野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、2025年2月の明大土曜会での趙沼振(チョ・ソジン)さんのお話です。
昨年12月、韓国のユン大統領が「非常戒厳」を宣言しました。その後、すぐ解除されましたが、報道などによると韓国内では混乱と分断が進んでいるようです。日本の報道だけでは分からない韓国の現状と背景などを中心にお話をいただきました。
 趙沼振(チョ・ソジン)さんプロフィール
・韓国ソウル出身
・淑明女子大学日本学科講師
・2022年に東京外国語大学より博士号取得(学術)
・研究テーマは主に日本の社会運動史、学生運動史
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(※以下の文章は、明大土曜会当日の超さんのお話とレジュメを基に、注釈を加えて編集したものです。注釈はネットによります。)
【韓国の「12.3非常戒厳」とその背景】
趙沼振(チョ・ソジン)と申します。よろしくお願いします。
私は2014年に来日して9年間日本で留学していました。東京外国語大学で博士学位を取得して、2023年3月に韓国に帰国して、淑明女子大学というところで講師をしています。科目名は「韓日関係研究」と「現代日本の理解」を担当しています。
博士論文は日大全共闘を主にテーマとして扱ってきました。日大闘争を記録する流れを辿って、日大全共闘の方々のお話を聞いて論文を書きました。

今日はこの場で、12月3日に韓国で起きた「非常戒厳」の事態についてお話することになりましたが、私の専門は主に日本の学生運動史、社会運動史というものでして、韓国近現代史や学生運動史が専門ではないので、「非常戒厳」というものが、どういう流れで起きてしまったのか。そして尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権が犯した罪というは何なのかということを、取材した記事を扱って皆さんに紹介したいと思いました。
レジュメを用意しましたが、韓国語を日本語に翻訳しているので読みづらいと思いますが、ご了承ください。構成としては大韓民国憲法の概要、次に「12・3非常戒厳」時間別状況、最後に尹錫悦(ユン・ソンニョル)が崩壊する、崩壊しなければならなかったその原因を辿る内容になります。

1.大韓民国憲法の概要
●憲法の基本理念
まず大韓民国憲法の概要を見たいと思いますが、何故憲法から見なければいけないのかと言うと、大統領である尹錫悦(ユン・ソンニョル)がどのように憲法を破壊したのか。法治国家になるべき国としての大韓民国が、大統領という存在によってどのように崩壊しいっているのかということを辿るためには、大韓民国憲法を見なければならないと思いました。
大韓民国の憲法の理念としては、大韓民国憲法第1条 第1項および第2項で
「大韓民国は民主共和国である。大韓民国の主権は国民にあり、すべての権力は国民から発する。」
と定められています。
だから韓国での民主主義という意味、民主共和制を守ろうとしている国ということがよく分かって、国民というキーワードがとても重要です。
●歴史的背景と憲法改正の流れ
歴史的背景を見ますと、憲法改正の流れを察知することができます。
1919年から1945年、昔韓国が朝鮮王朝から大韓帝国が日本帝国によって植民地支配の下に置かれてしまった。その中で独立運動をしてきた人たちが、朝鮮半島内外でどのように独立運動を引っ張ってきたのか。
そこでの重要なキーワードが「民主共和制を求めて」ということです。これは大韓民国臨時憲章を宣言する内容で、大韓民国臨時政府(注)がどのような形の国を求めていくのか、ということが分かります。<注(Wikipediaによる):1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮民族の組織である。>
独立運動の流れ、そして日本帝国にどう抵抗していくのかという流れは、朝鮮半島の精神、北と南それぞれの精神をどのように受け継いできているのかという歴史(イデオロギー対立による分断状況の辛さも含め)を皆さん辿ってきているとしたらお分かりになると思います。
三・一運動というのは、独立宣言をきっかけとして、日本帝国の植民地支配を拒否して、朝鮮半島内外に抗日独立運動を導きながら民主共和国を設立することを目的としているので、臨時政府の憲章というのは、とても重要な意味を持ちます。
「神人の一致によって内外が協調し、ソウルでの蜂起から30日余りで平和的に独立を300余州に回復し、国民の信任によって完全に再組織された臨時政府は、永続的かつ完全な自主独立の福祉を我が子孫万民に代々伝えるため、臨時議会の決議に基づき臨時憲章を宣言する。」(大韓民国臨時憲章)

次に、1948年から1987年ですけれども、民主主義がどうのように確立してきたのか。レジュメに1945年から1948年の間が書かれていない理由というのは、アメリカとソ連による干渉ということも含めて、朝鮮半島がどのように分断されていったのか。そしてイデオロギー、対立ということは皆さん既にご存じだと思います。
その後、大韓民国がどのように民主主義を確立していったかということを見ますと、憲法に関することですが、憲法は、大韓民国の理念と価値を宣言し、それを実現するための基本的な枠組みを提供してきました。1948年以降、40年余りの間に韓国では9回の憲法改正が行われました。
かなり多い数で憲法改正が行われてきました。

主要な憲法改正の流れ: 
1948年7月17日: 制定憲法(憲法を制定する)
1952年7月7日: 第1次改憲(自由党の台頭と最初の憲法改正)
1954年11月29日: 第2次改憲(四捨五入改憲と統合野党民主党の登場)
1960年6月15日: 第3次改憲(4.19革命と内閣責任制の導入) 
1960年11月29日: 第4次改憲(遡及立法の制定) 
1962年12月26日: 第5次改憲(国会解散と再建) 
1969年10月21日: 第6次改憲(三選改憲) 
1972年12月27日: 第7次改憲(維新憲法) 
1980年10月27日: 第8次改憲(軍政下の憲法改正) 
1987年10月29日: 第9次改憲(直選制導入)

韓国では憲法を改正することが、民主主義の精神、進歩的な意思だと思われています。憲法を守るということが、逆に保守的な立場だと認識されていますが、今の時期は左派・進歩知識人を含めて、市民が憲法を守ろうとしているなんて「大統領が破壊しているから、このアイロニーは何と言えばいいんだろう」と皆思ってるところを見ることができます。
憲法改正の流れはこういう形になりますが、まず初代の大統領の李承晩(イ・スンマン)は大統領になってから、自分が最後まで大統領としての身分を守りたい。つまり終身執権したいという気持ちで法律を改正する動きをしました。それが1954年の第2次改憲「四捨五入改憲」(注:李承晩大統領の三選を可能にする憲法改正案を与党が提出したが、必要な議席数の3分の2に1票不足して否決された。そのため「必要な議席数203議席の3分の2は135.333であり四捨五入すると135であるから、135票の改憲案は可決された」という理屈で可決した)ですが、1952年の第1次改憲の時は「抜粋改憲」(注:大統領直接選挙制を目的とする改憲であったが、野党の改憲案から「抜粋」した改正も行われた)と言って、国会議員の提案を受け入れたと言っているんですけれども、結局自分が執権する期間を伸ばしたいという意志を見せたことによって、結局は自分のための法律改正だったと批判されています。
そのため4・19革命(注:1960年の再選のための大規模な不正選挙に抗議する民衆デモ)が起きることによって、結局李承晩は米国に亡命することになり、大統領の職を続けることが出来なくなりました。
その後、大韓民国は困難に落ち入ってしまい、その間に軍事クーデターを起こってしまい、朴正煕(パク・チョンヒ)政権が成立することになります。朴正煕(パク・チョンヒ)政権下で経済発展をしたと評価されているんですけれども、その間に、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領という人物も終身執権したい、つまり独裁政権を築きたい欲望があったため、国会解散をさせます。大統領は憲法上国会解散することができないんですが、それを軍隊を動員してクーデターでやったことなので、これ以降「維新憲法」(注:権力分立の原則に反する統治機構、国民主権・人権保障の原理の否定、大法院の違憲判断への報復などを内容とする)が成立することになります。こういう自分のためクーデターを起こすことを尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は真似をしているがよく分かります。
その次は全斗煥(チョン・ドゥファン)政権になります。朴正煕(パク・チョンヒ)が暗殺され、その後混乱に陥りますが、これは軍隊内でも混沌とした状態が続くことになります。雰囲気としては民主化する雰囲気になっていて、このような雰囲気を受け入れて軍隊内では「私たちが退くべき」という軍人ももちろん存在しました。でも軍隊内の私的組織であるハナ会、全斗煥(チョン・ドゥファン)と盧泰愚(ノ・テウ)元大統領たちなんですけれども、この2人の人物がこれは受け入れられないといということで軍内部でも反乱を起こし、軍事反乱を起こすことになります。正確な表現で言えば、軍事クーデターではなく軍事反乱になって、軍内部でも反乱を起こしたということになって、民主化を支持した軍人たちを解任しました(注:粛軍クーデター)。この内容は、韓国でも『ソウルの春』という映画が大ヒットして、(日本でも公開しましたので)この内容を詳しく観られると思います。
この後、民主化運動が続くことになります。軍事独裁政権がずっと続くことは民衆の中では受け入れられないことになって行って、大学生たちの学生運動、大学のそれぞれの運動が行われてくるんですけれども、その前に光州事件、韓国では光州抗争、光州民主化運動というんですけれども、この事件が先に起きました。1980年5月18日。「5・18」と称しているんですけれども、この内容については、日本では真鍋裕子先生のご本でも知ることができますし、去年12月にノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの『少年が来る』という小説でも読むことが出来ます。
何故光州(クアンジュ)だけがこうなったのか。実は全国で学生たちが大規模な集会を行うつもりでした。ソウルでは大学に学生たちが集まったんですけれども、それを強制的に解散させたのが全斗煥(チョン・ドゥファン)政権でした。でも唯一光州(クアンジュ)の学生たちはそれに抵抗した。だから光州(クアンジュ)という地域だけを孤立させて、銃殺、発砲を許可したということになります。たくさんの学生たちが犠牲になりました。そして光州(クアンジュ)市民もたくさん死ぬことになりました。その真相をどう追及するのかということは、現代でも語られていることですし、その犠牲者を追悼することも今でも続いています。
いろいろな犠牲の後、1987年6月、民主化を迎えることができました(注:民主化宣言)。その時に第9次改憲が行われて、大統領直接選挙制を導入することになって、それから現行憲法が続いている訳です。
その後も大統領制というのが「帝王的だ」という指摘がありました。何故かというと、軍の統帥権、行政施策決定及び執行、行政、立法に関する権限がありますから、このような「帝王的」大統領制をどのように改正すればいいのかという悩みは国会内でずっとありましたし、国民の中でもずっとそういう声を出してきました。特に2016年、朴槿恵(パク・クネ)大統領弾劾の時から強力に声を出してきましたが、そういう悩みは、国会で委員会を通して討論している内容であると知られています。
<レジュメより>
「30年という歳月が経つにつれ、現行憲法は『古くなった服』のように、社会の変化を正しく捉えていない。改憲の基準と主体は国民でなければならず、改憲の目標は国民統合とより大きな大韓民国である。」 ―(2016.10.27. 保守と進歩、共に改革を求める:国家運営体制と改憲) 第20代国会前期 国会議長 丁世均(チョン・セギュン)
「第22代国会が直面している根本的な課題の一つは、憲法改正である。改憲の必要性については、すでに十分な社会的合意がある。改憲を通じて5年単任制が持つ葛藤の要素を取り除き、権力構造と政治的・感情的な極端な対立の連鎖を断ち切らなければならない。」 ―(2024.6.24 グァンフンクラブ討論会) 第22代国会前期 国会議長 禹元植(ウ・ウォンシク) 

