野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていないので、今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの「知られざる学園闘争」としておい読みいただきたい。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1968年から1969年である。

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(『一橋新聞』1970.9.16)
『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。また、重要な事項については「太字」で表示した。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1968年
バリケードから国際反戦闘争へ
10月18日 前期臨時学生大会で10.21国際反戦統一行動に向けスト実が提案したバリストが可決された。
10月19日 前期自治会執行委(民青系)は「学生大会決議は執行できない」として解散。
10月20日 スト実は前期本館の鍵を要求したが、大学評議会はこれを拒否する。木村学生部長「ストは認めない。授業は平常通り行う」と語る。
10月21日 国際反戦統一行動。スト実は前期バリストを決行し150名が新宿米タンク車輸送阻止闘争へ参加、一橋からも逮捕者があり、騒乱罪が適用された。

〈Oの証言〉
 当時私は1回生で、セクトには加入していなかった。デモには初参加だったが、10.21の新宿米タンク車輸送阻止闘争に参加した。小平で革新会議(第4インター系)主催の反戦集会に参加し、そのまま新宿へと向かった。かなりの人数だったが、正確な数は分からない。国分寺で中央線に乗り換え、新宿方面に向かったが、下車したのは御茶ノ水だった。そして、駿河台の中央大学の大教室で、他大学の学生とも合流し、程なくしてヘルメットと角材が全員に配られた。
その後、御茶ノ水から角材を手に手に電車で新宿へ向かった。途中、新宿駅の手前で電車がストップし、しばらくして「降りろ」との号令が掛かり、みんな一斉に車窓から飛び降りて、線路伝いに駅へ向かおうとしたが、駅方面から機動隊か迫ってきて、それを見て、ほとんどみんな角材を放り投げて、線路脇のフェンスを乗り越えて、外に逃げた。外には大勢の群衆が詰めかけていて、ヘルメットなんか被っていると、すぐそこに機動隊が来てるからやられるぞ、捨てた方がいい、と周りから言われて、自分も思わず、ヘルメットを脱ぎ捨て、一目散にその場から遠ざかった。一緒に来た学生たちの大部分は、散り散りになったが、それでも駅方面へ向かって行った。駅構内からは、催涙弾の発射音や角材で叩きあう音が聞こえてきていた。駅前広場に行くとそこにも沢山の群衆がいたが、催涙ガスが立ち込め、皆、目を赤く腫らしていた。結局、一緒に来た学生たちとは会えず、一人で夜中まで群衆の一人として新宿駅周辺をうろついていた。気が付けば、電車もなくなっていて、なんとかタクシーを拾って横浜の自宅まで帰った。

10月23日 評議会は「10・21闘争に関する官憲導入に対する大学側の態度」を決定。その主な内容は「官憲の立ち入りはできるだけ避ける。立ち入りのやむなき場合の通告を求め、立ち合い、連絡体制をとる。逮捕する場合はできるだけ学外で逮捕するよう要請する」である。
10月28日 連合教授会は前記評議会決定を了承する。木村学生部長は「前期のバリケードを通じて示された大学の基本的あり方を問う姿勢は、あらゆる大学の問題への対処を本質的な次元で真剣に考えていかなければならないという、新しい時代を迎えているということを明らかにしている」と語る。民青系に代わる前期自治会臨時執行委成立。
11月8日  前期自治会臨時執行委主催の大衆団交が開かれ、以前から交渉されていた学生部長拒否権を初めとする6項目公開質問状に対する回答が示された。執行委は新しい団交方式(全評議員の団交出席)を要求する。
11月22日 前期自治会執行委選挙開票され、民青系執行委が復活した。
12月13日 全学団交開催。学生部長拒否権等6議題団交に限り、全評議員出席のもとで団交を行うことを決定。翌朝7時まで徹夜で行われた。
12月16日 再開した全学団交には約5百名の学生が結集し、午後1時から17日午前3時ごろまで行われ、①学生部長候補者についての学生の拒否権(除斥投票)を認める。②除斥は学生数(学部学生、院生)の二分の一以上をもって成立する。③除斥投票の結果(票数)を公表する、などを合意した。増田学長は過労で倒れ欠席した。

1969年
1月18-19日 東大安田講堂攻防戦
1月25日 全学団交で6項目を決定した。
1. 学生部長拒否権については、12月16日の合意に加えて①学生部長候補者除斥権を有する者は全学生・院生であり在籍6か月以上の制限はつけない②投票・選出過程は大学側・学生側の共同管理とする③投票規定等の内規は学生・院生と教官との代表により委員会を構成し決定する④学生部長の再審査請求権に類する問題は12月13日団交の確認書の方式で改めて交渉する。
2. 相模湖艇庫合宿所については、国有財産管理の面を除いては学生の自治に任せる。
3. 小平旧学食については、生協の商品管理に必要な改修を生協と協議して行う。
4. 現行の学生細則は白紙に戻し、これに代わるルールは学生・院生と教官との代表による委員会を構成し決定する。
5. 東大入試中止に絡む定員振り分けに対して反対声明を出すか教授会に諮って検討する。
6. 週刊現代の学長発言記事について、このような事態が再度起きないようにする。
2月6日 増田学長辞意表明(評議会に書簡)
2月12,13,22日 後期学生評議会(後学評、全共闘系)が要求して大学評議会と会合を行う。
2月18日 学生部長拒否権の初回除斥投票(全学生・院生の2分の1以上の除斥票があった候補者は除斥される)開票。候補者3人とも除斥されず。
2月28日 3月1日 全学団交で前期後期自治会執行委(民青系)と大学評議会は全学的な問題に関する団交は各自治会執行委が行うことを確認し、大学評議会は後学評との会合で全学的な問題を報告したことを自己批判した。(2・28確認書、3・1自己批判書)
4月11日 入学式、全学評約50名が自主入学式を呼びかけ会場の兼松講堂へデモンストレーションを行い、阻止しようとする体育会サークル員や自治会執行部系学生と4,5回衝突を繰り返した。講堂内の儀式入学式は予定を30分ほど過ぎた午前10時半から例年に比べて簡略化されたもので11時過ぎに閉会した。

この年同期で一橋大学には商学部、経済学部、法学部、社会学部合わせて720人が入学し、そのうち女子はわずか12人であった。同期入学で後年有名になった人はオウム真理教の麻原彰晃や和歌山毒物カレー事件の林真須美被告の弁護人となり「死刑弁護人」と呼ばれた安田好弘、「走れコウタロー」で一世を風靡し後年平和・環境活動家となった故山本厚太郎、新自由主義の元凶となり最近旭日大綬章までもらった竹中平蔵などがいる。安田氏は全闘委の有力メンバー、山本氏はべ平連のリーダーだったが、竹中氏は面識がなく学生時代に何をしていたか知らない。社会学部に入学した私は入学式に参加し、そのあと都内の自宅から小平分校の108番教室に通うことになった。そこが第二外国語にドイツ語を選択した商経法社4学部の男子学生40数名が所属する8クラスのホームルームだった。女子は8クラスにはいなかった。私が6年間過ごした中高一貫の男子校と変わり映えのしない雰囲気であった。オリエンテーションの期間からクラス討論と学生大会の繰り返しで、全共闘びいき、民青派、右寄りノンポリなどが入り乱れて熱のこもった議論をした。
小平分校は、正門を入るとレンガ造り2階建てロの字型に中庭を囲んで配置された本館があり、正面玄関の付近に事務室があり、あとは独仏露中の第二外国語で組み分けされたホームルームが並んでいた。粗末な講堂、体育授業のための体育館とグラウンド、階段式の合併教室と小さな図書室、保健室のある新館、生協の食堂、敷地の奥に学生寮(一橋寮)があるだけで、東大の駒場キャンパスなどに比べるとずいぶんみすぼらしく殺風景だった。グラウンドの向こうには玉川上水沿いに遊歩道があり、その先には津田塾大学、武蔵野美術大学などがあり、女子学生とデートしたいというあこがれをこめてラバーズレーンと呼ばれていた。一橋寮から深夜大挙してラバーズレーンを走り、津田塾大の寮に押し掛けるストームが恒例行事となっていた。教授の研究室やサークルの部室はすべて国立本校にあり、講義する教授は国立から通ってくる、学生はサークル活動やゼミのために国立に通っていた。東大闘争の高揚の結果、東大の入試が中止されたため東大志望を変更して受験し入学した者が多かったが、東大に入れなかった不満や学園闘争への恨み言を言う者は少なかった。といっても、学園闘争に共感し飛び込んでいく者が多かったわけでもなく、受験勉強の重圧から解放されて学生生活を楽しみたい気分が強かったと思う。居酒屋や寮や下宿で集まって酒を飲んだり、人生や恋愛を語り合ったり、徹夜麻雀したり、女子大のクラスと合同ハイキングをしたり、学生らしい、青春らしい付き合いもクラスを中心に出来ていった。
私は入学当初は硬式テニスの同好会と国際問題研究会に入って「世界」を購読しスマートな国際通になることを目指していたようだが、テニスも国問研も活動が止まった状態で思い通りには進展せず、同じクラスの全共闘びいきの友達との付き合いを深めていった。高校の同級生だったT君が民青系で当初熱心にオルグしてくれたが、大学の自治を守れ教育を受ける権利を守れという秩序を守る論調が多く、世界に広がる戦争や資本主義の弊害と闘い変革していく熱意が感じられず魅力がなかった。

