
「明大2月6日に集う会」の報告を3週にわたり書いてきたが、この「集い」に参加できなかった(しなかった)方々も大勢いる。
今回はそんな仲間の想いなどを中心に書くことにする。(写真は「集う会」の最後、インターの合唱の様子)
昨年の暮、米田氏からホームページでの「集い」の情宣を依頼され、当時の関係者で連絡が取れる者にはメールや手紙で案内状を送った。
「都合で行けないが、知り合いに声をかける」と返事をくれた者もいたが、「この集会に大変興味はあるが、酒を飲みながら当時を語ることができない」、「案内をもらったが、行くのは重たくて行けない」との返事もあった。
都合で参加できない者もいたが、参加を躊躇する者もいたということだ。
彼らに参加を躊躇させたものとは、一体何だったのだろうか。
私は、ある出来事がきっかけでホームページをつくり、「あの時代」を今に伝える作業を始めたこともあり、今回の会合に出ることに躊躇いはなかった。また、当時活動していた方たちにも素直に会いたいと思った。
しかし、あれから40年、私が連絡を取った仲間の多くは当時を語らず、それぞれの場所でひっそりと暮らしている。
当時、一緒に活動した仲間でも、それぞれの生活があり、生き様があり、「あの時代」に対する想いも1人1人違う。
また、それぞれ闘争に関わった時期や場所により、闘争への距離感もそれぞれ異なると思う。
私の仲間の多くは69年入学の世代であるが、東大安田講堂攻防戦の後で、学園闘争はすでに「後退戦」に入っていた時期である。
明大では69年6月に全共闘が結成されるが、党派主導による全共闘だったことから、各党派間・党派内の内ゲバにより全共闘は崩壊し、全共闘に結集していた多くの仲間もバラバラになっていった。
そして、70年安保闘争以降の停滞した運動を地道に再編していったが、72年、ノンセクトの中心的組織であったマップ共闘と戦旗(荒派)と武装衝突が起こり、多くの犠牲者が出た。我々の活動時期はそんな「辛く苦しく重い時期」だった。
そんな時期の体験が、「あの時代」の関係者が集まる「集い」への参加を躊躇わせたのかもしれない。
彼らが漏らした「参加できない」、「重い」という言葉は、「あの時代」を誠実に自らの内に抱えてしまった者の痛みから発した言葉ではなかろうか。
一方、2月6日の「集い」で報告を行った生田のS氏は、「集い」の事務局にこんな想いをメールで送っている。(文中の名前は公開している方以外は仮名にしました。)
『事務局お疲れさまでした。三里塚で頑張っているIさんには敬服しました。
またそれぞれの方達の自分史もあり両川さんやSさんにあえるとは思っていなかったので感慨深い会でした。
一方でS(別のSさん)さんからマップ共闘の友人が戦旗に仕掛けられたゲバのキズが残っていて、そんな連中も集まる会には出たくないと言っていたとの話には身につまされる思いがしました。
私自身においても生協での党派の内紛とそれに振り回された回りの人たちに対する不信感が拭いさられたわけではありません。
そんな心のキズを抱えている人たちも多いのではないかと思います。いずれにしてもこれからの人生において全共闘として関わった人生を消し去ることは出来ませんし、その中で自分がどのように成長し、これからの人生に何を残し伝えていくのかが問われていると思います。重信さんの事にしても同じ明治の中でも明暗を分けていることを思うと言葉を失ってしまいます。
それぞれが60才を過ぎてこうして苦さを感じながらも、心の闇が少しずつでも融けていけばいいと思っています。
ありがとうございました。
あえてこの間の文に追加するとすれば、やった方もやられた方も同じように心の闇を抱えて生きているのだと思います。
Hさんにしても随分と嫌な思いをされたでしように、愚痴を聞きません。偉いと思います。
所詮は自分が決めて関わったことですから自分自身の人生として責任をとるしかないのだと思います。
その意味ではポチの死は深い悲しみを誘います。けれども「遠くまで行くんだ」という気持ちで歩み続けていく覚悟です。
疲れたときにはまたふらっと出かけてきて下さい。』
ここに出てくる「マップ共闘の友人」は、多分Y氏だろう。
Y氏は72年6月、明大前駅前で戦旗(荒派)による武装襲撃により全身打撲の上、両足を鉄パイプでメッタ突きにされ、1ヶ月の重傷を負った。
確かに体の傷とともに心の傷も深く残っていると思う。それについては何も言えない。
S氏が書いているように「やった方もやられた方も同じように心の闇を抱えて生きている」のだろう。
「あの時代」から40年、それが「和解」に向けた小さな一歩であっても、今回のような会合が開かれたという意義は大きいと思う。
会い、語り合うことによって、「心の闇」が少しずつ融けていくことを私も願っている。
(終)
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