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2.12.3非常戒厳宣言 時間別状況
韓国の憲法の歴史が長くなってしまいましたが、非常戒厳宣言の時間別状況を見てみましょう。一体韓国で去年の12月3日に何が起きたのか、日本でも報道するのが精いっぱいだったと思います。韓国にあの時期に居ましたが、1分1秒ずっとニュースが流れていて、何を追っていけばいいのか、どの報道が正しいのか確認することも大変でした。
確認してみますと
(以下、レジュメに記載された韓国の「聯合ニュース」の記事を基に趙さんがコメントします。超さんのコメントは『』内です。)
12月3日
21:30:「尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が共に民主党の監査院長・検察官弾劾、予算削減案の単独処理について直接立場を表明する可能性がある」という噂が広がり始める
『これはちょっと間違っているんですが、「尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が、共に民主党が野党の中で多数の議席を占めているので、予算削減案について単独処理をしたと大統領は把握して捜査委員長と検察官弾劾を行います。それについて直接立場を表明する可能性がある」という噂が広がり始めます。』
21:50:放送局間で「緊急政府発表があるため中継接続を希望する」という内容のメッセージが共有される(大統領室のブリーフィングルーム前に多数の記者が集まったが、扉が施錠され入室不可能、22時を過ぎても大統領室は「不通」状態)。
『何が起きるのか記者たちも全く分からない状況でした。』
22:23:尹大統領の緊急談話が生中継開始(談話文朗読約6分間)。
『私は韓国に帰ってから両親と一緒に実家に住んでおりますが、自分の部屋にいました。母はドラマを観ていまして、急に父が部屋から出てきて、「テレビのチャンネルを変えてごらん」と言って、チャンネルを変えたら尹大統領が何か言い始めた。私は部屋にいましたから尹大統領の話は聞こえませんでしたが、父が「何?何?何?・・」と3回言いました。一体何が起きているのか分からないくらい「尹大統領は何を喋っているのだろう?これはフェイク・ニュースではないか」という疑問を持つくらい不思議な不自然な内容の談話文でした。最初から戒厳令を出しますと言ったのではなくて、普通の談話文だったんですけれども、最後に「戒厳令を出します」と本当に突然の流れの変な談話文だったんですけれども、22時23分にこの談話文が始まって、22時28分に「非常戒厳を宣言する」と言いました。
22:28:尹大統領、野党の予算削減強行・連続弾劾に対し「非常戒厳宣言」
『「非常戒厳宣言」というのは、憲法上どのように行うことができるのかということですが、憲法第77条第1項で「大統領は戦時・事変またはこれに準ずる国家非常事態において、兵力をもって軍事上の必要に応じるか、公共の安寧秩序を維持する必要があるときは、法律の定めるところにより戒厳を宣言することができる」ということです。ここで韓国の状況が当時戦時中だったのか、そして事変が起きたのかということを考えたら、怪しいところがあると指摘されています。』
22:42:共に民主党、非常戒厳宣言を受け、国会に議員を緊急招集
23:00:談話文全文が報道機関に配布 / 23:09:写真が報道機関に配布
23:04:国会の出入口が封鎖
『警察隊が封鎖していたので、国会議員たちが国会議員なのに国会に入ることができない状況が起きていました。だから国会議員たちは怒鳴ったり又は運動経験がある国会議員が多いので、壁を越えて国会に侵入することになります。その様子を、共に民主党の代表は自分のユーチューブで「国民、国会議員のみなさん、ここに早く集まって下さい。皆さんお願いです」という発信をして呼びかけをすることになります。』
23:25:戒厳司令官に陸軍大将朴安洙(パク・アンス)陸軍参謀総長を任命
23:27:戒厳司令部、布告令第1号を23時付で発表
12月4日
00:07:戒厳軍、国会敷地内に進入
『国会が永登浦(ヨンドゥンポ)という地域にあるんですけれども、永登浦の市民が千人くらい集まることになります。やはり「戒厳」というキーワードに恐ろしさを感じているので、そこで軍人たちを防ぐべきだと集まっているんです。侵入することを阻止しようと動き始めます。』
00:22:戒厳軍、国会本庁の出入口を封鎖 
00:45:戒厳軍、国会本庁に進入
『戒厳軍が窓ガラスを割ったりする行為を見せて、それに対して国会議員や職員たちが頑張って戒厳軍を侵入させないように動きだします。』
00:49:国会本会議開会
『何故国会本会議が開催されたかと言うと、「非常戒厳解除要求決議案」を可決するためです。』
01:01:「非常戒厳解除要求決議案」国会本会議にて可決。在籍190名中、賛成190名(野党議員172名、国民の力党 親韓派18名)
『国民の力党の残りの与党議員たちはどこに行ったのかということなんですが、与党代表を含めて、与党議員たちは党舎に集合していました。これは「内乱同調罪」ではないかとい疑いがあることなので、事前に「戒厳」が出されることを知っていたのではないかという話があります。定足数が満たされたので、これが可決となりました。』
 国会議長室「戒厳解除決議案の可決により、戒厳令宣言は無効」
憲法第77条第5項「国会が在籍議員の過半数の賛成で戒厳の解除を要求したとき、大統領はこれを解除しなければならない」 
02:01: 禹元植国会議長「尹大統領と国防部に戒厳解除要求を通知」
04:22:合同参謀本部、非常戒厳に投入された兵力の元所属部隊への復帰を発表
04:27:尹大統領、生中継談話を通じて非常戒厳宣言を解除
軍が設置した戒厳司令部を解体
『この生中継録談話が録画したものではないかとされています。何故かというと、「非常戒厳」を出した時と比較して同じ雰囲気だった。だから録画を流したことになります。生で全部中継されていると思っているんですけれども、全部事前に録画して、それを流すだけの作業が見えたとされています。』
04:30:政府、国務会議を開き「戒厳解除案」の議決を発表
『無事に国会を通して「非常戒厳」が解除されて、ある種のハプニングのように見えますが、これは「内乱罪」に当たることです。韓国で「内乱罪」とは何なのかとうことですが、独裁政権の時に、元大統領の金大中(キム・デジュン)が国会議員の時に北朝鮮との関係性を疑われて、何回も「内乱罪」で捕まったり、死刑判決を受けて、実際に死ぬ寸前まで行きました。(金大中元大統領は内乱陰謀事件の被害者である)でもこういうことによって逆に、自分自身を「保守」だと唱えてる尹大統領が自分自身のために「内乱罪」を起こした。執権を取るためにクーデターを起こしたというアイロニーの状況が続いたわけです。韓国ではそういう見方をしているところがありますが、尹政権が保守又は右派、極右と言われていますが、政治思想があるのかということを指摘するとしたら、政治思想が全くない危険人物と言われています。次の尹政権が崩壊する原因は省略しました。もっとありますが、私が2023年3月に帰国して両親と一緒に食事をしたら、必ず両親、特に母が政権の話をして批判をしていました。いいことだと思って話を最初は受け入れていましたが、毎回毎回食事の時に話すので、「もういいじゃないか。ちょっとやめてください」と言ったんですけれども、その1年後、私がもっと尹政権を批判することになりました。何故かと言うと、本当に尹政権の問題ということが1分1秒流れていますし、それを変えることが出来ない残念な状況が続いていたからです。』

3.尹錫悦政権が崩壊する原因
(1)「バイデンorナリミョン」発言問題
尹大統領が米国訪問中に「コイツら(米国国会)が承認しなければ、バイデンは恥をかく」と発言。大統領室は「バイデンではなくナリミョン(飛ばされれば)」と釈明し、MBCを提訴。MBC記者を大統領専用機から排除するなどの報復措置が取られた。

(2)梨泰院(イテウォン)惨事への対応不備
梨泰院のハロウィン事故で159人が死亡。「セウォル号と変わらない」と批判される中、尹大統領は「責任というものは、本来あるべき人に正確に問うべきものであり、漠然と『全員が責任を負え』というのは、現代社会ではあり得ないことだ」と発言。さらに「特定勢力による捏造の可能性も」と語り、陰謀論まで浮上。放送通信委員長は「左翼が背後にいる」と主張。政府は①責任を否定、②調査せず捜査のみ、③被害者の連帯を妨害、④救済もせず放置、したと指摘されている。
『梨泰院(イテウォン)というところは外国人がよく住んでいて、観光にもよく行く場所です。ハロウィンに起きた事故だったんですが、159人も死亡しました。これは「セウォル号と変わらない」と批判されるくらいの惨事でしたが、尹大統領は「責任というものは、本来あるべき人に正確に問うべきものであり、漠然と『全員が責任を負え』というのは、現代社会ではあり得ないことだ」という発言をしてしまします。さらには「特定勢力」つまり左翼の人たちの「捏造の可能性もある」。「この事件自体が、その勢力による捏造である」という陰謀論を大統領が浮上させます。そして当時の放送通信委員長が「これは左翼が背後にいる」という主張をしてしまいます。これは政府がどのように批判されているかと言うと、責任を否定し、調査せず捜査のみを行う。そして、被害者の連帯を妨害して救済もせず放置したと指摘されています。梨泰院(イテウォン)惨事を政府との関係でそこまで批判すべきかという疑問を持つ人がいるかもしれませんが、梨泰院(イテウォン)というところはソウル特別市龍山(ヨンサン)区にある地域です。龍山区は大統領室があるところです。尹政権になってから、青瓦台(チョンワデ)と称されている大統領官邸を使わずに、あえて大統領室というところを作って移転させます。大統領室は、元々国防部の建物だったところですが、そこにわざわざ大統領室を作りますが、それに税金が莫大に使われました。移転した大統領室は青瓦台(チョンワデ)とセキュリティーが全く違いますから、3倍以上の警察を動員してセキュリティーを守るように指示します。梨泰院(イテウォン)では毎年ハロウインの日に人が集まることはよくありました。でも「規制する警察の人力が足りなかったこと。それをちゃんと究明すべき」と遺族は言いましたが、それが黙殺されたということが分かります。』