4月22日 小平祭連続講演会第1回
 松田政男「沖縄―敗戦後23年目の沖縄民衆の怨念と本土の繁栄」
4月23日 前期自治会・後期学生会両執行委主催による全学討論集会が学生院生等千余名を結集し兼松講堂で開かれた。執行委は中心課題として①中教審答申粉砕②学長選考制度の民主的改革③警察の独自の判断で警察力を学内に導入できるとする4・21文部次官通達に反対せよの3つをあげ、全学評からは①中教審答申粉砕②現行評議会の解散③評議会の公開の3つが提起された。中教審答申=中間報告案について西学長代理は、4月21日に決定された評議会見解を明らかにした。①中教審答申に基づいて文部省が全大学に画一的な枠を与えようとするなら反対である。大学問題は、学生の地位の問題についても、各大学が自主的に学内で必要な改革案を検討し作成し実施することが妥当である。②中教審の草案の一つ一つに論評を加える必要を認めない。自主的に本格的な大学問題検討委員会または大学改革委員会を発足させる。③草案で不適当と認めている点について、本学では学長選考に対する学生の関与が20年来実施されているが、かつて何等の不適当がなかった事実を指摘したい。以上の3点だった。評議会、教授会の公開などについては大学側の回答はなかった。
4月25日 前期臨時学生大会で4・28沖縄闘争について、執行部案(4・28授業放棄・全学集会・中央決起集会)否決、全学評(全共闘系)案(4・26-28バリケードストライキ)否決保留となり、ベ平連修正案(4.26授業放棄、4・28バリケードストライキ)が可決されスト実が結成された。
4月26日 後期学生大会は成立せず、学生集会となり前期バリストへの合流を決議した。
前期では学生大会の決議に基づき授業放棄し、クラス討論、全体討論集会が行われたが、一部のクラスでは連絡不行き届きのためか平常通り授業が行われた。
4月27日 午前5時過ぎから前期中庭でバリ実主催の総決起集会が開かれ、6時45分ごろから約80名の隊列を組み学内デモを行った後バリケード構築に取り掛かり、1時間ほどでバリケードを構築し、総決起集会を続行した。全学評とベ平連から翌日4・28の行動提起があり、救対から諸注意がなされた。その間バリ実委は大学側にバリストに関する討論集会への全評議員の参加を要求したが、大学評議会は回答を拒否した。
4月28日 10時半から中庭で4・28沖縄闘争決起集会が開かれた。Bクラス反戦、Jクラス学評、社研闘争委、現マル研、新聞部、4・25学生大会議長、べ平連、反戦学生会議(革マル派系)、全学評などから決意表明があり、参加した中川助教授から「バリケードを頭から否定する評議会に対し、バリケードの意味を学生に問うよう意見したが、評議会は黙殺した。私はバリケードの意味を知るためにこの集会に来た。近代合理主義が目的合理主義として我々を浸食していくのを我々は否定しなければならない。そうした自己否定の場が現在の一橋に求められている。そのような観点から私は諸君の闘いを、そして4・28沖縄闘争を支持する。」と発言があった。バリケードから約200名が街頭闘争に出発した。
4・28沖縄闘争を戦闘的街頭闘争で闘うべく結集した学生部隊は都内各校で泊まり込み体制をとり、多数の市民・学生を巻き込んで明治大学前通りを中心にカルチェラタン闘争を展開し、破防法による事前弾圧と官憲動員数東京1万2千人、大阪5~6千人による大弾圧体制の中、東京から新橋駅に至る一帯で街頭闘争を行い、銀座などに解放区を作り出した。全学評の部隊約30名は一橋学園駅から巣鴨駅で下車、東洋大で学生インター、社学同などの部隊と合流し新橋方面に向かった。一橋大ベ平連は約70名の隊列で一橋学園から出発し東京駅八重洲口近くの常盤橋公園の中央集会に参加し、学外結集を含め200名以上にふくれあがった。
5月7日 小平祭連続講演会第2回 清水多吉「非日常性の理論とは何か」
5月13日 大学紛争収拾臨時措置法案=大学立法粉砕に向けての対評議会全学団交が小平分校第三合併教室におよそ450名を集めて行われた。自治会執行部は①評議会は反対声明を出せ②2・28確認書不履行を自己批判し学長選考制度を早急に作れ等、評議会に要求した。全学評からは「大学立法化は全国学園闘争によって体制の有機的構成物たる大学の機能がマヒさせられることに対する支配階級の恐怖の表れである。現在の一橋大学秩序に対する告発としての4・28バリストに込められた意味を評議会はどう思うか。」と質問したが、評議員からのまともな回答はごくわずかだった。反対声明は出すことだけが決定された。
5月15日 後学評が評議会に会合要求書を提出した。
5月16,17日 評議会は実質拒否回答だった。

国立本館封鎖から大学立法反対闘争へ
5月17日 午後8時半、後学評、前学評、一橋寮闘争委員会を中心とする全学闘争委員会(全闘委)約40名が国立本館を封鎖し立てこもった。封鎖の直接の理由は評議会の後学評との会合拒否だった。全闘委は十時半ごろから内部討論を行い、①評議会の会合拒否に強く抗議し②評議会に拒否の根拠を与えている2.28確認書の白紙撤回③現評議会の解散④評議会・教授会の公開を要求し、⑤旧商大以来の一橋の歴史的・社会的役割=現代資本主義社会の管理者養成所、一橋リベラリズムの伝統のもとに、商経偏重、前期問題など多様な問題性を隠蔽する現行の学内秩序を否定し、⑥23日からの全国学園ゼネストに呼応して中教審答申・大学立法粉砕闘争に合流する、などの主張を確認した。深夜11時半ごろより、封鎖を聞きつけて、体育会サークル員など約50名が集まり始め、全闘委に対し説明―討論集会を要求した。全闘委はこれに応えて21番教室で集会を開き、先の主張を明らかにした。バリ内討論集会の結集者は午前1時には150名に達した。一方0時過ぎには中和寮(後期の学生寮)などから執行部系学生約60名が集結し、「バリ内に入れろ」と要求したが、全闘委は「封鎖に敵対し、バリを壊すものはいれることはできない」と拒否した。集会は翌朝4時に及び、封鎖を支持する者が残って、再度封鎖体制を固め泊まり込んだ。

Oの証言〉
当初、全学闘争委員会を主導していたのは革新会議に属する第4インター系の活動家たちだった。彼らは前・後期自治会を支配していた民青への対抗勢力として学内で一定の影響力があった。しかし、本館封鎖を契機として、多くの学生が活動に参加するようになると、第4インターの影は薄くなり、次第に三派系全学連などのシンパ活動家も増え、やがてリーダー格となったのは、ブント系のシンパ学生だった。
ただ、第4インターの活動家は穏健な理論家が多く、学内でセクト間の対立はほとんど見られなかった。それは、その後の全闘委の活動において引き継がれ、各セクトのゆるやかな共闘関係が全共闘運動の終息まで続いた。おそらくそれは初期の第4インター系の人々が残してくれた財産だと思われる。まさに一橋の全共闘運動の良き伝統となったのである。

5月19日 前期臨時学生大会は942人の未曽有の参加者を集めて行われた。
中教審答申・大学立法反対闘争の方針と国立本館封鎖の是非が議論された。全闘委の国立本館バリストは支持を得られず、執行委の国立本館封鎖反対の決議が可決された。これを不満として全学評・全闘委は全員退場した。中教審答申・大学立法反対闘争は波状ストを提案した執行委案は否決され、1年生クラスから出された修正案が可決された。
その内容は、①20日より全学スト突入26日再び学生大会を開く②スト実は各クラス1名で構成する③スト中は全員登校し討論集会をする。
5月20日 後期臨時学生大会も700人以上を集めて開催された。
討論は全闘委の本館封鎖に集中し、大学を考える会から自主撤去を要求する動議が出され、全闘委は採決前に退場した。中教審答申・大学立法反対闘争の方針はノンセクト連合案が可決され、1週間ごとのチェックポイントとして学生大会を開きストを続行することになった。

新入生は全国学園闘争と政府・大学による弾圧・東大入試中止の影響を受験生として受けているので大学立法への関心は高かったと思う。一方で一橋大での大学と学生の団交で交渉されている問題への関心は乏しく、5月17日に全闘委が国立本館封鎖を行ったことへの理解と支持は新入生には広がっていなかったようだ。ベトナム反戦、安保沖縄闘争も緊迫した情勢であったが十分に情宣と行動提起が行われず、1年生にはあまり浸透していなかった。前期後期とも学生大会で中教審答申・大学立法反対闘争のストライキが可決されたが、主導したのは民青系執行委でも全闘委でもなく、前期では1年生のクラス、後期ではノンセクト連合であった。

5月23日 中教審答申・大学立法粉砕全国学生中央総決起集会が明大記念館で開催され全闘委50名が参加。
5月24日 28日 30日 前期後期スト実主催による対評議会会合が開かれ、2・28確認書を巡り紛糾が続いた。
5月25日 「大学立法・中教審答申粉砕」全学デモ 前期学生大会決議に基づき前期後期ストライキ実行委員会が行動提起し、整然かつ合法的に行進することを方針に教職員学生1500人が参加し、日比谷公園から大蔵省文部省前を通り八重洲口までデモ行進した。
5月26日 前期臨時学生大会でスト続行 スト実有志の提案で「全員登校、クラス討論を中心に法案の可否が決定するまで長期ストライキを打つ。1週間ごとにチェックポイントを置き、学生大会で反対決議がなされたらスト中止とする」ことを決議した。
5月27日 後期臨時学生大会でスト続行 封鎖自主解除、2・28確認書についても議論
6月2日 前期臨時学生大会でスト続行 ストへの受け身参加=沈滞ムードを反省し、大学改革委員会を設置し、クラスの自主講座を調整することも決議
6月3日 後期臨時学生大会でスト続行
6月6日 全闘委が小平で決起集会を開いた後、学務委員室を封鎖した。
6月7日 第2波全学デモ 全闘委も混じえて約1000名の学生・教職員が参加し、日比谷公園からジグザグデモも展開し学生1名が逮捕された。
6月9日 前期臨時学生大会で5つの議案書が出され議論し、自主ゼミ、読書会、自主講座の増設、ネトライキ組にビラを郵送して登校を呼びかけるなど決議して、スト続行
6月10日 後期臨時学生大会で2・28確認書白紙撤回決議、スト2週間続行
6月15日 反戦反安保沖縄闘争勝利統一集会 日比谷に5万人結集 国立集会に300人、日比谷公園一橋大集会には400人が参加した。2時から日比谷野外音楽堂で開かれた市民集会には入りきれない部隊が続出し、小田実ベ平連代表のあいさつの後次々と各団体の決意表明が行われる中、東大全共闘の山本義隆代表が忽然と現れ安保粉砕に向けて決意表明を行い姿を消した。集会終了後は霞が関、虎の門、新橋、銀座、八重洲口を通るコースを市民団体、反戦青年委員会、全都全共闘連合の順に長蛇の列をなすデモ行進が敢行された。ベ平連など市民団体は道いっぱいのフランスデモを繰り広げた。一橋からの参加者は葬式デモ50人、べ平連250人、全闘委100人に分かれて街頭デモに参加した。デモは東京駅八重洲口で解散になったが、続々と到着する学生、労働者、市民の人の波でぎっしり埋まり、さながら解放区の様相を呈した。
6月16日前期 17日後期学生大会流会
6月20日 第3波全学デモ 「大学立法・中教審答申粉砕」を訴えて、日比谷公園で津田塾大学の学友約500人と合流し、常盤橋公園まで約1000名で合同デモを敢行した。
6月21-22日 小平祭開催 討論「状況と言語表現」(渋沢孝輔、天沢退二郎、金井美恵子)シンポジウム「研究者の主体性と学問」(安藤紀典、海老坂武、清水多吉)講演「エロスと暴力」(足立正生)などが行われた。
6月23日 前期臨時学生大会で7つの提案について活発な討論あり、7月7日までストを続行
6月24日 後期臨時学生大会では8月5日までスト続行
6月26日 スト実主催の前期問題討論会開かれる。前期(小平、教養課程)と後期(国立、専門課程)の間には学生、教官、事務の人員、待遇、設備などに大きな差別、格差があることを明らかにした。
6月27日 大学立法粉砕全都全共闘総決起集会が明治公園で開かれ、東京周辺の約60大学の全共闘が参加し、ベ平連、サークル、クラス単位の参加も目立った。9千人が結集し、一橋大からも数十名が参加した。
7月5日 第4波全学デモ 一橋大250人が国学院大学の学友200人と合同で清水谷公園から日比谷公園までジグザグデモで戦う。
7月7日・14日前期8日・17日15日後期臨時学生大会 は続々流会し、なし崩し的に夏休暇に入っていく。一時の高揚どこ吹く風と一橋新聞の見出しは嘆いている。
7月9日・14日 社会学部問題説明会開催 確認書問題、社会学部運営委員会問題をめぐって討論が行われる。
7月10日 大学立法粉砕全都全共闘集会に4500人が早稲田大に結集し、一橋大からは全闘委約30人が参加し、早大全共闘などの報告を受けた後日比谷公園までデモ行進した。
7月11日 第5波全学デモ 300人が常盤公園から日比谷公園までジグザグデモで闘う。社会学部教授会のデモ参加の評価をめぐって後期スト実と全闘委が対立する。
7月11日・17日 出入国管理法案粉砕シンポジウム 磯研集会所で田上、鈴木(道)、鈴木(秀)、中川、海老坂、山田欣吾等の教官も参加して行われた。
7月18日 後期スト実・商学部闘争委が商学部教授会に会合要求した。
7月18日 第6波全学デモ 清水谷公園に約200人が結集し、集会でノン・ポリ行動委員会、全闘委、院生共闘、8クラス闘争委員会、経済学部闘争委が連帯のあいさつをして、日比谷公園までデモを行い、後期スト実は「大学立法が強行採決されたら即時学生大会を開催し無期限ストで立法粉砕まで闘う」と述べ解散した。
8月3日 大学運営に関する臨時措置法案が参議院本会議で強行採決された。
8月4日5日 対評議会団交で、学生側の2項目要求①大学当局は大学立法を一切認めず、同法に基づく通達等の措置を全面的に拒否せよ②4・21次官通達を拒否し、機動隊を学内に入れるな。を大学当局は拒否し決裂した。

