可能性と限界を現代の学生運動が持つさまざまの条件の中で洗い直す検証の作業が、いま必要とされているのではないか。
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月21日(金)に更新予定です。

2025年10月8日は、1967年の佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するために戦われた10・8羽田闘争から58年目となる。
この58周年に近い10月5日に、10・8山﨑博昭プロジェクト主催により、午前に羽田・弁天橋での山﨑博昭君追悼及び萩中公園近くのお寺にあるお墓のお参り、そして午後には萩中公園集会所での記念集会があった。
今回のブログは、その報告である。写真を中心にドキュメント風に当日の様子を報告する。

2025年10月5日(日)
【献花・黙祷@弁天橋】
午前10時45分
京浜急行「天空橋」駅を降りて歩いて10分ほどで羽田・弁天橋に到着。昨年の57周年は小雨が降って肌寒い天気だったが、この日は晴れて秋とは思えない夏のような暑さだった。
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(弁天橋)

弁天橋の上からの眺め。参加者の集合場所は写真左の弁天橋を渡ったところにある鳥居の前の広場である。まだ時間が早いが、発起人の佐々木幹郎さんが広場のベンチで休んでいた。

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広場の赤い鳥居。鳥居の向こうにはテントがあり、人が集まっていた。

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近寄ってみると、阿含宗の「東京湾・多摩川水害犠牲者供養・東京湾地震津波除災」の護摩法要があるとのこと。ここでこのような行事に出会うのは初めてである。
山﨑君もこの弁天橋の上での犠牲者なので、供養してもらいたいと思った。

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午前11時25分
集合時間も近いので、参加者が次々と鳥居の前に集まってきた。

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山﨑プロジェクト事務局長の辻恵さん(弁護士)が到着。「正装してきたので暑い」と一言。

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午前11時30分
参加者は約30名。初めて参加する方もいたので、山﨑プロジェクトの発起人である佐々木幹郎さん(詩人)から説明があった。
「本当は、福島泰樹(発起人:歌人・法昌寺住職)が来ていろいろ(読経など)とやってくれる予定だったんですが、法事が重なって今日は来られません。
説明します。(弁天橋は)当時は木の橋で道幅は現在の2分の1。ちょうど正面のところのあたりですが、(山﨑博昭が)機動隊に撲殺された。我々は毎月8日にここに来て黙祷をしています。黙とうは1分間」
※57年前の10月8日、11時30分から40分頃、機動隊の警棒によって山﨑博昭君は弁天橋の上で撲殺された。(『かつて10・8羽田闘争があった』より転載)

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佐々木さんの合図で、参加者全員で弁天橋に向かって1分間の黙祷。

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(黙祷)
黙祷の後、弁天橋を背景に全員で記念撮影を行い、近くの五十間鼻無縁仏堂に向かった。

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【五十間鼻無縁仏堂の平和地蔵にお参り・献花】
午前11時40分
五十間鼻無縁仏堂の前に到着。
仏堂に渡る桟橋の前には由来を記した看板がある。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
「創建年代は不明でありますが、多摩川、又関東大震災、先の第二次世界大戦の昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着いたしました。その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に角塔婆が一本立っているだけでありましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年、護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後、荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏、故伊米次郎氏、大東町会故伊東秀雄が私財を持ち寄り復興致しました。(後略)」
水難者をお祀りするために作られたお堂で、地元の方々が護っている。
「五十間鼻」という名前は、大田区観光協会のサイトによると
「水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています」とある。
この日は潮が引いて、五十間の長さの鼻のような形の石積みが水中から姿を現していた。数人の人が釣りをしていた。桟橋を渡るとお堂があり、ここに「平和地蔵」がある。

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参加者は桟橋を渡ってお堂へ。

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お参りの前に「平和地蔵」に花を供える。
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佐々木幹郎さんが「平和地蔵」について説明。
「平和地蔵」は、羽田闘争50周年の2017年10月に、山﨑博昭プロジェクト発起人によりここに祀られた。台座には「山﨑博昭」の名前が刻まれている。

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参加者は桟橋を順番に渡り「平和地蔵」に手を合わせていた。
「平和地蔵」に手を合わせる佐々木幹郎さん。

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「平和地蔵」は雨の日も風の日も弁天橋に向かって立ち、平和への祈りを続けている。
「平和の地蔵」は地元の方が護っていただいており、季節によって衣装が変わる。今年は暑いので、まだ麦わら帽子を被っている。夏の装いだ。
「平和地蔵」の傍らには山崎君の写真がある。

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(平和地蔵)
「平和地蔵」へのお参りが終り、参加者は萩中公園に向かった。
萩中公園までは歩けない距離ではないのだが、参加者の皆さんも高齢となり、短い距離ではるがバスに乗車して向かう。辻さんが「全員乗車!」と号令をかける。30名も乗ると、バスは貸切り状態。
萩中公園でバスを降りて、福泉寺へ向かう。

【福泉寺の墓碑と記念碑の前にてお参り・献花】
午前12時25分
福泉寺に到着。

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参加者は本堂の裏手の墓地の入り、入り口近くにある山﨑博昭君の墓碑と記念碑の前に集まった。お参りと献花の前に清掃。

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参加者は順番に手を合わせていた。
墓碑に手を合わせる山本義隆さん(発起人:科学史家)。

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参加者と墓碑を入れて集合写真を撮影。

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墓碑の山﨑博昭の文字は、昔の中国の青銅器の時代に青銅器の周りに彫り込まれた「金文(きんぶん)」という文字である。山﨑博昭君の高校3年生の時の同級生だった書道家の川上吉康氏が書いたものである。

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(山﨑博昭君の墓碑)
墓碑の下にある墓誌(記念碑)には、以下の文章が刻まれている。
(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建立
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午前12時55分
参加者は萩中公園内にある集会所に向かった。集会が始まる前の集会室で昼食。

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【10・8山﨑博昭プロジェクト秋の東京集会
「敗戦80年、何が変わったか?」】

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午後1時15分
集会の受付が始まった。

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会場には山崎君の写真と花が飾られている。
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午後1時45分
佐々木幹郎さんの司会で集会が始まった。

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どうも皆さん、今日はようこそお集まりくださいました。幸いにも、健康に恵まれて、朝から多くの人が弁天橋まで来ていただき、福泉寺のお参りにも参加していただけました。まさか高市早苗という人が総裁になるとは思いもかけないという、日本はこれからどうなるんだろうという時代に入っております。そういう時代で、私達は絶対ここから先は引き下がらないという形のものも見せていきたいと思っています。
今日は山﨑建夫さんが出席できなくてメッセージをいただいております。
「2年続けての欠席をお許しください。最近は腰痛がひどく、最寄りの駅までも歩けなくなっています。捻挫されたままで台湾まで出かけられた水戸喜世子さんのことなどを考えると恥ずかしい限りです。最近接するニュースが世界の規模で、また日本でも心を痛めるものばかりですが、私は座視するだけになっています。残念です。発起人の皆様、賛同人の皆様、集会参加者の皆様にお詫びします。様々な分野でご活躍の皆様のご健闘を祈っております。
10月5日 山﨑建夫」(拍手)
それでは講演を始めさせていただきたいと思います。最初に山本義隆さんの「テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて」。それからそれに引き続いて真鍋祐子さんの「トラウマと社会変革 心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて」。これを続けてやった上で休憩、それから水戸喜世子さんと重信房子さんのお話を伺って、最後に関西から新田さんのお話を伺います。という形で今日は進行したいと思います。では、山本義隆さんよろしくお願いします。
山本義隆さんと真鍋祐子さんの講演については、後日ブログに掲載予定ですので、省略します。

