野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

イメージ 1

救援ノート(写真)
編集 安保を闘う婦人連絡センター
発行 救援連絡センター(注1)

1969年9月に発行された逮捕者の救援活動のためのポケット版ノート。当時、学生運動のデモや集会に行くときはヘルメットやタオルとともに必ず持って行った必需品。救援連絡センターの電話番号が591-1301だったことから、ゴクイリハイミオオイ(獄入りは意味多い)と覚えておくように言われていた。私が持っているのは1969年11月22日発行の第3版だが、いつ買ったのか覚えていない。当時の定価は100円。


救援ノートの目次を見ると

第1部 救援活動
 第1章 差し入れ(留置場の場合)
 第2章 接見(拘置所の場合)
 第3章 裁判の傍聴
 第4章 現場での救援活動
第2部 家族の心得
 第1章 家宅捜索
 第2章 任意出頭
 第3章 家族はどうすれば一番よいか
第3部 逮捕されたとき
 第1章 デモや集会に行くときの注意
 第2章 弾圧
 第3章 黙秘権
 第4章 警察署で
 第5章 未成年者の場合
となっており、救援活動の注意事項や体験談、逮捕された時の心得などが書かれている。

私は幸いデモなどで逮捕されることはなかったが、1971年の全国全共闘(注2)主催6・15集会のデモで私が属していたノンセクト(注3)集団(414B統一戦線)のO君が公務執行妨害で警察に逮捕されてしまった。
当日、O君は我々の旗を持っていたのだが、デモの解散地である千代田区の日比谷公園で機動隊と小競り合いがあり、公園入り口付近で他の学生と一緒に旗を機動隊に向けていただけで逮捕されてしまった。不当逮捕である。
O君は逮捕後、留置所から東京拘置所に移されたため、仲間でローテーションを組んで交代で接見(差し入れ)に行くことになった。

東京の下町、東武伊勢崎線の「小菅」駅で降りると東京拘置所が見える。夏のギラギラした陽射しを受けて拘置所の塀に沿って歩いていると、松尾和子(注4)の「再会」という曲の1フレーズが私の頭を過ぎった。

・・・・小さな青空 監獄の壁を見つめて 泣いてるあなた・・・・

面会所入り口から中に入り、面会申込書にO君の名前と私の住所・氏名を書き、面会時間まで待合室で待つことになった。
待合室にはヤクザ関係か学生運動関係の人しかいないと聞いてきたが、夏の暑い昼間の時間帯で待合室は閑散としていた。
ヤクザの関係者と思しき女性が売店で差し入れの買い物をしている。救援ノートによると「東拘・小菅は選挙違反の大物が入るから売店には田舎のよろずや位の品物、牛肉の缶詰、果物まである」と書かれている。
私は売店で買った記憶はない。差し入れを持って行ったかも覚えていない。現金の差し入れもOKだったので、集めたカンパを差し入れたのかもしれない。

接見の時間になり面会室に入り待っていると、少し顔が太ったO君が扉の向こうから現れた。O君が元気そうだったので、こちらもホットした。30分くらいの短い時間だったが、金網ごしにこちらから大学の状況などを伝え、O君からは拘置所の様子などを聞いた。
拘置所の中ではラジオの放送もあるらしい。O君はうれしそうだった。人と話すことが殆どないのだろうから、短い時間でもいかにも喋るのが楽しいという感じだった。今でもその時のO君の顔を思い出すことができる。

立会いの職員から「時間です。」と告げられ、面会室を後にした。
O君は拘留後、1ヶ月程で公判があり、執行猶予付判決が出て保釈された。O君は保釈後、すぐに実家のある大阪に連れ戻され、その後逢うこともなくなってしまった。
そういえば、彼から浅川マキ(注5)のレコードを借りたままになっているけどどうしたものだろうか。

(注1)救援連絡センター:現在も活動を続けており、救援ノートも第8改訂版が発行されている。救援ノートを手に入れたい方はリンクにある救援連絡センターのホームページを見てください。