5月下旬からの大学立法反対の闘争は全学的な盛り上がりを見せた。毎週のように学生大会や教職員を含む全学デモが行われ、ストライキが継続し、多くの学生が参加した。5月25日の全学デモが私のデモ初体験になった。スト実は国立本館を封鎖した全闘委とも、それに敵対する民青とも距離を置くノンセクトが主導して、様々な意見や立場の人々が広く参加しやすかった。前期問題、各学部の抱える問題、入管法問題なども取り上げる動きが出てきた。1年生はクラス討論を通じてできた仲間と一緒にデモや集会に参加することが多かった。われわれ8クラスの仲間10人ぐらいで渋谷まで出かけてハチ公前で、勝共連合の反共宣伝に負けずに、大学立法反対の署名集めもした。6月15日はベ平連のデモに加わりwe shall overcome を歌ってフランスデモをした。7月から8月はクラスの仲間と大勢でプールで遊んだりした。その後は前年夏休みに1か月泊まって受験勉強してお世話になった信州の学生村の民宿に泊まりに行ったり、隠岐島に帰省する友人について京都から松江に旅したり1年生の夏休みを楽しく過ごした。

全国全共闘結成から安保沖縄決戦へ
9月3日 早大第2学生会館と大隈講堂が封鎖解除された。早大奪還全都全共闘集会が開かれ、学内でも大学法粉砕、無期限スト貫徹全学総決起集会に70人が結集し、全闘委、院生共闘、Sゼミ代表,商闘委、ノンポリ行動委、入管法粉砕実行委から連帯のあいさつがあり「無期限スト・新館封鎖」が提案された。8クラス闘争委員会からは「わがクラスからは11名が参加している。論理の面ではまだ弱いが最後まで闘う」とあいさつし注目された。
9月5日 全国全共闘連合結成大会が全国178大学から2万6千人が参加し日比谷野音で開かれ、大会スローガンは「70年安保粉砕・沖縄闘争勝利!11月佐藤訪米実力阻止!10・21闘争勝利!破防法・騒乱罪攻撃粉砕!大学法発動粉砕・全国大学闘争勝利!ベトナム人民の解放闘争勝利・全アジア人民と連帯して闘おう!反戦派労働者と連帯して闘おう!全国大学をバリケード占拠せよ!全国全共闘の旗の下、闘う全国学友は安保決戦に総決起せよ!」で特に11月佐藤訪米阻止闘争への決起が強調され、結成宣言、闘争宣言が行われた。官憲は5千名の機動隊員を配置し検問体制を固め、山本義隆議長をはじめ逮捕令状の出ている学友を不当逮捕した。
9月9日 前期自治会執行部(民青系)主催の対評議会団交に全闘委・院生共闘・202行動委員会などが介入し、8.4-5団交の2項目要求を拒否した評議会を追求した。
9月11日 大学当局が兼松講堂で学生教職員2千人を集め一方的な説明会を開催したが、全闘委・院生共闘・202行動委・NON行委など250名が授業再開を図る収拾策動であるとして追及、粉砕した。
9月12日 大学当局は授業再開の声明を出した。
9月24日 前期学生大会 執行部提案は否決、前闘委提案は否決保留となり、8・5行動委(旧スト実)提案の大学法に関する2項目要求が通るまでの無期限ストライキが可決された。
9月24日 後期学生大会 封鎖解除を強く要求する「全国共闘を推進する会」(民青系)と「考える会」(右翼系)が議事進行に抗議し議長団を解任し、大学立法闘争の総括・方針の討議はなされないまま流会した。
10月2日 前期ストライキ実行委員会主催の前期教授協議会追及討論集会開かる。8・4,5団交の経過、2項目要求の内容について認識が極めて不十分な教官が多く、論理的対決にならない。

国立本館封鎖解除の攻防
10月5日 国立本館封鎖が解除された。 午後5時半ごろ白ヘルメットの右翼学生集団約40名が国立本館に突入し占拠した。本館内での講演会を聴きに来ていた市民学生高校生が追い出された。右翼集団はバリケードを強化し逆封鎖した。全闘委は再占拠―再封鎖のため攻撃を加えたが、右翼集団は本館内から石や瓶を投げ放水を行った。教官数十名が双方に暴力をやめるように説得する一方で、当局は機動隊200名を要請し、新館の水をとめた。全闘委の本館奪還闘争に呼応して新館派(202行動委、ノン行動委、院生共闘)約60名は封鎖貫徹を叫んで学内デモを行った。それに対して秩序派あるいは体育会系の学生は敵対しもみ合いを起こした。全闘委は11時ごろ攻撃をいったん休止し、本館奪還の拠点として新館1階を占拠封鎖した。深夜全闘委は散発的に本館奪還を試みたが、本館前で右翼、民青のアジにあおられた「一般学生」によって阻まれ、本館と投石合戦などを繰り返したが、小康状態のまま朝を迎えた。
10月6日 午前10時ごろ全闘委約40名は本館を奪還すべく武装して本館に向かったが武装右翼約100名によって阻止された。午後には右翼学生が新館封鎖解除を唱えて新館前に結集した。野々村教官を挟んで押し問答の末、右翼集団は封鎖解除に移ったが、右翼の実力解除に反対する学生数百名が新館入り口に座り込み抵抗し、右翼集団は座り込んでいる学生を角材で排除しようとしたが失敗した。4時15分「機動隊学内進入」の声が流れ全闘委は急遽撤退した。その時には右翼集団は封鎖解除に着手していた。封鎖解除反対派は総括集会を開き、デモの後解散した。

〈Oの証言〉
 この時期、本館には封鎖派の泊まり込み学生も少なく、昼間は市民にも開放された空間となっていたので、右翼集団が実力で封鎖解除したことにはなっているが、実際には抵抗らしい抵抗はなくあっさりと逆封鎖されてしまったのが実情だ。ただ、当日5日と翌6日には、本館に立て籠もる右翼と外から本館に向けて攻撃する全闘委の間で、激しい闘いが続いた。6日には右翼も本館から飛び出してきて、本館脇のところで白兵戦が演じられ怪我人も出た。結局、全闘委は、本館のすぐ隣にある新館を新たに占拠し、そこを拠点に反撃を試みたが、「機動隊が来るぞ」との声で最終的に新館からも撤退した。

10月7日17日 後期学生大会が続けて流会となる。
10月8日 全国全共闘中央政治集会開かる。午後4時半から日比谷野音に全国・全都全共闘の学生4千人。午後6時から兼松講堂で国立べ平連、国立反戦青年委員会、10・10一橋大学実行委員会主催の10・8全国立反戦集会が開かれ150名が参加した。

