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3月は春闘の季節。今から34年前の1974年3月17日、日大講堂で総評(注1)主催のロック、フォークコンサートが開かれた。当時の新聞を見てみよう。

朝日新聞 1974年3月18日 (引用)
【春闘コンサート音高く ロック、フォークに3000人】
【入場料99円が魅力 闘争無関心派   ダラ幹の思いつき “不満派”組合員】
『とらえどころのない若者を国民春闘に結集させようという「春闘勝利・若者総決起、1万人コンサート」が17日午後1時半から東京・両国の日大講堂で開かれた。目標の1万人には及ばないが、3千人以上がつめかけ、まずは盛況だったが、「シュントウってなんのこと?」と聞き返す女子中学生から「こんな甘ったれた催しにはただ反発するのみ」とぶちあげる組合活動家まで、会場の声はさまざまだった。
この催しの一番のお目当ては未組織の若い労働者への呼びかけ。「国民春闘を成功させるには、これらとらえどころのない若者たちをまとめる必要がある」と、一部の強い反対を押し切ってロック、フォークの人気バンド出演による総決起集会が実現した。(中略)
入場料99円、出演料などを支払うとしめて200万円以上も総評側の持ち出しとなるという。』

このコンサートの仕掛け人は前回の連載に出てきた「秀新」の元日大全共闘のマスターの知人である。「労働問題研究所」(?)というところの人で仮にA氏としておこう。
私が大学卒業後、フリーターのような生活をしていた1973年の秋頃、新宿の「秀新」で飲んでいたらA氏を紹介された。A氏はコンサート準備にあたって彼の助手を探していたらしい。
A氏から「総評でロックコンサートをやるから手伝ってくれ」と言われ、思わず「総評?」と聞き返してしまった。A氏が総評から春闘の企画を依頼され、提案したロックコンサートが通ったとのこと。少し躊躇したが定職もないし、総評+ロックコンサート+日大講堂という組み合わせに意外性を感じて引き受けた。この手のイベントがあると、あまり考えずに参加してしまう“悪い癖”(?)があり、この時もそうだった。反省・・・。
事務局は当時、東京・港区にあった総評会館内の春闘広報センター。広報センターの一角に場所を借りて準備が始まった。
ロックコンサートの内容の企画は、1971年夏に三里塚で行われた幻野祭をプロデュースした2人組が担当した。
主な出演者は内田裕也、山下洋輔、三上寛、長谷川きよしなど。

私は主に情宣担当ということでポスター貼りとビラ配りをした。ポスターは直接電柱に貼るのではなく、ベニヤの捨て看板にポスターを貼って、捨て看を電柱に針金で巻きつける方法をとった。夜中にライトバンに看板を積んで都内を巡りながら2~3人で手早く作業をしていく。(芝浦工大の第四インターの人との共同作業でした。)
ビラ配りはピアなどでコンサート情報を収集し、そのコンサート会場の入り口付近でビラ撒きをする。当時、明大に在学していた高校時代の同級生のN君を誘って各地でビラを配った。
新宿厚生年金会館では、ビラ配りをしていたら、知らない人が声をかけてきて、「待ち合わせの人が来ないので入場券をあげる」と言われタダでウイルソン・ピケット(注2)のコンサートを見た記憶がある。

このコンサートに関連して、何人かの明大関係者に出会った。
日本音楽著作権協会に著作権料の値引きの交渉に行ったところ、駿台論潮というサークルの「元祖黒ヘル氏」が出てきてビックリ。当時の話などして交渉したが、結局まけてもらえず。
当日の会場設営では、1970年の駿台祭実行委員会企画局長のO氏のグループが設営を請け負っていた。その中には、414B統一戦線に参加していたこともあり、1972年の駿台祭実行委員会企画部員だったO氏もいた。
会場で声をかけたら「何で総評にいるんだ」と警戒されたが、事情を話して納得してもらった。

さて、コンサート当日は会場の準備や出演者の案内などで「ここが大衆団交の学生達で埋まった日大講堂か」などと感慨にふける余裕もなく、あっという間に開場の時間に。入場料はタダだが99円をカンパ(税金対策)ということで、100円を入り口でもらうのだが、観客が入り口に殺到して100円玉が乱れ飛ぶ大騒ぎになった。
新聞記事にもあるようにコンサートそのものの春闘効果はほとんどなかったと思うが、総評というお堅い労働組合の団体がロックコンサートをやるということで話題となり、新聞やTVに取り上げられたので、それだけでも春闘のPR効果はあったのかもしれない。
1970年代前半、労働組合とロックコンサートが結びつかなかった時代の出来事である。

(注1)総評:日本労働組合総評議会の略。日本最大の労働組合組織だったが、1989年、現在の連合に合流し解散した。
(注2)ウイルソン・ピケット:黒人ソウルシンガー。「ダンス天国」などのヒット曲がある。