3)韓日関係における屈辱外交
尹大統領は強制動員被害者への補償を3者方式で決定し、加害企業は責任を免れ、日本の謝罪もなかった。佐渡鉱山のユネスコ登録で強制動員の歴史を削除、戦争犯罪を黙認したと批判され、追悼式でも強制動員は触れられなかった。韓国政府は日本政府による汚染水放流を許可し、汚染水が安全だという宣伝動画を流し、これも論争を呼んだ。
『歴史認識問題は、ずっと韓国と日本の間にあったことですが、尹政権になってから前の保守政権よりもかなり批判を受けることになります。さらに韓国政府は、日本政府による(福島第一原発の)汚染水放流を許可して、汚染水が安全だという宣伝動画を流すことになります。これも論争を呼びました。』

4)チェ海兵死亡事件
慶?北道醴泉郡の水害現場で捜索作業をしていた海兵隊員(チェ・スグン)が急流に流され死亡。任性根(イム・ソンクン)司令官は救命胴衣を与えず、海兵隊の象徴である赤いTシャツを着るよう指示。責任者を処罰し国家が補償すれば解決するはずだった。尹大統領は捜査結果に激怒し、結果が覆された。司令官の責任があると訴えた捜査団長の朴正勲(パク・ジョンフン)が責任を問われ、命令違反罪で裁判を受けている。任性根司令官が金建希(キム・コンヒ)夫人主導の株価操作事件に関与した李宗浩(イ・ジョンホ)とゴルフをしていたことが判明した。金建希夫人が国防部長官に電話した疑惑もあり、尹大統領は特別検察法案を拒否した。この事件は再調査が必要とされている。 
『かなり大きい事件ですが、「チェ海兵死亡事件」です。保守政権は普通軍人たちの人権を守ったり、保守的な立場で軍人をどのように動員して国を守るのかという安全保障に重点を置くというイメージがありますが、この「チェ海兵死亡事件」は、海兵隊が完全に尹政権だけでなく、保守政権にも反対する、もうその支持をやめることになる大きな事件です。水害の現場で捜索作業をしていた海兵隊員のチェ氏が急流に流されて死亡してしまいます。この時に、任性根(イム・ソンクン)司令官は救命胴衣(ライフジャケット)を与えてくれませんでした。海兵隊の象徴である赤いTシャツを着るように命令をしたわけです。責任者を普通に処罰し国家が補償すれば解決するはずでした。そこまで普通に調査が行われてきました。ところが突然尹大統領は捜査結果に激怒し、結果が覆されたということです。「司令官の責任がある」と訴えた当時の捜査団長だった朴正勲(パク・ジョンフン)が、責任を逆に問われ、命令違反罪で裁判を受けることになります。今は無罪になりましたが、復職したわけではないので、これからの調査が必要となっています。(尹大統領が)何故この司令官を罪から逃そうとしたのか。任性根司令官が大統領夫人の金建希(キム・コンヒ)主導の株価操作事件に関与した李宗浩(イ・ジョンホ)とゴルフをしていたことが判明しました。疑惑を払拭するためには調査究明をすべきですが、大統領が拒否したことで許されなかったということです。尹大統領は特別検察法案を拒否して、この調査を中止させました。チェ海兵が何故死亡してしまったのか。その責任はどこにあるのかということが明らかにならなかったわけです。』

5)ドイチモータース株操作事件
尹大統領は「文政権の時代に調査したが何も出なかった」と主張しているが、捜査は2021年に始まり、選挙出馬で中断された。李宗浩は尹大統領と金建希(キム・コンヒ)夫人の結婚後、36回も連絡を取っていたことが判明。金建希(キム・コンヒ)はドイチモータース株で22億ウォンの利益を得、虚偽の主張があった場合、虚偽事実公表に該当する。「主力株主」が金建希(キム・コンヒ)に株を売らせる指示をした証拠もあり、事前に調整した可能性が高い。金建希(キム・コンヒ)は起訴されなかったが、再捜査の可能性が高い。
『この事件は(尹大統領が)大統領候補の時から、大統領夫人の金建希(キム・コンヒ)のことでずっと話題になっていました。でもこれを明らかにしないで金建希(キム・コンヒ)は起訴されることもなく再調査することもなかったのでこれからどうなっていくのか注目しています。』

(6)ディオールバック問題
崔ジェヨン牧師から金建希(キム・コンヒ)に贈られた賄賂は520万ウォン相当。検察は職務関連性がないと判断したが、崔牧師は賄賂を認めている。国民権益委員会が問題なしと結論を出した後、その委員が自殺した。「良心に反して苦しい」との遺書を残していた。元法務部長官の曹国(チョ・グク)と比較される。曹国は娘が受けた奨学金が不正依頼禁止法違反だとして有罪判決を受け、2年の懲役が確定した。
『ディオールバック問題はよく知られています。』

(7)洪範圖(ホン・ボムド)像撤去問題
陸軍士官学校が突然、独立運動家洪範圖の像を撤去し、間道特設隊の将校だった白善燁(ペクソンヨプ)の像を設置するという動きが注目を集めた。当時の国防部長官李鐘燮(イ・ジョンソプ)は「共産勢力と戦う幹部を育成する陸士に共産主義経歴のある人物が必要だという指摘があった」と発言。洪範図像撤去の提案は、朴槿恵政権下で教科書作成に関わった人物、 陸士教授(ナ・ジョンナム)のアイデアだった。

(8)建設労組への攻撃
尹大統領は建設労組を建設暴力団(建爆)であると非難し、支持率低下時に労組攻撃を強化。 2023年2月、「完全に根絶するまで厳しく取り締まれ」と指示し、2800人を投入して捜査を開始。人権委員会や国際労働機関(ILO)の警告を無視し、月例費や前任費を攻撃。問題の本質は違法な下請け構造による工期短縮とコスト削減であった。
『建設労組への攻撃は、尹政権はひどく行いました。尹政権は建設労働組合を「建設暴力団」だと例えてひどく非難をしました。尹政権は支持率が下がった時に、この労組攻撃を強化してきましたが、どういう命令を出すかと言うと、2023年に「完全に根絶するまで厳しく取り締まれ」と指示したということです。建設労組への調査を2,800人の人力を投入して開始したというくらい、この労組事態を解体させようとしたことです。』

(9)R&D予算削減とKAIST事件
KAIST卒業式でR&D予算削減に抗議していた卒業生が口を塞がれ、引きずり出された。R&D予算削減の理由は不明で、再増加の説明もなかった。2023年は31兆ウォンから27兆ウォンに削減され、来年は30兆ウォンに増額予定。急な予算削減で多くの研究者が職を失い、一部は海外へ移住した。
『これもかなり大きい事件でした。KAIST(カイスト)(国立科学技術院)という有名な工学大学ですが、R&D(研究開発)予算削減ということで、尹政権はあらゆる場面で予算を削減してきました。その予算削減によって、科学界が致命的な打撃を受けるほど予算を削減してきましたが、研究を支援することではなくて、そこを更に削減して、その理由を説明しないで削減すると宣言しました。科学界ではかなり衝撃を受けましたが、私の友人でも天文学のドクターがいまして、元々三鷹の天文台で働いて今は韓国にいますが、ずっとプロジェクトとして関わってきたことが、急にそのプロジェクト自体が無くなってしまった。そういう研究者たちが、かなり被害を受けて、ポストドクターの人たちが研究をすること自体が出来なくなったということがあります。この削減の発表後、尹大統領がKAIST(カイスト)の卒業式に出席して祝辞を述べます。卒業生が「これは問題である。削減したことをどうするか」と声を出します。そうしたら、SPがその卒業生の口を塞いで、卒業生は引きずり出されてしまいました。そのこと自体が衝撃を起こしました。』

(10)医大定員拡大問題
2023年2月、尹錫悦政権は医大定員を2000人増やすと発表。しかし、増員の理由は説明されず、医師不足の解決にはならないとの批判が多かった。尹大統領の固執で多くの犠牲が出ており、2023年2月から5月までのデータでは、死亡者数が過去9年の平均より1700人増加したとの分析も。尹大統領は建設労組との戦いのように医大定員問題を強硬に進めたが、結局、医学生と研修医は戻らず、来年には7500人が一度に1年生として授業を受ける最悪の状況が避けられない。
『これも尹大統領が最も打撃を受けた事件でした。2023年2月に医大定員を2,000人増やすと発表しました。これも何の会話もせずに発表したので、医療界ではこれを批判した。今医療界は麻痺している状態で、死亡者が前より増えているというデータもあります。』

(11)明太均(ミョン・テギュン)ゲート
明太均の逮捕は、尹政権にとって致命的な影響を及ぼした。2023年10月、明太均は「自分が逮捕されれば政権は1ヶ月以内に崩壊する」と警告していたが、11月15日に実際に逮捕され、12月15日が1ヶ月目となる。明太均は尹錫悦候補時代、無償で世論調査の結果を提供し、金映宣(キム・ヨンソン、元国民の力党議員)の公認を得る代わりに尹錫悦陣営と接触していたとされる。明太均が持つ「黄金の携帯電話」には、尹錫悦夫妻にとって都合の悪い情報が含まれており、これが今後の捜査や政権への影響に繋がる可能性がある。
『これが尹政権が最も追い込まれた事件でした。明太均(ミョン・テギュン)という人物は、元々は通信会社で携帯電話を売る人物でした。でもその個人情報を集めて政治家と接触して「自分は世論調査をよくしたら、貴方は当選しやすくなる」というように交渉し始めます。実際に「国民の力党」今の与党ですが、与党も大統領も当選しやすくなったという疑惑があります。実際に政治資金法違反により、明氏は今逮捕されて刑務所にいます。「自分が逮捕されたら政権は1ケ月以内に崩壊する」と断言しました。実際に11月15日に逮捕されて、12月3日に尹大統領が「非常戒厳」を宣言して逮捕されて弾劾されている状況です。今裁判中ですが、この明太均(ミョン・テギュン)という人物が何でここまで話すことが出来たのか、実査に自分一人だけでなく尹大統領夫妻、そして「国民の力」党員たちとも全部連携してる。関係のあることです。与党「国民の力」党は尹大統領がそういう罪を犯したにもかかわらず、そうした嫌疑があるにも関わらず支持している理由は、このような関係があるとされています。』

