野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、2026年3月6日から3月8日にかけて行われた明大土曜会メンバーによる「沖縄訪問」の報告である。今回の訪問は、土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会共同代表、元明大中執委員長・都学連委員長)の強い要望により2年ぶりに企画された。参加者は12名。現役学生や若い世代も参加した「老青学」のメンバーで、Yグループ゚とNグループの2つのグループに分かれて行動した。
以下、NグループのN氏による報告である。

土曜会26年春季沖縄ツアー(主にNグループ)の報告                              2026年4月4日 N・T

3月6日(金)
早朝、羽田を出発。40分遅れで那覇に着き、まずレンタカーを借り、うるま市宮城島へ向かう。途中、金武湾を埋め立て、勝連半島と平安座島を繋ぐ海中道路を通る。1974年頃、CTS石油備蓄基地建設に伴い開通した道路だ。この道路により海の流れが遮断され、金武湾の生態系も大きく変化したと聞く。途中、前方に巨大なタンク群が見えた。これが石油備蓄基地だ。当時、東京でもCTS建設反対の運動があり、私自身も明大在学中に参加した。その頃は金もないので沖縄現地に来ることは出来なかったが、初めて巨大タンクを真近かに見て感慨深いものがある。

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宮城島の沖宮鉱山では、辺野古埋立て用土砂を採取しており、地元の「うるま島ぐるみ会議」の皆さんが「ダンプ遅延行動」を行っている。事前に連絡をしてあった同会議の事務局長・伊波さんが迎えてくれ、我々も行動の列に加わる。1日3回の行動で、午前中はまだ10人位は参加するそうだが、午後は人も少ないという。他に東京から来たという数人に加え、我々5名が加わり、10数名で「ムカデ行進」を行い、1時間くらいの行動になった。その間、搬出トラックを阻止したが、行動を終えたら待機していた10トンダンプが列をなして排出ガスをまき散らして積み出し港まで向かった。1日200台くらいが搬出するという。
その後、宿泊先の辺野古、クッションに向かう。いつものように「海の見える家」に荷物を置き、Yグループとの合同交流会の居酒屋に向かった。現地で活動している橋本さんを含め13名で賑やかに交流を深めた。

3月7日(土)
11時からキャンプシュワブテント前で県民大行動に参加。オール沖縄会議推薦の議員が全員落選するとういう衆議院選挙から初めての県民大行動で、550名が参加した。

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「辺野古新基地が建設されても普天間の代替となる長い滑走路を選定するまで返さない」と米国防省の公式文書に明記されていたことが判明。前日の6日には普天間飛行場に配備されている米軍ヘリが名護市許田の野球場に不時着するという事故も発生していた。
そうした状況を反映して、発言者の多くが「辺野古が唯一の解決策」と言ってきた政府のウソを糾弾し、米軍基地の日常的な危険性を訴える発言が相次いだ。
続いて連帯の挨拶として、我々の団長である土屋源太郎さんが発言に立った。土屋さんは、「私の大学の後輩の若い人たちと沖縄に来た」と土曜会のことを紹介。そして高市政権の軍拡政策を批判し、「沖縄知事選挙は日本全体の問題であり絶対勝たないといけない」と語り、共に闘いましょう訴えた。土屋さんの発言対しては会場から万雷の拍手が起こり、発言後には何人もの人が握手を求めて駆け寄って来るなど、大変な人気だった。
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(土屋源太郎さん写真)
<県民大会での土屋源太郎さんの挨拶>
こんにちは。91歳になりました。でもね、今日久しぶりにこの集会に参加して、沖縄のみなさん方とお会い出きた。もう本当に感激です。ありがとうございます。
今日は私の明治大学の後輩の土曜会の仲間と12名でこの集会に参加しております。(拍手)私は東京に生まれました。そして戦争になって、1920年の4月18日、米軍の空襲によって我が家が焼かれ、そして私は両親・妹と4人で火の中を逃げ回った記憶があります。戦争は絶対に駄目なんです。平和が必要なんです。それが私の信念の根底にはあります。
それは、東京で私は大学に入るとともに学生運動に参加し、全学連のリーダーとして当時の立川米軍基地の反対の闘い、いわゆる砂川闘争を指導しました。そしてその結果、基地内に侵入したということで逮捕・起訴された。そして裁判になりました。伊達裁判長は日本駐留米軍は戦力で憲法9条に違反している。米軍基地の存在そのものが許すべきものでないとして無罪判決を出します。日米両政府はこれに非常に泡食って、最高裁でいろいろ陰謀をした結果、その判決は破棄された。最終的に有罪となります。
しかし私は、あの伊達判決では米軍基地が憲法違反であるというその精神というものは非常に大事だというふうに思って、現在もその運動を続けています。(拍手)今トランプは軍事力を持って(イランに)介入して、トランプの思うような国に変えようとしている。そのようなトランプと高市首相は一層同盟を強めようとして、そして日本を、今まで戦争の出来なかった国を、戦争をできる国に変えようとしている。この辺野古基地についても、実際にできっこない基地、まさにこれを強行するための工事を再開した。こんなこと絶対に許すことはできないと思っています。それと同時に防衛費を大幅に増額して、先ほど言ったように、戦争できない国を戦争のできる国に変えようとしている。そして、人命を実際に殺してもいいような兵器を輸出するとさえ決める。それから安保3文書を改訂して敵基地攻撃が更にできるようにする。非核三原則も変更しようとしている。こんなことは絶対に許すわけにはいかないんですよ。(「そうだー」の声)本当に闘いを我々は一層強めていかなければいけないと思います。しかし残念ながら先般の衆議院議員選挙で野党は大敗しました。沖縄もそうです。私が住んでいる静岡でも、まったく野党が全部負けてしまった。しかし、そんなことでめげる必要はない。(「そうだー」という声)敗因を分析するとともに、再度闘う姿勢が必ず出て来ます。私は確信しています。
9月には大事な沖縄の知事選があります。沖縄は日本の国内で最も米軍基地が集中している県です。ですから、沖縄県知事選というのは単なる沖縄県の問題ではない。日本全国の問題だと私は考えています。絶対に沖縄の知事選は勝ち抜かなければならない。そのためには、やはり沖縄と本土との連帯、これを一層強めていかなければいけない。残念ながら本土は沖縄に対するいろんな形の温度差があります。それを我々は何としても沖縄とともに闘う、連帯を強めるという闘いを続けたいふうに考えております。この知事選を勝ち抜くためにも、あらゆる手段をもって、できる限りの支援をするという決意を持っています。皆さん、連帯を一層強めてともに闘いましょう。がんばりましょう。ありがとうございます。(「ありがとうー」の声)

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(「沖縄タイムス」記事)
集会後は、予定では大浦湾を一望できる瀬嵩の旧灯台跡に登り、埋立て工事の状況を見る予定だったが、Yグループの高齢者の皆さんが坂を登るにはしんどいというので、予定を変更し、全員で恩納村にある「創価学会・沖縄研修道場」を訪れた。ここはかつて、アメリカ軍の核ミサイル「メースB」の発射基地があった場所だ。 
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沖縄には戦後の1961年から恩納村、読谷村、金武町、うるま市の4カ所に核ミサイルメースBを8基ずつ配備する基地が建設されていた。72年の返還後核基地は撤去され、恩納村の基地跡を創価学会が購入したのだが、「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』、という、ひとつの証として」という池田会長の提案でミサイル発射台が残されたという。そこが現在、平和学習の場として整備されている。

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8カ所の発射口の内1か所はほとんど現状のまま保存されており、内部の天井には同じ大きさのメースの絵が描かれ、中国大陸に向かわんとしていた。ひんやりとした発射台内部は核基地の緊張感を漂わせていた。あまり知られていない施設だが、かつて沖縄に存在していた核基地の実態を知る貴重な場だ。
ここでYグループとは分かれ、我々は嘉手納基地が一望できる「かでな道の駅」に向かった。嘉手納の飛行場では時折爆音を響かせ米軍機が飛び立っていく。展望台には軍用機のファンと思われる人たちがカメラを構え撮影をしていた。

3月8(日)

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朝はまず、昨日行けなかった瀬嵩の旧灯台跡に登った。日曜日で埋立て作業は行っていない様子だったが、6台の砂杭打ち作業船・サンドコンパクションパイル船が配置。高さ80mにもなるという櫓が林立して、他の作業船も併せ、広い大浦湾が狭く感じた。遅れていると言われていた砂杭打ちも1月に入り急増し、1月は月別で最多の1700本だったという。それでも杭打ちだけで今後15年はかかるという。
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続いて我々は、普天間飛行場が一望できる嘉数高台に向かった。「世界一危険な基地」と言われるように、飛行場の周りには住宅地、学校などの教育施設がひしめいており、事故の恐怖と隣り合わせだという日常が実感され場所だ。同地は、沖縄島中部に上陸した米軍との激戦地の一つでもある。高台を占領するために一進一退の攻防戦が展開された。戦死者も多く、慰霊碑も何基か立っている。
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その中に「韓民族出身沖縄戦戦没者慰霊 青丘之塔」がある。これは沖縄戦に駆り出された朝鮮人軍人・軍属386名を追悼する碑で、1973年に建立された。ここにも植民地支配の実態が表れている。
次は、浦添市の浦添西海岸に向かった。ここは、かつて米軍牧港補給基地(キャンプキンザ―)の基地水域があった場所で、2008年に返還された。自然海岸が残っているこの場所に、米軍那覇軍港の移設計画が進んでいる。那覇市の海岸沿い、那覇空港にも近い場所にある米軍那覇軍港は、現在はあまり使われていないとされるが、普天間飛行場返還が盛り込まれたSACO合意で浦添地区への移設を条件として同じく「返還」が決まった。ただ、沖縄県も移設を認めており、辺野古ほどには注目されていない。
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我々は、海岸沿いにある巨大なパルコシティーの展望デッキに登り、海岸を一望した。満潮だったためにサンゴ礁は見えなかったが、干潮時にはサンゴ礁が広がり多彩な水中生物の生息が見られるという。こうした貴重な自然が米軍の身勝手な要望で破壊されていくことは許されない。
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次に訪れたのは豊見城市にある旧海軍司令部壕だ。 同司令部はアジア・太平洋戦争末期の1944年に豊見城市の高台に人力によって掘られた。壕内は良く保存されており、司令官室や幕僚室、医療室などが公開されている。部屋には手榴弾で自決した時の破片の痕が当時のまま残っている。同施設は、1953年元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れ、800名以上の遺骨を収集し、沖縄海友会によって海軍戦没者慰霊之塔が建立されるようになって以降、1970年に壕内の一部が復元、公開されるようになった。そうした経過から旧日本軍を顕彰する色彩が強く、沖縄民衆に犠牲を強いた反省や責任の視点が乏しい。有名な太田司令官の「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」という電報も展示され、美談として語られている。
ただ、沖縄戦末期の海軍の追い詰められた実状の一端を知る場にもなっている。一見の価値はある。
 最後に、1月22日に亡くなった沖本裕司さんの自宅を弔問に訪れた。沖本さんは、1970年、一橋大学在学中に返還前の沖縄に移住し、基地問題や沖縄での韓国民衆連帯などに取り組んできた。「本土」の左翼活動家として当時最も早く沖縄の重要性を認識し、自ら移住して「本土」-沖縄を繋ぐ活動に精力を傾けた人だ。近年は島ぐるみ八重瀬の会事務局長として辺野古新基地建設反対運動に関わってきた。また、南京大虐殺の歴史を学び、「南京・沖縄をむすぶ会」の発足に関わり、23~25年に沖縄からの南京平和友好訪問団の団長も務めた。何冊もの報告書を出版した。昨年秋にも体調が優れない中訪中し、編集に力を注いでいたという。
我々土曜会のツアーでも何度もお世話になった。3年前のツアーではで南部戦跡を案内していただいた。
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(平和祈念公園で沖本さんの解説を聞く 2023.3)
自宅ではお連れ合いと「本土」から来ていた娘さんのお話をお聞きした。お連れ合いも70年、秋田の大学から沖縄に来て、沖本さんと共に反基地・平和運動に参加されていたという。お話は尽きなかったが飛行機の時間が迫っており、慌ただしくご自宅を後にし、那覇空港に向かった。
 
今回のツアーは土屋さんの強い希望で実現したが、準備期間があまりなく、前回のような学生・若者グループとしての参加は組めなかった。ただ2名の若者、学生が我々のグループに参加、「老青学」のツアーが実現できた。初めて訪れた場所もあり、有意義なツアーとなったと思う。訪問後、「辺野古・大浦湾での平和学習の船転覆による2名死亡」という痛ましい事故があり、辺野古基地反対にとっては厳しい状況が続くが、「諦めずに闘い続ける」という沖縄の人々に学び、今後も基地反対、沖縄との連帯の活動を続けて行きたい。

以上、明大土曜会の沖縄訪問の報告である。
最後に、若手(20代)参加者2名の沖縄訪問の感想を掲載する。
「今回土曜会の皆様と一緒に沖縄の方を訪問させていただきました。人生で初めての沖縄だったので、やっぱり知識としてはいろいろ沖縄の現状であるとか、米軍基地による米軍の重さとかいうものを意識していたんですけども、やっぱり現場を見て改めてとんでもないことになっているなということがよく実感できました。
やっぱり今私にできることというのは、せいぜい沖縄の生の現実を見てきた者として、そういうことを伝えていくのが今はそれしかできないのかなと思いつつも、まだちょっとそれをやりながら今後も何かしらの形で沖縄との連帯の闘いの方に携わっていければなと思っております」

「基地問題の現場に足を運び、実態を把握できたのは得難い機会になった。特に宮城島における土砂搬出現場では、削られて山肌があらわになった自然の様子や無機質な警備員の様子を見て、建設反対の声が大きな力にかき消されそうになっているのを実感し、土砂流出やトラックをめぐる諸問題について地元の方のお話をお聞きして、基地建設の裏側ではこのような問題も引き起こされているのかと驚いた。ダンプの排ガスの臭いにおいは今でも思い出される。つい本島の基地に注目が集まりやすい中で、様々な視点から問題を捉えることができた。また、嘉手納では戦闘機による爆音に遭遇し、日常感じるであろう苦しみのごく一部ではあるが、日常生活に支障が出る騒音とは何かを体感できた。訪問中にヘリ不時着事故が発生し、沖縄の地方紙では1面を飾ったが、後日図書館で全国紙を調べてみると、その扱いは小さく、本土の関心度合いをまたも象徴していた。訪問後、悲惨な事故が発生するなど難しい局面にあるが、基地が日本で一番集中している沖縄に想いを寄せ続けたい」
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年4月30日(月)に更新予定です。

今回のブログは前回に引き続き、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
また、政治闘争の記事については、大学新聞ではあるが、かなり詳細に書かれているので、記録的価値は高い。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1972年である。

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(『一橋新聞』1970.9.16)

『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉〈Mの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1972年
1・9 阻止共闘 緊急闘争を闘い抜く!
1月進駐に緊迫する立川
立川基地への自衛隊進駐は、第4次防と自衛隊沖縄派兵を通じた自衛隊の帝国主義軍隊としての確立の一環として不可欠であり、とりわけ首都圏の内乱鎮圧体制の拠点としてヘリコプター部隊の立川進駐が緊急の課題となっている。当初の予定であった「9月予備進駐、12月正式進駐」は滑走路末端の反戦放送塔の建設を軸とする自衛隊進駐実力阻止闘争の突出と阿部「革新」市長の当選にも表われた立川市民の進駐反対の「世論」(世論調査では82%の市民が進駐反対)の前に破産した。だが自衛隊沖縄派兵と歩調を合わせて行うという戦略的な緊急性のため、今回防衛庁・防衛施設庁は「1月予備進駐、3月正式進駐」を打ち出し、1月中旬に立川市長阿部に最後の説得、「話し合い」を行い、直後に進駐強行を開始することを明らかにした。反戦放送塔の建設で実力阻止闘争の体制を打ち固めた「立川基地自衛隊進駐阻止共闘会議」(阻止共闘)は、進駐を前提にした「話し合い」に唯々諾々と応じようとする立川市長阿部を団交・質問状等で追求し、立川市民に実力阻止闘争への巨大な決起を促した。
阻止共闘が主催する「緊急総決起集会」が1月9日1時から砂川反戦広場で開催された。全都からプロ統派200、叛旗派100、フロント60、赤色戦線20、ベ平連、高共闘など総勢600名が結集した。冒頭、平和利用市民会議の石川さんが阻止共闘を代表し基調報告し、反戦放送塔を支持し闘う者のみが自衛隊進駐を実力で阻止できることを強調し、立川市長阿部の追求・弾劾・暴露の闘いを報告し、自衛隊進駐実力阻止の決意を確認した。続いて、反戦塹壕闘争委員会、全学連中央執行委員会、立短・商短進駐阻止闘争委から決意表明、関東反軍連絡会議と立川への進駐が予定される宇都宮の東部方面隊ヘリコプター部隊に闘いを展開している宇大反軍行動委から連帯の挨拶があった。最後に三多摩反戦青年委員会、全国反軍国主義共闘、首都圏反帝戦線連合、三多摩赤色連合が発言し、集会を終え、4時過ぎ立川市内デモに出発した。
防衛施設庁立川支部=西立川ゲートに向け戦闘的抗議行動を行い、立川駅北口で何千もの市民が見守る中であろう総括集会を行い、自衛隊進駐阻止への結集を呼び掛けた。
当日11時から「鉄塔を引き倒せ」と訴える中核・第4インターも砂川反戦広場で集会を行い、阻止共闘は早朝から反戦放送塔と反戦塹壕の防衛体制を敷いて中核派と対峙した。中核派は阻止共闘と反対同盟A氏M氏との土地をめぐる対立を、土地所有者と対立する者は闘争破壊者であると主張し土地所有の裁判支援と鉄塔、塹壕の撤去を方針化するが、阻止共闘と反対同盟の対立関係は進駐阻止の実力決起の中で労農学の結合として止揚されるべきであろう。
 
立川闘争には、私は反帝学評の親組織である社青同解放派の三多摩地域のオルグであるTさんから声がかかると、反戦塹壕の当直のような泊まり込みや主な闘争や集会に参加していた。一橋大学のある国立市に隣接する立川市で闘われている重要な闘争であり、一橋の学生が取り組むべき課題と思っていた。しかしかつて米軍立川基地の滑走路延長に反対し勝利した砂川闘争が、住民運動と学生運動が大きな役割を果たし、その後の反戦反基地反体制運動の原点となってきた歴史的意義と更に立川基地のもたらす売春や風紀の乱れを嫌って国立市が風致地区を名乗り学園都市と高級住宅地を築いてきた差別の歴史などを思い起こせば、もっと深い考えをもって取り組むべき課題であったと思う。

阻止共闘連日決起す 進駐を未だ許さず
1・9緊急闘争以降、連日の駅頭、団地等での情宣戦を展開した阻止共闘は、1月20日の阿部・江崎会談に鉄槌を加えた。阻止共闘の追求からこそこそと逃げ回って来た阿部市長が江崎と会談すべく市役所の門を出て防衛庁に向かおうとするところを包囲し、約20名の行動隊で市長室での3時間の及ぶ団交で阿部を追求した。自衛隊進駐の地ならしに過ぎない江崎との会談になぜ出るのか。話し合いで進駐が阻止できるのか。阿部は首長としてできることしかやれない、できるだけのことをする、など弱々しく居直り、職制に守られて命からがら防衛庁に逃げ出し、念願の江崎会談を果たし、防衛庁は2月早々の進駐を決意した。
1月30日阻止共闘は500名の結集で総決起集会を克ち取り進駐への本格的対決に突入した。この集会では沖青同の連帯の挨拶と三里塚反対同盟の戸村一作委員長の「反戦放送塔断固支持」の私信(下野氏あて)の紹介と各団体の発言が行われた。
 2・6から基地ゲート前座り込みに突入 連日2時~7時
防衛庁は2月7日早朝に大型ヘリ3台の予備進駐を強行することを決定した。これに対し阻止共闘は2月6日から恒常的座り込みを基地前で貫徹し進駐を阻止し抜く体制を確立し、進駐時にはゲート前を労働者・学生・市民で埋め尽くすことをよびかけている。
2月6日に砂川反戦広場で緊急総決起集会を開催し、行動隊20名をゲート前に派遣し座り込み闘争に突入した。行動隊は3時ごろゲート前に登場し固いスクラムで座り込み、市民に決起を呼びかけた。機動隊は百人余りで行動隊に襲い掛かり、暴行のあと一人一人戦士を放り出したが、行動隊は再度隊列を整え、ゲートの真正面の舗道で座り込みをやり抜き、恒常的座り込み闘争の口火を切った。砂川反戦広場で決起集会を克ち取った阻止共闘400名は市内デモを行い、ゲート前で行動隊と合流し、駅前で総括集会を行って解散した。
2月7日以降も連日座り込みを貫徹し進駐の強行を許していない。

1・9 国立大学の授業料値上げ 現行の3倍(3万6千円)
学費値上げ粉砕へ 全国各大学で闘いに決起
大蔵省は来年度予算原案で国立大学の授業料値上げを要求していたが、1月9日文部省、自民党とも値上げを承認し、昭和47年度の新入生から授業料が現行の3倍(3万6千円)に値上げすることが決定した。
学費値上げの攻撃に対して、九大教養学部、東北大教養学部、上智大、東京造形大、東北学院大などでストライキによる反撃の闘争が巻き起こっている。
本学では戦線の構築が立ち遅れており、かつて大学立法粉砕から三里塚・沖縄闘争を闘い抜いたエネルギーは潜在化したままである。新入生が結集する4月を新たな出発点として再度教育闘争の炎が燃え上がることが期待される。

1・10~13小平祭実行委員会合宿報告
全国教育学園闘争の「戦後」的地平を踏まえて―
小平祭実行委員会は今年6月に予定される第12回小平祭の方針確立に向けて合宿を行った。ここに合宿での討論の概要を報告し当面の行動方針を明らかにしたい。
最近数年間の小平祭の批判的検証、これが出発点である。
全共闘運動(一橋では全闘委―スト実運動)の爆発的高揚と後退、これと対応する学園における帝国主義的教育再編の隠然、公然の進行最近の小平祭と密接な関係を持つ。68年第8回小平祭は戦後民主主義イデオロギーの砦である「知性の共同体」=大学という幻想の最後のあだ花と言える賑やかなオマツリであった。69年第9回小平祭は、実行委員会が戦後民主主義を批判し反体制イデオロギーを対置し、実行委員会の「反体制的思惑」と旧態然たる「大学共同体」的オマツリの併存であった。70年第10回小平祭実行委員会は戦後民主主義対反体制イデオロギーという理念的対置の地平を超えて、実践的運動に定位し「サークル運動の革新」を提起し、71年第11回実行委員会は「クラス運動」を提起した。
その背後には、教育の帝国主義的再編と全国教育学園闘争の問題、「教育」をめぐる空前の攻防戦の「戦後」という状況がある。その中で日本の学生と学生運動は新たな地平を獲得した。ブルジョア社会における学生の運命と大学の役割の徹底した暴露、にもかかわらず冷厳なる「敗北」は学生層の絶望を生み出した。すべての「でたらめさ」が暴露され、しかし何もできない、という無力感の充満。このことが真剣に問題とされねばならない。
ここから我々は始めようと思う。「教育」問題との格闘を当面の課題とする。当面の行動方針としては、毎週木曜日午後実行委員会ミーティングを「教育」問題を軸に行う。村田栄一「国民教育論批判」、読書会、中教審答申批判の学習会、村田栄一氏を囲む討論会などを予定している。

