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ホームページのエピソード1969の中でも書いたが、40年前の1969年8月7日から11日まで、大阪城公園で「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」が開催された。
「ハンパク」とは?(写真はシンボルマーク)

【万国博の向こう張って】毎日新聞1969.5.5(引用)
『「反戦広場や市民大学 ベ平連など8月「平和と解放」の催し」
ANPO70 ―来年3月に開幕する日本万国博(EXPO70)に対抗して「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が中心となって開こうという「反戦のための万国博」である。
安保の年、70年に「ゲバ棒でなくユーモアと創造精神でニセ文化の万国博を打倒しよう」というねらい。
“本物”に先立って、こちらは今年8月、3万3千平方メートルの大阪城公園を舞台に多彩な催しを繰広げるが、すでに万博協会をもじった反博協会(代表・山田宗睦桃山学院大学教授)も結成され、30日には大阪・中之島の中央公会堂に2千人を集めて反戦のシンポジウムを始めるなど、準備は“本物”並に急ピッチで進んでいる。(後略) 』

私が参加していたノンセクト闘争委員会、414B統一戦線のN君が大阪出身で、8月に大阪に帰るので、「ハンパク」に一緒に参加することになった。
ただ、5日間参加したわけではなく、最後の数日間だけだったと思う。
初日の様子が新聞に掲載されているので紹介する。

【反戦のための万国博 われらはハンパク】毎日新聞1969.8.8(引用)
『“反戦”“反安保”をモットーに万国博の向こうをはったハンパク(反戦のための万国博)が7日午前11時から大阪市東区の大阪城公園で5日間の日程で幕を開いた。
北海道から沖縄まで、全国各地から集まったベ平連、反日共系各派全学連、フォーク・グループなどの若ものたちは男女約2千人。
催し物の会場となる3つの大テントをはじめ「人民裁判法廷」「夜間中学」などのパビリオン、それに宿泊用のテント村、売店などが、炎天下にところ狭しと並ぶ中で、午前11時から入場行進。
行進の若者たちは、ヘルメット、麦わらぼうし、上半身はだかなど思い思いだったが、万国博マークの旗に火をつけて焼くなど、ハプニング続き。
開会式には作家の小田実、反博協会代表の山田宗睦さんらも姿をみせ、「国家からお仕着せのバンパクをはねのけて、われわれ自身のハンパクを成功させよう」とあいさつした。
式の最中に、九州大学構内に墜落したファントムジェット戦闘機の残がいの一部が運び込まれ、盛んな拍手を浴びた。(後略)』

大阪に行ったのはこの時が始めて。
大阪に着いて大阪城公園の近くの喫茶店に入り、暑いので「アイスコーヒー」を注文しようとしたが、メニューに「アイスコーヒー」がない。
迷っていると、N君が大阪では「アイスコーヒー」を「コールコーヒー」と呼ぶことを教えてくれた。
そこで注文、「コールコーヒー1つ」。

この「ハンパク」の様子は朝日ジャーナルに詳しく載っているので、3回に分けて紹介したい。
【予言的な小さな大実験 ハンパクの5日間】朝日ジャーナル1969.8.24(引用)
『『<まるで異郷>
「反戦のための万国博」略して「ハンパク」炎天下の大阪城公園で、8月7日から11日まで開かれた。
これを主催したのは、関西ベ平連が中心となって結成したハンパク協会。参加したのは、全国の200を越えるベ平連系の運動、そのなかには、各地域ベ平連、大学べ平連以外に、家永教科書闘争を支援する会、任錫金氏を支持する会、ハンセン氏病患者のアフタケア組織を自発的に推進する「むすびの家」など特定の問題と取組む運動もふくまれている。
この戦後日本でもっともユニークで自由な反戦運動については、かねてから相応の予備知識もあったし、その活動家たちの文章も読んできた。
しかし聞くと見るとでは大違い。それはまさに“小さな大実験”であったのだ。
大阪城公園のほとんど砂漠に等しい広場に設置されたハンパク会場は、奇妙な熱っぽさに包まれていて、それはとうに「アンチ万博」の概念をはみ出していた。
ヒッピー、BG,高校生、青年労働者、ヘルメットにゲバ棒の全共闘系大学生、そこにはあらゆる種類の若者の姿があった。
もちろんなかには、70歳の日雇労働者や婦人民主クラブあたりのオバサンの姿もあったのだが、若者たちの見せる“狂気と乱雑さ”の前では、いささか影をうすくしていた。
「まるで異郷へきたみたい。わしの息子には、あんな汚いまねはさせられん。しかし、なんとなく考えさせられる。PTAの役員さんに、一度見物してこいとすすめたい。」とある年配の“見学者”は語っていたが、たしかに世の年長者は、一度ここを見てしかるべきだった。(後略)』

(つづく)