野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、1970年4月6日発行の『週刊アンポ』の記事である。特集は「嗚呼 日本万博大博覧会」。55年前の1970年3月15日から9月13日まで大阪で開催された「日本万国博覧会(大阪万博EXPO‘70)」対する批判記事である。
この万博には6,400万人が入場したとされおり、今年(2025年)開催予定の大阪・関西万博とは大違い、大きな盛り上がりとなったが、70年安保を控えての「安保隠し」との批判もあり、反対運動も盛り上がった。
反対運動としては、この記事にも出てくる万博粉砕共闘会議の反万博デモもあるが、4月26日には太陽の塔に赤軍と書かれた赤ヘルメットの覆面の男が立てこもり、万国博反対を訴えた事件も発生した。(赤軍派とは無関係)
芸術分野では、同時期に前衛芸術集団「ゼロ次元」を中心とする「万博破壊共闘派」のメンバーの1人が全裸で万博会場の正門から突入した事件もあった。(マスコミには報道されていない)
また、万博の前年(1969年)の8月には、関西ベ平連などが中心となって大阪城公園で「反戦のための万国博」(ハンパク)が開かれた。「国家からのお仕着せのバンパクをはねのけて、われわれ自身のハンパクを成功させよう」ということで、万博反対ということもあるが、「反戦」、「反安保」、カウンターカルチャーのお祭りのようなイベントであった。
この時の様子は、ブログに掲載している。
連載No94  1969年夏 反戦のための万国博 : 野次馬雑記

※『週刊アンポ』の万博特集記事はいくつかあるので、引き続きブログに掲載予定です。
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『週刊アンポ』No11 特集 万国博
「万博 牢獄のなかの未来」 鈴木正穂 

「世界はひとつ」と人は酔う。進軍ラッパの声高く、万博へ、万博へと草木はなびく。だが、ほくらはインターナショナルを歌えない。鳴呼、世界はひとつ。
<3月15日
新しい未来が誕生>
阪急電車のつり広告。そのえらくバラ色で、妙に甘い響きの「新しい未来の誕生」という宣伝文句に、僕は苦笑する。

<万博を作ったのは労働者だ>
「新しい未来が誕生」する以前、万博会場では、労働者が最後の仕上げに忙しかった。日焼けした顔、白髮まじりの頭。何々組のヘルメット、長靴か地下夕ピ。軍手で作業着は泥まみれのオッサンたち。その時の労働者には、威厳がある。
背広の企業関係者や報道関係者が工事現場に無断で立ち入ろうとするものなら、「コラ!じゃまだ。どけ、危ないぞ!」と叱る。協会本部の食堂においても、泥まみれの姿で飯をぱくつく。そこには労働者のエネルギーがある。
だが、いかにも農民だったと思われる人々がなんと多いことか。
「オジサアン、故郷はどこですか」「青森」「いつ頃からこちらに」「もう、2カ月になりますな」「はじまったら見に来ますか」「いいや、来ません」おそらく、故郷に残してきた妻子のことが思い出されるのか、その50歳ぐらいのオジサンの顔は、暗い。そういう、多くの出稼ぎ労働者の手によって、万博はつくられた。およそ120万人の出稼ぎ者が日本列島をさまよっているといわれる。
祝、万国博。オメデトウ。
しかし、万国博を呪う17人の魂が地下に眠る。そのことを僕は記憶し続けたい。
万博工事による權牲者。
平川岩夫(36歳)兵庫県尼崎市七松。砂川利春(28歳)熊本県芦北郡田浦町小田原。伝法谷市雄(34歳)青森県西津軽郡木造町大字越水字神山。松井基美(41歳)高知県高岡郡窪川町桧生原町。古賀久喜(25歳)大阪市住吉区我孫子東。田中昇(41歳)大阪府吹田市新千里北町。西宮寬(47歳)愛媛県宇和郡御荘町南川。関住光(46歳)長崎県佐世保市早苗町。釜井一義(22歳)熊本県荒尾市北増水。袖川武(38歳)大阪府泉南郡日根村字野々地蔵。山下菊蔵(60歳)。折田照孝(26歳)。古川石松(50歳)。松田定男(33歳)。辻本実(26歳)。松山桂吉(37歳)。飯田善男(35歳)。
全治2日以上の負傷者、292名。
関連事業の地下鉄や高速道路の工事を含むとさらに死者、負傷者の数は増大するにちがいない。
その死者の家族にとって万博とは。
呪。万国博。
その暗い脇の明るい舞台で、スポットラィトを浴びる万博マークもあざやかな白いヘルメットの花、容姿端麗なコンパニオンたちは地図を片手に、笑顔の訓練に余念がなかった。

<戒厳令下の万博へ>
その頃から、すでに警備訓練も熱心に行なわれていた。VIPという重要人物のために、さらに70年安保という政治焦点のこの年に、無事、破壊されることもなく、偉大な大国、日本を誇示するために。寒風吹きすさぶ駐車場で、どうせ多くはにわか仕込みのガードマン、100人ぐらい、5つほどの隊列が、恥しそうにニヤニヤ笑いそうになるのをかみ殺して、指揮者の命令に「オイチニィーオイチニィー」と足をそろえて歩いていた。その行進には、ユーモラスなものがただよう。だが、やおら警棒を抜いて「撃て!」と身がまえる時、寒々としたものが僕を襲う。
そして白いネッカチーフを首に卷き、例の黒靴、青い乱闘服の機動隊員が、5・6人の隊列で地図を広げ、トランシーバーを持ち会場内のパトロール。もはや、自由はない。
さらに、未来の警備体制を先取りするための実験がコンピュー夕・システムを実用化するために行なわれる。巨大な警察都市へのテスト・ケース。
コンピュー夕が4台。ワンタッチ式の非常通報器が83ヵ所。うち30ヵ所はパビリオン内部。放送マイクが653ヵ所。うち非常広報器の役割を果す特別装置つきが57ヵ所。そして、受像機が本部に設置されている監視用閉回路テレビカメラが出入口、駐車場、お祭り広場などいたるところに50ヵ所。