2・8,10,15狭山差別裁判公判闘争
連日高裁に向け決起 2月結審策動を粉砕!
 昨年11月9日の第54回公判の際に、裁判長井波七郎は「そろそろ証拠調べを打ち切りたい。来年11月の退官までに判決したい。春ごろまでには実質上決着をつけたい」と意志表示した。これに対し、全国の部落青年・支援団体の闘う仲間たちが部落解放同盟を中軸として結集し、2月8,9,10,14,15の公判闘争、総決起集会、真相報告集会を闘い抜き、2月結審策動を粉砕し、4月15,18日、6月15,17日に予定される公判闘争へ隊列を打ち固め、狭山差別裁判粉砕・石川青年即時奪還そして部落完全解放をすべての労働者・人民の課題として闘い抜くことが確認された。
2月8日、公判第1日、高裁前日比谷小公園で9時半から、5000名を結集して差別裁判抗議集会が持たれた。10時傍聴団を送り出した後、朝田解同委員長の挨拶、各団体の決意表明があり、11時には高裁前で闘う青年部隊を残して、3000名がデモで中央集会会場の久保講堂に移り、中央集会では、①同和対策審議完全実施②特別措置法即時具体化③狭山差別判決取り消しの3点を中心に議論され、朝田委員長から長期的展望における部落解放闘争の決意が述べられた。4時半から裁判報告会が開かれ6時過ぎ抗議行動を終えた。
2月9日午後5時芝公園に400名が結集し「狭山差別裁判糾弾・石川青年即時奪還・政府―高裁の2月結審策動粉砕」中央総決起集会が開かれ、関東部落青年友の会の連帯のアピール、共催団体の全都高校生部落研連帯の発言、主催団体の全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の基調報告のあと、日本反帝戦線・埼玉労叛共闘(戦旗派)・全学連・社青同中央・社青同奈良地本などの発言があり、東京高裁に向け戦闘的デモを展開した。
2月15日午前9時より日比谷小公園で狭山差別裁判糾弾公判闘争が4000名の結集で闘われた。解放同盟各県連、関東オルグ団の挨拶、報告、支援団体として狭山差別裁判糾弾支持共闘会議・全国部落研・全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議・被青同が発言した。4時ころ公判報告を受け、2月結審の野望を粉砕したことを確認し、4月の公判に向けた闘いの決意表明を行い、連続闘争を終えた。
2・14狭山差別裁判真相報告集会 部落完全開放に向けて
2月14日午後6時より神田・共立講堂で「狭山差別裁判真相報告講演会」約1000名を結集して行われた。朝田善之助氏(部落解放同盟中央執行委員長)佐々木哲蔵氏(担当弁護士)田英夫氏(国会議員)が出席し、証拠のでっち上げを証明する具体例を挙げ、この裁判の不当性が明らかにされ、警察・裁判所のでたらめさ、マスコミの怠慢が批判された。

2月19日から28日連合赤軍による浅間山荘人質銃撃事件が起こり、誰もがテレビ中継に釘付けになった。3月には山岳ベースでのおぞましい大量リンチ殺人事件が明かになり、全共闘や新左翼のシンパたちには大変な衝撃であった。一橋新聞はこれらの事件を全くとりあげていない。とりあげることができていないことがかえってこれらの事件が与えた衝撃の大きさを物語っているといえよう。私には、革マル派、中核派との内ゲバは次第に凶悪化しついて行けないと感じている矢先のことだったので、これらの事件が反帝学評というセクトの運動から遠ざかるきっかけとなった。
 私は残っていた英語の単位を取り、ドイツ語の単位だけ残して4月から3年に進級し、府中のアジトを引き払い、国立に下宿を借りた。反帝学評の活動からも手を引き新聞部の活動に専念するようになっていった。小平キャンパスの活動は反帝学評、小平祭実行委そのほか下の学年の者たちが頑張っていたようだ。
ちょうど学生新聞の企業広告の代理業をしていた日本リクルートセンターが学生新聞を切り捨てて、独自にリクルートブックを作り学生に直接送るようになっていて、新聞部の主な財源である就職特集号の広告集めを自前で行う必要を生じていた。京都大学新聞などと作っていた全国学生新聞連合(全学新)で協力し合うこともしたが、スーツにネクタイで直接企業の一橋の先輩や就職担当者を訪問し広告を集める必要もあった。銀行、証券など大企業を回り、ダークスーツを着て黙々とデスクに向かっている先輩たちの姿を見るとサラリーマンにはなりたくないという思いを改めためて強くした。

3・7深夜 自衛隊(先遣隊)立川進駐を強行!
闇にまぎれて基地に侵入
阻止共闘、徹夜で抗議闘争
3月7日午後11時46分、防衛庁・自衛隊は先遣隊を立川基地に夜陰に紛れて進駐させた。防衛庁長官江崎が「8日午前3時トラック進駐、ヘリコプター午前10時」と進駐強行を正式に発表した午後11時5分には、すでにトラック21台と47人の先遣隊は陸上自衛隊練馬駐屯地を出発した後であった。しかも正面ゲートを避けて人気のない江の島ゲートから基地に侵入するという秘密主義であった。
7日深夜、ニュースなどで進駐強行を知った市民・労働者などが続々と正面ゲート前に集まり始めた。自衛隊立川基地進駐阻止共闘会議(阻止共闘)は緊急動員で約60名が結集し午前1時から早朝まで抗議行動と後続部隊の進駐を許さない闘いを展開した。早朝駆け付けた労働者・学生・高校生を加えた阻止共闘約100名はゲート前集会と駅頭情宣を7時から開始し、正面ゲートに突撃し機動隊と衝突した。8時ころから反戦市民連合系の「自衛隊立川基地使用阻止共闘」、国立のけやき台団地住民の組織した「否の会」、日共系の「明るい立川を作る会」などもゲート前で抗議行動を行った。9時過ぎから阻止共闘は立川駅北口広場で抗議集会を行い、市民に決起を呼びかけた。10数名の座り込み部隊を残しいったん解散した阻止共闘は、午後5時ゲート前に再度結集し、全逓青年部のヘルメット部隊150を先頭とする労働組合員と大規模な抗議行動をゲート前から駅前にかけて展開した。
8日午前10時頃小型ヘリコプターOH6二機と小型飛行機L19三機も宇都宮の陸上自衛隊東部方面隊から進駐し、前夜進駐した陸上部隊と合流して管制訓練を開始した。

3・12 三里塚と連帯しゲート前闘争を貫徹!
阻止共闘は3月12日午後1時から基地正面ゲート前で抗議集会を開き70年代戦線三多摩をはじめ立川周辺の市民団体なども闘いに加わった。反帝戦線(叛旗派)、全学連(プロ統派)、赤色戦線、反軍国主義共闘、三多摩高共闘が闘う決意表明を行った。

3・19 全国住民運動総決起集会
3月19日立川市の砂川反戦広場で全国各地の住民運動を闘っている農民・市民と中核派など二千名が結集し、全国住民運動総決起集会が行われた。砂川反対同盟の青木さんは「基地撤去まで闘う。私の土地を守る裁判を支援してください。」宮岡さんは「誰でも担いうる闘争として自衛隊移駐に対して闘う。」と発言し、反戦放送塔をはじめとする実力闘争よりも幅広い闘いを主張した。

3・25 立川反軍シンポジウム開催さる
3月25日午後6時から立川労政会館で立川反軍シンポジウムが開催された。進駐阻止闘争を闘っている労働者・学生や立川市民約百名が参加した。進駐阻止共闘の自衛隊オルグ隊として隊員工作や調査活動を行っている学生から活度報告があり、軍事評論家の藤井治夫氏から「四次防と自衛隊」、退役自衛官の山本武則氏から「中から見た自衛隊」について講演があった。

3・26 先遣隊放逐!本隊進駐阻止!立川集会開かる
3月26日進駐阻止共闘主催で先遣隊放逐!本隊進駐阻止!立川集会が砂川反戦広場で行われた。プロ統派労学150名、叛旗派50名、赤色戦線30名、三多摩高共闘50名など350名が結集した。塹壕闘争委員会、反戦・全学連(プロ統派)三里塚現地行動隊、宇都宮大学反軍行動委、商短・立短進駐阻止闘争委員会から決意表明があった。立川駅北口までデモして総括集会をして市民に訴えた。

3・15 批准書交換粉砕闘争 於清水谷公園
沖縄人民と連帯し4・28へ闘いの火蓋切る
「3・15批准書交換粉砕!全軍労スト連帯!返還粉砕―派兵阻止!中央総決起集会」は沖縄共同闘争委員会の主催で午後6時から清水谷公園に全学連(プロ統派=220名)反帝戦線(戦旗派=200名)等の約600名を結集して開かれた。
冒頭、司会が「反軍国主義青学共闘=フロントが沖共闘から公然と脱落を開始しつつある。」と明らかにし、続いて沖共闘事務局の浜口氏が「3・15闘争の準備過程で、われわれは昨年の11・19闘争の敗北の痛苦な総括に踏まえ、今春期政治闘争の爆発に向けた戦列の強化のために討論を重ねてきたが、反軍国主義共闘の諸君は以下の3点で沖共闘を批判し、公然と脱落を意思表示した。①われわれの原則的スローガンである“沖縄の再属領化阻止・沖縄人民の自決権断固支持・日本軍の沖縄上陸阻止”を沖共闘のスローガンとすべきである。②沖共闘は内部に排外主義的部分を抱え込み容認している。沖共闘は死を宣告された。③現在の新左翼は相対的に安易なヒロイズム・経済主義に落ち込んでいる。かかる反軍国主義共闘のナンセンスな提起に我々は断固たる批判を加えた。①沖共闘全体を貫くスローガンは沖縄返還粉砕・自衛隊派兵阻止である。一潮流の戦略的スローガンを沖共闘におっかぶせるのは共同闘争の原則に反する。②“沖共闘は死んだ”なる空虚な捨て台詞は外在的な批判でしかない。」と経過報告した。
沖縄青年同盟、全関東叛軍連絡会議、自衛隊田立川基地進駐阻止共闘、厚木基地解体共闘、の決意表明、獄中からの富村氏のアピール、全都・神奈川狭山差別裁判糾弾共闘、入管体制粉砕慶大実行委、法制審議会答申粉砕実行委、伊達さんを支える会、東水労研から連帯の挨拶のあと、日本反帝戦線、全学連が発言し、日比谷公園までデモを行った。
フロントは同日、常盤公園で150名規模の集会を行った。

4・15~18 狭山差別裁判糾弾連続闘争
予断と偏見に満ちた伊波の結審策動を許すな!
4・19 李承晩政府打倒12周年
入管二法粉砕闘争に決起
4・26 国鉄スト支援闘争 於田町電車区
4月26日午後5時半から大田産業会館で「交通ゼネスト支援!マル生粉砕!鉄労解体!闘う沖縄の労働者人民と連帯し、4・28闘争に勝利せよ!」のスローガンで労学総決起集会が開催された。国労・動労労働者の48時間ストを連帯支援し4・28闘争を闘うべく結集した労働者学生300名(プロ統派200名、戦旗派80名、赤色戦線30名)は午後8時集会を終え、直ちに国鉄蒲田駅から品川駅に向かい、駅構内で国鉄労働者のストライキ闘争と連帯するデモと集会を貫徹した。

4・27 前期学生大会は流会
4・28闘争に向けた前期学生大会は鉄道スト等の影響もあり、定足数に満たず学生集会となり、全共闘、自治会執行委、派兵阻止闘争委から提案が行われ、討論のあと解散した。

4・28 沖縄闘争 5・15返還式典粉砕
―派兵現地実力阻止に向け
労学4000名が結集 沖共闘系 於・日比谷野音
72年春闘勝利、5・15沖縄返還粉砕の基調のもと「全関東労働者総決起集会」とそれに続く「中央総決起集会」が4月28日、日比谷野音で開催された。
「全関東労働者総決起集会」は3時から約500名(プロ統派300名その他)を結集し開催され、国鉄労研から、27・28日の48時間ストを決行し、国労・動労の共闘で革マル派の暴力的・宗派的敵対を踏み越えて、無期限順法闘争が展開されたことが報告された。
続く「中央総決起集会」は6時から約4000名(プロ統派1000名、戦旗派240名、赤色戦線90名、その他各大学部落研、べ平連700名など)を結集し開かれ、沖共闘事務局浜口氏から「社共総評が“沖縄は終わった”と労働組合からの本日の集会提起を拒否する中で、われわれは本土でも真に闘う人民は沖縄人民の闘いに呼応して決起することを示さねばならない。『連合赤軍事件』以降職場・地域・学園で権力の弾圧が強化されているが、一切の弾圧網を粉砕して闘おう。」と述べ、全都救援連絡会議、立川基地平和利用市民会議、三里塚芝山連合空港反対同盟の北原事務局長、全関東叛軍連絡会議、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の発言、各党派発言のあとデモに出発した。
なおこの日、沖縄闘争の全国展開で42名が逮捕された。衆院4党共同提案による「火炎瓶使用等処罰法案」が4月21日参院法務委員会で可決され、5月14日から施行されようとしており、今後さらなる弾圧が予想される。
反戦自衛官6名決起 中核派・第4インター系 芝公園
4月28日中核派、第4インター、主体と変革派は約4000名を結集し、芝公園で「中央総決起集会」を開催した。スローガンは沖縄返還、自衛隊沖縄派兵阻止、釣魚台略奪阻止、入管二法粉砕であり、主催は全国反戦、関東反軍、東京入管闘であった。
7時より神奈川反戦の司会で始まり、日帝のアジア侵略の中でわれわれは昨日の自衛隊6兵士の決起に見られるが如く、革命か反革命かが迫られている、と発言があった。
前日4月27日、東京・六本木の防衛庁で、制服制帽に身を固めた自衛隊員5人と小西誠氏は防衛庁長官江崎に会見を求め、正門前で要求書を読み上げ、「自衛隊は秘密に物資を沖縄に搬入するなど沖縄民衆のへの圧迫をしている。自衛隊の侵略軍隊への強化がわれわれの市民としての権利を奪っている」と前置きして①沖縄派兵の即時中止②不当な命令に対する拒否権③幹部、曹、士の差別をなくす等の十項目の要求を突き付けた。
69年4・28被告の藤原慶久氏は「我々は沖縄闘争の永続化を克ち取る。昨日の自衛隊6兵士の決起は内乱=決起の開始だ。」と発言し、東京入管闘の横井氏は「朴軍事独裁下での南朝鮮人民と米帝の追撃戦を闘い抜いているベトナム人民の闘いと連帯し、5・15闘争へ大結集せよ。」と発言した。小西誠氏と5人の自衛官は「昨日の防衛庁闘争は自衛隊兵士が全国の闘う労働者・農民と合流したということだ。あらゆる処分攻撃と闘い、全世界の人民、兵士と連帯し闘う。」と発言した。
その後沖青委、学生インター、全学連(中核派)が発言し、神田常盤公園までデモを行った。
5・12 総評青年協議会 於明治公園
5月12日午後6時から明治公園において、全関東から青年労働者4000名を結集して、総評青年協、関東各県評青年協の主催で「反戦・反安保・反合春闘勝利青年労働者総決起集会」が開催された。
東京地評青年協の出発以来、総評系青年労働者の集会に「革マル派以外は参加させない。」という宗派主義的戒厳令で自派以外の学生・反戦青年委を排除しようとする革マル派と、学生運動・反戦青年委運動との共同闘争を通じて、労組青年部運動の革命的、階級的発展を図ろうとするプロ統派との間で対立が続いてきた。今年4月21日日比谷野音で開催された「4・21春闘勝利青年労働者中央総決起集会」で革マル派学生部隊は3月30日大阪での総評青年協集会におけるプロ統派と革マル派の党派闘争の問題を理由に全水道青年婦人部の隊列を武装襲撃したのだ。労組部隊である全水道青年婦人部に対して公然と意識的に革マル派が襲撃を行うことは労組青年部の共同闘争の原則を踏みにじることである。更には4月28日大阪で行われた「反安保府民共闘」の集会でのプロ統派との衝突で革マル派学生が死亡し、革マル派は「虐殺抗議!解放派粉砕!」を掲げ、全国で学生戦線を中心に両派の激しい衝突が繰り返されている。
集会当日は4時半ごろ350名の革マル派系全学連・反戦が竹やりで武装し戦闘訓練のあと独自集会を行い、公園内でデモを繰り返した。一方、プロ党派全学連・反戦は400名の武装部隊で6時ごろ千駄ヶ谷駅に到着したが、機動隊は駅改札口を封鎖し部隊を駅構内に閉じ込めた。部隊は機動隊の壁に激突したが全員竹竿を没収され、会場への登場を阻まれた。
集会は6時半から開始され、7時ごろ全水道青婦部を先頭に東交、国労高崎地本、群馬県評のプロ統派を主力とする部隊400名が会場に入り、続いて全逓の青ヘル部隊200名が登場し、各団体の発言が開始された。動労青年部の松本氏は、3・30動労部隊への解放派の挑発を糾弾した。全水道青婦部の吹上氏は「4・21闘争において、革マル派はわが全水道部隊に武装襲撃を行い、7人の負傷者を出すという反労働者的敵対を行った。革マル派に自己批判を要求する」と発言した。群馬県評青年部の代表も革マル派の全水道への襲撃を激しく弾劾した。そのあと各県評青年部と東京地評青年協の代表、総評市川議長が発言し、9時ごろ全水道を先頭に宮下公園にデモを行った。
5・13 沖縄討論集会 沖共闘主催 於明大駿河台
5月13日午前11時から明大駿河台校舎本館91番教室で「沖縄討論集会」が開催され共産同(戦旗派)、反帝学評、赤色戦線、沖青同を中心に800人が結集した。
映画「戦艦ポチョムキン」上映のあと、北原沖共闘世話人が開会宣言を行い、主催団体である沖青同の上原氏、沖共闘の浜口世話人が発言し、新崎盛暉氏、いいだもも氏、新里金福氏が講演を行い、3時40分に解散した。
5・13 神田解放区 戦旗派主体に貫徹
沖縄討論集会終了後、明大構内から出撃した反帝戦線(戦旗派)を中心に神田駿河台一帯で、沖縄返還と同時に火炎瓶法に対する闘いとして、解放区闘争が闘い抜かれた。鉄パイプで武装した40名の赤ヘル部隊が駿河台通りに出撃し、二手に分かれた部隊は乗用車を横転させ、駿河台下交差点に近い路上にタテカン、机、いすを積み上げバリケードを構築しガソリンを撒き、火炎瓶を投げ火を放った。更に明大の正面の主婦の友社脇の道路に乗用車2台を横転させ、火を放ちバリケード築いた。一方これと時を同じくして別動隊赤ヘル150名がお茶に水駅前交番急襲し、火炎瓶60本余りを投げつけ、交番は炎に包まれ黒焦げとなった。お茶の水駅前から駿河台下までの通りは解放区となり、学生を中心に4000名で埋め尽くされた。4時15分態勢を取り直した機動隊は3方向からバリケードを突破して乱入し、赤ヘル部隊は鉄パイプで応戦したが、一瞬にして通りは機動隊に制圧された。明大構内に後退した赤ヘル主力部隊は執拗に出撃を繰り返し火炎瓶と投石で抗戦し、投石戦は7時ごろまで続いた。当日の逮捕者は128名だった。
5・15 沖共闘第一波闘争 式典会場武道館に向け進撃!
72年沖縄返還粉砕!自衛隊派兵阻止!沖縄の反革命的統合粉砕!返還式典粉砕!第一波闘争は午前11時半から礫川公園に全学連(プロ統派=400名)を中心に約500名を結集して開催された。返還粉砕全京都労働者実行委員会から畑鉄工会社構内政治集会を克ち取った報告、群馬反戦から5・12総評全青協に介入した報告、日本反帝戦線から5・13神田解放区闘争の報告、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議(神大部落研)から神奈川大全学バリストの報告があり、全学連から決意表明があり、返還式典会場の武道館に向けてデモを行い、常盤公園で解散した。
沖共闘第二波闘争 礫川から政府中枢へ
沖共闘主催による全国総決起集会は礫川公園に約2000名を結集(プロ統派700名、戦旗派220名、赤色戦線80名、沖青同100名)して午後6時40分より開かれた。
沖共闘事務局からの基調報告及び提起に続いて、東水労・神奈川反戦など労働諸戦線、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、全関東叛軍連絡会議等全国諸組織から闘いの報告、決意表明がなされた。続いて沖青同が登場し、「沖縄処分として式典=返還執行への怒りを表明したい」として、富村順一氏のアピールを読み上げ、「日帝米帝による“沖縄軍事監獄づくり”を根底から粉砕していく」と発言するとともに日章旗・星条旗を焼き捨てた。諸党派発言のあと9時過ぎ沖青同を先頭に果敢にデモを展開し、11時過ぎ日比谷公園に到着した。
同日、中核派・第四インター系は日比谷野音に5000名、革マル派は早大本部に2000名を結集して集会とデモを行った。

5・31相模原補給廠包囲・戦車搬出阻止闘争
神奈川県相模原の米軍補給廠からは連日M48戦車がベトナムに送られている。5月31日ベトナム人民虐殺の反革命戦争の補給基地である相模原補給廠を包囲し戦車搬出阻止闘争が闘われた。国鉄相模原駅近くの児童遊園地で4千名の労働者・学生を結集し社会党・総評系の反安保神奈川県民実行委員会の主催で「ベトナム戦略物資補給抗議・基地撤去5・31県民集会」が夕方から開催され、プロ統派100名、革マル派も100名神奈川の労学を中心に参加した。

6・2 立川基地攻撃に向けて学内で戦線構築進む 
6・11一橋大実行委員会開かる
6月2日午後3時から小平本館108番教室において、「6・11立川基地包囲制圧大行動一橋大実行委員会」が開かれ、呼びかけ団体である小平祭実行委員会、一橋新聞部、教育研究会、入管闘、べ平連、反帝学評をはじめ20名の学友が結集した。
この6・11立川基地包囲制圧大行動はベ平連、70年代戦線、ちょうちんデモの会などの市民団体を中心に呼びかけられ、予想される立川基地への自衛隊の本進駐を前に、「ベトナム人民、沖縄人民、すべての闘う人民と連帯し、市民、労働者、農民、学生の創意によって立川基地から自衛隊をたたき出し、基地を没収するまで闘おう」という基調で行われる。この呼びかけに応えて学内諸団体の大衆的結集で本進駐阻止闘争の決起を準備すべく実行委が実現された。
司会の小平祭実行委から6・11集会の主旨と経過、反帝学評から立川闘争の情勢が提起され、べ平連、入管闘、新聞部が発言した。