(注2)全国全共闘:1969年9月に結成された各大学全共闘の連合組織

(注3)ノンセクト:党派に属さない活動家のこと。

(注4)松尾和子:歌手。ムード歌謡の女王。マヒナスターズと競演した「誰よりも君を愛す」(1960年)などの曲がある。

(注5)浅川マキ:歌手。1970年「夜が明けたら」でデビュー。現在も活動を続けている。

イメージ 1
1969年4月13日の朝日新聞社会面。

東京外国語大学で全共闘支持派の仏語3助教授が授業を拒否という記事とともに、明治大学の記事がある。

―「学生と警官また衝突」神田周辺。交通一時止まるー
<12日午後、日大全学共闘会議の学生約500名が明大駿河台学生会館前に集まり、「法・経済学部を奪い返そう」ということで、明大前通りや中大学生会館付近で激しいジグザグデモを繰り返し、機動隊に追われ明大学生会館に逃げ込んだ学生126名が逮捕された。>(1969.4.13朝日新聞から引用)

この記事の写真には「修学旅行生もとばっちり」ということで「学生と警官の衝突で混雑する中をバスから降りて宿にかけ込む修学旅行の中学生」という写真が添えられ、機動隊の盾の前をカバンを抱えながらうつむき加減に通り抜ける女学生が写っている。
たぶん宿は東京都千代田区・御茶ノ水の明治大学大学院の隣にあった「駿河台ホテル」という修学旅行によく使われていたホテルだと思う。写真の中学生は、いかにも「とばっちり」という感じで写っている。

この神田駿河台にあった明大学生会館への機動隊乱入に抗議して、明大では1969年4月14日「全学臨時休講」となり、明大記念館で学生会(自治会)と大学当局の大衆団交が行われた。(リンクしている「明大全共闘・学館闘争・文連」のエピソード1969も見てください。)
1969年4月15日付の朝日新聞にも「抗議休講だけではダメ。団交で追及うける」という見出しで、当時の明治大学中川学長が社学同(注1)のヘルメットを被った学生に指をさされて追及されている写真が載っている。大衆団交そのものはお互いにすれ違いのやりとりばかりだったが、中川学長は頭の髪の毛が薄い人で、アジビラ(注2)を折って作った紙飛行機が頭のあたりをかすめて飛んでいくと、頭をさわって「滑って当たらなかった」というような仕草をするので、会場爆笑という場面もあり、なかなか面白かった記憶がある。

団交の後は、参加者が記念館前の明大前通りへ出てデモをしたが、社学同が記念館の出口で赤ヘルメットを参加者に次々と配り、赤ヘルの勢力を誇示しようとしていた(集会終了後は回収)。参加者は明大前通りを埋め尽くすようなデモ(新聞によると約1500名)を行ったが、赤ヘルのデモ隊列が街灯の光を反射してとてもきれいだったことを覚えている。私の初めてのデモ体験だったので、印象が強烈だったからかもしれない。

さて、デモをしていると例の「駿河台ホテル」の窓が開いて、窓から修学旅行生が鈴なりになって、デモをしている我々に手を振ったり、写真を撮ったりしている。ホテルの玄関あたりには先生が出て窓から顔を出すなというような仕草をしているが効果がない。我々も修学旅行生に手を振り、声援に応えた。

当時は新聞やテレビで毎日のように各大学の学生運動の状況が伝えられており、修学旅行の中学生はデモの理由などには関係なく、生でデモ隊が見られるということで素直に喜んでいたのだろう。新聞の写真の「とばっちり」を受けた女学生も、その修学旅行生の中に居たのかもしれませんね。
(社学同の赤ヘルの絵を書いてみました。)


(注1)社会主義学生同盟:新左翼系の党派である共産主義者同盟(BUND)の学生組織。社学同をブントと呼んでいたが、ブントは共産同のこと。当時の明治大学は社学同の拠点校の1つだった。

(注2)アジビラ:直訳すると煽動する目的で作られた宣伝紙というようなところか。各党派や組織がそれぞれの主張を書いている。
現物を見たい方はリンク先の「明大全共闘・学館闘争・文連」のアジビラの項を参照してください。

↑このページのトップヘ