(12)北朝鮮挑発行為
尹大統領が「非常事態宣言」を発令した直後に平壌に無人機を送ったことが明らかになった。この行動は、北朝鮮を挑発することを意図していたとされる。尹政権の対北朝鮮への挑発的行動は長期間にわたって続いており、拡声器による放送を開始したり、北朝鮮が唯一の連絡道路である京義線と東海線を爆破したことに対して、対応射撃を行った。また、北朝鮮のごみ付き風船に対して警告射撃を命じ、原点攻撃を行う指示もあった。これらは、南北交戦を引き起こす危険な試みだった可能性が高い。政権を守るために戦争を引き起こすという危険な行為であり、内乱罪に加えて「外患誘致罪」や「反逆罪」の適用が可能であるとの指摘もある。外患誘致罪は「外国と共謀し、戦争を引き起こす罪」で、最高刑は死刑または無期懲役。反逆罪は「敵国と結託し、反乱を起こした罪」で、死刑が法定刑となっている。
『最後に北朝鮮挑発行為です。尹政権は対北朝鮮への挑発行為を長くやってきました。韓国に住んでいる人なら分かりますが、韓国では携帯電話で災害などが起きた時にアラームが鳴ります。日本でも地震が起きた時はそうなりますけれど、北朝鮮がごみ風船を飛ばしてきたら何回も鳴っています。ちょっと異常なくらいおかしいと私は感じましたし、一般市民も異常じゃないかと思っていました。実際に尹政権は今まで止めていた軍事境界線での「拡声器」による放送を開始して、北朝鮮に対して騒音を流すわけです。その近くに住んでいる韓国の住民もこれに不満を持っていました。「これをどうかしてくれ」。にもかかわらず、住民の声は聞かないで、拡声器による放送を続けてきたのです。北朝鮮が唯一の連絡道路だった京義線と東海線を爆破しますが、爆破したことに対して対応射撃を行いました。北朝鮮がごみ風船を飛ばしたら警告射撃を命じて、原点(風船を飛ばしている場所)打撃を行う指示も出しました。このように私たちは北朝鮮から安全を守っているという姿勢をずっと見せたわけです。でも、尹政権が「非常戒厳」を宣言した時、重要人物である野党の代表そして国会議長、そして自分の部下に近い、国会議員でもない与党の代表だった韓東勲(ハン・ドンフン)という人物ですが、自分の指示に従わなかったということで、「この3人を逮捕して銃殺しなさい」という命令を受けたという(軍幹部の)証言が出ました。他の人物だったら北朝鮮との関係があるとしたらいいんですが、この韓東勲(ハン・ドンフン)という人物をどうするかと言ったら、北朝鮮の人民軍だと偽って攻撃するような命令が出されたという調査がされて、証言が出ています。北朝鮮とどのように工作してこの状況を突破していくかという計画がなされていたので、どのように報道されるか、また裁判が行われるか見守るべきだと思います。』
6

今まで韓国はずっと北朝鮮との関係がないと、安全保障というキーワードから逃れないまま「赤」だと民主化運動をしてきた人とか、また独立運動家だった人物にも「赤」だったじゃないか、共産主義者ではないかという「反共イデオロギー」をずっと唱えてきました。そこから逃れないということが「保守だ」と言っている党によって引っ張ってきましたが、そのような党と日本の自民党がずっと話をしてくるとしたら、いい日韓関係、韓日関係にはならないと個人的には思いました。こういうことは、皆さんとも一緒にお話ししたいと思ってきましたが、いろいろな運動が行われていて、パレスチナ関係の運動は韓国でも行われてきました。

3①光化門集会

「虐殺者ネタニヤフ逮捕」「内乱犯尹錫悦逮捕」というスローガンを掲げています。現場では旗を持たされて尹錫悦の弾劾を唱えてきましたが、このようにたくさんの旗を見ることができます。
私の集会、デモの現場に12月7日、そして12月28日に行きました。弾劾可決に至る時には行けませんでしたが、たくさんの市民たちが集まって声を出しました。そして、去年の夏、私はこの場(明大土曜会で日本の農業問題の話を聞いていた)にいましたので、農民たちのトラクターデモに合流しました。農民たちがトラクターでソウルに来るまで時間がかかります。6泊7日です。ソウルまで来たら突然警察の機動隊が出動してそれを阻止します。朴 槿恵(パク・クネ)政権の時は、市民が連帯することもできず、知らなかったので、農民たちは殴られて逮捕されました。でも今回は市民たちが早く連帯ができて、「X」でも共有されて市民たち千人以上がそこで農民たちと連帯して、農民たちのトラクターがソウル中心まで来ることができました。
4③トラクター行進

食料としての穀物法についても尹政権に拒否されていたので、農民たちが声を出すためにトラクターデモで合流することになりました。それ以外でも、いろんな連帯の動きが韓国では見られましたが、こういう動きを見て、どのように尹政権を倒すべきか、そして問題の本質は何なのかについて対話していく様子が見られました。だから私も現場でこのような状況を見て、実際に市民一人一人が、特に20から30代が頑張って声を出していますが、皆さんもニュースで観たか分かりませんが、応援棒、ペンライトを持っています。

7②ペンライトと共にするデモ現場

それはK―ポップファンのペンライトです。コンサートの応援で使うものですが、それが何故登場したのかというと、朴 槿恵(パク・クネ)政権の時に、当時の与党議員が「どうせロウソクなんか風が吹いたら消えてしまう」と嘲笑っていました。そこで当時のK―ポップファンたちが「じゃあこれを持って行けばいい」ということで、そこから始まった。その時は人数は少なかったのですが、2回目のこの事態に直面して、みんながこれを持つようになって光が明るくなる。だから集まったらその倍になるということが分かって、みんなこのペンライトを持つことになったということです。私も1人のK―ポップファンでもあるので持っています。現場に行ったらたくさんの旗、そしてたくさんのペンライトが広がっています。そして運動経験者の方々も青年たちと一緒にペンライトを持って、演説している一人一人の話を耳を傾けて聴いているわけです。そして、そこにボランティアとして来てくれるアーティストたちの音楽を聴いて一緒に歌うという場面は、本当に感銘を受けました。この時に100万人が集まって、今もずっと集会は行われています。
みなさんも、韓国がこれからどのようになっていくのか見守って下さればと思います。
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【質疑】
趙さん

あくまでも専門家ではないので、これまで報道された記事や個人的な経験に基づく意見に限ります。

質問者1
文 在寅(ムン・ジェイン)大統領は人気がなかったのか。

趙さん
文 在寅(ムン・ジェイン)大統領は人気がありました。文在寅(ムン・ジェイン)の支持者はもちろんたくさんいました。いまでも厚い支持層が確認されています。でも、不動産問題に関しては、意見が分かれたようです。私も詳しくはないので、友人の例を挙げてお話します。元々政治自体に興味がなかった私の友人が突然久しぶりに電話を掛けてきて「文在寅(ムン・ジェイン)についてどう思うか」と訊かれて、全く興味がなかった女の子ですけれども、不動産問題(住宅価格高騰)のことで文在寅政権に対して不満を持ち始めたわけです。それが不動産、株式、コインというキーワードが、特に2020年にかけてコロナ禍になってからそれが悪化してきました。私の友人みたいに韓国で過ごしていたら、引っ越しの問題に直面してしまうので、文在寅政権の外交政策より、不動産のような国内問題に目を向けることになるでしょう。だからそういう側面からある程度支持を失ったのかもしれません。

質問者2
(12)北朝鮮挑発行為に関連して、テレビの報道で、平壌(ピョンヤン)にドローンを飛ばしたのはこの尹錫悦のグループではないかと。挑発して、それで向こうが出てきたら、それを口実に戦争に持ち込もうという、そういう噂が報道されたが、急に報道されなくなった。それはアメリカの圧力か?

趙さん
韓国では軍関係者に証言をさせています。韓国では軍関係者だけでなく、国家情報院という北朝鮮のスパイを調べるところがありますが、そこの「ブラック要員」(海外で対北朝鮮活動を行う)が、実際に有り得ないことを指示したというような証言をずっと繰り返しているので、これが裁判まで行くかどうかということを国会でやっているので、まだまだ見守っていくべきだと思います。

質問者3
野党の「共に民主党」の代表もあまり評判が良くないようですが。

趙さん
「共に民主党」の代表 李在明(イ・ジェミョン)は、ずっと長い間元々のイメージよりはかなり悪い人物として描写されてきました。韓国でも、その内実を聞いても誰も知らない状況です。実際にその人物は、行政はうまくできる、そして成功してきている。前の城南(ソンナム)市長だった時期と、京畿道(キョンギト)の知事だった時期に全部証明していて、そこに住んでいた人たちが、そう思っています。その後、大統領候補になってから今の与党から、そして尹大統領から政治的に攻撃を受けてきました。司法リスクがと言われて選挙法違反の裁判に係っています。何故選挙法違反の裁判かというと、それだけの罪を犯したというより、とにかくこの人を拘束しろと。尹大統領は検察官出身なので、自分が検察官の時にたくさんの政治家を「政治家狩り」をして、拘束して裁判にかけてきました。このようなことは李 明博(イ・ミョンバク)大統領に時代からあったことで、実際にその犠牲者になったのが盧 武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領だと言われています。自殺してしまいましたが、家族までそうなってくること、そして文 在寅(ムン・ジェイン)政権の時は、法務部長官だった人物(曹国)も、家族全員が家宅捜索をされて、結局2年刑を受けてしましました。野党では無理やりに家宅捜査を行い圧迫をした尹政権、与党、検察側を批判するかと思ったら、かえって野党の内紛にもなりました。そして、「左派だったらまたは進歩派だったらきれいであるべき。何の罪もないはずだ」と信じていた国民は、清廉潔白ではない左派政治家から裏切られるようなかたちになってしまうのです 。
 現在、韓国のメディアでは、誰を次の大統領にするのかだけを報道し始めている。尹大統領を弾劾する理由を辿るより、次の大統領候補に注目しているのも問題だと指摘されています。
李在明(イ・ジェミョン)代表の場合は、実際にナイフでテロを受けて、命を落とす寸前までいき、危ない状況に至りました。幸いに命に別条はなかったです。第二の金大中(キム・デジュン)または「戦闘型盧武鉉」ではないかという評価をうけている人物でもありますし、支持者が多いです。「戒厳事態」によってさらに支持率が上がりました。「この人は本当に悪い人物だと思ったら、どう見ても悪いところはないと思うようになった」という証言がネット上にも増えてきました。李在明のヘイトをつぶやいてきたアカウントもその立場を変えてくるという状況も実際に起きているので、これから李代表がどのような行動をしていくのか、見守っていけばいいと思います。