6・5前期執行委員長選挙終わる
前期執行委員長選挙の投票が6月1,2,3,5の4日間行われ、即日開票の結果、M君(民青系)が544票で当選した。I君(派兵阻止闘争委員会支持)144票、無効及び白票60票、総計745票であった。

6・11 立川基地包囲制圧大行動闘わる
6・11行動実行委員会(呼びかけ=ベトナム反戦ちょうちんデモの会、べ平連、70年代戦線他19団体)の主催による「6・11立川基地包囲制圧大行動」統一集会は砂川反戦広場に約2000名(ベ平連・市民千名、プロ統派700名、共産同叛旗派200名)を結集して、午後1時半から開催された。
最初に三里塚・芝山連合反対同盟の戸村一作委員長からの連帯のアピールが読み上げられ、圧倒的な拍手で確認された後、反戦、べ平連、若葉町市民会議、立川基地平和利用市民会議、沖縄・三里塚を闘う70年代戦線、横田基地解体の会、反戦塹壕闘争委員会、否の会、小金井市民行動委員会、立川ベ平連、沖青同、反戦GI、日野ベ平連、横須賀地区叛軍行動委員会が発言し、次に神奈川大部落研が発言した途中で、反戦市民連合の本集会参加をめぐって対立したプロ統派と叛旗派が衝突し、集会場は一時騒然とした。再開後、全逓労働者会議、三多摩地区労働者連絡会議、東京反戦が発言、ベトナム留学生からのメッセージ紹介、法政大学工学部自治会執行委員会からの発言のあと、一橋大学6・11行動委員会が発言した。首都圏反帝戦線連合、全学連が発言し集会は4時に終了し、デモに移り、6時ごろ立川駅に到着し、圧倒的な隊列で埋め尽くし固い決意を立川市民に表明した。

6・15 中央総決起集会 於代々木公園B地区
沖共闘、更に戦列を強化 派兵阻止決戦に起て!
60年安保闘争の高揚の只中で全学連の若き戦士・樺美智子さんが官憲の手で虐殺されてから12年目の6月15日、七月派兵阻止決戦に向け、更に戦列を強化すべく、沖共闘主催のもと「安保粉砕!沖縄返還粉砕!自衛隊派兵阻止!ベトナム解放勢力連帯!6・15中央総決起集会」が午後7時より代々木公園B地区に約2000名を結集して開催された。
6・11立川基地包囲制圧大行動を闘った立川基地平和利用の会の発言、北熊本現闘団、北富士臨時闘争本部のアピール読み上げのあと沖共闘事務局の浜口氏の基調報告に次いで、横須賀に寄港中の米第七艦隊駆逐艦の乗組員が反戦米兵として発言、この日公判中の石川青年と連帯し日比谷小公園で集会を開いた狭山差別裁判糾弾共闘会議、70年代戦線、東京反戦、東水労などの労働戦線、全関東叛軍、厚木基地解体共闘、相模原基地解体・国道16号線戦車輸送阻止実行委、横須賀地区叛軍行動委など叛軍・反基地戦線、全都救援連絡センター、特殊教育の肥大化・固定化して解雇され三鷹市教育委員会を占拠して闘った高橋さんを支援する会、刑法改正―保安処分新説に抗する法制審議会答申粉砕共闘から発言があり、最後に沖共闘の主軸となる3団体、全学連(内城委員長)、首都圏赤色戦線、日本反帝戦線から決意表明があり、芝公園までの果敢なデモを展開した。

6・15~17 狭山差別裁判糾弾 公判闘争を貫徹!
公判闘争第1日15日は解放同盟を先頭に日比谷小公園に約4000名、第2日17日はそれを上回る結集で公演内の激しい抗議デモで法廷内と連帯した闘いが行われた。

6・20 前期学生大会でストを決議
前期執行委員長M君選任に伴い、6月20日通常学生大会が開かれた。前期自治会執行委員会、全共闘・入管闘、一橋自由連合等々の議案説明があり、出席数462人で採決に入った。学費値上げ反対、学生会館実現等を提案する執行委員会案が賛成314、反対73で可決され、全共闘・入管闘議案は賛成190、反対98で否決された。狭山差別裁判を糾弾する伊波七郎裁判長あての抗議文、一橋自由連合による保安処分反対の議案も共に可決された。執行委員会議案可決により、前期自治会は6月21日より7月10日までスト権を確立し、6月21日より3日間ストに突入した。

全共闘・入管闘の議案の内容は記事にないので不明である。学費値上げ反対への支持は大きく、民青系執行部提案の3日間ストが行われた。

6・24―25第12回小平祭開催さる 
<新聞部シンポジウム>
一橋新聞部は24日午後1時から2号館で廣松渉氏を講師に招き、シンポジウム「戦後マルクス主義と物象化論の地平」を開催した。廣松氏は戦後主体性論争、初期マルクスの疎外論から物象化論への展開などについて講演し、そのあと人間の主体性、自然弁証法、前衛党と階級など様々な領域にわたり、約40名が参加して熱心に討論を行った。
<教育シンポジウム>
25日午前12時から2号館で小平祭実行委員会主催により、映画「朝と夜の中のぼくたち」の上映とシンポジウム「新たなる教育戦線の構築へ向けて」が行われた。小平祭実行委員会から「全国教育学園闘争が、民主教育―公教育がブルジョア支配のための労働力商品の生産・再生産に他ならないことの矛盾を暴露しながらも、国家ゲバルトの弾圧により敗北し、学生がニヒル化し居直るという現状を突破していかなければならない。」と基調提起し、続いて知能テスト・特殊学級制による差別―選別教育と不当処分に抗して闘い抜いている三鷹市の高橋先生、「黙々と働く労働者作り」をモットーに生徒を管理し学校批判をした生徒を不当に処分した昭和一工当局に抗議し不当に解雇され、解雇撤回闘争を闘っている小橋先生、臨時労働者の不当解雇と組合破壊の攻撃に抗し無期限ストと支援体制の強化で闘っている教育者労組から闘争報告と問題提起が行われ、教育と労働をめぐり約50名が討論した。
<叛軍=沖縄集会>
25日午後3時から2号館で小平祭実行委員会主催で叛軍=沖縄集会が開催され、中原一氏の講演「プロレタリア革命における軍事路線」と映画砂川3部作の上映が行われ、約30名が参加した。

7・7 派兵阻止に向けて 沖共闘決起集会 於日比谷野音
沖共闘主催の「自衛隊沖縄派兵実力阻止!北熊本現地闘争決起労働者人民総決起集会」が、盧溝橋35周年を迎えた7月7日、日比谷野音に午後6時半より、沖共闘の中心部隊800名を結集して開催された。結集内訳は、プロ統派350名、共産同戦旗派100名、赤色戦線50名、沖青同50名、労活評40名、部落研50名、保安処分粉砕共闘50名、各大学全共闘100名など。
沖共闘事務局浜口氏の決意表明、ベトナム戦争の新展開についての北沢洋子氏の講演、沖縄返還自衛隊派兵を糾弾する新里金福氏の講演、横須賀の反戦米兵の発言、四次防と日程の70年代戦略についての久保綾三氏の講演のあと、三里塚、北富士、北熊本からのアピールの読み上げ、沖青同はじめ結集部隊からの決意表明があり、10時半に終了した。

7・15 沖縄派兵に実力で対決!
沖共闘、北熊本現地闘争を闘い抜く!
社共・革共同両派の闘争放棄を乗り越え
熊本城二の丸公園から断乎として進撃!
7・15から本格的に開始された自衛隊の沖縄派兵は5・15返還式典と沖縄の法的統合に打ち続く反革命的沖縄統合の現実的執行過程の最大の焦点である。社共のみならず各共同両派もこの攻撃に対する対決を放棄していく中で、沖共闘は全国から総力結集し自衛隊の沖縄派兵の出撃拠点である北熊本現地で、派兵に対する痛打を右翼・警察権力の戒厳令を打ち破り勝ち取った。
沖共闘・沖青同・全九州沖共闘・北熊本現地共闘会議の4団体の呼びかけによる「7・15自衛隊派兵阻止・軍都解体・北熊本制圧大統一行動」には全国から2000名の労働者・学生炎天下の熊本城二の丸公園に結集し、午後2時から統一集会を開始した。結集内訳はプロ統派(全学連・反戦・社青同・反帝高評・全水道労研など)800名、日本反帝戦線(戦旗派)130名、赤色戦線150名、関西実行委員会150名・全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘60名、沖青同30名、都立大全共闘、静大沖共闘、九大法共闘、明大実行委、立大阻止共闘、福岡ベ平連など。
沖共闘事務局浜口氏が集会実行委の形成過程の報告と決意表明、北熊本現地共闘の中谷氏、沖青同、沖縄反帝労働者共闘、長沼地区叛軍行動委、返還粉砕全都青学共闘、自衛隊派兵阻止全関西実行委員会、徳島県反戦、全九州沖共闘、熊本地区派兵阻止共闘、3・13自衛隊西部方面隊総監部突入戦士、福岡ベ平連の発言、岩国基地反戦米兵からのアピールの読み上げ、全水道労研、全学連中央執行委員会八十島書記長、高校生叛軍共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘、社青同中央本部、日本反帝戦線、プロレタリア青年同盟、関西労働者共闘が発言し、4時半ごろデモに出発した。
右翼・機動隊の戒厳令を突破し戦闘を貫徹
プロ統200名に反帝戦線等を加えて300名以上の旗竿部隊が槍衾を作り、熊本城の北大手門口から出撃し阻止線を張る機動隊に突撃を繰り返し、旗竿部隊の後ろに労学のスクラム部隊が続き、機動隊の壁を打ち砕こうとする。官憲は放水車を前面に出し4時50分強力な水圧で放水を開始、後方のスクラム部隊が旗竿部隊を押し出し隊列が乱れたところに機動隊が突入し、道の両脇のグラウンドと濠に200人ぐらいが叩き落され、多くの負傷者が出て、約30名が不当逮捕された。機動隊は四方から公園に乱入し、再度出撃しようとする部隊に襲い掛かり、執拗にテロを行い旗竿を没収し武装解除させる。5時過ぎプロ統派を先頭に隊列を整え、再度出撃を克ち取る。この直後公園内に残っていた赤ヘル部隊に青年愛国党なる右翼20数名が機動隊まがいの乱闘服を着て襲い掛かり、しばらく乱闘になる。
官憲は1週間前から「過激派キャンペーン」を市内に徹底させ、市内の商店はシャッターを下ろし、町中に自警団が見られる戒厳令の中を、デモ隊は5列の機動隊が両側から包んでテロを加えるという弾圧に屈せず「派兵阻止」のシュプレヒコールで市民に連帯を訴えた。午後7時ごろ清水基地方向の入り口に差し掛かると、機動隊が装甲車を並べて阻止線を張り申請されたデモコースなのにデモをさせない暴挙に出て、デモ隊は阻止線突破をめざして突撃したが、ならずやむなく解散地点の八景宮公園に向かい、公園入口手前で突然百名の武装右翼が襲い掛かるのを、投石で反撃し、右翼は散り散りに逃げ去った。

北熊本現地闘争には全学新の現地取材活動としてプレスの腕章をつけて参加した。東京からの行きは台風の大雨で寝台特急が途中立ち往生したり、取材本部に予定した佐賀大学の寮が洪水で浸水して使えず、福岡市箱崎の九州大学に移動したり大変だった。熊本城から北熊本への長い道のりのデモに同行し、警官隊からもデモ隊からも不審がられて苦労した。東京への帰り道は法政大学新聞のA君の故郷について行き、広島で海水浴を楽しんだ。

狭山差別裁判糾弾!石川青年奪還!
7-8月公判闘争闘わる
弁護団6つの鑑定書を提出
高裁井波の9月結審―11月死刑判決の策動を目前に控え、弁護団による石川青年の無実を科学的に立証する6つの新鑑定書の提出によって狭山差別裁判は重大な局面を迎えている。全戦線の総力を結集し、9月16・19日の公判闘争に決起し固この闘いに勝利しなければならない。
7・22 公判闘争 日比谷小公園に3千人が結集。
7・23 東拘包囲出デモ 青砥公園から約2百名が参加。
7・27 公判闘争 日比谷小公園に6千人が結集。
8・15 川越密室裁判 浦和地裁川越支部 3百人が結集し糾弾。
8・26 公判闘争 解放同盟主催で日比谷小公園に結集。
8・27 東拘包囲糾弾闘争 獄中の石川氏に連帯 青戸公園3百人が参加。
8・29 公判闘争 日比谷小公園に5千名が結集。

相模原闘争 装甲車搬出に実力で対決
補給廠解体の闘いを展開
社共を超えた闘争地平を構築
8・4~6 横浜港付近の村雨橋で座り込みによるM48戦車輸送阻止
8・12 相模補給廠前 沖共闘系の集会とデモに200名結集。
8・14~相模補給廠前 装甲兵員輸送車M113搬出阻止
現地闘争本部のテント設営 連日ゲート前に2~3000の群衆
対話の輪、機動隊にヤジ、投石
9・2 戦車搬入阻止、補給廠解体、ベトナム反戦青年労働者総決起集会
約800名搬入阻止闘争に決起す
9・19装甲車搬出阻止闘争 18日夕方から1万人以上が補給廠前を埋め尽くし、集会、デモ、座り込み。機動隊がテント村を襲撃し、座り込み部隊を血まみれのテロルで排除し、19日午前6時過ぎ装甲車の輸送が強行された。

狭山差別裁判糾弾!石川青年奪還!
9月結審を粉砕
9・16 公判闘争 解放同盟を中心に日比谷小公園に4000人が結集。弁護団が出した6つの新証拠に動揺した検察側が新しく提出した26の証拠について、高村鑑定人の筆跡鑑定など非科学的な内容が批判された。
9・17 東拘包囲糾弾闘争 青砥公園に200名が結集。
9・19 公判闘争 解放同盟を先頭に労働者・学生・市民6000名が日比谷小公園を埋め尽くした。井波の9月結審―11月死刑判決の野望を打ち砕き、科学的に論証された6つの新鑑定書を認めさせることを法廷の内外で闘って勝ち取る重大な山場となった。

9・16 三里塚を戦う人民大集会
三里塚青年行動隊に対するでっち上げ自白、傷害致死罪適用、繰り返しの再逮捕という権力の弾圧をはね返し、岩山大鉄塔を押し立てて三里塚空港粉砕を克ち取るべく、昨年の9・16闘争の1周年に、三里塚空港反対同盟・青年行動隊の主催で、午後6時から日比谷公会堂で「三里塚を戦う人民大集会」が行われた。現地から結集した150名の反対同盟、狭山9月公判闘争を闘い抜き結集した労働者・学生など6000名が集まり、雨の降る場外まであふれて演壇に耳を傾けた。戸村委員長は「大鉄塔への攻撃の先手を取り、権力に対して闘争宣言を発する。手に武器をとる者は取れ!武装蜂起せよ!弾圧に対して闘いうるか、貫徹できるか。岩山大鉄塔を防衛し、大勝利を克ち取ろう。」と決意表明した。岩山大鉄塔の10万人共有化運動を軸に空港建設の野望を葬り去ることを意志一致し解散した。

全国一斉基地闘争に決起
10・8相模原闘争
諸戦線を結集し補給廠を包囲
秋期闘争の突破口を切り拓く
沖共闘・市民団体等 於矢部公園
10月8日、10・8実行委員会(呼びかけ=沖共闘・県北反軍連絡会議)主催による「10・8ベトナム人民の革命闘争と連帯し/戦車搬出入実力阻止/相模補給廠解体/全関東労学市民5総決起集会」が相模原・矢部公園にプロ統400名をはじめとする労学市民1000名を結集して午後4時から開催された。沖共闘事務局、県北反軍の挨拶、反戦米兵の連帯のメッセージ、ただの市民が戦車を止める会、横須賀地区反軍行動委、厚木基地解体共闘の決意表明、立川基地闘争を闘っている市民団体の連帯の挨拶、沖縄・三里塚を闘う70年代戦線、70年代を考える町田市民連合、反帝反修学生委員会、現闘団救援連絡会議、東交活動者会議、神奈川県反戦連絡会議、神奈川県高校生反軍行動委員会、高校生叛軍共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、法制審議会粉砕実行委員会、全学連(プロ統派)、日本反帝戦線、プロレタリア青年同盟熊本現闘団などが発言し、終了後補給廠ゲート前に向けてデモを行った。
10・10 総評青年協相模原で決起大会
「自衛隊沖縄配備阻止、反基地反安保総評青年協関東ブロック集会」が相模原児童公園に約3000名を結集して午後4時より開始された。総評、社会党相模原現闘本部、来賓の挨拶のあと、川崎動労、全水道など単産、栃木、山梨、千葉各県評、青年協の決意表明を受け、10・28自衛隊派兵阻止の集会アピールを採択し、8時過ぎゲート前に向けデモを行った。
この間緊張関係にあったプロ統派300名、革マル派400名が労学共闘部隊で双方とも旗竿で武装して参加したが、接触はなかった。

10・12 前期学生大会 
小平ストライキに突入
学費闘争を軸に1か月
狭山闘争への決起も決議
10・12前期学生大会において学費闘争を中心とする1か月のストライキが決定され、同時に狭山闘争への決起が決議された。新入生に対する値上げ額での学費の徴収はすでに開始されており、闘いの立ち遅れは否定できないが、ストライキの中からの大衆的な闘いの生みなおしと学費―狭山闘争の結合による全人民的な利害を掛けた闘いで、学費値上げを粉砕しなければならない。
10月12日小平講堂で前期学生大会が開催され、午後1時半には定足数の300名を超え、議長を選出し議事に入った。提出された議案は学費、狭山闘争を中心とする今秋期闘争に関して、狭山差別裁判糾弾闘争委員会(糾闘委)、全共闘・学費値上げ粉砕闘争委員会(学闘委)、自治会執行委、1年生有志から。小平祭問題に関して、A2・D2クラス有志・自治会執行委、小平祭実行委からの6議案であった。今秋期闘争に関する4議案を一括討論したあと、小平祭問題に関する議案を討論することになった。
糾闘委は狭山差別裁判糾弾闘争への決起を訴え、公判日はストライキで日比谷公園に決起することを提案した。全共闘・学闘委は学費闘争を軸に狭山闘争、自衛隊派兵阻止北熊本闘争、10・21闘争などを闘い抜くための無期限ストライキ(チェックポイント方式)を提起した。
A2・D2クラス有志・執行委は現小平祭実行委の即時解散と新小平祭実行委の公選制による選出を提案した。「小平祭問題」の発端は10月5日の昼休み小平学食前の出来事である。学食前で学費闘争への決起を訴える情宣活動を行っていた学闘委諸君の前に、突然20数名の民青系諸君が現れ、「小平祭実行委糾弾集会」なるものを始めた。彼らは小平祭実行委の「裏帳簿」を発見し、合宿費・コンパ代への公金の流用、16万円の使途不明金が明かになったというのだ。小平祭実行委は、「裏帳簿」などは存在せず、彼らの入手したのは小平祭実行委室のロッカーに保管されていた会計ノートであること、合宿費は小平祭運営のための正当な支出であること、コンパ代は実行委以外の協力者への慰労のための支出であること、彼らが昨年度と今年度の会計を混同し操作して使途不明金なるものを作り出し、反帝学評の闘争資金に流用されているというデマをでっち上げたことを明らかにし、自治会執行委に会計ノートの返還とその入手経路の公表と自己批判を要求した。6日には学食の学生に対して小平祭実行委、自治会執行委が双方の見解を明らかにする形で解明が行われ、自治会執行委諸君のデマゴギーが暴かれ、彼らは会計ノートの返還要求に応ぜざるを得ないところまで追い詰められた。11日になって自治会執行委、民青諸君は再び会計ノートの数字を並べなおして、3万円余の使途不明金などを中心に「会計ノートが語る不正の事実」なるものを持ち出してきて、学生大会へ決議案を出した。これに対して、小平祭実行委員会は自治会執行委にデマゴギー策動の自己批判、会計ノートの入手経路の公表などを要求した。学費闘争と学内諸要求を中心とする長期スト権確立による波状ストという自治会執行委提案のあと、一年生有志提案として、学費闘争を1か月(11月11日まで)の長期ストで闘うという提案が行われた。
今秋諸闘争に関する4議案の討論が行われたが、討論はかみ合わず、一年生有志の提案についてほとんど討論がないまま4時30分に討論は打ち切られ休憩に入った。再開した討論は「小平祭問題」を中心に行われ、午後6時から採決に移った。諸闘争に関する4議案の採決は、出席者471名で過半数は236以上で、糾闘委提案は賛成355,反対3,保留45,棄権22で可決。学闘委提案は賛成142,反対168,保留102、棄権28で否決保留。執行委提案は賛成166,反対183,保留87,棄権16で否決保留。一年生有志提案は賛成273,反対108,保留33,棄権22で可決。
この後100人以上が退場し、出席者337名、過半数は169以上で「小平祭問題」について、A2D2有志・執行委提案は賛成243、反対32,保留24、棄権18で可決。この議決について、議長は「小平祭には後期の学生も参加し、実行委は前期後期学生で構成されているので、この議決は前期学生の意思表示の意味を持つ」と言い、一橋祭運営委員長は「全学生の参加する小平祭に関する決定には前期だけでなく後期学生大会の決定が必要だろう」と意見を述べた。このあと退場者が相次ぎ、小平祭実行委の提案の採決には定足数を下回り7時30分ごろ閉会した。この後会場でスト実の結成が行われ、糾闘委、学闘委のメンバー含んで結成が確認され、民青系の諸君の介入の策動は粉砕された。
狭山公判闘争への決起と学費闘争を中心とする長期ストライキが決議されたが、学費闘争について討論が散漫なまま民青系と学闘委が共倒れになり、何の質疑も行われない有志提案が可決されるというこの学生大会の状況は現在の学内大衆運動の困難さを象徴している。

10・12学生大会は学費値上げ反対の機運の中で1年生有志の提案で1か月ストが決まり、全共闘、学闘委も含んでスト実が結成されたが、この期間中のベトナム反戦、沖縄、北熊本、相模原などの反戦反基地闘争へのスト実あるいは全共闘としての参加の記事は見られない。

