
ホームページを開設して1年余り、思いがけず明大ベ平連のK氏(仮名)からホームページのゲストブックに書き込みがあった。
K氏は1969年の明大全共闘結成から、一連の明大闘争を共に闘った仲間である。
36年ぶりの再会(メールでの)だったが、このように当時の仲間と出会えたのもホームページのおかげだ。ホームページを管理していくのも手間がかかり大変だが、開設していて本当に良かったと思う。
さて、その後、メールでK氏から大学時代のエピソードが送られてきたので、このブログで紹介してみたい。なお、人名は公にして差し支えのないものを除きイニシャルに変えてある。
【K氏のエピソード】
『70年から71年にかけて、当時の中核派全学連委員長松尾真氏が和泉校舎に来ていましたが、明治の中核派の勢いのなさを反映していたのか、自信なさそうな印象を受けました。松尾氏はその後、法政大学に乗り込み、黒ヘル活動家に暴力的な恫喝をかけるなど、その後の法政の運動に致命的な打撃を与えたようです。』
<管理人コメント:松尾委員長の件はK氏のメールを見るまで忘れていた。明大では中核派は第4党派であり、K氏の書いているとおり勢いはなかった。松尾委員長は和泉校舎にしばらく居たと記憶しているが、何故明大和泉に居たのか不明。>
『70年6月夜、駿河台校舎でML派が反帝学評の活動家がいた部屋を襲撃。たまたまその場にいなかった、のちの反帝学評議長の荻野氏は、新学生会館前の路上で猛り狂ってML派をつぶしてやると興奮していました。荻野氏は内々ゲバで亡くなりますが、結婚して姓を変えていたので、しばらく本人だとは知りませんでした。
71年ころ、和泉に革労協の中原一氏が来て『資本論』の学習会をやるというので、法学部自治会室に行きました。木訥とした印象でしたが、その後革マル派に殺されてしまいました…… 』
<管理人コメント:70年の4月から6月にかけて、和泉校舎でも全共闘のヘゲモニー争いからML派とブント・反帝学評の対立が繰返された。和泉では直接ゲバルトになることはなかったと思うが、日替わりで各党派が和泉を制圧するような有様で、一般学生が対立党派のスパイと間違われて拉致されそうになるような状況だった。>
『71年9月1日、関東大震災時の朝鮮人虐殺糾弾の集会が代々木公園でありました。その時、連合赤軍を結成したばかりだという遠山美枝子氏と会いました。私には面識がなく、同行した二部の活動家に声をかけたのですが、連合赤軍の機関誌「銃火」を買ってくれということでした。その冬、遠山氏は総括という名のリンチで亡くなりました。
72年6月16日朝、明治公園での社青同解放派と中核派の内ゲバの翌日、和泉校舎学生会館内にいた中核派の部隊と後から来た解放派部隊が石やビンを投げ合っていました。戦旗派のM氏はそれを見て、どっちも徹底的にやり合えとか言ってニンマリしていた。十数年後の後日談ですが、その時、中核派の部隊にいたという人と話をする機会がありました。その人は当時岡山大学の活動家で、夜遅く歩いて和泉まで来たこと、勝手が分からない東京での内ゲバで、とにかく恐かったとのこと。
72年の学費値上げ反対闘争で明大ベ平連からも逮捕者が出て、裁判闘争もありました。この闘争の影響で、その年の学年末試験がレポート提出になり、授業にほとんど出なかった私も卒業できることになりました。』
<管理人コメント:M氏は連載16に登場するM氏と同一人物である。学年末試験がレポートだったため、私もK氏と同様、授業にほとんど出なかったにもかかわらず卒業できた。このレポートになった原因は、学費値上げ反対闘争で、試験を行う教室のドアの鍵穴を強力瞬間接着剤で塞いだため、試験ができなくなったためらしい。>
『和泉校舎学生会館の管理人室にサイト管理者氏といたところ、戦旗派のM氏が来て、『経済学批判序説』にあるマルクス経済学の方法論(上向、下向云々)を説明してくれましたね。ご存知かと思いますが、M氏はその後、スターリン万歳の大武派に合流(その後除名された)しましたが、代々木公園のメーデーで会った際、私は「宗旨がずいぶん変わりましたね」と嫌味を言っておきました。
当時は、生きることは闘うことであるという信念がみなぎっていました。しかし、全共闘運動の解体や、党派政治の醜悪さを目にし、また働きながら学び闘う二部の学生や、学外の労働者との交流の中で、学生運動の狭さや限界、理論的確信の欠如などを自覚するようになりました。以来三十有余年、評価はいろいろあろうとは思いますが、節を曲げずに活動してきたつもりです。』
<管理人コメント:K氏は今もある団体で活動を続けているとのこと。私も、ささやかではあるが、このブログやホームページを根拠地として、あの時代の想いや息吹を、少しでも今の時代に伝えていければと思っている。>
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