<釜ケ崎から>
僕は、その同じようなテレビカメラのシステムを「人類の進歩と調和」という白々しいテーマとは、まったく反対のところにある、大阪西成区の釜ケ崎で見た。アルコールとホルモン焼きと小便の臭気が充満し、昼さなかに酔っぱらったオッサンが肌寒い陽だまりの下で、酔いつぶれ寝息をたてていた。彼らを監視しているテレビカメラが9台。受像機は西成警察署にある。果敢に釜ケ崎で運動をすすめているFさんは、その現実を「格子なき牢獄だ」と吐きすてるようにつぶやく。
たしかに、きらびやかなネオンがけばけばしく、外観からはまるで温泉マーク風に見えるホテルがたくさんある。だが、それは「ドヤ」で「立って半畳、寝て一畳」の棺桶式、或は、消却炉式と自嘲的に形容する一泊250円の宿屋で、非常口はもちろんなく、そして悲惨なことにすべての窓には鉄の格子がはまっている。そこで生活している人びと、およそ1万数千人。日雇、賃金約1,900円。最も過酷な肉体労働に彼らは従事する。
「松山一郎さん、すぐに家に連絡して下さい。おかあさんがキトクです。妹より」ビラが福祉センターのドアに舞う。
資本がつくりあげた労働者を搾取するメカニズムは、万博工事が始まった頃、釜ケ崎の労働者を建設工事に使わなかった。すでに、労働市場は確立されていて、大企業は下請け、孫請けで釜ケ崎の労働者を搾取することで精一杯だったから。その口実は「ガラが悪いから」ということだったらしい。そして、つまり、新しい労働市場を拡大する必要があったので「真面目な、素朴であろう」農村からの出稼ぎ労働者を万博建設工事に多く使うことによって日本の繁栄を築く。
いびつに、ゆがんだ繁栄。
その状況の中で、釜ケ崎のごく少数だが、ラディカルな労働者は次のアピールを出す。

万国博におこしになった世界の皆さん
日本で有名な「生活館」釜ケ崎ーカマガサキを案内しますー
私たちは「京都」や「奈良」とともに、日本で有名な大阪市内のスラム地区である「釜ケ崎」を見学されるようおすすめいたします。
万国博会場から地下鉄で30分「動物園前」という駅で降りていただくと、すぐそこに「釜ケ崎」があります。
そこには日本の庶民のいつわらない生活があります。人間の匂い、アルコールの臭い、煙草のけむり、怒号、わめき、釜ケ崎こそ日本国民の喜びと悲しみ、涙と笑いが渦巻いています。「釜ケ崎」こそ驚異といわれる世界第2位の生産力(独占資本の急速な経済成長率では世界一)を築いた日本資本主義の歴史的な秘密がかくされているのです。
日本万国博のテーマ「人類の進歩と調和」というお題目が、「釜ケ崎」にどのように結実しているでしょうか。
「釜ケ崎」は日本の資本主義がヨーロッパの資本主義よりずっと遅れて出発して帝国主義になっていく「明治天皇の時代」に第五回内国博覧会が開かれた時にできたスラムです。「富士山」と「釜ケ崎」を見なくしては本当の日本を知ったことにはなりません。釜ケ崎には、約1万8千人の単身労働者と、2、3千人の世帯持ちが生活の根拠をおいています。
とくに午前五時過ぎ、「天王寺動物園」横丁や、南海電車で難波駅から乗って一つめの駅「新今宮」のガード下にいけば、その日その日の「日雇労働者」と「手配師」の労働契約の状況がみられるのです。平均5、6千人が集まります。
「釜ケ崎」に足を運んでいただいて、つぶさに人間として考えていただきたいのです。
釜ケ崎の労働組合は、万博におこしになった世界の皆さんが「釜ケ崎」を見学されることを心からおすすめしますとともに、無料でガイドの役をお引き受けします。(抜萃)
大阪市港区南市岡二丁目12ノ28
(電話06ー583―1072)
全日本港湾労働組合関西地方本部
建設支部西成分会

