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(No227-1の続きです。)

『有機栽培農家の方が、これでようやく安心安全なキャベツを学校に提供できると喜んだ矢先の事故に会い、自殺に追いやられました。原発がなければ、と自殺をされた酪農家もあります。形を変えた私は殺人と言ってもいいだろうと思います。(拍手)
丹精こめて作った桃、ナシ、米、野菜、売れません、いわゆる風評被害です。郡山市で事故前に作った「はし」、屋内に保管しておいたものが 出荷できなかった例も報告されています。商業や観光業界も同様です。
私は叫びたい、あの美しい福島を返せ、故郷を返せ、あのささやかな日常を返せ、私たちは福島の地から脱原発を全国、世界に向けて発信してまいります。
3.11原発いらない福島県民大集会、福島県郡山市、開成山野球場でお会いしましょう。
ありがとうございました。(拍手)』」

●つながろう!放射能から避難したママネット@東京の増子理香さん
『皆さんこんにちは。つながろう!放射能から避難したママネット@東京の増子と申します。壇上から僭越でございます。
本日は素晴らしい集会にお招きいただきまして、心から感謝しております。
皆さまの脱原発、反原発活動に、敬意を表しております。
どうぞ引き続き福島の子どもを守る活動や、政府の心なき対応に物申す行動を一緒につながって活動して下さるとうれしいです。
わたくしは福島県三春町から5月に娘と東京に避難してきた者です。
自主的避難者の立場として、一人の母親として、わたくしメッセージで恐縮ですが、ささやかな思いを御拝聴いただければ嬉しいです。
わたくしは、黒毛和牛と、田んぼと畑を立てる農家に嫁ぎまして、自分なりの農業をするために有機農業JASの認定を受けながら、インターネットで全国宅配をしたり、近隣のお宅にお野菜を配達していました。
手には鍬の豆を作り、土と肥しにまみれたとても充実した日々を福島で送っておりました。
しかし、あの日を境に、私たちの福島は一変しました。
国や県から施行される安全宣言とは裏腹に、驚くような数値を示すガイガーカウンターの表示自主的な避難を決断しなければならず、同居家族の軋轢を抱えたまま、夫を福島に残し、小学生の娘と二人で身を寄せ合って暮らしています。
4月、小学校に入学した神々しい顔の娘の顔には、白く大きなマスクがありました。
文科省から配布された「年間20ミリシーベルト以下は安全だ」という保護者への便り。地産地消の学校給食。
その時、娘の学校の校庭は、毎時2.2マイクロシーベルトでした。
水道水への不安から娘に持たせた水筒は、一滴も娘の喉を潤すこと無く持ち帰られました。
「学校の水道水は安全だから水筒を持って来てはダメ」と担任の先生から言われたのです。
「ママが水道のお水は危ないからっていうから、私一滴も飲まなかったよ」「のどが渇いたけど我慢したよ」
誇らしげに報告する娘がいました。
学校と行政、大人の間で翻弄される、この幼いわが子は自分で自分の命の選択をしたのです。
5月、被災の証明がないという事で、都営住宅やURには受け入れを拒絶され、現在は善意の一般の方から住宅を提供して頂き、娘と避難をする事が出来ました。
偶然にもおととい、家主さんが夕食にご招待して下さり、こう、おっしゃりました。
「あなたも東京都民になったのだから、子どもさんの新学期の前に都営住宅にでも移られたらどうですか」
避難を相談した時の落胆した夫の顔。見送りにも出てこなかった義理の父。荷物をまとめて東京に来た時の事が、走馬灯のようにゆっくり脳裡を流れました。
私たちはまた、あの日に戻ってしまったのでしょうか。
「また、転校だね」ぽつりと言う娘。幼いわが子は大人たちの中で繰り返される会話を聞き、咀嚼(そしゃく)し、そして、子どもなりの理解をしたのです。ひと月先の寝どこさえもままならぬ事を。
学期途中で転校し、やっとの思いで溶け込んだ学校や友達。定住出来ないからと、何件も受けてやっと決まった職場。あれから一年もたたないうちに小さな娘に押し付けられる人生の選択は、あまりにも厳しい試練のように思えてなりません。
私たち福島県民は、儚い一艘の小舟です。
さざ波の上をくるくると流れていく、枯れ葉の小舟です。
この手にしっかりと携えていたはずのオールは何処かに流され、今握りしめているものは、幼いわが子の小さな、小さな手だけです。
「この子だけでも守りたい」「この子に夢と希望のある未来を見せてあげたい」私たちの願いは人の親であれば誰でも思うささやかなものです。(涙声に)
これ以上福島の子どもに悲しみを負わせないでほしい。
もう、これ以上生きる希望や夢を奪わないでほしい。
福島に残してきた自分と、ここにいる自分が、いつも心の中で叫んでいます。
引き裂かれた二つの自分が、いつか一つになれることを夢見て。』

(No227-3に続く。)