●「テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて」 山本義隆さん(発起人:科学史家)
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●「トラウマと社会変革 心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて」 真鍋祐子さん(発起人:東京大学東洋文化研究所教授)
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午後4時
(休憩)
山本さんと真鍋さんの講演が終り、休憩に入った。
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(東大立て看同好会のメンンバーなどと話を交わす山本義隆さん)

午後4時13分
休憩終了後、水戸喜世子さんと重信房子さんからの発言、関西からの報告があった。
●水戸喜世子さん(発起人:十八羽田救援会)からの発言
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皆さんこんにちは。今日皆さんこうやってたくさん集まってくださって本当にありがとうございます。
これだけたくさんいらっしゃるんだったらば(山﨑)建夫さんも今日いらっしゃらないので、山﨑春子さん(※山﨑君のお母さん)からいただいたコアラの親子の縫いぐるみを持ってくればよかったなと後悔していますけれども、今、真鍋さんおっしゃったように、私達は死者を本当に大切にしてるのかなってことをつくづく思いました。もう何かお話を聞いて、涙がもう本当にこぼれそうになって困りましたけれど、山﨑君のお母様のことを思い出していました。
私は救援の立場ですので、救援をしていて山﨑さんとのお母さんとのお付き合いでしたけれども、本当に大切な息子さんを亡くされて、その後、文通というか救援新聞が出てまして、10・8救援会の救援新聞ですね。(10・8の)犠牲者、そこでたくさんケアをしたり、失明したり、逮捕されたりした人の救援をしようというそういう新聞を作ってたんですけれども、そこに(山﨑君の)お母さんがおは手紙くださって、必ず命日にはカンパを寄せて、「その人たちに使ってください」っていうんで、カンパを寄せてくださって、そのお母さんの家計簿というのを建夫さんが見せてくださったことがあって、本当に細かく大根1本いくらって、労働者の家庭で育った息子ですよね、彼は。その本当に貴重な家計簿にいろんなこと書いてあったんですけれども、やっぱり息子さん亡くされたときは本当に言葉がなかった、そういう中での思いを大阪から、私たちはそのとき東京に住んでたんですけど、東京の東久留米ってところの国家公務員住宅の小さいアパートに住んでましたけれども、そこまで建夫さんとお母さんと2人でそのコアラのぬいぐるみを持って、10・8で逮捕されたり傷ついたり人の役に立ててくださいっていうんで、そのときわざわざ家まだ来てくださったんですね。そんな思いを思い出しています。
今の山本さんのお話と真鍋さんのお話は本当に繋がって、もう本当に心に響く話でした。とりわけ真鍋さんのお話の中で、私は3.11ですね、福島の東京電力の事故の後で、福島の子供たちの被ばくをさせないっていう運動ずっとやってまして、韓国にも何回も行ったことあるんですね。反原発っていうことで行ったことがあって、今もちょっと確認したんですが「東学党の乱」って皆さん習いましたよね。
「東学党の乱」が起きた場所、扶安(プアン)ってところに韓国の原発の核廃棄場を作るっていう計画があって、そこの人たちもものすごい闘いをしたんですね。中心にいたのはやっぱりキリスト教と仏教とが真ん中にいて、市民が本当に町ぐるみ、廃棄場にするのを反対だっていうことで、決めてきたのはどうしようもない町長が1人で決めてきた。「廃棄場うちで引き受けますよ。海がそばにあるし外へ出しやすい」ということで、町長が勝手にお金がもらえるからって、利権絡みで引き受けた話なんです。もう町中反対で、その反対の仕方がそれこそ3歩進んで1歩下がって3歩進む。これをやりながら、ソウルまで行くんですよ。今の話でソウルに向かったって話をお聞きして、「ああ歴史ってこうやってみんなの心の中で繋がってくんだ」と思って、もう感動して聞いてたんですけども、そこもロウソクデモで毎晩毎晩、みんな仕事を抱えてるから、主に漁業の町なんですけれどもね。漁業、農業やった後で、町の一番大きい広場に舞台を作って、それで歌ったり踊ったりなんですけど、みんなでロウソクを持って、私達みたいなもう寒くて耐えられない人には、もう本当に分厚いオーバーをかけてくれて、私達も住民投票もあったもんですから何回かそこへ支援に行ったんですけれども、その闘い方が今の話と、本当に地域で女の人はみんな坊主にして頭を剃って、ソウルに向かってやめてほしいという訴えに行く。子供たちは同盟休校して教会で待たして、ちょうど三里塚みたいな、そういう子供たちの学習をさせるんですね。子供もお母さんも、本当に町ぐるみで。機動隊が常駐していて、昼間ぶつかり合ったりするんですけれども、だから町にある大きな病院はもう怪我人だらけで、夜の集会が始まると病院から手を振って、みんな頭に包帯巻いたりした人が手を振って私達を応援してくれるっていう、そんな闘いが扶安(プアン)でありました。
ちょうど今日ここにいらっしゃらないからそのことをぜひ報告したいと思うんですけれども、ベトナムに行きましたよね。ベトナムに浴衣を着て参加した女性が覚えてらっしゃる方もおると思いますが、近藤ゆり子さんっていうここのメンバー(賛同人)ですけれども、彼女は大垣に住んでいて、大垣で公安が市民運動を調査してるっていう事がばれた。それはなぜばれたかっていうと、朝日新聞のスクープで、実は関西電力の子会社が、風力発電をしようとしてたんですね。風力発電をするために誰が反対するかっていう、それを調査させたいっていうんで警察に相談に行くんですよ。反対しそうな市民運動やってる人の情報を教えてくれっていうんで、警察に行った。よくある話だと思うんですけど、それは情報がないから私達の耳には届かない。でもそういう事件があって、それを何とご丁寧に会議を開くために議事録を取っていた。場所は警察なんですよ、大垣警察。警察とそれから業者の議事録が毎回残ってた。議事録をスッパ抜いた記者がいた。その記者は本当私はすごいと思うんですけれども、よっぽどみんなの信頼関係がなければすぐ手に入らない。それで、それをもとにして近藤ゆり子さんたちが訴訟を起こした。市民運動の権利を守れという訴訟を起こして、5、6年かかってますね。去年判決が出て全面勝訴した。全面勝訴して、向こうはもう本当にぐうの音も出ない。証拠も全部出たもんですからね。例えば「近藤ゆり子は今、何とか闘争で夢中だからそれが終わったら絶対この問題に駆けつけるはずだ」とかね。そういう言葉が1人1人の市民の事が全部書いてある。「何とかさんは、今は環境問題に熱心だけれども、元は何とか派の活動家であったらしい」とかね、もう事細かに、本人が知らないくらいって近藤さんが言ってました。「私もまだ知らない事まで予測して書いてる」というそういう議事録が出てきて、そしてそれを法廷に出したもんですから、素晴らしい判決文が出て、地裁なんですけれども、大垣ですから岐阜地裁か名古屋地裁ですかね(※岐阜地裁)。本当に私はそのコピーを持ってますけれども、市民運動という一番大切な、民主主義にとって一番根幹である市民運動を、そういう形でもって、もう権力でもって妨害するというのは許せないことだと、憲法の精神から見ても一番基本的な権利を侵してるっていう、そういう判決文、もう本当素晴らしい判決文が出て、それにして対して控訴できなかった(※「大垣警察市民監視事件」。岐阜県大垣市で計画された風力発電施設の建設をめぐり、岐阜県警大垣警察署が市民の個人情報を収集し、建設を計画した業者に提供したのは違法であると、個人情報を収集・提供された市民が訴えた裁判で、警察の行為を違法と認めた名古屋高裁の控訴審判決が2024年10月2日に確定した)。
警察側からもどこからもコメントなしで控訴しないっていうことで完全勝訴しました。その報告を今出してますけれども、もし目に入ったらぜひ、『大垣警察市民監視違憲訴訟勝利をめざす「もの言う」自由を守る会』だったと思いますが、また詳しいことは私のところに聞いてくださればお知らせしますので、ぜひ、私達の仲間です、10・8の仲間でそういう素晴らしい活動をやってる人がいるということをご報告しておきます。(拍手)

