
2月11日は「建国記念の日」(注1)である。今回はこの日に関係する話。
1971年2月11日、私は東京・杉並区の明大和泉校舎の学生会館運営委員会室に居た。当日は、日比谷野外音楽堂(写真は野音入口:1975年撮影)で「紀元節粉砕」の集会が開かれることになっており、私も集会参加の準備などをしていると、部屋に2階の学生会中執からブント戦旗派のM氏と数名が入ってきて、「ここに週刊誌はないか」と聞かれた。
部屋には読み終わった週刊誌が結構あったので提供すると、「ちょっと手伝ってくれ」と言われた。何をするのかと思いきや週刊誌を身体に巻きつける手伝いとのこと。野球のキャッチャーのプロテクターのように、身体に週刊誌を広げて紐で縛りつける。こんな格好で動けるのかと心配したが、今日の集会で戦旗派と叛旗派がぶつかるので、部隊の前面で竹ざおを構える要員にはこのような準備をさせているとのことだった。
M氏は作業を見ながら遊撃隊で殴りこむと息巻いている。M氏は戦旗派の中でも学館運営委員会室によく顔を出し、いろんな話をした間柄である。小柄で色黒、メガネをかけており、まさにゴリゴリの戦旗日向派(荒派)である。喋るときは「それはなー」と言って、こぶしを前後に動かすスッティング・スタイル(ガリ版を刷るポーズ)で喋る。
その後のうわさで、「暴力団対策法」反対の左翼と右翼、暴力団のデモを仕掛けた1人だったときいた。
その荒派の首領である荒 岱介は、この頃、和泉学館の2階に常駐しており、ボディーガードを連れて晴れた日でも長い雨傘を持ち歩いていた。(襲撃にそなえるため、傘の中に鉄パイプが仕込んであると噂されていた。)戦旗日向派(荒派)の学生部隊も十数人が常駐していた。
さて、日比谷野外音楽堂での集会はどうだったのか、新聞記事を見てみよう。
朝日新聞 1971.2.12
【建国記念日 対決ムード】(引用)
熱っぽく「奉祝」「反対」 三島事件(注2)が刺激に
『「建国記念日」の11日、全国各地で「奉祝」「反対」両派の集会や行事がさまざまに行われた。(中略)今年とくに目立ったのは三島事件をめぐる両派の“対決ムード”奉祝派は三島事件をきっかけに民族意識の高揚を図ろうとし、反対派の新左翼系学生の間からは「天皇制イデオロギー打倒」のスローガンも飛び出すなど、熱っぽいふんい気だった。(中略)また、反対派の全国全共闘連合、全国反戦派は日比谷野外音楽堂に約2000人が集まって「紀元節粉砕、労学市民中央総決起集会」。「侵略を賛美する靖国法案粉砕」「三里塚闘争勝利」「入管法粉砕」などさまざまなプラカードが並んだが、そのなかで「天皇制イデオロギー打倒」のスローガンが、学生運動の中で初めて登場した。
中核派のスローガン、必ずしも他派の同調は得られていないようだったが、同派の活動家は「安保自動延長の国家総動員体制の中で、それを支える思想は天皇制イデオロギーだ。三島事件で天皇制問題が改めて意識にのぼったが、この問題の解決なくしては革命はない。」と熱っぽく説明していた。』
【左右集会に9千人 東京】(引用)
『(略)これらの集会、デモの警備のため機動隊2000人も出動。日比谷公園の全共闘系集会に参加した共産同戦旗派と叛旗派の合わせて180人が竹ざおでなぐりあう内ゲバ騒ぎがあったが、全般に平穏だった。(略)』
日比谷公園の日比谷図書館前付近で両派は衝突した。叛旗派も戦旗派も一団となって低い姿勢で竹ざおをハリネズミのようにした陣形で激突。しばし、両派の竹ざおのバチバチという打ち込む音がしていたが、M氏ら数人が一斉に掛け声を上げながら脇から叛旗派を攻撃。それをきっかけに叛旗派はズルズルと後退し、総崩れとなった。
後には、叛旗派の小旗の付いた竹ざおとヘルメットが残された。
この日の内ゲバで勝負を分けたのは、戦旗派のM氏らの側面攻撃だろう。攻撃は最大の防御という言葉どおりの展開だった。
それとも、週刊誌のプロテクターのお蔭か?
ブント内の内ゲバはその後も続き、明大内でも戦旗派(和泉・本校)と情況派(生田)、
神田地区でも明大の戦旗派と専大の「さらぎ派」との間で抗争が行われた。
党派が内ゲバを繰り返す中で、明大の黒ヘルノンセクトは学内ロックアウト体制に対する闘いの中心となっていく。
(注1)「建国記念の日」:戦前は「紀元節」と呼ばれ、神武天皇(初代天皇)が即位した日を日本の紀元(歴史が始まる最初の日)としたことが始まりとされる。戦後、「紀元節」はなくなったが、1967年から「建国記念の日」として復活し国民の祝日となった
(注2)三島事件:1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室で三島由紀夫が「楯の会」メンバー4人と共に総監を人質に取って籠城。三島自身がバルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をした後、総監室で割腹自殺した事件。
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