2022年になりました。
今年は沖縄本土復帰50年です。
今年最初のブログは「沖縄問題」に関する報告2件です。
1件目は、昨年12月4日開催の明大土曜会での「沖縄の最近の情勢など」の報告、2件目は明大土曜会メーリングに定期的に寄稿していただいている「沖縄報告」(2021.12.24)です。
明大土曜会では、メンバーが2018年7月に沖縄での辺野古新基地建設抗議行動に参加し、2019年1月には①沖縄連帯の運動に参加し我々自身の横のつながりを広めていくこと②辺野古現地行動に参加すること③沖縄で活動している人々との関係を構築すること、を目的として「明大土曜会沖縄ネットワーク」を立ち上げ、その後も沖縄現地での行動に参加しています。
【沖縄の最近の情勢など】(2021年12月4日明大土曜会にてN氏より報告)

皆さんご存じだと思いますが、先週の11月25日に、沖縄防衛局による辺野古新基地建設計画の設計変更申請に対して玉城デニー知事が「不承認」の決定をしました。それに対して、この1週間、連日「不承認」を支持する抗議行動とか、やってきています。今日も新宿駅南口で宣伝活動をやってきました。
これまでも言われていますように、辺野古新基地建設に関わる、特に大浦湾側の区域に、いわゆるマヨネーズ並みと言われる軟弱地盤があることが、2015年の沖縄防衛局自身が行った地質調査で分かっていたわけですけれども、なかなか認めようとしなかったのですが、2019年1月に初めて認めまして、大幅な地盤改良工事をせざるを得なくなった。そこで昨年の4月に、これまでの設計を大幅に変更する申請を出した。
内容は、軟弱地盤を強化するために、砂杭を数万本も打ち込んで、それで柱みたいなものを作って固めて、その上に滑走路を造るという工法を出してきた。
これも非常に問題があって、軟弱地盤の深いところが水深90メートルに及ぶ場所がありまして、そこを固めなければいけないんだけれども、それを改良する工法なり技術なり経験というのは、日本はおろか世界どこを見渡してもないということで、技術的にも難しいという問題がある。何万本もの砂杭を打ち込むわけですから、環境破壊はすさまじいものになるはずです。
もともとそんな事出来るはずがないと専門家に指摘もされていたんですが、防衛省はとにかく出来るんだ、ということで変更申請を出してきた。
玉城知事の「不承認」の声明文によれば、大きく問題にしているのは2つ。
一つは、水深90メートルに及ぶ軟弱地盤を強化するための工法が確立されていない、期間もさらに最低12年かかるということで、辺野古新基地建設は普天間基地の危険性を除去するという目的に繋がらないということを言っています。公有水面埋立法というのがありまして、公有水面を埋め立てるには合理的な理由が必要なんですが、それに当たっていないとはっきり言っています。
もう一つは、大浦湾は貴重なサンゴやジュゴンなど貴少生物が生息している宝庫なんですが、それらの環境保全についてちゃんとした措置が取られていない。ジュゴンも2年くらい前からいなくなっているとか、ジュゴンに代表されるような希少生物の環境保全についても十分な措置がと取られていない、そういうことを挙げて玉城知事は、それでは全く目的に叶っていないということで「不承認」という決定をした。
それに対して、前々から「不承認」が出た場合は、東京でこの運動に取り組んでいる人たちも、翌日は国会前で「不承認」支持の行動をやるということで、26日の夜6時半から国会前で200人くらい集まって抗議行動をやりました。それと1週間後の昨日、「国会包囲実行員会」と「総がかり行動実行委員会」の共催で首相官邸前で集会をやりました。約500人くらい集まりました。
そういう形で支持するという集会をやってきましたが、問題はむしろこれからで、前々から政府も「不承認」が出されることを承知の上で、法的な対抗措置を取るということを言っておりますので、予想されることとしては、いわゆる不服審査請求をやる可能性がある。これは前から問題になっていて、元々不服審査請求というのは行政が行った処分に対して、国民の個人の権利として不服審査請求できるとなっているんですが、防衛省が個人に成り代わって不服審査請求をしてきた。法的なことは詳しくは分からないですが、不服審査請求を出したとしても、玉城知事の「不承認」の処分自体は覆せないそうです。覆すためには、法的な行政訴訟とかいろんなことをやって判決を得られないとダメだそうです。ただ、いずれは訴訟に持ち込まれて地裁、高裁、最高裁となっていくのが十分予想されますので、今後は一つは裁判の場が争いの場になってくると思います。
