野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、『週刊アンポ』第6号(1970.1.6)及び第9号(1970.3.9)に掲載された「闘う中学生」の記事である。
1969年から70年にかけて、東大・日大闘争を契機として全国の大学や高校で学園闘争が闘われた。この時期、大学生や高校生だけでなく、中学生も闘争に参加していた。当時、デモや集会で「闘う中学生」の姿を見かけた記憶はないが、例えば、現世田谷区長の保坂展人氏が麹町中全共闘として活動していたことはよく知られている。
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【この人と語る 全国闘う中学生連帯】『週刊アンポ』第6号(1970.1.6)
●Kさんの場合
今回は「週刊アンポ」4号の「私はやるから君もやれ」に投書(注)がのっていた「闘う中学生連帯」のとてもかわいらしい女の子です。ミニ・スカートをはき、美しい色にぬり分けたヘルメットをかぶり、安保フンサイと書いた白い日がさを持ってベ平連のデモ行動の先頭の方を歩いているのをインタビューしてみました。ただ残念ながらこのインタビューとシュプレヒコールの中で行われた話の主人公の名前と、そのチャーミングな顔写真をここにのせることはできません。その理由はインタビユーの中に出て来ます。
―いくつですか。
K 14歳です。
― こういう風にデモに来ているのを家の人は知っているの。
K  わかったら、かんどう。プチ・ブルジョアだから。家を追い出される。
― そうしたら、どうするの。
K アンポ社に、泣きつくわ(笑い)
― どういうキッカケからデモに来るようになったの。
K 文化祭で、学生運動なんかの研究をしたの。それから、この方が正しいと思うの。
― これから、 どうしていきたい?
K  中学生には場所かないの。機会もない。反戦とか平和とか考えてしゃべっているけれど、一人でいる中学生のために、集まれるグループを作っっていきたい。だから右翼がいても、左翼がいてもいいの。その中で恋愛もやるわ。
― さっきタバコをすっていたけれど。
あそびみたいな、マネ。
― おそるべき子供たちだなー。
K  子供じゃないと思うわ。
― 親の生き方なんかを、どう思う。
K 反対だわ。
― 女の子が多いようだけれど。
K 中学生の時は、まだ女の子の方が強いのよ。高校ぐらいから男の子の方が強くなる。そういう風に解釈してよ。
― ぼくたちが中学生のころは、とても考えられないようなことだけど、今でも、やはり大部分はノン・ポリでしょう。
K みんな考えているんだけれども、きっかけもないし、こわいし、受験というのもあるし、行動か起こせないのだと思うわ。でも、かなりいるわよ。何かしている人、しようとしている人、こういうデモの中には、何か新鮮な人間らしさみたいなものがあるでしょう。私なんかクラスでしゃべると、そういうのが、うらやましいしい、そういう気持ちで話を聞いてくれる人は、たくさんいるわ。
― 雑誌なんかどんなものを読むの。
K 「少年マガジン」とか「ティーン・ルック」「ガロ」「朝日ジャーナル」それから、親愛なる「週刊アンポ」。私たち普通の中学生の女の子だと思うわ。みんなと映画にいったり、だいたい普通の14歳の女の子がさわぐものに、夢中になるわ。特別じゃない。
― 定期的に集まってる?
K  別にないわ。ベ平連のデモにまとまって出るようにしているの。それからあとは、個人的に集まる。勉強会なんかは、時々やっているわ。
― 高校生とか大学生とかの組織とは、関係ないの。
K 私たちは、そういうのに感化されたくないの。自主的にやっていくわ。
― 運動の中から、何を作り出していきたい?
K やっはり、人間性を見出していくのかな。本当の自分をそういう中で見つけて、 知りたいのね。つまらないの。家とか学校とか、友たちとか。はやり言葉で言えば、断絶かなー。親かすごいの。バレたらどうしようかと思うわ。
― 無理しないで、 出来るだけかんばってください。

(注)『週刊アンポ』第4号 (1969年12月29日発行)
「私はやるから君もやれ」
中学生 集まれ!
ぼくたちの組には、現在のテキスト中心主義にあきたらぬ人間が集まったのでしょう。5月ころから「やらなきゃならぬ」的ふんいきになってきて、6月、とうとう「砦の囚人」と題する雑誌を創刊し、そうとういいたいころを書きました。
たとえば「選挙権をもっとはやくもちたい」「反動的オヤジと進歩的ムスコ」とか「先生もっと自由にさせて」など・・・。これをガリ版で100部くらい刷って全学年に配りました。反響は思ったほどありませんでした。
しかし、いままで黙認していた諸先生もこのころになって腰を上げたのです。「砦の囚人制作会」のメンバーを呼び出した先生は「学内外から『あのような偏向的思想を持つグループを認めてよいのか』という意見が出てきているので・・・」ときりだしたので、ぼくらは、そのような反動的な者こそ排斥すべきではないかとしゃべりまくり、その結果「まあしかし問題があるので保留とすることにしましょう」となってしまいました。
しばらくは、このことを忘れかけていたぼくたちも、10月の会議で「砦の囚人」第3号をつくるということが決議され、先生のところにもちかけました。今まで比較的柔軟だった先生も、今度は次のごとくお説教なさいました。
「君たちの年代は、すぐ影響されやすいね。いままで私も黙ってみてきたけれど、少し君たちは、かたよった見方しかできなくなってしまったと思われる点があるね。にう少し大きく世の中をみたら、のびのびと。
雑誌は今まで君たちだけが書いていたけれども、そうじゃなくして学級みんなの詩なりなんなりをのせるようにしたら。そう学級文集になさい。それから『砦の囚人』なんていう題はダメよ。何しろ、はば広いものにしてね。反戦なんかに固まらないでね」
ぼくたちは
「先生のおっしゃる、いわゆる学級文集というものにあきたらないから『砦の囚人』を作ったんです。先生が衛生無害な娯楽雑誌を好むのなら、それは結構です。しかしなぜぼくたちにそれを強制できるんですか」と反論した。
その結果、親に電話がありました。ぼくらは、よく勉強し、よくあそび、よたべ、よく寝て、余計なことはせずに中学生らしく標準的で平凡にとどまっていればよいのでしょうか。中学生がおたがいに連絡しあってグループを作りたいと思っています。
(神奈川県・中学生・F)
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【造反中学生との対話】『週刊アンポ』第9号(1970.3.9)
去年の秋ごろから、さまざまな形で中学生の運動への参加がめだってきています。ベ平連の定例デモにも、毎回30人から50人の中学生の参加があります。彼らは、いったい何を感じ、何を考えているのか。「週刊アンポ」編集部は、その中のもっとも戦闘的だと思われる中学生たちに数回にわたってインタビューをおこない、まとめてみました。ここにあらわれている彼らの感じ方、考え方が、運動に積極的に加わっている中学生全体の、最大公約数的なものとは思っていません。またもちろん、運動にまったく関係していない一般的中学生からも、飛びはなれているかもしれません。しかし、彼らの発言のいくつかの部分が、現在の体制、教育を鋭くついていることもまた事実だと思います。
― 何年生まれですか。
A 昭和29年生まれ。
B 昭和29年生まれです。
C 昭和31年。
― そうすると、 安保の年は、何をしていたのだろうか。
A  何をするにも、まだ小学校へ行っていなかった。安保反対と自分で言ったのをおぼえている。
C ぼくの家は、特殊だと思う。親父がいわゆる新左翼関係なんだ。映画の仕事をしていて。もう60歳近いんだ。
B  ぼくは、何もわからなかった。
― 67年10月というのは、何年生だったの。
A 中一だった。テレビ見て、新聞見ていた。
C テレビを見ていて、全学連って悪いことするんだねって言ったら、そうかなって言われたのを、おぼえている。それで、うちの家はほかの家と少しちがうのじゃないかと初めて意識した。
B あまり、ぼくには記憶ない。
A なにも知らされていなかったから。そのあと、イントレピッドの4人の脱走とか、佐世保へのエンタープライズ入港なんていうのがあったけど。
B ばくぜんと、学生の方が正しいのじゃないかな、とは思っていたけど、学校へ行ったら、忘れちゃう。
― 先生は、何か言ったかな、そういう事件について。家では、話題になったの?
A 何にもならなかった。
C ぼくは、家では、その話ばかり。
― おととしの10・21の時は。
A ぼくは中学校で写真をうつしに行こうと思ったのだけれど、親にとめられた。あぶないからと言って。
― 本なんか、読む。小説なんか。
B あまり読まない。
A  なんといっても、ぼくは、 安田ショックだと思う。ぼくは、バリの中へ写真を撮りに行こうと思ったけど、読売の事件があったでしょ、だから写真機もってうつしていたら、リンチ受けるんじゃないか、だからやめてくれって。それで行けなくて、1月の18・19日とテレビにかじりついて見ていた。あれを見て、いろいろ考えるようになった。学校へ行つても話すようになったし。
ー 反響はあった。
A なかったな。みんなおもしろ半分で見ていた感じで。
B あの時うちの兄きが高三だったからおふくろなんかが、こんな闘争なんか起してもらいたくない、とかなんとか。

普通の生活って何ですか
― どうして運動をするようになったんだい?
A どうしてといっても。そうだなあ、最初はホームルームで先生と口論したのがキッカケかな。
ホームルームというのは、みんなで話し合いをする時間でしょう。それなのに教師が勝手に自分たちに都合のいいように使うので、そのことに抗議した。映画なんかやるので、途中で電灯をつけて、話し合いを始めたり、でも教師に外へつれ出された。そういうことがたびたびあった。
いろんな問題について、前から疑問に思っていたから、ホーム・ルームだけがキッカケじゃないみたいな感じ。
― いろんな問題って具体的にどんな問題なの?
そうだな。おれんとこの学校なんかじゃ、文化祭の発表なんかで、沖縄問題なんかを取りあげると、先公がああだこうだと干渉するんだ。おれなんかが、本を読んで調べたことが、ちょっと“政治的”だとつぶされちゃうんだ。もし発表できたとしても、”帝国主義”なんていう、単語がでてくると、スッ飛んできて、撤回を要求するんだ。
F 同じようなこと、ぼくらの学校でもあったんだ。それで、先生に「どうしてですか?」って聞くと、「君たちは、まだ勉強がたりない」なんていう。一生懸命調べたのに・・・。だけど、海外旅行のことや、理科の実験発表みたいなのは、なんにも文句をつけないどころか、逆に「彼らを、みならえ」なんていう。
E  わたしのとこは、みんなの逆なの。「学生運動」のことをやるって、先生のところに言いにいったら。「おもしろいからやりなさい。先生も協力するから」っていうの。なんていったらいいかしら・・・先生となれあいになってしまっていて、今のなんとなくフワフワしたプチブル的生活をかえりみないで、バカみたいな人間になってしまったみたい。
― Eさんば、女子中学なんでしょ。運動をはじめた動機はなんなの。
E  運動をやっているとは言えないわ。でも、なんかしなければいけないと思ったのは、ベ平連に刺激されてからね。
わたし、どうしたらいいのかわからないのよ。なんとなく中学校生活に不満なの。ボヤーとしていて、みんな大人―先生や親に吸いとられていく感じなんだなあ。だから、反発でやっている感じもあるわ。
B ぼくは、沖縄だな、最初すごく「かわいそうだな」と思ったんだ。同じ民族として、返還の必要を感じたんだ、中学の頃だった。それから、去年の4月頃から新宿西口のフォーク集会にもいっていたんだ。5月17日だったかな。機動隊か来た時、なんか割りきれないものを感じたんだ。それから7月20日の週刊アンポのデモに行ったんだけど、すごく「無駄だな」という気がして、ベ平連の集会には行かなくなった。ベ平連というよりデモや集会にかもしれないな。その後11月の末までデモに行かなかったんだけど、11月闘争をみててやっぱりシックリこなかったんだ。学校では今までも何もしていないし、おとなしくしているけれどね。
今年の1月に入ってから反戦高協の人達と一緒に読書会をやったんだけど、そこでも、セクトだけで、運動はできないという気がしてきたんだ。
― 一体、君たちは、どんな中学校教育を受けているの。
A 質問の意味がよくわからないけど、ベ平連のバッヂなんかをつけていると、担任にとりあげられちゃうんだ。
D ポスターや集会については、校長の検閲許可が必要なんだ。
A 西口のフォーク集会ソノ・シートを持ってきて歌を唱ったり、ギターを弾いていると「やめろ」という。「なんでやめる必要があるのか」と言うと、「話し合おう」とか「まじめにやれ」とまるでトンチンカンな返事がもどってくる。まじめにやれとかなんとかいうので、「まじめにやるということはどうすることなのか」と聞くと、「普通の生活をしろ、君のために言っているんだ」。
じゃあ、「普通の生活ってどんなんですか」と返すと、「変なバッヂをつけたり、歌を唱わないことだ」という。「おれたちは、まじめにバッヂをつけているし唱っているんだ」というと、「なまいきだ」ということになる。

親も話せば変るか?
― 親とか、家族との関係はどうなのですか。
B うちの親父は無口だから、しゃべらない。
A  今は、もうあまり言わない。いろいろ派手にやったから。おふくろは、家の中をあまりごちゃごちゃにしないでくれとか。
― いろいろ派手にやったって何をやったの。
A ごはん食べるのを拒否したり。うちの親父はアメ帝だから、良心のかしゃくを感じて、やだって。単純だけれと。そしたら体に悪いから食べてくれって。
B いいな、うちなんかすぐ出ていけって言う。
― 会社をやめろと言うつもりなのか。
A やめろとはいわないけど、アメリカ系の大会社だから、抗議行動なんだ。親父と話し合ったのだけれど、親父は学歴もないし、やめたら食っていけない。それに自分の会社は、戦争目的のための製品を作っているだけじゃないと言うんだ。バリもやった。ぼくの部屋の戸につくえとかイスをたてかけて、針金でしばって。
― なぜ。
A  ぼくの部屋に勝手に入って手紙とかいろんなものを調べるから。夜中にまどから出入した。秋ごろだったけど。そのころから、学校へ行っていないんだ。
― 何.をやっていたの、部屋の中で。
A  本を読んでいた。アナーキズムの本とか、マルクスの本とか、それに、少年サンデー。
― それで今、お金どうしているの。
A やるなら徹底的にやれって親父が言うから。
― 少し甘くないのかな。働くということは考えていないの。
A  ぼくも労働戦線に入ろうと思って考えてみたんだけれど、それだけの力量はないし。
― あなたの方は、どうですか。
B  一応いろんなことやっているの知っているらしいけれど、ようするに学校へ行って勉強して家にまじめに帰れば、文句は言われない。
― 家では、そういう話そんなにしないわけ。
B するけども、母親が私立高校の教師だから、やっぱり学生は勉強しろとか、運動するのは、なまけ心があるからだとか言う。たまに、親も話せばわかると思って話しても、あまり反響はないな。でも一応、かんしょうはないから。

革命について語る・・・
― 君たちの運動は、最終的に何を目ざしているのか。
A  人間解放だな。一番最後の目的は。
― それば、どういうことなんだ。具体的に言葉にしてみれば。
A 利害なしの教育、労働に対してそれにひってきするお金がもらえる。
― 革命をめざしているのだと思うのだけれど、それは起きるのだろうか。
C 起さなくちゃいけない。
B どうやってやるのかい。
D 今まで以上にきびしい規律―「革命の鉄槌」みたいなもので、労働者階級の再編をして・・・。
― 矛盾しているんじゃないの。さっきまでいってたことと。
G だから、そのぼくらは、いろんな不自由のなかで生きているから、自分をたもてないわけですよ。自分のなかで欲しいと思う規則のなかでこそ、本当に自由にやっていけるんじゃないですか。今、ぼくらのまわりにある規律は、与えられたものとしてあるし、それを無批判にとらえることにこそ問題があるんだと思います。
― もっと一般的に聞くと、どんな人が好き?
H 誠実な人間―自己に忠実であるといった意味での“誠実”な人が好きです。でも、いわゆる“まじめ”人間ってイヤーネ。自己に忠実である人って、すごく革命のニオイがして索敵だと思います。どういう風にいったらいいのかわかんないんだけど、エゴを、全体のエゴとして高めることが革命運動だっていう気がするの。エゴって汚い感じじゃない。自分のためにっていう意識ね。でも、汚いからこそ美しいんだと思う。
― どうして、革命を起こさなくちゃならないのか。
C 今、世界には、支配と被支配があるわけでしょう。そういう階級的対立があっては、いけない。
― 他人事として言っているように感じられるけれど、自分自身にとって、革命というのは、どういう意味か。少し公式的な感じがするな。
あなたたちは、やはり労働者の武装ということを考えているのか。
A 彼らか力を持って弾圧してくるのなら、力でもって押し返えさなくてはならないと思う。
― あなたたちも銃を持つのか。
A 銃なら女子供でも打てる。
― なるほどね。ところでどんなことを、クラスー般の生徒は話しているの。
A だいたい、ふつうの中学生の男が話していることといったら、ロックのこととか、女の子のこと、ファッションのことクルマのことぐらいだな。

親と子の最低限の関係
― 中学生は、肉体的にも精神的にもまだ子供だ。政治運動するのは、まだ早すぎると.言われたら、何と答えるのか。
B  一人の人間としてやっているのだから、大人も子供もない、と思う。
A  ようするに、そういう人の言う勉強とは、何なんだろうか。高校へ入るための、大学へ入るための勉強なんだ。
― 運動を始めてから、成績はどうなっている。
B いく分、落ち気味だな。
C うちの親父によれば、中学生の時は、一応学校の勉強をやっておけば、基本的な学力は身につくというんだ。
A それなら、学校へ行かなくても出来る。
― 高校へ入るのは、高校で運動するためか。
A そうです。
― 教育というものは、必要ないとは思わないでしょう。
A 今の教育制度に、まったく幻想はないけれど、教育というのは必要だと思う。
― 勉強とは、何なのだろうか。語学の勉強なんかちゃんとした方がいいのじゃないか。
A 語学は、ちゃんとやりたいと思っているな。
C ぼくは、高校へ行こうと思っていない。家では行けというけれど。働きたい。
― 君たちは、やはり家によって保護されているわけなんだと思うのだけれど。
A 親と子という関係において、それは最低限の関係だと思う。親がそういうものをしなくなったら、それは親が、親と子の最低限の関係を自分から放棄したものだと思う。
― 親があなたにお金をくれたり、世話をしてくれるのに、当然だと思うの。
B ぼくは当然だとは思わない。自分自身つまり親を食っているんだと思う。一面では、親を食っているのだけれど、やっぱり自分が真に人間らしく生きたいと思っているから、しかたがないと思う。
― 親は本当に心から心配しているんだと思うけれど、そのことに関して、どう思う。すまない、悪いと思うか。
A 悪いことをしているとは思わないけれど、そういう考え方でいくとぼくたちは、今ある体制の中に生きているのだから、こういう運動をしていればすべてに「すまない」ということになって、川に身を投げて死ななくてはならなくなる。
― かせいでもいないくせに、たいした知識もないくせに、大きなことを言うなと言うわけだ。親は。
A だけど、親がもしお金を出すのがいやなら、ぼくとしては働く。
― だけど親としては、金ださないと君が働かなくちゃならないというし、それは、かわいそうだから。
A それは、矛盾でナンセンスだ。
B 当然、ぼくらは、それを利用して闘争を有利にしたい。
― 利用するだけか。それだけか。自分が親の立場に身を置いてみたことなんかは、ないの。
B 当然ある。自分としては、もしぼくが親になったら、闘争している者の足はひっぱりたくない。
ー しかし、今のところ本当は足をひっぱっていると同時に、ずい分、君たちは、それを利用すると言っているけれど、それは、単なる甘えかもしれないよ。
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年1月30日(金)に更新予定です。