<ハンバク闘争>
「こんにちは70年!市民、労働者はたたかう!」と大きく書いたたれ幕が束京数寄屋橋のビルの屋上から降ろされ、「万国博ANPO70年まであとXX X 日となりました。(中略)私たちは宣言します。こんにちは70年!さよなら安保!6・15市民解放評議会」の赤や黄や白のビラが、坐わり込んだ人々の上空を舞ったのは、たしか僕が19歳の時、1968年6月15日だった。あの日、数寄屋橋の万国博の電光宣伝掲示板に「万博まであとXXX日」と輝やいていたかは、記憶がない。
69年、夏、「反戦のための万国博」。70年、3月8日。万博まであと7日、大阪は扇町公園。昼さがり、3月にしては肌寒い日だった。200人ぐらいの万博粉砕のために小さな集会が、20人ぐらいの私服警官が見守る中で行なわれていた。
キリスト教館の問題で教会闘争を提起し、万博は日米共同声明の延長上にあると考える反安保キリスト者連合の人々。(彼らは万博開催中、毎月第3日曜日午後3時、扇町公園に集まり、執念深くハンパク運動を取り組み続けることを確認している)そして、台湾館粉砕を中心スローガンとして、毛沢東思想学院、反戦日中、ML派等の日中友好関係の人々だった。
その集会で「アンチ万博」というガリ版ずりのミニコミをくばっていたN君は、「オレ、こんなとこで喋るのは初めてやあ」と言いながら恥しそうにマイクを持った。彼のひとりの友人は前日逮捕されている。彼は次のように書く。
「3月7日、『万国博を迎える市民大会』が大阪、厚生年金会館で開かれた。万博に関する最初の公的な集会であった。小学生が動員され、たかそうなコー卜を着たおばあちゃんやらが参加した。が、大会は無事に終わらなかった。“大会の終りごろ、万国博反対をさけんで若い男が壇上の中馬大阪市長につかみかかろうとし”た。“この騒ぎはごく短い間のできごとで”あったかもしれない、しかし、万博に関する最初の公的な集会は決して平穏に開催され、終了したのではない。(“内は朝日新聞三月八日朝刊からの引用)
この宣戦布告に対して警察当局はどのように対応したか。不当逮捕、家宅捜索、拘留延良というキチガイじみた弾圧をもって。
万博とはなにか。なぜ、粉砕しなければならないのか。『アンチ万博』を発行するわれわれはこう考える。万博とは、企業の国際見本市であり、支配体制の強化の一環であり、私たちの文化ではなく、さらに70年から眼をそらせるためのものであるという分析でとらえきることはできない。それは、もっと深く帝国主義国、日本に根をおろしたものであり、帝国主義の体内深くから、つかわされた怪物である。」
そして、「今、日本人民に最も必要なことはアジア人民の血と屍の上に成立しているだけでなく、さらにアジア人民の血と屍とを再び虎視たんたんとねらう万博に出かけて、1日だけの、恐らくは空虚であるだろう楽しみを得ることでは決してない。出入国管理体制粉砕の闘いにまず立ち上ることこそが早急の任務である」と結ぶ。また、彼はこうも叫ぶ。
「万博期間中に予定されている各国の軍艦の大阪港寄港にこめられた大阪港軍港化のもくろみを糾弾する港湾労働者の声を聞け。
『万国博に各国の軍艦が大阪港に多数長期にわたり停泊し、自衛隊の軍艦が出迎え礼砲を鳴らし合います。軍港化の第一歩を万国博に便乗して行ない、その後、恒常的に自衛隊の基地化されてしまいます。軍港化反対の闘いをつくりだそう。』(塩水港精糖裁判ニュースより)と。」
デモは万博マークの氾濫する大阪の町を進んだ。
そして、彼等は安保万博粉砕共闘会議を結成する。
日中友好運動の中で活動してきたひとりのオジサンは、「二つの中国をつくる陰謀、台湾館と台湾デー粉砕の闘争を入口として安保粉砕の大闘争に合流して行きたい。老兵は老兵なりに体を張って与えられた任務を果たすために、残る生涯をかけて台湾館粉砕を叫びつづけることを誓いとする」と悲痛なまでに叫ぶ。なにが彼をそう叫ばすのか。
3月10日、共闘会議は万博開幕の3月15日、午後2時半に中央口駅に約千人が集まり、会場周辺道路でのデモを申請する。
大阪府公安委員会は、11日「15日は初日で、入場者は60万人を越えるものとみられ、この混雑にデモが重なれば、たちまち滞留が起き、事故につながる恐れがある。中央環状線をはじめ問辺道路もマヒ状態が予想されるので、デモが広域にわたって交通の大混乱を起しかねない」という理由で不許可。再申請するも、ふたたび不許可。
共闘会議のSさんは、「安保闘争とからませ、われわれは強くないが、図体が大きい敵の重さと大きさを利用したい。最初の闘争は、後々のパターンをきめるので、ゲリラが続発することを期待したいなあ」と闘いの前々日語った。
3月14日、開会式。新聞報道を見ると、不思議なことに、右翼大白本愛国党の三人が「唯物的ブルジョア万傅反対宣言」といぅビラをまき、公務執行妨害、道交法違反、建造物侵入現行犯で逮捕されている。もっともく 大日皇誠会の連中は、「日本の祭典万博万歳!日本の国際的信用と誇りを失墜させる国賊!反博共闘会議を粉砕せよ!」とがなりたてていたが。
3月15日。午後2時前後、万博中央口構内は、私服と制服警官と警備員で埋めつくされていた。そこに出現したのが逮捕覚悟の安保万博粉砕共闘会議のおよそ150人。ジグザグデモと坐わり込みで、バンパクフンサィを叫ぶ。制服警官300人が出動。鉄道営業法違反、威力業務妨害、不退去罪で67人が現行犯逮捕。中央口の横にある警備本部からひとりずつ手錠をかけられ、警官に肩をひっつかまれて彼等はトラックに乗せられていく。その情景を、ほとんど混乱を起こすことなく、無表情に、無感動に一般客はながめていた。
この逮捕覚悟で、バンバクフンサィを叫ぶ象徴的な行動に、僕らはなにを見るか。
おなじ頃、お祭り広場の席から釜ケ崎解放戦線のビラがまかれた。だがその場にいたI君の話では、すぐに警官が追いかけたという。
3月16日、午後6時。(以下、朝日新聞による)「国府館三階の展示室で若い男が、かくしていた長さ15センチのスパナをとりだし、いきなり展示室の壁ぎわに飾ってあった蒋介石総統、宋美齢夫人のカラー写真を入れたケースのガラスをたたいた。そばにいた同館のガードマンが前から組みつき、同じ部屋にいた大阪府警の私眼警官が後ろから飛びついて男をとり押えた。男は『これが権力か。』と大声で叫びながら抵抗したがすぐ、手錠をかけられ、威力業務妨害現行犯で逮捕された。同館には、23人の私服警官がおり、事件当時、同室には10人ていどの観客がいただけでさわぎは10分ほどでおさまった。」
驚いてはいけない。なんと私服習官が23人も台湾館にいるのだ。
たしかに、彼らの行動はラディカルで先鋭的だろう。しかし、次のような警備監察に関する特別規則を読むと、僕等は会場の中で、インターナショナルを歌えないどころか、もちろん、万博ナンセンス、安保フンサイと叫べない。デモ、集会が一切禁止されていることに気づくであろう。そう、逮捕覚悟でないと、未来都市では、うっかりアクビもできないのだ。