今までも何度か辺野古を巡る訴訟、裁判がありましたけれど、ことごとく裁判所が国の主張をそのまま鵜呑みにした判決ばかり出していますので、このままでは司法が政府・防衛省の主張を鵜呑みにした判決を出す可能性がありますが、今後はそういうやらせないための世論づくりとか、そういうことがますます必要になってくるだろうと思っています。
残念ながら本土での関心は少ないですし、玉城知事が記者会見しましたが、日本の本土のマスコミでほとんど取り上げていない。本土のマスコミを含めて関心は低いので、これをもっともっと広めていくということがこれから必要になってくるだろうと思っています。これが最近の辺野古の基地建設を巡る動きです。


もう一つは、昨年出された設計変更申請の中にも入っていますが、膨大な埋め立て土砂を調達するために、元々は西日本各地から土砂を持ってくる計画でしたが、いかんせん、県外からの土砂を持ってくることは県条例でかなり難しいということが分かってきて、防衛省は土砂は沖縄県内で調達可能だと言い出してきて、その調達先の一つとして南部の土砂を使うという計画があるわけです。
ところが南部というのは沖縄戦が最も激しく戦われた場所で、いまだに戦没者、犠牲者の遺骨が出てくるという場所なので、よりによって南部の遺骨が混じっている土砂を、戦争のための基地建設に使うというのはもってのほかだとうことで、具志堅さんという方がずっと呼びかけを行ってきています。
南部の熊野鉱山というのはその場所の一つですが、鉱山の開発計画を巡り沖縄県は熊野鉱山の鉱山権を持っている業者に対し、遺骨の有無について関係機関と連携して確認などを求める、自然公園法に基づく措置命令を出しました。業者側はこれを不服として公害等調整委員会に取り消し請求を行い、その審理が12月16日に行われます。
皆さん傍聴に行って注目してください。その日は、この問題について一貫して専門的な立場から講演をやっている北上田さんも沖縄から来られて報告・講演会があります。
現在の和具知市長は、前回の選挙の時に辺野古新基地建設の賛否について全く態度を明らかにせず、「争点隠し」をやって、それまでの稲嶺さんが2期目当選できな
かったという苦い経験がありますが、地元の和具知市長自身が辺野古の基地について全く態度を明らかにしない中でいよいよ選挙があります。
岸本さんは前の前の名護市長を務めた岸本建男氏の長男で、現在は名護市の市議会議員をやっています。若いしエネルギッシュな方で、何としても辺野古の新基地建設を食い止めるのは、辺野古の基地に反対する市長を実現しないと厳しいということで、選挙支援カンパをお願いしたい。

もう一つは、皆さん覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、50年前の1971年、沖縄返還協定を批准する国会が開かれている最中の10月19日に、沖縄出身の3人の青年が、「沖縄のことは沖縄が決めるんだ」ということを訴えて爆竹を鳴らして、当時の佐藤首相に対して抗議の行動をやったわけです。
その沖青同三戦士の一人の本村さんが『「復帰」前後の在日沖縄青年運動』と題した講演会があります。当時どういう背景で沖縄国会で爆竹を鳴らして決起したのか、その後の50年はどうだったのか、生の話が聴ける貴重な機会と思います。
この50年は何だったのか、沖縄の復帰・返還は何だったのかをもう1回問い直すきっかけにしていただければと思います。


最後に「警視庁機動隊の沖縄派遣は違法!住民訴訟」ですが。2016年夏から、当時沖縄の高江に予定されていたヘリパットを何としてもやるために、東京、福岡、愛知、千葉、神奈川から機動隊を派遣して暴力的に住民の座り込みを排除して工事を進めた事件がありました。