午後4時25分
●重信房子さん(賛同人)からの発言

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皆さんこんにちは、重信房子です。今日は、山﨑さんのために、私自身が心洗われる思いでここに来ました。パレスチナの話をしたいんですけれども、既にご存知のようにトランプの新しい提案というふうにマスコミは言ってますけど、あれは全然新しくないし、これまでの「ガザをリビエラに」も生きたまんまなんです。パレスチナ人に決断、決定権を持たせない。占領したままにする。国家も認めない。そして抵抗権も認めない。そういうものであって、その中で、ハマスはただただ虐殺を止めたい、この思いの一念で、それが止まるならば、自分たちが犠牲になって構わない。そういう立場からハマスと言われてる政治指導部がですね、人質全員を返すという決断をし、新しい活路を開こうとしています。そういう状態の中で、パレスチナの抵抗権を支持する、抵抗権のために連帯する、そういう活動がちょうど蜂起から2年目になるんですね。10月7日明後日です。明後日、国連大学前からみんなでパレスチナの人に対する虐殺を許さない、そしてパレスチナの抵抗に連帯するというデモを18時ぐらいから18時半出発して渋谷に向けて、2年目の連帯を行いますので、ぜひ来てください。
詩をこれから読み上げようと思ったんですけど、時間オーバーするかもしれないんですけど、途中まででも読ませていただきます。
これは私の友達がナクバの中で、生き延びた、6歳のときにお母さんのスカートの中に隠れて生き延びたという話をしてくれて、それをガザの現実と合わせて、詩を作ったのを朗読させてください。
<詩の朗読>
「ナクバを越えて」
ガザ。
瓦礫が私の体を砕いた!この瓦礫をどけて。起き上がれない。
私の足はどこにあるの?私の抱いていた孫はどこ行ったの?
熱い。痛い。私の足はどこに行ったの?私は起き上がれない。
ここはガザ。どうしてこんな目に遭うの?私が何をしたというの?
私達パレスチナ人が何をしたというの?
ああ、何が始まったの?またナクバが始まったのね・・・・?
あのナクバのとき私は6歳だった。1948年のこと。
ヤーファーの我が家。たわわに実る果樹園のオレンジの実。
豊かで平安に満ちた日々を覚えている。
「シオニストが来る。」「シオニストが襲ってくる。」「シオニストが皆殺しに来る。」
人々の声が聞こえた。みな持てるだけのものをもって鍵をかけて逃げる準備を始めた。
今でもあの77年以上前の我が家の鍵を私は持っている。
この瓦礫に埋もれた中で首飾りにして、後生大事に持っている。
ヤーファーの花の香りの村。大好きなところ。
私たちはここを出ていかなければいけないという。
「お父さんを待とう。まだ戻らないお父さんを待とう」というかあさんの声に、私たちは待つことにした。
そして奴らが来た。イギリス警察が使っていたジープに乗って奴らがやってきた。
「出て行け。殺されたくなければ出て行け。」
庭に入ってきた。母の争う声が聞こえた。そして、銃声が2発した。
胸を真っ赤にして、かあさんが走り込んできて、「逃げなさい!」と言った。
私は足がすくんで逃げられなかった。私はかあさんと一緒にいたかった。
私がかあさんにしがみつくと、かあさんは私をスカートの中に隠して、「隠れなさい、動いちゃ駄目、静かに。」と言った。
しがみつく私に、「しーっ静かに。」かあさんはささやきながら言った。
大声で銃を乱射しながら、奴らは怒鳴りながら、あちこち探して出て行った。
「黙って、黙って。」かあさんはそう言った。動かなくなった。
「かあさん!」絶え絶えに言った。「黙って、奴らがいなくなったら、奴らがいなくなったら・・・・。」
それが何十分だったのか、何時間だったのか。
お母さんは冷たくなって、誰の声も聞こえなくなった。
こうして私の村の人々は殺され、追い立てられ、近所に住むお母さんの兄の家族に連れられて、私は怖い目に遭いながら、このガザにたどり着いた。1948年5月のこと。
私達のように80万人を超えるパレスチナ人が追われ、そして1万5000人が殺され、80万人を超える人々が、家を追われた・・・・。
ああ・・・・ナクバの日々。
また・・・・ナクバが始まったのだろうか。
ガザは美しいところ。地中海は光り輝き、サンセットの祈りのときには空と海のあわいに落暉は消える。
ガザは美しいところ。愛する故郷。ガザ、北からラファ国境までイスラエルは・・・・。イスラエルは私たちを追放し、ガザを併合しようとしている。
ガザ住民230万人のうち既に200万人が家を追われた。
私の娘、息子たちはどこにいるだろうか。
彼らは今ガザの人々を助けて走り回っている。まだ生きているだろうか・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の足はどこ?
孫の泣き声はもう聞こえない。
ガザは破壊され殺され、21世紀のこの世界で再びナクバが起きたのか。
なぜジェノサイドが止められないのか。
なぜ占領が許されるのか。何故?
殺すな、殺すな、殺すな、ガザは死なない。ガザは死なない。
ああ、一つ歌が聞こえる。
オリオンの流星群か洪水か。ガザの憤怒がほとばしる秋。
オリオンの流星群か洪水か。ガザの憤怒がほとばしる秋。

長くなりました。どうもありがとうございました。(拍手)

午後4時35分
●関西からの報告  新田克己さん(関西運営委員会)

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皆さんこんにちは関西の事務局の新田です。すごい人ばっかり登場なさった後に出てくるプレッシャーがすごいです。だから事務連絡だけさせていただきたいと思うんですけれども、関西にも山﨑プロジェクトがあるんですよ。ご存じだと思いますけれども、2年前の10月8日に重信さんが東京集会に出てきておられまして、そのときに僕は初めてお目にかかって、これ絶対関西に来て話してもらおうとそのとき決心しました。
「東京より先に関西でやるぞ」って決心しました。それを実現させていただきました。去年の6月の関西集会で、重信さんにパレスチナの闘争の歴史をすごくわかりやすく語っていただきました。
関西では年2回の講演会を企画してるんですけれども、去年の6月が今の重信さん、そして、11月は京都で「ほんやら洞」っていう喫茶店を作られた方なんですけども、甲斐さんという写真家、今は「八文字屋」というバーを経営しておられます。その「ほんやら洞」っていうのが、京都のベ平連とか反戦運動のメッカみたいな位置でした。先ほど重信さんの去年の6月の関西集会の講演で出てきたリッダ闘争ですね。テルアビブの乱射事件って言われてますけれども、あの事件があった日、同じ日に京都で、今言った「ほんやら洞」がオープンした。同じ日だった。そんな繋がりが、講演会を企画している中でみんなが気がついたことでした。
その後今年に入って、大野光明さんという我々の仲間でもある研究者の方にお願いして反博(ハンパク)、70年万博の前の年なんですけどね。1969年に大阪の大阪城の公園広場で、反万博ではなくて、「反戦のための万博」っていうのをべ平連の人たちが中心になって開催された。撲も見に行ったんですけどね。九州大学に落ちた米軍機の破片が展示されたりしていた。その反博を研究されている大野光明さんと植野さんっていう、反博の事務局で実際に実行された方に来ていただいてお話していただいたのが今年の6月でした。

