野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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今回は前回の続き。1972年5月13日の明大前通り「解放区」闘争に対する警察当局の対応とブント戦旗派のその後の動きである。
連載No8で紹介した「過激派殲滅作戦」―公安記者日記―の中に、警察当局の対応が書かれている部分があるので、引用する。

「過激派殲滅作戦」―公安記者日記― (引用)
1973年3月31日発行
『5月13日
(前略)ブント「戦旗派」を中心に、御茶ノ水駅近く、明大前で火炎びん投げ納めの解放区闘争。「きょうの神田・御茶ノ水は第1ラウンドやらせて第2ラウンドで包囲してとる方針」と警備でいっていたが、130人もの大量検挙で方針どおり。警備側勝利の秘密は出動させた機動隊600人のうち、3個中隊約200人を4人1組の私服―必ずしも背広ではないー遊撃部隊にして徹底的に検挙に回ったこと。現場で見ていても、どれがパクッていて、どれがパクられているのかわからない場面が多かった。警備部長は“明大を休校させろ”と怒ったが、午後5時過ぎ、御茶ノ水の交番に大学側を呼びつけ、強硬に臨時休校を申し入れてOKさせたとの報告が警備1課に。
神田・御茶ノ水というのは警備当局の鬼門。学生が多く、地理的に狭いので、いわゆる部隊運用が効果的にできないのがこれまでの“敗因”という。2ケタの検挙例もすくなく、3ケタは異例の大量検挙。「修羅場への機動隊員の私服出動ははじめてだったが、大成功。公安の私服と違って機動隊員は逃げないからね。100人突破の検挙で部長の大喜びだ。戦旗派は13日に火炎びんを投げられないと5・15式典突入だとかいっていたが、これだけの大量逮捕は連中も予想外だったろう。」と、警備1課大部屋は大勝利ムード。
(後略)
5月17日
13日の御茶ノ水での「戦旗派」大量検挙で、公安1課ブント班に「これで戦旗派は壊滅ですな。つぶれますな。」といってみると「いや、MLのようにはいかない。伝統があるし、それに全国組織だからな。」
神田・御茶ノ水では警備・公安ともこれまでの数多くの失敗例を教訓に、綿密な計画を練ってきたわけだが、学生側はすべて代がわりして経験不足の者ばかり。たとえば公安1課では課長は前の九機隊長だし、次の主席管理官は日大闘争のときに学生に相当痛めつけられた経験の持ち主。
戦旗派からの押収品の中にあったというが、武田信玄の「甲陽軍艦」なぞを読んで、付け焼刃で“鶴翼の陣”なんかやっても勝てるわけがない。(後略)』

ふむ。機動隊員で私服の遊撃隊を組織し徹底的に検挙か。確かに現場ではここに書かれているとおりの状況だった。私が暴行を受けたのもこの遊撃隊に違いない。
警察当局もそれまでの街頭での取り締まり状況を教訓に、新たに態勢を強化したということだろう。これではヘルメットも野次馬も街頭から追放されてしまう。
一方、公安1課ブント班の予想どおり、ブント戦旗派は伝統ある全国組織なので、つぶれるということはなかったが、当日の総括をめぐって分裂することになる。
連載12にコメントを寄せた「東田さん」から教えてもらったホームページに、その関係の記事があるので紹介する。

「左往来人生&社会学院」ホームページから(引用)
『5.13日、共産同戦旗派約600名が、神田周辺で、火炎瓶闘争を敢行しました。「御茶の水解放区闘争」と言われているものです。この闘争で、128名もの逮捕者が出ました。これを契機として、戦旗派内に闘争の指導責任をめぐっての内紛が激化していくことになる
4月「共産同」中間派の「荒派」でも、1972年の「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立、翌1973.4月には、反荒岱介派の一部が「国際主義派」を名乗って分裂し、次いで同年6月には、反荒岱介派の多数を占める「大下敦史派」が分裂した。
6月戦旗派が、日向派(荒派)・西田派(両川派)・プロレタリア戦旗派(本多派)・国際主義派に分裂。』

ネットで調べたところ、その後、日向派(荒派)は1980年2月、「戦旗・共産同」と改称し、1986年、時限式発射装置から皇居に向け火炎弾を発射したゲリラ事件を起こすなどしたが、1997年、共産主義革命と武装闘争路線を放棄し、人権と環境をテーマに行動するNGOとなり、BUND(ブント)と改称した。さらに2008年1月、組織名称を「アクティオ・ネットワーク」に変更。荒岱介は引退した模様。
西田派(両川派)は1975年12月、沖縄訪問の皇太子夫妻に「ひめゆりの塔」で火炎ビンを投擲するなどしたが、現在も共産主義者同盟(統一委員会)としてデモや集会などの活動を続けている。

※この「5・13神田解放区闘争」を契機として、明大の学内でもブント戦旗派とノンセクト(MUP共闘など)との緊張関係が高まっていくが、その状況は別の機会に書きます。

