野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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前回の連載で芝公園の話が出たので、今回は芝公園での苦い思い出について書いてみたい。
芝公園は東京・港区にあり、東京タワーや増上寺を取り巻くような形の細長い公園である。その中に芝公園23号地(写真)というやや広い場所があり、集会やデモの解散地として利用されていた。

1971年のデモ(前回の話に出てきた10.21国際反戦デーのデモだったかもしれない。)に参加し、デモの解散地点である芝公園23号地付近まで来たとき、公園近くの機動隊と反帝学評が衝突。衝突の混乱の中で、反帝学評が近くのプリンスホテルに投石して窓ガラスを壊したことから、機動隊が放水車から着色液を放水した。解散地点である芝公園23号地にデモ隊が入る時、公園の入り口を両側から固めた機動隊の列の間をデモ参加者が1人1人通され、足元をライトの明かりで照らされて、靴に青い色の着色液が付いた学生は次々とその場で逮捕されていった。

やっと解散地点に辿り着いてほっとしたと思ったのも束の間、デモ隊でごった返す公園内に向けて機動隊が催涙弾(注)を次々に打ち込んできた。
公園の園内灯を見上げる、霧雨が降ってくるように催涙弾の粉がデモ隊の上に降り注ぎ、あまりの量の多さに咳きと呼吸困難で窒息するかと思うほどひどかった。

そんな状況の中、突然機動隊が公園内になだれ込んできたことから、公園内は大混乱となった。公園は背後が斜面になっており裏手は寺院の墓地になっていた。公園の入り口からは脱出できないので、デモ参加者は皆、公園の斜面側に追い込まれた。そのため、公園の斜面をよじ登り、高い鉄条網を乗り越えて裏手の墓地から避難しなければならなかった。
皆、夜の暗い中で鉄条網をよじ登っていたので私もそれに続き、何とか裏手の墓地に入り脱出することが出来た。
仲間数人と地下鉄で帰ったが、衣服に染み付いた催涙ガス独特の匂いが電車の中に充満しているような感じだった。電車に乗り合わせた人も迷惑だったでしょうね。

次の日、大学に行くと両手を包帯で巻いた学生に結構出会った。聞いてみると鉄条網の針が手に刺さってかなりの怪我をしたらしい。私は針と針の隙間に手をかけて、慎重に鉄条網をよじ登り何とか逃げおおせたのでよかったが、ひどいデモだった。1971.6.17の渋谷・宮下公園での沖縄返還協定を巡るデモに劣らず、私が参加したデモの中では最悪のデモだった。(機動隊の規制もひどかった!)

(注)催涙弾:催涙弾からはクロロアセトフェノンといた催涙ガスが噴き出し、これを吸い込むと激しい咳や、涙が出て行動が難しくなる。
この時使用されていた催涙弾は、粉を飛散させる粉末タイプのものだったのだろう。
催涙剤を皮膚に付着した状態で放水、催涙剤入り放水を浴びると、化学火傷、角膜白濁等の後遺症の原因になるとされる。


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前回の黒ヘルの続き。黒ヘルは一般的には党派に属さないノンセクト活動家と考えるのが正解と思うが、必ずしも左翼とは限らず、右翼民族派も黒ヘルを被っていた。1971年頃、御茶ノ水駅周辺で何の表示もない黒ヘル学生がビラを配っていた。ビラを受け取って読んでみると、どうも変なビラである。「家畜人ヤプー」(※)のことが書いてあるビラで、左翼のビラにしてはおかしい。よく読んでみると中大の右翼民族派のビラだった。黒ヘルを被っていたので、てっきり左翼と思い込んでいたのと、「家畜人ヤプー」の内容だったことで、記憶に残っている。

黒ヘルは左翼だけでなく右翼も被っていた。そして黒ヘルについてもう1つの事実が明らかに・・・。
こんな本がある。

「過激派殲滅作戦」―公安記者日記―
1973年3月31日発行

この本は1971年6月から1972年5月まで、警視庁の公安・警備担当記者として勤務した時の経験を綴った日記を公表するというスタイルをとっている。
この時期は70年安保闘争終焉後の新左翼運動の分化と先鋭化を物語るような事件が次々と起こっている。

1971・ 6 中核派集会が開催された明治公園周辺でのデモ中、鉄パイプ爆弾により機動隊37名が負傷。以後、爆弾事件が続く。
1971・ 9 三里塚で神奈川県警機動隊が白ヘルの反対派グループ約500名に襲われ隊員3名死亡
1971・12 警視庁警備部長宅に小包爆弾。夫人死亡。新宿伊勢丹前交番にクリスマスツリー爆弾。12名重軽傷。
1972・ 2 連合赤軍による浅間山荘事件。
1972. 5 赤軍派によるテルアビブ空港乱射事件。

このような時期の警視庁公安課の動向がよくわかる本であるが、この本の中に以下のような写真がある。タイトルは

【71年の10.21国際反戦デーの際、東京・芝公園で黒ヘル姿の警官に逮捕される女性】

その写真に関する部分を引用すると
「一見すると「叛」と書いた黒ヘルの男と機動隊員が、ジーパン姿の若い女性を引っ張り合っている写真だ。しかし、よく見ると、黒ヘルの男は女の両足首を両腕でかかえ、マル機は女のえり首を片手でつかみ、両者で女をぶらさげている。しかもまわりに他のデモ隊の姿は見えないし、他のマル機は落ち着いた表情でこの三人を見守っている。つまり、黒ヘルの男がマル機といっしょに、抵抗する女性を逮捕し、ひきたてているシーンというわけだ。現場は芝公園で反中核系各派の解散地だ。
警備実施がある日、デモスタイルに変身した若い男女(警官)が警視庁から出かけるのはしばしば見ているが、検挙活動にまで加わっているというのは初耳。しかもバッチリ写真にとったというのも初めてだ。この写真、当局にぶつけたら“犯人の奪い合いだ”と強弁するだろうが・・・・。写真部は時間のズレもあるしタイミングを失したということで、結局ボツにしたというが、残念。」