質問者4
尹大統領の崩壊の原因として、奥さんの金建希(キム・コンヒ)絡みが2つあります。かなり影響力のある奥さんですか。

趙さん
そうです。ここでは2件か絡んでいないように見えますが、最初から最後まで金建希(キム・コンヒ)夫人が黒幕として存在はしていて、黒幕とも言えないです、前面に出て行動しているので。この金建希(キム・コンヒ)夫人は新興宗教とも言えない存在と接触して、税金で拝む場所を使っている部署を作ってしまいました。大統領を神様に託していくことが当たり前で、「それを止めなさい」と言われたら次の人物を探して新興宗教と連携していくということを重ねてきたので、そういうことも調査しなければいけならないと言われています。

質問者4
大統領が大統領府に閉じこもっていた時に、大統領支持派のたちがトランプのスローガを文字って「メイク・コーリア・ゲレイト・アゲイン」というような紙を出していましたが、政権支持派はトランプの真似をしているのか。

趙さん
トランプに憧れている支持者がいるのも事実です。
イスラエルの国旗もあります。何故星条旗を持っているのか、イスエルの国旗を持っているのかというと、本人たちも持たされて持っている可能性はありますが、まず反共イデオロギーを支持しているということで、保守で続いてきた精神ということもあって反共イデオロギーなので「赤」は駄目、「赤」は殺すべきという認識を支持している人物が実際にいます。そういうことをサポートする人たちももちろんいますが、支持者たちは報酬を貰ってこれに参加することが明らかになりました。1日いくら、1時間いくらを貰って動員されていて、年齢としては高齢者の方が多かったですが、今回は20~30代の男性、女性は少ないですが、男性たちが動員されました。その原因は極右ユ-チューブのチャンネルを作った人たちが20~30代の男性が多いので、そういう背景があります。

質問者5
「非常戒厳」が発令された時のメディアの関わり方はどういうものがあったのか。

趙さん
「非常戒厳」が発令された時、レガシーメディアの場合は、今どういうことが起きているのかということを辿っていくことでした。内容の浅さがあったので、やはりユーチューブ、特に進歩派、左派を自称するユーチューブのニュースが生中継でずっと状況を伝えていました。実際にそれを視聴している人数がレガシーメディアの視聴率を超えていたので、かなりみんなそれに集中して、レガシーメディアを信頼しなくなっていることの証明でもありました。だから「非常戒厳」の情報は一般市民でも詳しく知ってしまっている。更に「憲法とは何か」ということまで興味を持たせて、みんな勉強し始めています。

(終)

【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)
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「創出版」のリンクはこちらです。

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき3刷決定!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行
30533

「模索舎」のリンクはこちらです。
https://mosakusha.com/?p=9289

(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は4月11日(金)に更新予定です。

今回のブログは、「10・8山﨑博昭プロジェクト」Webサイトに掲載された科学史家である山本義隆氏の論考である。
山﨑プロジェクト事務局のご厚意により転載させていただいた。
論考では、昨年12月の被団協ノーベル平和賞受賞を受け、戦後の日本が「平和利用」に限って核開発・原発使用に乗りだしたというのはあくまで表向きの話であり、実際には将来的な「軍事利用」も見すえたうえで、「平和利用=非軍事利用」に取り組んできたことを明らかにし、核発電の持続、核燃料サイクルの建設、そして潜在的核武装路線の維持を拒否することを訴えている。

【反核をめぐって
―― 反核兵器と反核発電は単一不可分の課題である】
被団協ノーベル平和賞受賞について思うこと
山本義隆
1.石破首相と潜在的核抑止論
 日本原水爆被爆者団体協議会(被団協)が2024年のノーベル平和賞を受賞した。ノーベル平和賞委員会は過去にはいくつか問題のある判断をしてきたが、今回の決定については、日本の被爆者のこれまでの運動を評価したものとして受け止めることができる。12月10日の授賞式での被団協の受賞講演の基調は、核兵器と戦争の廃絶であり、核兵器禁止条約の普遍化にある。もちろん多くの日本人の望んでいることである。
 このことに関連して、石破茂首相の発言が翌日の新聞に記されている:
 10日の衆議院予算委員会で首相は「長年の核廃絶に向けた発信の努力が報われた。…… 本当に御苦労様でした」と日本被団協の活動をたたえた。
 一方で、北朝鮮や中国、ロシアの核保有国に囲まれている状況に触れ、「(核を含む米国の戦力で日本への攻撃を思いとどまらせる)拡大抑止を否定するという考え方を私は持っていない」と強調。(『朝日新聞』2024‐12‐11)
 何のことはない。最大の核兵器保有国である米国に核廃絶を訴える積りは毛頭ないどころか、日本は米国の核兵器に依拠すると表明しているのである。これでは被団協のこれまでの活動に対する「本当にご苦労様でした」というねぎらいが、このうえなく空疎で、白々しく聞こえる。
 しかし、かつて小泉内閣の防衛庁長官さらに福田内閣の防衛大臣を務めた軍事オタク石破の本音は、そこに止まらない。福島の原発事故の年に石破は「原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間の内に作れるという〈核の潜在的抑止力〉になっていると思っています。逆に言えば、原発をなくするということはその潜在的抑止力を放棄することになる」と語っていたのである(『SAPIO』2011-10-8)。そもそもが「核の抑止力」なるものが幻想だということはさておき、米国の「核の傘」に頼るばかりか、その気になれば日本自身がいつでも核武装できる、つまり核兵器(原爆)を作りうる状態 ―― 核兵器製造に必要な施設と技術と人材を保有し、核分裂性物質つまり濃縮ウランないし高純度プルトニウムを相当量備蓄している状態 ―― を維持しておかなければならないというのが、石破がエネルギー政策をこえて日本の核発電に託している目的なのである。「平和利用」と語られている現在日本の核開発 ―― 原子力発電所(原発)の建設・使用 ―― は将来的な「軍事利用」としての核兵器保有への途に通じているのである。その意味において日本の核開発は「潜在的核武装」と言うべきものなのである。
 戦後の日本で最初に核開発 ―― 原発の導入 ―― を牽引したのは、核兵器・核技術を持っている国だけが戦後世界で「一流国」たりうると信じて止まない、ナショナリスト中曽根康弘であった。そして、一刻も早くかつての大日本帝国の栄光を取り戻したいと願う中曽根の「核ナショナリズム」に始まった日本の核開発に、単なるエネルギー問題をこえる「潜在的核武装」という明確な政治的意味を与えたのが、岸信介であった。戦前、商工省(戦後の通商産業省=経済産業省の前身)官僚として軍と一体となって高度国防国家建設にむけて戦時統制経済を指導し、また東条内閣の商工大臣とし1941年の日米開戦の詔勅に署名し、敗戦後、戦犯容疑で逮捕されたものの何故か起訴されることなく釈放され、その後、政治家に転身し、1957年に首相の座に登りつめた岸信介であった。
 岸は後に『回顧録』で「昭和33年〔1958年〕正月6日、私は茨城県東海村の原子力研究所を視察した。日本の原子力研究はまだ緒についたばかりであったが、私は原子力の将来に非常な関心を寄せていた。 原子力技術は平和利用も兵器としての使用も共に可能である。どちらに用いるかは政策であり国家意志の問題である。日本は国家・国民の意志として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよ、その技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は高まってくる」と回想しているが、それだけではない(岸『岸信介 回顧録』p.395f.)。その後の講演では「平和利用ということと軍事利用ということは紙一重の相違である。ある人は紙一枚すらの相違はないといっている。今日の原子力のいろいろな利用というものは、いうまでもなくみな軍事的な原爆の発達から生まれてきているものである。平和的利用だといっても、一朝事ある時にはこれを軍事的目的に使用できないというものではない」とあけすけに語っていたのである(岸 『最近の国際情勢』p.13)。
 これは後の回想で、これだけでも岸が日本の核開発に託した狙いが透けて見えるであろうが、実際には現役の首相時代には、岸はもっとストレートに核武装願望を表明していたのである。当時の日本経済新聞の政治部で岸番の記者であった大日向一郎が、のちに研究者からの聞き取りで証言している。きわめて重要な割にはこれまで何故か注目されることがなかった処なので、少し長いが、該当部分を全文引いておこう。

 ナショナリズムといえるかどうかわかりませんけれど、とにかく自分の国は自分で守るんだ、その基本は軍備なんだ、だから核武装は絶対必要なんだってことを、〔岸首相は〕国会で答弁していますよ、だから日本が核武装して、日本のロケット技術が進歩すれば、もし日本に核を打ち込もうというロケット基地があれば、外国だって〔日本は〕そこを攻撃できますよ、これ憲法違反じゃありませんということを、本会議か、外務委員会かで答弁していますよ。 だから後になってからでしたけど、「核武装するとしたら核実験しなくちゃいけない、どっか沖縄あたりの離島で適当なところがないかね」なんてね、僕に聞いたことがありました、だから「南洋、マーシャル群島かなんかで、旧日本帝国時代の国王と話し合って借りたらいかがですか」といったんですが、なんか核武装についてえらい熱心でしたよ。(『岸信介政権と高度成長』東洋経済新報社 2004, p.196f.。強調山本)

