イメージ 1
(No225-1の続きです。)

検閲制度を撤廃せよなんていうのはね、戦後23年経っている時代のスローガンとしては、こういうのがあったんだ、こういうことであんなメチャクチャな闘いが起こったということは確かなんですよね。
いろんな形で日大闘争の膨大なエネルギーを持った闘いがあったんで、これにいろんな意味での政治党派や何らかの政治的な意味付与や解釈というものがね、日大闘争やっている中でもいろいろ起こってきたんですが、日大生があれだけ闘った闘いというのは、このスローガンが一番思想を表している訳ですよ。
この日大生が何を求めていたかというのは結局は、この検閲制度の撤廃であり、集会の自由を認めろという、ある意味で自由を我々に戻せ、我々の手に、ということだったんですよね。
だから、この点が非常に分かりやすいから、あれだけの大きな闘争に逆になったんじゃないか、まあ、いろいろ難しい話をされたら、あれだけの学生が立ちあがらなかったんじゃないかと思いますよね。
非常にメチャクチャな闘いだった。
9月4日の時には、学生の投石で機動隊員が1人亡くなっています。翌年の2月には右翼の襲撃で文理学部の校舎で商学部の学生が1人、右翼の襲撃で殺されています(筆者注:70年2月、武蔵野台駅前での情宣中)。中村克己君という人です。
それから負傷者がどれだけ出たか数えきれないくらい出てますよね。それから逮捕者だけで、日大生が1,608人、これは日大の弁護団のタガ先生が書いた「1,608名の逮捕者」という本になっていますけれども、1つの大学闘争でこれだけの逮捕者を出して闘われた闘いというのはなかったと思うんですよね。
確かに東大闘争なんかもたくさんの人が逮捕されていますけれども、本当の東大生がどれだけだったのかということは、1月の18.19の東大の安田講堂の闘いを見ても全国からの動員された学生が多くて、東大生がいなかった訳じゃないんですよね。
あの闘いを見る東大生が一人もいなくて。全国の学生が集まってやったみたいなイメージを持たれているところもあるようですが、東大の学生も大量に入っています。
しかし、東大生があの全過程で逮捕されたのが1,000名もいくことは無いんじゃないですかね。だから1つの大学でそれだけの逮捕者を出しながら闘われた闘争というのは、日大闘争だけだったんじゃないかなというふうに思っています。
特に、この日大闘争が9月の繰り返し出てくる機動隊との衝突を経て、9.30大衆団交に向かう過程から始まって、特にいろんな形で論議がありました。
自分たちがやったことがどんなにすごいことかというのがまだよく分からないという側面もありますけれども、こういう過程で日大闘争がどうだったのか、日大闘争が勝利したんだろうか敗北したんだろうか、いろんな意見を言う人がいますけれども、僕は日大闘争というのは勝った、勝利した闘いだったんだろうと思います。
9.30で大衆団交をやって古田に確認書を書かせたから勝利だったというだけじゃなくて、もう日大闘争というのは大学闘争で考えられうる限りの事が起こって、人も死に、逮捕者も出してやってきた中で、いわゆる学園闘争としては行くところまで行っちゃったんですよね。
だから10月3日に時の首相が、こんな日大方式は認められない、ということを言い出して、その後、日大闘争は続いていきますけれども、苦しい状態を強いられることになりました。
しかし、日大で実際に闘った人間は、一度勝った、一度勝ったけれど勝利を確定することは難しいんですよね。実際、それを勝っちゃったから、それじゃもうバリケードを解いて、明日からまた楽しい学園生活を送りましょうというふうにはいかなかったけれども、勝っちゃったことは勝っちゃったんですよ。
だから、それについては僕ははっきり言えると思っています。
日大闘争があったのが1968年で、これを総括せよと言われてるんですけども、今から43年前の話なんですよね。
何で43年も経つと、それぞれの思い出の中で生きてるものでもあるし、一つは歴史として語られなけりゃならないようなものですよね。で、僕らは、何で学生があんなに立ち上がったのかと、もちろん日大の一つはそういう自由が非常に剥奪されているような大学の中で、非常に素朴に自由をよこせということで立ち上がったことでもあるんですけどね。
当時、68年から69年というのは全国の大学で約半分くらい、120校くらいで闘争が起こっている、紛争が起こっていると言った方が分かりやすいのかな。
だから、そういう時代が何であったのかいうことを次にちょっと話をさせてもらいたいと思うんですけども、今考えると43年前ですが、68年当時はまだ戦争が終わってから23年目なんですよ。

(No225-3に続く)