
前回に引き続き、10.10集会の様子を紹介する。この集会では反戦青年委員会と高校生に注目があつまったが、今回は反戦青年委員会の集会の様子を朝日ジャーナルの記事から見てみよう。
【特集・佐藤訪米阻止10・10統一集会】朝日ジャーナル1969.10.26(引用)
『「噴出する反戦青年委の隊列」
当日、もっとも早くから独自の集会をもったのは反戦青年委員会であった。正午すぎには会場の日比谷公園野外音楽堂は色とりどりのヘルメットに埋め尽くされ、「羽田闘争二周年10・10全国青年労働者決起集会」と書かれた横断幕のかかる壇上にまですわる部隊が出るほど。反戦青年委の全国集会としては、4・28沖縄デーを控えて催した4・20集会いらい二度目だが、その4・20とくらべ、とくに目をひいたのは参加者の多彩さと、数の増加だった。
演壇正面には中核の白ヘルメットの大部隊、すぐ右どなりが赤ヘル、左側上方には青ヘルと旧三派系反戦のほか、青い制服に身を固めた国鉄労働者など、その数は八千を優に超えていた。
「オリジン電気労組」、「石油・化学反戦」など、目新しい旗もチラホラ。急速に増えている銀ヘルメットは、戦闘的構革左派といわれる“主体と変革派”グループ。「4月にはわずか十数人の代表しか送れませんでしたが、今日は70人が参加しました。」-長崎県反戦代表の誇らしげなあいさつにも示されるように、参加者数は4・20のざっと2倍。北海道が長沼ミサイル基地反対闘争に加わって参加できなかったほか、名古屋、京都などでも集会が開かれたため参加者は予定を下回って32都府県14,000人、と主催者側は発表したが、その数は警視庁の予想をはるかにしのいだ。
さらに、参加人数の増加にもましてこの集会を特徴づけたには、制服姿で拍手を浴びた国労、動労など総評の主力単組である大組織の労働者たちであった。
羽田闘争をきっかけに各セクトを中心に新左翼的に再編された反戦青年委は、地域の中小企業労働者が主体となり、もともと大単産の組織労働者はごく少数であった。そのうえ総評はこの集会に先立ち、現在の反戦青年委員会を「反安保・反戦青年中央協議会」に編成がえする方針を決め、旧三派の影響を強く受けたいまの組織を「悪い反戦」ときめつけ、「10・10集会には参加しないよう」強い指示を出していた。にもかかわらず、国労、動労、自治労などの青年労働者はその指示をはね返して、青婦部などの機関決定で参加してきた。機関決定で反戦集会に参加したのはもちろんはじめてであった。
壇上に立った各代表のあいさつは、そうした背景もあって、これまでの組合運動の激しい批判に集中した。(中略)
反戦青年委がきびしい制約のなかで戦闘性を強めると同時に、その輪を着実にひろげていることは、わたしたちにもハッキリ読み取れた。会場で「10月21日は、できれば生徒と共同で行動を起こしたい」と語った教育反戦のある高校教師は、「近く神奈川県にも同じような組織ができますよ」と言っていたし、明治公園わきで会った4、5人の労働者は「きのう反戦をつくったばかりですが、どこへ参加したらいいのでしょうか」とわたしに問いかけた。会社からはもちろん、組合からも締め出しをくい、クビになる危険をおかしてまでも反戦を結成する労働者がふえている事実を、総評はもっと素直に受け止めるべきではなかろうか。
それはともかく、この日の集会は、いつもの学生の集会に聞かれる、ののしり合うようなヤジはほとんど聞かれなかった。学生と労働者の置かれている環境のちがいとも無縁ではないだろう。あるいは、きびしい職場のしめつけをはねのけて参加した同志としての連帯感、公園入口や駅近くにしかれたものものしい警備が端的に示す、体制側の圧迫に対する危機感が辛うじて統一を保たせているともいえようか。そして、その“あやふやな統一”はもっと“雑然たる統一”を示した明治公園での統一集会にもちこされるわけだが、それに向けてのデモが山崎博昭、由比忠之進両氏の遺影を先頭(写真)に、機動隊の青い隊列に見送られて出発したのは午後1時半だった。(後略)
警視庁が、大学問題が一段落したあとの警備の重点を反戦の置く方針を決めていることは、参加者のほとんどが知っていることでもあった。そして、逮捕されれば職場を追われるかも知れないことも彼らは自覚していたはずである。そうした自らの位置を認識しながら、はるばる参加した活動家の中には、この日の集会を11月決戦の皮切りとして「実力闘争辞せず」の決意を固めていた者も少なくなかったろう。
彼らにとってあの屈辱的ともいえるジュラルミンのトンネルを突破できなかったことは、心残りだったにちがいない。(後略)』
この集会後の10・21国際反戦デー、そして11月佐藤訪米阻止闘争と反戦青年委員会の労働者たちは実力闘争の中心部隊となっていく。
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