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あと今年11月の15日、これはもうさっき皆さんにチラシをお配りしました。メインというか最初の講演が菅野芳秀さん。明治大学の出身で、三里塚闘争なんかも経験されたんですけど、参加された方もあるんじゃないかな、今年の3月30日の『令和の百姓一揆』で東京都内で30台のトラクターを連ねてデモ行進、トラクターデモを成功させた方です。その経験というか、三里塚闘争とか沖縄闘争を経験した後、山形の実家に戻られて、そこで百姓をやりながらいろんな人たちの運動をまとめてこられた。そしてそれが今年の『令和の百姓一揆』に結びついたというその歴史をお話ししてもらうつもりでいます。
そして後半で重信さんにもう1回登場していただいて、『ガザ虐殺を怒る日々』。雑誌連載されているタイトルをそのままいただいたんですけれども、これから1ヶ月経ったときにガザがどうなってるかもわからない状況ですけれども、重信さんにぜひお話をしていただきたいというふうに考えてます。ちなみに、この講演会の菅野さんと重信さんは、同じ明治大学の先輩後輩の関係におられます。そういう繋がりもあります。ということでぜひ大阪へと言いたいですけど、それも大変ですから、お知り合いの方がおられたらぜひおすすめいただくようにお願いいたします。これからもよろしくお願いいたします。
(拍手)

●閉会の挨拶 辻 恵さん(山﨑プロジェクト事務局長:弁護士)
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発起人の1人の辻恵です。山﨑博昭とは大阪府立大手前高校で同じ学年同期生、ということがあって、彼の死と寄り添う形でしか生きることはできないというふうに思って、今日まで私なりにやってきています。
毎年こういう10・8山﨑博昭プロジェクトのイベントで、もう1年頑張ろうというふうに思っている、そういう決意を新たにする意味で、今日は正装をして参りました。昨日の自民党総裁選で高市さんが選ばれたということは、戦後の日本の権力層とか支配層の政治勢力が、もう最終的に行き詰まったと、もう解決能力がなくなったということのある種の現れだと思いますし、逆にこちら側が本気になってどうしてこれを倒せるのかということを、本当に、民衆の力、国民の力、人民の力をどう結集して新しい政治勢力で倒していくのかが問われてるのかな、そういうことを自分なりには自覚をしてやろうと思います。
山﨑博昭プロジェクトは、2014年から発足をした後、こういう形で東京、大阪でそれぞれイベントを毎年1回ないし2回やってきて、2017年に50周年ということで、サイゴンですね、今のホーチミン市で向こうの戦争証跡博物館の館長さんともいろいろお話させていただいて、山崎プロジェクトの50周年記念の展示会をやったというようなことで、記念誌を発行し、今日多くの皆さんがお参りしていただいた福泉寺に墓石を購入し、そして山﨑博昭の遺影をですね、ベトナムの戦争証跡博物館に永続展示をすると、この三つの事業をやったので、私達の思うことを実現した。でも当時の戦いは72年の沖縄返還が続いたので、やはり沖縄問題を含めて、日本の様々な闘争と連携する広がりを山﨑博昭プロジェクトしてしては目指していこうということで、2022年までやって、その後どうするのかということなんですけども、今日の真鍋さんの言葉を借りるわけじゃないけども、やっぱり記憶していることを記録化して、それをやっぱり継承をしていただくという広がりを、そういう意味では僕は当時から言ったのは、韓国の200人に上る烈士の皆さんの、どういう闘いなのかっていうことを国民の皆が本当に刻んでいくっていうか、記憶を記録にしていくっていうこと。生者が死者を蘇らせるということを、まさに今思うと山﨑プロジェクトに僕らはそういう思いを託して活動してきたんだなというふうな思いがあります。
我々の活動の中で樺美智子さんが1960年、実は虐殺されたんだというような事実を発見したし、いろんな事実の中でみんなで検証することができてるということがあります。他にも糟谷君とか様々な方々が、これまで倒れている。そういう人たち、今後もそういう闘いが続くっていうことの中で、山﨑博昭プロジェクトの皆さんと一緒になって、私は継続、永続させるように頑張っていきたいというふうに思います。勝手な個人的な思いですけども、プロジェクトのみんなのある種、共通の思いはその辺にあるんで、具体的にどうしていくのかってまだまだ議論をしていくことになると思いますけれどもぜひ11月15日の関西でのイベント、そして来年も東京でもやるということになると思いますので、ぜひ皆さんいろんな問題意識をお寄せいただいて、議論をし合いながら、山﨑プロジェクトの思いを、次に繋げるようにともに頑張らせていただきたいと思います。
それで私の閉会のご挨拶とさせていただきます。
今日はお忙しいところありがとうございました。(拍手)
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
 
http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月31日(金)に更新予定です。

今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年5月21日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第8回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第8回目は60年安保闘争に関わった活動家と、70年安保闘争に関わった活動家の「その後」についての座談かである。
この連載では、すでに60年安保闘争と70年安保闘争に関わった活動家の「その後」について個別に記事にしているが、今回はそれぞれ2名ずつが「その後」について語っている。
この記事が掲載されたのが1971年5月であるが、2025年現在の「その後」の「その後」が知りたいところである。
分かる範囲で今まで記事に登場した方のうち2名の方は、現在も活躍されている。
第1回に登場した北大の野村俊幸さんは、社会福祉士、精神保健福祉士として不登校・ひきこもり支援活動を続けている。また、第6回に登場した元日大全共闘副議長のK君は、広島県の江田島に、高齢者のためのシェアハウス「全共闘ビレッジ」を建設するための運動を続けている。
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【“学生階級”その今日的構進 第8回
60年と70年の「その後」(座談会) 活動家の軌跡④】
今回は60年と70年の活動家に2人ずつ集ってもらい, 評論家の鶴見良行氏を中心に「その時」と「いま」を語ってもらいました。
10年違いの両闘争の体験者の同には、闘争への参加の仕方から, 退潮期の身の処し方に至るまで截然(せつぜん)たる差があるようです。それはこの10年が、ある権威の もと「絵に描いたような典型的な左翼」を存在せしめなくなったことを示しているようでした。