<資料>
管備監察に関する特別規則
(S44年 8・14制定)
(禁止行為)
第8条 何人も会場内において、次の各号に掲げる行為をしてはならない。ただし、第8号から第12号までに掲げる行為を博覧会に関する諸規制に基づいて行なう等協会が博覧会の運営上必要と認めた場合は、この限りではない。
(1) 立入禁止場所に立ち入ること。
(2) 出品物、施設、備品等博覧会の用に供せられる物を損傷し、または汚損すること。
(3) 喫煙禁止の場所における喫煙等火災予防上危険な行為をすること。
(4) 酒類を提供する場所および休憩所以外の場所で飲酒すること。
(5) 通行を妨げ、または通行の危険となる行為をすること。
(6) 場所を占拠して気勢をあげ、または他人に嫌がらせをすること。
(7) 他人の身体または物件に害を及ぼすおそれのある物を携行し、または投げ、注ぎ、若しくは発射すること。
(8) 拡声機、メガホン等を使用すること。
(9) ポスター、ビラ等の文書を掲示し、または配布すること。
(10)  寄付を募集し、署名運動をし、または調査回答を求めること。
(11) 集団示威運動、集会または演説をすること。
(12)  プラカード、のぼりその他これらに類似する物を掲示し、または携行すること。
(13)  前各号に掲げるもののほか、他人に危害を及ぼし、迷惑をかける等会場内の秩序をみだす行為をすること。
(入場拒否)
第15条  入場券、入場証または招待券を所持する者が次の各号の一に該当する場合は、協会は、会場の秩序および安全を保持するため、当該者の入場を拒否することができる。
(1) 他人の身体または物件に害を及ぼすおそれのある物を携行して入場しようとするとき。
(2) 異様な服装をし、酩酊し、著しく粗野または乱暴な言動で他人に迷惑をかける等博覧会の秩序維持上好ましくないと認められる状態で入場しようとするとき。
(3) 犬その他の動物を会場内へ持ち込もうとするとき。

万博は70年安保のかくれみの、或いは眼をそらすためにあるのだという説は正しい。だとすれば、僕らはいかに切りくずしていくのか。

<オリンピック、万博、次は・・・>
70年3月14日、朝、花やかに開会式は行なわれた。
祝砲。
あの大砲の音の記憶は、沖縄のカデナ基地を飛び立つビーゴーニ(B―52)の爆音につらなる。耳をつんざき、腹わたをかきむしる大砲の音。花やかなお祭り広場でファンファーレが高らかに響く時、国連館の前に陣地を組んだ日本国軍隊、自衛隊の大砲は6台並んでいた。70数ヵ国の国旗が旗めく掲揚台から鉄カブトの隊員が赤い信号旗で、隊長に伝令を送る。隊長の号令一下、陸上自衛隊第三師団、姫路特科連隊の隊員は、ダークグリーンの105ミリりゅう弾砲の前に戦闘準備を整える。各砲の指揮者1人。そして兵士5人。白い鉄カブトで、白いネッカチーフをまき、保安隊員という腕章をまいたいかつい兵士が直立不動。
11時40分頃。信号旗が振られた。
「ウテエ!」金色の薬きょうが砲筒にほおり込まれる。僕は緊張して、体をちぢこませ、耳を手で力いっぱい押える。
そう、あの音は、ベトナムの空に響いている。
ドースン・バクーウン・ドースンという猛烈な衝撃音。10発だったか、12発だったか爆弾は飛ぶ。淡い紫色の硝煙があたりに漂い、金色の薬きょうは少しこげて、ぽろりと砲口から落ちる。祝砲は打ち終わった。そして、イチニィー、イチニィというふうな掛け声をかけて、兵隊はもとどおりの場所に直立不動で整列する。
お祭り広場からは、奇妙に悲壮な音楽が流れ、花火が打ちあげられ、風船が舞い上がり、噴水の水がいっせいに出る。
「耳に何もつめてないんですか」「もちろんしてません。なれてますからね」
平然となんとなく誇りに満ちた、ニコヤカな顔をしたひとりの兵士、自衛隊員は笑った。
色とりどりの花やかな民族衣装の、子供たちや、コンパニオンは肩をたたきあって感動に満ちた笑顔で、お祭り広場の開会式の主役だった。さあ、世界はひとつだ、と人は言う。
だが、実はきらびやかなお祭り広場は格子なき牢獄で、戒厳令下の中のひとつの空間にしかすぎない。
荒涼とした会場の外には、制服警官が5、6人、或いは20人ぐらいの隊列で、警らしていたし、トランシーバーを持って陰険な眼つきをした私服が300メートルおきぐらいに立ち並んでいた。それに灰色の装甲車が駐車場で待機していたし、御苦労なことに放水車も止まってる。
会場の中は、うすい茶色のユニホームに身をかためた警備員がそこかしこに突っ立ていて、もちろん、制私服の警官が右往左往。総計、5,500人の警備体制。
それは、戒厳令下。開会式の余韻がまだ会場を包んでいた時、南の空から編隊飛行のジェット戦闘機が爆音も雄々しく、赤、青、白の飛行機雲をたなびかせて、大空に<E X PO‘70>と日本国空軍、航空自衛隊ブルーィンパルスがカッコヨク飛んだ。あのキーンと響く金属音は、ファントム戦闘機がベトナムの空を飛ぶ時の音にちがいない。
オリンピック、そして万博。さて、次は・・・。
それにしても、着飾ったコンパニオンと背広姿の人々でお祭り広場はあふれていたが、泥まみれになって働らいていた労働者は、その日、どこに行ったのか。