月3日に大学立法が成立し、夏休みで学園闘争に緩みが出たのを見計らうように、全国の大学で相次いでバリケードが解除され、国家権力の攻勢が強まった。東大日大を中心に全国の大学の全共闘は8つの新左翼党派をも糾合し、全国全共闘を結成し、11月の佐藤訪米阻止の安保政治決戦に向けて隊列を整えた。私は9月3日の早大全都全共闘集会、5日の日比谷野音の全国全共闘連合結成大会に初めてヘルメットを着けて全闘委の隊列に参加し、国家権力と対峙することになった。
なぜそうなったのか。8月の大学1年生らしいのどかな夏休みの日々は9月から一変して、国家権力との闘いの日々となった。今考えるとここには大きな飛躍がある。この飛躍した決断の背景としては、父親への反抗、社会主義への親和性、ベトナム反戦の世界的なうねりがあったと思う。父のようにはなりたくないという信念は幼いころからあった。家庭ではわがまま勝手にふるまい、ちゃぶ台返しで妻子を脅かし、他人の悪口ばかり言っているが電話口では上司や客にざーます言葉でこびへつらう。巨人大鵬卵焼きと下手なゴルフしか趣味もなく、知的なことに関心がなく、大学時代ボクシングが強かったこと、銀座や浅草でやくざと喧嘩したことばかり自慢する、普通のサラリーマン親父と言えばそれまでだが、ああはなりたくないと思い続けてきた。父親の向こうにサラリーマン社会を見て、社会全体の支配体制に反発した。一橋を出てエリートサラリーマンになることは断じて嫌だというのが1つ目の背景だ。
社会の変化や社会主義には中学生から興味があった。マルクスの共産党宣言や入門書を読んだが、アジテーション調の文章や下部構造が上部構造を規定する機械的唯物論は納得できなかった。ソ連型の前衛党社会主義と違う人間的な社会主義を求めた。加藤周一の「ウズペック・クロアチア・ケララ紀行」「世界漫遊記」を愛読した。社会学部で社会学や社会変動論を勉強しようという考えで志望校を選んだが、入学してみると一橋大学社会学部には社会学の講義がないので驚いた。社会科学の殿堂を自称するこの大学で商経法の3学部に含まれない分野を集めたのが社会学部であるらしい。人間的な社会主義を求めたいのが2つ目の背景だ。
第3の背景はベトナム反戦を主調とする世界的なスチューデント・パワーだ。パリ5月革命やアメリカのベトナム反戦運動がアメリカの侵略を打ち砕こうとするベトナム人民の闘いと連帯して世界の仕組みを変えて行くという期待を感じていた。
全闘委の諸セクト、反帝学評、フロント、第四インターなどの先輩もオルグで我々の背中を押してくれたが、いずれもまじめな活動家あるいは理論家で、決起せよと発破をかけてくれるような闘士はいなかった。反帝学評のFさんはたくさんの本を読んでいる勉強家で党派の理論だけでなく様々な社会理論を紹介してくれた。これ以降は全闘委と行動を共にすることになるが、全闘委には加盟手続きはなく、定例の会議や連絡網があるかどうかも知らなかった。リーダー格は二学年上のOさん(ブント系)らしく、上記の3セクトの他にはノンセクトの人が多いが、中核派、ML派、革マル派を名乗る人がいて、別組織として石川一雄さんの裁判闘争を行う全国部落研、ベ平連で脱走米兵を支援するジャテックをやっている人が周辺にいた。
 
反戦・反安保・佐藤訪米阻止闘争へ
10月10日 ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止・羽田闘争2周年統一集会が午後3時40分から明治公園で開催され、午前10時半から日比谷公園で独自の青年労働者総決起集会を開いた後デモ行進を行って来た反戦青年委員会1万4千人をはじめ10万人が結集した。東大全共闘、長崎反戦、沖闘委、沖縄反戦、反安保婦人同盟などの決意表明の後「10・21国際反戦デー、佐藤訪米阻止闘争に向けて、この結集をさらに拡大し、巨大なうねりを作ろう」という大会宣言を行い、4時半に集会を終わり、市民団体、全国全共闘、高校生、反戦青年委員会、革マルの順で青山1丁目―赤坂見附―山王下―虎の門―霞が関―日比谷公園をデモ行進した。青山通りを埋め尽くしたデモの隊列は何キロも続き、激しいジグザグ、フランスデモを繰り返した。
10月15日 前期ストライキ実行委員会主催の第2回前期教授協議会追及討論集会開かる。
出席教官の過半数が2項目要求に賛成した。
10月20日 10・21闘争に向けて全学総決起集会が約60名を結集して兼松講堂前で開かれ、集会は権力・マスコミが10・21に向けて作り上げてきた恐怖体系に若干委縮しつつも10・21を闘い抜こうとする気迫とが複雑に入り交じる雰囲気の中で進められ、反帝武装行動委員会、フロント、社学同、反帝学評から決意表明、NON行動委、院生共闘から今までの闘争総括が述べられた。
10月21日 国際反戦デー 全闘委は兼松講堂前で集会の後、各党派、ベ平連に分かれ都内各所の戦いに向かった。都内は史上空前の弾圧体制が敷かれる中で闘いは行われた。前日までに都内の拠点校のほとんどがロックアウトされる状況下では、数百人単位の機動性に富んだ軍団が先鋭部隊となり、それを取り囲む形で全共闘、市民などが闘う闘争にならざるを得ない。午前中に日本生産性本部、日本工業倶楽部、横田・砂川基地、NHK放送センターの少数ゲリラ闘争、午後は同時多発的ゲリラ戦に移行し、新宿、飯田橋、高田馬場などの街頭闘争が闘われた。最終的に新宿での解放区闘争が10・21闘争の凝縮点となった。当日官憲に逮捕された学生・労働者は全国で1400余名で一事件としては最大であった。
11月5日 二項目要求無期限スト貫徹=評議員追及集会が評議員11名、学生400名が出席して開かれた。評議会として二項目要求はのめないと表明した。
11月11日 評議員追及集会は評議員13名学生300名が結集し討議したが議論は平行線をたどった。
11月13日 訪米阻止ゼネスト銀座実力闘争 午後5時半銀座に到着した青ヘルを中心とした400名(一橋からも30名が参加した)の部隊は地下鉄銀座駅構内で集会を行った後、路上で待ち構えていた機動隊に攻撃をかけた。最初の攻撃で機動隊は一時退いた。駅構内の後続部隊は少数に分かれてゲリラ的に闘った。
11月15日 訪米阻止反戦総決起集会が決戦前夜2万5千人の労働者・学生を結集して日比谷野音で行われた。
11月16日 朝8時40分ごろ第7機動隊約200人が小平分校本館に侵入し立ち入り調査を強行し、ヘルメット1個その他を押収し10時過ぎに引き上げた。前期スト実約20人が正門でピケットラインを張り抵抗、抗議した。
新左翼各派は恵比寿、東京駅、蒲田、品川などから首相の訪米を阻止すべく羽田へ向けて進撃した。東京駅には午後2時ごろ反帝学評、フロント、ML派、東大全共闘など千余名が結集し駅構内で集会を開きデモをした。3時半ごろ駅南口から機動隊が襲い掛かり、不意を衝かれた学生は神田方面に引き返したが120名が逮捕された。続々と羽田に向かう部隊は17日朝にかけて機動隊や自警団と対峙し、蒲田一帯を一時制圧した。この2日間の闘争で逮捕者数は全国で2093人、東京で1920人で一橋からもかなりの逮捕者を出した。

前期スト解除・学内秩序旧に復す
11月24日 前期学生大会でストライキ解除される。議事は一貫してクラス連合=右翼秩序派のヘゲモニーの下で運営され、スト解除、臨時執行部の選出が決議された。
12月14日 午後2時から日比谷野外音楽堂で、11・13闘争で大阪扇町公園にて官憲に虐殺された岡山大生糟谷孝幸君を追悼する「糟谷君虐殺抗議人民葬」が全国全共闘連合の主催で開かれた。一橋からの参加は十数名だった。反戦労働者、新左翼各派学生、ベ平連など市民団体、約1万人が結集し日比谷公園を埋め尽くしたが、午後3時ごろ竹竿などで武装した革マル派が人民葬への介入を図り、新左翼各派と衝突を繰り返した。機動隊が介入し187人が逮捕された。
12月19日 全国全共闘連合第2回大会が日比谷野外音楽堂に7千人の学友を集めて開催された。10-11月政治決戦の総括は勝利・敗北と各セクト分かれたが、今後の行動方針は三里塚闘争支援、革マル派の武装敵対粉砕、高校生と連帯した入試粉砕、4~6月の安保決戦をバリストで闘うなどであった。

一橋新聞12月16日号「一橋大闘争総括への視点」(要旨)
5・17封鎖突入は、既存の自治会内左翼反対派が踏襲してきた運動過程に逆行し、自治会運動の合法性を前提とすることなく、全国教育闘争の質を現実の運動として一挙に突き出すことによって闘争の電撃的な一点突破を実現した。5・17の全学的波及力によって成立した5・19、20前・後期学生大会における大学立法反対スト突入以降、全闘委は国立本館を拠点として、闘争を組織化運動へと純化していく。本館封鎖闘争と大学立法反対ストの結合が組織化の課題となるが、全闘委は大学における管理―非管理の否定、学生による大学自主管理=学生権力の樹立=大学解体というサンディカリスティックな幻想に囚われて、個別闘争を普遍的政治闘争へと発展させる方向性を示せず、理論的指導性、方針提起能力を欠如していたため、スト実を領導することができず、自己の内なる加害性の告発=自己否定の説教師として運動したに過ぎなかった。5・17の主体は10・21国際反戦闘争を闘い抜いてきた部分であったから、その衝動の質はわれわれの資本主義社会での社会的隷属からの解放の渇望を秘めたものだったが、一橋闘争の学園政治主義への傾斜によって闘争は空転した。
 個別学園闘争と政治闘争との区別と連関を考えるとき、個別学園闘争はその極限化によって政治闘争へと転化するのではない。個別学園の闘争組織(全共闘)が共通の社会的利害を貫徹するため連合して(全国全共闘)国家権力と対決するに到っても、それは社会闘争の域内にある。しかし全国全共闘が大学立法粉砕闘争を闘うとき、社会闘争である本質は変わらないが、教育の帝国主義的改編に対決するものとして、同時に政治領域にある。このことが全国全共闘に過渡的な二重性を与えている。全国全共闘の任務は、この社会闘争と政治闘争の過渡的な二重性を、統一的=相互媒介的に展開することだ。
 アジア・太平洋圏の中で進行する産業再編成の一環として、教育における帝国主義的改編を捉え、労働力商品として日々生産、再生産されていく我々自身に対するブルジョワジーの攻撃とは何か、全大衆の前に実践的に提示していかなければならない。産学共同路線のよりドラスティックな貫徹は我々一人一人を競争と分断の真只中に落とし込め、資本の下に無条件に奉仕する絶望的な社会的隷属へと送り出していく。我々が何に,何故対決しなければいけないかという視点を欠落したことに一橋闘争の最も大きな欠陥がある。資本の下への絶望的隷属はわれわれの感性=実践の制約と破壊をもたらすという下向的認識=実践の深化が求められる。
 全闘委が掲げた二項目要求(①対評議会会合獲得②2/28確認書3/1自己批判書白紙撤回)は一橋方式=近代化路線に対決するものとして措定されていたにもかかわらず、現実的な衝撃力を持った運動として展開されず、終局的には学生大会決定(6/10後期学生大会での2/28確認書3/1自己批判書白紙撤回)に便乗しての闘争展開となり、無展望に陥った。
 産学協同の制度化、新国土開発に見合った地域社会との結合、これらはすでにモデル大学=新幹線大学として東教大の筑波学園都市への移転で本格的に開始され、その全体像は中教審答申の中で明らかにされ、各大学の自主改革で部分的に開始されている。一橋大では先取りされた形で進行している参加による学生の包摂=支配をテコにして、教育の帝国主義的改編の完成に向けて、来春の中教審答申が用意されている。2/28確認書3/1自己批判書白紙撤回―近代化路線粉砕の闘争を反産学協同のラディカルな持ち込みによって、大学立法、70年安保を射程に入れた闘争を展開しよう。