 本音であろう。それにしても敗戦から未だ十余年、太平洋戦争末期に「本土決戦」の予行演習を押し付け地獄をもたらした沖縄をなんと見ているのか、敗戦の受け入れを拒み続けたために招いた広島と長崎の悲劇をなんと見ているのか、かつて事実上の植民地支配をつづけ、そのうえ戦禍で荒廃させた太平洋の諸国をなんと見ているのか、みずからひき起こした戦争がもたらした惨禍に対する驚くべき無自覚と、民衆の負わされた痛苦に対するあまりの鈍感さに、言葉もない。近頃横行しているフェイクではない。東大名誉教授・中村隆英と東洋英和女学院大学の研究者・宮崎正康の共同編集になるれっきとした研究書に掲載されている、大新聞の記者のインタビューの一部である。
 戦後の日本が「平和利用」に限って核開発・原発使用に乗りだしたというのはあくまで表向きの話であり、実際には将来的な「軍事利用」も見すえたうえで、「平和利用=非軍事利用」に取り組んできたのであった。

2.核武装をめぐるその後の動き
 その中曽根の核ナショナリズムや岸の核武装願望は、その後も日本の防衛政策の深層底流として、自民党の中核部分や外務省高官や一部の保守的な政治学者の間に連綿と継承され、中国の核実験や核兵器不拡散条約(NPT)等の問題が起る度に表層に露呈してきた。1970年2月、当時の核兵器保有国である米英ソ仏中の五カ国の核兵器の削減をはかり、同時にそれ以外に核兵器保有国が広がらないようにするためのNPTに日本は署名したが、国会での批准は76年6月に大きくずれこんだ。それというのも、自民党内部の相当数の核武装願望勢力が、正式に加盟の手続きになる批准に抵抗したからであった。
 NHKスペシャル取材班が出版した『核を求めた日本 ―― 被爆国の知られざる真実』(光文社 2012年)には書かれている。

 NPTについては、加盟をめぐって当時の下田武三駐米大使や牛場事務次官が「現時点では核武装しないことは日本国民の総意だが、核武装するかどうかの最終決定は将来の世代が決めるべきだ」とか「NPTに加入する結果、永久に国際的な二流国として核付けされるのは絶対に耐え難い」などと疑問を投げかけたり、自民党の一部議員からも強硬な反対意見も出されたりしていたことが、外務省OBへの取材や入手した外務省の資料などからわかった。(p.30)

 これからわかるように、外務省と自民党議員の一部は、NPT加盟に当時抵抗していたのであった。外務省には、戦後20年以上も経って、なお中曽根以来の核ナショナリズムが脈打っていたことが読み取れる。
 NPTが議論されていた当時、米英ソ仏中の核兵器保有国以外で、核武装の能力つまり核兵器を自力で作る能力を有していた国は、日本と西ドイツの二国であった。そして日本の外務省は、NPT条約の真の狙いを日本と西ドイツに核武装させないためだと理解していた。実際にも1969年、日本の外務省国際資料部の調査課長・村田良平が、訪日したドイツの外交官エゴン・バールに対して、日本とドイツでNPT条約を遁れる道を協議することを秘密に提案していたのであった。NHKスペシャル取材班の書には、その日本外務省がもちかけた西ドイツ外交官との秘密協議の狙いとその内容について、村田本人による後の証言が載せられている。

 「やはりNPTというあの条約の当時の一番重要な狙いが、日本と西ドイツの両国に核武装させないということにあったからですよ。」(p.43)
 「何とか核兵器を持てるきっかけを作るよう努力すべきだと思いました。さりとて具体的にNPTの会議でそんなもの提案できませんからね。全部裏取引ですから。意見交換をずっとやって、それで何とかNPTを覆す方法がないだろうかという話をしたのが、〔西ドイツの外交官〕バールが日本に来たときの協議です。」(p.43f.)

 それに対する、西ドイツ外交官エゴン・バールの、翌年ドイツで再開したときの返答が、やはり村田の言葉で記されている。

 「一番記憶に残っているのは、エゴン・バール自身の言葉です、『こうしてお互いに話してきましたが、日本とドイツが(NPTの義務を免れるという)特別待遇を受けることは不可能だと結論づけないといけません。これからの我々の仕事は、核を持っていてもその意味がないというように国際政治の基本をつくり替えていくほかないのです』という意味の深い言葉を言いました」(p.44f.。 太字強調は山本による)

 一体どちらが、世界に対して「唯一の被爆国」だとつねづね称してきた国なのか。核をめぐるこの日本とドイツの差は、核発電に今なお固執している日本と核発電を放棄したドイツの差として、現在、歴然と現われている。そして1969年の外務省外交政策企画委員会の「我が国の外交政策大綱」には「当面核兵器は保有しないという政策をとるが、核兵器製造のポテンシャル(能力)は常に保持するとともにこれに対する掣肘(周囲から干渉)を受けないように配慮する」と明記されていたのである(『毎日新聞』1994-8-1)。
 
 結局、核兵器不拡散条約(NPT)をめぐる、日本の政府中枢におけるこれらの動きに一貫しているのは、今すぐとは言わないにせよ、将来的な核武装にむけてフリーハンドを残しておかなければならないという、岸信介以来、日本政府中枢に継承されてきた政治的意志なのである。

3.そして現在の問題
 この点では、現在日本政府が核兵器禁止条約に加入しようとしないことも、基本的には同じ理由であろう。被団協は石破首相に、核兵器禁止条約締約国会議へ、せめてオブザーバーとしてでも参加してもらいたいと直接訴えていたのであるが、1月25日の『毎日新聞』の記事には、「政府は、3月に米国で開かれる核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加を見送る方向で調整に入った」とあり、「日本被団協『政府に腹立つ』」との見出しがつけられている。被団協の長年にわたる努力がノーベル平和賞の受賞という形で国際的に広く認められた直後の国際会議であり、国を挙げて核兵器禁止を世界に訴えるまたとない機会であるが、日本政府はその絶好の機会をミスミス逃すことになる。
 そのことは、日本のマスコミは指摘しないが、外国から見れば、日本政府は将来的な核武装という選択肢をやはり手放そうとはしていないのだ、と判断されることを意味している。
 外国からどのように見られるかという点では、つぎの事実を挙げることもできる。ごく最近のことだが、岸田内閣の閣僚であった河野太郎が石破政権誕生直前の自民党総裁選に立候補した際の選挙公約に、原子力潜水艦(原潜)保有を掲げていた。『昭和史の事典』(東京堂出版)には「原潜は原子力エンジンを装備しているだけではなく、核兵器の搭載を前提とした戦艦であり」と明記され、吉岡斉の『新版 原子力の社会史』(朝日新聞出版)にも「1950年代に入ると米ソの核軍拡競争が、核弾頭と運搬手段の両面で激烈に展開された。その成果として水爆が開発され、……大陸間弾道ミサイル、潜水艦発射弾道ミサイル、長距離戦略爆撃機という戦力の三本柱が樹立することになった」と記されている(p.12)。酸素を消費しないので長時間にわたって潜航を続けられる原潜は、居場所を突き止められないミサイル発射基地として、軍事的に大きな価値を有しているのである。ということは、現代の国際政治や核戦略理論の常識からすれば、自衛隊の原子力潜水艦保有を掲げることは、将来的な自衛隊の核武装を表明することと事実上同義なのである。それを政権党の有力政治家が政権党の総裁選の公約に掲げたということは、外国から見れば、当然ながら、日本政府内部における核武装の野心の存在を示すものということになる。
 その事実はまた、多くの論者が一貫して認めているように、日本の核開発の直接的目的が、核産業・原発メーカーの育成にあったということからも窺い知れる。実際にも世界トップクラスの原発メーカーを、三菱、日立、東芝と三社も有しているのは日本だけである。そればかりか、福島原発の事故の後、当面原発の新規建設が見込まれない状態で、経済産業省がもっとも力を入れていたのが核技術の維持 ―― 設備の維持と人材の養成、そして集団的な経験の継承 ―― であったのだ。
 それでなくとも、世界最悪と見られる福島の原発を経験した日本が、もはや経済的にもペイしなくなっている原子力発電に今なお固執していることは、日本の核開発・核使用の目的が経済だけにあるのではない、その裏には軍事目的があると、近隣のアジア諸国から判断されていると見てよい。そしてそのことは、アジアに余計な緊張をもたらし、核廃絶をより困難にしていることになる。
 実際にも福島の事故ののち、原発の安全性や経済性を公言できなくなった核発電推進勢力は、日本の核開発には、エネルギー政策だけではなく、「安全保障」という目的が潜んでいることを隠さなくなった。自民党と公明党は原子力基本法に書かれている「核開発の目的」に「我が国の安全保障に資すること」を加える提案を行ない、当時の政権党であった民主党もそれを受け容れたのである。民主党内の電力総連出身の国会議員は、核発電維持という点では親会社である電力会社と一体である。
 そして今回、政権党である自民党の総裁に、さらには日本の首相に選出されたのが、他でもない、福島の原発事故の直後に「潜在的抑止力」のためにあくまで原発使用を継続しなければならないと語った石破本人なのである。その石破がその潜在的な「核抑止力」の目的のために必要なこととして明言したのは、「〔ウランの〕濃縮と再処理に裏打ちされる核燃料サイクルは、回し続けないといけない」ということであった(太田昌克『日本はなぜ核を手放せないのか』岩波書点 p.181)。
 これは太田の書からの引用だが、同書には「石破の言う〈技術抑止〉とは、核兵器保有の選択肢を当面は放棄する一方、核分裂性物質〔ウラン235とプルトニウム〕や核兵器運搬手段〔弾道ミサイル〕を開発できる技術力を確立しておき、時の為政者の政治判断で短期間のうちに核保有できる能力を温存することで敵対国の動きを抑止するという安全保障戦略」と解説されている。それは実際には、絵に描いた餅でしかない。そもそも、軍事力の強化、軍事技術の高度化による「安全保障の確保」なるものは、つねに相手国がそれを上回る力をつけることによって無意味化するだけではなく、むしろ危険性がより高まる結果をもたらすことになる。このことは、戦前の列強間の巨大戦艦建造競争や、第二次大戦直後の、米国の原爆独占的所有が直ちにソ連による原爆実験で打ち破られ、それにつぐ米国の水爆開発もほとんど直後にソ連の水爆製造に追いつかれたことで、歴史的に証明されている。インドとパキスタンの原爆開発の競り合いも同様である。それは恐怖の均衡であるが、かつて1937年に一発の銃声から日中戦争が始まったように、偶発的事件が均衡を崩す可能性はゼロではないのである。