<3月15日。新しい未来は・・・>
もしも、70年3月15日の朝、新しい未来が誕生していたとすれば、僕はあれほどまでにけだるく、疲れていなかっただろぅ。
コンピュータの60万人の予測が間違っていたとしても、猛烈に多くの人々が歩き、もくもくとパビリオンの前に、食堂の前に並んでいた。秋田県なんとか教会や農協旅行のたすきをかけ、モンペ姿のオバサンたちが、旅行会社の旗をめじるしに、ゾロゾロ歩き、修学旅行生たちは胸にワッペンをつけ、行儀よく引率の先生の指示にしたがっていた。それに、ほとんどの人々が手に手にカメラをぶらさげ、コンパニオンの横でニヤニヤしながら「ハイ・チーズと笑って」それは、ちょうど有名な観光地だ。実に奇妙なバビリオンがせせこましく密集していて、あれがもしも未来だとすれば、お化屋敷に、遊園地、産業見本市に、博物館、そして、動物園プラス百貨店がある都市を想像すればいい。それで、すべてはいいつくせる。
しかし、それにしても、なぜあんなに多くの警備員が立ちならび、警官がパトロールしているのか。もちろん反対闘争で危険だと思われるパビリオン(アメリカ、ソ連、キューバ、南ベトナム、中華民国、大韓民国)には、トランシーバーをもった私服がウロウロ。
ニコヤカな笑顔を絶さないコンパニオンは、赤や緑や白の帽子をかぶり、ミニスカー卜に白いアミタイツ。或いは、パンタロンに、ハンドバック、「オハヨウゴザイマス。ヨウコソイラッシャイマシ夕。」ニコヤカにニコヤカに笑い続ける。笑い続けなければならない。痛々しく、いじらしいほどまでの微笑。つくり笑い。彼女はあなたに笑っているのではない。たとえ、つくり笑いであるにせよ。
子供たちは、歓声をあげて、眼を輝やかして、エキスポランドを飛びはねる。つきそいのパパやママはなんだかゆううつそう。休日の動物園か遊園地の風景。
たしかに、エクスポは白い肌、黒い肌、黄いろい肌の人種のルツボにはちがいない。コンピュータは100万人という外国からの見学者の数を予測するが、その数字は驚異だろう。彼、彼女たちは侵略軍の兵士、占領軍の支配者として、日本にやって来るのではない。或いは、被侵略者として、強制的に連行されて来るわけでもない。だから、そこには希望がある。たとえば、チェコスロヴァキアから、4人の青年が徒歩で大阪まで歩いて来るという蛮勇には感動する。そして、もしも、ハニカミヤの日本人たちがうれしそうに、カタコトの外国語で、各国からの観光客に話しかけるとすれば、愉快だ。

<らぶ・いん・エクスポ>
そこには、人間がいる。完壁なまでのコンピュータ管理体制と、多くの警官が会場を制圧していたとしても、そこに歩きまわる人間がいる、というただひとつのことに僕らの未来を睹けよう。
僕は、いかにこの地球上にたくさんの友だちを、恋人をつくるかと夢想している人々に共鳴する。それは、僕自身の未来に対するひとつのイマジネーションなのだが。つまり、いかに国家のわくを乘り越え、個人的な人間のつながり、広がりをつくりあげることができるかということへのプラン。つまり「日本人は偉大な民族である」と言う馬鹿がいれば、その論理を、どのように拒否し、僕たちの「人間は平等である」という思想をうちたてることが可能かどうかの問題。それには、実際、異邦人と顔を見あわせなければならないだろう。その場は、主催者が意図していようと、いまいと、ひとつは万博になる。単なる美談としてではなく、それを逆手にとって、民衆の側のエネルギーで新しいコミュニケーションを、僕等のためにつくりあげることができるとするならば、未来はまだある。
だが、新聞報道によれば、韓国では総連系の人々に近づくなという思想教育が万博に来る旅行者に対してなされているという。またチェコスロヴァキアからは、秘密警察が来ているという情報も流れている。うわさとしても、それは、ありえることだ。ここにも暗い政治の陰がおちる。闇の中で、秘密警察の陰険な眼がひかり、さらに、日本の警察のギラギラとした眼が万博会場を被う。その中の偽りのお祭り。
しかし、いずれにせよ日本政府の威信をかけて、会期中、様々なアクシデントがあるとしても(すでに空中ビュフェの故障などがある)万博は、お祭りムードの中で9月13日に、盛大に幕を降ろすであろう。
なかには「後家のふんばり」でも行かないという人々もいるだろうが、風かおる五月の連休には、50数万人もの人々が「食料と寝袋とシビンを持って、万博へ!万博へ!」となびくにちがいない。延べ、5,000万人の入場者があると予想される人出は、さながら現代における民族の大移動だろう。さらに、コンピュータは、会場で50名弱の人が病死、あるいは事故死することを予測しているが、「命をかけて万博へ!」という悲壮な決意のもとに、大移動する人々の姿は、実にユーモラスで、平和的だろう。
その民衆のふれ合いに賭けるか、それとも、民衆を踊らすために笛を吹く政府の甘い言葉に耳をかすか。そして、僕らにとって「70年」万博とは、いったい何か。

(終)

【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)

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「創出版」のリンクはこちらです。

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき重版決定!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

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【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は1月31日(金)に更新予定です。

今回のブログは、12月7日に開催した明大土曜会の中で報告のあった「明大土曜会2024秋季沖縄ツアー」である。10月31日から11月3日まで、3つのグループに分かれて沖縄を訪問。この報告は主にNさんのグループの記録である。
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Nさん
明大土曜会として、去年の3月に続く沖縄ツアーを開催しました。この報告は主に私(Nさん)のグループの行動記録です。Y・Rさんのグループは8人、若者グループは6人、総勢で20人くらいになりました。と言っても、それぞれ独自の行動をしていて、一緒になる機会はあまりありませんでしたが報告します。

10 月 31 日(木)
早朝、羽田空港を那覇空港に向けて出発。台風が来ているとのことだったが、台湾方面に抜けており、那覇市の天気は悪くなかった(かなりの悪天候を覚悟していたが、ツアー全期間良い天候に恵まれた)。到着後まずレンタカーを借り、最初の訪問地、「斎場御嶽(せーふぁうたき)に向かった。基地巡りばかりでなく、沖縄の文化にも触れようと企画した。
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御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」であり、ヤマトのような社や偶像などは全くなく、森や岩石などが信仰の対象として祈りの場となっている。斎場御嶽は、琉球王国の最高の聖地であり、「神の島」と言われる久高島を望む位置にある。かつては国家的な祭事が行われ、現在でも沖縄の人々の重要な信仰の場となっている。
一緒に行った Y さんは数十年前に来たことがあるそうだ。現在では「観光地化」されているが、かつては参道も整備されておらず、土産物店もなく、素朴な環境だったのだろう。中に入ると静かな環境が残っていて、非常によかった。