 反安保・政治決戦・佐藤訪米阻止の実力闘争に参加することはずいぶん真剣に考えて自分に課せられた試練のように受け止めて決断した.生き方、思想的立場としてはやるべきだ。パクられるのは厄介だが何もせず傍観するわけにもいかない。身の回りのものを整理して、当日は緊張して隊列に加わった。11月13日の地下鉄銀座駅構内と16日東京駅のホームに上がる階段、どちらも隊列の前の方が機動隊と接触すると同時にさっさと崩れて居なくなってしまう。逃げ足が速すぎてがっかりした。再集合する場所も知らされていない。ずいぶん悩んだ割には決戦はすぐ終わってしまい、がっかりし拍子抜けした。一方で逮捕されずに済み、決意を強いられた緊張状態から解放されホッとした。
全国全共闘を結成し全国の学園のバリケードから出撃し、佐藤訪米阻止の現地闘争を頂点として、反安保沖縄政治決戦を闘う目論みは国家権力の壁に阻まれ、国民大衆に波及することなく終わった。
1968年10月18日前期学生大会でバリストで10・21国際反戦闘争を闘うことが決議されて始まった第一次一橋闘争は1969年11月24日前期学生大会でストライキが解除されることで終焉した。
スト解除、授業再開の後は学内の集会や活動の呼びかけもなく、再開された授業には出ないでクラスの友人と会ったリ、ブラブラしていたと思う。女子大のシェークスピアの読書会に誘われたり、デパートの歳暮の配送所のアルバイトをしてすぐやめたり、競馬の馬券を買いに行ったり芯のない自堕落な生活をしていたが、学生運動は諦めたわけではなく、クラスの友人で集まって資本論の読書会を始めていた。全闘委の先輩方からのオルグやセクトの集会の誘いもほとんどなく張り合いのない毎日だった。年末にFさんに誘われて全逓の反合理化闘争の支援で夜に東京中央郵便局に行った記憶だけがある。
(続く)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年3月20日(金)に更新予定です。

今回のブログは、『週刊アンポ』第9号(1970.3.9)に掲載されたの反戦派教師の座談会の記事である。
この第9号は「教育特集」ということで、2回にわたり「造反中学生との対話」と「高校生の広場」を掲載してきたが、3回目は「反戦派教師は語る」である。
1969年の10・11月に闘われた佐藤訪米阻止闘争では学生だけでなく、多くの反戦派労働者が逮捕されたが、その中には教師もいた。
「教師は聖職である」という「教師像」を打ち破って、1人の労働者として闘いに参加した反戦派教師たちの思いが語られる。
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【日常性の厚い壁をこえて 座談会・反戦派教師は語る】(『週刊アンポ』第9号1970.3.9)
昨秋、佐藤訪米阻止に、数壇を離れて街頭に出た反戦教師たちへ世間の非難は集中した。しかし彼らが彼らをとりまく日常性を超えて投げかけたものは、「教育」への本来的な問いかけであったのだ。 (司会・久能昭)
<出席者>
反戦教師救援会、大森四小、大泉一小、大森二中、萩中小

司会  ここ1・2年、日木のあちこちで、さまざまな矛盾が露出し、怒りも噴きだしているのはご承知のとおりです。
全国を一巡した大学闘争はいうまでもありませんが、最近では、高校生や中学生までも含めた運動が、大きなうねりとなって、日本の学校を底の方からゆさぶっている感じです。
昨年の10・11月闘争での反戰派の教師の行動もさまざまな波紋を起こしたわけです。そうした教師の投げかけた問題はいろいろあると思います。
そこで、今日は、いつも現場でいろいろな活動を積極的に行なっている先生方に集まっていただき忌憚のないディスカションをしていただきたいと思います。
Eさん、いかがですか。
E  私は、逮捕されて、釈放になり、今、自宅研修という処分を受けているわけです。
やはり、10月から、この間、教師というのは何なのか、今の、教育機構と、教育行政といった大きなワクの中で教師がやれる最低のものは何なのかということです。私もよくわからないのですが、一体どこまでありうるのか、ありうるとしたらどこまでやれるのか。
もうひとつ、教師というのは、やはり子供に何かを教えるということ、つまり未来をになう子どもに対して文化の伝達をするということ、これが一面的に重要視される面がありますね。聖職者意識ですが・・・。ほとんどの教師がそういうふうに意識しているだろうし、社会的にも。だから教師は一定のワク以上のことはやるべきじゃない。教師に対する作られたイメージというのはすごく根強いですね。
だから、私自身には敎師として参加するということよりもむしろ私個人として参加するという意識があったわけです。そうすることにより「作られた教師像」を破って行こうとしたわけですけどね。
今後、お互いの職場でも、地域の人たちにも、もっと広げられれば、社会の人たちにも、どうしてそうした「教師像」を破るか、それをさまざまな運動と密着させなからやりたいのですけれど・・・。
B  ぼくか教師になっての悩みは「いったい自分のやっていることは何か」ということです。子どもに接してもその中でいろんなことをやるのだけど、全体状況の中で「教師」の位置を見究めたいと思いましたね。そうするとでてくるのは、現在の教育の中では、国家政策の伝達者的存在ですよ。国家を背景としての子どもに対する加害者的存在といってもいいです。それはぼくにはたえられないんですよ。だから、<教師>からぬけだして生身の人間としてもう一度自分を捉えなおさねばならない。そこに10・11月闘争に参加せざるをえないぼくたちの原点があったと思うのです。
C  いま、Bさんが「加害者意識」といったけど、あの10・11月闘争で、 わたしたちがはたしてそう考えていたか、どうか、そこは問題だと思うのですよ。全身であの闘争にぶつかっていくという意識が、わたしの場合先行していたと思いますね。いろんな<教師像>が問われるけれども、わたしはそういう状況だからこそ、<教師像>をどううち破っていくか、そのためにはどういう闘争をしなければならないか、 6月決戦に戦うために、いま何をすべきか、そこに意識を集中しなければ、戦後の教育労働者が歩まされた状況を打破することはできないと思うんです。
一個の労働者として私はどう闘いをすすめるか・・・そこんところが問題なのです。でないと、またもとのもくあみになってしまうのではないでしょうか。わたしたちの闘いを通じてだけさまざまな<作られた教師像>をケトバスことかできると思うんですけどね・・・。
D  獄中からでてきた人に聞きますとね、こんなことがあるのです。つまり、自分を取調べている刑事なり、検事の顔か、自分の顔と二重うつしになってしょうがないというんですね。たとえば「支配者の顔」としてね・・・(笑)。また、若い看守にいい年をした人か「先生、先生」というんですってね。そうすると「自分も学校でああいわれている、それは看守と全く同じ立場ではないか」と思えてしょうがなかったというんです。支配者としての立場を途端に感じちゃうわけですよね。
それとね、取調ペをしている検事が、「先生のくせにこんなことをして・・・」というでしょう。それは、わたしたちが職員室で、子どもが喧嘩したときに「六年生のくせに・・・」といって反省を迫ることかありますよ。それとは全く同じ論理ではないだろうか、つまり権力者の論理とね。そうして「教師とはいったい何なのか」ということを問い直した。獄中の人も、でてきた人もみんなそういって自分の立場をもう一度ほり起こうとしております。
司会  神奈川の事後逮捕では、取り調べがほとんどなく、ただ「説教ばかりだった」と聞いているのですけど、Eさん、取り調べは実際はどうだったんですか。
E  わたしの場合はね、いろんな取調べを受けましたね。例えば刑事がね、「なんだお前は官費で教育されたじゃないか、そういう立場におるくせに・・・」とか、「教師のくせに・・・」とか、いやみったらしい取調べをしました。そのときのかれらの意識って自分たちと教師を同じようにみているのではないでしょうか。たとえば「同じ財源から月給をもらっているくせに・・・」というようなね。
C  いままでいろいろ聞くんだけど、教師の特別視ね。自分たちがそう感じること自体が問題だと、わたしは思いますね。けっきょく階級意識だわよ。かんたんに言えばブルジョワ道徳観にとらえられているということじゃないかしら・・・。
F  ぼくはちょっと違うんだけどね・・・。いつだったか、地方に行ったときタクシーに乗ったことがありますが、そのとき運転手さんから「職業は何か」と問われたのですよ。「教師だ」と答えたらとたんに運転が荒くなってね、その運転手さん「教師が大嫌いいだ」っていうんです。ぼく自身そう思っているものだから、それは全くそうなんで引き下がらざるをえないわけですよ。
<教師像>についていえば、ぼく自身いつも実像と虚像に悩んでいますね。つまり一人の人間としてのぼくと、職業人としてのぼくという関係ね。この二つの像のあいだにはものすごく距離があるんですよ。これを埋めなくちゃならない。けれど、その間にいろんなものがあって距離を縮めること自体生やさしいことではないんです。それを埋める努力がいまのぼくの課題なんだけど・・・。
D  その前の話ね。実際問題としてね、教師の社会的地位は低いんじゃないですか。月給の面でもね。
ところが、逆にどんな社会的地位のある人でも、自分の子どもをあずけるぼくたちに「先生」とよぶでしょう。それを素直に受けとめるほうが、教師としては安全なんですよね。そういった二つの間の接点に教師はいるんじゃないだろうか。そこから間題がおこると思いますね。
   Fさんのいう虚像と実像ってことね。そういうふうには考えられない。実像が問題なのだと思います。父兄は、教師を尊敬なんかしていないーー私が、東京でも、最も下層地帯にいるせいかもしれませんが、絶対に教師を尊敬なんてしていない。また、教師は社会的になんのかんのと言っているようじゃ駄目なのじゃないかと思うのです。教師だって一個の労働者にすぎないし、いかに自分たちを解放するかが問題ですよね。
D  教師には極端に言うと、真理を教える任務がある。そういうふうにすることにより、子供たちが未来を築いていってくれる。未来への肥料であり、それに徹することで良い、それ以上のことをするなんてとんでもない。それは権力もいうカッコつき革新もいうし、そうだけれど自分が教育ゲリラとして何かやることはある意味では可能だと思っている。
極論すれば戦争肯定をいかに能率よく教えるかということに、 ある意味では相対としてきちゃっている。その中で一般として言えば未来に子供たちを、と言っていては駄目だと、自分としてどうしたら良いか、ということにならなければいけない。教育実践にだけかかわってたのじゃだめだと思うんですよね。いわば職業としてね、世の中の為意識でやっていたらかえってマイナスだと思う。そういうことを自分自身に言いきかせることだ。
広島の人たちがいろいろ書いていることのなかで多少コトバ足らずであっても一人の人間としてやったことが、もういっぺん教師という構造の中でそれとの関係を見いださざるをえない。
今まで教師の自己否定とかということがさかんに言われているわけだけれども、にもかかわらず、日常、口では革命的なことを言う。例えば、ぼくなんか、なんとなく教師の位置はどっぷりつかっているわけですよね。極端に言えば、社会の表向きの姿は成りたっているわけです。象徴的には10・11月闘争に参加した、ないしは逮捕されたというものをくぐって一斉に、どっぷりつかっていた職場の日?性というか教育の日常性が、自分にはむかってくる。群馬の人からTELかかかってきたのですけれど、10月に参加した人に、警察から任意出頭がかかっている。それがたまたま新聞に出た、とたんに翌日から、職務命令で本人に休ませるのではなくて、本人の授業を召しあげる、授業をさせない、という形ででてきているのです。昨日までは授業していたんですね、学校っていうのは、まさに自分にとっての教育する日常性としてあったわけでしょ。それが、自分のやったことが公けになったとたんに、反日常に転化するわけです。今までの日常性であった職場がはむかってくるわけです。そこで、今まで、どちらかといえばあたたかくつつんでくれていた日常のいろいろなものが反権力という落印をおされたことによっていやおうなく、反戦派教飾の眼で検出されてくると思うんですよね、これからいろいろなことが。
幸か不幸かぼくはまだそういうことになっていないからね、ぼくには見えてないことがEさんには見えているかもしれない、という問題としてあるんじゃないかと思うんですよね。
E   さっきCさんが言ったのですけどね、父兄が先生を尊敬していない、ということ私もそうだと思うんです。だけれども、何か起こると、先生が・・・という眼で見るでしょ。先生だったらこうしてもらわなきゃいけないという、いわゆるそこには何ていうのかな、そこには戦前の教師という、独特の地位におかれたものがあったのだし、それを父兄なり、教師なり、他の労働者なりが、どう、自分自身がどう感じていたかということとは全く別にして、とにかく、独特な位置があったわけでしょ。それがピョンとでてくるわけなんですけれどもね。