10・15沖縄闘争の飛躍に向けて
沖縄青年大集会勝ち取られる
主催沖共闘・於中央労政会館
沖縄青年同盟は本土在住の沖縄青年を結集して「沖縄青年大集会」を圧倒的に勝ち取った。文京区の中央労政会館に約150名を結集して午後5時30分から開催された。第1部は、沖縄の解放闘争の歴史を綴った映画「うりずん」の上映、第2部は講演で、沖縄の農業を研究する大成嘉永氏は沖縄の解放闘争には農民の地に足のついた闘いが必要だと述べ、新里金福氏からは本土在住の沖縄人民の闘いの歴史が語られ、自衛隊内から派兵拒否を叫んで決起した沖縄出身兵士与那嶺均一等陸士はプロレタリア兵士として闘い抜くと発言した。富永順一氏のアピールのあと、第3部は沖青同による基調報告が述べられ、10・21は沖縄人独自の闘いを貫徹し鶴見へ結集せよと訴えられた。

平和共存を手段とする
ベトナム革命の圧殺を許すな
10・21国際反帝共同闘争
派兵阻止へ前進 沖共闘など 於礫川公園
礫川公園に3500名を結集し、「ベトナム人民革命闘争と連帯し自衛隊本隊の沖縄派兵阻止!狭山差別裁判糾弾!10・21国際反戦大統一行動中央総決起集会」が闘われた。沖共闘事務局の基調報告、沖青同(鶴見で独自集会を展開のため不参加)の連帯のアピール、解放闘争を闘い続ける南ベトナム臨時革命政府外相グェンチピン女史のメッセージ、三里塚青年行動隊のアピール、反戦米兵運動の推進者ビクトリア良潤氏の発言と反戦米兵のアピール、東京地区反戦労働運動活動者委員会の発言、横須賀反軍行動委、厚木基地解体共闘、朝霞反軍・高叛共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、埼玉糾弾共闘、全都高校生部落研連帯、法制審粉砕実行委、日本反帝戦線、ベトナム沖縄連帯行動委、全学連(プロ統派)の決意表明を受け、日比谷公園にデモを行った。
このほか中核派が芝公園に3千名、革マル派は日比谷野音に3千名を結集し集会とデモを行った。
沖青同は独自の闘い
鶴見の沖縄人居住地域で
沖縄青年同盟は鶴見の潮田公園で午後6時から30名を結集して「10・21日本軍派兵阻止沖縄人総決起集会」を開催し、参加者全員が発言し自分の職場、学園での闘いの報告や問題提起を行った。沖縄の基地内で米兵が沖縄人労働者栄野川さんを虐殺したことを糾弾した。鶴見の市街に沖縄解放の叫びを轟かせデモを貫徹した。

万余の労学派兵阻止に決起
全国の青年労働者を結集
10・28全青協北熊本闘争
10・28自衛隊沖縄配備阻止、反戦・反基地、反安保全国青年労働者北熊本―沖縄総決起集会は、総評青年協・九州ブロック各県青年協の主催のもとに、現地八景水谷公園に、全国から1万2千名の労働者・学生を結集して午後1時から開催された。
集会は総評青年協のブロック別に参加する形で行われた。全学連・反戦(プロ統系)部隊400は、全水道、全逓、自治労、徳島県評等に結集する青年労働者と連帯を克ち取るべく革マル派、協会派との対峙の中介入を貫徹した。革マル派(500)も動労部隊にぶるさがりつつ集会に参加した。
集会は総評中央本部、熊本県評議長、社会党熊本県本青対部長の挨拶、基調報告のあと、沖縄の代表、全国各ブロックから決意表明を受けた。デモは九州ブロックを先頭に清水基地を弾劾し、一万に及ぶ青年労働者が機動隊の規制、右翼の暴行をはねのけ闘い抜いた。

10・29 沖共闘は連続闘争
自衛隊パレードに対決!
10・29自衛隊沖縄派兵阻止-自衛隊22周年記念パレード粉砕沖共闘現地総決起集会は午前11時から熊本大学館前広場に約500名を結集して行われた。プロ統400(全学連・反戦・東水労研、自治労、西部三大学共闘等)、反帝戦線(戦旗派)20、プロ青同15、京都返還粉砕労働者実行委20、福岡べ平連10の各部隊が参加し、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線代表高見圭司氏、沖共闘事務局浜口氏、全九州沖共闘、北熊本現地共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議等が発言した。相模原闘争を闘う反軍・反基地16号沿線住民連絡会議の連帯アピールを受け、清水基地に向けデモを行い基地前で10分間の集会を貫徹し、繁華街の中で市民へのビラ入れを貫徹した。

国道16号を貫いた決起で戦車搬送を阻止
10・24横浜ノースピア
政府・自民党は10月17日米軍車両を車両制限令の適応から外してフリーパスとすべく車両制限令の一部改悪を決定し、10月19日にはフリーパス第1号として車両制限令の基準を超えるトレーラーが、更に10月24日には翌朝までにM42対空戦車、装甲車計60台が補給廠から横浜港米軍専用ふ頭(ノースピア)へ運ばれた。ノースピアにはこの装甲車輸送を阻止するため労働者、学生、市民が続々と結集した。機動隊の厚い壁を突破して道路上に座り込んだ労学市民は機動隊のなぐるけるの暴行に屈せず30分にわたり装甲車をストップさせた。同時にビクトリア良潤氏は横須賀の反戦米兵のアピールをテープで流し米兵に反戦を訴えた。
11・8-9相模原補給廠から横浜ノースピア
そして11月6日の日米合同委車両通行小委員会における「同意」に基づく村雨橋、千鳥橋の補強工事を先駆けとして、11月8日夜、最後まで残されていたM48戦車が補給庫から運び出された。この搬送は8日夜から9日未明にかけて行われ併せて26台がノースピアに向かった。阻止闘争は9月以来最大の盛り上がりを見せ、補給廠ゲート前、国道16号線村雨橋、ノースピアなど搬送ルートの各地点で労学市民による果敢な闘争が展開された。国道16号線保土谷付近ではプロ統派労学部隊約200名が道路上にバリケードを築いて戦車群と対峙し、機動隊と対決し約70名が逮捕されたが、30分間戦車は立ち往生した。ノースピアでも万余の労学市民が決起し、青年労働者を先頭に戦車を止め機動隊と激突し、戦車は何回も立ち往生しながら、ノースピアに入ったのは午前7時半だった。この闘争で合わせて118名が不当逮捕された。

11・3-5一橋祭開催
新聞部は清水多吉氏、山崎カヲル氏を招いて、シンポジウム「ライヒの復権をめぐって」を行った。一橋祭全体の流れは模擬店、コンサート、演劇等の催しの氾濫に終始した。

11・11小平ストライキ終わる
学費闘争の永続化を
スト実は1年生有志を中心に、狭山差別裁判糾弾闘争委員会(糾闘委)、学費値上げ粉砕闘争(学闘委)を含んで成立した。大学当局は、10月25日、26日に予定されていた小平出張授業料徴収業務を中止し、10月23日と11月9日の2回団交が行われた。スト実は①大学当局は学費値上げに反対する態度を明確にせよ②学則の学費条項に関する改定を撤回せよ、などの要求を行ったが、当局は応じず、10月24日、31日の学生大会は学生が集まらず流会した。スト期間中小平には閑古鳥の啼く状態で学費闘争は低迷した。最終日の11月11日は午後1時からストの総括を行うために数十名の参加で学生大会→学生集会が開かれ、スト闘争報告、米軍戦車搬送阻止闘争報告、団交の報告がなされ、スト実は①不払い同盟の結成②学則学費条項撤回まで何回でも団交を開く、の2項を提起した。

狭山闘争の更なる前進へ
10・12弁護団に文書で回答 井波結審=判決を放棄
10・22第5波東拘闘争 さらなる追撃
11・18全都神奈川糾弾共闘会議呼びかけの総決起集
於清水谷公園 井波退官へ徹底追撃 政府高裁へ実力で進撃
11・19第6波東拘包囲デモ 永続的闘いの構築へ
11・19,28 全国部落研・中核派も都内で狭山闘争
井波はついに自らの手による無実の部落青年石川氏への死刑判決を断念せざるを得ず、11月末に退官した。新段階に突入した狭山闘争の完全な勝利へ更なる前進を遂げねばならない。
11・20沖青同主催 富村公判決起集会 第1回控訴審に向けて
11・26三里塚決起集会 大弾圧許さず鉄塔攻防戦へ
12・1在日中国人保母徐翆珍支援闘争へ

一橋大学入管体制粉砕実行委員会アピール
自衛隊本隊立川進駐 防衛庁年内強行を通告
12・7 立川集会 緊迫する立川
予想される本進駐攻撃に対し立川基地自衛隊進駐阻止共闘会議(阻止共闘)は本進駐実力阻止を掲げ12月10日から連続闘争に突入しつつある。12月7日三多摩反戦(プロ統派系)などの呼びかけで立川商工会議所で約200名を結集して「立川・三里塚を闘う労働者市民集会」が開催された。もののべながおき氏の連帯の挨拶、70年代戦線の高見圭司氏の基調報告に続いて、立川から基地をなくす市民の会の下野氏、立川市議の島田清作氏、70年代を考える町田市民連合、三多摩高校生共闘会議、東京造形大自治会、日野自動車労働組合有志の会、社青同三多摩分室、三多摩反戦、70年代戦線の佐藤敏昭氏が発言した。
12月9日には防衛庁幹部が立川市役所を訪れ「年内に絶対に移駐する」旨述べている。
12月10日の労働者・市民団体の闘いに恐怖した防衛庁、公安当局は市民に返還したはずの正面ゲート前の広場を管理者の関東財務局に鉄条網で封鎖させ、集会を禁止したが、立川周辺の市民団体とプロ統派、叛旗派、第4インターを加えた300名の部隊がゲート前の集会を打ち抜き、機動隊の弾圧を許さず、自衛隊駐屯地に抗議のデモを行った。
12月11日から正面ゲート近く滑走路南端の児童公園に市民団体、ベ平連系グループを中心に監視テント村が作られ、泊まり込みで抜き打ちの進駐を許さない監視体制が確立した。このテント村にはあとからプロ統派なども加わり、叛旗派、革マル派も近くにテントを張った。
立川市議会では、71年10月に可決した「移駐反対意見書」を72年1月に撤回していたが、12月13日革新系と一部保守系議員が「立川基地の平和利用と自衛隊移駐反対に関する意見書」を提出可決し再び反対に転じた。同日立川市職員組合は「自衛隊移駐阻止」を掲げて早朝1時間ストライキを行った。12月16日には革新市長会会議で飛鳥田横浜市長が自衛隊員の住民登録を拒否することを提案した。
12月18日立川駅北口広場で午後6時半から「自衛隊移駐反対議会報告集会」が開かれ、総評系の「立川基地自衛隊移駐反対労組共闘会議」の労組員も合流し、市民を含め数千人が駅前を埋めた。ここで阿部市長は「移駐を前提とした会談には応じない」と発言したが、翌19日には一変して防衛庁との「移駐を前提とした会談」を受諾した。12月20日立川市役所で行われようとした阿部市長と防衛庁との会談を労学市民約50名が現場で阻止した。
12月25日自分からノコノコ防衛庁に出かけた阿部市長に、防衛庁は27日に自衛隊本隊進駐を強行すると最後通告した。市民団体などは防衛庁に急行し徹夜で抗議闘争を貫徹した。
12月26日市職労は27日時限ストで決起することを決めた。社共、総評も緊急闘争を決定した。立川市が「営内に居住する自衛隊員の住民登録を停止する」と決定した。

12・27内乱鎮圧部隊本隊
立川基地に進駐を強行
さみだれ進駐を阻止し自衛隊を放逐せよ!
数千労学市民の怒り爆発
12月27日午前10時政府は立川基地への自衛隊本隊進駐を強行した。基地正面ゲート前を埋め尽くした数千の労働者、市民、学生の弾劾の渦の中を空から轟音を響かせながら基地へと進入したヘリコプターの姿は、ベトナム人民に銃火を浴びせ虐殺するヘリボーン作戦さながらであった。
 この日早朝から正面ゲート前には、テント村を拠点に闘って来た市民、労働者、学生など約200名が結集し、機動隊と対峙して歩道に座り込み、進駐強行を弾劾し、実力阻止を訴え続けた。午前8時半ごろから駅前広場で集会を行っていた総評系の移駐反対労組共闘はデモに移り、電通、全逓の青年労働者を先頭に約2000名の隊列で正面ゲートに進撃した。9時半歩道に座り込んでいた市民、学生はゲートに立ちふさがる機動隊にスクラムで激突し、青年労働者、市民、学生が一体となり機動隊を押しまくりゲートの奥深く突き進んだ。時を同じくして、基地北側の反戦放送塔の近くからもうもうと黒煙が上がった。プロ統派、叛旗派などのゲリラ部隊が古タイヤを燃やしヘリコプターの進入を妨げる火の手を上げたのだ。基地南側のテント村ではベ平連などが花火や凧を上げて連帯した。午前10時過ぎにヘリコプターが基地内に着陸した後も労学市民の弾劾の闘いは止まることなく、正面ゲート前の座り込みと機動隊への激突を繰り返した。午後4時ごろ座り込みの市民6人を機動隊が暴行し逮捕する事態が発生し、立川警察署に抗議と同志奪還の戦いが午後11時まで行われた。午前中は機動隊によって部隊丸ごと公園に押し込められていた叛旗派100名は午後6時ごろ駅前で機動隊に突っ込み十数人が逮捕された。中核派は午後6時ごろ約600名で高砂公園で集会のあと市内をデモした。
(続く)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年4月20日(月)に更新予定です。

今回のブログは前回に引き続き、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
また、政治闘争の記事については、大学新聞ではあるが、かなり詳細に書かれているので、記録的価値は高い。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1971年である。

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(『一橋新聞』1970.9.16)
『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉〈Mの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1970年
11・15沖縄国政参加選挙粉砕労学市民総決起集会 於日比谷野音
11・17~28 小平地区入管連続闘争
11・24 武蔵野美術大学芸術祭闘争に当局の弾圧激化
11・25 三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自刃
11・30~12・2 社会党大会 揺れ動く社会党 分裂と統一
12・6 三里塚闘争総決起集会
全国から6500名が決起
ブルジョアジーの攻撃は「第一期工区の完成」に向けた最終段階に突入し、全国の地域闘争を闘い抜いている北富士忍草母の会、柏原原発反対同盟、長沼ナイキ基地反対同盟、能勢ミサイル基地反対同盟、などの代表が結集して、交流―結合が深められ、スローガンには三里塚闘争では初めて「佐藤政府打倒」が掲げられた。
12・9 全国叛軍行動委連絡会議結成
12・10 小西裁判第4回公判闘争
12・18 京浜安保共闘が上赤塚交番を襲撃
12・20 沖縄コザ市の地域住民大衆による自然発生的暴動

以上は1970年11月から12月の一橋新聞から見出しだけを列挙した。全国の大学の闘いは国家権力による大学立法、バリケード解除の攻勢で鎮圧されたが、一方で沖縄、入管、三里塚、反軍と戦線が広がってきたことがわかる。と同時に、三島の自決、交番襲撃テロ、コザ暴動のように暴力の現れ方が過激になっているようにも見える。
 1970年11月全闘委、十共闘の活動が途絶えた後は、級友たちに問われた時にバリストの正当性を主張する自信がなかったためかもしれないが、私は小平、国立のキャンパスには足が向かず、神田一ツ橋の一橋講堂の裏にある一橋新聞部室に通うことが多くなった。ちょうど11月25日に起きた三島由紀夫の自刃事件で世間の話題は持ちきりだった。一橋新聞も平岡正明氏に寄稿をお願いし、「反面同志の死」などと持ち上げていたが、私は知的な人間が天皇陛下万歳などと叫んで切腹するとは何と愚かなことかと思っていた。
 学生運動は自分で考えてまだ始めたばかりのことなのでやめるのはおかしいと思い、私は全闘委崩壊後も活動を続けている反帝学評の活動に加わることにした。一橋の反帝学評はシンパまで含めても10人ぐらい、動員で集まる人数は5,6人、三多摩地区の学生部隊に加わって活動することが多かった。地区の拠点校は武蔵野美術大学で自治会を掌握し、全学連の役員を出し、シンパも含めると数十人で、個性的で面白い人が多かった。他には成蹊大学、東京造形大学、清瀬リハビリテーション学院、都立商科短大、国立音楽大学、東京農工大学などの学生がいて、動員で集まる人数は20~30人ぐらいだった。東大三鷹寮のTさんがオルグ、武蔵美のSさんがキャップで、三鷹寮近くのガソリンスタンドの休憩室やSさんのアパートで会議をすることが多かった。

1971年
一橋新聞1月1日号
小平祭実行委員会による第10回小平祭総括
深部からの教育闘争を 第11回小平祭成功のために
問われたものは何か
小平祭からサークル共闘へ
教育過程を食い破る団結の形成を

1月16日号 編集部による論説
階級闘争の現在的到達点の実践的対象化を通して
70年代権力闘争へ!
70年の掉尾とも言うべき沖縄コザ市の地域住民大衆による自然発生的暴動、そしてまた毒ガス撤去闘争、国頭村実弾演習実力阻止闘争の沖縄全島を覆う圧倒的な高揚は〈本土〉における階級闘争の低迷を際立たせるものでもあった。全闘争主体は69年10-11月安保決戦の敗北によって強いられた後退戦を闘いつつ70年4-6月に登りつめた。それ以降、党派闘争の全面開花の中で全国全共闘・反戦の再編が焦眉の課題として現前している。
「復帰」運動を超えて激発する沖縄人民の闘い
71年入管闘争の質 一つの世界革命に向けて
近づく三里塚決戦に備え隊列の強化を!

全共闘運動の新たな飛躍をめざして
1・18東大決戦2周年全都総決起集会
礫川公園において東大全共闘・東大全学労働者共闘会議及び全国全共闘主催により労学約5千人の結集で行われた。
 東大における学内労働者との連帯による学園闘争の質的飛躍は、69年10-11月闘争の只中で開始された病院労働者の「安保粉砕!佐藤訪米阻止!北病棟移転阻止」をスローガンとするストライキ闘争とそれに続く政治処分粉砕闘争との連帯として開始され、70年6月の応用微生物研究所、9月以降の地震研究所の臨時労働者の決起と結合し新たな段階に入りつつある。東大全共闘はこの学内位階制に対する臨時労働者の戦いに連帯することにより、「知性の府」に対するラディカルな告発という観念的な自己否定運動の限界を突破し、地区における労学の連帯した入管闘争の推進を通して、あらたな質的飛躍をかけて第2次東大闘争を構築しつつある。
 この全共闘運動の新たな飛躍の頂点と言える1・18闘争は当初東大安田講堂前の集会として予定されたが、東大当局が全国全共闘と革マル派の衝突が予想されるという口実で東大構内ロックアウトを行ったため、会場が変更された。しかし東大全共闘・全労協はロックアウト=機動隊警備体制を突破して、安田講堂前集会を貫徹し、礫川公園の会場に登場した。革マル派はこの1・18闘争への暴力的な敵対を策動し全国動員で登場しようとしたが、集会を防衛するために早朝から出発した反帝学評の部隊約200名は、地下鉄早稲田駅構内で遭遇した革マル派の先遣隊約100名を5分足らずで粉砕し敗走させ、約20名の学生インターの部隊と共に集会場の防衛にあたったため、革マル派は集会への介入を断念し近くの公園で300名の集会デモを行い、夜は1000名が日比谷公園で集会を行うに止まった。

 私は反帝学評の部隊に加わり、1・18闘争の前日から泊まり込んで早朝に地下鉄東西線で会場の礫川公園に向かった。電車が早稲田駅に入っていくと、ホーム上に革マル派の部隊がヘルメットや旗竿を持って集まっていた。それに気づいた電車内の部隊はヘルメットと旗竿で武装してホーム上に出て旗竿を構えて、革マル派と対峙した。不意を衝かれた革マル派はヘルメットや旗竿を投げ捨てて敗走した。私は車内に残って立ちすくんでホーム上の揉み合いを見つめていた。私が目の前で目撃した内ゲバ初体験であった。

1・15 日韓法的地位協定粉砕!入管法再上程阻止!中央総決起集会
日比谷野音で約5千人が結集し開かれた。東京入管闘から基調報告のあと劉彩品支援全都連絡会議、劉道昌君を支援する闘争委員会、朴鐘碩君への就職差別粉砕を闘う代表、各地区実、沖縄救援連絡センター、バーバラ・バイさん代読、全国部落研連合、全国全共闘、全国反戦、各党派が発言しデモに出発した。翌16日日韓法的地位協定に基づく永住権申請期限切れに対して、全国各地でデモ、集会、対自治体闘争が展開された。

1・22 狭山差別裁判徹底糾弾・部落解放人民連帯集会
革労協,革共同、共産同、第四インター、ML派、フロント、共労党、沖縄救援センター、全国反戦救対、破防法裁判闘争を支える会が支持共闘をアピール。
2・4 沖縄とともに闘う中央総決起集会 山本君「奪還論」を批判
午後5時半から日比谷野外音楽堂で2・4実行委員会(全国反戦・全国全共闘・沖縄青年委員会・沖縄救援委員会・市民団体他)の主催で、コザ暴動断固支持・騒乱罪適用粉砕・沖縄返還協定粉砕・3月協定調印阻止・全軍労3000人首切り粉砕・毒ガス撤去・自衛隊派兵阻止のスローガンの下、約4千人の労働者学生の結集のうちにかちとられた。主要党派の内訳は中核派600名、反帝学評400名、共産同(戦旗派)150名であった。全国全共闘議長の山本義隆君が中核派の沖縄奪還論への批判を展開して注目された。全国全共闘書記局内部で沖縄闘争を巡って深刻な対立が形成されている。中核派の「沖縄奪還」-「本土復帰」は実体的に進行している政府ブルジョワジーの「本土一体化」政策に対決するものでなく沖縄人民の階級形成にとって極めて疎外された役割を果たし、沖縄闘争の民族主義的固定化をもたらすと発言した。

2・11「紀元節」粉砕 立川「建国祭」阻止闘争→中央総決起集会
「建国記念日」粉砕の集会が全国部落研連合・東京入管闘・全国叛軍連絡会議の主催で日比谷野音で、三島自決―「紀元節」を貫くブルジョアジーの反革命的イデオロギー攻撃に対決する闘いとして、全関東の労働者・学生・高校生・市民約6千名を結集して行われた。高校生は芝公園で独自集会を開催したのち日比谷に結集した。
 三多摩地区の労学約200名は砂川反戦広場に早朝から結集し、基地反対同盟宮岡氏、三多摩入管連絡会議、破防法被告団,武三反軍のもののべ氏、社会党の帝国主義社民への転化に抗して闘う社会党員、反戦運動を闘っているキリスト者等から発言を受け、立川市の「建国祭」粉砕・立川基地自衛隊移管阻止の集会とデモを行い、日比谷の集会に結集した。
日比谷の集会で全国全共闘の山本議長は、「建国記念日」という支配者のイデオロギー攻撃を単にイデオロギーの問題としてではなく、社会総体に進行するブルジョアジーによる再編との対決として問題にすべきであると述べた。