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今回の連載は、「沖縄返還協定」調印を目前にした1972年5月13日、神田駿河台の明大前通りで繰り広げられたブント戦旗派による「解放区」闘争に関する話である。(写真は「怒りをうたえ」パンフレットからの転載)
当日、私は明大8号館1階の明治大学新聞学会(MUP)の部屋にいた。「火炎ビン規制法」が施行される前でもあり、5月13日に戦旗派が何かやるということは聞いていたが、予告どおり夕方に「解放区」闘争が始まった。
その時の様子が新聞記事に載っているので、引用する。

朝日新聞 1972.5.14 (引用)
【“火炎びん解放区”大荒れ 車焼き道路封鎖 学生―規制法発効に反発 神田駿河台】
『13日午後4時前、東京都千代田区神田駿河台の明大通りで、明大正門から飛び出したヘルメット姿の学生数十人が路上に火炎びんを投げ、驚いて停車した乗用車3台をつぎつぎに横倒しにして火をつけ、大学構内から机などを持ち出してバリケードを築いた。
少しはなれた大学院前でもバリケードをつくり、これに火炎びんを投げて放火、同時に国電御茶ノ水駅周辺にも学生数十人が現れ、神田署御茶ノ水派出所や通行中のタクシーに火炎びんを投げ込むなどしてあばれた。駿河台周辺で過激派学生らが荒れたのは昨年11月以来。』
【警官32人けが 学生128人を逮捕】
『付近は一時間完全に交通がストップしたうえ、千人近いヤジ馬で混乱した。機動隊が規制にかかると、学生たちは大学構内などに逃げ込み、騒ぎは1時間たらずで一応静まったが、学生らはその後もすきをみて、バリケードを築いたり、散発的に投石などを繰り返し、午後7時頃まで混乱した。(中略)
また、今年最高の学生128人が凶器準備集合罪などの現行犯で逮捕された。投げられた火炎びんは100本以上にのぼった。
警視庁公安部の調べによると、学生らは、この日正午ごろから明大91番教室で開かれた反帝学評、ブント系など沖縄共闘主催の「沖縄大討論集会」に参加したうちの一部で早くからこの日の“解放区闘争”を呼びかけていた。
15日の沖縄返還協定日を前に、14日から「火炎びん規制法」が発効、これまで火炎びんの使用に適用されていた凶器準備集合罪などに比べ罰則が重くなることから、新法発効前に火炎びんの“投げ納め”、あるいは新しい規制法に“挑戦”する構えを誇示したもの、と同公安部はみている。
「神田カルチェ・ラタン」を叫んでいた過激派学生らは13日午後、予告通り自動車を倒してバリケードにし、火をつけるなどの行動に出た。午後3時40分過ぎ、明治大学構内から、赤ヘルメット、覆面姿の学生ら約30人が二手に分かれて路上へ。明大向かいの道ばたに止めてあった乗用車を倒して火をつけた。
一方、神保町へ抜ける道路いっぱいに、タテ看板や机、イスなどを持ち出し、バリケードを築き、ガソリンをまいてこれにも火をつけた。このあと、すぐ明大前の「主婦の友ストア」わきの道路で乗用車2台も横倒しにし、放火した。
この騒ぎで、付近は下校途中の一般学生らでごった返していたが、(中略)赤ヘルの学生らはだれもいなくなった道路いっぱいに「返還粉砕」「派兵阻止」と叫び、ジグザグデモを繰返した。
赤ヘルグループは約10分ほどデモを繰返していたが、待機していた機動隊が規制にかかると、あっという間に明大構内に逃げ込んだ。このあと、高圧放水車が出動して、まだ燃えていたバリケードの火を消し、機動隊がこれを撤去、「カルチェ・ラタン」もたった20分間で終わった。』

騒ぎを聞きつけてMUPの部屋から飛び出すと、新聞記事にもあるように大学院前で、ブント戦旗派の学生がバリケードを作っている。
大学院と4号館の間あたりの歩道で、大勢の野次馬とともに様子を見ていると、機動隊が規制に乗り出した。
ブント戦旗派の学生は、樫のゲバ棒を手に果敢に機動隊めがけて突入していく。しかし、歩道から大勢の私服警官が飛び出し、後ろからタックルするように次々と学生を逮捕していく。そのため、機動隊のところまで行き着いた学生は数人となり、あっという間に機動隊に検挙されてしまった。
私が歩道から「卑怯だぞ!」と大声で叫んだとき、周りに居た私服数人が「何だお前は!逮捕するぞ」といって私に殴りかかり、暴行を受けた。情けない・・・。
ヤジを飛ばしたくらいで暴行するんじゃない!と言いたいところだが、72年の駿台祭実行委員会企画局長のY君は71年11月の中核派による「渋谷暴動」の際、道玄坂の歩道で機動隊に追われ逃げる学生に「逃げるな!」と叫んでいたところ、中核派の幹部と間違われて逮捕されてしまった。結局、23日間、誤認逮捕という主張もせず黙秘を貫いたというから、それに比べればまだましな方か。
1970年代初頭になると、街頭でヤジを飛ばしただけでも警官に暴行されるか逮捕される、そんな時代になってしまった。