司会  ところで今すぐは敎師の側から、<作られた教師像>とか<自ら作った教師像>をうちやぶる、その原点をどこにおくかという話だったのですが、今度は外からみた<教師像>というところで、Aさん、どうでしょう。
A  たとえば、日本文学にあらわれた<教師像>を例にとりましょうか。それはいくつかに類型化できると思う。
まず、権力の鎖につながれた存在としての教師、これは言うまでもないでしょう。
次に社会にいろんな形で疎外された存在としての教師、たとえは、いなかなどでは、地主の次男とか三男とか、 とにかく、長男と従属的関係にある者が教師になるんですな。そうした疎外の具体的な象徴として、胸の病を持つ教師が描かれています。これは、いろんな意味があるでしょう。社会的な地位の低さ、というのもそのひとつの例です。にもかかわらず常に教師は人の子を、全人格的に教化する(倫理化する)宿命を持った存在。そうしたものが家父長的な共同体の中での存在、という像が描かれているわけです。こうした教師像がとても暗い感じを与えているし、このような文学にあらわれた敎師像がつまりは一般社会人がイメージする<教師像>だと思います。これは、基本的には戦前も戦後も変わりないんですね。それに日本の社会構造の特徴から言って、よく言われるように、学歴尊重という意識は、まだ根強いでしょ。だから<未定の子宝>を完成してもらうものとして教師を見るのですね。つまり教師を道具化する。利用するという意識しかないんです。教師に親に親のエゴイズムをおしつけるわけです。
こういうことから教師はただ「教えること」に一生懸命になればいい教師ということになる。だから教師か作られたワク組みからはみ出るとやはりエゴイズムから、得手勝手に、倫理性という日本人の一番弱いところを突くのではないでしょうか。<倫理>を武器にして教師をだまらせるのですよ。ところが10・11月闘争での教師の街頭行動がショッキングなニュースとして流されたわけです。非難の声は日本の父兄の通念から言えば、ごく自然なんです。よく言われる日常性なんですね。これを打ち破るのは、やはり教師の日常性をいかにして打ち破るかという教師自身の生き方に通ずるでしょう。それが、そうした教師集団内にある日常性を打ち破る闘いを通じてのみ、親たちの<教師像>を変えていく唯一の方法ではないでしょうか。その意味でEさん、Cさん、Dさんなどの意見に賛成です。
事実いろんな支援運動をやっていると、たとえばEさんの学区の父兄の意識は少しづつ変わっていってることがわかります。最初は、Eさんの行動を批判してた人たちがEさんの気持ちもわかるというように変わってきた人が多いですからね。
E  ええ、それとまた別の父兄に会ったのですけれどもね。その人は、たしかに私が個人的に街?闘争にでるのは全く正しいと言うんですね。正しいという論理があるわけですよね。そうとう覚悟して出たんですが、どうしても教師という職業にある以上ね、子どものことが残るんです。それに対して、子どものことなんか一切考える必要はないというんです、その父兄がね。子どものことなんか今の時代でね、考えてたら何もできないじゃないか、と言ったのですけれどね。
A   たしかにそうですね、たとえば、烏取の国本さんの闘いは、今は国本さんとその周辺だけではないでしょう。点の闘いから線の闘いへ、線の闘いから面の闘いへと拡がっていますね。それは今、Eさんが言ったような父兄との闘いの共有があるからでしょう。簡単ではない、特に鳥取などではね。そういう所で闘いを拡げていった点をぼくは学びたいと思うんです。

司会   ところで、日本の教師像から、それをどこで、どのようにして打ち破るものとしての話がちょっとでたのですが、この辺でもう少しいろいろな闘いを紹介していただきたいですね。教壇に帰ってどうするか、ということも含めてですね。
F   私の場合は教壇に帰った場合、どうしても自分が教育を受けた原点が何だったか、から始まるのです。たとえば、わたしの旧制中学畤代、戦後の一時期にあった自由がそのまま教室の中にもありましたね。拘束とか管理とか、そんなものは一切なかったですね。外には闇市という自由の場がありましたしね。結局そこに帰るんですよ。
そうした原点を持ちながら、わたしはずっと職場にへばりついて紐合からおろされてくる方針や情勢を徹底的に討論する。そのためにはさまざまな運動がでてきますね。毎週出しつづける職場通信もそのひとつですよ。教特法(教育公務員特例法)などを討論していくと、反戦派教師への弾圧が自分たち教師全体への攻撃だとスッとわかるーーそうした討論にささえられて、反戦派教師全体の救援を分会としてやろうということが可能になっていったと思います。
B  わたしは教育労働者の運動を新左翼のそれとのかかわり合うものとして考えたいですね。いわゆる既成の労働運動の指導では駄目だ、新しい教育労働者自身の自己解放をも可能とするような運動をつくりださねばならないと思う。それがさきに言ったような新左翼の運動とのかかわり合いで60年以降も営々としてあった。しかし、そうした10年にわたる運動そのものを試練にかけ、同時に質的に転換させたものが、10・11月闘争だったのではないでしょうか。したがって、やはり、直接10・11月闘争と、その後の権力による弾圧、処分、という事態そのものを中軸にして運動が全国的に起こっていることにまず注目していくことが大切だと思うのです。自民党が一昨年教育三法のひとつとして提出した、教特法の改悪の延長線上に考えだした「教育特別調整額」を先取りした形で、都の教師のみに毎月千円手当をだすというものなのですが、この考え方などは教育委員会による反戦派教師パージの論理とピッタリなんですね。神奈川の場合は、不起訴でありながら、教壇に立つ教師の場合は徴戒免、事務の場合は停職という分断的処分が出された。これなども毎月千円手当をだす思想を固定化し、エスカレートするものだということです。こうした権力側の全力をあげた攻撃と、ぼくたちの側の闘いが真正面からぶつかったところに、さまざまな闘いが起こってきています。たとえば5人の広島の教師が逮捕・免職されることたよって「五人の教師を守る会」が多くの妨害、弾圧の中からつくりだされ、やがて全県にまたがる大きな組織となり、組合の中に浸透してひとつの勢力となっている。
静岡では富士地区コンビナート建設反対運動をやっている人たちが「山口教諭を守る会」に積極的に参加してるのかひとつの特色です。ともに国家権力と直接に対決しているわけです。その他神奈川での、ユニークな文書活動と職場闘争がさまざまの市民と、ともに立ちあがる例、Aさんがちょっとふれた鳥取での闘い、それに大泉での市民の会のエネルギッシュな校区を中心にしたビラ入れ、対話活動など、さきほどAさんがふれた点・線・面という一本のきずなかできつつあると思います。
A   まあ、 その闘いだってそう口で言うほど簡単ではないと思いますが・・・。ぼくたちか知りたいのは教室でとう闘うか、教員室でどう活動するか、そのへんのところが知りたいのですが、何かないのでしょうか。
E  教室で何かやる、たしかに私自身も、私自身でありたいわけなんだけれども、教室での菅理の問題がすぐでてきますね。私自身、教室にいた時には、反戦行動について疑惑を感じるわけですよね。それと教育内容についてどういう内容を教えるかという問題にぶつかる時、今の教育体系そのものをね、全面的に考え直す必要があるんじゃないかと思うのです。たとえば、 教科別にわけられているということもやはりもう一度、検討する必要があるでしょう。また教室の中で私が教育をするということが、社会的総体を考えてどういう位置にあるのかもう少しゲンミツにはっきりさせる必要があるんじゃないかと思います。教師は、教育をとおして何かができるという意見が総体としてあるわけですよね。ほとんど大半の救師かそう思っているのです。だから教師は教育というものを絶対ぬきにしてはならないんではないか、そういう大前提のもとに、さまざまな制約がでてくるでしょう。わたしはそれ自身をつきやぶる中でしか、まずそこをつきやぶらなきゃ、という感じが強くするんですがね。ただ、教師がおかれている状態の中でどこまでできるのかちょっと自信がないんですけれど。
司会  わたしが小学校のころを思いだして一番楽しかったのは、ある教科書、郷上史の教科書を習ったことでした。それは教師集団が自らが作った教科書だったのですが、 考古学の考えを科学的に入れて、古墳を学ぶという作業だったと思うのです。今、考えてみると唯物史観がその教科書には完徹していたのではないか、とにかくすごく科学的だったんですよ。そういったものを天皇制教育のはなやかりしころに教わったのですね。それは、その教師集団が小なりといえども日本帝国の対抗物としてあったのじゃないでしょうか。それはひとつの大きな教師集団の実力がそうさせたのだと考えるんで、私はそういう何かを反戰派の教師に期待したいと思うんですが・・・。
C  私のはそれほどではないんですけれども・・・。
たとえば小学二年生の教科書に、「おまわりさん」の話がでてくるわけです。それも昼、夜を問わず、私たち市民の安全を守っているのはおまわりさんだ、というだし方で、でてくるのです。私、しゃくだから、一応は読むけれども、17年前のメーデー事件をとりあげて子どもにはなしてきかせるのです。たとえば国民の命を守る人が、逆に国民を殺してるでしょ、というようにね。そうすると私の場合など毎日のように親たちから、はねかえってくるわけです。「先生は立ち入ってはならないところに立ち入っている」とね。けれどね、子どもの方はこういうんです。「そりゃ17年前は、17年前のことですよ。だけど先生そんなこと教えるよりも、今、何百人もつかまってるじゃないか。それをいわなきやだめだよ」とね。
A・ E   ほう、小学校二年生の生徒でそういう反応示するんだなーー。
C  だけど、職員室に帰ってくると、もうガタガタになるんですよ。今は、教える内容ですら学年会で大体統制したり調整したりするでしょ、だから私のようなことを教えてたら、学年会でもめるんですよ。そこで私は考えたんです。つまり、現実の問題として学年会を構成するのに、私たちには人事権がないわけです。勝手に学年を構成できないんです。だから、私が教室で今いったようなことを組織的に体系的に教えていくためには学年会を構成するメンバーを自分たちで組織していく運動をしなければならないですね。
事実、一年間、それをやったんですけどね、結果は、サンタンたるものでした。今年になったら、私に全く関係ない、いろんな事に無感心な教師を全部配属して私を孤立させたつもりでいるんですよ(笑)。だけど、やっぱりそれでヘタバってはいけない、どう私の運動を組織化していくか、それが問題です。それから始めなければいくら教科書が良くったってーそんな教科書、今、ありませんけれどねー何も教えられない、Eさんが言っていた「私自身」に帰ることすらできないですよ。
それに私がいくら体系的に、組織的に、ある事実の正確な認識を教えようとしても、地域を組織化しないかぎり、私の闘いは敗れるわけです。
いくら、教育の帝国主義的再編とか何とか言われても、まず私は、私の日常性を破る闘いとして、私の職場と地域のラディカルな闘いをやらなければ・・・と思うのですけれど。
A   そこでCさんは徹底的に階級闘争までもっていくという言葉を続けたいんでしょ……(笑)
C   いや、そういうわけじゃないんだけど・・・。わりと合法って言ったらおかしいけど、Aさんの思っているようにワタシ、ワルイコトばかりしてるんではないですよ(笑)。たとえばね、私、沖縄に行ってきたんです、なんとか沖縄を教えようとして学年主任にかけあうわけです。それを沖縄観光旅行という名目でやっちゃうんです笑)。事実、5・60人の父兄の前で沖縄でとってきたスライドを見せながら、現実の沖理を話していくわけですよ。みなさん笑うけと、こういう闘いを通して、どう全体の闘いへ止揚していくか、そういうことが、私たちの解放とどこかで結びつくと思うのだけど・・・。
司会  いやはや、話はつきないけれど、まずはこのへんで一応終りたいと思います。