三里塚、決戦期に突入!
第1次強制収用阻止闘争
2月22日から強制代執行!連続闘争・塹壕闘争闘われる
友納千葉県知事は一坪運動地6か所に対する強制代執行を決定、22日から3週間で執行の野望により、三里塚闘争は決戦に突入した。反対同盟と現地行動隊は地下要塞を拠点として常駐。臨戦体制を確立し、塹壕前から公団へと波状デモを繰り返す一方、公団職員に姿を変えた右翼の悪辣な挑発を粉砕し、断固たる闘いを推進している。
2・14 三里塚空港長期決戦勝利総決起集会
千葉市本町公園で午後1時から、全国全共闘・反戦の主催で開催された。塹壕の中で不眠不休の闘いを続ける三里塚・芝山の農民の参加はなかったが、「三里塚空港粉砕!強制収用実力阻止!塹壕死守闘争貫徹!執行吏友納打倒!」のスローガンを掲げて、労・農・学・市民3千名が結集した。全国全共闘山本議長から、「五年間にわたる権力の暴力的かつ陰湿な攻撃に抗し闘って来た、すべての成果を結集し、地下要塞とバリケードを死守せよ!新全総における運輸・交通部門の中枢である三里塚空港での闘いこそ敵権力中枢での闘いである。三里塚塹壕隊の檄に応えよ!農民の殺戮をも辞さない敵権力の手を農民の身体に触れさせるな!」との熱烈な発言がなされた。次に三里塚・芝山空港反対同盟戸村一作氏が「2500名の反対闘争による富里空港建設阻止に始まり、この三里塚の闘いによって敵権力は最終的に追い詰められている。われわれの闘いは今、『地中での闘い』という新局面を切り開いた。地下壕にガス銃がぶち込まれれば、われわれは死んでしまうが、われわれは死んで守るのではなく、生きるために闘うのだ。われわれの闘いは今や三里塚一地域の闘いではなく、政府打倒の階級闘争・革命闘争となっている。全国の労学三里塚に結集せよ!」と発言した後、救援連絡センター、各県反戦、各学生党派が発言し、動労千葉青年部が闘争宣言を行い、千葉県知事公舎に向けてデモ行進し、プロ統派、中核派、フロントが機動隊に突撃を繰り返し、28名が逮捕された。
地元農民との連帯克ちとる!
三里塚決戦を勝利的に展開
【三里塚発】「魂のふるさと三里塚」と書いたのぼりが駒井野の野戦病院の近くに立っている。三里塚農民の闘いは僕たちに闘いの魂を鮮やかに見せてくれる。闘いの楽しさを教えてくれる。ブルジョア社会の中で階級闘争を担うのは苦しいのが当然だというストイックな決意主義をあっさりと超えるさわやかさがそこにある。それは三里塚農民の5年有余の苦闘の成果に違いない。
 駒井野地区の一坪運動地(4000m滑走路予定地)に対する友納千葉県知事を執行吏とする強制収用、強制代執行実力阻止に突入した三里塚農民の顔には全く悲愴感がない。5年有余の闘いを闘い抜いた自信が彼らに勝利を確信させる。少年行動隊、三里塚高校生協議会、青年行動隊、婦人行動隊、老人決死隊を中心とする三里塚芝山連合空港反対同盟は、三里塚地区の部落会、消防団、青年団、婦人会という村落共同体の団結組織を掌握し、反対同盟がなければ何もできないというほどの、農民の自治的な権力としてコミューンとも言うべき力を持っている。「土地を武器に権力と闘う」農民の県政、国政と対決する自己権力ともいえる。戸村委員長は「この戦いは絶対に負けない戦いだ」と公言する。反対同盟を中心に形成された土地を基盤とした農民の団結は権力によって破壊できない。
三里塚農民の不屈の闘いに触発されて、支援の労働者、学生、高校生も連日の闘いを、生き生きとした顔で疲労にめげず闘っている。農民と共に闘うことで我々は初めて彼らの闘いから学ぶことができる。
この闘いを最先頭で闘っている少年行動隊は一時は「関係のない子供を使うな」というブルジョア倫理の攻撃で解散させられていたが、現地で彼らと話してみればわかるように、彼らは親たちを殺そうとする公団は許せない、先生たちはなぜ僕らと一緒に闘わないのか、といった彼ら自身の思想と情熱で闘っている。教師や級友との対話集会、近くの学校へのビラ入れ、同盟休校という彼らの運動は、ブルジョア倫理の思惑を超え進んでおり、自らの手で教育を行う同盟学校の設立という教育を支配者の手から奪還する闘いに進みつつある。
婦人行動隊はこの少年行動隊の闘いをPTAを通じて援護している。
 青年行動隊は反対同盟内の最も先進的な部隊として様々なゲリラ活動を展開している。青年行動隊のキャラバン隊によるオルグ活動によって、全国各地の基地・公害闘争団体が結集した昨年12月6日の三里塚闘争勝利・佐藤政府打倒・全国住民運動総決起集会は、政府打倒を前面に掲げることによって地域住民運動の結合と発展の方向をリアルに示した。
【闘争日誌】
第1日(2月22日)強制代執行の初日、東京を中心に各地から学生・労働者・高校生等支援団体が続々と成田駅に到着し、駒井野団結小屋脇の広場に向かい、午後1時頃から広場で反対同盟主催で3千名規模の集会が行われ、全支援部隊は3週間にわたる強制代執行の攻撃を反対同盟と連帯して最後まで闘い抜くことを確認した。
 一方、県職員、公団職員、ガードマンからなる約3百人の収容作業班が12時45分公団事務所のある丘の上から第1、第2、第4地点めざして下ろうとした。これに対して、反対同盟農民は要塞に立てこもり、各支援団体は突撃隊型でデモを繰り返し、収用班を追いまくり、圧倒した。県・公団側は開始宣言もできないまま収容作業を断念した。
第2日(2月23日)朝から土砂降りの雨の中、各拠点で反対同盟、支援団体が阻止線を張って収用班を待ち構えた。11時半ごろ姿を現した収用班は第1地点に向かったが農民、支援団体のスクラム、投石で近づけず、枯れ木を10本拾って早々に退散し、これを称して第1地点の立ち木を伐採し強制代執行を完了したと宣言した。この後大量の機動隊を前面に押し立て収用班は第4地点に向かって来た。農民は要塞に立てこもり、ある者は鎖で体を杭に縛り付け、老人決死隊から少年行動隊まで全員が座り込んだ。支援部隊は60名の竹やり・旗竿部隊と二百数十名の阻止ピケット部隊を配置し、千近い機動隊を前面にした収用班と対峙した。緊迫した対峙が1時間以上続いたが、機動隊・収用班は天候不良を名目に3時半に退散した。
第3日(2月24日)反対同盟、支援団体は早朝から厳重な防衛体制で機動隊・収用班を待ち構えた。一方、収用班は千数百の機動隊を前面に9時半から行動を開始した。第4拠点のプロ統、フロントはじめ支援部隊は旗竿を先頭にスクラム・投石で機動隊・収用班と一進一退の攻防を展開した。10時半ごろ少年行動隊訳50名が収用班・ガードマンを押しまくって公団事務所に迫った。恐怖したガードマンはこの小中学生たちにこん棒で襲い掛かり、5人の重軽傷者を出した。少年行動隊の勇敢な闘いに呼応して学生、労働者部隊は突撃隊型でデモを展開し、千数百の機動隊・収用班を要塞に近づけなかった。
第4日(2月25日)県、公団、警察は二千に近い機動隊を前面に攻勢をかけようと各拠点に押し寄せ、主に支援部隊の排除を狙って、凶器準備集合罪、威力業務妨害等の名目で弾圧に掛かった。竹竿を先頭にした突撃をはじめ、支援部隊、反対同盟は141名の検挙という大弾圧に屈せず闘い抜き、代執行作業を行わせなかった。
第5日(2月26日)反対同盟、支援部隊は前日同様の臨戦体制を構築した。このひるむことのない前進の前に、友納知事は27日28日の代執行の中止を発表した。少年行動隊は再び公団事務所にデモで突撃し、公団当局者に抗議し、”説得“にやってきた校長たちに「先生たちも僕たちと戦え」と迫った。
 三里塚農民の闘いはこのように不屈の前進を続けている。彼らは必ず勝利する。そしてわれわれも。
塹壕死守で闘い抜く 燃え上がる三里塚闘争
反対同盟先頭に労学決起 第1次収用は終了
2月27日28日3月1日 代執行は中止延期され、反対同盟と援農の部隊は畑仕事の共同作業を進め、各トリデでは補強が進む。
大群衆とともに公団・機動隊を撃退
3月2日 第1第2トリデ前の広場に1月13日に亡くなった小川明治反対同盟副委員長の49日の法要の祭壇が設けられ、午前8時すぎ「同志は倒れぬ」のメロディーの中症候が始まったところ、公団側はやおら前進を開始した。警視庁の二機、三機、四機までも動員し2300人の機動隊を導入し、収用班は高圧的な姿勢で臨んできたが、反対同盟・支援部隊の強固な隊列と五千から万を超す群集の投石がこの目論見を完膚なきまでに粉砕した。13人が公務執行妨害で逮捕され、午後5時収用作業は中止された。
3月3日 朝から土砂降りの雨で各トリデの前のくぼ地は泥沼と化し、地下要塞の落盤も心配された。警察は2300人を動員し、午前8時には現場に通じる道路に関所を設け群衆・部隊の締め出しにかかった。機動隊が完全包囲して砦の中に部隊を封じ込め、収用班がバリケードを破壊する。投石部隊・竹竿部隊が包囲を破りバリケードを再構築する一進一退が続き、午後5時15分公団はトリデの一角に手を付けただけで作業を打ち切った。
3月4日 代執行は中止され、トリデは強固に補強された。
3月5日 機動隊3000人が゙動員され厳しい検問が行われた。第1、第6地点を中心に放水車、ブルドーザー、レッカー車など機械力を導入した残酷な作業が進められ、これに対し農民、労働者、学生約1700人が投石、数十本の火焔瓶で闘い抜いた。逮捕者は65名、負傷者は240名(重傷120名)に及んだ。
“暁の大激突” 徹底抗戦及ばず
3月6日 早朝5時半から3400人の機動隊が駒井野地域を完全に包囲し、検問体制を引いた。支援に来る学生を盾で乱打し阻止し、団結小屋付近に結集した部隊を阻止線外に追い出し、第4地点前の防衛部隊を大量逮捕し各トリデを機動隊が完全に包囲した。これに対し第5地点後方に結集した労農市民約3000人が投石を繰り返し、阻止線突破を試みるが激しい放水に散らされた。この間に第3、第5地点ではブルドーザー、レッカー車等でバリケードやトリデが破壊された。
総評青対部現地集会 機関決定で決起
3月7日 総評青対部主催の初の三里塚現地集会が午後から駒井野の野戦病院脇の広場で行われた。全水道、全逓、国労、動労等が組合決定で参加した。解放派、総評青年部等約1600人の部隊が公団分室に向けデモを行い、投石、スクラムでの突入を図るなど闘い抜いた。
3月8日 早朝から700人の機動隊に守られた作業班100名が第3トリデの塹壕に攻撃を開始した。反対同盟は30人が座り込むが排除された。午後1時支援部隊約250人が阻止線突破を図るが機動隊により後退させられた。
 この日千葉県市長会、町長会が斡旋案を出して調停の動きを見せた。
支援部隊ゲリラ的に破壊戦を展開―休戦協定以降
3月9日 反対同盟は公団と「休戦協定」を交わした。
この協定後も反対同盟と支援部隊は塹壕とバリケードの補強を進め再度の対決に備えた。
3月25日 早朝公団はついに機動隊3700人を要請し、農民の抵抗を残忍に排除して、ブルドーザーですべての塹壕を埋め尽くした。新部隊は各所にゲリラ的に出没して工事資材などを破壊して農民の闘いを援護した。

 2月から3月の三里塚の闘いは私が経験した最も張り合いのある闘いであった。数人で組んで京成電鉄で成田に行き、現地ではビニールハウスに泊まり、1週間ぐらい闘争に参加し、次の組が来ると交代して東京に戻り、キャンパスや吉祥寺駅前でビラを撒き、カンパを集め、軍資金を作ってまた現地に向かうことを繰り返した。キャンパスや街頭での学生や市民の反応はよく、三里塚農民の闘いを支持する人々は多かった。現地での行動は反対同盟の人々が築いた塹壕を守備し、集会を繰り返したり、公団事務所にデモを掛けたり、二人組で周辺の街にビラを撒きに行ったりした。夜は満天の星の下で塹壕の前で焚火を囲み、支援の学生同士で語り合った。キャンプに行ったような楽しさだった。今思えば反対同盟の人たち、農家の人々と語り合うことは少なく、連帯と呼べる繋がりは作れなかったのは残念であった。私の滞在中は大きな衝突や闘いはなかったが、最後には多くの逮捕者があり、一橋や三多摩の反帝学評はしばらく機能しなかった。

3・7 狭山差別裁判徹底糾弾中央総決起集会
3・2,4,9,11 狭山差別裁判公判闘争
3・9 三多摩入管総決起集会
3・16 入管法再上程阻止緊急集会
革マル派の介入を許さず貫徹
4・6 三里塚支援中央闘争(日比谷野音)
この日の集会は、三里塚農民の革命的な闘いを受け4・6集会実行委員会の主催により、日比谷野外音楽堂で午後5時から約4千人が結集し開催された。革マル派による集会全面介入が伝えられたため、早朝から集会貫徹のための会場防衛が全共闘部隊(反帝学評、フロント、ブント、中核派等約300名)を中心に行われた。革マル派は当日予定した清水谷公園からの集会デモを中止して、武装したまま大手町駅で待機し、6時ごろからバラバラと日比谷公園内に入り武装デモをして、攻撃をかけてきた。周到な準備による革マル派の投石(危険な鉄片なども投げられた)により防衛隊は後退を余儀なくされ、一旦会場内に入り革マル派の会場乱入を阻止し、再び会場外に出て防衛体制を確立し、集会を勝ちとり、デモを東京駅まで貫徹した。

ようやく一橋学内の組織を立て直しながら、私は4・6集会に参加したが、日比谷野音の後方で会場防衛の隊形を取っているところを革マル派に襲撃され、旗竿を構えてぶつかり合ったところで、革マル派が投げたナイフのような鉄片がヘルメットに突き刺さり額に傷を負い、命からがら塀を乗り越えて野音の中に逃れ、内ゲバの恐ろしさを身をもって体験した。

4・15 全軍労・県労協統一スト連帯
返還協定粉砕・5月調印阻止・全都総決起集会 於芝公園

一橋新聞4月16日号 小平祭実行委員会
第11回小平祭に向けて 
深部からの教育闘争をもって
<まつりごと>の中に組み込まれた<まつり>を粉砕し尽くせ!
抑圧されたエネルギー   あのドス黒い情念を復権せよ
われらにとって<まつり>とは何か

4・20 小平祭実行委員会主催 新入生歓迎集会
201教室に50名の学友を結集して新入生歓迎集会が開かれた。全学連内城委員長より、4・28闘争の基調報告と一橋大における日共=民青との断固たる党派闘争を通した真の自治会運動の創出が訴えられた後、場所を席層教室に移し、三里塚現地実力闘争の記録映画を上映し、その後、革命的労働者協会の五辻活氏より今回の都知事選を軸に反ファッショ人民戦線の本質とそれとは明確に区別された形でのプロレタリア統一戦線の形成という内容での講演を受けた。

4・28 沖縄闘争 5月返還協定調印阻止に向けて 攻撃的に貫徹 日比谷野音に2万3千人
全国反戦・全共闘 中央総決起集会
学内共闘へ新たな胎動-沖共闘 4・27学内討論集会
4・26の前期学生大会は流会に終わったが、4・27の学内討論集会で4・28闘争への隊列の再編成を勝ちとった4・28沖縄共同闘争委員会は28日昼休みに学食前で総決起集会を貫徹した。基調報告、反帝学評、学生インターの発言、有志の発言を受けて、正門前に移り、弾圧対策の意志一致を行い20数名の部隊で日比谷野音に向かった。野音では後期の学友、武蔵野美術大の学友と合流し、集会参加後は一橋=ムサビ独自部隊として戦闘的なデモを展開した。一橋大全共闘部隊としての登場は昨年の10・21以来である。

私は4・19明治公園で行われた朝鮮学生革命11周年の入管闘争の集会(一橋新聞には記事がない)に参加し、集会後のデモの反帝学評の部隊の指揮を任され、ジグザグデモを繰り返し、青山通りに出た直後に私服警官たちに襲われ、逮捕されパトカーに押し込まれ赤坂警察署に連行され留置場に入れられ取り調べを受けた。初めての逮捕経験だった。繰り返しの警告にも拘わらずジグザグデモをやめなかったことが東京都公安条例に違反したということらしい。恥ずかしながら私は完全黙秘の原則を守れなかった。翌日から4・28闘争などの学内の準備をしなければと焦っていた。届け出て承認されているデモの指揮をしただけで、大した罪にならないですぐ釈放されると思っていた。二十歳になったばかりで年齢を言わないと喫煙を許されないのが辛かった。ニコチン依存がかなり重症であった。氏名、生年月日を言って、喫煙し、早めに釈放してもらおうと思っていた。しかし起訴猶予にはなったが、20日間以上拘留された。留置場の生活はそれほど苦痛ではなかった。同房は窃盗犯の無口なおじさんだったが、お向かいの房の住吉連合のお兄さんやおかまのお姐さん(男娼は街で男性に声を掛ける暴行罪で逮捕されるという)とはよくおしゃべりをした。取り調べは短く厳しい追及もなく、かつ丼の出前を取って一服するのが楽しみだった。取調室のシケモクやマッチを持ち帰って、やくざのお兄さんと分け合って房の中でこっそりタバコを吸ったりした。お兄さんはやくざもこれからは大学出だと言って、釈放されたら新宿三丁目のコージーコーナーに居るから顔を出せと言われたが、もちろん行かなかった。両親は赤坂警察署の隣の虎屋の羊羹をもって面会に来て、学生運動で捕まった親戚の息子がドイツに留学して運動と縁を切ったと聞いて、私にも留学をすすめてきたので、ドイツ留学も悪くないと考えたりした。しかし釈放後には、今回相談した弁護士に20万円も取られたので留学させる金はないと言われ、留学の夢は立ち消えになった。親からは運動をやめないなら家から出るように言われ、月に2万円もらって学費、家賃、生活費一切を賄うように言われた。一橋の1級下のM君とムサビの少し年上のIさんと男3人で府中の多磨墓地の近くの三多摩の反帝学評のアジトのような一軒家で暮らすことになった。

5・19「沖縄全島ゼネスト連帯・沖縄返還協定調印阻止」
全関東総決起集会 本土―沖縄を貫き決起!
全国全共闘・全国反戦・東京入管闘の主催で清水谷公園に約1万人が結集した。小西誠氏からは自衛隊の沖縄配備に対して自衛隊内部から立ち上がる反軍兵士の闘いの報告、ビクトリア良潤氏からは反戦米兵へのテロの弾劾、沖縄救援会からは富村氏の闘いの報告があり注目された。

執行委員長選低調に終わる
5/26~28投票 前期自治会
5/31~6/2投票 一橋寮
前期自治会執行委員長選挙は、5月17日に公示、18~19日立候補受付で、民主連合政府の樹立を主張する前副委員長のO君、プロレタリア統一戦線を主張するS君、セクト争いに反対し自治会を一人一人の手にと主張するN君の3人で争われ、24~25日の立会演説会は150人ほどの学生が参加し、昨年の新寮闘争、沖縄闘争、三里塚闘争などについて活発な論議があったが、投票数は少なく、総投票数979票、有効投票941票、得票はO君408票、N君308票、S君173票、白票52票で、O君が当選した。
一橋寮委員長選挙は、民青系のSi君と真に闘う寮の構築を唱えるSe君が立候補し、投票総数150票、有効投票146票、Si君105票、Se君40票、白票1票でSi君が当選した。

5・30 沖縄返還協定調印実力阻止
・自衛隊の沖縄派兵阻止全国労学総決起集会
全国全共闘再編へ―解放・中核派党派闘争
午後2時開会予定だったが、午前11時ごろから明治公園内で解放・中核両派の党派闘争があり、午後3時半の司会者の集会を一時中断するという発言に続いて、全国部落研から「解放派と中核派の党派闘争の際に、解放派による部落研への襲撃があり、一人の重症者が出た。それに抗議したところ許しがたい差別発言がなされた。すべての諸君がこの事実を受け止めてほしい」と訴えがあった。3時50分、集会は再開され、全国反戦、全国部落研連合、小西三曹、東京入管闘、三里塚・芝山連合空港反対同盟、北富士忍草母の会、沖縄救援連絡センター、劉道昌君の闘いを支持する闘争委員会から発言があり、党派発言はなされぬまま、実行委員会より「日帝の沖縄派兵を拒否し、日程のアジア侵略に対し、隊内反乱で応えよ」と全自衛隊兵士・水兵に向けた特別アピールを採択し、集会を終了し、日比谷公園まで、外苑前、青山2丁目、1丁目などで機動隊に旗竿、スクラム、投石で突撃を繰り返しながら、戦闘的デモンストレーションを展開し、日比谷公園内でも攻防を繰り返した。同日の負傷者は329人(重傷13人)、逮捕者は281人であった。

私は5月10日ごろに釈放され、しばらく自宅に居て、5月下旬から小平キャンパスに顔を出したと思う。私の不在の間に4・28闘争、自治会執行委員長選挙、中核派との党派闘争の開始などがあり、一橋の反帝学評は中央からのテコ入れもあって頑張ったと思われるが、5月末には活動が停滞していた。学生大会に向けて旧全闘委系の学生が集まっていたが一橋寮の寮生や高校生から活動していた新入生が多く、中核派のシンパや立川基地闘争に関わっているノンセクトがいた。全共闘を名乗って学生大会で6月政治ストを提案することになり、私は留年して前期で3回生ということもあり、全共闘議長となり議案書を作り、学生大会で演壇上から方針を提起した。