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沖縄は1972年、日本に返還された。4月28日は沖縄がアメリカの施政権下におかれるとされた1951年のサンフランシスコ講和条約が発効した日であり、この日を「沖縄デー」として返還直前の1969年から1972年まで、沖縄返還(注1)をめぐる闘争(注2)が全国で繰り広げられた。
特に1969年の4・28沖縄デーは、70年安保闘争に向けた前哨戦として大規模な闘いとなった。

朝日新聞 1969.4.29 (引用)
【「沖縄デー」東京を中心に荒れる】【中央大会盛り上がる 即時・全面返還を宣言 新幹線や国電がマヒ 学生警官 新橋―銀座で衝突】
『28日の「沖縄デー」は、東京・代々木公園で社会党・総評系と共産党系の団体が初の統一集会を開いたのをはじめ、全国45都道府県、318ヶ所に14万9千人が参加して(警視庁調べ)集会やデモが行われ、沖縄をめぐる革新系の大会では、かってないもり上がりをみせた。(中略)東京では中央集会への参加を拒否された反代々木系学生が、夜6時すぎ新橋駅から機動隊に追われて銀座付近に集まり、反戦青年委の一部や高校生を合わせて約2千人がデモや交番への投石、放火などを繰返した。このため、銀座、有楽町一帯は深夜まで騒然とした空気につつまれた。また、学生らが東京―新橋間の線路を一時占拠したため、新幹線をはじめ山手、京浜東北線など都心部を通る国電各線が深夜まで完全にストップした。反代々木系学生は佐藤総理私邸に投石し、国電御茶ノ水駅付近で警官隊と衝突したほか、交番10ヶ所を襲うなど各地で騒ぎを起こし、29日午前零時現在学生ら965人(うち女子133人)が逮捕された。逮捕者数は新宿騒乱、東大安田講堂事件を上回り、1日の逮捕者数としては戦後最高である。(後略)』

明大では1969年4月25日に臨時学生大会を開き、スト権を確立し4月26日から28日までの全学ストライキに入った。明大和泉校舎でも正門にバリケードが築かれたが、社学同の大半のメンバーは御茶ノ水駅周辺の「解放区」闘争に行っており、和泉校舎はひっそりとしていた。
私は学館運営委員会でも新入りだったので、バリケードの留守部隊として和泉校舎に残って立看を書いていたが、夕方になって、ラジオのニュースで銀座周辺の様子が刻々と伝えられてくると、やはり現場に行かなくてはという気持ちを押さえきれず、校舎を後にした。
国電はストップしており、京王線で新宿に出て地下鉄で銀座に向かった。
地下鉄の「銀座4丁目」駅に着いたのは7時すぎ頃だったと思う。地上への出口付近には駅員がおり「もうすぐ出入り口を閉めるので、出ると中へは入れません」とアナウンスしている。
出口の階段もラッシュなみの混雑で、やっと外に出ると歩道は大勢の通行人(野次馬)でぎっしり。車の通行が途絶えた銀座通りをべ平連のデモ隊がフランスデモをしながら通っていく。普段の銀座4丁目とは違い緊迫した雰囲気が漂っている。通行人(野次馬)も動く様子はない。しばらくすると、突然「ガシャーン」と音がする。そちらの方向を見ると、中核派の部隊が数寄屋橋交番をゲバ棒で破壊している。

朝日新聞 1969.4.29 (引用)
 【夜の都心にゲリラ戦術】
『(前略)午後7時、数寄屋橋かいわいに騒ぎの中心が移った。ヘルメット約400人が数寄屋橋交差点から銀座4丁目にかけてジグザグデモを繰り返した。歩道をいっぱいに埋めた野次馬は約1万人。デモが銀座4丁目方向へ道いっぱいのフランスデモに移りかけた7時15分、4丁目の方から機動隊がガス銃を撃ちながら突っ込んだ。デモ隊はばらばらと逃げ、騒ぎの範囲は一気にフードセンター、読売新聞社前まで拡大した。そして学生の一部は態勢を立て直して数寄屋橋交番を襲った。同交番の窓ガラスは投石や角材でメチャメチャ。(後略)』

ちょうど、この記事の頃に銀座4丁目付近に大勢の野次馬とともに居たことになる。1969.4.28、街頭の野次馬はまだ健在だった。しかし、圧倒的な警察力の前に1970年代前半にはヘルメットも野次馬も街頭から追放されてしまう。

※この時の様子は明大全共闘ホームページの明治大学新聞の欄、4・28ルポに詳しく載っているので見てください。

(注1)1969年、日米首脳会談において、アメリカは安保延長と引き換えに沖縄返還を約束した。その内容は沖縄の米軍基地を維持したままの「1972年・核抜き・本土並み」返還であり、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定などアメリカの利益を最大限尊重した内容であった。沖縄返還協定は1971年に署名、国会承認された。
(注2)新左翼各派の中で中核派は「沖縄奪還」をスローガンとし、沖縄の永久核基地化粉砕・本土復帰・基地撤去という立場で、社学同は米軍政打倒・米軍基地撤去・日帝の侵略反革命前線基地化粉砕という立場でそれぞれ闘争が行われた。

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