それに対して、各地でそれは違法だ、不法だということで住民訴訟を起こしました。私もその原告の一人として東京地裁で訴訟をやっていましたが、第一審は、機動隊の住民のテントとか車両を撤去したのは違法だということをはっきり認めたにもかかわらず、全体としては合法だということで、全く矛盾した判決でした。
第二審がこの前ありまして、もう最悪の判決で、全面的に敗訴になってしまいました。ただ。愛知での機動隊派遣の訴訟では勝訴したんです。これは愛知特有の経過もありますが、愛知の公安委員会が県知事の決済を受けないで先決事項ということで、いわば勝手に派遣を決めて、後で事後承諾するという、ちょっと無理なことをやったことがあって、さすがに裁判所がそれはおかしいということで、賠償金を払えということで勝訴だった。なおかつ東京地裁で認定された機動隊による住民の人たちの車とかテントの撤去については違法だという、内容の非常いい判決を名古屋高裁はしたんです。
東京もいいかなと思ったら、東京高裁では何の審理もしない。当時の警備部長でその時点では警視庁の副総監を証人尋問しましたが、車とかテントの撤去については違法だということは全く争わなかった。反論もしなかった。反論もしなかったし、争わなかったからそのまま認定されると思いきや、わざわざ裁判長が被告の言っていないことをわざわざ取り上げて合法だという、忖度判決以外の何物でもない判決だった。これではさすがに認められないということで上告することになりました。
(2021.12.14土砂投入3年抗議の日に、辺野古大浦湾の上空写真)
【沖縄報告2021.12.20】沖縄K・S
2022年、沖縄闘争のさらなる飛躍を!
はじめに
コロナに翻弄された一年であった。外交・軍事・経済・福祉の諸問題がコロナ対策という目前の施策の後方に押しやられ、国民の政治意識の縮小が進んだ一年でもあった。その結果が、11月衆院総選挙での自民・公明・維新の「勝利」、立民・共産の「後退」となって現れた。
沖縄でも一年以上、辺野古の現地行動は各団体の自主的な取り組みに任され、県民ぐるみの行動を行なうことができなかった。12月に入ってはじめて、第一土曜日の県民大行動がおこなわれ、800人が辺野古ゲート前に集まった。土砂投入3年に抗議する12.14行動には、ゲート前に200人、海上にはカヌー31艇、抗議船5隻に約60人が結集した。ふたたび沖縄の大規模大衆運動が始まった。同時に、沖縄に呼応し連帯する日本本土各地での取り組みもさまざまに行われている。
この一年を振り返り、今後の闘いの展望をどのようにえがくべきか。
1.変更申請不承認をめぐる攻防
玉城デニー知事は11月25日、沖縄防衛局が提出していた「普天間飛行場代替施設建設事業に係る埋立地用途変更・設計概要変更承認申請書」(変更承認申請書)について、「不承認処分」を行なったことを発表し、「不確実な要素を抱えたまま見切り発車したこの工事は絶対に完成しない。工事を中止し県との対話の場を設けることが一番重要だ」と述べた。
それに対し沖縄防衛局は、行政不服審査法に基づく審査請求を国土交通省に対して行なった。2018年の県による「埋立承認撤回」に対抗して沖縄防衛局が行なったものと同じである。国策に反対する地方自治体の異議を手っ取り早く押しつぶす手段として、日本政府は行政不服審査法を利用している。
行政不服審査制度はその名の通り、「国民が簡易迅速かつ公正な手続の下で広く行政庁に対する不服申立てをすることができるための制度」(行政不服審査法第一条の目的)である。年間10万件を越える行政不服審査の受付状況は、社会保険、生活保護、国税、情報公開、出入国管理、労災、道路交通、高齢者医療などとなっている。
新基地建設は国の事業だ。行政不服審査法は「国の機関」に「この法律の規定は適用しない」と明記している。しかし、無理が通れば道理が引っ込む。今後、変更申請不承認の問題は行政不服審査の過程を経て、最終的に裁判の場で争われることになる。「司法の独立」の看板を掲げているが内実は内閣の支配下にある裁判は内閣の都合のいい結果になる。実のところ政府のサラリーマンとなってしまって裁判官たちは恥ずかしくないのか。
