
1968年の東大・日大闘争を経て、1969年には全国の多くの大学で全学共闘会議(全学闘争委員会などを含む)が結成され、バリケードが次々と構築された。
一方、政府は大学紛争の早期収拾を図るための大学立法(大学の運営に関する臨時措置法案)を強行採決して、8月7日に公布。施行日には、広島大学に機動隊が導入され、2日間にわたる砦戦が闘われるなど、各大学においても機動隊導入が予想される状況の中で、1969年9月5日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘連合結成大会が開かれた。
東京では、すでに全都の全共闘(約30大学)による統一集会やデモが行われていたが、この集会は70年安保闘争の最大の山場である、11月の佐藤首相訪米阻止の闘いを前に、反代々木系8派(革マル派を除く)と全国各大学全共闘の結集を図ったものであった。全国全共闘連合機関紙「全国全共闘」創刊号からその辺りの状況を見てみよう。
【全国全共闘基調報告】1969.9.5 全国全共闘創刊号(引用)
『<全国全共闘連合>の結成大会に結集した全ての学友諸君!更には苛酷な弾圧にも屈せず学園闘争を革命的に推進している全国の学友諸君!10・8羽田闘争以降の進撃を担ってきた全ての学友諸君!本日、われわれは10.8以降の実力闘争の高揚と全国学園闘争の深化拡大の継承発展の上に革命的左翼学生戦線の組織的表現として<全国全共闘連合>の結成を見んとしている。ここにおいてわれわれは、学生戦線の現在的到達点の確認と70年安保闘争への展望を踏まえたうえで、<全国全共闘連合>の任務を語らなければならない。本基調報告の目的は、なによりもそれを明らかにすることにある。政府ブルジョアジーが、大学立法を異常な決意のもとに、議会制民主主義を踏みにじってまでも強行成立せしめた意図は、明確に70年を軸とした革命的運動の全共闘運動としての高揚、とりわけ、68年、69年学園に爆発した学生のエネルギーを圧殺せんとするものであり、破産した帝国主義大学の再編の異常なまでの決意である。大学立法施行日、広大のバリケードにかけられた官憲の攻撃は、今すべての大学にかけられんとしている攻撃であり、それ故にこそ広大、中大等における徹底した闘いは、この9月全国の大学に、バリケードに総攻撃されんとしている弾圧に対する闘いの方向を示している。今や大学立法発効によって、個別大学における闘いは、単なるそれらの総和としてではなく、階級闘争の一翼として発展するに到っている。<全国全共闘連合>の結成は、まさにこの任務を果たすべき革命的学生戦線の決意の表現であり、10・8以降の闘いを乗り越える闘いを作り出すことにある。それは、11月佐藤訪米を実力で阻止し得る闘いを、大学の帝国主義的再編粉砕闘争の徹底化の上に全階級闘争との結合によって闘い抜く偉大な歴史的任務を有しているのだ。(後略)』
当日、私は駿河台の明大記念館中庭のヘルメット集団の中にいた。まだ夏休み中ということもあり、帰省している学生も多く、200名程度の人数だった。
中庭での集会後、会場である日比谷公園に向かい、地下鉄「霞ヶ関」駅で降りて公園に入ろうとしたが、入り口を固めた機動隊に無理やりヘルメットを脱がされ、1人ずつ機動隊の列の中を通された。
我々の隊列の中にいた東大全共闘代表山本義隆氏は、この時逮捕されてしまった。
【“親衛隊”も連れず 山本代表 あっけない逮捕】1969.9.5朝日新聞(引用)
『あっけない逮捕。山本義隆東大全共闘代表は、議長に選ばれることになっていた全国全共闘結成会場を目の前にして、機動隊の検問にあい、5日午後、日比谷公園に足を踏み入れたところをつかまった。得意の変装もせず、こざっぱりしたかっこうは、むしろつかまるために出てきた、とさえ見えた。明大反代々木系約150人のヘルメット集団の最後尾にまぎれこんではいたが、機動隊約60人が両側に並んだ“トンネル”を通りぬけられるはずもなかった。“親衛隊”もボディーガードもともなわず、抵抗もせず引き抜かれた逮捕劇に、まわりに居た学生たちさえ気づいた者はほとんどいなかった。 』
山本義隆東大全共闘代表は全国全共闘の議長に予定されていた。また、副議長には獄中の秋田明大日大全共闘議長が予定されており、「全共闘」を代表するこの2人の不在は、この全国全共闘連合が党派主導の連合であることをいみじくも象徴していた。
次回は、集会の様子を紹介します。
※ 日大全共闘結成40周年記念出版ということで、新版「叛逆のバリケード」日大闘争の記録が9月30日に刊行されます。詳しくはリンクの「1968年全共闘だった時代」を参照してください。
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