5・31 前期学生大会
沖縄返還協定調印阻止に向けて 
6月政治スト方針を決議
第二次全共闘運動へ向け スト実運動の構築を!
5月31日1時より、6月沖縄返還協定調印阻止に向けたわれわれの闘争展開を確立する学生大会が行動において開催された。約400名の結集により学生大会成立が宣言された。
前期自治会執行委員会の議案は、沖縄闘争、司法の反動化、学館設立の3点に関してなされ、沖縄闘争に関しては、「安保の実質的大改悪」「返還協定策動」と表現されるように、より良い返還を!という観点から述べられ、戦術的には1か月スト権確立・6月1~3日の第1波スト・6月8日学生大会による第2波ストが提案された。
「裁判の独立を守る一橋学生の会」からは「憲法の理念」を軸とした司法の反動化に抗議しよう、との提案がなされた。
一橋大学全学共闘会議(一橋大全学反帝学生評議会と沖縄民衆と連帯する闘争委(準)で構成)からは、沖縄返還をテコとしてかけられてくる攻撃に対しての全面的な対決、即ち、72年沖縄返還粉砕に向けた、入管・叛軍・三里塚・公害・部落解放闘争の深化と結合、ファシズムに対決する中からの司法のファッショ化粉砕・地区における闘いの発展・教育の再編に対する闘いとその拠点たる学館獲得闘争、とすべての問題にわたって提出され、調印日(政府の予定では16~17日)までのストライキとスト実運動が提起された。
沖縄返還協定調印阻止を闘うための活発な討論と執行部の不誠実さへの激しい糾弾、執行部ののらりくらりとした態度で堂々巡り的様相を呈する中、質疑打ち切り動議が出され、415人の参加が確認され採決に入った。執行部案は賛成207、反対120、保留51、棄権15で可決保留、守る会案は賛成232、反対36、保留105、棄権22で可決、全共闘案は賛成216、反対103、保留62、棄権5で可決され、全共闘提案の返還協定調印日までのストライキが決定され、同時に守る会の提案もスト実の実践的課題とすることになった。
大会終了後、ストライキ実行委員会準備会が結成され、翌日のスト実結成大会の準備が進められた。決議にのっとって、スト期間中の権限移譲を執行部に求め、自治会費・備品を渡すようにO委員長に迫ると、彼は会計簿の明示を渋り、自治会費は現在千円しかないと答え、民青「全学連」への分担金として6万円を納めたことを明らかにした。

6・1スト実結成大会
107番教室において約130名の学友が結集しスト実結成大会が開催された。しかし、民青執行部は自己の宗派的延命を策して、スト実結成大会に介入した。スト実に結集した学友は、地区民青をも動員して姑息に敵対する民青「執行部」を直ちに実力で撃退し、返還協定調印阻止に向けたスト実結成を固い意志一致の下に勝ち取った。
6月1日号論説「6月前期ストへの一視角」要旨
新学期からスト突入までの学内における経過は、①4・26学生大会流会に見られる大衆運動の低迷。②自治会執行委員長選挙での、<政治性>を持たぬことを売り物にするN君の大量得票に見られる、厖大な政治的無関心層の存在。③5・31学生大会での大衆運動の唐突なまでの高揚―スト突入。④民青諸君の何らの道義性抜きのスト実への敵対。等々これら様々の事態は現在の学生運動内部での階層分解のあり方として、極めて興味深いものがある。
6月16日号論説「第二次全共闘運動への発展をー前期スト実運動総括」要旨
われわれはクラス末端からのスト実を軸とした大衆的ストライキ闘争を展開し、日帝ブルジョアジーが72年沖縄施政権返還をもって、沖縄を再び反革命の要石として打ち固め、アジア・太平洋地域の反革命と再支配の体制を構築しようとする突撃とその「国民的合意」のセレモニーである調印式に真っ赤なくさびを打ち込んだ。
今回のスト実は沖縄返還協定調印を通してなされるブルジョアジーの攻撃が如何なるものであるかを、すべての学友に突きつける大衆的ストライキを追求した。ブルジョアジーの諸階級・諸階層に対する諸領域にわたる攻撃とそれに対する闘いを自主講座、討論資料、諸闘争として提起し、諸領域の闘いも結合した力での返還協定調印阻止として沖縄闘争の意味を突き出した。
自主講座は「ナチズムをめぐって」「三里塚闘争」「入管闘争」「北富士闘争」「破防法裁判闘争」が行われた。それぞれ詳細な討論資料が配布された。
6月6日には三里塚へ、13日には横田基地へ
とスト実旗を先頭に結集し、現地闘争を果敢に闘い抜いた。
また、この大衆的、革命的ストライキ闘争の展開によって、大衆運動の崩壊の上に学内秩序―国家・社会秩序を超えない秩序派運動を打ち立てようとする宗派日共・民青を破産に追い込み、今後の全共闘運動の発展の基礎を築いた。
しかし、スト実が「返還粉砕」派←→「奪還」(本土復帰)派という形で顕在化した全国全共闘の分解に対応しきれなかった不十分性は深刻に捉えるべきだ。

 5・31学生大会は唐突なまでの大衆運動の高揚で全共闘提案の沖縄政治決戦ストを圧倒的多数で可決した。私は演壇から全共闘の提案を行い、演壇前に群がって口汚いヤジを繰り返す民青諸君の中に跳びこんで彼らを沈黙させ、「金杉の跳び蹴り」として語り草になるほどヒートアップしていた。反帝学評に加わり、1月から革マル派との内ゲバ、三里塚闘争、デモ指揮をして逮捕される経験を通して高揚しきっていたと思う。学生大会に参加した1年生2年生は1969年から70年の全国的な高校紛争の世代で反体制運動に共感しやすかったことが背景にあったと思う。民青の諸君には大変な衝撃であったと思う。6・1スト実結成大会に地区民青を動員して介入する暴挙にまで至ったことは地区の共産党組織にまで動揺が広がったことを示している。ストライキ期間中に社会主義協会派も学内でのビラ撒きをやめさせたところ、後日ナッパ服を着た国労組合員と思しき一団が学内に現れ反帝学評のメンバーに暴行を加えることがあった。統一教会派も数人で学食に現れ、朝鮮大学校反対のビラ撒きをしているのを私が見つけ追い払ったことがあった。地域全体が政治化し暴力性を帯びたと感じられた。スト実の活動はさまざまに行われ、全共闘運動の再興の兆しも感じられたが、沖縄奪還か返還粉砕かという今から思えば観念的な不毛な党派対立が影響し、まとまった発展性のある展開には至らなかった。6月15日の明治公園には一橋のスト実として隊列を作り参加したが、中核派が突入してきて会場が混乱し、そのまま解散のようになったと思う。6月17日の宮下公園には一橋の隊列は作れず、数人を誘って渋谷駅前の闘争に参加した。

6・15-17調印阻止闘争 激闘の火焔、首都を席捲!
渋谷・青山一帯を武装制圧し、首相官邸へ断固たる進撃
全国全共闘は二分解へ
 6月17日の沖縄返還協定調印に対する闘いは、15日から17日にかけて、全国から結集した数万人の労働者・学生により戦闘的に展開された。昨秋の国政参加選挙を経て、72年沖縄返還へ向けブルジョアジーの手によって着々と進行しつつある本土―沖縄一体化の中で、返還協定調印に対する闘いは沖縄闘争さらには日本階級闘争における一大決戦だった。
そして、沖縄闘争の方針をめぐって、5・30集会以降顕在化した階級戦線の再編が、15日の解放派と中核派の全面的な党派闘争、16日の解放派の独自集会、17日の”返還粉砕派“と”奪還派“の分裂集会として現象的にあらわれた。反帝共同闘争機関としての全国全共闘の事実上の分裂を通して、今後の共同闘争機関の階級的・革命的な再編を克ち取ってゆかねばならない。
一橋大学前期の17日間のストライキ闘争を戦闘的に闘い抜いたスト実の運動においても、階級戦線の再編の波を受け6・15-17の明確な方針と意志一致が克ち取れないという限界を残した。

[15日]統一集会開けず
解放派-中核派 全面的党派闘争へ
6・15集会は全国全共闘に結集する各党派が明治公園に午後5時半に結集を呼びかけていたが、5・30集会以降、解放派と中核派との間で関西(京大)などの各地で武装衝突を含めた党派闘争が展開されており、全国全共闘・反戦の分解・再編を巡り注目されていた。
解放派の学生部隊約500名が旗竿部隊300名を先頭に午後3時すぎに明治公園に到着した。公園中央階段付近に「72年施政権返還粉砕!」と書かれた立て看板を置き、午後4時ころから反戦の部隊を含めて約800名で独自集会を行った。全学連、反戦、全国各大学の代表が「我々は真正面から“72年沖縄返還粉砕””本土―沖縄を結ぶプロレタリア政府の樹立“のスローガンを掲げ、中核派奪還論を踏み越えて前進しよう。」などの発言を行った。
この間に日本反帝戦線(150名)、フロント(120名)、赤色戦線(50名)が結集し独自集会を行った。全都部落研、関東部落青年友の会(50名)、法政大全共闘(200名)、東大全共闘(150名)をはじめ各大学全共闘、産別反戦がデモ、独自集会を行った。
一方、中核派は6時すぎ千駄ヶ谷駅で約1600名の部隊で集会を行い、7時半に明治公園に入った。約500名の旗竿部隊を先頭に、直ちに解放派の隊列に向けて突撃した。約2分間一進一退が続いた中核派が解放派を圧倒し解放派は公園外に押し出された。その後公園入口で両派の衝突が繰り返されていた時、機動隊が一斉に解放派に襲い掛かった。解放派と無党派の学生が投石、火炎瓶等で機動隊のガス弾乱射と対峙し衝突した。公園内の中核派はこれに加わらず独自集会を行っていた。
9時ごろ統一集会は行われないまま、各隊列が日比谷公園へのデモに出発した。デモに出発する中核派の隊列に黒ヘルなどの無党派学生が投石を行い中核派の旗竿部隊と一時対峙した。解放派は公園内で隊列を立て直して最後尾でデモに出発した。11時前後にデモ隊は日比谷公園に到着したが、公園入口で無党派学生と機動隊の衝突が11時半ごろまで続いた。

[16日]全国全共闘・反戦の二分解を露呈
解放派・反帝戦線などは結集せず
6・16全国総決起集会は全国反戦の主催のもと明治公園に約1万名を結集して午後7時半から行われた。まず全国反戦の代表が昨日の6・15集会を統一集会として行えなかったこと、17日は全国反戦としての統一集会はできないことを自己批判し、全国反戦も全国全共闘に次いで党派間の調整ができず、統一機能を喪失したことを明らかにした。
続いて、沖縄青年委、東京入管闘、救援連絡センターから発言があり、さらに三里塚芝山連合空港反対同盟、北富士忍草母の会のメッセージが読み上げられ、全国部落研、劉闘委、沖縄反戦から連帯の挨拶が送られた。
政治諸団体の発言では、学生インターが富村さん支援闘争を訴え、全国反帝学生戦線連合と共産主義学生同盟が“72年沖縄返還粉砕”を訴え、明日は宮下公園に結集するように訴えた。
全学連(金山委員長)は「返還協定は戦後26年間の沖縄県民の闘いを踏みにじるものであり、首相官邸での協定調印を何が何でも実力で阻止する。首相官邸を包囲しよう。」と決意表明した後、「中核派と全学連に敵対することを唯一の目的とした社会党解放派は断固として粉砕する。」と宣言した。最後に関東反軍行動委連絡会を代表し、小西三曹が「沖縄は返還によって26年前の虐殺の時代に戻されようとしている。72年沖縄派兵は海外派兵の第一歩である。調印阻止、派兵阻止に向けて共に闘おう。」と発言して集会を終え、日比谷公園へデモ行進した。
解放派独自集会
一方、同16日午後6時から宮下公園では、解放派(約700名)と一部全共闘(約200名)が結集し、沖縄返還協定調印阻止労学総決起集会が行われた。東京反戦、東大全共闘の司会で中部地区反帝学評連合、九大学友会、新潟県反戦、反帝高評連合、法大全共闘などが発言した。全国全共闘書記局員並木氏が「2・4山本発言に明らかになったごとく、革共同中核派を中心とする全共闘内部の返・奪還派の粉砕なしには全国全共闘の階級的・革命的再編はなしえない」と発言し中核派との党派闘争の意義を明らかにした。最後に全学連内城委員長が「“沖縄返還要求をどうするのか?”と反帝国民主義を代行し、大衆運動の上に君臨する疎外された前衛として自己を純化し、大衆を政治的に引き回し、自己の路線の破綻を隠蔽してきた中核派諸君との対決が不可避な課題である。」と発言した。日比谷公園へのデモのあと9時半からの総括集会で「17日は渋谷一帯を制圧し、首相官邸へ!」と意志一致して解散した。

[17日]渋谷一帯に解放区 宮下公園に1万4千結集
6・17全国総決起集会は、宮下公園において、約1万4千の労働者、学生を結集しておこなわれた。”72年沖縄返還粉砕!自衛隊の沖縄派兵阻止!返還協定調印阻止!“のスローガンのもと、沖縄闘争を”72年返還粉砕“の基調で闘う部分の統一集会となった。
集会は午後6時に開会され、まず那覇中央反戦が、そして沖縄反帝労働者会議も、沖縄現地において72年沖縄返還を軸とするブルジョアジーの攻撃に対して、はっきりと返還粉砕を掲げて闘う労働者人民が登場していることを明らかにした。北海道叛軍連絡会議(準)は「自衛隊派兵をもくろむ日帝の軍事外交路線に真っ向から対決する叛軍闘争を闘い抜く」と沖縄闘争における叛軍闘争の位置を明らかにした。
諸闘争団体の発言は、全都・神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、都立大全共闘、70年代戦線の高見圭司氏から行われた。
各党派の発言では、日本反帝戦線、全国反帝学生戦線、全学連(内城委員長)、共学同労共委、共労党、全国解放戦線がそれぞれ“72年沖縄返還粉砕”を基調とし中核派の奪還論、返還論に対する批判を展開した。最後に沖青委代表(牧港青年部)が「72年返還をもっての日帝の国家権力の持ち込みは、沖縄人民を処分し、沖縄をアジア支配の基地とするものだ。国際的なワクをもって抗米抗日闘争に決起する」と発言した後、集会アピールを採択し、7時半デモに移るべく、各隊列は青山通りに出て体制を整えた。
フロント、解放派、反帝戦線、赤色戦線の各派は旗竿部隊を先頭に渋谷駅方向へ進撃し、阻止線を張っていた機動隊が催涙弾を直撃し規制したのに対し、火炎瓶十数本を投げて反撃した。その後、機動隊が前後から激しく規制し大量の検挙者を出したが、デモ隊は公演周辺の道路にバリケードを築き、あるいは国電の線路に上って、渋谷周辺は約2時間にわたって解放区の状態となり、この間に隊列を整えたデモ隊は日比谷公園へのデモに出発した。11時ころ日比谷公園で総括集会を行い解散した。
“返・奪還派”集会 明治公園
中核派、第四インターを中心に約6千人が結集し午後6時半から集会が行われた。「何よりも実力で調印を阻止せよ!本日の集会は統一集会としては実現されなかったが、われわれがここから勝利の炎をあげ、今後の全国全共闘・反戦のヘゲモニーを克ち取ってゆこう。」というアピールがあり、続いて全国部落研連合、さらに沖青委が宮下公園に結集した返還粉砕派を批判し、学生インターと全学連(金山委員長)が決意表明して、午後8時ころ集会を終え、デモに出発しようとしたが、機動隊が完全に公園を包囲した厳重な弾圧体制に阻まれ、青山通り方面に出たデモ隊は車でバリケードを築き、投石、火炎瓶で機動隊に対峙した。8時半ごろ機動隊が全員検挙命令でガス銃を乱射して襲い掛かり、この間爆発物が投げられ、ドラム缶に火がつけられ、路上に10数メートルの火柱が上がった。9時ごろまでガス銃と投石の攻防が繰り返され、デモに出発しようとした部隊が約百名検挙され、分散させられた。10時ころようやく隊列を整えた約400名の部隊がデモに出発したが機動隊の激しい弾圧により、溜池付近で隊列が分断され、ほとんど日比谷公園まで到達できなかった。

6・2 生協パート協議会結成さる 
生協に再び闘いの火の手! 既得権すら奪う「就業規則」
パートタイマーとして生協で働いている人たちが承認しがたい「就業規則」の押し付けに対し、生協パート協議会を結成し、その撤廃闘争に決起した。昨年闘われた反合理化闘争で一橋大生協が抱えている矛盾が暴露されたが、根底的に解決されず、その間に理事会は管理体系を打ち固め、矛盾は一層深化しパートタイマーに凝縮して集中化された。
6月2日のビラによれば、生協の従業員の3分の2近く(正規12人、パート19人)を占めるパートは生協の恒常的・基幹的労働力であるにもかかわらず、一方的な合理化、劣悪な労働条件のもとに置かれている。就業規則は①パートの無権利状態を合法化し、既得権のはく奪を目指す。②パートを将棋の駒としか見ていない。③正規従業員とパートの間の格差分断を拡大する。
① 生理休暇は無給、賞与、退職金は支給しない。定期昇給は廃止、時給5割増しだった休日出勤は1回200円の手当に切り替え。雇用期間は1か月以上4か月未満と定め、春夏冬の休みごとに解雇され、休み明けに再就職させてもらうため理事者にぺこぺこしなければならない。
② パートは上長の指示にしたがって働き、配置転換を拒否できない、いつでも解雇できる。
③ 民主勢力が資本家のやり口をそっくりまねて、無制限、無限定にパートに用いるのは誤っており、自らの首を絞める自殺行為だとしている。
「私たちは闘い続けます。学生・教職員の絶大なご支援をお願いします。」と訴えている。
2,3年前までは正規の従業員に対する就業規則をパートに準用していたのに、新たに資本の論理丸出しの就業規則を作り、既得権まで奪おうとするのは「民主勢力」も落ちるに落ちたものだ。

7・1佐藤訪韓阻止闘争
革命的反帝潮流先頭に断固戦わる!
6月30日、翌7月1日の加藤首相の韓国訪問を実力阻止すべく都内2か所で3つの集会が行われた。礫川公園では東京反戦世話人四氏の呼びかけによる「6・30佐藤訪韓阻止労学中央総決起集会」と東京入管闘の総決起集会が約2千名を結集して行われた。同時刻,坂本町公園では約5百名を結集し、中核派、第四インター系の集会が行われた。この日に向けて、東京入管闘、各派反戦世話人などで実行委員会を形成し、統一集会を行う動きがあったが、党派闘争の激化の中、次の理由で統一集会は行われなくなった。東京入管闘が提起した明治公園での集会に対して、中核派が坂本町公園での集会を設定したこと、25日東京入管闘主催の討議決起集会に中核派が竹竿等で武装介入し会場制圧し解放派・反帝戦線の入場を阻止したことから武装対峙状況となっていた。
警視庁、公安委員会の弾圧で明治公園から変更された礫川公園には、当日早朝から隣接した中大理工で各々集会を開いていた全学連(内城委員長)300名、反帝学戦150名、反帝戦線(理戦派)100名、赤色戦線50名が5時すぎ一斉に会場に入り、集会破壊からの防衛の態勢をとった。その後各党派、東京入管闘書く地区実などが続々と結集し、中核派が坂本公園に向かった6時過ぎには全体で約2千名を数えた。“佐藤訪韓実力阻止、72年沖縄返還粉砕、自衛隊派兵阻止、70年安保粉砕、四次防粉砕、入管体制粉砕”を基調とする共同アピールを確認した集会では、全学連(内城委員長)、反帝学戦、赤色戦線、共学同、反帝戦線の順で発言し、8時半に集会を終え、独自に集会を行っていた東京入管闘を先頭にデモが行われた。
7月1日、解放派、フロント、反帝戦線を中心とする返還粉砕派は早朝より行動を開始し、検問、旗竿押収などの弾圧体制の中、6時より東蒲田公園に約700人を結集し佐藤訪韓阻止総決起集会を開いた後、同じ公園で独自集会を開いて東京入管闘を先頭に、完全なサンドイッチ規制と自警団の登場の中、萩中公園まで約6キロのデモを貫徹した。一方、中核派、第4インターを中心とする部分は本羽田公園に約400名を結集し「佐藤訪韓阻止中央総決起集会」を開いた。

7・15狭山差別裁判糾弾公判闘争
石川青年を生きてわれわれの手に!
狭山差別裁判徹底糾弾・石川青年即時奪還7月公判闘争は15日午前9時から、解放同盟主催のもと日比谷小公園、清水谷公園で同時に開催された。清水谷公園においては解同青年部、関東部落青年友の会、全国部落研連、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議等を中心とする約600名の部落民、労働者、学生、高校生、市民が結集して狭山差別裁判に対する徹底糾弾と石川青年を即時奪還する闘いをより一層全国に繰りひろげる強固な意志一致が克ち取られた。
解同大阪府連代表の挨拶のあと、解同中執-青対部の西岡智氏が「石川青年にかけられている差別裁判は全国6千部落3百万部落民に対する権力の攻撃であり、解同の総力を挙げて闘いを強固に展開する。差別キャンペーンを振りまき、解放運動の分裂を策謀する日共を糾弾し権力、マスコミ、一般民一体となった差別事件として糾弾しなければならない。」と発言し、5・30事件をめぐって表面化した新左翼内部の部落解放闘争への関わりの混乱に関し、「部落解放闘争に関しての内ゲバはやめ、解放同盟のもとに党派利害を超えて闘いの戦列と団結を固めてほしい」と提起した。石川一雄青年の姉高松一枝さんが「一日も早く一雄を奪還し共に闘いに参加できるようにして下さい」と訴えた。
更に解同京都府連、奈良県連、三重県連、大阪府連の代表が決意表明し、全国部落研連、関東部落青年友の会、関東部落研連、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、全国支持共闘会議の代表から決意表明がなされた。集会後、解同を先頭に荊冠旗を押し立て、全員ゼッケン、鉢巻きをつけて東京高裁へのデモンストレーションを克ち取り、日比谷小公園の集会に合流した。

6月17日沖縄返還協定の締結で小平のストライキは終わり、学内活動は途絶えて、私は反帝学評の全都の部隊に加わり、このころ日にちは特定できないが中核派の拠点である法政大学のキャンパスを朝から制圧して集会を行ったが、中核派は全国動員をかけて拠点奪還のため法政大学になだれ込み、私は命からがら裏門から脱出するとき鉄パイプで顔を殴られ左の顎関節が今も亜脱臼でカクカクする後遺症を残している。
これも日にちを特定できないが、7月ごろ三里塚現地で大雨の中公団の測量隊と機動隊に向かって投石したり、デモを掛けたあと、泊まり込んで翌日数十人の部隊で草深い原っぱや雑木林の中を走り回っていて、機動隊と遭遇し逃げ遅れて逮捕された。護送車で赤羽警察署に送られ、20日以上留置された。前日大雨でずぶぬれで借りた衣類に着替えていたせいか、前日の投石などの証拠写真がなく、大した取り調べもなく起訴猶予になった。赤羽警察署の留置場は土地柄か東北出身者が多く、客に日本刀を振り回した不動産業者や酔っぱらって喧嘩した人とか単純な粗暴犯が多かった。デビューしたての小柳ルミ子の「私の城下町」が繰り返し流れていた。釈放されてからは、父が手術で東京女子医大に入院していたので、付き添いをするように言われて、しばらく自宅から病院に通った。