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年3月13日(金)に更新予定です。

今回のブログは、『週刊アンポ』第9号(1970.3.9)に掲載されたの高校生の座談会の記事である。
この第9号は「教育特集」ということで、前回掲載した「造反中学生との対話」などが掲載されている。『週刊アンポ』はベ平連が発行していた冊子で、1969年後半から1970年前半の時代が凝縮されている。
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【高校生の広場 教育なんてどうでもいい】(『週刊アンポ』第9号1970.3.9)
企画  TKA
構成並びに効果 編集部(A+K)
とき 1970年2月のなかば
ところ  都内の喫茶店(A、C、M、Oその他)
取材 編集部(涼、田村)
恊力 各校全共闘、ベ平連
<キャスト>
都立桜町高 O、都立立川高 野間、福岡県立修猷館高 俊平太、都立青山高 田村、都立上野高 ダンボ、都立日比谷高 日野・由比・谷山、学芸大附属高 陽子
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26年7月18日に、世田谷で生まれて、 区立の小学校、中学校へ通って高校に入ってから町田市へ越してきたんだけどさ、ずっとうちから学校へ通っていて、修学旅行より他に長いこと家を離れたこともないんだ。小学校のとき書道をやってて、そのあとそろばんの塾に行ったのは、たぶん強制されたんだろうけど別に反発も感じなかった。
野間 27年2月28日、府中で生まれました。府中刑務所の中の幼稚園に通ってたんです。真赤なレンガの道を歩くのが好きで、それから、毎日へいの所で立ち止まって中のことや、脱走して来ないかな、なんていろいろ想像するのが好きで、遅刻ばかりしていろいろウソついて言いわけしてたわ。言いわけが種切れになったし、幼稚園はおもしろくなかったので半年でやめたんです。
俊平太 僕は27年2月27日神戸に生まれまして、小学校のとき、練馬へ越して来まして、中学にはいったあと、福岡へ移ったわけです。
田村 26年4月26日大分生まれ、みんな東京生まれの東京育ちだけど、僕と俊平太だけ違うんです。
ダンボ 27年1月22日に生まれて、小中学校とも足立区立でした。中学の初めまでは、気か小さくておとおどしていたんです。
日野 26年10月22日に目黑で生まれた。今も目黒だけど小学校のときから大田区に越境人学。そうだな、 わりと行動的たったな。たとえば、バイオリンのうまい子がいたんだけど、教師がその子にへつらうのを皮肉ったり、つっかかったりしては教師に呼び出されてたな。
由比 僕は26年8月24日神田で生まれてさ、小学校からずっと、千代田立のいわゆる名門コースにのっかってきたんだ。個人的な人間関係なんかまるでないんだ。カバンの持ち方まで指導されて飼い慣らされるんだけどさ、その頃は何とも感じなかったなァ。

まじめにそしてけっこう楽しく
谷山 26年5月13日港区に生まれてから麻布、世田谷、目黒と引っ越したけれど一度も転校はしなかった。小学校の頃から、小テストを生徒同士交換して採点させられたり、成績を公表されたりしてたけど素直に勉強してた。中学なんか六本木にあったんだ。それでまじめに勉強しながらも、けっこう楽しくやっていた。
クラス委員に指名されたりすると、成績がいいからだ、というエリート意識とそれに反発する気持と、両方あったと思う。委員になって、はじめは「指導する」といった気持でいわゆる悪いやつとつきあい初めたけど、そのうち、別に悪くないじゃないかという気がしてきた。
陽子  26年12月24日に練馬に生まれて、幼稚園から今までずっと、学芸大附属のエスカレーター。なんとなくはいったんだけどさ、小学校のときから区立に対して特殊な意識があったし、中学校になると、付属の生徒はお互いに甘いな、という感じがして、都立高校に行きたかったの。
田村  小学校のときは一般的優等生で進学教室でも上位だったんですが、私立中学の入試に落ちて、そのときはショクでした。
野間 小学校の3年のとき、道徳の時間で先生が「左側通行の駅の階段で、もし急いでいて、それに右側が空いていたら右側を通っていいか」って聞いたんです。
私は「かまわない」という方に手をあげたんですが、先生ば「いけない」って言うんですね。そのとき、私は「規則と人間とどちらが先なんですか」と言ったのを覚えています。その頃は家庭環境のためか、上ばきで外に出たり、割と無節操だったんです。先生や同級生からHRなんかで非難されて、中学にはいる頃から秩序派になるように努めたんだけど、それもいろいろ言われるのがめんどくさかったからだと思います。
陽子 附中のみんななれ合いの校風がいやだったの。職員室で教師と話したりする人も多かったけど、私は意識的にそれを避けてたし「青春の墓標」なんか読んで社会的意識はなかったけど奥浩平個人をステキだな、と思ってたの。それから、今も活動しているけど、はっきり学校枇判をやる人がいてさ、 私も環境に反発を感じてたので、個性的でいいなと思っていたの。学校群に対しては何とも感じなかったわ。都立に行きたかったけど、親や教師か勧めるので、なんとなく高校も附属に行ったの。「なんとなく」そんな感じね。
ダンポ 中学2年のころまでは、まじめに勉強していたけど、生徒会などで教師の生徒に対する態度に反発したり、 3年になってから、授業中に個人的攻撃をやる数師がいたりして、考えはじめたんです。PTAが校内で宴会をやるのを妨害しようとして担任の教師から「立場がまずくなるからやめろ」と言われたのが決定的だったんですね。僕たちの中学では中卒で働く人も多かったから「なぜ高校に行くのか」についても考えてみたけど、わからないままなんとなく行くことになりました。学校群制度の方は別に意識的にはみなかったですね。
田村 学校群については、むしろ受験科目が三科目になったのがうれしかった。