今回のブログは、10月5に開催された「10・8山﨑博昭プロジェクト秋の東京集会」での真鍋祐子氏(東京大学東洋文化研究所教授、社会学者)の講演である。
集会のテーマは「敗戦80年、何が変わったか?」であるが、このテーマを受けて、真鍋氏は韓国現代史は日本の現代史であるということを踏まえつつ、韓国の民主化運動の歴史を振り返りながら、トラウマというものが韓国の社会変革にどのような役割をしてきたか、また、韓国の歴史とはいわば記憶の闘争によって紡がれてきたものであり、記憶というのは一つの闘いであると語っている
当日の文字起こし原稿を元に、真鍋氏に加筆修正を加えていただいた。
講演の最後に当日のレジュメを掲載しているので、こちらも併せてご覧いただきたい。

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【トラウマと社会変革 ―心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみてー】
皆様こんにちは。私は真鍋と申します。普段は大学の研究所で韓国の研究をやっておりまして、民主化運動の中で抗議の焼身自殺を遂げたり、デモの最中に機動隊に殴り殺されたり、あるいは圧死させられたとか、そうやって犠牲になった人たちの遺族会でこの30年間、聞き取りを中心とした研究をやらせていただいてきました。
今現在は、ある遺族が遺された日記の調査に取り組んでいます。1987年6月に6月抗争と呼ばれる民主化への闘いがありまして、その結果大統領直接選挙だとか、集会や言論の自由だとか、今後はそういったものを国民の権利として認めるとして、学生や市民の反独裁運動に折れた軍部独裁政権が「民主化宣言」という形で87年の6月29日に出すんですけれども、その一つの大きなきっかけになった朴鍾哲(パク・ジョンチョル)水拷問事件というのが87年の1月に起こります。
学生運動に関与して後方から支援していた朴鍾哲というソウル大の学生が、学生運動幹部の先輩の居場所を問いただす目的で警察に連行されて、自白を強要される中で水攻め拷問で亡くなるんですね。その犠牲の死が導火線となり、全国的に軍事政権打倒のうねりが起こってきて、先ほど述べた民主化宣言を経て、今のように大統領が直接選挙で選ばれる、そういう民主主義国家に変わったという非常に重要な事件だったんです。その朴鍾哲さんのお父さんが、翌年からつけ始めた日記があって、これは20年にもわたる記録なのですが、私はご遺族やその関係機関の方たちからの快諾と協力を得ながら、昨年夏から定期的に韓国に通って、その日記の資料調査を進めているところです。
私の関心はトラウマというものが社会変革にどのような役割をしてきたかという点にあります。とりわけそのお父さんの日記からうかがえるのは、自分の息子を失って非常にひどいトラウマ的な状況に置かれながらも、やがて遺族会としての活動を超えて広く普遍的な人権運動と拡がっていく、そういうプロセスです。重度の心的外傷に苦しみながらもそれを受容し、やがてその経験によって逆に闘いが強靭化される(臨床心理学的には心的外傷後成長と呼ばれる現象)という状況に着目しています。私は日本の近現代史は専門ではないのですが、日本とどこが違うんだろうなといつも思いながら、韓国の民主化運動の歴史を見つめてきました。今日はそういう立場からのお話となります。

1.12・3非常戒厳に抗った力の源泉は「トラウマ」
韓国では、特に昨年末、非常戒厳令というのが突如発表されて、本当に大変な状況でした。この非常戒厳令という出来事に関連させながら、民主化運動の歴史を通して心的外傷後を生きてきた韓国社会というものを見ていきたいと思います。
韓国では日付による出来事の呼称がよくなされます。尹錫悦(ユン・ソンニョル)による非常戒厳令の宣告が12月3日だったので、「12・3非常戒厳」というふうに呼ばれています。これに抗った人たち、国会議事堂めがけて多くの人が駆けつけた様子だとか、あるいは一人の女性が戒厳軍兵士の前に立ちはだかって銃を奪い取ろうとした、そういう映像が日本のメディアでも流れてきて、皆さんもご覧になったかと思います。そしてあの状況を見ながらきっと「韓国の人たちはすごいな」と皆さん思われたと思うんですが、あのような非常事態に抗った力の源泉というのは、これはもう紛うことなく「トラウマ」なんですね。
韓国で非常戒厳令が最後に出されたのは80年の5月17日です。60年代70年代を通じて軍事独裁政権を率いた朴正煕(パク・チョンヒ)が72年の十月維新で事実上の大統領終身制を敷いていたのですが、79年10月26日に部下である金載圭(キム・ジェギュ)というKCIAの部長によって暗殺され、その後12月12日に軍部の中で全斗煥(チョン・ドゥファン)が率いる一部の軍人たちが「粛軍クーデター」を起こして実権を握ります。彼らは自分たちの軍隊がこれまでの朴正煕を中心としたものとは全く違う新しい存在だということを強調するために「新軍部」を名乗ります。この新軍部によるクーデターが12月12日に起こり、さらに80年5月17日にこの非常戒厳が全国に拡大される。これが韓国で最後のクーデター、非常戒厳令だったので、まさに40年以上の時を隔てて突如、非常戒厳が出されたということになります。
それだけの時間の隔たりにもかかわらず、あの12・3の時に、真冬の深夜にもかかわらず国会議事堂に集まった人たちは、どうしてそのような行動を起こせたのか?
現在の韓国で現役世代の方たちには、その40数年前の記憶というものがまだまだ生々しく残っています。非常戒厳令を許してしまうとその後どんなことになるのか、それはもう歴史が証明してくれています。80年5月17日の非常戒厳全国拡大の後に起こったことが、あの光州での10日間にわたる殺戮劇だった。そして国防部からの一方的な情報に欺かれて光州での暴虐を傍観してしまったことで、その後長きにわたって韓国社会で人々がどのような生活を強いられたかといえば、全斗煥が光州を捨て石にして実権を握ったことで、むしろ朴正煕時代よりも酷い軍事独裁の暴政が待っていた。これが87年まで続くわけです。
ただし、民主化宣言によって大統領を直接選挙で選べるようになったとはいえ、それによる最初の選挙で当選した大統領は盧泰愚(ノ・テウ)というやはり新軍部出身の人で、全斗煥とともに光州への暴圧を指揮した側でした。つまり形の上での民主主義制度が整えられたといっても、実際に軍事政権は盧泰愚政権が終わる92年まで続いたわけなので、80年5月17日の非常戒厳を許したことが、ようやくあの朴正煕時代が終わって「ソウルの春」、つまり民主化の兆しがあったというのに、その後12年にもわたり、さらなる軍事独裁を許してしまうことになった。そういう悔恨の経験にもとづく歴史のトラウマを抱えているがゆえに、歴史の逆行をなんとしても食い止めなくてはと、みんなが国会議事堂に集まっていき、国会議員たちを塀をよじ登らせて国会に送り出し、なおかつ戒厳軍の兵士を食い止めようというふうな行動に走ったということが言えます。これは非常戒厳令のニュースに接しての瞬時の判断力であり、瞬発力です。
国会議事堂へと走った人たちというのは、もれなく国会議事堂の上を旋回する戒厳軍のヘリコプターの轟音を聞いたときに、光州の記憶がフラッシュバックするわけですね。80年の5月18日に光州に戒厳軍、さらに空挺部隊が動員され、それに抵抗し銃をとって市民軍を結成した人たちは、27日未明の空挺部隊による機銃掃射で制圧され、壊滅させられてしまいます。その悲惨な記憶というものが、同時にパパッとフラッシュバックする。それがゆえにこれをなんとか食い止めねばと行動を起こした市民たちがいて、国会議員たちがいた。つまり非常戒厳を食い止めたのは、多くの人々が抱えていた光州に対するトラウマがそうさせたのです。同時に、この出来事がトリガーとなって、具合を悪くする人もたくさんいたそうです。光州には光州トラウマセンターという医療機関があります。光州民主化抗争によって様々に受けたトラウマ、あるいは光州民主化抗争後に囚われて、そこで受けた拷問などによってその後遺症で苦しんでいる人たちが本当にまだまだ大勢いらっしゃるし、とりわけ女性の場合、拷問の時に性暴力を受けている。こういう人たちはもう本当に自分では言い出せずに、ずっとトラウマを抱えて生きてきました。そういった方たちのケアをするために、光州トラウマセンターというのが2012年に開所するんですけれども、12・3以降、訪問相談が84件、電話相談42件が寄せられたという現地報道が出ています。レジュメに挙げたのは安田菜津紀さんの記事(https://d4p.world/31770/)なんですが、そこに登場するヨンスンさんという女性は光州民主化抗争の時に捕らわれて、性暴力を含む拷問の被害に遭われた方です。記事によれば「ヨンスンさんも不眠や不安症状に長年悩まされてきたが」、つまり40年以上にわたりですね、「戒厳宣布は、より当時の記憶を鮮明にさせ、とめどなく怒りが溢れたという」。こういう報告を安田さんが書かれております。

2.「死者が生者を生かす」(ハン・ガン)とは?
ちょうど非常戒厳が宣布された時、韓江(ハン・ガン)という作家がノーベル文学賞を受賞しました。ちょうど授賞式のためにノルウェーに行っていて、そこでそのニュースに接したかと思うんですが、「死者が生者を生かす」という韓江さんの言葉は日本でもメディアなどで盛んに取り上げられたという記憶があります。この言葉に感銘を受けて多くの方がSNSとかで拡散しているのを私も見かけたんですけれども、ただこの言葉を額面通り、字義通りにだけ受け止めると、裏を返せばとても危険な言葉かなというふうに思います。昨日自民党総裁に選出された方も、靖国の英霊のおかげで今の日本があるみたいなことを盛んに言っている人たちの1人だと思うんですが、この韓江の言葉を字義通りに受け止めてしまうと、たやすくそうした靖国史観に絡めとられてしまう。だけど実際は、これはそんな薄っぺらい意味の言葉ではないのです。
戒厳撤廃への俊敏な命懸けの行動は、光州の犠牲をむだにしないという市民や政治家たちによって動機づけられ、それは確かに死者が生者を助けたのですけれども、靖国を語る人たちのような観念とは明らかに異なります。あの人たちが言う「英霊」という言葉には、死者とは何かというのが全くない、空っぽの観念でしかない。死者が主語として語りの中に生きていないからです。韓江の言葉はそうした単なる観念ではなく、死者が生者を生かせるようになるまでには生者の側が、死者を死者として生き返らせる、死者を2度殺させないためにおびただしい犠牲を払いながら、民主化闘争を闘ってきたという、実際に血が流されたいくつもの出来事の厚みがあるのです。ここの部分をもうちょっと多くの方に知ってもらいたいなと思っているわけです。
この「死者が生者を助けた」という韓江の言葉、そこに至るまでの時間の中に、実は1人1人の死者を記憶して、そして語り継ぐというプロセスがあります。この「記憶し語り継ぐ」というのは簡単なようですが、やっぱり独裁国家では全く簡単なことではなくて、口にしただけで流言飛語だと言われたりとか、本当に声を潜めて語らなくちゃいけない。だから光州抗争のことを5・18(オーイルパル)、済州島(チェジュド)で起きた事件のことを4・3(サーサム)などと暗号のように言いますけれども、そういうのも、かつて声を潜めて語らざるを得なかった歴史だった、という一つの証明になるんですね。
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この1人1人の死者を記憶し語り継ぐということで言うと、二つほどスライドを準備してきたんですが、向かって左側のものは、民主化運動で犠牲になった方たちの遺族会が作ったもので、これは金大中(キム・デジュン)が大統領になってすぐの頃に、民主化運動で犠牲になった者たちの名誉回復をしてくださいという、キャンペーンのために作った絵葉書です。
朝鮮半島全体に顔が埋め尽くされてますけど、これは全部犠牲者の顔写真ですね。この葉書を使って、大統領に嘆願のメッセージを入れて投函してくださいというので、これが配られていたんですが、こんな具合にですね、こういう死者たちというのは国是に背いた「アカ」「容共分子」といったレッテルを貼られて無かったことにされかけている、そういう人たちなんですが、あえてこの人たちの顔写真で地図を埋め尽くしてこれを見よと言わんばかりに、キャンペーン葉書の図案が作られている。また右側のスライドですが、これは2020年の4月16日にSNSでたくさん拡散されましたけれども、この正方形の中に記されているのはセウォル号沈没事故で亡くなった高校生たちの名前ですね。4・16というのは2014年の4月16日にセウォル号事件が起きた日のことで、上には「名前を呼びます」と書かれています。下の方には「決して忘れられないその日。1人1人の名前を呼びます」というふうに書かれています。この図案はセウォル号で犠牲になった高校生たちの名前を並べて構成されてるんです。1人1人の名前でデザインされたものですね。あの真ん中の黄色は黄色いリボンで、セウォル号遺族たちの闘いの一つの象徴となるもので、こういうデザインのものが作られている。
このように死者が生者を助けられるようになるまでには、まずは無かったことにされようとしている死者たちを何とか生き返らせる、それで死者を死者としてきちんと生かしたいという闘いが、ものすごく長きにわたって闘われてきたわけなのです。私はそのことを広く知っていただきたいなというふうに思ってるんですね。
ちょっと前に、SNSで高橋博子さんという歴史学者で広島の被爆者の問題とかを研究なさってる方の投稿を見かけたのですが、高橋さんは「体験の継承」というフレーズに違和感を覚えるというふうにおっしゃっていて、なるほどなと思ったんですね。「体験を継承する」という言葉を聞くと何だかわかったような気もするけど、よく考えてみたら何をどう継承するのかわかんないですよね。どういうことなの?「体験を継承」というのは?ただ語り部さんの話を聞いて、何かそれを心に留め置いて、また語り部さんから聞いた話を自分が他の人に語り伝えてという、せいぜいそのぐらいしか私には思い浮かばないんですね。そうなると、その「体験」の内容は伝言ゲームではないけれど、いつのまにか風化したり変質したりするのではないか、それを「継承」するというのは矛盾ではないのかと。しかし考えてみると、韓国の民主化闘争の場面では「体験の継承」というフレーズはまず出てこなくて、彼らが常套的に使うのは「精神の継承」という言葉です。
「体験の継承」と「精神の継承」というのは何だか同じようなこと言っているようで、実は全然違うんじゃないかと思うんですよ。「精神の継承」というのは、犠牲になった死者たちが、いかなる精神の故に犠牲になったのか、いかなる精神をもって死もいとわず闘いの先頭に立って命がけでやったのか、ここを問いかける、そういう言葉なんですね。本当のところは死者にしかわからないから、生者たちは永遠にその「精神」が何なのかを問い続けることになる。
だから「精神の継承」と言う場合、それはこれを継承しようとする者たちに一つのエートスを与える、弁証法的な運動へと動機づけていく、そういう言葉じゃないかなというふうに私は思っています。韓国で死者が生者を生かす状態に至るまでの、日本ではほとんど見過ごされているこのプロセスには、死者を生かすために自ら犠牲となった無数の生者たちの生き死にがあり、そしてその一人一人に対して「精神の継承」ということが言われてきた。それがさらに人々を内面から駆り立ててきたという、そういう背後があったということを、多くの人にご理解いただきたいなというふうに思っています。
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次に、尹錫悦の戒厳事態というのがどういう背景のもとでなされたかについてです。これは「東アジア地域秩序における韓国現代史と国家テロリズム」をめぐる概念図としてレジュメにも載せましたけど、これは私が暫定的に作った図式で、徐勝(ソ・スン)先生、纐纈(こうけつ)厚先生や、日立就職差別を闘われた朴鐘碩(パク・チョンソク)さんなどの論文を参照しながら作ったものです。
先ほど山本さんのお話にもあったように、戦後の冷戦体制下でアメリカは米中関係を主軸とする東アジア地域秩序を構想したのですが、中国で革命が起きたため急遽、日本をパートナーとするべく方針転換をします。そうして日米同盟を軸とした東アジア地域秩序を確固たるものとするために、韓国を冷戦の緩衝地帯として分断状態のままにし、他方で朝鮮戦争による特需景気で日本の戦後復興を後押しし、その後もベトナム戦争によって経済発展を促しました。しかしこうした東アジア地域秩序を成り立たせるためには、韓国や台湾を日米同盟の下位に位置づけて、これを国際政治だけでなく経済的にも下支えするいわゆる「親日国」でいてもらわなくてはなりません。当初アメリカがもくろんだ米中同盟だったら、そうした矛盾は起こらないのですが、韓国や台湾、あるいは東南アジアの国々もですが、日本による植民地被害、戦争被害を受けた国の人々が絶対に親日であるわけもないのに、それでも親日であることを強いられた。これに抵抗する人々を抑え込むために親米・親日の独裁政権が仕立て上げられ、君臨してきたのです(同様のことはラテンアメリカでも行われました)。つまり東アジアにおける国際的な冷戦構造の中で、周辺軍事主義化させられた台湾や韓国は国内的にも冷戦を強いられました。民主化を求める者たちや支配勢力に抵抗する者たちに対しては「アカ」の罪状が被せられ、いかんなく国家テロリズムが振るわれ、そして末端では民主化弾圧が行われたのです。私が研究の対象としてきたのは70年代以降の韓国におけるそこの部分なんですけれども、尹錫悦の戒厳事態がいかに起こったかを理解するには、そうしたマクロな視点が必要不可欠と思われますので、この東アジア地域秩序の概念図をこっち(PPT)にも引っ張ってまいりました。
つまり、この戒厳事態というのは、分断に起因する国家テロリズムの文脈で捉えるべきで、あれがもし成功していたとしたら、続いて途轍もない国家テロリズムが振るわれ、民主化を求める市民に対して武力弾圧が振るわれていただろうというふうに言えるわけです。
朴槿恵(パク・クネ)の時だって、後になってわかったのは、戒厳軍を出動させる計画になってたんですよね、2016年のろうそくデモの時に。あれは未然に、そうする前に大統領が罷免されたので事なきを得ましたが、でもひょっとしたら、あの時に戒厳軍が投入されて、第二の光州のように光化門広場がなっていたかもしれない。常にそういった危険性をはらんでるのです。
尹錫悦の場合も、あれがもしうまくいっていればそういう結末になったであろうと想像してみる必要があります。あの国会議事堂前を埋め尽くした人々にとって、それがどれほどの恐怖であったかを。「戒厳事態を食い止めた韓国、すごい」だけじゃなくて。
ただし、これは韓国だけの問題、国内問題というのではなくて、日本にも責任の一端があると思っています。敗戦後日本が自分の手を汚さずに経済成長をなしとげ、また韓国への賠償を投資・経済援助と読み替えることで旧宗主国意識を温存したまま、アジアの中で独り勝ちするという、それは「日本すごい」ということでは全然なくて、実は韓国のこうした事態に対しては日本にも歴史上責任があるだろうと私は考えています。日本が無条件降伏をずるずると引き延ばさなければソ連が参戦することはなく、朝鮮は分断を免れたかもしれない。光州民主化抗争に関しても、全斗煥政権を日本はアメリカの背後で追認し、その結果、国家テロリズムが吹き荒れるのを傍観した。そうしたことへの責任の一端があるだろうと受け止めてもらえたらなと思ってます。
同時に朝鮮近代史とは、当然ながら当時の朝鮮は日本の植民地で、大日本帝国の一部だったわけですから、朝鮮近代史とはイコール日本近代史なわけですよ。例えば、済州島(チェジュド)の4・3事件、後で触れますけれどもその4・3事件に関連しても言われていることですが、沖縄戦の後には、実は済州島を本土決戦までの時間稼ぎのために使おうというふうに日本は考えていたわけです。
そのために済州島の人たちを酷使して空軍機の滑走路を作らせたり、壕を掘らせたりとかして多くの人命が使い捨てにされました。そのようなわけで済州空港の滑走路には多くの遺体が埋まっていて、それらが発掘されてDNA鑑定で身元が判明したのも割と最近のことです。また、日本軍のために掘らされた壕が、その後は4・3事件の時に住民が討伐隊から身を隠すための壕となり、また集団虐殺の現場ともなりました。このように朝鮮の近代史というのは、実は日本の近代史と繋がっておりますし、例えば4・3事件は韓国の済州島で起きたことだからと、これを外国史として突き放して見るのではなくて、日本史として捉えなきゃいけない。とりわけ戦後はそれぞれに主権国家が作られて、その歴史も全く別物のようではありますけれども、しかしこの東アジア地域秩序の中で韓国現代史あるいは台湾もそうですが、これは日本の現代史と合わせ鏡という位置づけで、もっと俯瞰的に見ていく必要があると思っています。