日本政府に対し抵抗する沖縄県を支持し激励する県内外の行動も活発に進められている。500人の集会・デモが県庁前で行なわれた12月3日、首相官邸前でも500人が参加して沖縄に呼応する集会が開かれた。連帯する動きは全国各地に広がりを見せている。日本自然保護協会は県を支持する声明を発表した。大久保奈弥(東京経済大学准教授・海洋生物学)、澤地久枝(作家)、白藤博行(専修大学教授・行政法)などの著名人51人も12月14日、「国は、沖縄県知事による埋立変更不承認を真摯に受け止め、直ちに埋立工事を中止 せよ」との共同声明を出した。
玉城知事による変更申請不承認を機に、辺野古新基地建設・埋立をめぐって日本政府岸田内閣と対峙する闘争戦線が再び力強く築かれ始めている。沖縄県の行政、オール沖縄会議に網羅される全県的な県民の運動、各地・各グループの自主的な取り組み、全国各地での連帯活動が一つの大きな塊となって、岸田内閣、防衛省・沖縄防衛局に対する強固な闘争陣形をつくり上げつつある。2022年は全面対決の年になる。闘いの輪に結集しよう。エセハト派・岸田に対する全国各地の力を総結集しよう。
2.辺野古の闘いの歴史を振り返る
始まりは、1996年の日米両政府によるSACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意であった。以後、普天間飛行場の返還の条件とされた県内移設・新基地建設が画策されてきたが、県民は一貫して反対であった。2013年12月に埋立承認申請を認可した仲井真元知事も知事選挙では「県外移設」を掲げて二期目の当選をしていたのである。
2014年10月の知事選挙では、仲井真知事と自民党に対する県民の怒りが大きな渦となり、旧来の保革の枠を越えて辺野古反対を公約に立候補した翁長雄志候補が大差で当選した。また、直後の衆議院総選挙では、沖縄選挙区全4区で辺野古新基地反対を掲げた候補が当選した。
沖縄県による地方行政権力を行使した辺野古反対の闘いのピークは、2015年10月13日の翁長知事による埋立承認取り消しから、福岡高裁那覇支部での「和解」と工事ストップを経て、2016年12月20日の最高裁判決による沖縄県の敗訴の確定と翁長知事による承認取り消しの撤回に至る一年有余の過程であった。沖縄県のこの闘いは日本政府に対する法の枠内における抵抗、言葉をかえて言えば、合法的な二重権力闘争であった。中央政府の首相や閣僚を相手に一歩も引かず「新しい基地は沖縄には決して造らせない」という翁長知事の闘いを沖縄県民の大多数は強く支持するとともに辺野古の現場や地域で闘い抜いた。
しかし、沖縄県の行政権力による抵抗は裁判に行き着き最高裁での判決により敗北した。その後、政府による埋立工事が強行された。そうした現実に直面する中で、辺野古新基地反対の大衆闘争の規模とエネルギーは徐々に分散し後退していった。
国に抵抗しても無駄なのか。長い物には巻かれるしかないのか。2019年2月に歴史的な辺野古県民投票を遂行しながらも、県民の間に醸し出された無力感が現場と地域における結集力の弱体化と国政選挙・首長選挙での後退をもたらして来たことは事実だ。
玉城知事の変更申請不承認を契機に、辺野古新基地に反対する闘いはあらためて、県行政と連携しながら大衆運動が主導する局面に入る。辺野古・安和・塩川の現場と各地の地域を結んだ絶えることのない不屈の運動が、全国各地の沖縄に連帯する運動と結びついて、日本政府の国策・辺野古新基地を止める巨大なうねりとなっていくのである。
3.沖縄の本土復帰50年
勝利した戦争の「戦果」として沖縄を軍事占領した米軍は4半世紀にわたって軍政をしき、沖縄の陸・空・海を完全に支配し軍事要塞化した。人権と民主主義のない軍政下、頻発する事件事故、耐え難い騒音、基地からの有毒物質の流出と環境汚染、繰り返される凶悪な米軍犯罪の数々によって、県民の命と生活は脅かされ続けた。
1971年,国会が沖縄返還協定を批准した時、当時の琉球政府の屋良朝苗主席は「復帰措置に関する建議書」(沖縄県公文書館でPDFダウンロード可)を携えて上京した。屋良主席は、県民の総意として核兵器も米軍基地もない平和で安心して暮らせる沖縄の実現を訴えようとしたが、日本の国会は沖縄の声を聞くことなく、佐藤政権の提出した返還協定を可決した。