つまり、警官が黒ヘルを被ってデモ隊に紛れ込み、検挙活動を行っていたということである。警官であるという証拠はないが、公安・警備担当記者としてある程度の確証を持っていたのだろう。
黒ヘルを隠れ蓑にした公安(警察)の活動があったとすれば、当時、ノンセクト黒ヘルだった私としては複雑な気持ちになる。

※「家畜人ヤプー」:1956年より「奇譚クラブ」に連載されて、その後断続的に発表された沼正三の長編SF・SM小説。何故、民族派学生のビラに登場したのかは、日本民族の起源についての部分に関係していると思われる。


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私が1969年当時、学生運動で被っていた黒ヘルメットの絵である。ヘルメットの前にVのマーク、後ろに414Bと白文字で書いてある。Vの意味はVictory(勝利)。
「ベ平連」や「文サ連」というヘルメットも被ったが、それも黒ヘルである。
大学入学当初、杉並区にある明大和泉校舎の中庭で昼休みの学生集会が開かれ、その時、初めて黒ヘルを見た。「駿台論潮」というサークルのヘルメットで、黒に白地で大きく駿台論潮と書かれていた。人数は数人だったが、それまで黒ヘルは見たことがなかったのでとても印象に残っている。
その後、クラスの同級生のN君などと414B統一戦線というノンセクト集団を結成し、ヘルメットの色やデザインをどうするかという話になったとき、N君から「黒ヘルにVのマーク」という提案があり、それに決まった。

当時はまだ黒ヘル=アナーキスト(注1)と見られる傾向にあったが、黒ヘルを被る私の気持ちは「黒ヘル=ノンセクト(党派に属さない個人)」ということで、党派に入って活動しようとは思わなかった。414B統一戦線も同じ場(和泉校舎1号館414B教室)に集まった個人の集合体という感じだった。
1969年当時、明大では黒ヘルは我々も含めて結構多かったが、各大学が集まる集会に行くと全体としては小数派だった。しかし、新聞記事を見てみると1971年頃になると集会参加者全体の1割以上を黒ヘルが占めるようになったと書いてある。

1971年5月28日朝日新聞社会面の記事(要約引用)
【デモあおる“黒ヘル”-実態ナゾ第3の過激派?】
沖縄の返還協定調印を前に、これに反対する全共闘系デモの中に、これまでになく黒いヘルメットの集団が目立ち始めた。数人から多くて20人のこの黒ヘル集団の行動は、これまでのセクトにないアナーキーなうえ過激で、デモの混乱に乗じて交番に放火するなど機動隊をてこずらせることもしばしば。警視庁公安部ではまだその組織の実態をつかんでいないが、全体としてこれまでの全共闘系8派や赤軍派など急進3派に次ぐ“第3”の過激派グループに成長する恐れが強いとして警戒している。
黒ヘル集団は4.28沖縄デーから目立ち始め、警視庁が5月19日の沖縄ゼネスト支援闘争が行われた清水谷公園で黒ヘル集団を追跡調査したところ、参加者5500名中、836名が黒ヘルだった。

1971年6月15日朝日新聞社会面の記事(要約引用)
【デモあおる「黒ヘル集団」は全共闘の別動部隊】
警視庁は全共闘系のデモをあおる“第3”の過激グループ「黒いヘルメット集団」の実態解明を急いでいたが、14日までの調べでさらに増加する傾向があるうえ既成の全共闘系セクトが「別動隊」としてもぐり込ませて混乱をあおることに利用していたことがわかった。5・30沖縄闘争の際、黒ヘル集団について追跡調査したところ1350名にふくれあがっていることがわかった。

この新聞記事によると、黒ヘルは党派の別働隊とか第3の過激派などといわれているが、それはあくまでも公安当局の捉え方である。黒ヘルを被って集会に参加している学生の多くは、あくまでも党派に属さないノンセクトだった。
1971年5月28日の記事では、追跡調査の結果として836名といやに細かい数字が出ているが、本当に数えていたんですかね。

また、黒ヘルに書かれているマークについて、「叛」「建」の文字や「CL」「C」「NON」「MUR」「TS」などのローマ字、「π」「∞」などの記号が見られる、と書いてある。
私は1971年には414B統一戦線の「V」マークの黒ヘルはもう被っていなかったが、この頃、何のマークの黒ヘルを被っていたのか思い出せない。

明大も1971~72年頃になると党派部隊より黒ヘル部隊の数が上回り、集会では200名を超す黒ヘル部隊が集まった。黒ヘルを被っていたのはマップ共闘、史地共闘、入管闘、文化サークル連絡会議、べ平連、教育研究会、明大弾対などだが、その中には、中大などと連携した反大学戦線という武闘派黒ヘル部隊もおり、ブント戦旗派とゲバルトをするなど黒ヘル党派的な存在だった。

(注1)アナーキスト:無政府主義者

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