3.国家テロリズムによる心的外傷後を生きながら
このように暫定的に作成した東アジア地域秩序の概念図の中で、韓国社会というのは実は国家テロリズムによる心的外傷を数えきれないほど負わされて、そしてその心的外傷後をずっと生きてきたのではないかと思っています。そのこともレジュメにまとめていますが、具体的な出来事、主なものだけですが挙げておきました。
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まず、先ほどからお話している済州島、チェジュと呼びます。これは1947年から54年にかけて断続的に続いていった虐殺事件ですね。4・3というのは1948年の4月3日という事件の発端となる日付にちなんだ呼び方です。1948年に、45年から朝鮮をソ連と分割統治していた米軍政が南朝鮮だけで国を作ろうとしたんですね。当然、38度線から北のソ連が統治してる側の動きを睨みながらです。同じ48年の9月9日に朝鮮民主主義人民共和国ができるんですが、そういう動きの中で自分たちも共産主義に対抗する緩衝国家となる国を大急ぎで作らせなくてはということになり、それで南半分だけでの選挙をやろうとするんです。その時に済州島だけが、投票者数が規定に届かなくて選挙が無効になったんですね。済州島に三つある選挙区のうち二つの選挙区で選挙が成り立たなかったんですよ。その頃の済州島では南朝鮮労働党の人たちが日本敗戦後の国家建設のためにいろいろ活動したりしていたので、そういうのを「アカ」として討伐する名目で、48年4月3日に初めて米軍主導下で討伐隊が済州島に投入された、これが4・3のいわれです。
でも実際には47年3月1日の3・1節の集会で軍警に抵抗した人々の中から犠牲者が出るという事件があり、済州4・3といえば48年4月3日ですが、それは事実上、47年3月から始まっており、その期間は47年から54年までとなります。54年というのは討伐隊に抗戦していた武装隊の最後の1人が殺されたのが54年だったんですね。済州の悲劇とは、多くの人がまず討伐隊によって無差別、無慈悲に殺戮されたことです。色分け論で「こいつはアカだ」と言われたらそれで「アカ」だという、そういう感じで理不尽になぶり殺しにされることに対し、人々が武装隊を結成して抵抗し始めるというのは、光州の場合も同じです。最初に一方的な色分け論で権力側からの非人間的な殺傷・殺戮があり、それに対する抵抗として人々が銃を取って武装隊、光州では市民軍を結成する。そうした動きの始まりが済州4・3です。
そうした戦乱のどさくさの中で、とりあえず大韓民国の政府が樹立されたのが48年の8月15日です。無理やりにでも国家建設を急がなくてはならないのですが、日本による長期の植民統治だとか日本が起こした戦争だとかで人材が払底していて、さらには解放後、北朝鮮に渡ったり拉致されたりした知識人も少なくなかった。このように国家建設に資する人材が足りないものだから、米軍政は日本が残した箱物はもちろん、教育制度、軍隊、警察など多様なソフト面でも大日本帝国の遺制をそのまま引き継がせたのです。また日本統治時代にいわゆる親日派と呼ばれた人たち、つまり日本の植民地勢力にコミットすることで同胞を支配する側に立ち、それで利益を得てきた既得権層をそのまま新しい国家の人材として温存した。これが現在、いわゆる「親日積弊」と呼ばれているものです。だから大韓民国という国の成り立ち以降、それに抵抗する人たちは当然いるわけですよ。やっと日本が負けて解放されたのに、自分たちの自前の国を作る、自分たちでその過去を清算して、自分たちの手で理想の国家建設をやりとげるという、その希望が全く踏みつけにされた。かつての日本官憲がそのまんま朝鮮人に入れ替わっただけで、支配―被支配の内実は全く何も変わってないんですね、システム自体は。そうした現状に対する批判と抵抗に対して、初代大統領となった親米派の李承晩(イ・スンマン)が、国家保安法というのを48年に作ります。これは政権に反対する勢力を権力者の胸先三寸でいくらでも逮捕し、「アカ」の罪名をかぶせ、拷問にかけて政治囚に仕立て上げ、処刑することさえできるもので、これまで数えきれないほどの冤罪や不審死の温床となってきました。韓国では今もまだその撤廃をめぐって政治的葛藤がくり広げられていますが、分断体制にある限り事は簡単ではありません。
国家保安法は、実は日本の治安維持法を下敷きにして作られたものでした。日本は敗戦後、治安維持法はフェードアウトしましたが、韓国の人々はその亡霊である国家保安法にずっと呪縛されてきたわけです。ここにざっと挙げた主なものだけでも、色分け論と国家保安法に絡んだ事件はたくさんあるんです。
麗水・順天(ヨス・スンチョン)抗争というのは、これは済州島に討伐隊を送るのに、全羅南道の麗水に駐屯していた軍隊を出動させようとして、それに一部の軍人が抵抗して反乱を起こしたのが部隊全体に及び、やがてその動きが隣接する順天にも拡がった事件をいいます。反乱軍は鎮圧部隊によって弾圧されますが、そこで虐殺された中には多くの民間人も含まれていたとされます。ところがこの出来事はずっと埋もれさせられてきた過去として、いまだに韓国では光が当たってなくて、真相究明がほとんどなされていない事件ですね。
続いて朝鮮戦争へと、いわゆるイデオロギー内戦の時代が続きます。
さらに1960年には4・19学生革命が起こります。大統領選挙での李承晩による不正選挙に対する抗議デモに参加していた高校生が催涙弾で頭を打ち抜かれ、重しを付けられた姿で海に遺棄された、その遺体が上がったことで、火がついたように全国に抗議デモが広がり、その中でもたくさんの方が犠牲になっています。
さらに60年代から80年代にかけても、もう本当に数限りなくいろんな出来事があるんですが、やはり大きいのは80年の光州民衆抗争への流れですよね。韓国で民主化運動という場合、忘れてほしくないのは、これはただ民主化を求める運動というだけではないんです。これは光州抗争以降、その真相究明と責任者処罰とそれから犠牲者に対する名誉回復およびしかるべき賠償ですね、この3点セットを求める運動が民主化を求める運動とセットで闘われてきた、ということなんです。そこを忘れると、「日本だってやればできる」という話になるんですね。2016年にろうそくデモが盛んだった頃、日本でも集団的自衛権などに反対する若い人たちが国会前を埋め尽くした時、「韓国がやれるんだから日本だってできる。日本の方が民主主義の先輩だし」みたいなことを著名な映画評論家が新聞で書いてるのを読んで、私はとても不快に思ったんですけれども、そんなもんじゃないですよ。韓国民主化運動の歴史を馬鹿にするなと思いました。
ただ戦争が嫌だとか、そういうレベルの話ではなくて、韓国の民主化運動は一貫して死者をきちんと死者たらしめるために、無かったことにさせないために、済州島で何があったか、光州で何があったかという真相究明をしろという運動であり、それにもとづいて責任者をきっちり炙り出して処罰しろという運動であり、犠牲者に対してはきちっと名誉回復して国家賠償せよという、これを求める運動とワンセットで闘われてきました。2016年当時でいえば、セウォル号沈没事故に対する真相究明運動とセットになって、朴槿恵政権に対する反政府運動が盛り上がったのです。
冒頭でお話しましたが、87年には朴鍾哲というソウル大生が拷問で亡くなった。民主化を求める運動はこの事件をきっかけとして6月抗争へとなだれ込み、そして光州に関連しては88年の10月に初めて国会聴聞会が開かれますが、この時まで光州の出来事はまだ公に語れない話だったんですね。徹底した情報統制のために無かったことにずっとされてきた。「光州では容共分子が暴動を起こした」というふうな報道がずっとなされてきて、光州での真相云々っていう話はなかったんです。したがってこの80年から88年までの期間というのは、是が非でも光州の真相を明らかにせねばという思いで、ただどこのメディアもこれを報じることができませんので、やむなく自分の体に火をつけて自分自身をメディアにしてビラを撒き、スローガンを叫びという、そうした抗議の焼身自殺がめちゃくちゃ続いたんですね、この80年から88年にかけて。
そういう時代をずっとすごす中で、韓国の人々には深刻な心的外傷が刻まれたと思います。私と同世代の人たちに話を聞くと、学生集会に出ていたら目の前で演説をしていた学生がいきなり頭からガソリンをかぶって火だるまになり、スローガンを叫びながらだんだんとその声が途切れていき、バタッと崩れ落ちていった、その一部始終を目撃したとか、学生会館の屋上で自分の体に火をつけて投身自殺をした学生が、火だるまになって自分の真横にドスンと落ちてきたとか、そういう経験を語る方が結構います。やっぱりそれ自体、めちゃくちゃ心的外傷を与える経験だと思うんですね。そういった中でずっと闘われてきたのが、韓国の民主化運動なのです。韓国の学生たちがそういった過酷な経験をしていた頃、日本で学生生活を送っていた私たちは、バブル景気に躍っていたんです。この差は何なのか?
ようやく88年に5・18が公論化されて、それで何が明らかになったかというと、光州民主化抗争というのは、これはアメリカ帝国主義がバックにいたことで悲惨な結末に終わったということ、そのことに初めて気づくわけです。70年代までの運動はどちらかというと「朴正煕大統領閣下へ伏して民主化を懇願いたします」といったような、あたかも諫言のような遺書を残して抗議の自殺をするわけですが、80年代以降はそうではなくなります。光州の悲劇は、戦後の東アジア地域秩序の中で分断された韓国が日米同盟に支配されている中で起こりました。最後の最後、市民軍を壊滅させた空挺部隊の出動は、これは韓国軍が自分の判断ではできないんですね。駐留米軍の許可がなければ空挺部隊は動かせないわけで、当時光州の人たちは、アメリカは民主主義の国だから自分たちを助けに来てくれるんじゃないかとほのかな期待を抱いたんだけれども、一夜明けてみると、アメリカは民主主義ではなく反共主義国家として自分たちに銃を向ける立場として、全斗煥の背後にその真の姿を現すわけです。その背信感たるやということなんですね。70年代までの民主化勢力は南韓イデオロギーにもとづく国家体制までは否定していなかったのが、光州抗争を経験した80年代以降は分断を前提とした国家体制それ自体の変革を目指すようになる。それは光州の惨劇の裏にアメリカ帝国主義と、その下で分断状況に置かれていることの現実が再発見されることになったからです。そして、これは非常に大きなトラウマ体験でした。
そこから歴史を遡って、例えば4・3が再発見され、その歴史的意味が再帰的に構築されていく。このように光州を原点として、どんどんどんどんと遡及的に自分たちの過去の歴史を遡っていく、そして無かったことにされてきた真相を掘り起こしては再帰的に歴史認識を構築し直すという動きが始まります。

4.光州5・18が開けた「パンドラの箱」
昨年11月に韓江(ハン・ガン)氏がノーベル文学賞を受けた際に、私は『ユリイカ』から原稿を頼まれてそのことを書きました。光州に関連してずっと研究してきた立場だったので、文学は全くのど素人なんですけど、記事を書かせてもらったんです。光州5・18が韓国現代史にはたした役割とは、一言でいって隠匿された歴史という「パンドラの箱」を開けたことだったんですね。
光州自体もずっと無かったこととして押さえ込まれてきたのが、8年がかりでようやく公論化された。「ホロコーストはホロコーストの記憶の破壊によって初めて完成する」という高橋哲哉氏の言葉がありますが、光州にせよ済州にせよ、ホロコーストはまさに完成されようとしていたわけです。
ところが87年の6月抗争を経て88年、光州に関しては何とか真相が少しずつ明かされるようになっていき、その流れの中で済州4・3事件も再帰的に再発見されていくわけです。光州もそうですけど、済州島という場所自体が、これは韓江(ハン・ガン)の小説『別れを告げない』のあとがきで、訳者の斎藤真理子さんが書かれていたように、住民たちは長らくレッドコンプレックスを内面化させられて、ずっと沈黙を強いられてきました。けれども、ようやく光州の経験を通して歴史の掘り起こしが始まるのです。同時に4・3に関しては、やはり在日遺族の方たちの活動がずっとエンカレッジしてきた部分があって、4・3の真相も少しずつ再発見されていっている。
先ほどの繰り返しになりますが、この80年代以降の韓国民主化闘争というのは、民主化だとか統一だけではなくて、やっぱり光州に原点があるんですね。それは民主化を求める生者たちの闘いであると同時に、ホロコーストを完成させないための闘いでもあるので、運動の主語は常に「死者」なんです。私が戦争が嫌だからとか、私が人権尊重された豊かな社会を生きたいからとか、「私が私が」ではなくて死者なんですね。これがずっと続けられてきて、過去事への遡及ということで言うと、4・3だけじゃなくて、例えば韓国兵によるベトナム戦時民間人虐殺に対する真相究明と謝罪運動、これなども韓国で学生運動に参加していた人たちがやり始めたことです。
加えて、朝鮮戦争の時の民間人虐殺の真相究明や、また全斗煥時代にはホームレスや愚連隊みたいな人だとか孤児といった人たちを片っ端から捕らえてきて、釜山にある兄弟福祉院という施設にぶち込んで強制労働をさせ、虐待で何人もの人たちが亡くなってるのに、これなんかもずっと真相をひた隠して…といった事件があって、今そこから生きのびた被害者たちが救済を求めて闘っています。さらに学生運動をやっていた学生が強制徴集され、軍隊でリンチを受けて不審死を遂げる。これは赤化に対して「緑化事業」という比喩で呼ばれているんですが、この緑化事業による多くの不審死が起こっており、訓練中の事故死や自殺として処理されていることに対し、ここでもまた真相究明、責任者処罰、死者の名誉回復などを求める運動が行われています。いずれも光州から遡及的に行われてきたもので、例えば「慰安婦」問題の真相究明運動も同様の文脈の上にありますし、セウォル号の問題、それに直近の出来事では2022年に梨泰院(イテウォン)の雑踏事故で多くの犠牲者が出ましたが、その遺族たちの活動を支えているのは実はこの80年代、民主化運動を闘った人たちであり、さらにこの人たちに支援されてきたセウォル号犠牲者の遺族たちなんですね。
その主な担い手は「86世代」というふうに呼ばれます。これは日本における団塊世代みたいなもので、韓国ではいわゆるベビーブーマーなんですけど、私なんかがこれのど真ん中世代と同世代になります。86とは「80年代に学生生活を送った60年代生まれ」を意味し、この人たちが80年代の民主化闘争を担ったわけですが、実は昨年12月3日の非常戒厳の時に塀をよじ登って国会に結集した議員の多くもこの世代ですね。今この「86世代」が、老害と言われながらも、国会議員をはじめ韓国社会を動かす舵取りを担っている、そういう背景があります。

