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今年は1969年1月の東大安田講堂攻防戦から40年。当時、私は都立高校の3年生。受験勉強の合間に、テレビのニュースで東大や御茶の水の解放区の様子を見ていた。
そんな訳で現場には行っていないが、40年の節目ということで、このブログでも安田講堂攻防戦や神田解放区闘争に関する当時の新聞記事や週刊誌の記事を2ヶ月にわたって紹介してみたい。

当時を知らない世代の方にも分かるように、まずは、安田講堂の占拠から機動隊導入による攻防戦に至る経緯を週刊誌の記事で見てみよう。今回は全文を紹介する。
【安田講堂籠城日記 202日間彼らはそこで何をしていたか】
サンデー毎日 1969.2.20増刊号
『東大紛争のシンボル、安田講堂が2日間の攻防戦の末、1月19日午後5時45分、ついに落ちた。昨年7月2日全学共闘会議の学生によって再封鎖、占拠されてから実に202日ぶり。同講堂はすっかり変わり果てた姿で再び東大当局の手に戻された。
安田講堂は東大の長年のシンボルだったが、今度の紛争を通じて、それは「1968年解放講堂」として全国の反日共系学生の象徴に変わった。安田講堂の占拠なくして、東大闘争はありえなかったし、安田講堂ぬきに東大闘争を語ることも出来ない、と学生たちはいまも誇らし気に語る。事実、東大闘争全学共闘会議にとって、“解放講堂”は統合参謀本部であり、便利な宿舎であり、安上がりの総決起会場であり、そして連帯を深めるメッカでもあった。それだけになによりも死守しなければならない“砦”となったのだ。
<始めに医学部全学闘>
43年6月15日
医学部全学闘の学生約100人が反日共系学生の支援を受けて安田講堂占拠にふみきった。午前5時、学生たちは全員ヘルメットに角材、覆面姿で講堂正面玄関の鉄扉をおしあけて乱入、警戒のために泊り込んでいた約50人の職員を追い出して時計塔の屋上に数本の赤旗をひるがえした。1月から闘争にはいっていた医学部全学闘は「青医連公認」「医学部不当処分撤回」など3項目を要求し、大学側がこれを受け入れない場合は安田講堂を占拠すると事前通告していたのだが、大学側の権威の象徴だった時計台を学生に占拠された大河内総長ら東大当局の驚きと怒りは大きかった。
6月17日
午前4時半、大河内総長は警視庁機動隊の出動を要請。1,000人の機動隊が構内にはいり、占拠学生はこの動きをみて事前に撤退した。しかしこの抜き打ち的な機動隊導入に対する学内の反発は想像以上に激しく、それまで医学部の闘争に無関心だった一般学生までが大学非難の声をあげはじめた。
6月20日
あっという間に“全学スト”が成立、抗議集会が安田講堂前で開かれた(筆者注:写真は「毎日グラフ」から転載)。13,000人余の学生のうち半数近い6,000余人が参加、安保以上の盛りあがりだった。大学院有志が「全闘連」を結成し、無期限ストを呼びかけた。
6月28日
事態の意外な進展にあわてた大学当局は、“全学集会”開催にふみきった。病院からぬけ出して出席した大河内総長は学生を満足させるどころか、かえって不満と怒りを高めるという皮肉な結果を招いた。
7月2日
全闘連、反日共系各派の約200人が午後9時前、安田講堂の再占拠にふみきった。「大学と学生の対決点を明確にし、闘争の方向性を決める意図で行った」と封鎖後の記者会見で説明されたが、わかりやすく言えば、夏休み中、闘争がしぼんでしまうのを防ぐため“闘いの拠点”を作り、物質化しようというわけだった。
占拠学生は今度は少数派ではなかった。各学部の学生大会で封鎖支持決議があいついで可決された。こういう勢いに乗った時の学生たちは“ブレーキ”もよくきく。「ものをこわさずバリをつくれ」「私物には手をつけるな」「革命軍の規律を守れ」「整理整頓」などの指令が出され、学生たちの表情は明るかった。講堂内はむし暑く、蚊の襲撃に悩みながら学生たちは交代で仮眠をとった。クツをはいたまま、ゲバ棒片手にフトンにもぐりこむという緊張ぶり。
講堂内で碁など打っている学生がいると「たるんでいる」とつるしあげられたりした。まだ全学共闘会議も、7項目要求もなかった。
<全学共闘会議を中心に>
7月5日
閉ざされた講堂の門が初めて一般学生に“開放”され、3,000人を越す学生を集めて全東大集会が開かれた。封鎖反対の声がカゲをひそめ、「打開策もとらず。雲がくれした当局者を交渉の場に引出すためにはやむを得ない手段」という声が圧倒的。
席上、学生たちは「東大全学共闘会議」を結成。』
(つづく)

ホームページの「新左翼党派・全共闘機関誌」コーナーに東大全共闘機関誌「進撃」を載せていますので、併せてご覧ください。

次回もこの記事の続きです。