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次に南部戦跡に向かった。辺野古の埋め立てへの使用が懸念されている熊野鉱山は、昨年 3 月のツアーで訪ねた時には緑の木や草で覆われていたが、現状は一変していた。山や地面は削られ、完全に採石場の様相だった。1 台のユンボが作業をしていたが、掘り出された石材に仮に戦没者遺骨が混じっていても見分けがつかない。防衛局は「遺骨が混じっていたら作業を止めて調べる」と言っているようだが、作業員はそんなことに気を付ける訳がない。南部土砂を埋め立てに使うことはまだ決まっていないが、採取された石材はどこに運ばれるのだろうか?監視が必要だ。

次に、沖縄戦で米軍に追い詰められた多くの住民が海に身を投げた喜屋武岬を目指したが、道が分からず、隣の具志川城跡に着いた。息を飲むほどの絶壁の海岸から喜屋武岬も見える。台風の影響で荒々しい。こんな絶壁から身を投げたのだ。

その後、那覇市のなは市民協働プラザ向かった。別行動の学生グループが、前回にもお世話になった沖本裕司さんにお話を聞くというので私たちも同席させてもらった。沖本さんは71年に沖縄に移住して平和活動をやっている方だが、学生たちは全共闘運動、学生運動の経験者から聞き取りをやっているとのことだが、今回のその一環とのことだ。沖本さんは60 年代後半の自分の経験をお話していたが、次第に現在の運動の在り方、なぜ若い人は運動に関心がないのかなど熱を帯びた議論になった。1 時間という限られた時間だったが、学生たちの問題意識、意欲に触れた機会だった。
この日は辺野古のクッション・海の見える家に宿泊した。

11 月 1 日(金)
午前中は辺野古埋立て土砂を搬出している安和桟橋に行った。安和桟橋では本年 6 月、急発進したダンプに警備員が轢かれ死亡、抗議をしていた女性が重傷を負う悲惨な事故が起きた。同所では従来、桟橋入口の歩道をゆっくり歩くことでダンプの搬入・搬出を遅らせる合法行動が行われていた。警備員とは、1 台毎に市民とダンプが交互に行き交うというルールが確立していた。ところが本年 3 月から、請負ゼネコンが大林組に代わってから、ダンプの運行が急がれるようになったという。背景には、土砂搬出を促進したい防衛局の意向があると言われている。

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事故の原因は前方確認を怠り無理な発進をしたダンプにあるのだが、防衛局は「市民の妨害が原因だ」と決めつけ、原因の究明と再発防止の対策もないまま、8 月に作業を再開した。
私たちが着いた日は、事故当日も担当だった沖縄平和市民連絡会の皆さんが抗議行動を行っていた。しかし、桟橋への出入り口の歩道は、左右を 10 名近くの警備員がオレンジ色の網を張って歩道を塞いで歩行者を通さない。「通りたいんだよ。歩道を開けろ」と言っても「安全確認を行っています」の 1 点張り。公道を何の権限もない民間会社が規制するのは違法そのものだ。こうした違法な規制により、搬入・出ダンプは事故前より倍増し、早朝 7 時から夜 8 時まで 1 日 1200 台にも上るという。私たちはY・Rグループと一緒になって、 1 時間余り、市民連絡会の人々と共に牛歩行動でダンプの搬入・出を遅らせる行動に参加した。

午後は沖縄北部、東村・高江に向かった。高江は、2016 年米軍ヘリパッド建設が全国から機動隊の導入などにより強行された場所だ。ここではY・Rグループ、学生グループと合流し総勢 20 名近くになった。米軍北部訓練場正門の前では、監視行動を行っているヘリパッドいらない住民の会の U さんと儀保さんの説明を受けた。

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ヘリパッド完成以降、2020年11月から始まった本格運用により訓練が激化し、軍用車両が生活道路や小学校前を行き交うといった状況がある、最近はまた訓練場内で新たな施設を建設しており、作業ダンプが頻繁に行き交っているという。明らかに訓練場の機能が強化され、危険や騒音など負担が増大していると現状を実感した。儀保さんはかつて、住民の反対運動で訓練場建設を断念させたこともあり、粘り強く闘う必要性を強調していた。

夜は全員が集まり、名護市の沖縄料理店で交流会を開催した。そこには先ほど高江で案内してくれた U さんが店員として働いていた。彼は以前、「ゆんたく高江」というグループで活動しており、私も面識があったが、何年か前に沖縄に移住し、昼間は高江で監視行動をやり、夜は店で働いているのだという。交流会は一部の年配者が横柄な発言をして少し緊張した場面もあったが全体に大いに盛り上がった。

11 月 2 日(土)
11 時からキャンプシュワブ前でオール沖縄会議主催の県民大行動が開催、ツアーメンバー全員が参加した。

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集会には 10 月 15 日に実施された総選挙で当選した 4 名の議員が参加し、1区で当選した赤嶺政賢議員は「辺野古のゲート前と結びついた闘いを国会で頑張っていく」と決意表明を行った。また、参加者の多くからは、漫画雑誌『週刊モーニング』の「社外取締役 島耕作」(弘兼憲史作)で「辺野古埋立て工事に抗議する側も日当をもらっている」と、既にデマだと否定されつくされた言説を掲載したことへの怒りの発言があった。
(この問題では、以前 MXテレビ『ニュース女子』でのデマ放送に抗議し、BPO(放送倫理・番組向上機構)の「重大な倫理違反がある」という勧告を引き出した、沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志が抗議行動を呼び掛け、謝罪と訂正を勝ち取った)