5.《記憶・記念日・歴史的想像力》から社会変革へ
最後のスライドになりますが、「《記憶・記念日・歴史的想像力》から社会変革へ」というタイトルを付けました。この「歴史的想像力」という言葉は、W.ブルッゲマンという旧約(旧約聖書)学者の本を読んで、そこからヒントを得ました。韓国はご存知のようにキリスト教国ということもあり、私は大統領など国の要職にある方々が発する声明文とか演説だとかを聞いていて、やっぱり聖書テクストを踏まえてるなと感じる部分が結構あったりするんです。
2019年だったと思うんですが、当時大統領だった文在寅(ムン・ジェイン)氏が、2045年に統一を目指すという発言をしたんですよ。それに対して日本の元ジャーナリストの政治評論家が「夢見る大統領」と茶化したんですね。それをたまたま私、テレビで見てたんですが、大統領の語りを冷笑するんですよ。確かにそれはもうかなり先の話だし、その頃に文在寅自身が生きてるかどうかもわかんないしですね、確かに客観的には夢物語のように聞こえるかもしれないけれど、2045年というのは光復節100周年の年ですね。
私の経験上、韓国の社会運動を見ていく上で非常に重要なのは「記憶」ということであり、「記念日」ということです。言うまでもなく光復節とは大日本帝国による植民地主義からの解放でしたが、その100周年となる2045年には今も続く日米同盟下での新植民地主義から解放されているように、そして統一のために頑張ろう、そういうビジョンを大統領が示したということであって、別に文在寅の頭の中がお花畑というのでは全くないのです。私はこの政治評論家の態度に本当に頭にきて、そういう人物がメディアに出張っていること自体がむちゃくちゃ不愉快なんですけれども、これは私たち日本の人間が全く理解できていない「歴史的想像力」というものです。で、それがもう本当に発揮されたなと思ったんですね、あの非常戒厳の夜に。
「歴史的想像力」とは、ブルッゲマンによると、「過去に根ざしながら未来にビジョンが拓かれる」といったイメージで、これは出エジプト記を原型にしています。たとえば新約聖書の使徒言行録7章には、殉教者ステファノが出エジプト記を引きながらイスラエルの民の苦難の歴史と救いの結末を語る場面があります。出エジプト記の顛末を語ることは、過去を語りながら同時に未来を語ることでもあるんですね。つまり過去のテクストを通して未来のビジョンが示されることで、そのあるべき未来を実現に至らせようと心理的に駆動するものが「歴史的想像力」です。
ちなみに私は小中高の12年間カトリックの学校で育ってきたので、イスラエルが今ガザに対して行っていることを思うと、聖書テクストを刷り込まれた自分はつくづくイスラエルの側からしか物事を見てこなかったな、ということをものすごく痛感させられています。出エジプト記の最後の方でモーセがシナイ山の頂から「乳と蜜が流れる」というカナンの地を見下ろしながら、結局そこに入ることを許されなかったというあの場面を、自分は当たり前のように内面化していたなと思わされたのです。「乳と蜜の流れる地」と羨望され、モーセの後継者ヨシュアが率いるイスラエルの民によって土地を奪われ、滅ぼされた側のことが、自分には全く見えてなかったんだと気づかされたのです。
ちょっと話がずれてしまいましたが、そんなわけで今の時勢にイスラエル、イスラエルと、あんまり出エジプト記の話をするのは言いづらいなという感じはあるんですが、一応この「歴史的想像力」という概念を使うことで、非常戒厳の時の出来事を読み解くことができるという話を最後に少しだけしたいと思います。
日本では全く報じられなかったんですが、非常戒厳を食い止めるために、慶尚道や全羅道といった南西部、南東部の農村部から農民の方たちがトラクターを連ねて大統領官邸を目ざして進軍してくるんですよ。このトラクター部隊による進軍は、2016年のろうそくデモの時も一度そういう試みがなされたんですね。2016年の時はその前年に、やはり大がかりなろうそくデモがあった時に、全羅道からソウルにやってきた白南基(ペク・ナムギ)さんという当時70歳近い農民活動家の男性が放水銃の集中攻撃を受けて意識不明の重体に陥り、約10カ月後に亡くなるという出来事がありました。地方農民にとって2016年のろうそくデモは白さんの死を受けての弔い合戦の意味が付与され、トラクター部隊を編成して抗議のために光化門を目指したのです。ところがこの時、トラクター部隊は高速道路を出たところで封鎖されて、そのまま立ち往生してしまった。
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その時に「民衆の声」というウェブ媒体で報道された写真がこのスライドの左側です。ちょっと逆さまになってますが、この翻っている旗には全準(チョン・ボンジュン)闘争団と書かれています。全準という人物は、1894年の甲午農民戦争、日本の歴史教科書では私は東学党の乱と教わったと思いますが、その農民軍を率いた人ですね。彼は朝鮮王朝の都である漢城(現在のソウル)に進軍しようとして敗退し、その後日本軍に捕らえられて処刑されます。そんな歴史上の人物の名を冠したトラクター部隊ですが、2016年の時には、一般市民はほとんど関心を示さなかったんですね、この全準闘争団に対して。「民衆の声」というインターネット・メディアが唯一、トラクター部隊の立ち往生を報じたぐらいで、誰も関心を示さなかったんです。しかし、今回は全く様相が違ったんですね。
準闘争団は大統領官邸前で非常戒厳に抗議するためソウルを目指していました。高速道路をノロノロとトラクター部隊を進ませて、高速を出て次には南泰嶺(ナムテリョン)という峠を越えて大統領官邸に向かおうとしたのですが、そこで警察によって封鎖されるんです。彼らがSNSに「私達を助けてください」という書き込みをしたことで、市民たちが一気に寄せ集まってきた。特に若い女性たちがさまざまな差し入れを持って大勢集まってきて、一緒に警察に対峙して戦う姿勢を見せるんですね。結局その熱量に押し切られた形で、警察も封鎖を解かざるを得なくなり、彼らは無事に南泰嶺を超えて大統領官邸まで進軍をしたという出来事があったんです。この動きというのは東学農民軍が1894年、つまりちょうど130年前の11月20日から12月7日にかけて、まさに12・3非常戒厳と時期的にも丸かぶりしているわけですが、漢城を目指していた東学軍が壊滅的な敗北を喫した牛金峙(ウグムチ)の戦いを想起させるものだったんですね。牛金峙から先へは進むことが叶わなかった、東学農民軍が越えられなかったこの牛金峙という場所。それに対して、130年後の今こそ何とかして彼らを首都へと突破させてやらねばという、ある種のエートスが働くわけです。これは「歴史的想像力」そのものだと私は思っていて、これが現実に社会を動かしたんですね。先ほどお話した2045年に統一をと語った文在寅さんの発言を冷笑するのは、冷笑する方が馬鹿だと思います。全くもって他者に対する敬意に欠けている。他者が歩んできた歴史というものをきちんと踏まえてリスペクトを持っていれば、こんな冷笑する言葉なんて出てこないと思うんですけれども。12・3非常戒厳をめぐる戦いで、全準闘争団に南泰嶺を越えさせようとした市民たちの行動は、これもまた東学農民軍の死者たちが今に生きる生者たちを生かしたんです。しかしその前には、全準という死者を何とか死者として蘇らせて、その精神を継承して自分たちの中に内面化しよう、そしてこれを新たな歴史認識に埋め込み直そうとする動きがあり、それは「抵抗の伝統」と呼ばれるものです。これも4・3同様、光州5・18を通じて再発見されたものなんですよ。東学農民戦争だけでなく、全羅道で最も燃え広がった3・1抗日運動もそうやって再帰的に「抵抗の伝統」に埋め込まれたのです。
「抵抗の伝統」という言説の原点には光州があり、光州抗争を経たからこそ過去時に遡ってその意味が再帰された。東学農民戦争は言うまでもなく韓国の歴史教科書にちゃんと書かれてあるんだけども、そうした公定歴史とはまた異なった民衆史と呼ばれる歴史認識の文脈で、改めて全準について記憶し、その精神を継承しなくてはならないという積み重ねで、韓国の歴史とはいわば記憶の闘争によって紡がれてきたんです。記憶すること、それを語ることは一見すれば簡単なことのようですが、強権的な国家ではそれがとても難しいわけですね。
ちょうど2020年のコロナ・パンデミックが始まった時に、李文亮(り ぶんりょう)という中国武漢のお医者さんが、自らコロナに罹りながら、今まで見たこともないウイルスがいるぞという警鐘をならした。それに関連して、閻連科(えんれんか)という作家が香港科技大学で語った内容なのですが、そこには「李文亮のように警鐘を鳴らす人になれなくても、その声を聞き取れる人になろう。大声で話せないなら、耳元でささやく人になろう、ささやくことすらできないなら、黙っていてもいいからおぼえてる人になろう」とあります。本当に弾圧の極限状態を超えた時、記憶こそが唯一の武器になる。多分この言葉の意味を、韓国の冬の時代を経験してきた人たちなら皆、得心するんじゃないかと思うわけです。
あったことを無かったことにさせないための闘い、つまり記憶の闘い、死者を正しく死者たらしめるための闘い、そういったプロセスが日本の場合、あんまり意識されないまま今まで来ちゃったんじゃないかなというふうに私は思っているんですね。先ほど李承晩が日本の治安維持法を下敷きに国家保安法を敷いたという話をしましたけれども、日本で治安維持法は完全になくなったかというとそうじゃないと私は思っています。敗戦で何となくうやむやのうちにですね、廃止をさせられたか知らないけど、民主主義国家に生まれ変わったとか言われてはいるけれど、でも被害者に対する真相究明、責任者処罰、名誉回復・国家賠償、それらの点に照らした場合どうなのか。小林多喜二の拷問死はもちろんそのまま放置ですし、山﨑博昭さんもしかりですしね。反省とか謝罪もなく、真相究明をしようという構えもない、そんな国家の為政者に、例えば緊急事態条項に対する実権を握らせるなどというのは正気の沙汰ではない、私はあり得ないというふうに思っています。
記憶というのは一つの闘いですが、日本では関東大震災の時の朝鮮人虐殺は無かったとか、南京虐殺は無かったとか、そういうことを与党政治家までが平然と言ってのけている。そういう時代を生きている中では、多分これから私たちは本当に闘わなきゃいけない、記憶することそれ自体が闘いになっていくんじゃないのか。
今までずっと真相究明がなされないまま、なあなあで無かったことにされてきた死者たちの存在を一人一人掘り起こしては、死者を死者として生かすこと。その死者たちが生者を助けるようになるまでには、どれだけの時間と労力がかかるかと考えた時に、気が遠くなるような思いになりますが、それは歴史を直視することを怠ってきたツケとしか言いようがありません。でも多分、私たちはここから始めなきゃいけないのではないだろうか、私はそのように思っております。私の話は以上です。ご清聴、どうもありがとうございました。

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●レジュメ
【トラウマと社会変革 -心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみてー 真鍋 祐子】
1.12・3 非常戒厳に抗った力の源泉は「トラウマ」
◆ヘリコプターの轟音で「光州」がフラッシュバックする→市民たちは国会識事堂へ
◆現地報道によると、戒厳宣布からの約10日間で、光州トラウマセンターには、訪問相談84件、電話相談42件が寄せられたという。ヨンスンさんも不眠や不安症状に長年悩まされてきたが、戒厳宣布は、より当時の記憶を鮮明にさせ、とめどなく怒りが溢れたという
(Dialogue for people 2025.5.26)
2.「死者が生者を生かす」(ハン・ガン) とは?
◆字義どおりに受け止めれば、たやすく 靖国史観に簒奪される。
◆戒厳撤廃はたしかに「死者が生者を助けた」のだが、それは単なる観念ではない。そうなるまでに、「生者が死者を生かす (=二度殺さない)」ために夥しい犠牲を払いながら民主化闘争が行われてきた。
◆尹錫悦の 12・3戒厳事態は、日米同盟を軸とした東アジア地域鉄の中で、分断に起因する国家テロリズムの文脈で捉えるべきで、日本にも責任の一端がある。
◆朝鮮近代史とは日本近代史であり、東アジア地域秩序において韓国現代史と日本現代史は合わせ鏡。

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3. 国家テロリズムによる心的外傷後を生きながら
◎植民地期の暴力と搾取、戦争
◆済州4・3 (1947?54) と「親日積弊」、朝鮮戦争(1950~53): イデオロギー内戦
◆ベトナム派兵
◆光州5・18 (1980) から6月抗争(1987) へ
◆1980年代民主化闘争における夥しい「抗議焼身」:「孝」/「殺身成仁」
4. 光州5・18が開けた「パンドラの箱」
◎光州、あるいは済州島という場所全体がトラウマだった ⇒「沈黙」
◎ホロコーストはホロコーストの記憶の破壊によって初めて完成する (高橋哲哉)
◆光州 5・18 が明らかにしたもの=米帝と分断状況→4・3の再発見一 ・・・
◆1980年以降の民主化闘争は、民主化・統一のみならず、5・18の真相究明、責任者処罰、犠牲者の名誉回復と補償を求める運動 (=ホロコーストを完成させないための闘い) がワンセットだった一運動の主語はつねに「死者」
⇒過去事への遡及 :4・3、韓国兵によるベトナム戦時民間人虐殺など
⇒その後の出来事への応用:「慰交婦」問題、セウォル号惨事など
◆主な担い手は「86世代」(80年代に学生生活を送った、60 年代生まれ)
⇒12・3戒厳のとき、塀をよじ登って国会に結集した議員の多くもこの世代
5. 《記憶・記念日・歴史的想像力》から社会変革へ
◎「歴史的想像力」とは、過去に根差しながら未来にヴィジョンが拓かれるもの (W.ブルッ ゲマン)
◆李文亮のように警鐘を鳴らす人になれなくても、その声を聞き取れる人になろう。大声で話せないなら、耳元でささやく人になろう。ささやくことすらできないなら、黙っていても いいからおぼえている人になろう (間連科「この厄災を記憶する人であれ」2020.2)。
◆足止めされた「全準闘争団」(農民のトラクター部隊)に連帯する市民たちと「牛禁峙(ウグムチ)の戦い」(1894 年 11 月 20 日~12 月 7 日)
東学農民軍が越えられなかった牛禁峙/「130年」後に南泰嶺を越え、大統領官邸へ
◆5・18 から再帰された「抵抗の伝統」言説の原点=東学農民戦争と3・1 独立運動
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【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
 
http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年1月9日(月)に更新予定です。

今回のブログは、10月5に開催された「10・8山﨑博昭プロジェクト秋の東京集会」での山本義隆氏(科学史家)の講演である。
集会のテーマは「敗戦80年、何が変わったか?」であるが、このテーマを受けて、山本氏は講演の中で「戦後の高度成長は、実は生まれ変わった平和憲法の下で、すべてが失われた焼け野原から作り上げられたのではなくて、物質的はもちろん精神的にも戦前のファシズムの過程でできた日本の土台の上に作られたのであり、戦争の影響や軍事的な要因に補完されて成されたのだ」と述べている。これが講演のテーマとなっている。
集会では音声が途中で一部途切れたり、時間的制約で話が中途半端なものになったということもあり、当日の文字起こし原稿を元に、山本氏が大幅に加筆修正を加えている。そのため、日付が11月22日となっている。
講演の最後に当日のレジュメを掲載しているので、こちらも併せてご覧いただきたい。
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【2025年10月5日 「10.8山﨑博昭プロジェクト」集会の講演
テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて 山本義隆】
◇はじめに
山本です。最近、足腰が弱ってきたので座ってやらせていただきます。
今日の『敗戦80年、何が変わったか?』という集会のタイトルは、2回前の発起人会議のときに、「そうか80年だな、どうしようか」とみんなで喋っているうちに、何となくこれに落ち着いたんです。もちろんこれは「そう変わっちゃいないんではないか」という反語のつもりです。
僕は1941年、対米戦争が始まった年に生まれました。12月8日の日米開戦直後です。もちろん戦争の記憶はありません。東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されたのが1964年で、これは僕が大学を卒業した年です。その時の新聞に、もちろん正確には覚えていないですけども、大体こんなこと書かれていました。
日本はかつて軍国主義で戦争をしたけれども、敗戦で平和国家に生まれ変わって、日本の多くの都市が焼け野原の状態から、真面目に働いて高度成長を成し遂げた。新幹線も作り上げた。オリンピックを開催できるまでに復興を遂げた。それで戦後初めて世界中から人々が日本にやってくる。だから「平和国家」に生まれ変わった日本を見てもらおう、日本が「平和の祭典オリンピック」を開催するのを、世界中の人たちに見てもらおうではないか、というようなことが書かれていたのです。
それで10月10日、東京オリンピックの開会の日です。ものすごくいい天気だったのを覚えています。それで開会式に各国の選手団が三々五々入ってきて、最後にね、日本選手団が300人ぐらいの大選手団です、それが隊列を組んで足並みを揃えて胸を張って入ってきたわけですよ。ようするに軍隊行進です。先頭に日の丸を掲げて。それでそれが終わったら天皇が出てきて開会の挨拶をしたわけです。それでその日本選手団の軍隊行進を見て、外国の記者たちが「ジャパンは未だにミリタリズムの国だったのか、まだ軍国主義なのか」とびっくりしたのです。その話はその当時はいろいろ新聞に出ていたのですよ。それは、外国の記者団から指摘されるまで、大部分の日本人が思ってもいなかったことでした。普通、どこの学校の運動会でも、子供たちは足並み揃えて行進させられていたんだから。
つまり、日本人は戦後20数年経って自分たちでは変わったと思っていても、本当は、と言うか、メンタリティーはあまり変わっていなかったんですね。戦前のファシズム支配の細部・末端における非人間的な抑圧や理不尽な規制を、抑圧だと意識することもなく人間性に反することだと自覚することもなく、あたり前の事のように続け、あるいは軍国主義の発想法やものの見方のバイアスを、自然なことのように維持していたのですね。
戦前からの負の遺産は、もちろん制度的な面でも少なくはありません。たとえば戦前は天皇制の憲法で最終的な権力は天皇にあったのにたいして、戦後は主権在民で三権分立だと言われているけれど、実際は三権分立なんてないですよね。圧倒的に行政権力が強くて、司法権も立法権もそれに屈服しています。一連の原発裁判の結果を見たらわかります。
そういう意味では本質的なところで日本はあんまり変わっとらんのじゃないかというわけで、今日の僕の話のテーマを「テクノファシズムと高度成長」としました。「テクノファシズム」と言っているのは、戦前の日本のファシズムのことです。「高度成長」はもちろん戦後。言いたいのは、その戦後の高度成長は、実は生まれ変わった平和憲法の下で、すべてが失われた焼け野原から作り上げられたのではなくて、物質的にはもちろん精神的にも戦前のファシズムの過程でできた日本の土台の上に作られたのであり、戦争の影響や軍事的な要因に補完されて成されたのだということです。

◇丸山眞男のファシズム論
それで、戦前の日本のファシズムですけれども、有名でひろく受け入れられてきたのは丸山ファシズム論、それから共産党系のファシズム論です。レジュメに書いておきましたけれども、丸山のファシズム論を読むと「ファシズムは何ら新しい社会体制を目指すものではなく、積極的な目標や政策もない。単なる反動であり、反革命である」と書いてある。
それで、丸山ファシズム論の歴史では、日本ファシズムの第1期は1919年の北一輝の本やそのころの民間右翼の運動から始まり、つづく第2期は、右翼のテロリズムと青年将校の非合法クーデターで語られる「急進ファシズム運動」で、それが二・二六クーデターで破綻したとあります。二・二六クーデターの中心の青年将校たちというのは士官学校を出て、日常的に兵士と一緒に起居して兵士を訓練している非エリート軍人で、だから昭和の相次ぐ恐慌下での農民の窮状、そして日本社会の閉塞状況を日常的に強く意識していた部分なわけです。だからクーデターは「世直し」と意識されていたのです。しかしその「世直し」は、一君万民の日本、つまり天皇が父親として君臨している家族国家日本において、天皇が困窮している農民の現実を知ったならば、天皇が農民を見棄てるはずはない、だから悪いのは天皇が真実を知るのを妨げている特権階級の取り巻き連中で、その連中を全部抹殺し、天皇親政、つまり天皇にすべてを任せれば、農民も救われ、おのずと新しい日本が生まれるという、そういう意味ではまことに幻想的な話なんですね。たしかに丸山の言うように、それ以上にクーデター後の展望はなにも提示していない。しかし大元帥天皇が「反乱軍を直ちに鎮圧せよ」と一喝したとき、その幻想は全部壊れたわけです。これで「日本ファシズムの第2期」は終わります。「急進ファシズム運動」の破綻です。
その後の「日本ファシズムの第3期」について、丸山眞男は「軍部、官僚、財閥の抱き合い体制が強化され、定石通りのファシズムの完成へと進んでいきます」と語っています。
僕はこれを初めて読んだときに、大変奇妙な感じがしました。「目標や政策のない運動」の「完成」とはいったい何なんだ、理解できません。
じつは丸山が「日本ファシズム第3期」と言っているものは、二・二六までの「急進ファシズム運動」とは別の流れなのです。丸山はそこのところを理解していないので、彼のファシズム論は理解不可能なところがあり、大きな欠陥を持っています。
「第3期の運動」と言われているのは、実際には「第2期」までの青年将校たちのクーデター路線の担い手が変わっただけのものでもなければ、それが変質したものでもなく、もともと出発点が異なり、目的も異なる別の動きなんです。それがどこから始まったかというと、第一次世界大戦から、第一次大戦が日本の陸軍に与えた「衝撃」からです。