生徒の自由を規制するな
野間  中学校の自治委員会っていうのは自主規制委員会みたいなもので、あるときやっぱり教師の指図だったと思うんですが、“えりまきをやめよう”ということを決められたんです。そのとき先生に「生徒の自由を規制するな」って言いに行ったら「自治委員会は生徒のためにあるのではない」と言われました。
親戚に日共の人がいてマルクスとか共産主義についていろいろ教えてもらいました。その後自分でも興味をもって「国家と革命」や新書なども読んだり、作文に“人間がお金に使われているのだからお金をなくせばいい”って書いたこともありました。その頃はやっぱり知識の段階にとどまっていたんだけど、それでも“戦争はいけないけど革命はいいんだ”って漠然と考えていました。それに、思想というものは乗り越えられて行くものであって、資本主義と社会主義を並列するのはおかしい、とか。
ただ、抽象的に考えるだけで、新聞も読まなかったし、新聞記者に「受験は苦るしいけれど一生に一度ぐらいこんなに苦しいことがあってもいいんじゃないかしら」なんて答えたんです。模擬テストではずっと一番、学校群制度についてもそれほど考えなかったし。結局、レーニンなんかを読んだのも、まじめないい生徒でありたい、しっかりした思想を知りたいというところからきたのでしょう。
俊平太 小学校のころは内省的で小心でおとなしい子供でしたし、どういうことがらでも発言したり、行動したりはしませんでした。6年になりまして東京に転校しましたり、高田馬場の進学塾に通いましたりするころからですね、このままではいけないなと考えまして、中学にはいってからは、わざとたくさんのクラブにはいりましたり、級長に立候補しましたり、とにかく意識的に行動し始めました。福岡の中学へ転校しましてもそうでした。ただ、人見知りする性格は変わらず、政治的手腕や感覚がないことは、ますますはっきりと意識していました。生徒会の仕事をしましても統率力がありませんので、自分だけか、小人数のグループで動いていました。それから、ショウペンハウエルをかじりましてニヒリストにあこがれましたね。生徒会の役員としまして、遅刻を取り締まったり、一方では、学校か名札をつけさせようとするのを反対したりしましたのは、まじめで自主規制をするのがいいと考えていましたからでしょう。
O  僕らの年から学校群になったでしょう。いやだったな。姉さんの通っていた深沢高校に行けないかも知れない、という単純な理由だったんだけどさ。
日野 学校群制度は失敗が目にみえていると思ったし、当時の教育長はバカなやつだと考えていたヨ。

「旅へ出よ!」
涼(編集部) 俊平太を除いては、みんな大きな環境の変化を経験していないことに注目したい。また、付属へ行った人のほかは、中学校までは、 学校の存在あるいは学校の中の自分の存在がどういう意味を持つか、といったことはほとんど考えなかったといえる。むしろ、教科書の内容とか、教育制度とかよりも、環境や人間関係によって、人は“教育される”のではないか。そうだとすれば、現在のいわゆる“教育問題”は“問題”の所在から考え直さなければいけない。もちろん、出席した人がほとんど、東京に住んでいるということも、考えにいれなければいけない。地方の狭い地域社会では、小学校から一貫して教科書の知識よりほかに刺激がない、ということも考えられる。この場合も、 教科書の内容よりむしろ、環境の問題だ。
それから、僕個人にとって意外だったのは、ほとんどの人が、遠い所へ引っ越したり、転校したり、長い旅行へ出たりあるいは一人で旅行したり、そんな経験を、現在に至るまで行っていないということだ。高校の話は、これからだが、僕のいた地方の高校では、二割ほどは下宿している者がいたし、みんな、 よく旅行していた。それは高校としては珍しいケースだったのだろうか。だとすれば、去年の11月末、青高全共闘黒ネコ派の「旅へ出よ!」という宣言は、全く正しい方針だった、と思う。なお、念のために言っておけば、全員が公立高校の普通科の生徒だ。

知識を行動に移して
陽子 自分も附属へはいったくせに、こんな高校へ来る生徒はダメだ、なんて思って、最初っからおもしろくなかったし友達もできなかったの。それに、サボることも覚えて、一年の三学期なんて、20日くらい休んじゃった。だけど、二年になってから要領か良くなったというか、適当にやっていけたの。
だけと附属って意外とひどいのよ。君が代を歌わせる教師がいたり、倫社の教師なんて“生長の家”だし、それから、学級日誌ってのがあって、それに和歌を書かせて採点するのよ。私は日記をつけるのは好きだったけど。
それから、二週間に一回、学校が集会をやるの、ちょうど中学校の朝礼みたいな。生徒は交代で週番になって、風紀とか礼儀とかみてまわって、集会のとき、週番が号令かけたり、 成積の悪いクラスを発表したるするの。
教師に対する反発はすごくあったわ、反発というか、教師の存在か邪魔になるって感じね。自分の生活や情性をひきずって私の目の前に現われるものがいやだったのかな。だから、意識的に礼なんてしなかったし、できるだけ、目を合わせないようにしてた、ほんとに「顔なんか見たくもない」ってわけ。
自分で何かやろうとしたのは、3年になって新宿のフォーク集会に行ってみたころから。教師に土曜日の帰宅時間を調べられて、個人面接に呼び出されたりしたけど・・・。6・15なんか、個人的に集会に行ったりして、反戦高恊にあこがれたり、とにかく、卒業するまでに何かやらなければ、という気がしてきたし。
野間 高校に入学して、すぐ社会部に入ったのは、やっぱり中学のときに、そんなことを考えていたからです。社会部で現実のいろんな問題を知って、とても感動しました。砂川闘争で実力闘争を実感として感じたし、交換学生やビラ、ポスター闘争なんかで、はじめて、知識を行動に移して人に働きかけることを知ったんです。
O 中学ではわりと友達もいたんだけどさ、高校にはいって環境が変わっちゃって三年間とうとう友達はできなかった。 2年になるとき、クラスがえがあったんで、意識的に友達をつくろうとしたんだけど、表面的なつき合いに終わっちゃった。

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昨年秋. 学芸大附属高正門前のーコマ

“何でもいいから”
田村 高校に入ってからも二年の中ごろまではクラブだけといった感じでした。城南大会で優賞してそこで剣道部をやめたんですが、運動部だったせいか文化部には反抗みたいなものがありました。特に社研、新聞部、演劇部などにものすごい嫌悪感みたいなものを感じていて、佐世保だ、エンプラだ、羽田だなんていっても感覚的な反発が先にきてとにかくきらいでした。かっこよがりみたいな気がしてだから反戰会議ができても「またあいつらやってるな」といった感じでした。
クラブをやめたあといろいろあって、それから急に勉強するようになりました。二年の冬の学研の模試で全国で19番になってそのあと闘争をはじめたんですが、その時は、“なんでもいい、とにかくなにかに夢中になりたい”といった感じでした。4・28の街頭闘争の時、僕は大高連や地方の学友と一緒に闘っていたんですが一人がガス弾を腕に受けたんです。そのあとで僕も直撃を受けてしばらく失明状態を続けたんですがその時も地方から来た学友のことか心配でそのことばかり考えていました。学内で教師や、両親、それに級友まで敵にして弧立した闘いを続けてきた僕にとって地方から来た名前も知らぬ友を本当に同志として感じました。

感覚的なもの
俊平太 中学のとき、九大生から家庭教師をやってもらいまして、若干の唯物史観を聞かされたりしたのですけど、なるほどそうですね、というだけで自分とどういう関係があるのかわからなかったのです。高校にあがるときから下宿しまして、その下宿したということと、入学と同時に新聞部にはいりましたことが、だいぶ自分を変えたという気かします。
一年の冬、新聞部の先輩に誘われましてエンプラ闘争を見に佐世保へ行きましたが、結局、そのときは単なるヤジウマに終わってしまったのです。その後、同じ先輩の誘いで、高校反戦なる運動をなんとなく始めまして、その「なんとなく」というのは、反体制運動を始める契機が自分にとって何なのか、もう一つはっきりしなくて、それは今でもそうなのです。社会がおかしいということはわかりますが、自分自身、ほんとに矛盾を感じていますかどうか、疑問なのです。
日野 髙校にはいって一年のときからだな、HR闘争が始まったのは。そのあとの経過はもう何度もしゃべって、いやになった。
ダンボ 高校に入りいろんなことを知りたくて社会部に入ったんです。一年の秋に10・8羽田闘争かあって、山﨑君追悼集会に初めていったんです。その後の闘争には反戦高協の一員としてほとんど参加し、校内に反戦会議もつくったりしたが、三年の初めに“科学”というものに対する疑問からセクトからはなれたんです。二年の時、教育問順に関しては義務として政治的に理論化してみたが実感としてはピンとこなかった。階級闘争の中での位置づけは困難ではないでしょうか。理由づけはいくらでもできるかも知れませんが、それは理由づけにすぎないでしょう。僕達のはなにかモヤモヤした感覚的な反発のような気がするんです。
大学にはいかないで家の手伝いをするつもりです。大学にいっても何もないような気がするんです。何か新しいものがあれば別ですが。ただ、いかないということに関しても積極的な理由はありません。そのことに限らず理論的支柱なりバックなりはいまのところみつかりません。いまインド思想や民俗学、特に柳田国男等に興味があるんです。体系的にではないが断片的にその中からなにかみつかるのではないかというような気がするんです。

教育問題なんかしらじらしい
野間 “教育とは何か”なんていうのは全く現実から遊離した発想だと思います。現実に校門突撃闘争をやっている者にとって、教育問題云々など、とてもしらじらしく感じられます。武装しているところではじめて解放高校のイメージなんかも出てくるし・・・。
陽子  大学を否定するっていっても、なんとなくピンとこない感じ。深刻に考えて「あえて行く」なんてタイプはいやだし将来のことなんかさ、あらたまって考えるのは好きじゃないの。大学になぜ行くかなんて、問題にすること自体ナンセンス。バリをやったとき、説明するために教育のことなんか、考えてみたんだけどさ、教育の関係と人間関係とは切り離せないとか、そんなことになっちゃって結論はでないのよ。それに人間関係にしたって、あまり意識しないし・・・。
谷山 大学へ行くのは将来ラクにやれるだろうとか、遊べるとか、僕の場合はラグピーをやりたいんだけど、たいした理由はないし、行かないやつにしてもかったるいからとかとたいした理由はないんじゃないか。
日野 教育の空間を作り出すだけではいけないんであって、教育そのものを疑うことから始めなければいけない。撲自身は大学へ行くつもりですよ。
とにかく、血のにおいの欠落した論議は無意味だし、僕は血のにおいの復権のために戦った。それは教育問題のようなワクでは語れない。、
O 高校で裏切られたから、大学には何も期待していないけどさ、絵の技術を身につけるために行こうと思う。それから、高校で何もできなかったから、大学でこそ何かやってやろうという気持は、あるかもしれないな。
ダンボ 人を個別にみる場合と、普遍性に基づいて行動する個人の行動は一致しないし、運動や集団が個人を越えた権力を握るのが恐ろしいんです。これからやりたいことは、個別の一切を認識して、一つ一つの対象に自分をぶつけていくこと。対象は闘争に限らずどこにでもあると思います。
田村 闘争を経て歴史にしても、重要であることを確認したけど、これまで受けた教育はあまり役に立たないでしょう。
大学に行くことを言いわけしようとすれば何とでも言えるけど、左翼の公式見解を言ってみたところで、自分にとって、ほんとに言いわけに過ぎない感じがします。青山高校には、教育者になりたい、という人が多かったけど、どういう教育者になったらいいか、ということになると、誰にもわかっていないんです。

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1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
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次回は2026年2月20日(金)に更新予定です。

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