米軍政末期・復帰前夜の沖縄で、土地闘争、本土復帰運動、教公二法闘争、主席公選、全軍労ストなどに示されるように、米軍政支配は行き詰まり危機に瀕していた。琉球列島内の力関係は闘いの側が優位に立っており、県内の階級情勢は沸騰していた。日米両政府による沖縄返還は、危機に瀕した米軍政に代わって、日本政府が日本本土の政治的・経済的・法的支配体系をもって沖縄を縛りつけることを企図したものであった。それが日本政府の言う「本土並み」であった。
1972年5月15日の沖縄返還から50年を迎える。50年のバランス・シートはどうか。アジア随一の米陸・海・空・海兵の四軍が居座り続け、自衛隊の奄美・沖縄・宮古・石垣・与那国への配備が強行される現状を見れば、日米両政府の思惑通りに事態が進行しているように見えるかも知れない。日米両政府には琉球諸島の住民の命や生活など眼中にない。アジアの軍事戦略に利用できればいいと考えているだけである。
しかし、日本政府にとってのアキレス腱は、沖縄をはじめ琉球の島々が無人島ではなく、島々に暮らし喜び悲しみ怒る150万の人々がいるということだ。復帰後一時期混迷したかに見えた沖縄の反戦反基地闘争は、1995年を境に再び大規模大衆運動のエネルギーが充満し始めた。1995年。この年、大田昌秀知事が戦後50年の節目に糸満市摩文仁に平和の礎をつくった。さらに、米軍兵士三人による卑劣な少女拉致暴行事件に抗議する85,000人の県民大会が行われ、以後の数度にわたる10万規模の集会の先鞭をつけた。
振興策と法的経済的支配の枠組みでは沖縄の闘いのエネルギーを解体することはできない。現実の矛盾がある限り必然的に闘いは起こる。米軍と自衛隊が県民の命と暮らしと健康を脅かし続ける限り、必ず大規模な戦争反対・基地撤去の運動が起こる。復帰50年を迎えて、我々は戦略的確信の下に、改めて基地のない平和な沖縄に向けた闘争戦線を固めなければならない。
4.沖縄が直面する戦略的課題
米軍の直接占領と軍政に対する闘いの27年と本土復帰後の日本政府の支配に対する闘いの50年を経て、沖縄の平和と人権を取り戻す闘争が直面する核心的な課題とは何か。
①沖縄から自決権を問う
日本政府の理不尽な支配から抜け出るためには沖縄は独立するしかないのか。独立して日本政府と対等の国を打ち立てることが日米両政府の軍事支配の桎梏から解放される道ではないのか。そのように考えてみた事のある人は多いかも知れない。薩摩の琉球侵攻以後400年以上におよぶ日本による暴力・強権・差別を強いられた琉球・沖縄の近現代史を振り返れば、沖縄県民が政治的に独立の道を選択しようとしても何ら不思議ではない。
中央政府から独立した沖縄が誕生するにあたっては、米軍と日本政府によって押し付けられた軍事的なキーストーンからの脱却が最初の重要課題となるだろう。日米両国の軍事支配から脱した沖縄が誕生すれば、アジアの周辺諸国から熱烈な歓迎を受けるに違いない。琉球共和国・沖縄共和国、あるいは民主共和国、人民共和国を名乗ることになるかもしれないが、日本との関係において二つの形が考えられる。①日本とは別個の沖縄独立共和国、②日本連邦制のもとに本土政府と対等の権力を有する沖縄自治政府。どちらの形にせよ、そのような時代が訪れることを想像するだけで胸が躍る。
独立か自治かという自決権を行使するのは沖縄県民である。2019年の県民投票を経て広く主張されるようになった「沖縄の自己決定権」は、巾広い概念であるが、政治的自立のための重要な萌芽である。最近では東チモールの独立戦争が示すように、それは当該地域住民の圧倒的多数の意思が決めるものであって、少数の指導者が恣意的に操作できるものではない。あらゆる選挙、調査によって示されている沖縄県民の多数の意思は一貫して、「本土復帰・基地撤去」に沿っている。沖縄が日本に属しながら、日本の一部としてありながら、中央政府を改革し沖縄独自の力を強化しながら、基地を無くしていくという方針なのである。
