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1969年12月14日、東京・日比谷野外音楽堂で、11月の佐藤訪米阻止闘争で亡くなった岡山大生、糟谷孝幸氏(プロ学同)の「人民葬」が行われた。
糟谷氏の死因については、67年の羽田闘争で亡くなった山崎博昭氏の時と同じように、デモ隊側と警察と主張が真っ向から対立した。弁護団は“糟谷君は逮捕時及び逮捕後の警棒の乱打によって虐殺された”と主張し、大阪府警は“警棒の傷と違う”として、学生の鉄パイプが当たったという説を主張した。
「週刊アンポ」にこの事件に関するドキュメント記事が掲載されているので見てみよう。

【糟谷孝幸はいかにして殺されたか アンポ・ドキュメント】
週刊アンポNo2 1969.12.1(引用)
『3万人が参加した11月13日、大阪扇町公園での「佐藤訪米阻止」行動のなかで、岡山大学法文学部2年、糟谷孝幸君(21)は逮捕され、その後に意識を失い死亡した。(中略)逮捕現場は扇町公園のむかい側、水道局前で、逮捕後、歩いて約1キロ先の曽根崎署に連行された。
曽根崎署では、指紋、写真、弁録書をとられたあとで、気分が悪いことを訴えた。警察の発表によると、午後7時に救急病院に指定されている行岡病院に連れていかれたことになっているが、病院側は8時50分と発表している。
行岡病院の院長は行岡忠雄氏で、現在、自民党の市会議員である。また、この病院には脳神経科はなく、その専門医もいない。
糟谷君は病院でしだいに意識を失っていき、14日午前1時にはほぼ完全に意識を失った。情報を知った関西救援連絡センターと樺嶋弁護士、葛岡医師が病院にかけつけたが、病院側は一切受け付けなかった。
この時点では、病院の看護婦の証言によると、脳内の血腫の有無を調べる血管撮影さえ行っていない。
午前2時20分、樺嶋弁護士と葛岡医師は、ようやく病室に入ることができたが、このときには糟谷君は麻酔注射はされていたが、血管撮影に必要な造影剤の注射はされていなかった。
手術が始められたのは午前4時。逮捕されてから実に10時間近くたってからであった。手術担当は行岡病院の松木康氏で、松木医師は整形外科専門医で脳神経科の専門ではない。
午前5時20分に、京大病院の佐藤耕造医師(脳神経科)が協力を申し入れたが病院によって拒否された。
この拒否の態度は、糟谷君が病院に運び込まれたときからのもので、病院の玄関にバケツや工事用テントをうちつけるなどして一切応対に出ないというものであった。
手術は6時20分に終了したが、この手術の際、カルテは書いていないことを8時45分の段階で、弁護士と佐藤氏は確認している。
手術後、糟谷君はほとんど意識を回復することがなかった。
糟谷君の身元は、14日午後7時までわからなかったが、救対センターの努力で判明することができた。
しかし、同日午後9時、糟谷孝幸君は死亡した。(中略)
解剖は午前1時30分から5時30分までかかり、その結果、死因は頭部打撲による脳機能障害と発表された。(中略)
当日のデモの目撃者の話では、逮捕の際に機動隊員によって火炎ビンの燃えさかる中を引きずられたり、警棒で乱打されたりする者がかなりいた。(後略)』

12月14日の「人民葬」当日の様子はホームページのエピソード1969に書いたが、まさに「合戦」という言葉がぴったりするような大規模なゲバルト(写真は朝日新聞から転載)であった。
【焼香代わり内ゲバ騒ぎ 岡大生の人民葬 1700人が衝突】
朝日新聞 1969.12.15(引用)
『全国全共闘連合は、先月13日、大阪・扇町公園で開かれた佐藤訪米抗議集会で機動隊に逮捕され、翌日死んだ岡山大生糟谷孝幸君の「人民葬」を14日午後2時半から東京・日比谷野外音楽堂で開いた。学生、反戦青年委、市民など約3300人(警視庁調べ)が集まったが、同3時半ごろこれに参加しようとした革マル派約700人と、会場外で待機していた中核派、ML派、反帝学評、フロントの学生など約1000人が衝突。公園内一帯で投石と旗ざおのなぐり合いがあった。革マル派と他派の“内ゲバ”は再三起こっているが、これほど大規模なのは始めて。同3時45分から機動隊が規制に入り、187人を凶器準備集合、暴力行為の現行犯で逮捕し、騒ぎは静まった。』

連載57のコメントに文理\(^o^)/学科さんが、当日の様子を書き込みしているが、この記事のように、1700人近くのヘルメット部隊があの広い日比谷公園内で激突。機動隊の乱入後は3者入り乱れての大乱戦となった。私の高校の友人もこの時逮捕されたが、私は何とか逃げ延びた。
明大では、生田で近くの大学の革マル派とドンパチやっていたようだが、和泉には革マル派がいなかった(公然と姿を現さなかった)ので、革マル派とのゲバルト経験は、これが最初で最後でした。