
今回の連載は、「沖縄返還協定」調印を目前にした1972年5月13日、神田駿河台の明大前通りで繰り広げられたブント戦旗派による「解放区」闘争に関する話である。(写真は「怒りをうたえ」パンフレットからの転載)
当日、私は明大8号館1階の明治大学新聞学会(MUP)の部屋にいた。「火炎ビン規制法」が施行される前でもあり、5月13日に戦旗派が何かやるということは聞いていたが、予告どおり夕方に「解放区」闘争が始まった。
その時の様子が新聞記事に載っているので、引用する。
朝日新聞 1972.5.14 (引用)
【“火炎びん解放区”大荒れ 車焼き道路封鎖 学生―規制法発効に反発 神田駿河台】
『13日午後4時前、東京都千代田区神田駿河台の明大通りで、明大正門から飛び出したヘルメット姿の学生数十人が路上に火炎びんを投げ、驚いて停車した乗用車3台をつぎつぎに横倒しにして火をつけ、大学構内から机などを持ち出してバリケードを築いた。
少しはなれた大学院前でもバリケードをつくり、これに火炎びんを投げて放火、同時に国電御茶ノ水駅周辺にも学生数十人が現れ、神田署御茶ノ水派出所や通行中のタクシーに火炎びんを投げ込むなどしてあばれた。駿河台周辺で過激派学生らが荒れたのは昨年11月以来。』
【警官32人けが 学生128人を逮捕】
『付近は一時間完全に交通がストップしたうえ、千人近いヤジ馬で混乱した。機動隊が規制にかかると、学生たちは大学構内などに逃げ込み、騒ぎは1時間たらずで一応静まったが、学生らはその後もすきをみて、バリケードを築いたり、散発的に投石などを繰り返し、午後7時頃まで混乱した。(中略)
また、今年最高の学生128人が凶器準備集合罪などの現行犯で逮捕された。投げられた火炎びんは100本以上にのぼった。
警視庁公安部の調べによると、学生らは、この日正午ごろから明大91番教室で開かれた反帝学評、ブント系など沖縄共闘主催の「沖縄大討論集会」に参加したうちの一部で早くからこの日の“解放区闘争”を呼びかけていた。
15日の沖縄返還協定日を前に、14日から「火炎びん規制法」が発効、これまで火炎びんの使用に適用されていた凶器準備集合罪などに比べ罰則が重くなることから、新法発効前に火炎びんの“投げ納め”、あるいは新しい規制法に“挑戦”する構えを誇示したもの、と同公安部はみている。
「神田カルチェ・ラタン」を叫んでいた過激派学生らは13日午後、予告通り自動車を倒してバリケードにし、火をつけるなどの行動に出た。午後3時40分過ぎ、明治大学構内から、赤ヘルメット、覆面姿の学生ら約30人が二手に分かれて路上へ。明大向かいの道ばたに止めてあった乗用車を倒して火をつけた。
一方、神保町へ抜ける道路いっぱいに、タテ看板や机、イスなどを持ち出し、バリケードを築き、ガソリンをまいてこれにも火をつけた。このあと、すぐ明大前の「主婦の友ストア」わきの道路で乗用車2台も横倒しにし、放火した。
この騒ぎで、付近は下校途中の一般学生らでごった返していたが、(中略)赤ヘルの学生らはだれもいなくなった道路いっぱいに「返還粉砕」「派兵阻止」と叫び、ジグザグデモを繰返した。
赤ヘルグループは約10分ほどデモを繰返していたが、待機していた機動隊が規制にかかると、あっという間に明大構内に逃げ込んだ。このあと、高圧放水車が出動して、まだ燃えていたバリケードの火を消し、機動隊がこれを撤去、「カルチェ・ラタン」もたった20分間で終わった。』
騒ぎを聞きつけてMUPの部屋から飛び出すと、新聞記事にもあるように大学院前で、ブント戦旗派の学生がバリケードを作っている。
大学院と4号館の間あたりの歩道で、大勢の野次馬とともに様子を見ていると、機動隊が規制に乗り出した。
ブント戦旗派の学生は、樫のゲバ棒を手に果敢に機動隊めがけて突入していく。しかし、歩道から大勢の私服警官が飛び出し、後ろからタックルするように次々と学生を逮捕していく。そのため、機動隊のところまで行き着いた学生は数人となり、あっという間に機動隊に検挙されてしまった。
私が歩道から「卑怯だぞ!」と大声で叫んだとき、周りに居た私服数人が「何だお前は!逮捕するぞ」といって私に殴りかかり、暴行を受けた。情けない・・・。
ヤジを飛ばしたくらいで暴行するんじゃない!と言いたいところだが、72年の駿台祭実行委員会企画局長のY君は71年11月の中核派による「渋谷暴動」の際、道玄坂の歩道で機動隊に追われ逃げる学生に「逃げるな!」と叫んでいたところ、中核派の幹部と間違われて逮捕されてしまった。結局、23日間、誤認逮捕という主張もせず黙秘を貫いたというから、それに比べればまだましな方か。
1970年代初頭になると、街頭でヤジを飛ばしただけでも警官に暴行されるか逮捕される、そんな時代になってしまった。
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