それは政治的には「自治」を意味する。突き詰めれば、「自治」の極限たる「自治共和国」と「自治議会」「自治政府首相」へ向かって、沖縄の闘争は徐々に、紆余曲折を幾度も経ながら向かって行くことであろう。沖縄県民は必ず勝利する。
②沖縄から国際主義を問う
沖縄はアジアの紛争と無関係ではいられない。天皇制日本の支配下で「帝国の南門」とされた沖縄の県民は日本の南方進出の先兵の役割を負わされ、フィリピン、サイパン、テニアンなどへ植民し戦争の最前線で多数が犠牲となった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争など、戦後米国の戦争では沖縄は米軍の出撃・補給基地としてフル稼働した。
米国による現在の中国封じ込め政策によって、米軍基地と「南西諸島」奄美・沖縄・宮古・石垣・与那国の琉球列島の自衛隊基地によって、沖縄は中国軍との対抗の最前線に押し上げられている。「朝鮮有事」にとどまらず、「台湾有事」や尖閣諸島(釣魚台)をめぐる島嶼戦争ということが頻繁に言及されるようになった。
アジアの軍事的緊張の激化の中で、中国や台湾、朝鮮、アジア諸国の人々とどのように連帯するのか。
釣魚台(尖閣諸島)は、琉球王国が中国と冊封関係を形成して以来中国が支配する島々であった。無人島であったが無主地ではなく、中国名が付けられ、主に航路に利用された。明治政府は英語の「ピナクル(Pinnacle)」をそのまま日本語に翻訳して「尖閣」と名付けた。「尖閣は日本固有の領土」などではない。石垣市による「八重山尖閣諸島魚釣島」「沖縄県石垣市字登野城尖閣二三九二番地」などと記されている標柱設置は、日本のアジア侵略の歴史を肯定し中国との軍事的対抗を手助けする誤った行政行為である。
戦後アジアの最大の問題は、アジア太平洋戦争のいわば「負の遺産」たる二つのこと、すなわち、日本のアジア侵略の清算・謝罪のないことと米軍のアジア、特に韓国・沖縄・日本における大規模駐屯が続くことである。米軍のアジアからの撤退と日本のアジア侵略に対する反省・謝罪がない限り、アジアの戦後は終わらない。
欧米列強と新興帝国・日本のアジア植民地支配が苛烈を極めた20世紀、1922年1月にコミンテルンが主導する極東民族(勤労者)大会がソ連で開かれた。朝鮮、中国、モンゴルなど各地から約150人の代表が参加し、日本代表団は合わせて13人であったという。アメリカからの参加者には、片山潜やのちに『思い出の革命家たち』(芳賀書店)を書いた渡辺春男がいた。国内からの参加者には、沖縄県名護市出身、日大を卒業して弁護士になっていた徳田球一がいた。
極東民族大会の後、各国各地での民族独立運動、民主主義革命運動、社会主義運動がさらに活発化した。その後のソ連の変質と個人独裁の確立により、コミンテルンはソ連の外交と安全保障の道具に転落したが、国境を越えた諸民族の提携を企図した極東民族大会の国際主義の輝きは失われることはない。
アジアにおける軍拡と戦争に絶対反対、米軍のアジアからの完全撤退、各国の強権と独裁に反対し人権と民主主義を求めるという共通の価値観に基づいて、アジア各国人民の交流・提携・連帯が計られなければならない。お互いの言葉と文化を学び、それぞれの闘いを互いに知り交流し連携し、アジアの共同体へ向けた一大運動をつくり上げていくことが、100年前の極東民族大会の精神を受け継ぐ21世紀の我々の課題である。
(終)
【お知らせ その1】

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。
執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男
定価1,980円(税込み)
世界書院刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その2】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は1月28(金)に更新予定です。
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