
今回は新宿駅西口地下広場での「反戦フォーク集会」のその後の状況である。
1969年6月28日、機動隊突入。まず新聞記事を見てみよう。
朝日新聞 1969.6.29
【“土曜の夜”ついに爆発 新宿駅西口】(引用)
反戦フォークソング集会 交番メチャメチャ 機動隊がガス弾で規制
『28日夜、東京・新宿駅西口地下広場の名物“フォークソング集会”は約7千人にふくれ、新宿郵便局の郵便番号自動読みとり機の強行搬入の問題もからんでついに爆発した。
若ものの群集は機動隊と衝突を繰返しながら西口改札口を自由に出入りし、機動隊は地下広場にガス銃を撃ち込んで規制、学生ら64人が公務執行妨害などの疑いで逮捕された。
また、通りがかりの女性2人が巻き添えでけがをし、警官もけがをした。国電は平常どおり運転したが、広場から出るバスはいずれもストップ。夜遅くまで続いてビルの谷間の反戦歌は、ガス弾の煙の中で涙の大合唱に変わった。(略)』
この日は記事にあるように、新宿郵便局への郵便番号自動読みとり機の強行搬入の日とも重なり、全逓の反戦(ブント系)を支援するため明大の社学同も集会に参加し、駅構内でデモもしている。
また、「明治大学新聞」のY記者も現場で取材にあたっており、6月28日の集会の様子を記事にしている(注)。そこから一部引用してみると
明治大学新聞 1969.7.3
【容赦のない“警棒” 西口地下広場は人・人・人】(引用)
『(略)機動隊は地下広場や地上にいる群集に向かってもところかまわずガス弾を撃ち込む。それは頭の上を音を出して飛び、逃げ惑う人々の足元で爆発する。すさまじい光景である。
駅出入口付近まで機動隊が突進してきた。記者は持っていたカメラを向けた瞬間、走りすぎる機動隊の1人が蹴り上げたと思ったと同時に、顔面に衝撃を受けた。気がついてみると前歯が1本、半分ほどかけていた。(略)』
Y記者の現場での生々しい体験である。この記事を読んでガス弾の飛ぶ音を思い出した。そういえばMUP共闘のY氏は前歯が欠けていたかな?
写真はY氏が撮った1969.6.28の新宿駅西口地下広場の写真である。
この事件から1か月後、新宿駅西口地下広場はついに機動隊に制圧されてしまった。
朝日新聞 1969.7.27
【新宿西口“機動隊広場”に】(引用)
『東京・新宿駅西口地下広場の“土曜フォークソング集会”を実力で規制している警視庁と淀橋署は、26日も同広場に2200人の機動隊員を配置、群集が少しでも立ち止まると実力で押し出すというハード戦術をとったため、集会は先週に続いて、お流れとなった。群集は集まるスキさえなく、広場はこの夜、完全に“機動隊広場”となった。
午後8時頃、群集の一部が東口に流れて歌舞伎町方面へデモをしかけたが、これもあっさり規制された。この日、“機動隊広場”での警官とのこぜりあいで、6人が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。』
これから約1年後の1970年6月6日、再び新宿駅西口広場に歌声が響く。しかし、警察の壁は厚かった。翌週の西口広場での集会は機動隊員2000人の規制により阻止され、その後、西口広場での反戦集会は実現していない。
2008年1月、新宿駅西口地下広場。反戦集会があった場所は「イベント・スペース」となっており、CDの販売や地方の物産展などが開かれている。人が集まっているのはここだけだ。それ以外の場所で立ち止まる人は少ない。立ち止まるのは、待ち合わせの人たちか托鉢僧くらいのもの。
広場を行過ぎる人波は昔も今も変わらないが、38年前、ここで若者たちが「アンポ・フンサイ」「闘争勝利」のシュプレヒコールを叫び、デモをして機動隊に「帰れ、帰れ」と叫んで騒然とした広場だったことを覚えている人たちは何人いるだろうか。
新宿駅西口地下広場という出会いの「広場」を我々が喪失してからずいぶん長い年月が経つ。しかし、今、インターネットという新たな出会いの場を私たちは手に入れた。
このブログもホームページも国境や国家に制約されることなく、全世界の人々に開かれ、つながっている。このインターネットが社会変革の「広場」としてどんな可能性を秘めているのか、また、そこで何が可能なのか私にはまだ分からない。
今日もまた、インターネットという未知の大海に私の小さな小舟を漕ぎ出して、遥か水平線の彼方にあるであろう、失われた希望や夢、想いが残る場所へと旅を続ける。
(注)「明大全共闘・学館闘争・文連」の明治大学新聞の記事の中に6.28新宿土曜反戦フォーク集会を取材したY記者の記事があります。
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