◇第一次世界大戦の衝撃
第一次世界大戦の「衝撃」とは何かというと、第一次世界大戦というのは、それまでの戦争とは全く違っていたことにあります。それまでの戦争は、日清でも日ロでも、正規軍が前線でドンパチして、それで弾が尽きたら終わりなんですよ。比較的短期間に終わり、銃後では市民生活が普通に営まれていたのです。ところが第一次世界大戦は、国内で工業生産力をフル回転させ、武器弾薬を作り続け、そのため家庭の主婦までも工場に動員し、もちろん兵力も補給し続け、国民にたいしては戦意高揚のキャンペーンを続けて、4年半にわたって戦い続けられたのです。前線と銃後の区別もなく、国全体がヘトヘトになるまで戦いつづけた、長期戦で広域戦の総力戦だったのです。
しかも特筆すべきは、最先端の科学技術が全面的に投入された初めての戦争だったのです。使われた武器弾薬の量がこれまでの戦争にくらべて桁違いに多く、砲弾の火力も格段に強化されていたのですが、それだけではありません。航空機、戦車、軽機関銃、潜水艦、軍用自動車、毒ガスといった最新兵器がその戦争の過程でつぎつぎ開発され、はじめて使用されたのです。ということは、国の工業生産能力、農業生産能力、研究開発能力、大衆動員能力、そのすべてをフル動員させた戦争、国家総動員の総力戦だったのです。
日本にとっての第一次世界大戦は、中国を舞台にして、極東に力を割くことのできないドイツを相手に戦って、ドイツを屈服させた小規模な戦闘で、その意味で日本は戦勝国だったのです。しかし「欧州大戦」と呼ばれたその大戦のヨーロッパの戦線における現実、つまり総力戦の現実を知って日本の支配層、とくに軍は多大な衝撃を受けたのです。
日本の「第1の開国」は「黒船」というアメリカ合衆国武装艦隊の出現によるものです。あれに衝撃を受けて、日本の支配層はこのままでは植民地になるという危機感をもって、明治維新以降、全力で近代化つまり資本主義化に乗り出していったのです。それが「富国強兵」「殖産興業」のスローガンで、軍事力を強化しながら西欧の技術を習得し近代産業を育成していくという明治新政府の方針だったのです。こうして日本は、第一次大戦までの約半世紀間に、資本主義社会に変貌しただけではなく、近代的な軍事力を備え、台湾と朝鮮を植民地支配する帝国主義国家に成り上がっていったのです。
それと同様に、第一次世界大戦の衝撃は日本に「第2の開国」を促したのです。すでに帝国主義列強の一角に食い込んではいたけれども、今の日本にはとてもじゃないけど、第一次大戦のヨーロッパ戦線で展開されたような総力戦を戦う力量はない。士官の移動は騎馬で物資の輸送は大八車のレベルの日本軍では、西欧の列強にはとてもじゃないけれど敵わない。高性能の武器弾薬を長期間にわたって大量に作り続ける工業生産能力もない。もちろん最新兵器を開発する科学技術力もない。この時点で日本はすでに工業化しているといっても、せいぜいが繊維とか雑貨の軽工業です。重化学工業はほとんど育っていない。
だから何をさておいても重化学工業を育てあげ、軍の装備を近代化・機械化しなきゃいけないと、軍の中にそういうふうな動きが出てきたわけです。それが近代派なんですね。
もちろん軍の中にはそれだけじゃなくて、そんなこと言ったって工業化なんかすぐにできるものではない、それより戦争は精神力が大事なんだ、という精神主義者ですよね、それもいた。それがのちに「皇道派」と呼ばれる流れとなり、二・二六において青年将校たちが頼みとした部分なわけです。それにたいして近代派というのは、のちに「統制派」と言われる、永田鉄山とか東条英機たちなわけです。その近代派はものすごい危機感を持ったわけです。実はそれが、「第3期の日本ファシズム」へとつながってゆく運動のはじまりなわけです。それが目指したのは、日本に早急に重化学工業を育て上げ、国家総動員を可能にする総力戦体制を構築すること、すなわち高度国防国家の建設だったのです。

◇満洲事変と「満洲国」
ところで近代的な重化学工業を建設するにあたって日本の支配層と軍が直面したのが、そのための資源、鉄鉱石やその他が日本にはないという、「資源小国」日本のシビアーな現実だったのです。だから何としてでも資源を確保しなければならない、必要ならば武力に訴えても原料供給地を支配下に持たなければならない、という欲望が生まれてきたのです。そこで、必要な資源を地下に豊富に蔵している中国大陸に目が向いてゆくわけです。日清・日ロの戦役に勝利し増長した国家の思い上がりであり、エゴイズムなわけです。
それで始まったのが1931年の満洲事変です。「満洲」つまり中国東北部は鉄鉱石と石炭の豊富なところで、それが第一の狙いだったのでしょう。石炭は日本にもあったのですが、日本の石炭は製鉄に必要なコークスを造るには向いていなかったのです。
満洲事変は関東軍、つまり中国東北地方駐留陸軍部隊の石原莞爾なんかが、もちろん政府の了解もなしに起こしたものです。これは事実上のクーデターです。本来なら石原莞爾は死刑ですよ。「天皇の軍隊」を勝手に動かしたんだから。二・二六の青年将校たちは4千名あまりの軍を動かしただけで全員死刑になっているんですから。それでもその当時、世界恐慌を含め、日本はたて続けの恐慌に襲われ、企業の倒産や失業者は増え、国内は悲惨な状態にあったのです。そういう中で関東軍が暴走して、ほとんど抵抗なしに進撃を続け、そのうえ売らんかなのマスコミは調子のいい戦勝記事を書く。そうして結局、国内の民衆のフラストレーションを全部外向けに発散させたことになり、結果オーライで、政治権力は事実上、関東軍の暴走を認めざるを得なくなったわけです。あれが日中15年戦争の始点で、日本の破綻に向かう動きの始まりだったと思います。
それで満洲を占領したのですが、中国側の抗日武装闘争が激しく、そのこともあって直接的な植民地支配とせず、「満洲国」をでっち上げたのです。一応、表向きは国として創られ、「五族協和」とか言われていたけど、「満洲国」は、実質的には関東軍と日本人官僚が完全に支配している傀儡国家です。

◇満州産業開発五ヶ年計画
そこで軍は何をしようとしたかというと、「満州産業開発五ヶ年計画」という、満洲の重化学工業化なのです。植民地でこういうふうな工業化をやろうとしたのはあんまり例がないんですね。イギリスなんかがインドでしたように、食料とか資源を収奪し、本国で作った商品を売りつけるというのが、それまでの植民地支配のやり方だったのです。日本は、朝鮮や台湾でも、「満洲国」でも勿論そういうことをやっているわけですけど、それと同時に「満洲国」を工業化しようとした。それは何故かというと、やっぱりソ連を仮想敵国としていたからです。革命後の計画経済で急速に工業化し軍事力を強化したソ連に国境を接して「満洲国」直接対面している。それに対抗しなきゃいけない、というわけです。
それと同時に、石原莞爾は「満洲国」の工業化を日本本土の重化学工業化を促進するためのステップとしても考えていたようです。つまり軍の近代派が目指していた日本国内での重化学工業化のモデルケースに「満洲国」をするという狙いもあったのです。
ちなみに「産業開発五ヶ年計画」というのは、はっきり言えば社会主義ソ連の計画経済、5年毎に共産党が計画をたてて共産党官僚が企業を指導する計画経済を手本としたものです。企業の所有を国にするかしないかの違いだけで、基本的には変わりません。もともと遅れた農業国であったロシアを、比較的短期間でそれなりの工業国家に引き上げたソ連の計画経済は、同様に遅れた農業国である「満洲国」を速やかに工業化するための格好のモデルと見なされていたのです。
それで軍がそういうことを目論んだのだけれど、実際にはとてもじゃないけれどもそんな能力を軍は持ってない。産業開発なんて軍にはとてもできない。そればかりか、そもそも国家として成り立たせるための法体系の整備とか、あるいは三千万「国家」の財政政策を立てることも、軍の手には余ることです。それで日本から官僚を呼び込んだのです。

◇革新官僚とマルクス主義
その官僚ですけれども、その当時、商工省や企画院に「革新官僚」と言われた官僚が生まれていたのです。この時代の「革新」というのは、明治維新以来の薩摩・長州を中心にした支配体制を右から、つまり国家主義のサイドから改革しようとする動きを言います。
それまでの官僚の中心は法務省で、法に合わせて国民に支配秩序を守らせる、いわゆる「牧民型官僚」が主流だったのです。しかし経済が発展してきたことで、官僚の役割が変わってきていたのです。それまでは農商務省という農と商がくっついた省があって、それは「二流官庁」と言われていたのだけれど、日本経済が発展して、それが商工省と農林省に別れて、優秀なやつは商工省に行く、あるいは逓信省に行くように変わってきたのです。というのはこの頃、技術が進歩し、支配機構が複雑化してきて、そこに官僚の能力を発揮できる新しい分野があるということがわかってきたわけです。だから岸信介とか椎名悦三郎とか東大法学部の秀才連中が、商工省などに入省しているわけです。あるいはのちに電力国家管理にむけて論陣をはった奥村喜和男は逓信省に入省しています。
それまで日本は第一次世界大戦ではぼろ儲けしたんだけど、その後は恐慌、恐慌、恐慌で悲惨な状態になっていました。世界的にもそうです。だから大正末期から昭和のはじめの時代、資本主義社会が行き詰まっている、資本主義経済が下降期に入っていると、広く実感されていたのです。そういう資本主義社会の本質的な矛盾というのを初めて体系だった精緻な理論で学問的に解明したのが、マルクス主義であり唯物史観だったのです。それゆえ学生や知識人は、マルクス主義につよい関心を有していたのです。
そのうえロシア革命があって、そのことは左右を問わず学生やインテリにすごい衝撃を与えたわけです。それで日本ではマルクス主義の文献がものすごい勢いで入ってきたのです。その当時、改造社がマルクス・エンゲルス全集全35巻かな、『共産党宣言』以外全部出しているんですよ。『共産党宣言』だけは権力の監視が厳しくて出せなかったようだけれども。『資本論』だって翻訳が3通り出てたんですよ。こんな国は日本だけですよ。だからこの時代、少なくはない学生が、マルクス主義の文献を熱心に読んでいたんですね。それで社会主義革命の実現を信ずる者は少数であったにせよ、多くの学生は一種の教養として読んでいたんですよ。マルクス主義は当時トレンドだったので、左翼だけではなく右翼も読んでたんです。岸信介だって「俺、読んだ」って言ってんだから。
 だから国家主義者であれ右翼であれ、そういう時代に学生生活を過ごし秀才連中は、恐慌が頻繁に繰り返えされる資本主義社会はこのままではいけない、なんとか変革しなければいけないというそれなりの意識をもって商工省や逓信省や鉄道省その他に入省し、国家の経済政策・社会政策に主体的に関わっていったのです。それが「革新官僚」と呼ばれていた部分であり、やがてテクノクラート、つまり経済政策・国家運営における技術官僚で同時に政策遂行の政治的な力をも備えた存在に変貌していったのです。

◇統制経済から軍事経済へ
革新官僚の出発点は1931年の「重要産業統制法」の制定、そして国内産業の合理化政策で、それを主導した中心は商工官僚・岸信介です。重要産業統制法は、もともとは恐慌からの脱出策として、国の指導でカルテルを作らせるものです。これは自由経済を基本とする資本主義経済に国家が介入した、日本ではじめてのケースです。だけども1931年は満州事変の年でもあり、その時期に日本経済が準軍事経済に入り、そのため恐慌からの時限的な脱出策が、軍事経済としての統制経済に変質していったのです。その根本的な方針は何かというと、いわゆる自由経済の資本主義でもないし、かといってソ連の計画経済でもない、第3の道として統制経済なわけです。資本の私的所有は認め、その意味では社会主義ではないにせよ、個々の企業活動の目的を私的な営利にではなく公益に方向づけ、そのために経済過程に国家が積極的に介入してゆくというものです。
その後、岸信介やその配下の椎名悦三郎たちは、軍の要請で渡満し、「満洲国」で満州の産業開発に取り組みことになります。それは完全に官僚の指導による経済開発、つまり非資本主義的あるいは反資本主義的でさえある統制経済・計画経済の実験だったのです。それに「満洲国」は、そもそも「国」といっても、議会もなければ政党もない、民意を汲み上げる機構もなければ権力をしばる憲法もない、要するに軍と官僚が何にも囚われずに三千万の民衆を思うままに支配している純然たる独裁国家なのです。
この軍と官僚による完全な独裁的支配と、官僚の指導による経済活動としての統制経済というこの二点で、日本国内におけるいわゆる「第3期ファシズム」の予行が「満洲国」において行なわれたことになります。そして岸たち革新官僚は、この「満洲国」での実績を踏まえて、帰国後、国内での統制経済に取り組んでゆきます。
それが1937年の日中戦争の始まりとともに、近衛内閣が登場して経済新体制運動として、企業サイドつまり経済界からの反発や反対に抗して現実化されてゆきます。その基本思想は、全体主義国家観にもとづくもので、企業活動の目的を個別企業の営利にではなく公益、つまり国家全体の利益に向けさせることにあり、それを資本主義でもなく社会主義でもない「第三の体制」と思念されていた統制経済として実現する事にありました。
その実際のあり方は、企業において資本の所有者という意味の「資本家」と企業のマネジメントの担い手つまり経営技術者という意味の「経営者」を分離し、その「経営者」を「資本家」への責任から解放し、つまり私的企業の利潤追求の目的から解放させ、従業員・労働者とともに全体社会の利益のために働かせるというものです。その意味では、企業が国有化されているわけではないので社会主義ではないけれども、企業の所有者としての「資本家」から企業経営の決定権限を取り上げることであり、他方で経営技術者としての「経営者」を公務員に準ずる立場に置くことになります。そのことは、「経営者」をして国家つまり行政官僚の指導に従わせることを意味しています。これが、革新官僚の目指した「革命」、実際には後に見るように財閥大企業の利益を擁護するもののゆえに「疑似革命」だったのです。
当然そのことは行政官僚に大きな権限を与えることになり、こうして行政官僚が「テクノクラート」、すなわち「高度の科学的知識や専門的技術をもって社会組織の管理・運営にたずさわり、意思決定と行政的執行に権力を行使する技術官僚(『広辞苑』)」に変身することになるわけです。そのテクノクラートが独裁的に支配権力を有するファシズムを、テクノファシズムと言います。
しかしすでに軍事経済に入りつつあるわけですから、企業活動の目的を公益・国益に置くべしといっても、その公益・国益とは要するに基本的には軍事です。つまりこの時点での統制経済は、国家の経済活動を国家の指導のもとに軍事目的に向けていくというもので、当然、軍との協力関係が生まれてくるわけです。すでにそれまでの準軍事経済が軍事経済に変質し、軍事インフレ経済のなかで軍需産業の比重が極端に大きくなり、第一次大戦以降に陸軍統制派が追求してきた国家総動員・総力戦体制形成にむけた高度国防国家建設に弾みがついていたのであり、こうして軍と官僚によるテクノファシズム体制へと向かってゆくのです。
ここに国防国家というのは、単に十分な工業生産力があって強力な軍事力を備えているだけではなく、国民全体が軍を支持し、物質的にも政治的にもそして思想的にも一丸(いちがん)となって戦争に協力するような態勢にさせられている国家を言います。端的に全体主義で軍国主義の国家なわけです。日中戦争勃発直前に成立した第一次近衛内閣は、戦争の早期収拾に失敗した1937年8月、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をスローガンとして「国民精神総動員」を訴えたのですが、それはまさしく軍の追求する国防国家建設の重要な部分、精神動員の部分を表していたのです。

◇重化学工業とは何か
ここで軍事にとっての「重化学工業」のもつ重要性について、補足しておきます。
「重工業」というのは鉄を作ったり、機械や船を作ったりする工業、もちろん大砲を作ったり戦車を作ったりもそうです。だから常識的に見て当然、軍事にとってきわめて重要なわけです。他方、「化学工業」は、当時の中心は電気化学工業です。それもまた軍にとって、重工業におとらずきわめて重要だったのです。
電気化学工業の有名な例は、第一次大戦の直前にドイツのハーバーとボッシュが空気中の、空気の8割は窒素ですが、空気中の窒素を固定する技術を開発したことです。これは革命的なことだったのです。というのもそれまで窒素はチリだけで採れる硝石からしか作られなかったからです。窒素は何に使われるかというと、植物に必要なのは窒素、リン酸、カリと昔教えられたように、窒素は肥料の重要な原料なのです。それだけでなく、窒素は英語で言うとニトロゲン、ということはニトログリセリンの語源で、窒素は爆薬の原料でもあるのです。だから電力さえあれば窒素が空気からいくらでも作りうるということは、食料と弾薬がいくらでも入手できるということで、外国からの輸入が途絶えた状態で長期に戦争を続けるにあたって決定的なのです。ハーバーとボッシュが第一次世界大戦直前に空中窒素の固定技術を開発したので、ドイツの皇帝がこれでドイツも戦争ができる国になったと喜んだといわれています。
当時の軍事にとって重要な化学工業はそれだけでなく、人工染料を作る工業やアルミニウムなんかの軽金属を電解精錬で作る工業もそうです。というのも、染料工場はそのまま毒ガス工場に転用できるのです。そして軽くて硬いアルミニウムは戦争のために、つまり飛行機を作るために絶対必要なのです。鉄では飛行機は作れませんから。このように電気化学工業というのは、戦争にとっていろいろな意味で、ものすごく重要なのですね。とりわけ「資源小国」日本においては、その重要性は切実だったのです。
そのことはまた、電力そのものが、今後の戦争にとって決定的に重要であるということをも意味しています。
日本の化学工業は、とくに大規模な電気化学工業は、第一次世界大戦の直前ぐらいから始まり、大戦後、特に軍による育成政策に支えられて大きくなっていったのです。

◇植民地の工業化と日本企業
その電気化学工業の日本での草分けは、東大の工学部を出た野口遵という技術者です。野口は、今では水俣病で知られている水俣の現在のチッソの前身、日本窒素肥料株式会社(以下「日窒」)を創った人物です。元々はカーバイドの生産から始まって、硫安で大儲けして、それは電気を食うので、朝鮮半島での電力開発で企業の拡大を図ったわけです。朝鮮と満洲の国境を流れる鴨緑江の水を使った水力発電をやったのが日窒の子会社の朝鮮窒素肥料株式会社。1918年の日本の米騒動の後、日本政府主導の朝鮮での産米増殖計画にのって野口は硫安を生産しつづけて大儲けし、北朝鮮に電気化学工業の大コンビナート建設に乗り出したのです。もちろん先ほど言った電気化学工業の軍事的重要性を見越してのことで、戦時にはただちに巨大軍需生産基地に転換可能ゆえ、当然、軍からは大きな支援を得ていたと思われます。植民地朝鮮を支配していた総督府は天皇直属で行政に絶対的な力を有していたから、その後ろ盾さえあれば朝鮮ではほとんど何でもできたのですよね。相当無理なことでもできる。それでわずか10年ぐらいで北朝鮮の興南(フンナム)に、電気化学工業のほとんどあらゆるものを網羅した大コンビナートを造り上げたのです。
それでさらに「満洲国」の産業開発五ヶ年計画のための電力を作るということで、朝鮮総督府と「満洲国」の公認のもとで、鴨緑江の満州側にも、その当時世界最大規模の水豊(スプン)ダムと豊満(フォンマン)ダムの発電所を造ったのです。その現実についてはレジュメの4枚目にちょっと書いておきました。アーロン・モーアというアメリカ人研究者の書いた文章です。すさまじいので読んでみます。

豊満ダムは国(満洲国)の五ヶ年計画の一部として最優先の位置づけであったため、事業のスケジュールを保つために労働者は猛烈に働かされた。例えば冬の短い期間に、川の大部分を閉鎖させるため労働者は摂氏マイナス40度の中を昼夜働かされた。彼らは砂利、砂、石を得るため凍った地面を1メートルから2メートル掘り、それを凍った川の上に移送し、そこで1メートルの氷を破砕し、その下を徐々に埋め立てていった。この作業のために1日当たり1万人の労働者が必要とされた。技師は、この方法が安価で材料を節約すると主張していたが、3日におよそ1人の割合で死者が出たことを報告している。(『「大東亜」を建設する』p.236)

労働者はほとんど中国人ですけども、人間扱いされていません。戦後の中国の調査で、この二つのダム作るのに数千人が死んだと言われています。事故死だけではなく、飯場の居住条件が劣悪で、伝染病が頻発し、それでも多くの労働者が死亡したのです。
そういうふうにして、日窒は日本のトップクラスの化学工業に成長したわけです。朝鮮に造ったコンビナートは敗戦で全部放棄されたけども、日本に帰ってきて「日本一の化学工業」という名声で戦後再出発できたのです。
それともうひとつつけ加えておくと、あまり書かれていないことだけど、満洲それから朝鮮は、間組とか西松建設とか鹿島建設とかの日本の土建会社の天国だったのです。なぜかかというと、ほとんど道路も橋も何もないところに日本の支配下で新しい道路をどんどん造り、鉄道も広げていったからですく。何のためかって、もちろんソ連と国境を接している満洲各地にむけて日本から朝鮮半島を経由して軍隊と軍事物資を迅速に動かせるようにするためです。朝鮮の鉄道線路を作ったのも全部日本の土建会社です。労働賃金が牛馬より安いと言われた現地の労働者を使って、日本の土建会社は儲けていたのですね。戦後の土建国家日本の原型が満洲や植民地朝鮮で作られていたのです。