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相次ぐ米兵による女性への性暴力事件への抗議発言もあり、超党派での県民大会開催が訴えられた。私たちのツアーのメンバーである K 君は沖縄タイムスの取材を受け翌日の紙面に「本土から来た若者」として紹介されていた。
私たちのグループと若者グループは集会後すぐさま那覇空港に移動。石垣島に向かった。

11 月 3 日(日)
午前中は、八重山平和祈念館を訪れた。同館は、「『戦争マラリア』の実相を後世に正しく伝えるとともに、 人間の尊厳が保障される社会の構築と、八重山地域から世界に向けて恒久平和の実現を訴える『平和の発信拠点』の形成を目指する」ことを基本理念に掲げている。「戦争マラリア」とは、沖縄戦末期、石垣島など八重山諸島の住民が日本軍の命令によりマラリアの多発地帯に強制避難させられマラリアに感染、3,600 名余りが犠牲になった事件だ。米軍が上陸しなかった石垣島ではマラリアでの犠牲が戦争の悲惨さと理不尽さを伝えている。

午後は、島のメイン通りである市役所通りにある「島そば一番地」という店の 2 階を借りて、石垣島での住民投票実現を中心になって進めてきた金城龍太郎さんの話を伺った。同店は、沖縄社会大衆党の市議でもあった新垣重雄さんが経営している。2018 年 7 月、中山市長が陸自駐屯地配備受け入れを表明。これに対し、市民によって「石垣市住民投票を求める会」が設立。予定地に一番近かった金城さんはその代表になった。市の条例では有権者の4分の1の賛成があれば住民投票に実施を求めることが出来、市長はこの請求があった時は住民投票を実施しなければならないと規定。
金城さんたちは有権者の3分の1の賛成を集めたが、市長は「この条例には不備がある」と実施を拒み、議会は住民投票条項を削除した条例案を可決したのだった。
金城さんは、駐屯地の可否ではなく、「出来レース」のような進め方に疑問を持ち運動に参加。まず住民に意思表示をする機会を設けてほしい気持ちだったと、その機会すら奪った議会の対応に憤っていた。陸自駐屯地は開設されたが、金城さんは住民投票の実施を求める行政訴訟を行う一方で、分断された島の将来を見据えた今後の活動を語った。新垣さんは「若い人たちがこの石垣島をどうしたいのか、提案があれば自分たちの経験も伝えながら是非支援していきたい」と明言した。
当日は「第 60 回石垣島まつり」だった。窓の外からは市民パレードの音が聞こえていた。
そうした時、駐屯地の隊員約 70 名が迷彩服姿でパレードに参加してきたのだ。中には「一撃必墜」「闘魂」というのぼり旗を掲げた隊員もいた。島内各地からの参加者が工夫を凝らした衣装に身を包み様々なパフォーマンスを繰り広げる中で、軍事を前面に出した自衛隊員の隊列は異様だった。こうして市民の日常に当たり前のように自衛隊が浸透している事実を目の当たりにした。

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金城さんとの交流を終えて私たちは陸自駐屯地に向かった。於茂登岳中腹に位置する陸自石垣駐屯地は2023 年 3 月に開設。地対艦ミサイル及び対空ミサイル部隊が配置、約 570 名が駐屯している。同地域はかつて、日本軍の施設があった近くという。

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旧軍の系譜を受け継ごうという意思もあるのか。石垣市街からは遠く離れ、絶妙な場所に設置された印象だ。施設は完成したというが、駐屯地西側では配水施設と思われる工事が行われていた。しかし、山の中腹から下の街に排水が流れ出るということはないのだろうか?普天間飛行場や横田基地などから発ガン性の PFAS が流出していたことが大きな問題になっている。軍事基地に PFAS は付きものだ。石垣市民の水源になっている於茂登岳を陸自駐屯地が汚染することはないのか。住民からはこうした心配も発せられている。

駐屯地を後に一路空港へ。19 時 25 分、石垣空港から羽田空港に直行した。今回のツアーも総勢約 20 名となり、充実した内容となったと思う。課題も多く感じた。高江にしても石垣島にしても「本土」では済んだことのように受けとめられている。一方で、粘り強い沖縄の人々の生活に密着した抵抗の営みに触れることが出来た。継続した関心と支援・連帯の取り組みが求められている。

(終)

【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)

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「創出版」のリンクはこちらです。

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき重版決定!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

「模索舎」のリンクはこちらです。

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は来年1月10日(金)に更新予定です。


 2024年10月、イスラエル軍によるパレスチナへの侵攻が始まってから1年が経過した。この1年間、無数の無辜の市民が命を奪われ、人道危機がさらに深刻化している。国連安保理による停戦決議や世界各地の抗議デモが行われたにもかかわらず、事態は改善どころか悪化の一途をたどっている。特に、民間人死者数は現在では4万5千人に迫るとの報道もある。その多くが女性や子どもであり、ガザ地区の住民約半数が飢餓状態に陥り、一部では餓死に至る子どもたちが報告されている。こうした状況は、いかなる国際的な人道基準にも反し、到底許容できるものではない。

 欧米諸国は当初イスラエル支持を表明し、後に一部で態度修正がなされたとはいえ、戦闘行為は止むことなく激化している。また、パレスチナへの連帯を示す集会や言論活動が、イスラエル批判と反ユダヤ主義とを不当に同一視される状況が拡大し、「イスラムに対する嫌悪や偏見」の増幅とも相まって、民主主義社会における自由な言論は著しく脅かされている。

声明と6000人超の賛同の意義
 こうした深刻な状況を踏まえ、私たち「大学関係者」有志は、2023年10月23日に発表した声明を改めて再掲し、オンラインで再度署名を呼びかけた。その結果、6000人を超える賛同が得られた。これは、こうした暴力の連鎖と人権侵害に抗い、正義と人道を求める声が決して少なくないことを示す重要な証左である。多くの人々が声を上げることで、加害を看過しない意志を共有し、問題の可視化や解決への圧力となりうる。数多くの賛同者が得られたことは、国際社会にさらなる行動を迫る基盤となるだろう。

