
1970年といえば、思い浮かぶのは「藤圭子」。(写真)
彼女の歌には新宿の匂いがする。
1969年のデビュー曲が「新宿の女」なので当然かもしれないが、「圭子の夢は夜ひらく」など他の彼女の歌を聴いても夜の新宿の街の様子が目に浮かぶ。
あのちょっとかすれたハスキーボイスとルックス、暗さや怨念を感じさせる歌いっぷり・・・。
私は部屋に藤圭子の顔のドアップで、片目から涙を流している大きなポスターを貼っていた。某自動車メーカーが系列販売店での宣伝用に作成したキャンペーンポスターであるが、アルバイト先のキャンペーン下請け会社で手に入れた。夜、寝る時、丁度このポスターが見えるような位置に貼って眺めていた。
そのポスターは今はもうない。
明大の中核派に藤圭子の大ファンがおり、たまたまこのポスターの話をしたところ是非欲しいということになり、彼のアパートで「猪鍋」をご馳走になる代わりにポスターを提供することになってしまった。「猪鍋」を食べるのは初めてだったが、とても美味かった。
でもポスターも惜しかったな・・・。
1972年、その元中核派の彼から突然電話があった。新宿の中華料理店でウエイターのアルバイトをしないかという誘いだった。彼はすでに大学も辞めて、その店でフロアマネージャーをやっていた。人手不足で私に声をかけてきたのだろう。
ウエイターはやったことがなかったので断ろうとしたが、とにかく1日でもやってくれということで、その店でアルバイトをやることになった。大学での活動もあるので、アルバイトは土日や繁忙期だけだったが、結局3年近く新宿に通うことになってしまった。その中華料理店は新宿伊勢丹の裏手にあった。
3年近くもアルバイトが続いた理由は何といっても食事。店が閉まった後、コックさんたちが残りの食材を利用して従業員用の夕食を作る。店に出すような料理ではないが、残り物とはいっても自分達も食べる料理なので量も多く、とても美味しい料理を作る。店の人たちは皆酒好きで、「マネージャー飲もうよ」といってビールを開けさせて飲みながら食事をする。結構飲ましてくれるし料理も美味い。こんないいアルバイトはないと当時は思っていた。営業中でも北京ダックなどの高級料理で客が食べ残したものは取っておいて、ウエイターやウエイトレス連中で店の裏手で味見をしていた。
そんな訳で中華料理(北京料理)についてはよく知っている。代表的なものは大体食べたことがある。でも「なまこ」の料理は苦手だったな。
この店には私の紹介で明大文連のメンバーも何人かアルバイトをした。文研のM君もアルバイトに来て、ウエイトレスにワイシャツに口紅を付けられたりしていた。
1973年の初め、同級生のN君から、N君の知り合いで元日大全共闘の人がマスターをやっている新宿の大衆割烹でアルバイトをしないかという話があった。店は新宿西口の新宿警察署の前のビルの地下にあり、「秀新」という名の店だった。卒業までの短い期間だったが、中華料理店と併行して、夜の数時間、そこで皿洗いのアルバイトをした。
その後、卒業してフリーターのような生活をしながら原宿の専門学校で勉強をしている頃、この「秀新」には客として通った。
「秀新」で飲んだ後は、マスターなどと一緒に新宿歌舞伎町にあった「ビレッジ・ゲート」という深夜営業の「ジャズ喫茶」(?)に何回か行ったことがある。
「ジャズ喫茶」というより、ディスコの前身のようなキャバレーを改造したような店だった。「秀新」のマスターの知り合いの青学の女学生たちとフロアで踊った記憶がある。彼女たちはプロ学同関係者だったかな?
この店も元日大全共闘のメンバーがよく利用しており、彼らと「これからの大衆運動の可能性」などということを酒を飲みながら論じ合った。
「秀新」には会社に就職した後もよく通った。店にあった日本酒の一斗樽を飲み干そうということで「一斗樽を空ける会」という会を作って、仲間を30人ほど集めて盛大に酒盛りをしたこともある(もちろん一斗以上飲んでしまった)。余談だが、この会の帰りに新宿西口で他グループと喧嘩となりパトカーや救急車が来る騒ぎになってしまった。反省・・・。
2008年、今日も雑踏の中をJR新宿駅の改札を通って会社に向かう。1969年の歌舞伎町コマ劇場裏のビラ配りから、今回書いた新宿伊勢丹裏の中華料理店のウエイター、新宿西口「秀新」での皿洗いまで、新宿はアルバイト生活の想い出の場所でもあり、現在の仕事場でもある。
今回の雑記に書いた当時アルバイトをしていた店は今はもう無い。新宿も1970年前後の様子と大きく変わり、当時の雰囲気も無くなってしまった。
でも、私にとって1970年前後の時代の記憶は新宿という街と切り離すことができない。
※「秀新」ではマスターの紹介で、あるイベントに関わることになったが、その話は次回の雑記に書く予定です。
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