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前回の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「明大の海外移住研究会ではどんな活動をされていましたか?」という質問に対する回答である。
(写真は1970年頃の生田校舎)

【Y氏からのメール】
1 海外移住研究会の活動                      
 1966年に農学部農学科に入学。
千葉市稲毛から、片道2時間かけて通学していた。
最初、小田急新宿駅が2階建てになっているのを知らないで、総武線からの乗り換えにまごついた。
当時の生田は稲毛よりもっともっと田舎だった。

移住研は額面ドーリ海外移住を志す又は、興味のある仲間の集まりで、正式に文連に入っていた。
当時の4年生は、1963年入学、3年1964年、2年1965年と続く。
4年、3年は移住研の趣旨ドーリの活動を目指していて、体質も右翼的だった。
入学当初、5月の連休に千葉市の明大誉田農場で合宿があった。
食堂で自炊、昼は農場の手伝い、夜は畳敷きの2階の大広間で、移住についての勉強や、はたまた校歌・応援歌を先輩から教わったりした。
ついでにエロ歌も!10ha(30万坪)もある畑の真ん中の宿舎だから、誰に構う必要もなかった。
今でも残る、移住研の心情左翼・行動右翼的体質は、この頃培われた気がする。

実際に横浜の大桟橋に移住船を見送りにいったことも何度かあり、その船に南米の移住地に一年間派遣される、学生海外移住連盟(通称:学移連ガクイレン、北は北大から南は琉球大まで全国40位の大学が参加していた。
琉大は勿論日本返還前で、祖国復帰運動にも深くかかわっていた)の仲間もいた。
4年生などは、1960年安保の敗北から3年しか経っていない、1970年にはまだ早い時期に入学しているので、考え方も保守的だったし、広い南米の大地で活躍することを本気で夢見ていたのかも知れない。
しかし、時代は1970年に向けて少しずつ、変わっていっていたのかも知れない。
1965年早大学費闘争が、大学側の白紙撤回で勝利した。2年生はその当時入学したので、私が移住する気があるのを知って、良く茶化されたりした。「今はそんな時代じゃないよ!」と。
1966年、今度は明大の学費闘争が始まった。確か、5月か6月?いつだったっけ?

家から生田まで遠いし、アルバイトで金稼ぎをすることにした。
しかし、生田や本校記念館の集会にはほとんど出かけた。当時、農学部で5万円の学費を8万円にあげるなんてとんでもないことだ。一年生もクラスで討論したり、集会に出かけたり、学費闘争について真面目に対応していた。
2年生が研究会を引っ張っていた。4年生は就職があるからと、さっさと身を引いていたし、3年生は2人だったので、影響力はなかった。
こうして、移住研でありながら、南北問題などに焦点を当てるようになり、会は右から左へ旋回しだした。
日本の景気も良くなり、海外に目を向ける人(移住)も減っていたのも、もう一つの要因であろう。
当時、生田ではストライキ中に農学部大教室で自主講座が開かれ、東大の助手共闘で後に活躍する最首悟さん達が東大からきて、最新の講義をしてくれ、まったくついていけなかったのを覚えている。
この自主講座があったの、まだ覚えている人はどれくらいいるかな。誰が企画したのか、知らないが、東大闘争後に開始された自主講座に数年先駆ける素晴らしい企画だった。
学費闘争は膠着状態になり、生田祭も駿台祭もバリケードの中だった(勘違い、後述)。でも、皆頑張って闘争に多少なりともかかわっていた。
1967年正月明け、どうも本校の様子がオカシイと生田で噂が流れ、そのままあの2.2協定に至った。あっけにとられた。もう少しだったのに!今でも悔しい。
2月2日直後に開かれた、中大での総括集会は満員だった。明大執行部に、他大学から猛烈な非難が浴びせられ、もみくちゃにされていたのを、今でもはっきり覚えている。
明治の学費闘争は敗北に終わり、明治の学生運動も下火になった。
しばしの休憩である。

どうも、ここで、徒然なるままに書いているので、いかに、沢山記憶違いをしていると思い戦後学生運動史の抜粋を挿入します。
<あるHPより抜粋>
「11月18日、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。
 11月13日、約9000名の学生で和泉校舎封鎖、11月28日5000名で生田校舎封鎖(5千もいたかな?それに塀もないのに封鎖の仕様がない。校舎のみ封鎖)
11月30日、駿河台校舎を封鎖し、明大全学闘争委員会が学費値上げ阻止の大衆団交を開いている。4000名結集。この闘争は越年することになった。
 12月9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。」

そんな、こんなで、2.2協定直後の、中大は景気が良い訳だったんだ。

(つづく)