◇国家総動員・総力戦体制
それで、軍が第一次大戦以来追求してきた国家総動員を法的に定礎したのが、1938年に近衛内閣の時に第七三帝国議会で制定された「国家総動員法」と「電力管理法」だったのです。中心になって法案を起草したのは企画院の親軍的な革新官僚です。
電力管理法は、特殊会社として事実上国営の日本発送電株式会社(以下「日発」)を創設し、五大電力会社を含む八百を超える大小さまざまな規模の現存する電力会社から、発電と送電の施設を個々の電力会社の所有のままその日発に供出させ、日本全体の発送電をその日発が担うというもので、事実上の電力の中央集権的国家管理です。その意味で、資本と経営の分離、そして経営権限の個別企業から剥奪と国家全体のための経営という、革新官僚が描いた「疑似革命」は、電力産業では貫徹されたのです。
もちろん、個々の電力企業は相当厳しく抵抗し、議会でも相当の議論があったのですが、電力が経済界全体にとって持つ重要性のゆえに、財界は個別資本の立場を超えて総資本の立場からこの電力管理法に同意したのでしょう。
他方、国家総動員法について言うと、要するに経済活動に絶対的に必要とされる項目としての資金、物資、労働力から、軍と戦争にとって必要であると国が指定したものは、国が取り上げて自由に使うことができるようにする法律で、そのさい何が必要なものかということは、勅令つまり議会に諮ることなく天皇の命令で決めるというものです。
結局この二つの法律でもって、資金(カネ)と物資(モノ)と労働力(ヒト)、そして電力(エネルギー)という国家の経済活動に必要なすべての要素を、議会も何も無視して国が、つまり軍と官僚が自由にできるようになったのです。事実上の全権委任法です。
実際、国家総動員法にもとづいて、たとえば「国民徴用令」が勅令として制定されています。「徴兵」というのは国民一人一人に国が決めた期間、国が決めた戦場に兵士として行かせることですが、同様に「徴用」とは国が決めた期間、国が決めた職場で働かせることを言います。国民の職業選択の自由はなくなったのです。この徴用令はのちに植民地にも適用され、それが現在も問題となっている韓国の徴用工問題の発端なのです。
この二つの法律は、第一に国家による経済統制の目的を明確に軍事に設定し、第二に統制の範囲を経済活動のすべての要素に拡大し、第三位そのために国家官僚の権限を圧倒的に強化させ、第四にその統制経済を暫定的なものではなく体制として恒常化させたのです。
こうして軍と官僚にほとんど絶対的な権力が与えられたことになります。同じ年の11月に近衛内閣は「東亜新秩序」建設の声明を発します。日満支を一体として日本の自給圏にするという、のちの大東亜共栄圏につらなる侵略主義の宣言です。この近衛内閣におけるこの二つの法律の制定と対外侵略の声明が、丸山が「上からの」といった日本のファシズム体制成立のメルクマールと考えられます。すなわち、軍と革新官僚主導で国家総動員法と電力管理法が制定されたことによって、ファシズム体制が成立したのです。丸山自身はファシズム支配における国家総動員法や電力管理法の重要性に気付いていませんが。

◇軍事経済下の経済界
 国家総動員法は1941年3月に大改正され、政府の権限は大幅に強化され、この改正をもってその年9月に「重要産業団体令」が勅令の形で施行されました。そしてこれにもとづいて、東条内閣における商工大臣・岸信介の指導の下、「統制会」という形で統制経済が組織化された歩みを始めます。統制会は鉄鋼だとか造船だとかの「重要産業」ごとのカルテルで、それまでの自由主義的な経済機構を、「公益優先」と「指導者原理」の理念にもとづいて産業ごとに再編成するものです。「指導者原理」とは、合議制とか下からの意見を汲み上げるというのではなく、全権限をもつトップがすべてを決定するという、ドイツ・ナチズムの組織原理を指しています。
 こういう風な官僚指導の統制経済の行き方にたいして、経済界はどう対応したのでしょうか。当然、資本家サイドは、企業の利潤追求を否定するとか、資本家から経営の決定権限を剥奪するとはととんでもないと、初めはものすごく反発していたわけです。だけども、業界ごとの統制会のトップは企業サイドの推薦で決定するという形で折り合いがつき、財閥や大独占企業は国家と手を組んでいきます。統制会というのは、業種ごとに縦割りのカルテルを作り、関連する中小零細は大企業に従属する形でその下に入れられ、ものごとは全部トップダウンで決められるということですが、実際にはトップはほとんど全部大独占企業の社長とか重役が占めているわけで、結局、業種ごとに国と手を組んだ独占大企業が支配する態勢ができたということです。それが戦争中の経済だったわけです。
そもそも軍需生産は大企業にとってものすごい大きなビジネスチャンスなのです。経済学的に堅苦しく言えば、資本主義の基本は、資本を投下して商品を作りそれを市場で販売して資本を増殖させることにあるわけで、その肝は要するに資本の増殖なのです。だから資本の増殖が保証されてさえあれば、市場は関係ありません。まさに軍需生産はそうなのです。通常の市場経済というのは商品を作ったって売れなければパーなんで、売るために努力しなきゃいけないし、作りすぎたら赤字がでる。しかし軍需産業では作ったら作っただけ国が買い上げてくれる。そのうえ戦時経済では、軍需産業には、税制面で優遇されているだけではなく、物資や資金や労働力も優先的に回してくれるわけで、これくらいぼろい商売はないのです。こうして財閥独占企業は、それぞれの統制会のトップに収まり、軍需生産に向かってゆきました。
 現実には、「統制会」自体は、行政の統制業務の代行という公的任務と、私企業の営利主義という内部矛盾を引きずっていたため、戦争経済に進展とともに十分には機能しなくなり、岸信介と商工官僚はそれに代わるシステムの検討を迫られることになります。
こうして1943年、「軍需会社法」による企業の国家管理ということで、財界との合意に達します。つまり、企業ごとに「軍需会社」と指定されると、国の管理と指導のもとに置かれ、国の命ずる軍需生産に集中的に取り組むことを要求されます。その際「軍需会社」は、資材・労働力・資金を優先的に配分されるだけではなく、税制はもとより損失補償や補助金等でも優遇措置を受けることになります。そのため統制会の時代から軍需生産に取り組んでいた財閥独占企業は、軍需会社法以降は率先して「軍需会社」の指定を受け、ひたすら軍需生産に励み、そのことで膨大な利益を上げ資本蓄積を成し遂げていきました。たとえば1934年に三菱造船と三菱重工業が合併して資本金5千5百万円、従業員2万4千人で発足した三菱重工業は、敗戦時、1945年8月、資本金10億円、従業員40万人超のマンモス企業に「成長」していたのです。とくに太平洋戦争に突入してからの儲けは巨大で、44年1月に「軍需会社」に指定されてから45年8月の敗戦までのわずか20か月足らずの間に12もの工場を新設しているのです。
しかしそのことは事態の半面、戦時経済の表面です。
残りの半面、戦時経済の裏側では、国民は「贅沢は敵だ!」「欲しがりません、勝つまでは!」等のスローガンで耐乏生活を強いられ、そのため消費が強力に抑えられ、民需産業・平和産業の市場は極端に狭められていったのです。こうして民需産業・平和産業は最低限を残して、軍需産業への転業・軍需産業の下請けへと転換を迫られ、そうでなければスクラップされてゆき、労働者・従業員も軍需産業に行くように命じられていたのです。経済学者・中村隆英の書には「繊維をはじめ軽工業の設備は戦災よりも戦時中の企業整備――スクラップのために著しく縮小されていた」(『日本経済』p.143)とあります。
結果を人口構成の変動で示しますと、1932年から44年までの間に、第一次産業(農林水産業)は約100万人減、第三次産業(商業・サービス業他)では約170万人減、他方、製造業では金属・機械・化学工業つまり重化学工業の全体は約470万人増、繊維をはじめとする製造業の他の分野(軽工業)では約120万人減、労働力の異常ともいうべき重化学工業への集中です(中村『「計画化」と「民主化」』p.17)。
こうして軍事主導の日本の重化学工業化は、第一次大戦終了後よりほぼ四半世紀という短期間で、いびつな形で達成されたのです。

◇丸山ファシズム論批判
結局、「日本ファシズムの第3期」というのは、レジュメに書きましたけども、国家総動員・総力戦体制構築、高度国防国家建設を目的とし、そのためにアジア諸国の侵略植民地化による資源の収奪と、国家主導の統制経済でもって日本の重化学工業化を目指す、その限りで技術的・経済的合理性に導かれた、軍中央と企画院および商工省の官僚そして財閥とによる独占的支配のもとでの国家改造運動の完成なわけです。これが丸山の言っている「ファシズムの完成」なるものの現実なのです。
同様の見方をしておられる方の何人かの名前を書いておきました。山口定の「ファシズムは様々な意味で第一次世界大戦という戦争の落とし子であり …… 国際政治の唯一絶対目標を次の戦争に備えた《国家総動員体制》の確立に置いた運動である」。それから纐纈厚の「筆者はこれらの総力戦体制構築の過程の総体を日本ファシズムと称したい」。これが戦前の日本のファシズムだったのです。戦前には蝋山政道が「真の日本のファシストは《国家機構》による経済統制を企てた行政と軍の官僚である」と正確に指摘しています。
それにたいして丸山は第2期までのファシズム、つまり右翼のテロリズムと青年将校の非合法急進ファシズム運動しか見てないから、日本のファシズムは前近代的で反近代的で反都会的で、農本主義的思想をおびていると語り、だから真のインテリはファシズムを嫌悪し「明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹した」と言っているのです。
だけど、これは現実ではありません。それは、基本的には「戦時下の日本の帝国と言うものが、近代性の未熟さからきているという通説的理解」とルイーズ・ヤングが『総動員帝国』(p.269)で指摘した理解にもとづく判断なのです。実際には日本のファシズム体制の完成は、ジャニス・ミムラの言っているように「総力戦を推進する将校、新興財閥、革新官僚が抱いた技術主義的なヴィジョンと戦略には、新しくて現代的な発想が垣間見られた。彼らの自由主義批判は近代性の拒絶でも、反動的な過去への回帰でもなく、むしろ本質的に現代主義的な行為だった」(『帝国の計画とファシズム』p.58)と理解できます。
つまり丸山真男が「軍部と官僚、財閥との抱き合い体制が強化され〔て〕」到達した「ファシズムの〈完成〉形態」と語ったものは、なるほど天皇制・国体論にもとづく全体主義でもって国民統合をはかり、治安維持法を法的根拠にした上からの特高警察と憲兵隊による、他方で底辺での隣組(部落会・町内会)組織における監視・密告体制による、共産主義者、社会主義者はもちろん、自由主義者、平和主義者、反戦主義者を社会的にも精神的にも肉体的にも徹底的に弾圧し抹殺しようとしたきわめて野蛮な、そのかぎりでは前近代的で非合理的な強権的支配体制でした。しかしそれは事態の半面なのです。
重要なことはその政治支配体制のもとで何がなされていたのか、つまり「軍部と官僚、財閥との抱き合い体制」が何をなしていたのかにあります。現実に行なわれていたのは、国家総動員法と電力管理法にもとづいて国家の資金と労働力と物資と電力つまり経済活動に必要なすべての要素を「合法的に」手中に収めた軍と官僚のテクノクラートと財閥独占資本が、総力戦として対外戦争を貫徹するための戦争経済・軍需生産の拡充を追求していたのです。いずれにせよ、国家経済に明確な目標を設定しそこに向かって官僚が意識的に指導する統制経済では、技術的かつ経済的な合理性・計画性が最大限に追求されていたのです。アーロン・モーアの書には「テクノファシズムとは、技術的な合理性と総合的計画、生産性や効率性についての近代的価値観が、民族的なナショナリズムと右翼的な有機体論のイデオロギーと融合したものである」とはっきり書かれています(前掲書 p.257)。
「ファシズムは反動的方向に於いて近代化を推進した」と言ったのは、ユダヤ人歴史家ワルター・ラカーです(『ファシズム 昨日・今日・明日』p.74)。この点については、米国人研究者アンドリュー・バーシェイの次の指摘は引いておく価値があるでしょう。

正直いって、丸山の分析は二点において欠陥がある。第一、それはテクノクラートの役割を無視している。第二に …… 丸山は「反動的近代主義」を分析しそこなった。そういった分析がなされていれば、「上からのファシズム」という彼の洞察には、そこに多分に欠けていた知的内実が付与されたことであろう。(『近代日本の社会科学』p.262)

そうなのです。問題はファシズムの「前近代性」やその「非合理性」なのではありません。「目的合理性」は、「戦争貫徹」という目的そのものの妥当性・正当性は問わないという根本的な欠陥を有していると同時に、設定した目的にそぐわない部分を、個人であれ企業であれ切り捨て、時に抹殺するのであり、「技術的合理性」もまた、その合理性ゆえに弱者を見棄ててゆく、そのような「近代性」や「現代性」あるいは「合理性」自身が持つ抑圧性であり非人間性にこそ、ファシズム、テクノファシズムの問題があるのです。
そのことを踏まえたうえで、現時点で問題とすべきは、その「近代性」や「合理性」のゆえに、当時の少なからぬ知識人や左翼がテクノファシズムの現実的展開、とりわけその経済政策に好意的に向き合い、ときに共感し、同伴し、協力さえしていたことにあります。そしてこのことについては、丸山は一切語っていません。
ジャニス・ミムラは語っています。

戦後の進歩的知識階級や社会主義政治家が、〔戦前に〕左翼がファシズムと結託しその理念に魅力を感じていたことを認知したがらない事実は、日本の戦争責任をめぐる議論においていまだ十分に追及されていない重要課題であろう。(『帝国の計画とファシズム』p.270)

ともあれ、再生産過程に何等寄与することのない軍需生産を基軸とする経済が、まして大部分の資源を海外の占領地区に頼っている日本では、いくらその犠牲を民衆に押しつけても、長続きするわけはありません。かくして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。戦争経済とファシズム支配の終焉、革新官僚による「疑似革命」の破綻です。

◇戦後の出発点 ―― 戦争経済の遺産
さて、戦後の話に入ります。
アジア太平洋戦争は、最終的にはたしかに日本の経済を破綻させました。しかし戦後の復興、とりわけ経済復興にとっては、人材や組織や人脈においても、そして制度や施設等においても、さらにはモノの見方や考え方においても、残され引き継がれたものは決して少なくはなかったのです。もちろんその影響は、プラスにかぎりません。マイナスのものも多くあります。
戦争が終わって軍は解体させられたけれども、官僚機構は事実上残されていたのです。戦時下のテクノファシズムの中心的担い手の商工省と企画院、のちの軍需省は、その過程で極めて大きな権限=権力を獲得していったのですが、その権限が戦後は通商産業省(通産省)そして経済産業省(経産省)にひき継がれていたのです。現在も行政の権限があれだけ強いというのは、戦前の遺産なのです。それをプラスと見るかマイナスと見るかは、立場によるでしょう。
敗戦直後からの経済復興は、レジュメの5枚目に書いておきましたけど、ひとつには1945年~51年の、ともに米国の軍事費から支出されている総計18憶ドルのガリオア基金(占領地救済基金)、エロア基金(占領地域経済復興基金)、そしていまひとつには1946年に閣議決定された、官庁の指導により石炭そして鉄鋼生産を重点的に進めるという傾斜生産方式として始まっています。この傾斜生産のやり方は戦前の統制経済の文字通りの延長です。そのことは戦争中に統制経済を指導した学者や官僚たち、テクノクラートたちが、戦後も支配的な地位にいたことを示しています。だから戦後の日本が、すべてが失われた焼け野原から立ち上がったというのは現実ではありません。大体からして、軍事経済の中で三菱とかそういう財閥独占企業が蓄積した膨大な生産設備の多くは残っていたのですよ。実際、経済学史の書には「戦争中に急速に進められた重化学工業化が、戦後産業の基調となった。重化学工業では、一般に残存した生産設備が1937年当時よりも多かった」(中村隆英『「計画化」と「民主化」』p.36)とあります。
他方で、軍国日本の解体と日本の民主化として始まったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)―― 実質米国 ―― の占領当初の対日政策は、1949年の中国における共産党政権の成立と50年の朝鮮戦争の勃発によって米国が即冷戦体制に入ったことで、方針がガラッと変わって、日本をアジアにおける対共産圏前進基地の役割を負わせる方向に急転換しました。そのため、それまで賠償としてアジアの諸国に引き渡されるためにGHQが差し押さえていた軍需産業設備そして重工業の生産施設はもとの企業に返還され、日本は米軍にとって朝鮮戦争の兵站基地とされたのです。1950年から3年半にわたる朝鮮戦争の特需で日本の企業には30億ドル入っています。この朝鮮特需は日本の資本主義にとっての「天佑」でした。こうして日本の資本主義は息を吹き返したのです。戦時下の酷使で老朽化していた日本企業の生産施設は更新され、その後の発展の足場を構築することになりました。実際、たとえばトヨタ、日産、いすずは、戦時下で国防を目的とした自動車製造事業法の恩恵をうけて育まれた企業ですが、米軍特需によるトラックの発注がこの三社を蘇らせ、その後の日本の自動車産業の発展をもたらすことになったのです。
それで1952年にサンフランシスコ条約で、沖縄や小笠原その他を除いて日本は独立し、55年からぐらいから日本の高度成長が始まります。そうすると、戦後日本は平和日本として再出発を始め、平和主義に徹することで高度成長を成し遂げたというのは、言葉通りには受け取れないことがわかります。実際には沖縄がアメリカの軍事政権の支配下にあって、そのため日本本土は経済に専心することができたのであり、朝鮮半島では大国である米国と中国も加わって南北に分れて戦争をしていたおかげで、日本はボロ儲けして高度成長への足掛かりを得ることができたのです。

◇賠償は「戦後版植民地政策」
日本の支配層にとって、「政治的独立」につづく重要課題は当然「経済的自立」です。サンフランシスコ条約で「政治的独立」をはたした吉田内閣の後の鳩山内閣は、1955年、重化学工業化を目的とした「経済自立五ヶ年計画」を閣議決定します。この時期、国内民衆の購買力がいまだ脆弱な状態での経済成長にむけての日本経済のあらたなる展開は、「賠償」という形での東南アジア地域への再進出だったのです。
戦前、日本経済において重要な位置を占めていた満洲、台湾を含む中国や朝鮮を帝国の敗戦によって「喪失」した状態では、これに代る商品市場と原料資源供給地の確保が日本の資本主義には求められていたのであり、それぞれ独立を果たしていた東南アジア諸国が重要視されるに至っていたのです。日本の資本主義が復活するにはアジアの諸国との経済関係が構築されなければならない、というのが日本の資本主義発展の絶対的条件だったのです。
しかしそれらの諸国は、アジア太平洋戦争の過程で日本の軍隊が蹂躙した地域であり、それからまだ何年も経ていない50年代には、もちろん反感もあれば疑惑や警戒心も強く、そこで考えられたのが「賠償」を名目としての「進出」なのです。
レジュメに「賠償」についての当時の通産省官僚の見解を書いておきました。