8・29 第3次砂川闘争 反戦鉄塔立つ
自衛隊進駐へ先制攻撃 叛軍・基地撤去闘争の焦点へ
8月29日、米軍立川基地において、破線塹壕委員会、平和利用市民会議、三多摩反戦などの手で基地の金網スレスレに高さ30メートルの反戦鉄塔が建てられた。7月10日自衛隊立川基地進駐阻止共闘会議結成を経て、長い準備作業と延べ千人に及ぶ労働者・学生の手で完成された。秘密裏に進められていた基礎工事は完成しており、当日の作業は早朝から鉄塔を組み始め、夜までに組み終えた。
米軍立川基地は6月25日の日米合同委員会の決定で、12月に自衛隊に正式に移管されるが、9月中旬より滑走路使用に慣れるためと称して、なし崩しに進駐を強行しようとしている。ヘリ部隊、輸送機を中心に陸上自衛隊東部方面航空隊(宇都宮)350名がまず進駐しようとしている。内乱鎮圧の花形であるヘリコプター部隊が配備される。自衛隊の沖縄派兵による沖縄の日米反革命共同基地化の後方基地として立川基地を突破口に本土基地群が再編されている。内乱鎮圧と対外的人民抑圧という反革命臨戦体制の構築に向け、9・1の防災、治安訓練を通した自治体と地方行政の一体化による地域社会のファッショ的打ち固めを進めている。自衛隊の立川進駐の重大な攻撃に対して、1800メートル滑走路を使用不能にする反戦放送塔。の建設は決定的な先制攻撃となった。

9・1 関東大震災48周年労学総決起集会 
今秋闘争の突破口
 9・1集会実行委員会主催で代々木公園に約1500名の労働者学生が結集した。
日帝が朝鮮人、中国人、社会主義者を大量虐殺する契機とした関東大震災から48年を経た今日、治安訓練という名目で行われているものが内乱鎮圧体制の形成にほかならぬことを明確に把握し、これを粉砕していかなければならない。集会では各地区実行委、各党派の発言の中で注目されたのは、沖縄青年委員会<海邦>の発言で、沖縄での中核派の反革命的テロ行為が暴露された。5・19ゼネスト連帯集会に結集した沖青委<海邦>諸君に沖青委<山城系>は突然「分裂主義者・脱落分子」等の悪口を投げつけ覆面した白ヘル10数人が竹竿で殴り掛かって来たという。しかもその半数以上が沖青委の白ヘルを被った本土の中核派学生であったことが暴露され、激しい中核派批判がなされた。元沖青委<山城系>に参加していた同志からも5・19の事実経過が報告された。さらに各地区実行委、各地区叛軍行動委、各党派から発言があり、日比谷公園までデモが行われた。

9・8~10 新潟小西反軍闘争 反軍戦線の再編へ
9月10日の小西公判闘争の新潟現地での闘いは解放派、ブント(戦旗派)、フロントの三派による中核派、四トロ派の全国反軍デッチ上げ策動粉砕の闘いとともに闘われた。
8・11自衛隊帰郷広報隊派遣阻止闘争の集会発言に、中核派が沖青委(山城代表)を在本土沖縄青年労働者の代表として主張したのに対し、解放派等が現在沖青委は山城代表と沖青委(海邦)に分岐している中で山城代表に発言させることは適切でないと主張した。中核派は集会当日に計画的に武装襲撃―集会破壊を行い、自らの主張をごり押しせんとした。
ところが5・19沖縄全島ゼネスト連帯闘争に本土の中核派学生が沖青委(山城代表)のヘルメットを被り、沖青委(海邦)にテロを行った事実が明らかになり、自らに都合の悪い主張を持つ沖縄人民にはテロで応ずるというスターリニスト顔負けの政治利用主義が暴露された。窮地に追い込まれた中核派は「そのような事実はない」と居直り、突然8・23小西文書が出された。小西誠三曹が中核派の主張を受け入れ沖青委(山城代表)に敵対する者は関東反軍から排除するという内容だった。これは小西三曹の関東反軍における権限を逸脱したものであり、その私物化と分裂策動であった。
この分裂策動が全国反軍へと発展した。中核派、四トロ派は小西三曹を擁し新潟現地で、解放派、ブント戦旗派、フロントを排除した全国反軍連絡会議をでっち上げようとした。8日から現地入りした三派系の反軍行動委(解放派60名戦旗派50名フロント40名)は新潟大学を中心に連日市内を制圧し、中核派・四トロ派は市内に登場できず、8日の新大での反軍討論会も10日公判に対す集会デモもできず、中核派は新大六花寮に閉じこもった。解放派・戦旗派・フロントは中核派の登場を許さず、小西三曹を追求し10日の公判闘争を集会と市内デモで闘い抜いた。
一方、中核派は9日彼らが行った秘密会議をもって全国反軍と称している。

私は8月は父の病院の付き添いをしていたが、このころには戦線に復帰していて、大学にはほとんど行かず、指令があると集会や闘争に参加していた。新潟の小西反軍闘争は新潟大学に泊まり込んで、朝から中核派と追っかけたり追っかけられたり、鬼ごっこのようにして市内を走り回っていた。新潟の往復は無賃ないしキセル乗車で、帰りは東京では新宿駅の地下通路で落ちている切符を拾って改札を出るという反社会ぶりであった。

9・13 三里塚第二次強制代執行実力阻止首都総決起集会
午後6時より清水谷公園で首都圏を中心に労働者、学生、農民、市民約1000名を結集し開かれ、数日後に迫った三里塚決戦に向けて戦闘宣言が発せられた。

9・16 狭山差別裁判糾弾・石川青年即時奪還公判闘争
百万人署名貫徹!
9月公判闘争は16日午前9時から日比谷小公園において、部落解放同盟の主催のもとに、大阪府連、京都府連等の23都府県連の部落大衆、関東部落青年友の会、全都部落研、全国部落研連等に結集する労働者・学生・市民さらに被青同等の約千人が参加して行われた。集会は弾圧体制の中で極めて緊張した雰囲気の中で、退官を目前とした井波裁判長が早期結審=死刑判決を企てていることが明白となり、激しい糾弾のシュプレヒコールの中で始まった。部落解放同盟書記長上杉氏の挨拶のあと、解同各都府県連から各地の闘争、百万人署名をはじめとする公判闘争の報告がなされた。注目されたのは、青年部が公判闘争への決起を訴え圧倒的に結集したこと、同時に三里塚で開始された第二次強制収用阻止闘争を闘う農民・労働者・学生への連帯のアピールがなされたことである。
この後慶応大部落研、一橋大部落研、自治労大阪市職等から百万人署名へ向けた決意表明があり、午前の法廷闘争の報告があった。本日の証人関謙蔵は弁護側の反対尋問にあやふやな答弁をし、言葉が詰まると裁判長井波が助け舟を出す全くでたらめな裁判が進行している。
午後の闘争は「部落解放!」「石川奪還!」のシュプレヒコールを上げつつ弾圧の中デモを開始した。参加者意見交換が行われ、解同中執西岡氏からアッチカ刑務所囚人叛乱支持、虐殺抗議の集会決議が提案され採用された。三里塚現地からの報告もなされ、集会はさらに緊張した。法廷で闘う石川青年に連帯のデモとシュプレヒコールを送り、京都の中学生の力強い決意表明、身障者解放委員会連合、全国被爆者同盟から決意表明を受けた。公判が終了し弁護士から法廷の闘いの報告を受け、解同松井副委員長の総括報告を受け、全員で解放歌「差別裁判打ち砕こう」を斉唱した。

9・16~20三里塚決戦報告
第二次代執行粉砕闘争
砦攻防と呼応しゲリラ戦展開!
三里塚第二次強制代執行実力阻止闘争は9月16日から20日までの5日間にわたって、木の根、天浪、駒井野の3砦における徹底抗戦とそれに呼応する各地のゲリラ戦との結合の下で貫徹された。

【16日】駒井野砦 徹底抗戦を貫徹!
朝7時、機動隊約2000が駒井野砦を包囲する中、公団職員約100が横断幕を広げて砦に近づき、代執行を宣言する。砦の部隊は激しい投石で応える。巨大なユンボが三台、両脇に放水車を従えて登場し、砦の前面(北側)を破壊し始める。砦の他の三方は沼や濠になっていて、前面からしか攻撃できない。攻撃するユンボめがけて火炎瓶が飛ぶ。炎上するユンボの運転席から乗員が転がり出て一目散に逃げる。9時15分、バリケードに使っていた車が取り外され、空隙から機動隊が侵入するが、火炎瓶と竹やりで撃退される。
11時半、公団―機動隊はその攻撃を一時中断する。早朝からのゲリラ戦で、東峰地区で機動隊1個大隊が殲滅され、警官三人が死亡し、その衝撃でこの日の代執行を中止する判断が当事者に生じたためだ。「死んだ三人の遺志を継いで・・・」と機動隊幹部からの突き上げがなされ、作業続行が決定され、12時半ごろ再開された攻撃は明確に<報復>の様相を呈する。
12時40分東側の一角が崩され、機動隊が乱入する。乱闘の果てに学生数十人が砦の南側の沼地に追いやられ、外側のバリケードが次々に崩され、砦内の四つの小屋が炎上する。内側のバリケードを乗り越えて機動隊が全員検挙にかかり、ヤグラが引き倒され、乗っていた学生はすべて地面に叩きつけられる。鉄塔(放送塔)以外の建物は見る間に破壊―撤去され、駒井野砦はそびえたつ鉄塔を残すのみとなった。
3時、鉄塔の撤去作業が開始される。塔の中段にワイヤーを結び付け、クレーンで引く。3時20分、鉄塔は中断から折れ、塔上の10人もろとも地上に激突し、火炎瓶が発火炎上し10人は重傷を負う。3時30分終了宣言。
翌17日は残りの撤去作業が行われた。一方、ゲリラへの追求が開始され、機動隊2000を動員して、天神峰現地闘争本部、戸村一作委員長宅を捜索、東峰地区では通りかかった者を無差別に逮捕する徹底した戒厳令が敷かれ、警察犬を投入して大規模な山狩りも行われた。16日の逮捕者は375人に上った。ほとんどが学生だった。

<Mの証言>
三里塚闘争に何故参加し如何に闘ったのか。
1971年9月17日駒井野砦徹底抗戦
三里塚闘争第二次行政代執行が開始される状況に対し、空港反対同盟と共に戦い、不当な空港建設阻止に向けた活動に如何に取り組むか、当時21歳であった私は、空港建設阻止の重要な拠点である駒井野砦団結小屋で,闘争するために前日から三里塚へ行き、反帝学評および全学連(内城委員長)の前夜の打ち合わせに参加した。一橋大学からは、私以外に3名が参加、私は駒井野団結小屋死守の活動、2名は遊軍としてゲリラ活動、もう一名は一橋新聞記者として参加した。
自分の任務はどの様なものか、三里塚に行く以前から何をするか基本的なその任務について、事前にメンバーと話し合い決定していた。団結小屋の戦いは最終的には逮捕される前提とも言えると自覚していた。
翌日、慶応のN君と二人で団結小屋の闘争拠点の櫓から、相手の動きに対しいて火炎瓶で対峙するものであった。ブルドーザーなどで砦に近づく動きに対し瓶を投げ抵抗したが、相手もなかなか砦に接近するわけではないので瓶が効果を発揮する場面は極めて少ないものであった。
瓶を投げると下から補給され戦いは継続したが、櫓の上も混乱し、瓶から零れたガソリンなどに火が付き、戦いを継続することは困難に陥ってしまった。
厳しくなったのは、そのあとである。砦の一カ所が機動隊により突破され、砦の囲いが破られ、中は混乱状況に陥り、砦の外へ押し出され、接する池(放水などの水が大量に生じ、その水が溜まってできた池に入り、その中を泳いで岸に近づき、機動隊員により、引き上げられ、なかまと共に、逮捕されていったのであった。全身ずぶ濡れになったが、いつの間に、着ているものも乾き、逮捕されたのであった。
逮捕された後は、東京都内の警察署に留置され23日目に釈放された。

【20日】。大木よね宅急襲さる
9月19日、大木よねさん宅の前で反対同盟主催の総決起集会が開かれた。反帝学評300、京学連70、黒ヘル100、叛旗80、怒涛30、赤色戦線20、第四インター250、中核1100、主体と変革20、フロント150、戦旗10、総数2500が集結、5時から開会し、戸村一作委員長は「この地域は成田でも有数の古村で、富農、地主村であった。大木よねは数少ない小作人で、公団は“この貧乏婆あ”と罵った。しかし、旧地主、富農が戦列から悉く脱落していくにも拘わらず大木よねは一貫して闘い続けている。大木よねは貧乏かもしれないが全世界の富、われらがコマンド闘う学生諸君を所有している。
公団の整地作業により大木よねの家の井戸水は出なくなり、田んぼは台風で一面泥水になってしまった。大木よねが談判に行くと公団側はまず水道を引いた。大木よねはこれをぶち割った。田んぼには保障金を払いましょうと札束を積み上げたがこれを一蹴した。友納知事は大木よねの家を“暴力学生の巣窟”と呼び、“これは民家ではない”と言い放った。
われわれはベトナムに行く必要はない。ベトナムのジェノサイドは今ここで行われている。三人の機動隊員の死についてはマスコミ・ジャーナリズムがこぞって大々的に報じながら、あの駒井野砦の鉄塔を機動隊長の号令一下引き倒した殺人行為につては黙して語らない。われわれは沖縄に行く必要がない。われわれは三里塚闘争を闘い抜くことで、沖縄人民と連帯できる。革命的な労学の連帯で大木よねの闘いを支援し、国家権力を粉砕しよう。」と発言し、大木よねさんは「私はブルドーザーの下になっても、どこまでも闘います。皆さんの支援をお願いします」と訴え、老人行動隊、青年行動隊らが支援を呼びかけ、決意表明した。
翌20日、午前11時、公団―機動隊40代執行令状読み上げ、11時57分機動隊私服400周辺に警備網を張る。12時公団職員100到着、座り込んだ反対同盟15を12時20分機動隊がごぼう抜き開始、24分公団測量開始、30分機動隊が庭内に侵入し脱穀中のよねさんを排除。2時40分母家取り壊される。2時55分代執行終了宣言。抜き打ちで強行された代執行への反撃は、支援部隊は各所で機動隊と衝突、夜遅くまで抗議集会、火炎瓶戦、バリケード構築、飯場焼き打ちを繰り返した。

天皇訪欧・訪米阻止闘争闘わる
9・26中央労学総決起集会 清水谷公園
約600名の参加、東京反戦世話人の司会で、三里塚反対同盟、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、神奈川入管体制粉砕連絡会議、沖縄青年委員会(海邦)、尖閣列島略奪を阻止する闘争委員会が発言、続いて各党派からの本反帝戦線(戦旗派)、全学連(プロ統派)内城委員長、反帝学生戦線が発言し、芝児童公園までデモを行った。
9・27現地闘争 大田区民広場 約300人で緑地公園までデモ行進

9・27 実刑判決粉砕総決起集会 於 東大教養学部
761教室に反弾圧戦線を闘う約120名が結集し、69年10-11月闘争被告団が基調報告を行い、全学連、社青同、革労協、東大闘争統一被告団、文京救援会、70年6月闘争統一被告団、69年10-11月闘争被告団20グループが発言し、
9月28日 判決予定の自民党本部グループ
10月5日 判決予定の首相官邸グループ
から実刑判決粉砕に向けた決意表明が行われた。

9月に三里塚闘争はクライマックスを迎えて、鉄塔の攻防戦には一橋の仲間も参加して逮捕者もあった。私は東京で新聞記事を書いていた。その後9月28日か10月5日どちらか忘れたが私は東大闘争の判決公判の傍聴に出かけて、裁判長に大声で抗議していたら、退廷拘束と言われて、即決裁判で監置10日を言い渡され、小菅の東京拘置所に収監された。入所時に素っ裸にされて肛門を覗かれるのはびっくりしたが、3畳ぐらいの独房で麦飯、運動と入浴の時間もあり、読書もできる。警察の留置場に比べたら高級ホテル並みの待遇だ。看守が見繕って松本清張の小説を持ってきてくれ、東大裁判の被告からはヘーゲルの「歴史哲学」の差し入れがあった。ニコチン依存は重傷で小説を読んでいて喫煙の場面があるとタバコの臭いをはっきり感じた。離脱症状の幻覚だ。釈放された朝はタバコ屋に直行しハイライトを買ってから新宿に行き映画を観た。

10・8羽田闘争4周年 三里塚の爆発を秋期批准国会へ
代々木公園、日比谷野音に5000結集
批准国会粉砕へ隊列固める 代々木公園B地区
10月8日代々木公園B地区で「72年沖縄返還粉砕・自衛隊派兵阻止・返還協定粉砕・国会批准阻止・三里塚空港粉砕・羽田闘争4周年中央総決起集会」が開催され、解放派350、ブント戦旗派100、フロント100,赤色戦線20、黒ヘル100等周辺にノンヘル部隊・群衆合わせると2千を超える結集であった。7時過ぎ、三里塚で命を絶った青年行動隊員三ノ宮文男君に対する黙祷で始まり、空港反対同盟婦人行動隊、沖青委(海邦)を代表して那覇中央青年委員会、富永順一氏の裁判闘争連絡会議、尖閣列島の略奪を阻止する闘争委員会の発言があり、全関東叛軍連絡会議のアピール読み上げ、69年10-11月闘争裁判統一被告団貫徹組の決意表明、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線高見圭司氏の発言、三里塚空港反対同盟北原事務局長のメッセージ、各党派からの発言があったあと、芝公園までデモがおこなわれた。
中核・第四インター系が結集 日比谷野音
同じ日、日比谷野音では「10・8羽田闘争4周年・山崎博昭君追悼・沖縄『返還』協定批准阻止・入管法国会上程阻止・自衛隊沖縄派兵阻止中央総決起集会」が開かれ、中核派約700、第四インター100をはじめとする結集で野音がほぼ満員になった。1分間の黙とうの後、三里塚から戸村一作氏が三ノ宮文男君の死に触れて、国家権力への怒りをぶちまけた。続いて北富士忍草母の会、べ平連が発言し、獄中の富村順一氏からのメッセージがよみあげられ、全国部落研、全国反戦、東京入管闘、関東叛軍、沖青委(山城代表)、被青同、全学連(松尾)、学生インター、麻布高校全共闘が発言し、終了後デモに移った。

10・9刑法学会介入闘争 保安処分粉砕に決起
一橋大国立校舎で行われた刑法学会に対して、保安処分粉砕関東共闘会議準備会を中心とする青年医師・学生50名が介入し、追及闘争を行った。図書館前で決起集会を持ち、刑法学会が保安処分を背後で推進あるいは支持していることを暴露し、徹底的に追及する、今回学会が取り上げる少年法改正、監獄法改正を粉砕していくことを確認し、50名の隊列で会場の新館に向かい、401教室に突入し、400名の学者があっけにとられる中マイクを掴み追及を開始した。精神医療の実態と保安処分の犯罪性についての鋭い追及の前に、学者たちは「我々だって再検討しているんですよ」と言い逃れを繰り返し、刑法学会として保安処分反対決議を出すことについては全く沈黙した。今後も追及闘争を続けることを確認し外に出て、総括集会を行い、本日の闘いで開始された関東共闘会議を発展させ保安処分粉砕の全国的闘いを起こすことを確認した。最後に「再検討する」という確約をとるため、会場入り口に押し掛け学会代表者と会見した。

10・12 三里塚第一次代執行粉砕闘争
 第1回「統一」公判闘争 於千葉地裁その後
公判闘争の大衆的展開に向けて
三里塚第1回強制土地収用粉砕闘争の第1回「統一」公判闘争が10月12日千葉地方裁判所で闘われた。統一被告団は統一公判を要求したが、地裁の午前部・午後部の分離という最終案を受け入れざるを得なかった。前日の被告団・弁護団合同会議では人定質問の前に被告側の意見表明を獲得することを意志一致した。
当日の午前は午前部の被告が入廷し、午後部の被告と反対同盟の農民が傍聴席に着いた。太中裁判長は被告が名札の席に着いていることで人定質問を終わらせ、被告は抗議して、次々に三里塚闘争の正当性を主張し、地裁の7月土地収用仮処分の決定を弾劾し、統一公判を要求した。午後の公判は人定質問に先立って、被告が立ち上がり意見表明し、裁判所は我々を裁けるのか、統一公判をどう考えるのかと問い詰めた。結局人定質問は行われず閉廷した。
その後裁判所内のデモを展開し、分割公判粉砕・統一公判獲得・三里塚闘争勝利の固い意志を確認した。