4.核燃料サイクルをめぐって
 さてここで、石破が語った「核燃料サイクル」という言葉に注目しよう。
原爆には「ウラン爆弾」と「プルトニウム爆弾」がある。天然のウランは、核分裂をしないウラン238が99.3%、核分裂性で原爆の「爆薬」となるウラン235がわずか0.7%、ウラン爆弾は天然ウランから核分裂性ウランの割合を高めて得られる「高濃縮ウラン」を用いるもので、広島に落とされたもの、プルトニウム爆弾は高速増殖炉で得られる核分裂性のプルトニウムを用いるもので、長崎に落とされたものである。つまり核爆弾製造には「濃縮ウラン」ないし「プルトニウム」が必要であり、それらは通常の発電用の原発での使用済み核燃料の再処理と高速増殖炉の運転によって得られるものであり、その過程が「核燃料サイクル」と呼ばれる。
 原子炉で発電した後には、当然、使用済みの核燃料が残される。それをそのままゴミとして処分する行き方と、再処理してそこから再使用可能な燃料、つまり濃縮ウランとプルトニウムを取り出す行き方があり、後者が「核燃料サイクル」なのである。前者は比較的簡単で費用もそれほどかからないが、その場合、原発運転後、ただちに使用済み核燃料の最終的処分の問題に直面する。他方、再処理施設、ウラン濃縮工場、そしてプルトニウムを作り出す高速増殖炉よりなる後者の「核燃料サイクル」は、技術的にきわめて困難で、多額の経費を要し、そして同時に核燃料をむき出しにして処理するため危険性も飛躍的に高まる。もちろん危険で厄介な核のゴミも大幅に増加する。しかし日本は最初から核燃料サイクル建設を核開発の第一目標に設定し、戦後最大の国家事業として取り組んできた。
 その狙いは、公式には「核燃料の自給」にあるとされているが、それは同時に核爆弾(原爆)に必要な濃縮ウランやプルトニウムを抽出する過程であり、その背後に「核武装能力獲得」の狙いが潜んでいることは、否めない事実である。その意味で核燃料サイクル、とりわけ高速増殖炉によるプルトニウム生産こそ、潜在的核武装の胆であり物質的基盤なのである。実際にも、核兵器不拡散条約をめぐって外務省の内部では、「高速増殖炉などの面ですぐに核武装できるポジションを保ちながら平和利用を進めていくことになるが、これは異議のないところであろう」といったことが議論されていたのである(太田『日本はなぜ核を手放せないのか』p.123)。
 現実には、核燃料サイクルは、かつてはウラン資源の枯渇に対するものとして過大な期待が寄せられたことがあったが、現在では、技術的にあまりにも困難で危険性も高く、厖大な費用も必要とし、経済的にはペイしないことがわかっているので、世界的に見れば、軍事目的を離れては事実上見捨てられている。核兵器保有国以外で核燃料サイクルの建設を認められている、正確には米国が認めている国は、日本だけである。そのうえ日本は、外国の施設で作らせた分もふくめてすでに原爆6000個分のプルトニウムを所有しているのである。当然他国は、日本が経済的にはまったくペイしないその事業に固執している裏には軍事目的があるにちがいない、と見ているであろう。
 ところで実際には日本の核燃料サイクル建設は、すでに厖大な経費を投入し、年月をかけてきたにもかかわらず、事実上破綻している。再処理施設の建設は年中行事のような完成延期の表明をすでに27回くりかえし、完成のあてはなく、その完成を誰一人信じていない。高速増殖炉の建設も、原型炉「もんじゅ」の破綻で立ち往生している。そもそも核発電それ自体がもはやペイしなくなっているのであり、その危険性はもとより、経済性からいっても、残される核のゴミの問題からしても、核発電自体も核燃料サイクル事業もともにただちに撤退すべきものであることは、あらためて言うまでもない。
 しかし日本政府・経済産業省、電力企業、原発メーカーは、それぞれの思惑で破綻した核燃料サイクルに固執し続けている。電力会社は使用済み核燃料の最終的処分という難題を先送りする口実として、原発メーカーは金のなる木として、サイクル建設に群がっているのである。その詳細については立ち入る余裕がないので、小著『核燃料サイクルという迷宮』(みすず書房)を参照して頂きたいが、やはりその根幹にあるのは、日本の核開発をめぐる、単なるエネルギー問題を越える「安全保障」と称される政治的・軍事的野心の存在なのである。そのことこそが、被団協ノーベル賞受賞の1週間後に「原発を最大限活用する」とした安全性も経済性も危惧される新しい(第7次)エネルギー基本計画が政府の意向として示された背景に他ならない。
 いずれにせよ、核発電の持続、核燃料サイクルの建設、そして潜在的核武装路線の維持は、現在日本の核武装能力の維持、ひいては将来的な日本の核武装に直結する、どのひとつも欠かすことのできない一環として、権力サイド ―― 経済産業省、外務省、自民党の中枢、財閥系原発メーカーと関連企業、電力会社、そして電力会社やメーカーと一体となっている御用学者集団 ―― では位置づけられ、固執されているのであり、それらを一体として拒否しないかぎり「真の反核」はあり得ないことを、「反核」運動は認識し決意しなければならないであろう。
 被団協ノーベル平和賞受賞について思う処である。          2024年2月
 ふくしま共同診療所 医師連絡会の依頼で、同会発行の『被曝・診療 月報』第66号(2025年2月1日)に同じ標題の論考を寄稿したのですが、字数制限を若干超えていたので、少し削りました。これは、その、元の原稿に更に筆を加え、書き直したものです。  山本義隆

10・8 山﨑博昭プロジェクト 


【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)

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「創出版」のリンクはこちらです。

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき3刷決定!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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「模索舎」のリンクはこちらです。

(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

【『歴史をひらいた女たち』の紹介】
江刺昭子著 定価2,200円+税
インパクト出版 2025年1月25日発行

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インパクト出版のリンンクはこちらです

女性史研究、女性評伝作家・江刺昭子の集大成。物言う女を排除する男社会のまっただ中で、社会変革と権利のために、声を上げ告発し記録する女たちの肖像。


歴史をひらいた女たち 人物で読むジェンダー史 目次
Ⅰ 弾圧されても、信じる道を行く 
 「表現の不自由」と闘った女たち
  生誕130周年の山川菊栄(1)『おんな二代の記』に学ぶ
  生誕130周年の山川菊栄(2)魂を形成する権利を男に委ねるな
  生誕130年の山川菊栄(3)「赤瀾会」メンバーの軌跡 
  右翼と官憲に踏みにじられた初の女性デー   
  初の国際女性デーは100年前●佐々木晴子が偽名で演説  
  沖縄は解放されたか 
  本土に先駆けた沖縄の女性参政権行使 
  思想弾圧の先駆け(1)「浪曼事件」が奪ったもの  
  思想弾圧の先駆け(2)詩人篠原あやは、なぜ逮捕されたのか
  港の別れ 横浜時代の福田英子  
  石川雪女覚書 

Ⅱ 原爆被害を告発し、記録する 
  栗原貞子の予言のような言葉  
  被爆の実相を描いた林京子『祭りの場』 
  「この世界の片隅に」の街を歩く 
   ケロイドのような碑石  
  ヒロシマの語り部、関千枝子と古家美智子 
   破滅の危機から光へ向かって歩め 
  国策に翻弄された広島市女原爆慰霊碑  
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(1)検閲に翻弄され数奇な運命をたどる 
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(2)評価されながら掲載されず 
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(3)検閲と自主規制 
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(4)「山上」に書き残した検閲体験 
   
Ⅲ 60年安保と樺美智子 
  日米安保60年 樺美智子はなぜ死んだのか 
  日米安保60年(2)樺美智子とは何者だったのか 
  日米安保60年(3)逃げずに闘い続けた樺美智子 
  日米安保60年(4)樺美智子「運命の日」 
  日米安保60年(5)樺美智子、死因の謎 
  日米安保60年(6)樺美智子が投げかけた問い 
  闇の中で聞いた樺美智子の悲鳴 
  樺美智子 「想い人」Sとは誰か 

Ⅳ 重信房子と遠山美枝子 
  2人の運命を分けたものは何か 
  「2人で社会科の先生になろう」 
「ふう、あなたが先に死ぬんだね」 アラブにたつ日の涙 
「兵士として徹底的に自己改造する」と山へ 
「私たちが新しい世の中を作る」と最後の言葉 
重信房子 『はたちの時代』

わたしが出会ったひと ―あとがきに代えて


【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は来年3月14日(金)に更新予定です。

昨年11月、明大土曜会メンバーに、杉並区の明治大学和泉校舎で行われた明大和泉祭で「キャンパスの中で自衛官募集が行われていた」という情報が以下の写真とともに寄せられた。
1

11月3日、明大和泉校舎キャンパスの図書館前のテントには「自衛官募集中」の「のぼり」がある。自衛隊の「高円寺募集案内所」のテントである。
机の上には迷彩色のヘルメットなどが並べられている。興味を持った学生に被せるつもりなのだろうか?
大学構内で公然と「自衛官募集」の活動をしているということは、大学が「自衛官募集」活動を公認しているとうことなのだろうか?