東南アジアの新興諸国は経済協力の観点から見れば最も魅力に富む処女地である。しかしこの処女地には、排外的ナショナリズムや日本の侵略に対する疑惑の念などという強風が吹きすさんでいる。その中に安全に乗り込むためには賠償という大義名分と結びつけるより以上の良策はないではないか。(太字強調は山本による)

こんな風に露骨に言っているのです。これは1957年ですけど、すでに54年に当時の首相で反共主義者の吉田茂が、「賠償は一種の投資である。賠償において東南アジア経済開発に協力できるならば、共産主義の浸透防止に伴い、一石二鳥の効果がある」とあからさまに語っていました。財界にとっても、政治家にとっても、そして官僚にとっても、戦争中に日本軍が侵攻し占領した国への「賠償」なるものは、「つぐない」ではなく、日本資本主義のアジア再進出の露払いなのでした。
そんなわけで日本のこの賠償支払いは、つねに経済協力や経済開発借款と抱き合わせで実施されたことを特徴としています。その意味での「賠償」を積極的に進めたのは、1957年に成立した岸信介政権です。岸は、戦前、「満洲国」での産業開発五ヶ年計画を指導したことで名を挙げ、帰国後、軍と官僚によるテクノファシズムとしての国内で統制経済を推進しています。そして岸は、東条内閣のもとでの商工大臣として、つまり閣僚の一員として日米開戦の詔勅に署名し、戦後A級戦犯として逮捕されたが、なぜか起訴されることなく放免され、腹心の椎名悦三郎や物資動員計画を指導した大蔵官僚・賀屋興宣とともに政治家に転身し、保守合同下での自由民主党の中枢に収まっていたのです。
その岸が戦後、日本の首相として積極的に進めたこれ等の「賠償」は、端的に「戦後版植民地政策」だったのです。賠償や経済協力としての道路や橋梁やダムや発電所の建設は、主要には日本の資本、日本の企業のその後の活動のためのインフラ建設で、そのことは、復活途上にあった日本の製造業および土建業をおおきく潤すことになったのです。戦前に植民地で稼いでいた建設業者は、戦後もアジアの諸国で「活躍」しているのです。
実際の賠償、あるいは経済協力は、現地にどんな効果をもたらしているのでしょうか。そもそもその相手国の多くは独裁国家、「開発独裁」と言われる国家です。フィリピンのマルコスだって、インドネシアのスカルノ、それからスハルト、そして南ベトナムのゴ・ジン・ジェム、すべて独裁政権です。そして日本からの賠償や開発援助は、なによりもその独裁権力をより強化させることになり、権力者や一部の支配層を潤すことになったでしょう。当然裏金も動いているでしょう。たとえばマルコスなんか、日本とのかかわりで膨大な金を得て、私腹を肥やしています。もちろん関連した日本の商社も儲けているでしょう。このように日本の賠償や援助は、支配層の一部にたいしては、政治的にも経済的にも大きく潤すことになったけれども、一般の大衆には、差しあたっての恩恵はあまりなかったのです。それどころか、被害さえもたらされています。東南アジアの諸国には少数民族が多いんですよ。そういう少数民族の多くは、自然に囲まれて、それまで何世代にもわたって受け継がれてきた生活様式や独自の文化をそれぞれ守っていて、それなりに安定した生活が成り立っていたのですね。ところが、開発援助という名目でダムを作るとか道路を造るとなると、往々にして自然環境が破壊され、それどころか場合によっては立ち退きを迫られたりするわけで、それまでの生活基盤と生活様式が破壊され、時には共同体が崩壊し、都会に出てスラムに住む最底辺の労働者になったりすることもあるわけですよ。
レジュメに書いておきましたけども、中野敏男さんっていう人の『継続する植民主義の思想史』には、戦後のこういうふうなアジアに対する賠償とか開発協力というのは、実際はほとんど戦前の植民地支配の焼き直しであって、日本の資本主義が儲けるための手段なのだということが、くわしく説得的に書かれています。そういうふうにして、日本の資本主義は復活していったわけです。

◇そして高度成長へ
 敗戦で軍は崩壊しましたが、軍と手を組んで戦時統制経済を指導したテクノクラート官僚の人脈と肥大化された権限は戦後も日本の支配層に残されていたのです。軍と手を組んだ財閥大企業もそうです。
三菱重工業は、戦時下でひたすら戦艦と戦闘機を作り続けて、敗戦にいたるまでの十年余りの間に日本最大の軍需産業に成長し、全国に多くの工場・事業場を建設していました。それらの施設で、戦争で破壊されたものももちろんありますが、敗戦時に残されていたものも少なくはなく、技術者も各施設に分散して温存されていました。
戦前1934年に三菱重工業誕生のときの筆頭常務であった郷古潔は、三菱重工を日本の軍需産業の中核に押し上げ、1941年に社長に昇格し、43年には東条内閣の顧問に就任し、敗戦にいたるまで戦艦、軍用機、兵器の生産を指導し続けていました。敗戦後、1945年12月には郷古は戦犯に指名されて逮捕されましたが、はやくも翌46年の4月には釈放され財界への復帰を果たしています。そして朝鮮戦争勃発・軍需産業復活とともに、兵器産業の振興を目的に1951年に創設された兵器生産協力会(のちの日本兵器工業会)の会長におさまり、以後、戦後の軍需産業復興を牽引していったのです。
もちろん戦時下で軍事研究に携わった研究者や技術者はほとんどすべて生存していました。軍事研究に関わっていれば、兵隊にとられることはなかったのです。彼らは戦争責任を問われることなく、大学や企業に復帰してゆきました。戦後生まれのソニーは、戦争中、軍事研究としてのレーダー研究を進めていた海軍技術研究所の人脈より生れました。
戦時下、軍事研究推進のための人材養成を目的として対米戦争勃発の翌年に急遽形成された東大第二工学部は、戦後は生産技術研究所として高度成長を牽引し、そしてその第二工学部で教育を受けて育った技術者たちは、それぞれ、高度成長の重要な戦力となりました。ジャーナリストの手になる1987年の書には書かれています。

対米戦争遂行のために生まれた東大第二工学部は、戦後は一転して〝戦犯学部〟と呼ばれ、廃止の運命を辿らざるを得なかった。その〝戦犯学部〟の出身者たちが、全壊、半壊の工場に散って、技術の再興と新技術開発にチャレンジし、いまや日本技術軍団のリーダーとして、アメリカの企業と食うか食われるかの〝サバイバル戦争〟を戦っているのである。(今岡和彦『東京大学第二工学部』 p.11)

日経連は、1953年に経済的自立を達成するためには「生産に国民の総力を結集し、耐乏生活によって資本を蓄積し、企業の合理化によって対外競争力を強化する」必要があると訴えていたのです(武田晴人『高度成長』p.36)。戦前の国家総動員・総力戦体制構築にむけての軍の訴えにおける「対外戦闘力」を「対外競争力」に置き換えただけではないでしょうか。戦前の全体主義・軍国主義のイデオロギーがそのまま「企業と国家に献身する」産業戦士におき換えられただけと言えます。ここに描かれている「東大第二工学部」卒業生の軌跡は、そのことを印象的に示しています。
戦後日本の復興から高度成長への過程は、戦後版の総力戦だったのです。 アジア太平洋戦争期における、生産力増強を唯一最大の目的とし、そこに向けて大衆を一斉に動員した総力戦体制も、その後の高度成長期にいたって「高度国防国家の形成」にかわる「高度成長・国際競争」をスローガンとする戦後に継承されることになったのです。
「高度成長の象徴」とされる東海道新幹線も、たずさわった技術者の多くが戦時下の軍事研究に従事していたことが知られています。実際、戦争中に軍の研究機関で働いていた技術者・研究者の多くが、戦後、鉄道技術研究所に移籍していたのであり、戦争中の研究成果が新幹線開発に全面的に転用されたのです。そもそも、東海道新幹線計画それ自身が、戦時下の大陸侵攻の為の東京―下関を結ぶ「弾丸列車」計画の継承なのです。JR東海の社長・須田寛の書には「「弾丸列車」計画で着工されたトンネルや買収済用地のほとんどが、新幹線計画で活用され、新幹線の早期完工に大きく寄与することとなった」とあります(『東海道新幹線三〇年』p.16)。軍には逆らえない戦時下ゆえ、軍の計画による用地買収は現在と比較にならないほど容易だったのでしょう。東海道新幹線を戦後20年足らずで完成させることのできた背景です。

◇通産省と高度成長
先に述べたように、官僚機構は、敗戦後、内務省をのぞき事実上温存され、民に対する官の上位ももちろん保たれていました。とくに戦時下の統制経済の過程で大きな力をつけた商工省は、太平洋戦争中は軍需省として絶大な権力を獲得し、敗戦直後には目立たぬよう商工省に戻し、第二次吉田内閣で通商産業省と名を改めて生き延び、戦後版の総力戦つまり戦後の経済復興そして高度成長の過程であらためて大きな力をふるうことになります。その権力行使の一例として、産業公害にたいするかかわりに触れておきます。
先に戦前の日本窒素肥料株式会社の子会社・朝鮮窒素肥料株式会社の1930年代における隆盛を語りましたが、戦後、新日本窒素肥料株式会社(「新日窒」、現チッソ)と改名した同社は、その朝鮮での実績により、1950年代には日本の化学工業の最先端に位置していたのです。アーロン・モーアの書には書かれています。

植民地期朝鮮の興南における巨大化学複合体において獲得された専門知識を利用していた日本窒素肥料株式会社は、戦後日本政府が(プラスチックなどの産業素材が必要とされる)大衆消費社会を創出するために必要な要因に関心を持ち始めた後、日本の重化学工業やその後に国策となる石油化学製品のメーカーとして再登場した。植民地から帰国した重役や技師は新日窒の上層の経営陣に舞い戻り、1950年までに日本の重化学工業における「総本山」として返り咲いた。(前掲書p.313f.)

そのチッソの水俣工場が日本の最悪の公害・水俣病の発生源になったことは、今ではよく知られています。その公害拡大過程で通産省が果たした役割を見ておくのも、戦前からのつながりを見るうえで無駄ではないでしょう。1947年経済安定本部内に設置された資源委員会が49年に「水質汚濁防止に関する勧告」を提言していました。この勧告にもとづいてしかるべく「法律が制定されていれば、水俣病もイタイイタイ病も有効に規制されえた」と言われています。しかし勧告は、その後、工業界や通産省からの強い巻き返しにあい、骨抜きにされてしまったのです(佐藤仁 『持たざる国』の資源論』pp.115,184)。
早くも1953年には、水俣湾周辺の漁村で多数の猫の死が見られ、原因不明の中枢神経系疾患の患者の発生が確認されるようになり、その後、熊本大学の原田正純らの研究班が何年もかけた慎重な調査と研究を踏まえ、原因をチッソからの廃液中の有機水銀と突き止め発表しました。これが1959年です。その年、食品衛生調査会は「水俣病の原因は港周辺の魚介類中の有機水銀」と厚生大臣に答申しています。しかし時の通産大臣・池田勇人が「結論は早計」と反論したことで閣議決定にいたらず、その結果、その後もチッソは有毒廃液を垂れ流しつづけ、60年代をとおして新規患者が爆発的に増えつづけたのです。通産省内部では、チッソの廃液を止めたほうが良いのではというような意見は、「これだけの企業が止まったら、日本の高度成長はありえない」というような声に押しつぶされたと伝えられています(NHK取材班『戦後50年 そのとき日本は Ⅲ』)。
公害が大きな社会問題となった60年代末、水俣病、新潟水俣病、富山イタイイタイ病、そして四日市公害つまり四日市の大気と海洋の汚染が四大公害訴訟として戦われました。
その四日市公害訴訟の被告企業は三菱油化、中部電力そして石原産業です。石原産業は、戦前マレー半島で鉄鉱山を見出して「時局産業」に成り上がった企業で、四日市に君臨し、戦後に通産省がもと海軍工廠跡地にコンビナートを建設するにあたって、航空機のエンジンなどで重要なチタンの国内最大メーカーとして、三菱油化などならんでその一角を占めるにいたったのです。そのチタンの製造にあたって、チタン鉄鉱に含まれる余分な鉄分を除去するために使われる濃硫酸を、石原産業は排水溝から四日市港に直接大量に垂れ流していたのです。「公害Gメン」とよばれた海上保安庁の田尻宗昭が、この件を捜査する過程で通産省に資料の提供を要求した時、通産省は「企業のイメージダウンにつながるようなことには手を貸せない」と言って、拒否したのです(田尻『公害摘発最前線』p.42)。
これらはもちろんほんの一例ですが、これらの例は、戦後の高度成長にいたる過程で、通産省は、その前身である戦前の商工省=軍需省がテクノファシズムの過程で有していた力をなお有していたこと、その立場はつねに工業界と企業サイドにあったことわかります。そして戦時下の商工省が、「高度国防国家」の建設をめざし、総動員体制での軍需生産拡充をただひたすら追求したように、通産省は、「国際競争・高度成長」をスローガンにして、戦後版の総力戦態勢でひたすら生産力の拡大を追求してきたのです。

 ◇電力の国家管理をめぐって
電力国家管理について言うならば、日本帝国の敗北と連合軍による占領で、日本発送電株式会社(日発)による民有国営の電力管理体制は、戦後ひとたびの終焉を迎えることになりました。日本の軍事力の解体と民主化を進めていたGHQは、日発に体現されていた電力の一元的国家管理はもっぱら戦争遂行・軍需産業育成のためのものであったとして、1950(昭和25)年にポツダム政令「電気事業再編成令」の公布でもって電力国家管理は終了させられ、翌51年に日発は解体されました。
しかしエネルギーの中央集権管理を意味する戦時下の電力国家管理は、戦後の電力行政にもそのいくつかが引き継がれることになります。たとえば日発の下にあった九つの配電会社は、戦後に地域完全独占企業としての九電力体制(のちに沖縄をいれて十電力体制)へと引き継がれています。戦前の革新官僚はたしかに電力生産体制を「変革」したのです。そして、戦後、通産省に生まれ変わった商工省は、核開発、原子力発電の推進において、エネルギー一元的管理の権限を取り戻すことになります。戦時下の電力「民有国営」路線は、戦後の通産省そして経産省の核政策・原発推進における「国策民営」の原型なのです。
ちなみに占領下の財閥解体で三分割されていた三菱重工が戦後に復活したのも、原子力発電への取り組みの過程でした。三菱重工業の社史『海に陸にそして宇宙に』には日本の原子力開発の取り組みの始まった頃について書かれています。

このころは〔分割された〕三菱三重工時代で、三社がいずれも原子力開発利用の研究に着手しており ……  原子力関係の機器の開発、設計、製作に取り組んでいた。/こうして、電力会社による商業用原子力発電所の導入計画が進められていた時期に三重工合併が行われ、…… 本格的な原子力プラントへの取り組みを開始した。(p.608)

 通産省・経産省による日本の原子力開発の第一の目的は、原子力産業の育成にあると見られていますが(拙著『核燃料サイクルという迷宮』 p.127f.)、それは戦前の商工省による軍需産業育成の再現なのです。こうして戦争中に軍需産業として成長した日立・東芝・三菱が戦後に日本原子力産業のビッグ・スリーとして確立されてゆきました。一国に世界的企業としての原子力企業が三社もあるのは日本だけです。日本は原発大国なのです。
    *      *
これまで日本のファシズム批判は、戦前期日本ファシズムの治安維持法にもとづく野蛮な政治支配や、建国神話や国体論を軸としたイデオロギーにまつわる前近代性と時代錯誤、そして反近代的で権威主義的な精神主義を主要に問題とし、弾劾してきました。しかし、テクノクラート官僚が力をもつテクノファシズムとしての日本ファシズムのもつ今一つのそして中心的な側面、すなわち国家総動員・総力戦体制構築による高度国防国家の建設を目的とする統制経済については、その技術的合理性や経済的合理性のゆえに、戦前、左翼も含めた多くの知識人は、むしろ日本社会に残存する前近代性を克服するものとして、好意的に受け取り、共感し、積極的に協力さえしてきたのです。
結局、国家による日本の重化学工業化と生産力拡充にむけた経済政策と、それをつらぬく科学技術の絶対視は、ほぼ無条件に肯定されていたのであり、たとえ全体主義・中央集権主義や軍事優先思想と結びついてものであれ、批判の対象とはされなかったのです。
敗戦で軍が解体されて後も、官僚機構はほぼ無傷で残され、戦時経済においてひたすら工業生産力の強化とりわけ軍需産業の拡大を目指してきた戦前の商工省=軍需省の生まれかわりとしての戦後の通商産業省=経済産業省は、戦後の復興から高度成長にいたるまで、戦後版総力戦としてただひたすら国際競争の勝利と経済成長をめざし、同様に科学技術の絶対視にのっとって生産力の拡大を追求し、原子力開発をも領導してきたのです。
その背後にあるのは、結局のところ、科学技術の発展と成長経済の持続がすべてを解決するであろうという期待、より正確には幻想だと思われます。それは、ひとたび日本を破滅に導いた戦前のテクノファシズム思想の戦後的継承と言えるでしょう。
これまで三度ほど触れたアーロン・モーアの2013年の前掲書は、末尾に語っています。

戦時期に淵源を持つ技術と結びついた非民主的遺産を理解し向き合うことは日本の二一世紀の困難を乗り越えるうえで大きな可能性をもたらすであろう。慢性的な不景気や原子力に過度に依存した危険なエネルギー政策、継続する支配的かつ強固な官僚制度、真の意味での地域の能力を養成することに失敗した海外での開発援助などの諸問題の根源は、日本という国家とそこに連なる者たちが長期間にわたる発展途上国の貧困解決策は技術であると訴え取り組み続けたことにあるのだから。(p.317)

問題は、戦後の高度成長期まで持ち越されてきたのです。地方を犠牲にして中央集権的に進められた戦後成長戦略に対する批判が、科学技術そのものにたいする批判として問われたのは、ようやく1960年代末期です。そして2011年の東京電力福島第一原発の事故で、あらためて決定的に問い直されることになったのです。
                                                                       
後記
 以上は、2025年10月5日の集会『敗戦80年、何が変わったか?』(10.8山﨑博昭プロジェクト主催、於ける大田区萩中集会所)で小生がおこなった1時間余りの講演「テクノファシズムと高度成長  戦後80年を顧みて」をあとから整理したものです。
講演そのものは、やや準備不足であったのと、時間的制約があって若干焦ったり尻切れトンボになったりで、まとまりが悪く、またかなり聞き苦しく分かりにくかったのではないかと思われるので、文書化にあたってかなり訂正し加筆しました。なお人名については、すべて敬称を略させていただきました。ご了解ください。
小生の聞き苦しい講演の音声記録から正確に文書記録に起こしてくださった山中健史氏に厚く御礼申し上げます。  
          2025年11月22日    山本義隆

【敗戦80年にあたって 「テクノファシズムと高度成長」 レジュメ】 
   2025‐10-5  YY
◆ 丸山ファシズム論 「ファシズムはなんら一つの新しい社会体制ではなくまたそれをめざすものではない。…… そこにある唯一の目標を求めれば反革命ということだけである。」「現代社会の矛盾から発生した社会主義や共産主義にたいするヒステリックな痙攣的反応というべきもの」で、「《革命》でも《新体制》でもない。」 ファシズムは「積極的な目標や一般的な政策がない。」
   そして丸山は日本ファシズムの思想に「反近代的で農本主義的思想の優位」を認め、その非合理性ゆえにインテリは「明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹」したと語っている。

