
(No276-1の続きです)
だから私は党を肥大化させることを自己目的にする人たちとは、基本的に相いれなかった。考えてみると、私は学生運動を4年くらい付き合いましたけれども、結局、一度も社会主義者になったこともないし、共産主義者になったこともない、ましてブントなんていう前衛政党に属したこともない、そういう人間でした。(中略)
明治の社学同は支部総会をやっても全員集まらないんですから。だけど、中央大学は社学同が一応取っていましたけれど、あそこの権力基盤は非常に弱くて、3分の1しかなかったんです。右翼が3分の1.民青が3分の1、社学同が3分の1。まず右翼と組んで民青を暴力でたたいて学外追放して、次に右翼をゲバルトで放逐して、その助っ人でいつも明治が行くんですが、その時は全員集まるんです。そういう社学同でしたから、真面目な社会主義者にとっては極めて不真面目な独立社学同でした。
<大衆運動の原則>
でも、忘れてはいけない原則というのは、とにかく大衆運動が死ぬ気でやると言った時に、本当に一緒に死ねるのかどうか。
僕は最後の30団交で手を洗いに行った時に、2人や3人死ぬことがあっても、今日は
戦い抜く、これが最後の勝利のチャンスだからと言ったんです。ある人に言わせると、たかが学費という学内問題じゃないか、適当なところで手打ちすればいいと言うけれど、それでは、学生大衆からすれば見え見えで、そんなものに踊る学生大衆はいない。そうじゃなくて、たとえ敗れようと勝利しようと、自分たちの成果は自分たちの結果だということが実感でき、共感でき、敗北した後でもちゃんとその後の陣形が構築できるようなものにしなくてはならない。これを階級形成論というんですが、革命というのは民衆のお祭りだと言った人がいます。私もそうだと思います。
大衆エネルギーの頂点まで行った時に、革命的な指導と結びついたその一瞬に革命というのは起きる。日常生活を送っている大衆が、毎日革命のことなんか考えっこないですよ。今日食う飯のことしか考えない。今迫られている仕事の事しか考えない。自分の子供が今悩んでいることしか考えないですよ。でも、そういう人たちでも、あまり非道なことをすると怒りを感じるんです。素直に怒りを感じたエネルギーが、ちゃんと表現できるような組織や運動が必要だと思います。
<大衆運動の組織論>
僕は今の運動で一番欠けているのは、いろんな意味があるんですけれど、党派の思惑に支されない良さというのはあるんですけれど、大衆組織、大衆運動の技術というものの軽視だと思います。例えば、我々がここに運動の頂点を持ってこようと思ったら3ケ月前からずーっとプログラムを作るんですね。
例えば3ケ月前にやる講演会の講師は、非常に理性的で知的で論理的で実証的な学者を呼びなさい。2ケ月前になったら、その政治的な意味合いがどういう意味合いなのかというのを呼びなさい。闘争の月に入ったら、アジテーションの上手い学者・文化人を呼びなさい、こういう風に組み立てるんです。
朝、正門で撒くビラは2ケ月前はこういうビラ、1ケ月前はこういうビラ、闘争の時になったらこういうビラ、とトーンがずーっと変わって来るんです。昼時に食堂前で撒くビラはこういうビラ、と同じビラは絶対撒かない。それからクラス討論に持っていくビラはこういうビラ、ちゃんと討議素材として扱えるビラ。それから看板の置く箇所も徐々に増やしていくんです。校庭に立てる旗の本数も、1ケ月前から徐々に増やしていくんです。
最後の10日くらいは大立看板で、全クラスのマス目取りをして、そこに例えば原子力潜水艦寄港反対決議をしたクラスはそこに貼り出す、ストライキ決議をしたところは赤でストライキ決議、とずーっと貼っていくんです。
そうすると、何も貼られていないところは非常に肩身の狭い思いをするんですね。そこへ行って、とにかく教授とケンカして、教授を教室からたたき出して、暴力じゃなくていたたまれなくして、そして決議を取ってくる。
大衆のエネルギーをその1日の1点の集中させていくという、これは明らかに大衆運動の組織論なんです。だからそういう技術というのは、昔の日本共産党が一番長けていたんですが、そういう伝統も共産党は無くなったからね、大衆迎合しか考えなくなったからダメなんですが。
<大衆に支えられて次の指導者をつくる>
日本の戦後の大衆運動史を見ると、全うな労働運動をやって、組合員が命までかけて戦ったのはどういう闘争だったかというとですね。労組の執行委員は、みんな現場で一番優秀でよく働く人間が執行委員になった時代だった。
(No276-3に続く)
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