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学生層の先駆性を意識しつつ
鶴見 人生の軌跡というのは、あとで考えてみてそう簡単に割切れるものではない。きょうは、60年代と70年代の活動家お2人ずつから、闘争の<その後>をどう生きているかをおうかがいするわけだけれども、場末の飲み屋で仲間たちと飲みながら人生について愚痴をこぼしてるみたいな雰囲気でやったほうがふさわしいんじゃないか(笑い)。そういった調子で、まず60年世代の方から学生運動とはあなたがたにとって何であったのかというところからはじめていただきたい。
60年代A 私は一橋大学を卒策したのが61年ですが、それまで、1年のときが原水禁闘争、2年は勤評と警職法闘争、3年4年は安保闘争と、ずっと続いた一本道だった。
私自身が闘争に深くコミットしたのは安保のときからですが、そのなかで強く考えていたのは、学生層の先駆性に訴えかけていくということだった。当時はまだ既成の左翼に対する一定の信頼感があって、卒業の段階で、会社に入って組合運動をやっていこう、そのためには生産会社がよかろう、生産会社も重化学工業がよかろう、そんな期待をもっていまの会社を選んだのですが……。
60年代B 私は中学校が京都の旭丘中学。ここは戦後民主教育の典型ともいうべきところで、先生の側から左翼的、進歩的なことはいいことだという逆の意味での修身を積極的に教えられた。それで、なんとなく左翼に対する免疫性ができてしまって、京大に入ったときには、よそから来た人間に対してある種の<教えてやる>という姿勢があった。
高校の一年先輩の北小路敏氏たちがクラス討論にくれば側面援助的な発言をしたり、メーデーとなると、クラスの人間を何人デモにだすかということが自分の努力目標になっちゃって。理学部だったので、湯川さんの名前に憧れて入ってきた人がたくさんいて、そういう人たちはほっとくと一生懸命に勉強しそうな感じがしたもんで、勉強もいいけど、他のこともやらなくちゃいかんというような(笑い)、いまからみれば非常に尊大な気持ですが、上から下への交通路として啓蒙的なことをやるなんてところから学生運動にかかわりだしたんです。私が学生細胞に属したのは2年のころです。
安保の前年に学部の委員長になってからは、上の指令を下におろすというか、とにかく官僚主義的に課せられた任務を消化することに一生懸命で、あまり勉強はしなかった。60年になると、本格的に闘いが盛上がってくるから、こっちは何もやらなくていい。はじめは方針をみつけ推進力を作り、自分も先に立ちという二人三脚だったのが、黙っていてもグングン押してくる感じがあったので、どこへ向けていくかだけを考えていればいい。そのころにはっきり代々木とは考え方が違ってきて、とくに60年安保闘争をめざして、最初に分裂した全学連大会では、ある程度全体的な根回し役をやった。その時点でだいたい左翼運動の中で裏方仕事をやるというコースをみずから選んだような気がしますね。そのおかげで、いまは新左翼の人たちからゲバられないという立場にいられるわけですが(笑い)。
いまは救援会活動に多少関係していますが、それを免罪符的な意識でやるという気持だけはフッ切れたように思う。68年以後、生活にひびくとまではいわないが、それと同じ位の額のカネを個人的にださなきゃいかんことがたびたびあるわけです。適当にカネだけだして口をぬぐってすませているという後ろめたさがなくなるには、ずいぶん時間がかかった。10年かかったような気がする。
鶴見 学生運動やると将来損をするぞというふうな思いは?
60A 活動家仲間では、この点はあまりシリアスに考えてなかった。ただぼく個人の場合は、会社が運動をやっていたことを調べていたことがあとでわかって、そのときに肌身に感じたぐらいですね。
それともう一つは、ぼくが会社に入るときの情勢認識としましては、こんなにどんどん高度成長が行われるはずではなかったですね(笑い)。5年後なり10年後にはピンチがくる。その決戦段階でどうするか。そのために、労働運動の右傾化をいかにくいとめるかっていう視点があった。70年世代の方にはそういう視点はないでしょ、まったく (笑い)。
60B 私はAさんよりも心配したほうかもしれない。教養部の2年間は週当にやって、学部にいったらなりをひそめて、ほとぼりがさめたころに就職しよう、家の事情もあって親孝行すへきだろうなあと思ってたんですけど、なんのことはない、3年のときには組織の命令で、おまえ委員長をやれ(笑い)。当時はまだ、学生運動でおおいに指導性を発揮した人間なら会社でも役に立つはずだというようなことをいう会社もあったか、一方で、組合運動をやるのだといって就職した1年上級の連中が、待ちきれなくって、いきなり組合の役員に立候補して排除され、会社そのものをやめてくるという例もあったものですから、私はどっちつかずの決定延期として大学院へいった。代々木のままであればそれなりのコースがあるわけですが、それとも自分から決別していたので・・・。

自分に発するもの
70年代C ぼくは日大へ入って1年から自治会の委員をやっていた。そのころの日大の自治会は、右翼的学内秩序の枠に完全にはまりこんで存在していた。
その中には自分で我慢がならんほどきたないことがいろいろあって、大学というものに対して非常な怒りを感じた、というより、もう日大にいることがいやになった。それで、67年の11月にぼくが学部(郡山の理工学部)の委員長になったときに、全面的に大学側に反対するスローガンをあげた。その最初が学部祭のときの講演会の問題。展望もないのに、大学側が講演会を認めなかったら、ぼくたちはストライキやっても要求を通す、なんて脅し文句を使って。だけどなかなかうっぷんは晴らせない。
そういう中で日大闘争が始ったときに、<あッ、これはなんとかなる>とぼくは思った。運動がどうなるという問題ではなく、これで自分が救われるんじゃないか、枠の中から抜けだせるんじゃないかっていう気持。自治会を解散して、闘争委貝会をパッと作ってね。いままでの自分の大学生活そのものをこれでもってご破算にしえるって気持がすごくありましたね、ぼくの中には。ぼくが学生にアピールしたことは、別に、<古田倒せ>っていうことだけじゃなかった。要するに、具体的にぼくが経験した大学の卑劣さ、それは自治会にかけられた卑劣さでもあったし、当然全学友に対する卑劣さなわけですよ。
そういうものを一つ一つ具体的にあげながら、こういう大学の中できみたちは何を求めるのかってことをぼくは最初に問いかけた。やっぱりあの20何億の脱税がきっかけとなって、学生同士の対話、意志疎通が自由自在に交差するようになった。あんとき必死だったからね。はっきりいって、何も考えてなかった。ただあらゆる人と接触をもって、話をするってことしか考えてなかった。
70年代D ぼくは東大へ現役で入って、東大闘争の始る68年の3月にはストレートに3年になっていた。というと、もっとも典型的な東大生という感じがもたれると思うが、いわゆる秀才じゃなくって、受験にしても一種のスポーツみたいな感じ、いつもギリギリですべりこむみたいな(笑い)。そういうぼくの性格が闘争へのかかわり方にすごく反映しているわけで、そこに始った東大闘争は早すぎたというか、ぼくより大きすぎたという感じがある。
よく、もっとも闘争とは無関係だと思われていた東大生が、一人一人いろんな問題を感じて主体的に立ちあがったというふうに美化されていわれることが多いが、実際は一部の問題提起者のあとを多くの学生がついていったのが東大闘争だったといえると思う。ぼくらが駒場のときに、党派の運動にあまり深くかかわりきれなかったのは、彼らはそれなりにいいことをいっているが、ひっかけようっていう下心をいつも感じたから(笑い)・・・。
そういう下心なしに信頼できる人たちが自分自身の間題として、たとえばぼくらより1年上の人たちはもう就職きまってたんたけど、<就職は問題ではない、やるべきことはやる>みたいな感じで、自分自身立ちあがって、それを基盤にしてぼくらに訴えかけてきた。それをぼくとしては受止めなきゃならなかった。そうはいうものの、全共闘のスローガンなり方針というものは、<すごくいいなあ>って感じる面もあるんだけど、自分でそれを担って他の人間に訴えかけることはできなかった。やっぱり、自分に発したものじゃないから、違和感があった。
たとえば、学問の自由とか大学の自治とか、かなり単純に体制イデオロギーであると片付けられていたという側面があるわけです。しかし、<そんな論理は担えるわけがない>って居直ることもできないまま集会やデモには参加してたけど、自分の闘争を生みだしていくってことはずっとなかった。むしろ、自分の頭で考え、心で感じることこそが本当の闘争なんだって気がついたのは、いわゆる闘争の敗退局面においてだった。いわぱ、<彼のいうことなら共感できる>と思っていた人間たちが、明確な方針もだせないし、同じ問題で悩んでいるって感じられたときですね。
鶴見 いつの時点ですか、68年の秋?
70D いや、69年です。ぼくは1月9日の機動隊導入で逮捕され、起訴になって4ヵ月間東京拘置所に入れられていた。そのあとですね。ぼくとしては、逮捕されたときに、これでやっと東大闘争が自分のものになったんじゃないか(笑い)・・・。その点、ぼくと同じょうな存在だった友人たちが同じようなことをいう。ぼくが逮捕されたときに、いままで自分は枯木も山のにぎわいといった感じでデモに加わっていたのが(笑い)、急に東大闘争が迫ってきた、と。
文学部は安田闘争後も授業紛砕がずっと続いていたが、11月ごろもうこれ以上やっても見通しはないからと、<授業介入への方針転換>と称して、みんな履修届だして試験うけて、という状況になった。
ぼくとしては、そうすっきり割切ることはできなくて、いわば猶予期間として、試験を一回見送り、結果としてまわりの状況から浮きあがった。それによっていろんなことが見えてきた。とにかく、あらゆる方針が信じられないとすれは、闘争の中でえた人間的なつながりをバックに、自分自身が見出した問題を徹底的に追求していくことしかありえないんではないかって、やっとそれに思いいたったのが70年になってからです。
鶴見  D君はわりとめずらしい例なんじゃないかな。いわば早発性に対する遅発性。そういう形で、3年生を3回やってまだ大学にいる。他の人たちはもっと要領よく卒業したり、他の闘いに転化してったりしてるわけでしょ。
70D  いや、例外ではなく、それか運動を支えた、 ごくふつうの人間をある意味で代表しているのではないかと思う。ぼくのまわりには、卒業を遅らせてある程度はっきりするまでっていうのが、かなり多い。