明大土曜会としては、この問題は見過ごすことができない。というのは、明大土曜会では、この問題が起こる前に、昨年6月に駿河台校舎前で、7月に和泉校舎前で明大当局に対する「横断幕スタンディング」の抗議行動を実施していたからである。
この「横断幕スタンディング」は、明大土曜会のF氏(ジャーナリスト)によると、以下のような趣旨である。
『明治大学では昨年来、学生たちが“フスマ1枚分”くらいの立て看板に「私たちの思いを立て看板で表現しよう」と書いてキャンパスに置いたところ、これが撤去され、警察官が呼ばれ、大学から「注意処分」を下された。その後も「立て看を取り戻そう」と活動を続けている▼大昔のようなデカい看板に政治スローガンを書きなぐったものではない。土曜会からすればシンプルな板一枚である▼「これはおかしいぞ」と土曜会メンバーたちは「わが母校はなんて恥ずかしいことをするのか」と抗議の横断幕を出した次第』

2

<横断幕に書かれていること>
明治大学が誇れること
★「軍事利用の研究・連携活動の禁止」の新聞広告を掲載した(2017年)
★日本初の女性弁護士を輩出した(1940年)
明治大学が恥ずべきこと
★学生の表現の自由である立て看板を撤去して警察を呼んだ
★生田校舎の「イスラエル工科大学と手を切れ」の立て看板が撤去された

ちなみに明大土曜会は、明治大学のOBとOGが中心となっている「親睦団体」であるが、他大学のOBや若い世代も含めた多様な人たちが集まる「情報交換と交流の場」であり、定期的に会合を開いている。

昨年12月に開催した明大土曜会で、明大和泉祭での自衛官募集について抗議するため、明大学長あてに公開質問状を出すことの提案がなされ、承認された。
それを受け、以下の内容で抗議と公開質問状を明大学長あてに配達証明付きで郵送した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治大学学長 上野正雄殿
明治大学土曜会
 
明大和泉校舎における「自衛官募集」ブース設置への抗議と公開質問状
 
私たちは15年前に設立した、明治大学OB・OGによる親睦団体「明治大学土曜会」です。
2024年11月3日、「明大祭」が行われた和泉校舎キャンパスに「自衛官募集」のブースが設置されたことに、強く抗議し、以下の公開質問状を送ります。
質問状への回答は2025年1月31日までに送付いただきたい。
 
【抗議】
・2024年11月3日、「明大祭」が行われた和泉校舎キャンパスで「自衛官募集」のブースが設置されたことに、強く抗議する。
・明治大学は2017年に発表した「社会連携ポリシー」に学問・研究の目的として「環境保全・平和利用」を掲げ、「軍事利用・人権抑圧等、平和に反する内容を目的とする研究・社会連携活動を一切禁止する」と宣言しています。
・にもかかわらず、今回の「自衛官募集」ブースの設置は、この「宣言」を明らかに逸脱した行動で、キャンパスを“軍事利用”の場に提供する「社会連携」と言わざるをない。
・全国の大学に先駆けて発表した「社会連携ポリシー」の理念を、いかなる経緯と理由で逸脱して行ったのか。以下の公開質問に回答いただきたい。
 
【公開質問】
①  「自衛官募集」ブースの提供は、いつ、どの機関・団体からの要請だったのか。
②  要請を受けたのは明治大学のどの部署なのか。どういう議論をしたのか。
③  「自衛官募集」のブース設置を受諾・決済したのは上野正雄学長か。
④  「自衛官募集」ブースの設置は明治大学の「社会連携ポリシー」に反していると思うか。逸脱していないとするならば、その根拠は何か。
 
以上の質問に誠実な回答を求めます。
2024年12月13日
「明大土曜会」共同代表

(参考:社会連携ポリシー)

3

●軍事利用を目的とする研究・連携活動の禁止
 明治大学は、「社会連携ポリシー」の中に「環境保全・平和利用」を掲げ、軍事利用・人権抑圧等、平和に反する内容を目的とする研究・社会連携活動を一切禁止しています。明治大学が目指すのは、高度で先進的な研究成果をもとに、学外研究機関との交流をはじめ、民間企業、国、自治体やその地域社会等と連携して、平和で豊かな社会を創造することです。
 軍縮と平和の探求がテーマの一つであり、軍縮・軍備管理の本質的構造の解明に取り組む「国際武器移転史研究所」の研究プロジェクトが、2015年度には私立大学戦略的研究基盤形成支援事業に選定されました。また、生田キャンパスにある「明治大学平和教育登戸研究所資料館」では、太平洋戦争中に陸軍が行った秘密戦の資料を公開しています。
 明治大学はこれからも平和を探求する研究と社会連携活動を推進していきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この明大和泉祭における「自衛官募集」問題については、明治大学当局への公開質問状送付とともに、雑誌『創』編集長に情報提供を行い、雑誌『創』(2025年1月号)に記事を掲載していただいた。
4

(記事の全文)
【いくら何でもこれは・・・
『明大和泉校舎の学園祭 何と自衛官募集が行われていた】
重信房子さんの連載にたびたび明大OBらの「明大土曜会」が登場するが、その土曜会で問題になり、本誌に話があったのがここに掲げた写真。
いやあ隔世の感ありというか、かつて明大は学生運動の拠点だったが、和泉校舎の学園祭「明大祭」で11月3日、何と「自衛官募集」が行われていたというのだ。
大学の管理強化が進んで学生自治など存在しなくなったいわれるご時世とはいえ、これはいくら何でもひどすぎる。というわけで有志が告発ビラをまいたり、大学当局の意思を問おうといった事態になっている。前ページにかつての明大の写真を載せた後だけにいやはや何とも・・・。(絶句)
明大土曜会では、明大学長宛てに「公開質問状」を送る予定だという。』

「公開質問状」の回答期限は2025年1月31日であったが、1月23日付けで以下のような回答が届いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治大学土曜会 共同代表
○○殿 ○○殿 ○○殿 ○○殿 ○○殿
明治大学教学企画事務部
「明大和泉校舎における『自衛官募集』ブース設置への抗議と公開質問状」について
2024年12月13日付で明治大学学長宛に送付のありました表題の件につきまして、本学 では、学長に寄せられる質問・要望等に対して、個別に回答は行っておりません。ご理解の 程よろしくお願いいたします。
なお、お問い合わせの件に関しましては、来週を目途に大学の見解を大学HPに掲載する 予定です。
以上
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後、1月28日に明大のホームページに以下の文章が掲載された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明大祭(2024年11月2日~4日)のブース出展に関して
2025年01月28日
明治大学
本学では、大学祭を地域との連携と貢献の場として位置づけ、学外諸団体にPRの場を提供してまいりました。今回のブース出展に関し、大学、大学祭実行委員会および出展団体との間の意思疎通に齟齬があり、リクルート活動を行った団体がありました。
大学祭に来場された皆様に誤解を与える可能性があり、確認が十分でなかった点を認識しております。
今後は、このような事態が再発しないよう、大学、大学祭実行委員会および出展団体間で十分確認の上、大学祭を実施してまいります。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このホームページ掲載の文章を理解できる人がいるだろうか?明大土曜会のメンバーであれば「自衛官募集問題だな」と分かるが、全く知らない方が読んだ場合、何のことか分からないと思う。
自衛隊の「高円寺募集案内所」が何故出展を認められたのか、「意思疎通の齟齬」とは何だったのか、「誤解を与える」とはどういう誤解なのか、「社会連携ポリシー」との関係はどうなのかなど、具体的な記述が無い。この回答では明大の入試でも0点だろう。
また、和泉キャンパスの図書館前という目立つ場所なので、大学関係者が「リクルート活動」に気づかないことは考えにくい。
さらに、自衛隊の「高円寺募集案内所」は自衛官等募集に関する各種採用試験の案内、 面接指導等を行っているところなので、出展を認めた段階で「リクルート活動」があることは想定できたと思われる。
今回の明大土曜会の「公開質問状」がなければ、この問題はそのまま既定事実として認識され、今後も同じようなことが続く可能性があったと考えざるを得ない。

今回の1月28日付の明治大学のホームページに掲載された文章は、具体性に欠け曖昧さだけが残る文章である。これを明大土曜会の「公開質問状」の回答として受け止めることは出来ない。引き続き明大当局には、誠実な対応を求めていきたいと考える。
明大土曜会としては、明治大学が「軍事利用・人権抑圧等、平和に反する内容を目的とする研究・社会連携活動を一切禁止する」という「社会連携ポリシー」の理念を忠実に推進していくことを望むばかりである。
(終)

【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)
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「創出版」のリンクはこちらです。

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき3刷決定!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行
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(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

【『歴史をひらいた女たち』の紹介】
江刺昭子著 定価2,200円+税
インパクト出版 2025年1月25日発行
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インパクト出版のリンンクはこちらです

女性史研究、女性評伝作家・江刺昭子の集大成。物言う女を排除する男社会のまっただ中で、社会変革と権利のために、声を上げ告発し記録する女たちの肖像。

歴史をひらいた女たち 人物で読むジェンダー史 目次
Ⅰ 弾圧されても、信じる道を行く 
 「表現の不自由」と闘った女たち
  生誕130周年の山川菊栄(1)『おんな二代の記』に学ぶ
  生誕130周年の山川菊栄(2)魂を形成する権利を男に委ねるな
  生誕130年の山川菊栄(3)「赤瀾会」メンバーの軌跡 
  右翼と官憲に踏みにじられた初の女性デー   
  初の国際女性デーは100年前●佐々木晴子が偽名で演説  
  沖縄は解放されたか 
  本土に先駆けた沖縄の女性参政権行使 
  思想弾圧の先駆け(1)「浪曼事件」が奪ったもの  
  思想弾圧の先駆け(2)詩人篠原あやは、なぜ逮捕されたのか
  港の別れ 横浜時代の福田英子  
  石川雪女覚書
Ⅱ 原爆被害を告発し、記録する 
  栗原貞子の予言のような言葉  
  被爆の実相を描いた林京子『祭りの場』 
  「この世界の片隅に」の街を歩く 
   ケロイドのような碑石  
  ヒロシマの語り部、関千枝子と古家美智子 
   破滅の危機から光へ向かって歩め 
  国策に翻弄された広島市女原爆慰霊碑  
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(1)検閲に翻弄され数奇な運命をたどる 
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(2)評価されながら掲載されず 
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(3)検閲と自主規制 
  被爆の実相を綴った大田洋子『屍の街』(4)「山上」に書き残した検閲体験   
Ⅲ 60年安保と樺美智子 
  日米安保60年 樺美智子はなぜ死んだのか 
  日米安保60年(2)樺美智子とは何者だったのか 
  日米安保60年(3)逃げずに闘い続けた樺美智子 
  日米安保60年(4)樺美智子「運命の日」 
  日米安保60年(5)樺美智子、死因の謎 
  日米安保60年(6)樺美智子が投げかけた問い 
  闇の中で聞いた樺美智子の悲鳴 
  樺美智子 「想い人」Sとは誰か 
Ⅳ 重信房子と遠山美枝子 
  2人の運命を分けたものは何か 
  「2人で社会科の先生になろう」 
「ふう、あなたが先に死ぬんだね」 アラブにたつ日の涙 
「兵士として徹底的に自己改造する」と山へ 
「私たちが新しい世の中を作る」と最後の言葉 
重信房子 『はたちの時代』

わたしが出会ったひと ―あとがきに代えて

【お知らせ その1】
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