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(ブログの字数制限を越えるため、No253-1からNo253-3の3つに分けてあります。)

先週に引き続き、広島で被爆した原子爆弾被爆証言者、米澤鐡志さんのお話を掲載する。

【原爆投下直後の惨状】(続き)
『ちょっと歩いたら、たまたまトラックが来まして、トラックは軍が出した重症者を収容するトラックだったんです。トラックが止まって、「この中に重症の者はいないか」と言ったんです。そうしたら我々と一緒にいた兵隊が「この親子は怪我はほとんどしていないが、疲れているから歩けないし、引っ張ってきたんやから乗せてくれ」と言ったら、「まあいいだろう」ということで、兵隊たちが母と僕を荷物のようにトラックの中に放り込む訳です。
トラックの中に放り込むまれて見たのは、周りの人は複雑骨折であちこち脂身は出ているし血は出ているし、すごいんですよね。それで中には虫の息の人もいるし、もしかしたら死んでいた人もいたかもしれない知れませんけど、そんな状況で私も母もビックリしてまた上げそうになったんですけど、その中で一番だったのは、トラックのはす向かいにいた女の人が、不図見たら目がポコッと穴が開いているんです。人間は目玉が落ちたらここの開け方はひどいですよ、こんな大きな穴がポコッと開いて目玉を手のひらで受けて、それを見た時、母も私も抱き合って、あの記憶は一生忘れないですね。
【疎開先へ戻る】
それどやって矢賀という機関区の駅、救援列車がそこに来るというのでトラックで運ばれたんですが、そこに着いたんです。
そこでは大人の男の人が、上半身裸で来たんじゃないかと思うんですが、腰蓑みたいに皮膚を腰からぶら下げているのが印象に残っていますね。列車がホームで突き当たりのところがありますね、そこに重症の人が結構おったんです。
亡くなった人もいるし、虫の息で低い声で「助けてくれ」と言っている人もいるんです。何でそんなところにいるのか、後で考えたら、ちょっとでもそこが涼しいからいたんじゃないかと思うんですけど、僕らはホームの上でリュックを枕にして横になっていた。
3時過ぎに救援列車が来まして、救援列車に乗ったんですけど、もう我勝ちに窓から乗る人もいるし、なかなか乗れない人もいるし、僕なんかデッキを通ってやっと列車に乗ったんですけど、列車の中もガラスが全部壊れていますから、ガラスの破片だらけの中に入っていた訳です。それで、途中で死者なんかを降ろしますから、朝6時半に出た志和口の駅に夕方に着いたんです。死者を最初に降ろして、重症者を担架で降ろして、最後に自分で動ける者が降りる、僕らはヨロヨロしながら降りたんです。
そうしたら、私たちが広島に出たことを疎開先の親戚の叔父さんが知っていたんで、叔父さんと村長が迎えに来ていたんです。それで僕らが降りてきたんで「いやー無事だったか」と言って非常に喜びまして。ところが僕らはクタクタやから、そこから疎開先まで10キロありましたから、とてもじゃないけど帰れる状態じゃなかった。
村長が「親戚の家が志和口の駅前にあるのでそこに泊めてやる」ということで、親戚の家に入れられて顔を洗ってお茶を飲んだ。その時はもう戻さなかったですね。その晩はそこに泊めてもらって、次の日の昼くらいにやっと重湯を出してもらって、昼過ぎに母と二人で山の中の兄弟が待っているところに行き着いた訳です。それが8月6日と7日の出来事だったんです。
【原爆症の発症と内部被爆問題】
それで終わればよかったんですが、敗戦が8月15日ですね。私の家は4代続いた医者でして、性能のいいラジオがあった。ラジオが山の中でなかなか入らんですが、敗戦で天皇の放送があるというので、部落の十何軒の人たちが全部僕の家に来まして、天皇の放送を聞いたんです。私はおかしいなという感じがしたけど、非常に暗い雰囲気だったので、戦争が負けたんじゃないかという感じがしたんですが、中無は良く分からない。
それで村の人が三々五々帰って行ったら、母親が「戦争は終わったよ、お父ちゃんが帰ってくる」と言って泣いていたんです。それはうれし涙だったんですね。
子供は次々に生まれるは、父親は甲斐性が無いし、兵隊に取られるはで大変ひどい目に遭って敗戦になって、これで先が見えたということで喜んだ訳です。それが8月15日のことなんですけれども、それから2日後、17日の朝、起きて目が覚めたら枕カバーが黒いんですよ。おかしいなと思ったら、髪の毛がビシーと枕カバーに付いているんですよ。

(No253-2に続く)