◆ 丸山のファシズム運動論
第一期:大正デモクラシー下で労働争議や小作争議が高揚した状況を背景に、日本の赤化に対向する運動として、北一輝・大川周明らの猶存社など民間の国粋主義的右翼の台頭。
第二期:民間右翼と軍下級将校の結びつきによる「下からの急進ファシズム運動」。31年の三月事件、32年の血盟団のテロリズムに始まる一連のクーデター未遂や政府・財閥の要人に対するテロリズムを経て、下級青年将校たちによる36年の2・26武装クーデターに到るまでの一連の非合法運動。急進ファシズム運動は2.26クーデターの破綻により潰える。
第三期:敗戦まで。「急進ファシズムの弾圧の後いくばくもなくして、軍部、官僚、財閥の抱合い体制が強化され、定石どおりのファシズムの《完成》形態へと進んで行きます」(丸山)
◆ 疑問「目標や政策のない運動」の「定石どおりの《完成》形態」とは理解不可能。
● 丸山の言う「第二期」と「第三期」の現実
「第二期」「急進ファシズム運動」軍下級将校の非合法運動
「一君万民」の国家である日本に於て、世界恐慌がもたらした日本社会とりわけ農村の窮状を天皇が知ったならば、天皇は国民を見棄てるはずはない。天皇の目をふさぎ、判断を曇らせている取り巻きの特権階級やブルジョア政党や財閥――「君側の奸」――を実力で「せん除」し、天皇親政の樹立でもって維新は達成され、国民は救われるという、幻想の革命運動。
「第三期」の「上からの運動」
国家総動員・総力戦体制構築=高度国防国家建設を目的とし、そのためアジア諸国の侵略・植民地化による資源の収奪と国家主導の統制経済でもって日本の重化学工業化を目指す、経済合理性に貫かれた、軍中央と企画院および商工省官僚そして財閥独占資本による国家改造運動。

すなわち、その二つの運動は、一時期、未分化のままに共存していたことはあるにせよ、単に「下から」と「上から」の担い手の違いや非合法と合法の方法論・戦術論の相違だけではなく、戦略と目的自体が決定的に異なる別箇の運動と見るべきもの。日本ファシズムの真の起源は、丸山たちの言うように、大正デモクラシー期の日本社会の「自由主義化」傾向、「民主主義化」傾向、さらには「赤化」傾向にたいする単なる「アンチ」すなわち「反動」といったものでは決してない。
ファシズムに向かう真の運動は、第一次大戦が与えた総力戦の衝撃に起因し、総力戦体制の形成、高度国防国家の建設という明確な目的をもった、軍首脳部(軍「統制派」)と国家官僚(「革新官僚」)、そして財閥独占資本による国内的には国家総動員・重化学工業化による国家改造運動、対外的にはアジア諸国の侵略・植民地化による資源の収奪そして経済ブロックの建設であった。
◆ 丸山理論の問題点 外国人研究者の視点
● 振り返ってみると、丸山のファシズム分析からは、帝国日本後期に動員されたインテリゲンチャが演じた社会的政治的役割についての考察がいっさい排除されている。そのかぎりで体系としての不備があるし、自己批判も十分ではない。(A.E.バーシェイ『近代日本の社会科学』 p.262)
● 戦後の進歩的知識階級や社会主義政治家が、左翼がファシズムと結託しその理念に魅力を感じていたことを認知したがらない事実は、日本の戦争責任や戦争記憶をめぐる議論において未だ十分に追究されていない重要課題であろう。(J.ミムラ『帝国の計画とファシズム』 p.270)

◆ 日本の植民地支配と国家総動員・総力戦体制確立への道
1896年、日清戦争で台湾領有。1910年、日韓併合。1918年、第一次大戦で南洋諸島事実上領有。
1918(大7)年 総力戦としての第一次大戦の衝撃 軍需工業動員法 国家総動員への第一歩
1926(昭1)年 陸軍省整備局 国家総動員体制構築の準備のため陸軍省に整備局を設置
1927(昭2)年 資源局 内閣総理大臣直属の国家総動員機関 企画院の前身
1931(昭6)年 重要産業統制法 当初は恐慌脱出策、国家の経済全体の合理化という意味での産業合理化。自由競争を基本とする資本主義経済過程への岸信介、椎名悦三郎ら商工省官僚による国家の介入の第一歩。その後、満州事変後の準戦時体制で、統制経済は準戦時経済としての生産増強を目的とするものへと変質。すなわち物資動員計画および生産力拡充計画として進められる国家主導の統制経済へと変貌。軍事インフレ財政のもとでの重化学工業化の開始。
1932年「満州国」捏造。憲法も議会もなく軍(関東軍)と日本人官僚による純粋独裁「国家」。
「満洲産業開発五ヶ年計画」は、軍と官僚による日本本国でのテクノファシズムの先行的実験。
1937年 日中戦争勃発 資源局が企画庁と合併して統制経済立案遂行機関「企画院」誕生。
企画院のテクノクラート官僚が軍の協力のもとで、国家総動員法、電力管理法立案。
1937年 第72帝国議会 輸出入品臨時措置法、臨時資金調整法。
1938年 第一次近衛内閣、第73帝国議会 国家総動員法、電力管理法 戦時経済へ。

以上の四法案 ―― 実際には臨時二法案を包摂する国家総動員法と電力管理法の二法案 ―― で、労働力(ヒト)と資金(カネ)と物資(モノ)と電力(エネルギー)のすべて、すなわち経済活動と戦争遂行に必要なすべての要素が国家 ―― 軍と中央官庁 ―― の管理と統制の下に置かれ、総動員体制にむけた経済政策 ――「戦時統制経済」―― のための法的基礎が完成。

◆ 国家総動員法 ナチス・ドイツの「全権委任法」に匹敵。ファシズム体制確立のメルクマール
「第一条」「戦時に際し国防目的達成の為、国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及物的資源を統制運用する。」
「第二条」「総動員物資」軍用物資はもちろんあらゆる関連物資、さらに「勅令を以て指定する国家総動員上必要なる物資」という事実上無規定の規定
「第三条」「総動員業務」、総動員物資の生産等に関する業務のほか、ほとんどあらゆる業務、さらに「勅令を以て指定する国家総動員上必要なる業務」。
「第四条」「政府は、時に際し国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所に依り、帝国臣民を徴用して総動員業務に従事せしむることを得。」
国家総動員法は、有形・無形を問わず物的・人的を問わずすべての資源を、さらには国民のすべての活動とすべての機能を、国家が一元的に管理・統制するためのものである。人間の労働力・知力・精神力・想像力等がすべて、武器弾薬やその他の物質と同レベルの「資源」として扱われ、しかも企業の生産活動から民衆の消費生活にいたるまでが、社会を構成するのに必要とされるすべての物資と業務と活動をあわせて、戦争にむけての動員の対象とされているのである。

◆ 国家総動員法と電力管理法の成立をもって、日本のファシズムの国内体制が確立。
「昭和12年6月の第73議会において成立した電力国家管理案と国家総動員法は、日本における戦争国家体制の完成的段階に到達したことを示すものである」「革新官僚の描く国防国家体制の建設にとって、この二つの法律の成立は必要不可欠の拠点を与えたものであった」(橋川文三)。
そして総力戦(長期消耗戦)に耐えうるように日本の経済機構を改革し、戦時統制経済を実行する、すなわち日本および日本の支配地(植民地)のすべての資金と物資と労働力と経済機能を管理・統制するためには、相当数の有能なテクノクラート官僚の組織的で目的意識的な活動を必要とする。
山政道「真の日本のファシストは〈国家機構〉による経済統制を企てた行政と軍部の官僚である」1937
小林英夫 総力戦体制「国家の総力を挙げて世界再分割戦に勝利することを保障する体制」2004
纐纈 厚「著者はこれらの総力戦体制構築の過程の総体を日本ファシズムと称したい」2010
山口 定「ファシズムはさまざまな意味で第一次世界大戦という戦争の落とし子であり、…… 国際政治の唯一絶対目標を次の戦争に備えた《国家総動員体制》の確立においた運動である」1979

◆ テクノファシズム 政党政治が崩壊したあとの軍と官僚機構による政治と経済の支配
 1930 年代後半の日本のファシズムは、「巨大な軍事機構、行政機構を統轄するエリート将校、官僚を中心とするテクノクラート・ファシズム」である。(大藪『日本のファシズム』)。
「革新官僚は急進的で権威主義的なテクノクラシーを推し進めた。本書ではこの体制を《テクノファシズム》と称する」「テクノファシズムは〈全体主義〉国家が軍と官僚による政策立案機関と融合し、テクノクラートの制御下におかれる新たな権威主義的統治を体現した」(ミムラ)
日本のファシズムは、度重なる恐慌に示された資本主義の行き詰り、自由競争経済に代るものとしての、米国におけるニューディール政策、ソ連の一国社会主義・工業化政策としての計画経済にならぶ、第三の途としての戦時統制経済を追求するものであった。それは、資本と経営の分離、つまり民有国営を原則としているがゆえに、企業国有化にもとづく社会主義経済とは区別されるものであるが、自由競争と市場経済にもとづく資本主義経済を全体主義的計画経済に大きく改造しようとした「疑似革命」であった。しかし結局、軍需生産中心の戦時経済は財閥大企業に頼らざるを得ず、他方で大企業も資金・物資・労働力・電力が最優先される軍需生産に有効な資本蓄積の途、つまり大きなビジネスチャンスを見出し、軍・官僚・大企業の一体となって進められることになった。

◆ 戦時統制経済 経済新体制 平和産業・民需産業を犠牲にしての、軍と商工省官僚と財閥独占企業による軍需生産体制。高度国防国家建設を目的とするとくに日中戦争以降の軍需経済としての工業化政策により、四半世紀で、奇形的な重化学工業化を達成。1932年より敗戦まで、第一次産業100万人減、製造業 金属・機械・化学工業 467万人増、繊維・雑貨其の他 121万人減。
◆ 統制経済の思想 
奥村喜和男(電力国家管理にむけて、中心となって論陣をはった、逓信省官僚)
「行詰まりを約束された資本家自由主義の変革刷新、高度国防の再強化は、如何なる原理と体制に依ってこれを実現すべきであろうか。我々は此処で明確に、我々の指導原理と理想的社会体制を表示せねばならぬ。曰く、個人主義に代はる全体主義である。」(『日本政治の革新』1938)
企画院官僚
「自由主義国家観は国家の基礎を個人に置いて、個人の集まり、その結合関係に国家の本質を求めている。……しかるに国防国家においては、かような国家観は否定され、個人の生命も財産も営業も、すべて国家目的に奉仕すべきものであると解釈し、国家は国家として個人のあらゆる生活部面を指導し干渉しうる全体主義国家観に基づいている。」(『国防国家の綱領 1941』)

◆ 海外侵略と植民地主義 植民地の工業化
 満州事変・「満州国」捏造 → 近衛内閣「東亜新秩序の形成」日満支経済ブロック形成 → 
東条英機・松岡洋右「大東亜共栄圏」 基本は資源(石炭、石油、鉄鋼、錫、ゴム等)の収奪
「日本が戦前自己の植民地において重工業開発政策をとったことは、世界史的に見てきわめて特異なことであった。」(堀和生) 仮想敵国ソ連に対する満洲の軍事基地化、その兵站基地としての朝鮮。
 野口遵と久保田豊の朝鮮窒素株式会社による鴨緑江支流の電源開発とそれによる興南化学工業コンビナートの建設。「満州国」の鴨緑江開発、水豊、豊南ダム建設。戦後の土建国家日本の前身。
  水豊ダム:水没戸数約1万5千戸、水没地住民約7万人 
  豊満ダム:水没戸数約8千4百戸 多くはほぼ強制的に移住させられた
  労働者:ともに過酷な作業で工事中の事故のほかに、劣悪な居住条件で伝染病蔓延し多数死亡。 
「豊満ダムは国〔「満州国」〕の五ヶ年計画の一部として最優先の位置づけであったため、事業のスケジュールを保つため労働者は猛烈に働かされた。たとえば冬の短い期間に、川の大部分を閉鎖させるため労働者は摂氏マイナス40度のなかを昼夜働かされた。彼らは砂利、砂、石を得るため凍った地面を1メートルから2メートル堀り、それを凍った川のうえに移送し、そこで1メートルの氷を破砕し、その下を徐々に埋め立てた。この作業のために一日当たり一万人の労働者が必要とされた。技師は、この方法が安価で材料を節約すると主張していたが、三日におよそひとりの割合で死者が出たことを報告している。」(A.S.モーア『「大東亜」を建設する』 p.236)

◆ 戦前日本のファシズムは、対外的には、朝鮮・台湾・満洲の植民地支配と東アジア諸国への軍事侵略としてあり。それは基本的には、重化学工業化=高度国防国家建設のための鉄・石炭・石油その他の資源の収奪、資本と商品の市場としての植民地経営、さらに対ソ連のための軍事基地化・重化学工業基地の建設を目的とした。アジア諸国の侵略と支配を正当化するイデオロギーは、欧米列強にたいしては「持たざる国」としての生存権の主張、そしてアジアの諸国にたいしては、「文明化」と「未開」という差別化された認識構造であり、さらに萬世一系の天皇を抱く神国日本は東亜の盟主たるべしという、神話的世界像による日本の優越思想である。
国内的には、国家総動員法・電力管理法にもとづく統制経済と電力国家管理によって、民需産業を犠牲にして重化学工業化・軍需産業拡大を追求したのであり、目的意識的・経済合理的に追求された国家改造計画としての軍と官僚の全体主義的な独裁的支配によるテノファシズムであった。
◆1945年8月、ポツダム宣言受諾 9月降伏文書調印
● 戦後の出発点=戦争経済の遺産 
敗戦で軍は解体されたが、官僚機構は、内務省を除き事実上温存され、民間に対する官の上位も保たれていた。産業施設もその多くは残されていた。
もちろん戦時下で軍事研究に携わった研究者や技術者はほとんどすべて生存していて、責任を問われることなく、大学や企業に復帰した。
 「戦争中に積み重ねられた多くの事実が、戦後経済の出発点になった ……。1920年から始まり、戦争中に急速に進められた重化学工業化が戦後産業の基調となった。重化学工業では、一般に残存した生産設備が1937年当時よりも多かった。これ等の工場には、戦時中に養成された技術者と熟練工とが残されていて、…… 輸出機械〔の生産〕に転換していった。」中村隆英
例1 戦後生まれのソニーは、レーダー研究を進めていた海軍技術研究所の人脈より生まれた。
例2 戦時下で軍事研究推進のために形成された東大第二工学部の講座は、戦後は生産技術研究所として高度成長を牽引し、第二工学部で育てられた技術者は、高度成長の重要な戦力となった。
例3 東海道新幹線は、戦時下の大陸侵攻の為の東京―下関を結ぶ弾丸列車計画の継続焼直し。
      計画を推進した鉄道技術研究所は,軍所属の研究所からの転身者を吸収して拡充していた。
例4 朝鮮での実績により、日本窒素(現チッソ)は戦後化学工業のトップランクに位置された。

◆ 戦後の復興過程
●1945~51ガリオア基金(占領地救済基金)、エロア基金(占領地域経済復興基金)。
総計18億ドル。ともに米国の軍事費から支出されている。
●1946~ 有沢広已らによる傾斜生産方式(1946年閣議決定)、戦前戦中の統制経済の延長。
●1950~53 朝鮮戦争、朝鮮特需 約30億ドル。日本資本主義への「天佑」。
●1952年 サンフランシスコ条約 沖縄他南西諸島・小笠原を除き日本独立。
●1955年 重化学工業化を目的とした「経済自立五ヶ年計画」閣議決定。戦後賠償の開始。

◆ 戦争中の占領国への賠償 つぐないではなく、日本資本主義の海外への再出発のためのもの
「東南アジアの新興諸国は経済協力の観点から見れば最も魅力に富む処女地である。しかしこの処女地には排外的ナショナリズムや日本の侵略に対する疑惑の念などという強風が吹きすさんでいる。その中へ安全に乗り込むには賠償と言う大義名分とむすびつけるより以上の良策はないではないか。」通産省企業局賠償室長・谷敷寛『通商産業研究』1957年6月 
●1950年代の賠償・準賠償(60 年代もあり)中野敏男『継続する植民地主義の思想史』(青土社)より
期間  相手国   金額(円)    主な供与品目
1955~ ビルマ   720億  発電所 自動車等組み立て工場 バス トラック ポンプ等
1956~ フィリピン 1908億 農業機械 道路建設用資材 電気・通信施設の基礎資材等
1958~ インドネシア803憶  河川治水計画 橋梁建設 製紙・紡績工場等 農業機械等
1960~ 南ベトナム 140億  発電所 ボール紙・合板等の各種工場プラント類関係資材
1959~ ラオス   10億   ビエンチャン上水道 ビエンチャン発電所
1959~ カンボジア 15億   ブノンペン上水道 橋梁建設の一部資材 農業・医療センタ
                      
岸信介政権が積極的に進めたこれ等の「賠償」は、戦後の日本資本主義の東南アジア進出のためのもの、すなわち「戦後版の植民地政策」であり、日本の製造業と土建業を潤し、結果的に現地独裁政権を支え一部富裕層を豊かにしたとしても、援助にもとづく開発は、下層の労働者・農民には恩恵がないばかりか、往々にして国内少数民族の生活基盤および自然環境を破壊することになった。
  
◆ イデオロギーと政策面での継承
 対外的には、敗戦によって植民地は失ったけれども、アジアで最初に「文明化」し「一等国」として帝国主義「列強」に仲間入りした日本は「アジアの盟主」であり、そうでなければならないという戦前期の植民地主義思想、およびアジア太平洋戦争期における、生産力増強を唯一最大の目的とし、そこに向けて大衆を一斉に動員する総力戦体制、そして「科学技術」を絶対視する経済合理性・技術合理性のイデオロギー(科学技術神話)も、「高度国防国家の形成」にかわる「高度成長・国際競争」をスローガンとする戦後に継承されることになった。

●生産力第一主義がもたらしたもの 水俣、四日市等の公害

●科学技術神話 ―― 科学技術への過大で非現実的な信頼と要求 ―― について
 戦前期
「技術は自然に対する人間の支配を可能ならしめることによって、人間を自由にする」哲学者・三木清1937
「科学は資源を創造し、代用品を造る。資源ならざるものを資源化するのも科学である」大河内正敏 1938
「天然資源の不足は、科学の力によって補ふことが出来る。今それが出来ないにしても早晩できるであろうことは、従来、幾多の実例が立派に証明していることである。」東北大教授 工学博士・宮城音五郎 1939
「ドイツに於ては、電気化学工業の驚異的な発達に依って無から有を生ぜしむる産業に成功し、所謂総統外交驀進の根底をつくりあげた。」日本発送電株式会社調査課長・細川進一 1939
「科学技術は、物に対して創造的な意味を持っている。殊に物が少ない ―― またはない ―― 時には、科学技術は一段と創造的でなければならぬ。科学技術が要求されているといふことは、実はある意味に於て無から有を創造することが要求されているといふことである。」哲学者・船山信一 1941
戦後期
「高速増殖炉でウラン238をどんどんプルトニウムに変えることができるようになったら、今後1000年以上にわたって、人類がエネルギー問題から解放されるのも夢でなくなります。」
東京電力原子力本部長 榎本聰明『原子力発電がよくわかる本』2009, p.168
「FBR〔高速増殖炉〕サイクルは、…… 現在把握されている利用可能なウラン資源だけでも数百年以上にわたって原子力エネルギーを利用できる。」
サイクル機構史編集委員会『核燃料サイクル開発機構史』2005, p.21
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【お知らせ その2】
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