10・21沖縄返還協定国会批准阻止闘争 中央総決起集会 
 共同闘争機関の拡大をもって政府打倒に決起!
厳戒態勢の中、返還粉砕派 清水谷公園に一万名結集
三里塚闘争以降一層強化された弾圧攻勢は事前の大学への捜索、党派事務所への手入れの他、明大と駒大が休校措置を取り、当日朝から霞が関一帯の厳戒、検問、パトロールヘリコプターからの監視、集会場では機動隊が三重、四重に配置され、労働者・学生の所持品検査をし、集会の終わりころには電光を浴びせるヘリが登場して、隊列を照らし出す。
返還粉砕派の「10・21 72年沖縄返還粉砕・返還協定国会批准阻止・自衛隊沖縄派兵阻止中央第統一行動」は清水谷公園での総決起集会で開始された。全都全国の労働者・学生・市民が続々と結集し、公園に入りきれず道路上に座り込む部隊を含めると、総数は一万名を超える。主催の実行委員会から「沖青委の提起を受け止め、闘う諸団体へ結集を呼び掛けて、事務局は12団体で構成されるが、今後枠を広げて共同闘争の持続と発展のため結合を深めていきたい」と経過説明があり、各団体の発言に移った。
まず那覇中央反戦の訴え、沖縄反帝労働者共闘会議の檄電、3時間の職場ストライキをもって決起したゼネラル石油精製労組、東水労青婦部、富村裁判闘争連絡会の発言と富村順一氏のアピール読み上げ、沖縄青年同盟(旧沖青委<海邦>)から10月19日国会で佐藤の施政方針演説を中断させ、返還粉砕の雄叫びを上げた沖青同国会批准阻止行動隊のアピールの読み上げ、現在病床にある三里塚空港反対同盟委員長戸村一作氏からのアピール、尖閣列島の略奪を阻止する闘争委員会の発言、全国叛軍代表者会議の発言と全国叛軍連絡会議のアピールの読み上げ、入管闘神奈川連絡会議、全都・神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の発言、横須賀米軍反戦兵士からのアピール、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線の佐藤氏の発言、69年10-11月闘争統一裁判被告団貫徹組の発言と4-6月闘争獄中被告団のアピール、叛乱自衛隊員からのメッセージ、沖青同の発言に次いで諸党派、共産主義者労働党(プロ学同・赤色戦線200)、全学連(内城委員長)プロ統労学800,日本反帝戦線(共産同戦旗派100)、反軍国主義青年学生共闘会議(フロント260)が発言した。東京中部地区5大学共闘会議(法大、中大、日大、電気大、理科大)の発言、さらにこの日坂本町公園に4千名が結集し集会、デモを行ったべ平連の吉川事務局長から連帯の挨拶があり、最後に集会宣言、インター斉唱して9時過ぎ終了した。
赤坂見附・愛宕交差点で機動隊と激突
バリケードを構築し街頭を制圧
まず日大全共闘を主力とする千名の隊列で中部地区5大学連合が公園を出発した。プロ統派は百名の旗竿部隊を先頭に突撃隊形で赤坂見附方面の機動隊の阻止線に向けてゆっくり前進し旗竿を構えて対峙する。出撃する部隊の渦巻きデモは次第に拡大する。規制にかかろうとする機動隊に激しく投石が降りかかり、十数本の火炎瓶が投げつけられる。隊伍を乱す機動隊に旗竿部隊が突撃する。機動隊はガス銃乱射で応戦、この日新登場のピストル式ガス液銃を使う私服警官の援護で規制にかかる。部隊は果敢な十列デモ、ジグザグデモを繰り返し、9時半愛宕交差点に差し掛かって、部隊は再び旗竿を構えて対峙し、投石と火炎瓶十数本で阻止線を寸断し、街路樹を倒し、鉄柵を引き抜き抜いて路上にバリケードを築き、1時間にわたり芝公園に至る街頭を完全に制圧した。しかしガス弾を直撃する機動隊の反撃の前に芝公園に退いた部隊に公園を包囲していた機動隊が襲い掛かり、多数が負傷し逮捕された。
日比谷野音で集会―中核・第四インター系
奪還派の「10・21沖縄返還協定批准阻止・自衛隊沖縄派兵阻止・入管法国会上程阻止中央総決起集会」は全、新橋国反戦・関東叛軍・東京入管闘の主催で日比谷野音に約7000人を結集して午後7時開始された。部隊結集は中核派800名、第4インター150名、主体と変革派80名など。開会冒頭、司会から「日帝のアジア侵略粉砕に向け、総力を挙げ佐藤内閣の最後の留め金たる機動隊を殲滅し、沖縄・入管国会を粉砕しなければならない」と決意表明がされ、以下の発言も機動隊殲滅にすべて集約された。最後に演壇に立った全学連松尾委員長は「日帝の崩壊的危機を食い止めているのが機動隊の暴力的専制支配であり、機動隊を粉砕することなしに沖縄闘争の勝利はありえない。日和見的な態度をとり、われわれの闘いに敵対している革マル派、宮下三派を殲滅し日帝を打倒する。」と発言した。
集会は9時過ぎ終わり、公園内をデモ行進してから200名ほどの旗竿部隊を先頭に公園出口で機動隊と対峙し、石、爆竹、発煙筒を投げつけ、1時間近く対峙した後、旗竿部隊50名が機動隊の阻止線に突っ込み,それをきっかけに機動隊約500が公園内に突入し、学生部隊の多くが逮捕された。さらに部隊は掃除用のリヤカー、材木等でバリケードを作り対峙したが、ガス弾と放水の攻撃で機動隊が再度公園に突入し攻防は終わった。その後約100名が隊列を整え、新橋・数寄屋橋方向にデモを開始した。新橋駅付近では別動隊がべ平連とともに散発的なゲリラ戦を行い、デモは足止めされたが、12時前日本橋本石町で流れ解散した。

11・6 返還粉砕派の飛躍かけて 沖共闘結成さる
批准実力阻止の態勢を確立 於 明大駿河台
11月6日午後6時より明治大学駿河台校舎7号館において60数団体250名の闘う戦線の代表者を結集し、「72年沖縄返還粉砕!自衛隊派兵阻止!返還協定批准実力阻止!共同闘争委員会(沖共闘)」の結成集会が行われた。
沖共闘は、10・8、10・21大統一行動実行委員会及び沖縄青年同盟の呼びかけで結成され、帝国主義ブルジョアジーの72年返還、協定批准の攻撃に真っ向から対決し、沖縄人民と本土労働者人民との連帯を強化する革命的共同闘争機関である。
集会は東京反戦代表からの基調報告と沖共闘結成にいたる経過報告に続いて、沖青同より「10月19日の国会議場内決起三戦士の闘いを受け、沖縄の苦痛の現実と返還の本質を根底に据え、階級的闘いを展開しよう」という提起がなされた。この後諸団体の間で白熱した討論が行われ、結成宣言を確認し、午後10時集会を終えた。
結成宣言では、10・19の沖青同の国会内の闘いと10・21清水谷公園に1万数千人が結集し、集会を貫徹し、国会に向けて進撃した闘いの意義を強調し、「沖共闘は反戦青年委員会、反軍行動委、入管、部落解放闘争更には労働組合、地区救援会、市民組織等々すべての闘う諸組織の自治的な闘いを基礎にその連帯、共同の闘いを推進する。とりわけ沖青同を先頭とした闘う在本土沖縄出身労働者人民の闘う組織との共闘を、沖縄人民と本土労働者人民との形成さるべき共闘、連帯に関わる本質的な共闘として強化する。」としている。

11・10,14,19沖共闘、批准阻止闘争を貫徹!
沖縄返還協定批准をめぐる闘いは沖縄現地と本土を貫いて、戦闘的労働者・学生から社共まで、それぞれに熱気をはらんだ闘いとして高揚した。政府自民党は11月17日の特別委員会での強行採決と公明・民社を引き込んだ本会議審議をもって、11月24日沖縄返還協定の衆議院通過をなし切り、協定批准をめぐる闘いは一段階を画した。
沖縄人民解放闘争の議会内的・国民主義的枠付けを突破する階級的潮流の巨大な形成をかけて、戦闘的潮流内部の人民戦線左派=奪還・復帰派との6月協定調印阻止闘争での分岐を通じて形成された返還粉砕派は、今秋の闘いの中で戦闘的潮流の主流としての位置を確定し、沖青同を先頭とする沖縄人民との連帯・結合、そして諸戦線からの大衆的結集という成果を沖共闘の結成として結実させ、批准阻止闘争を闘い抜いた。

【10日】批准阻止へ突破口開く―沖縄ゼネスト連帯―
11月10日返還協定批准阻止の熱い怒りを燃え上がらせ、沖縄は全闘ゼネストに突入した。前日より48時間ストに決起した自治労をはじめ、全軍労による嘉手納基地第二ゲート完全ピケ封鎖を中軸に、10万余が続々とストライキに突入し、米軍基地・琉球政府の機能を完全にマヒさせた。
午後から那覇市の与儀公園で、約6万人の労働者・学生・人民が結集し、協定粉砕・批准阻止の総決起集会が開かれた。その後、浦添市の米民政府まで軍用道路1号線を経由してのデモに出発した。戦闘的労働者・学生は各所で機動隊と激突し白兵戦が展開された。この闘いで交番、発電所等が燃え、機動隊員一名が死亡した。復帰協幹部は午後6時半デモ中止・解散命令を出したが、深夜まで闘いは続けられ軍用1号道路は占拠された。
明治公園では“沖縄返還協定批准阻止、ゼネスト連帯、72年返還粉砕、自衛隊派兵阻止中央総決起集会”が午後6時半過ぎ、5千名の労働者・学生・市民を結集して開かれた。
まず救援連絡会議の水戸氏は本集会の始まる前に機動隊が公園内に乱入し、各隊列に襲い掛かりテロ、身体検査等の弾圧を行ったことを抗議し、一方では刑法改悪に示される法体系の再編として権力の攻撃が進行しており、完黙の貫徹をもって対決しなければならないと述べた。次に主催団体の沖共闘の結成経過を東京反戦連絡会議の浜口氏が報告し、「沖青同を先頭とする闘う在本土沖縄出身労働者人民の闘う諸組織との共闘を、沖縄人民と本土労働者人民との形成されるべき本質的な共闘として強化する」という共同闘争機関としての
性格を明確にした。沖縄青年同盟は「返還過程での米帝、日帝の攻撃は沖縄人民にだけ向けられたものではなく、アジア人民の革命闘争を分断し、日本労働者階級を帝国主義支配秩序の中に組み込むものである。われわれは国民主義、民族主義を乗り越え、国際主義的な返還粉砕、批准阻止闘争に決起する」と決意を表明した。
更に全国叛軍連絡会議からのアピール、三里塚反対同盟からのメッセージが伝えられ、東京入管連絡会議、69年10-11月闘争統一被告団貫徹組、神田地区破防法裁判をさえる会、尖閣列島略奪を阻止する闘争委、富村裁判闘争連絡会議の挨拶があり、11・9の総評青対部集会への介入闘争を闘った東水労研、自治体労研の決意表明、全国一般青年労組の発言、自衛隊立川基地進駐阻止共闘会議のアピール、狭山差別裁判糾弾共闘から慶応大部落研の発言があった。続いて党派発言は全学連(プロ党派)、日本反帝戦線(戦旗派)、反軍国主義共闘(フロント)、赤色戦線(共労党)が行い午後8時45分で集会を終わり、午後8時50分デモに出発した。鉄パイプと火焔瓶で武装したプロ統突撃隊60名と旗竿部隊60名が公園を包囲する機動隊と対峙し、同時に仙寿院交差点には公園の樹木、材木、車等でバリケードが構築され、火が放たれた。部隊がじりじりと前進し火炎瓶を投げ、一時後退した機動隊は放水車を前面に着色液を放水し催涙弾を乱射しながら公園に乱入。9時過ぎ神宮球場前で対峙の突撃隊は機動隊の壁に激突。火炎瓶数十本がさく裂し、放水車1台が炎上。9時10分指揮系統を立て直した機動隊が規制に入る。午後10時半デモは日比谷公園に到着した。
この日代々木公園では社会党、総評が7万人を集め、日比谷公園では革マル派、芝公園では中核派が集会、デモを行った。中核派全学連松尾真委員長が芝公園での集会後、破防法第40条の3の疑いで逮捕された。

【14日】事前弾圧はねのけ、19へ向け更に進撃-沖共闘―
「11・14 72年沖縄返還粉砕・派兵阻止・批准実力阻止中央総決起集会」が沖共闘の主催で午後3時から清水谷公園に2500名を結集して開催された。党派の結集内訳は、プロ党派200名、共産同戦旗派100名、フロント200名、共労党100名など。開会前、べ平連など市民団体の十月市民行動2500名が日比谷野音に出発した。
三里塚反対同盟北原事務局長、日本原反戦、富村裁判闘争支援連絡会議、十月市民行動から発言があり、沖共闘義務局からは「11・10沖縄全島を揺るがすゼネストに、われわれは明治公園からの武装進撃を貫徹することで応えた。19日総力を挙げて国会―政府中枢に向け10日を上回る進撃を克ち取ろう。」と基調報告があった。
全関東叛軍連絡会議、全都・神奈川差別裁判糾弾共闘会議、入管体制粉砕東京連絡会議、神田地区破防法裁判闘争を支える会、全国金属日産車体支部、全水道労研、沖労共、労活評、沖青同の発言が続いた。
党派発言は社青同東京地本、共労党、全都反軍国主義共闘が戦闘宣言を発した。最後に登場した日本反帝戦線は「沖共闘内部にも自決権用語を掲げる民族主義、一国主義的傾向が存在する」とフロント、共労党を批判し、激しいヤジの応酬となったが、内ゲバには至らず、5時に集会を終え、日比谷公園までデモを行った。
中核派 渋谷暴動 ゲリラ戦を展開
中核派が呼号する「11・14渋谷暴動」は集会もデモも禁止され、機動隊による前日からの戒厳令下多くの群衆を渋谷一帯に集め部分的,散発的ゲリラ戦を展開したが、圧倒的な警備体制の前に総体としては不発に終わらざるを得なかった。午後3時半東急本店前で機動隊の幌付きトラックが背広ゲリラの火炎瓶で炎上。神泉駅方面から出撃した部隊200名が到着し東急前で数十本の火炎瓶がさく裂、群衆に紛れて機動隊と一進一退を繰り返し、4時過ぎ渋谷駅前広場に移動した群衆の中から散発的に投石や爆竹。5時渋谷駅南口付近にバリケードを築いて機動隊と対峙。6時前、ガス弾の乱射と強圧的な規制で群衆は次第に解散させられ、6時には渋谷一帯が無人化した。神山派出所付近で火炎瓶の攻撃で火傷を負った機動隊員が翌15日死亡した。

【19日】沖共闘実力部隊 山手通り道玄坂を武装進撃
バリケードを構築し制圧
11・19闘争を政府中枢へ向けた文字通りの総力戦として闘い抜かんとする全学連(プロ統派系400名)、反軍国主義共闘(フロント300名)、赤色戦線(共労党100名)中心とした実力部隊1500名は午後5時過ぎ、駒場の東大教養学部正門前広場に結集し、沖共闘主催の「72年沖縄返還粉砕・自衛隊派兵阻止・批准実力阻止沖共闘中央総決起集会」を開催した。沖縄反帝労働者会議、新潟県反戦、東京入管連絡会議、全関東叛軍連絡会議、尖闘委などの諸戦線、バリケードストをもって決起した明大法学部学友会、関西大返還粉砕共闘会議報告・決意表明に続いて、全学連、全国反軍国主義共闘、次いで日本反帝戦線(戦旗派10名)が決意表明したが、反帝戦線が東大駒場からの実力闘争に異を唱え主力部隊を礫川公園に結集させたことに批判とヤジが集中した。共労党の発を最後に6時で集会を終え、鉄パイプ、火炎瓶で完全武装し構内をデモしながら、立て看や建築資材を裏門付近に蓄積した。6時半反軍国主義共闘、全学連の部隊1000が山手通りを渋谷方面へ出撃した。道玄坂上-神泉交差点の機動隊300は百メートルほど後退、沖共闘部隊は火炎瓶数百本で追撃、別の全学連を中心とする部隊は富ヶ谷交差点に構内から持ち出した資材を積み上げ車2台を転倒炎上させ強固なバリケードを構築する。7時神泉―富ヶ谷交差点の三叉路は三基のバリケードで完全にされ、東大構内から各部隊が交互に出撃しては火炎瓶をさく裂させ、機動隊を寄せ付けない。しかし7時を過ぎるや機動隊は機甲部隊の増援を得て、催涙弾の水平打ちと放水で三方向から対峙戦を狭め、7時半総勢2000の機動隊が駒場キャンパスに乱入し三つの寮になだれ込み、無差別逮捕で100名が検挙された。
沖共闘2500 礫川公園からも決起
一方、東大駒場からの武装進撃に呼応して、礫川公園では沖共闘主催の「機動隊撃破-都心制圧中央集会」が約2500名の労働者・学生を結集して開催された。主な部隊は、反戦青年委(プロ統派)300名、反帝戦線300名、沖青同40名全都神奈川狭山差別裁判共闘会議20名、立教大沖闘連100名、中大附高沖闘委50名、沖労共50名、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線100名、文京地区連200名。これらの団体に加えて、反軍国主義共闘、共労党、沖縄闘争労働者会議、労働者活動評議会、全東海沖共闘、群馬沖共闘、和泉地区沖共闘(準)、神田地区破防法裁判闘争を支える会、全関東叛軍連絡会議、沖縄反帝労働者共闘会議などが発言し、最後に社青同東京地評から「職場・工場・学園からの反乱をもって政府中枢へ武装進撃し、国会、首相官邸占拠を克ち取り、自民党政府を打倒し、返還京手緒批准強行を粉砕しよう」と発言があり、集会は9時過ぎに終了し、芝公園までのデモコースを警察は日比谷公園の混乱を理由に明治公園に変更し、11時過ぎ明治公園に到着した。
中核派 日比谷・銀座で衝突 松本楼炎上
中核派700名、第4インター200名などを中心とする「11・19『沖縄―入管』国会粉砕・返還協定批准阻止中央総決起集会」は午後6時、日比谷野音にノンヘル大衆1万人を結集し、「集会は許可・デモは禁止」攻撃がかけられ、機動隊が公園周囲を完全包囲する中開催された。発言は、南部入管闘、関東叛軍、神奈川県反戦、三里塚空港反対同盟戸村一作氏、学生インター、全学連(中核派系)などから「我々は11・10の沖縄全島ゼネストに呼応して渋谷大暴動に決起し勝利した。本日再度、銀座―霞が関暴動に断固決起する」との基調でなされた。
7時半閉会後、竹竿・丸太・火炎瓶などで武装した1000名の部隊は公園内をデモンストレーションした後、日比谷口から機動隊の阻止線に突撃し、公園入口にバリケードを築いて対峙した。同時刻、有楽町―銀座周辺でも中核派を中心に群衆を巻き込んでゲリラ戦を展開した。
8時半「明治よりこのかた貴族、ブルジョアジー、政治家、官僚、有閑人士どもの社交場であった松本楼」が炎上し、それと同時に機動隊は催涙弾と放水攻撃でバリケードを破壊して公園内に乱入し全く無差別に1600名を逮捕した。

【20日】沖共闘 於・礫川公園
19闘争方針をめぐり部分的な党派闘争
中核派が集会・デモを禁止され登場できず、革マル派は弾圧に恐怖し集会を取りやめるという状況下、沖共闘のみが、礫川公園に1000名を超える結集をもって中央総決起集会を開催した。
午後7時まず沖縄反帝労共が発言し、その発言の途中に全学連(プロ統派)・反帝学評の部隊400名が到着し日本反帝戦線(戦旗派150名)と反軍国主義共闘(フロント100名)の間に入って座り込んだ。すぐさま11・19闘争の戦術方針をめぐってプロ統派とブントの間で激烈な論争が始まり、殴り合いになり、フロントもプロ統派を支える隊形でブントに向かい、ブントは公園下に押し出された。公園の上下で対峙が続いたが機動隊が規制に入り、集会は再開されぬまま8時半過ぎデモが出発し、10時半日比谷公園に到着した各党派は各個に総括集会を開いたが、棒きれなどで武装したブントがフロントを急襲し、無防備のフロントは散り散りになり多数が負傷した。

【21日】沖共闘 於・大塚公園
「11・21沖縄共闘緊急総決起集会」は大塚公園にプロ統は労学500名、ブント戦旗派150名、フロント150名、共労党100名など1500名を結集し、午後6時過ぎから開始された。
沖共闘事務局から「現在の沖共闘内部の問題を反省しつつ、再度今後の闘争方針を提示して行きたい。連合協議体的結合のもと、諸戦線・諸組織の積極的な質を生かしつつ、それを事務局という形態で保証し、72年返還粉砕をともに闘い抜いていく。24日の強行採決を沖共闘の総決起で粉砕しよう。アピールした。反軍国主義青学共闘はブントの20日の日比谷公園での武装襲撃を糾弾し、自己批判要求を宣言した。

【24日】返還協定衆院通過に炎の反撃
衆院本会議で返還協定が可決された11月24日、沖共闘は「返還協定国会批准実力阻止緊急総決起集会」を常盤公園で開いた。沖青同は「沖縄返還は沖縄人民の生活破壊、反革命的軍事基地化しかもたらさない。我々は国会の暴挙許さない。全人民が帝国主義と対決する闘いを構築せよ」と訴えた。
富村裁判闘争連絡会議からの発言と富村氏のメッセージ、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、東京入管連、札幌地区反軍、熊本地区沖縄連帯行動委員会、自治労新潟県青年母千葉県労働者会議の発言のあと党派発言として、全国反軍国主義青学共闘、日本反帝戦線、共労党、全学連が発言し、日比谷公園までのデモに移った。
これに呼応した武装部隊が国会周辺でゲリラ的に鉄パイプ、火炎瓶による闘いを貫徹した。

6月のストライキ解除後は一橋の学内での大衆的な活動や共闘はなく、私は三里塚闘争と東大闘争裁判の逮捕を挟んで、学内にほとんど顔を出さず、新聞部室に行くか、全都の反帝学評からの指令で集会や闘争に参加していた。10-11月の闘争に向けて学生大会を行うこともなく、10・21の礫川公園、11・19の東大駒場の闘いには参加した。私がオルグしたわけではないが、しばらく闘争を離れていた3年生の友人が何人か闘争に参加し、逮捕された者もあり、その家族に説明するため友人の家を訪ねたりした。
全体の状況としては沖縄闘争の奪還か返還粉砕かの論争で全国全共闘=八派共闘が壊れ沖共闘と中核派を中心とする奪還派に分裂し、新左翼の勢力、影響力は衰え、学園から出撃し街頭闘争で人民大衆を巻き込んで秋期政治決戦で政府中枢を脅かすという69年70年71年と3年にわたり繰り返された戦略は警察権力の壁に阻まれて、政府の中枢を脅かすことはできず、人民大衆からも孤立していく結果に終わった。学生の間にはやれることはやった、あとは吉本隆明を気取って生活者に戻って、同棲生活、就職活動、学問研究などに転じようという気分も蔓延し、一方でセクトの指導的な立場の者たちはマルクス・レーニン主義の悪しき組織論に憑りつかれ、党―軍―統一戦線の呪縛から前衛党の建設、軍事の組織化、諸階級との統一戦線などに拘泥し、生命の大切さや人間の尊厳を忘れ、血で血を洗う内ゲバの愚行に陥り、自滅の道を突き進んだ。

12・1 留置人規則改悪を粉砕せよ!
三多摩の各警察署に差し入れを貫徹
批准阻止決戦の只中で警察権力は留置人規則の改悪を決定し、12月1日から強行しようとした。規則改悪の骨子は、第1に留置人への外部からの糧食の差し入れを警察署指定の業者を通じたもののみに限定することであり、第2に鎮声衣、防声具という戒具の留置任意対する止揚を許したことである。
三多摩地区の各救援会は規則改悪の発表後ただちに反撃の態勢を固め、留置人規則改悪粉砕実行委員会を作り、12月1日以降三多摩の各警察署に対して連日差し入れ禁止粉砕闘争を闘い抜いた。午前中は一斉に各警察署に食料の差し入れを要求し、規則改悪の意図を追求した。救援会の一大攻勢に慌てた各警察署は差し入れを受け入れざるを得なかった。救援会のメンバー約40人は三鷹警察署長に会見を申し入れ、2時間以上にわたり抗議闘争を展開した。2日以降も、連日各警察署に攻勢をかけ、ほぼ完全に食料差し入れを貫徹した。
小平救援会でも小平警察署に連日差し入れを貫徹し、この闘いをテコに会の再建を成し遂げた。一橋大全共闘もこの過程に主体的にかかわり闘い抜いた。官憲・勝共連合一体となった朝鮮大学校に対する暴力的弾圧と、デマ宣伝など反革命的地域管理が先行的に進められている小平地区において、大衆的な地区運動の推進軸として、あらゆるファッショ的な弾圧に対して闘う救援会の構築は急務である。
(続く)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
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1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年4月10日(月)に更新予定です。


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