70年闘争は“学生運動"か
60A やっぱり60年闘争というのは“学生運動”なんですよね。でも、70年の運動は学生運動といえるのかどうか。個体自身に、深くかかわりあっている。安保闘争の中で何回か、全学連大会の議案を書いたが、その発想法はまだ情勢分析をやって活動方針をだすという演繹的なやり方で、そのあいだになんら媒介項がないようなものだった。ぼくが会社に入ったのも、情勢分析からスタートして方針を決めるという発想法に深くとらわれている(笑い)・・・。
60B  やっぱりある権威があった。
60A ありましたね。何をめざすかというと、前衛党の建設。みんなレーニンの『なにをなすべきか』を読んで、組織論を考える。教科書的な枠組みをでていない。まさに絵に描いたような左翼だったという感じがする(笑い)。
鶴見 B君は大学院に入ったのは決定延期であるといわれたが、その後は?
60B 民主化の限界性を口にしながらも、教室民主化運動に多少かかわって、逆に既成左翼から功績をめでられたこともあった(笑い)。研究のほうは、修士論文かいて、ある仕事をしたという感じはあったか、これからは境界領城をやんなくちゃしようがないということで、他の分野に足を踏入れた。そのころは非常に不遜なことを考えていた。右手と左手に博士号を二つぶらさげて世の中をハスにわたってやろう、と。こけおどしだってことは自分でもわかっていたが、おどされる奴がパカなんで、という形でね。
博士課程を終ってしばらくは、ある国立大学の助手をつとめていた。全共闘運動があと半年か1年遅れていたらおそらく講師へのコースにのって教員体質にドップリつかって、<いやあ、いろいろ事情もあることだから>なんて、左翼運動に物わかりのいい助教授にでもなっていたかもしれない(笑い)。
ともかく、研究者コースから自分でははずれないといかんと思って・・・。いまだに大学屋の周辺にいるし、今後もひょっとすると大学屋にもどるかもしれないけど、多少取返しのつかないズッコケかたをしたといえると思う。それは残念というよりも、やっとここまできたかという感じですね。
60A 私が入社したときは、社会党の社会主義協会派と社のかついだ右翼とか勢力伯仲で、組合の執行委員も半半、取ったり取られたりの状態だった。
ところが、63年の組合の役員貝遺挙のときに、ぼくらも社会主義協会の人たちと組んで立候補したら、徹底的にやられましてね。選挙のあといっしょにやった連中はぜんぶ、ほされたり、飛ばされたり。右翼の一元支配ができあがっていったときの挫折感は強かった。ぼくは安保のときはあまり挫折感を味わわなかったんで、そこで安保の挫折感をあらためて感じたことになる(笑い)。社会主義協会派というのは、ある意味でプロレタリアートに対する神話のかたまりのような人たちなんですが、そういった向坂理論のレベルで崩壊していく。そのあと私自身としては、仕事に没入して、運動にはまさに免罪符的にしか、かかわりあいをもってこなかった。
60B  会社に入った連中と久しぶりに会うと、どうしたらいいかって元委員長の意を聞くわけですよ。私はもう、「あんたがたの好きなようにやればいいんじゃないか。おれはおれでウジウジ大学でやってんで、あんたがたのほうがよほど厳しい状況におかれているはずだし、おれがいまさらとやかくいうことじゃない」と。60年のときのままだと、ウソでもいいから、ああしろこうしろなんていうところですけどね。
鶴見 大きな会社に勤めるよりも、小さな会社に勤めるほうがいい。取込まれてもたかがしれてる。あるいは、やめて大きな落差がない、というふうに考えて、小さな勤め方をするというのは60年代にはなかったんでしょうか。
60B  いたけれども、めだたないように入っていった。どんな勤め力をするにしても、おれはここでやるんだって人前でいえないような雰囲気があったと思う。

あらゆる人との対話
鶴見 やっぱり、いかに出世をしないか、いかに権力に近づかないかという工夫が必要だな。日本人は勤勉で、ある種の生産力理論にとりつかれる魔性をもってる。すると、すぐ位人臣をきわめちゃうのね。それではまずい。ぼくは若いうちに、一生ズッコケて暮らそうって自分の進路を決めちゃったんですがね。
70C ぽくは、日大闘争でバクられて、でてきたのが69年の6月。獄中にいるとき、おやじが広島から面会にきたが、<家族帝国主義粉砕>とかいって、ポーンとつっぱねちゃった。しかしおやじが体をこわして寝こんだりしたこともあって、おれも就職して家のこと助けなきゃいかんという気持が起こって就職試験受けに行ったんですよ。ところが、その会社の社長が、ぼくの学部の父兄会の役員やっててね(笑い)、<除籍>と書いてあるぼくの履歴書みたとたんびっくりしてね、「きみのうわさはよく聞いている」なんて話が始まって(笑い)・・・。こんなんだったら、もうおれ就職なんてやめてやるぞッ。しょせん、就職を選ぶってことが、日大でのきたなさみたいなものを逆に自分が身につけることになるんじゃないか、おれはバクられてるうちに日和ったなッという感じでね。
しかし、女房ももらったことだし、生活も苦しいし、なにかカネかせがなきゃいかんというんで、2ヵ月ばかり土方のバイトをやった。そして、こうやってフラフラしててもしょうがない、なにか自分でビシッといくものをやりたいと考えていたら、全共闘運動の出版をやっている全共社から話があって、そこにもぐりこんだ。
最初の話では、1万5千円ぐらいの給料もくれるはずだったんだけど、結局、交通費からなんから自腹切って、それを1年半、ことしの3月末までやっていた。いっしょにやってたSさんといつも話をするんです。結局ぼくたちは全共社からなにを得たんだ、と。カネも得られなければ、地位も得られなかった。
ただ、全共社にあらゆる層の人がたくさんやってきた。ぼくたちはそれだけでいいんじゃないか。あらゆる人と話をして、ぼくたちの闘いがどうであったか、これからのぼくたちが何をしていかなきゃならないのかって問題を、少しでも知ることができたんじゃないか。むしろ、ぼくたちが求めたのは、そういう無形のものじゃなかったのか、と。無形のものってのは、一つの目的でありながら目的でないような、そういうものを追っていくことが生きがいなんですよ、ぼくにとっては。
そのあと明治大学の生協に入って、このあい最初の給料もらったとき、ぼくはその日一日中憂鬱だった。3万4090円もらったんだけど、おれの価値はこれだけしかないのかなってね。やっぱりカネはほしい、一人前の生活をしたいという気持はありますからね。でも、次の日になって考えたのは、あの全共社にいたときの自分の気持を忘れたらいかんのではないかということです。要するに、無形のものがつかめないときには、ぼくは生協をでていくつもりなんですよ。

