
(No249-2の続きです。)
明学大『元気ですか。元気があればデモもできる、元気があれば原発もなくせる、元気があれば野田政権も打倒できる。私は明治学院大学を中退で、(「みんな中退だ」という声)地域の運動の中で右翼的偏向を突破できず悶々とする日々でありますけれど、本日皆さんと出会えたことで、一生をかけて反原発、反資本主義の闘いのために闘うことをここに宣言して、新たに5大学共闘として結集したいと思いますが、いかがでしょうか。(異議なし)(拍手)
ただいまの拍手で確認されたのでありがとうございます。(拍手)』
Y・R『早速K君にお願いして、4大学共闘を5大共闘に書き換えてもらうように連絡したいと思います。次、東洋大、6大学になりますかね。発言をお願いします。』
東洋大Y『皆さん今日は。東洋大学から本日は3人で結集しました。この恰好なんですけれども、ボーイスカウト連盟○○県連の○団を代表してまいりました。うちの団はJUNさんのおかげで徹底して拡散戦法をとったら、とんでもないことに、みんな浜岡原発よくないなんてことを言い出して、そんなことを平気で言うような団になってしまいました。JUNさん、ありがとうございます。
そんなことで、皆さん仰いますように、4年間、5年間、何年かけてもなるべく早く、日本の全国の原発を完璧に無くし、子供たちの、孫たちの、そして恐ろしいかみさんたちの安全のために、我々は最後の最後まで闘おうではありませんか。(異議なし)
今回は絶対に負けは許されません。(そうだ)
共に闘いますのでよろしくお願いします。(異議なし)(拍手)』
Y・R『ただいまは、東洋大学の力強い発言でした。どなたでも発言されたい方どうぞ。』
Y『私は60年の立命館大学の学友会、全共闘ではないんです。(異議なし)
実は、私は広島で1945年に小学校5年の時に被爆しまして、その後、60年以降、現在まで50年間、核と人類は共存できないということを旗印にして運動を続けてきたんですけど、残念なことに福島の事態を起こしてしまいました。
そういう意味では、今のような広い運動ができなかったことについて慚愧に耐えない。私は大飯の闘争には3回ほど行きまして、30日、1日とバリケードを作って座り込みをした時は、膝がガクガクして、78歳ですから大変だったんですけど(拍手)、それでも死ぬまで反戦・反核のために闘っていきたいと思っています。(拍手)
皆さんと先が短いと言いましたけれど、私はあと10年以上は最低がんばるつもりでいます。共に頑張りましょう。(異議なし)(拍手)』
Y・R『今日、この集会とデモが終わった後、いつも集まる明治大学の近くのMにおきまして懇親会、総括をやる訳ですが、そこに今発言されたYさんに来ていただきまして、詳しいお話を伺いたいと思いますので、是非、皆さん、この後4時からMでこのような催しを行いますので、是非参加して欲しいと思います。よろしくお願いします。
そろそろ時間になりますので、これから全体集会に参加して、デモの出発は1時半くらいかな。私たちは明治公園に向かう市民グループの梯団で行きますので、是非、皆さんMに集まっていただいてYさんの話を伺いたい、ということで、今日は暑いですが、皆さんがんばって集会・デモを果敢に闘い抜いて欲しいと思います。よろしくお願いします。(異議なし)(拍手)』
Y・R『芝工大にシュプレヒコールをお願いします。』
芝工大『全共闘、シュプレヒコール!
原発はいらない!原発はいらない!再稼働反対!再稼働やめろ!原発を止めるぞ!原発はいらない!子供たちを守ろう!福島の子供たちを守ろう!日本の子供たちを守ろう!世界の子供たちを守ろう!世界中に原発はいらない!日本に原発はいらない!再稼働をやめろ!
全共闘は闘うぞ!全共闘は闘うぞ!勝利するまで闘うぞ!死ぬまで闘うぞ!闘うぞ!闘うぞ!闘うぞ!(拍手)(死なないぞ)」
デモは先頭集団のすぐ後の梯団で出発。
明治公園まで約1時間、果敢にデモを行った。青山通りでは3車線に広がるデモを貫徹。(写真中段:芝工大撮影)
明治公園手前で、広がったデモ隊を規制しようとする警官ともみ合う場面もあったが、明治公園に到着。いつものように「伝統芸能」のインターを斉唱して解散した。(写真下)
4大学共闘の参加者は、目標の100名には届かなかったが、新たな参加者も加えて、ネットワークを広げることができた。
脱原発の闘いは長い闘いである。7月16日の集会とデモは、その長い闘いの始まりにすぎない。
※7月29日(日)の「脱原発国会大包囲デモ」に、4大学共闘で参加します。首都圏反原発連合の呼びかけの行動です。
日時: 7月29日(日)15:30集合 16:30デモ出発
場所: 日比谷公園中幸門(日比谷公会堂裏)
※ 不正なコメントが続いているので、しばらくコメント覧を閉鎖します。
(終)
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