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以下に引用を再掲する(引用部分は原文のまま)。

(以下引用)
昨今アメリカにおいて、大学関係者が当局の弾圧を受けながらも戦っている事態を受け、(注・2023年)10月23日に発表した声明を改め、再度署名を集める運びとなりました。
私たち大学関係者は、今回のイスラエル軍によるパレスチナに対する残虐な武力行使に抗議の意を表明します。
イスラエルの高官は、ハマスを念頭に「われわれは彼らを地球上から抹殺する」と発言して、地上侵攻を辞さない方針の発言を繰り返し、欧米諸国も追随してハマスを「テロ組織」だと断じています。一般市民に対する攻撃に対して、私たちは強い悲しみと憤りをおぼえます。
何の罪もない子供たちを含むパレスチナの人々は、イスラエル政府によってガザ地区に閉じ込められています。彼ら、彼女らは、避難するためのシェルターがなく、交通も遮断され、逃げ行く場所がありません。そのような中、ハマスを「抹殺」する名目でイスラエルの侵攻が実行され、今日に至るまで、3万人を超える民間人の尊い命が奪われました。また、物流すらもイスラエルによって遮断されたことにより、ガザに住む半数近くの人々が飢饉に見舞われ、中には餓死した子供たちがいることも報告されました。
ガザでの状況が日々悪化し、世界中で停戦を求めるデモや声明が高まる中、当初はイスラエルの姿勢に相次いで支持を表明していた欧米諸国の態度も少し変わり、ガザの状況に言及する国連安保理決議2728が採択されもしました。しかし、状況は改善しないばかりか、イスラエル軍の侵攻に対してパレスチナの人々に連帯を示す人々や集会を、あたかもナチ・ドイツと同じ「反ユダヤ主義」であるかのように扱い、全く違う両者が同一であるかのような誤解を引き起こす事態が悪化しています。アメリカでは学生や教職員が停戦、虐殺に加担するイスラエル企業との提携停止を訴えるデモを行った結果、多くの人が警察に拘束されるに至りました。政権や大学当局にとって都合の悪い言論や主張が、いとも簡単に弾圧されているのです。
そもそも、イスラエルによる「入植」は、国連安保理決議2334で「国際法違反」と認定されています。このような「定住型植民地主義」(セトラーコロニアリズム)に対して、各国は、どれほど誠実にその責任をイスラエル政府に問うてきたのでしょうか。
もちろん、他でもなく、私たちの意識も責任を問われるべきです。「どうせ遠いところの出来事だ」というような無関心、「世界史の授業で習った気がするけれど…」というような無知、「結局どっちもどっちなんだ」に象徴される無責任な言説――。これらは全て、無意識的に、一方の加害行為を支持することにつながりうる態度です。
1947年から今日まで、パレスチナの人々は、民族自決権の完遂を訴えてきました。この声は、自分達の土地に対する自らの権利を求めるもので、至極まっとうな主張です。しかし、イスラエル政府は抵抗するパレスチナ人に対して、「自国民保護」の名において、「入植」で住民を追い出すだけでなく、恣意的な逮捕、拘留、そして殺害を繰り返してきました。
私たちは改めて、なぜ今回のような悲劇が起きてしまったのか、冷静に考えなければなりません。 今日、パレスチナ・イスラエル双方において無辜の市民が命を奪われることになった根本的な責任は、イスラエル政府、さらにそれを看過してきた国々にあると言って差し支えないでしょう。
いま、私たちが求めていることは以下の通りです。
①イスラエルは即時停戦を
②世界のあらゆる大学は、停戦を訴える声を封じる圧力に反対を
③この事態に乗じたイスラムフォビアと闘おう
④反ユダヤ主義を含むあらゆる人種差別・排外主義を廃絶しよう
私たちは、イスラエル軍による女性・子どもたちを含むパレスチナの人々へのあらゆる武力行使に対して強く非難するとともに、イスラエル国内、欧米諸国を含む世界各地からあがる「イスラエルは、パレスチナの人々への無差別攻撃をやめろ」という学生・市民の訴えに連帯していきます。
(引用ここまで)

未来への責務
 この惨劇が繰り返されてはならないことは明らかである。未来への責務とは、暴力と人権侵害を放置する世界秩序を変革することであり、加害行為に加担する無意識的な無関心や差別を克服することである。そのためには、以下のような取り組みが一層求められる。

 第一に、大学や市民社会、メディア、国際機関、非政府組織(NGO)など、多様な主体が連携し、国際法と人権規範に基づく解決策を模索する必要がある。具体的には、国際司法裁判所をはじめとする国際的な司法的枠組みを活用し、戦争犯罪や人道に対する罪を追及し、責任の所在を明らかにすることが不可欠である。

 第二に、教育・研究・議論の場を通じて、偏見や差別に対する批判的思考を育む必要がある。「反ユダヤ主義」や「イスラムに対する嫌悪や偏見(イスラムフォビア)」は、絶対に許してはならない。学術研究や公共討論、読書会などの地道な活動で偏見をなくしていく必要がある。

 第三に、情報へのアクセスと言論の自由を守り、異なる立場からの発言が弾圧されない社会を目指すべきである。大学関係者や市民による停戦要求デモ、連帯行動、声明発表など、あらゆる平和的アクションが尊重され、弾圧されぬよう監視を強めるべきだ。

 目下の問題は遠い地の「他人事」ではない。一人ひとりの行動、発言、関心が、世界のあり方を変えうる。我々がこの責務を自覚し、勇気をもって行動するとき、パレスチナ戦争をはじめとする不正義と暴力の連鎖を断ち切る可能性が、初めて現実的なものとなるのである。(田中駿介=東京大学大学院総合文化研究科博士課程2年)

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