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(ブログの字数制限を越えるため、No230-1とNo230-2の2つに分けてあります。)

No224で、昨年11月に開催された「11.11ふくしま会議」の様子を報告したが、会議に出席した明大土曜会のメンバーであるH氏は、この会議の前に福島県内の各地を訪ねていた。
放射能汚染で避難を余儀なくされた福島県飯舘村の住民を支援する手がかりを得ようと、避難している飯舘村関係者を訪問していたのである。
「ふくしま会議」の報告と併せて、訪問時の報告が送られてきたので、紹介する。
訪問記第1回目は飯舘村の酪農家 長谷川健一さん。
(写真は【愛する飯 舘 村を還せプロジェクト「負げねど飯舘!!」フォトギャラリー】からの転載です。)

『■酪農からの別れ■
福島県伊達市にある応急仮設住宅に長谷川さん(59歳)を訪問した。長谷川さんは乳牛約60頭を飼育する酪農家であったが、原発事故での計画的避難指示で乳牛全てを売り払って伊達市に避難した。
長谷川さんは村に10ある行政区の一つ前田地区の行政区長さんを務める地域のリーダーでもあり、飯舘村認定農業者連絡協議会会長も務める村のオピニオンリーダーでもある。

 飯舘村は阿武隈山系北部標高200~600mの高原に開かれた村故に、太平洋側から「やませ」が吹き込み、冬は北海道並みに「冷える」。またこのやませは福島第一原発事故による強い放射能汚染をもたらす原因にもなった。
 歴史的にみると、飯舘村では大型打製石斧の出土はあるが弥生式遺跡は出ていない。耕種農業は苦闘の連続だったようであるが、今から約半世紀前に畜産が「耕さない農業」として取組まれるようになった。

 現在4期目の菅野村長(64歳)も酪農家出身だ。父が始めた乳牛飼いを手伝うために帯広畜産大学を出てから村に帰り、30年間で約60頭まで規模を拡大したが、全ての牛を売り払い「酪農家生活」に別れを告げて平成8年に村長選挙に出馬した。
 訪問時間の関係で村の発展を担ったであろう村長や長谷川さんたちの「飯舘村酪農同志会」「夢想塾」の青年時代のことは聞けなかった。菅野村長の選挙は「だいぶ手伝ったよと」と長谷川さんはぽつりと語り、「吾妻山系に今朝初雪が降った。吾妻が初雪降れば飯舘は初霜だ」と飯舘村の方に少し首を振り向いた。

なお、村おこし「夢想塾」の活動は代々引き継がれ、これが「子どもと女性に寄り添う村」「スローライフの村=までいの力」推進の母体となり、3.11以降は村の若者たちが中心の「「負げねど飯舘!!」プロジェクト結成に結びつくのである。

■応急仮設住宅■
 
 避難住宅は吾妻山系が手に取るように見える山麓に開かれたりんご園地帯の中に、ログハウス風のいかにも新造という感じの二軒長屋が何棟も建っていて、真ん中に小さい集会場があり、寄贈○○と書いた軽四輪車が止まっていた。
 冬には寒かろうなと思いつつ「こんにちは」と玄関の戸を開けた。簡易の流し台と食卓応接を兼ねた板の間、奥は6畳二間の間取りである。これでは二人生活で息子や孫の同居は大変だ。

■長谷川さんへのQ&Aから■

長谷川: この仮設住宅は126戸で入居しているのは82戸、飯舘の前田地区は54戸だがここに21戸が入っている。娘は嫁に行っているので前から飯舘を離れていたが、長男は山形の長井市で牧場のアルバイトをしているし次男はこの近くに仕事を見つけてアパートに暮らしている。
 多くは俺の所のように家族離散ばらばらに暮らしているのさ。
 この仮設住宅はプレハブに在来工法の木を組合わせているので、仮設住宅としては良い方だと思っているが入居期間は2年間となっている。

Q: 長谷川さんの所にはジャーナリストも見えているので情報は多く持っていると思いますが、他の人はどうでしょうか?

長谷川: 県外県内に分散していることもあるが村からの情報は少ない。ほとんどの人はテレビ・新聞・口コミで情報を得ている状態だ。集落のコミニティや集落共同体としての営みという質問には、「これからは大変むずかしい」「そもそも人が集まる連絡からしてむずかしい」のだ。

Q: 村にときどきお帰りになっていると思いますが、帰るとどんな活動をしていますか?

長谷川: 誰だって帰りたいと思っているさ、生活道具全てを置いて来たのだからいつ帰っても村での生活は出来る。だがこれから先は「2年で帰ると村はいっている」がその見通しは全く立っていない。
 俺の息子には「もう村に帰るな」といっているし、俺たち世代も帰る人、帰らない人に分かれるだろう。福島市で有識者も交えた「10.4負げねど飯舘のシンポ」があった、その後に村民が50人くらいで話し合った。そこで 自主的に取ったアンケートがあり、一番は「村に帰りたい」と思っていたが「息子や孫と暮らしたい」が一番だった。息子家族は県外に避難した人が多い。』

(No230-2に続く)