
前回に引き続き、安田講堂の占拠から機動隊導入による攻防戦に至る経緯を週刊誌の記事で見てみよう。
【安田講堂籠城日記 202日間彼らはそこで何をしていたか】
サンデー毎日 1969.2.20増刊号
『12月
寒くて長い闘争になった。各部屋に石油ストーブがはいった。ヘルメットをぬいだ学生たちはストーブをかこみ、東大闘争の本質論から文学論、人生論に花をさかせた。学生会館のない本郷キャンパスのここは唯一の学生会館だったのかもしれない。日共系=民青系と一般学生が連合して闘争収拾へ動き、共闘会議派は孤立を深めた。
東大生は家庭教師のアルバイトをしているものが多い。バリケードの中から背広にかえて交代でバイトにも行く。構内でにらみあう日共系のゲバルト部隊との小ぜり合いは続いたが、安田講堂の12月はわりと平穏だった。機動隊の導入も年内はまず予想されずとあって“正月休戦”ムード。大晦日には時計台放送がベートーベンの第九を流したりした。
正面玄関にヘルメットとゲバ棒で「賀正」の飾りをつけ、学生たちはゆく年くる年を安田城の中で祝った。
友人や肉親、また近所の商店主などがさし入れをもって年賀にきた。女子学生に手伝ってもらってぞうにをつくって食べた。
久しぶりに銭湯にも行った。「年が明ければいずれ機動隊と決戦さ」学生たちはつかの間の休みをくつろいだ。
<民青への攻撃開始>
1月9日
大学当局と日共系、一般学生との闘争収拾工作は着々と進み、共闘会議は苦境にたった。日共系は教育学部に“外人ゲバ部隊”を常駐させ、共闘派の封鎖を実力で解除しようとする動きを見せた。
「非妥協的に闘いぬくほかない」強硬なノンセクト・ラジカルズの突き上げに各セクトが足なみをそろえ、全共闘は「闘争の圧殺者、民青を実力粉砕」という強硬方針をうち出した。機動隊導入の危険をあえておかしても学内の民青勢力を攻撃する。全都から動員した数千人の反日共系ゲバ部隊は安田講堂から教育、経済学部へなだれこんだ。激しい流血の乱闘(筆者注:写真は「サンデー毎日」から転載)。午後8時機動隊が導入され、構内をかけぬけて安田講堂前に集結した。安田城攻撃か。講堂の中は緊張したが、機動隊は、催涙ガスを乱射しただけで撤退した。
本格的な機動隊による攻撃はもう時間の問題となった。全学共闘も外人部隊数百人を常駐させ、徹底抗戦の備えを固めた。
「ものをこわさずにバリを造れなんて甘い甘い」と応援部隊からハッパをかけられ、講堂内の破壊が始まった。バリケードを強化し、投石用の弾丸をつくるためである。階段や手すりの高価な大理石がつぎつぎとはがされ、それを打ち砕く、どすんどすんという音が終日講堂内にひびいた。「われわれは武器にはことかかない。なにしろ講堂のすべてが石でできているのだから」と幹部の1人は笑った。工学部学生もバリケードをセメントで固めるなど防備強化にチエをしぼった。
安田講堂の中はすっかり変わり荒れ果てていった。「私物に手をつけるな」「火の用心」「便所にすいがらをおとすな」など、よく守られてきた“革命軍の規律”も決戦を前に無視されるようになった。
「列品館のあの機械だけは手をつけないでくれよな」工学系の学生がセクトの代表に頼んでいる。
1月10日
午後11時。とつぜん現われた民青の大ゲバルト部隊800人が隊列をととのえて安田講堂に攻撃をかけた。講堂内の守備部隊は30人余り。主力は同夜行われた共闘会議派の駒場の民青攻めに参加していた。民青系はそのすきをついたのだ。新式の投石器などをつかって講堂正面に石の雨をふらせ、突撃部隊がかん声をあげてつっこんだ。共闘会議派もバルコニーの上から投石で反撃、火炎ビンを初めて使った。かなりの負傷者を出した民青系は午前2時攻撃を中止。
講堂正面のガラス窓はほとんど破れたが守備隊は無傷。安田城の堅固さが改めて証明された形になった。』
(つづく)
明大では東大のように民青系学生と衝突することはほとんどなかった。1969年、和泉では第3校舎のロビーが民青系の集合場所となっており、時々、学生会(社学同)の部隊が第3校舎ロビーの棚を捜索して民青系のビラを押収していた。
70年安保終了後の運動が停滞していた時期、中庭で民青系の集会が開かれることはあったが、衝突することはなかった。
しかし、本校(神田・駿河台)地区では中大が民青系の拠点となっていたこともあり、71年頃、中大から出てきた民青系デモ隊と、明大4号館に集結していた反日共系部隊が衝突し、ケガ人が出たこともあった。
次回はこの記事の最終回です。
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