「転向三回説」にどう対処?
鶴見 ぼくは転向三回説なんです。ます卒業転向、次が結婚転向、それから子ども転向で、子どもが生れたときにほほ決定的にズブズブになっちゃう。
70C ええ、40代ぐらいの人で以前日共で活動してた人なんかにきくと、結婚するのはナンセンス、子ども作るのもナンセンス。で、いまだに籍も入れないで女房といっしょに暮らしてるとかね(笑い)。
60B それ欺瞞的だな。私はまだ独身なんですがね。
70C ぼくからすれば、そういう問題はのりこえちゃえばいい。要するに独身時代にできたことが、なんで結婚したらできないのか。結婚してもできることが、なんで子どもを作ったらできないんだ、という問題でしかない。
70D ぼく学生で、もちろん独身たからまだどういう道を選ぶかってことは選択してないが、どこへ行ったって、そこでやってる仕事自体では、いいことでも悪いことでもないだろうっていう感覚はすごくある。
60A 職業としての具体的なイメージは?
70D  一つの方法は、大学院へ行くこと。60年安保のときには、大学という戻り場所があった。しかし東大闘争はもはやそれを許さなくなったみたいな把握かぼくらにあって、現在逆にその観念にふりまわされている感じがする。大学院へ行くことかある意味で内在的に必然だった人たちが大学を去って出ていっちゃったりということがあるんで、帰って行く必要があるんじゃないかと思う。もっとも、いまから必死にやっても入れるかどうかおぼつかないし、一つの道でしかない。それからどこへ行っても同じだし、やりゃあなんとかなるっていう感じはありながら、やっばり、いやな仕事は勤まらないんではないかって感覚はかかなり確かなものとしてある。そうすると、ジャーナリズムなりその周辺みたいなところなら、入れてくれりゃあ入ってもいい。まあぼくの場合には、裁判をかかえてるってこともあるから、いわば成行きまかせっていう感じ。そこまではふっ切れてる。
鶴見 かりに企業を選んだとしたら、いわゆる職場内改良闘争にはどうかかわりますか。
70D ぼくらの場台、闘争をやった人間の一種の諦めのよさっていうのかな、彼らがわれわれを管理の対象としてしかみないのは当然だし、それなりに彼らはよくやってるみたいな(笑い)見方がどうしてもある。その意識こそがぼくらを動けなくさせてしまうものだと思うので、 そのへんはきちんと自己対象化していかなくてはならないと考えているが、それ以上の具体的なイメージはない。
鶴見 C君もD君も、これからもずっと運動を続けていこうと考えているんですか。たとえば、この世の仕組みを変えるためとか、自分の職場を変えていくとか。
70C ぼくはそういう次元では考えない。要するに、おれとしてどうするかってことしか考えない。では、いま自分のやってることが運動なのかっていったら、おれはやっぱり運動だ。闘争であるっていいますよ。

歯止めなど考えぬ
鶴見 人間というのは知ら知らずのうちに、世の中の風潮にそまったり、職場の空気になじんだりして、変っていくものでしょ。すると、これだけはおれはしないってことはあるわけですか。たとえば、戦争にはいくまいとかさ。
70C  ないですね。
鶴見  ある意味で、歯止めがきかなくなる可施性は?
70C  あるでしょうね、それは。そういう恐怖感は給料もらったときに感じた(笑い)。そう感じたってことは、一歩ぼくがその中に流されてるってことだ。とすれば、その感じをもっと強烈に感じる必要があったんじゃないかって、悩んでいる。
鶴見 ぼくはかつて、“二足のワジジ論”というの書いたことがある。そのときに歯止のことを考えた。理思的なのは、一足のワラジでとことんまで貫くことだが、それはとてもできまい。とすると、二足のワラジを計算のうえで、はくしかないだろう。だけども、その二足のワラジが絶対矛盾をおこすことはありうるし、そのときにそれまでの自分がえた安定とか富とか名声とかのために、自分の中に正当化の心理が働いてずるずるべったりになってしまわないように、なんらかの原理が必要である。そこで、妥協のワラジの部分が戦争にかかわるようになったら、やめちゃおうと考えた。ところが、いまの社会では、何が戦争にかかわるかってことを決めにくく、歯止の問題は非常にむずかしくなっている。
70D ぼくなんかそもそも歯止の観念がない。これを歯止にしなきゃあなんてこと考えだすときには、もう流されているときだろう。たとえば、敗北局面ではやんなきゃいけないとわかってるつもりなんだけど消耗だなあっていう感覚が絶対ある。いままではそういう感覚は単に押殺すべきものと捉えられていたと思う。しかし、単なる弱さとみなすだけでなく、そもそも消耗感をもたざるをえないものとして方針を捉え返してみることも必要だろうし、自分の中におこることをいっさい抹殺はしないで、その先に何でてくるかをみつめていく。そういうふうにしてしか、ぼくらは生きてゆけない。
鶴見 その場合には、ある種の徒党の組み方が必要になってくるんじゃないか。自分一人だとどうしても流されてしまう。
70C それもいうなれば、無形のものですよ。いつどこでゼロになるかわからないし、いつどこで千になり、万になるかもわからない、そういう徒党の組み方ですよね。そういうものってのは、個々がそういう徒党を作るんだって気持ちで日常の生活をしていかないと、作れない。

しゃべらぬ人たちの心
鶴見 D君にききたいが、東大全共闘運動をやって企業に入っていった人たちの多くが、いまものをいわない状態にあるという話を聞いている。はたして彼らはつぶれてしまったんですか。
70D  つぶれたって表現は一般的だと思う。ただ、やっぱり、あんまりものをいいたくないという感じをもっている人は多いと思う。それは、就職するときに、譲るべきないものを譲ってしまった、いまの自分は完全に体制の補完物でしかない、という感覚に捉われているからだろう。みんながポシャっていく過程というのは、68年までに論理化されたものを食いつぶしていく過程であった。
しかし補完物だなんていって自嘲しているわけにはいかない。闘争以前はぼくとなんら違わなかった人間が、具体的に袂をわかっていった。その分化の仕方は実に鮮やかだ。
と同時に、彼らは客観的可能性としては、ぼくと同じでありえた、かれらはすべてぼくの分身でもあるという感じがする。そのへんから、自分自身の体験の固有性、独自性をぜひとも明らかにしていかなければならないのではないか。独自性を意識し、何らかの自己表現をもとうとするかしないかで、感じ方も具体的な行動も違ってくる。就職してしゃべらない連中とぼくとの違いはそこではないかと思う。
鶴見 しゃべれない人たちの場合、みずから韜晦(とうかい)して、わざと語れないと称しているということは考えられませんか。
70D 重すぎる状況の中では、自分をごまかさないかぎり何もしゃべれなくなるということだと思う。何をいってみても上すべりしちゃう。しかも、やんなきゃいけないことがあると思いつつ、何もいうことがないというのは苦痛なことだ。しゃへるのにも、しゃべらないのにも違和感がある。しかし自分のそういう存在を客観化していかないかぎり、いつまでたってもある表現への道筋はできてこないのではないか。

企業内情報の暴露
鶴見 職業と運動の関連でいえば、だいたい三つの型がある。一つは、組合主義的な動き、それから、たとえば課長ならあくまで誠実なよき課長として精いっぱいやっていくという体制内改良主義、第三番目には、一種の土民主義的なグループを会社の中に組織していく方法。どれも、なにがしか<転向>の問題をふくむと思うのですが、その点はどうでしょうか。
60A  積極的に会社の手先になっていくというハデな転向をしたのは、ぼくたちより前に多い。60年世代の場合には、まさに押流され型の転向というか、非常にウジウジしている。その意味では、ぼくらには歯止論的な考えがつねに頭の中にある。ぼくたちの仲間でも共産党に入りなおした奴がいる(笑い)。歯止として党を使う。そして結局、またやめたり。それから、<隠れキリシタン>という言葉がはやったこともあるが、やっぱり<偽装転向>というのはありえないという気がしますね。急になにかやろうと思っても、害毒しか流さないし、自分で組織していくセンスとか能力自身が消滅してしまっている。
だから、鶴見さんの言葉でいうと、ぼくは最初は組合主義的な立場で何かやろうと思ったけど、それが挫折して、いま土俗的なやり方を模索している段階といえる。大学出のサラリーマンは既にエリートでもなんでもなく、上の方がどんどんつまってきて、いくら会社に忠誠を尽くしても出世はなかなか困難だということがはっきりしてきた。食うために会社にいるんだ、出世は志向しないし事実上出来ない、という意識をもった人が会社の中に非常にふえている。そういう人は自分で旗をふったりしないが、それなりできることがあるのじゃないか。私がいま考えているのは、一種のカワラ版による企業内のマル秘の暴露です。しかも企業を越えてヨコに徒党を組んで、千とか二千という単位で編集していけないかと。
60B 面従腹背ですね。
鶴見 たしかに内部通報の組織化はもはや架空の問題ではない。現にラルフ・ネーダーはそれを利用している。反軍闘争にしても、外側から攻撃をかけるだけでなく、自衛隊に入ることによって、内側から情報を暴露しなければもはや前進しない。ただその場合非常にむずかしいのは、通報者のはずが、だんだんその中で生きがいを感じちゃうという問題だ。いかにして初志をとぎすませたままでやっていくか。
60B 私ははじめにいた私立大学で、機動隊アレルギーを利用して、助手の会を組織して50日ばかり実質ストみたいなことやったあと、教授と対立したこともあるし、エリートコースに踏み込む可能性を自分に残しておくのはおかしいというので、やめたわけです。そのあとは、新左翼運動の応援団みたいなことをやっている。実害をなるべく流さないように。
ある意味で70年の人たちの未熟さが非常に目につくんですよ。やっぱり昔の日本共産党というのは、よかれあしかれ唯一の日本での革命学校であって、その中でそれなりの組織活動の基本を身につけた。いまの人たちはときどきザルで水をすくっていたり(笑い)。とくに組合の中でやるときには、<民同>といって批判している人たちほどの実力もない。まして代々木はもっとあくどくて、落し穴にもろにつっこまされちゃう。非常に歯がゆいけれども、私がシャシャリでていけは、逆に毒害を流すことになる。結局何をやっているかというと、昔の仲間と連絡をとりあって、カネを出したり、バイトの紹介をしたり。
鶴見 実は私は10年前にも同じような<職場内運動>をめぐる座談会をやったことがある。そのときも、ヨコのつながりによる組織化の必要性が説かれてたけれども、では、職業をもった人の慇懃雌伏10年の切磋琢磨がヨコに広がって、69年なり70年でパッと火がついたかというと、そうはなっていない。ですから、高揚期をすぎたあとのポスト・ピーク・オーガニゼーションの問題にいまこそもっと真剣に取組む必要かあるのではないか。
70D そのピークのときにはらまれた観念による一種の呪縛がどうしてあって、闘争を思い出としてしか語りえない。しかも、日大などではほとんど除籍されちゃったりして、バラバラになっていかざるをえない。その点、ぼくらには分断されないまま日常的な接触を保つことを許す程度の状況がいまある。しかし、そろそろこの6月がタイムリミットの時期で、ぼくらより一年上の連中が東大から追い出されちゃう。何年かたってたまにみんなが集まっても、闘争を思い出して語るというか、同窓会みたいなことしかできないんだったら(笑い)、何もしなかったのと同じじゃないか。そういう危機感はみんなもっている。
いまのところ、研究とか討論の場が設定されても、みんな口が重いが、 一対一になればかなりつっこんだ話もできて、話しているうちにいろんなことがはっきりしてくるという感じはある。だからそれを目的意識的に持続し、できる限り言葉として定着させること通じて、もっと確かなつながりが得られるような気がして、今それを何人かで始めている。
(終)

【「カチューシャ」とウクライナ戦争】の紹介
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『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社)定価2,200円 (税込)前田和男 著
日本では青春のラブソング、独ソ戦では戦時愛国歌謡、現在では北朝鮮兵士がロシアで歌うカチューシャの歴史を読み解く歌謡社会学

『昭和街場のはやり歌』(彩流社)の続編で、ロシア歌謡の「カチューシャ」からロシアのウクライナ侵攻の行方を読み解く試みです。

白井聡氏から推薦をしてもらいました。

たとえば、以下のエピソードから、ウクライナ侵攻の決着を占います。

▼「カチューシャ」はスターリン体制下で生まれ、ヒトラーとの壮絶な「大祖国戦争」を鼓舞した「軍歌」であり、「スターリンの死のオルガン」と恐れらたロケット砲の愛称でもあった。

▼2022年2月ロシアのウクライナ侵攻の半年前、東京五輪で「国歌」代わりに要求しIOCから「愛国的」として却下された歌、それは「カチューシャ」だった。

▼ウクライナ侵攻から1年1か月後の2023年3月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に若者や軍人など20万人が参加してウクライナへの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催。その冒頭を飾ったのは兵士たちによる「カチューシャ」の大合唱であった。

▼「中国の人気歌手の王芳がロシアの攻撃で占領されて廃墟となったウクライナ東部のマリウポリ劇場を訪れ、『カチューシャ』を熱唱し、それをインターネットに投稿した」

▼2019年。「如意(ルーイー)」と「丁丁(ディンディン)」のつがいのパンダがモスクワ動物園へ。そして、ウクライナ侵攻がはじまって1年後の2023年に待望の赤子が誕生。翌2024年3月に般公開されたが、ここで着目すべきはその子の名前。なんと「カチューシャ」。これまで日本はもちろんロシアをふくむ世界の 国々に贈られた中国外交のシンボルは、その子供をふくめてすべて中国名。それは贈り主に配慮しての外交的辞令だが、中国政府はこれにクレームをつけるどころか、歓迎して同国メディ アでも報じられた

▼さる6月上旬、ロシア国営テレビの女性レポーターが、現在ウクライナでもっとも戦闘が激しいと伝えられるクルクス州の最前線で訓練中の北朝鮮兵士を取材、戦闘中の意思疎通をはかるために 「朝露の会話 集」が作成されたと報告、ついでボルシチなどのロシア料理にもなれ、スマホで映画を見放題で満 足しているという兵士のコメントを紹介し終わると、北朝鮮兵がいきなり「カチューシャ」を朝鮮語でうたいだした。

【昭和20年生まれからキミたちへ】の紹介
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『昭和20年生まれからキミたちへ』(世界書院)定価1,650円(税込み) 
終戦の年の昭和20年に生まれた各界で活躍する10人のロングインタビュー。
▼彼らが戦後の復興から高度成長期そして現在までの80年をどう生きてきたのか。彼らの生き方を通して戦後の日本の足跡が見えてくる。
▼そして彼らが若者に託すメッセージは何か。
▼東京新聞の連載企画を大幅に加筆した。

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月17日(金)に更新予定です。

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